23.気付きと異変
体調が芳しくないクロが馬車へと戻ってから、数十分が経過していた。
あれほどティナたちを威嚇し、鉄格子に体を打ち付けていたグリフォンたちは、まるで嵐が過ぎ去ったかのように静けさを取り戻している。
あるものは力なく横たわり、またあるものは落ち着きなく舎内を歩き回ってはいるものの、先ほどまでの刺々しい雰囲気は薄れていた。
「お待たせしました、サンプルの採取が完了しましたわ」
準備を終えたフェリィが、得意げにケースを掲げながら報告する。彼女はグリフォンたちが収容されている檻を一瞥すると、わずかに眉を寄せた。
「先ほどよりは、落ち着いているようですね」
「はい。……さっきの暴れようは一体なんだったんだろう」
ティナが不安げに呟くと、フェリィはふんと鼻を鳴らす。
「さあ。クロードさんが何か余計なことでもなさったのでは? グリフォンは気高い魔法生物ですから、あの人の尊大な態度が鼻にでもついたのでしょう」
「そ、そんなことは……ない、とは言いきれませんけど」
「でしょう? そもそも、あの全てを見下すような態度は改めたほうがよろしいですわ。神聖な宮廷であんな人が働いているなんて」
その物言いには、クロへの不満と不信感が滲んでいる。言い方はあんまりだが、しかしクロが尊大かつ横暴で、全てを見下すような態度を取っているのは疑いようもない事実だ。ティナは項垂れ、「言っておきます」と肩を竦めた。
「そんなことより、早く採取したサンプルの観察を行いましょう。このために簡易的な観察を行える道具をいくつか持参してきたんです」
得意げに言い切り、フェリィは自らの手腕を誇示するようにドンと胸を叩く。
よほどの自信があるらしい。感心する一方で、ティナの思考には疑念がうずまいていた。症状に一貫性がない以上、サンプルの観察にはあまり期待しない方が良いだろうとさえ思う。
しかし、他にこれといった策もない。
ティナはサンプルの観察を了承し、飼育場の一室を借りて、早速作業に取り掛かった。
フェリィが持参したキットは、数滴の血液や体液から主な病原体や毒物の有無を検知できるというすぐれものだ。
魔法生物学界──特に医学分野で重宝されているものだが、作業を始めて数十分が経った頃、フェリィが信じられないとでもいうように呟いた。
「……おかしいですね。病原体の反応は一切なし。毒物反応も陰性……」
表示された結果に、フェリィの表情から余裕が消える。何度か手順をやり直したが、結果は変わらないようだった。
「……器具の問題ですわ。やはり簡易キットでは精度に限界があります。研究室に戻って正式な調査を行えば、必ず原因は特定できますから」
早口にそう言うと、フェリィは冷静さを保つように「念のため、他の個体からも追加でサンプルを」と近くにいた飼育場の職員に命じる。その横顔には、隠しきれない焦りの色が浮かんでいた。
そのやり取りを遠目に、ティナはソファに深く腰掛け、じっと考え込んでいた。
感染症でも、毒でもない。飼料や水質も確認したが、ここ数ヶ月、何も変わったことはないという。
では、一体何が彼らを苦しめているというのだろう。様々な可能性を頭の中で巡らせるも、どれも決め手に欠けていた。
(環境要因なら、もっと緩やかに症状が出るはず。外傷もなければサンプルにも異常はないし、なら心理的なストレス? 天敵の出現とか、群れの序列が乱れたとか……ううん、それなら凶暴化は説明できても、あんなに衰弱するのは変。そもそも翼獣目の魔法生物は、羽という器官があるぶん感覚器が他の生物よりずっと鋭い。中でもグリフォン科は、その知性もあいまって、感知した『何か』に対して過剰なストレス反応を示すことがある。なら、彼らがこれほど怯えて苦しんでいる原因は私たち人間には感知できない何かであるとしか……。なんだろう? グリフォンたちにとってとてつもなく不快な何かが、この飼育場に存在している?)
ティナは俯かせていた顔を上げ、室内を見渡した。
フェリィが根気強く観察を行っている。グスタフは憔悴しきった様子でフェリィを見守り、耳をすませば、遠くからグリフォンたちの鳴き声が聞こえた。
(可能性はかなり潰したはず。一体、何を見落としているんだろう……?)
ティナがまた考え込み始めたその時、グスタフが努めて明るい声色で言った。
「その……そろそろ、休憩などいかがですか? こうして部屋に詰めていても、良い策は浮かびにくいかと思いますし」
「いえ、不要ですわ。ご安心くださいませ、原因の解明はまもなくです」
「でも、せめて空気を入れ替えたり……」
そう言って、グスタフは窓の外を指差す。きっと良かれと思って提案したのだろう。
だがそれがかえって怒りに触れたらしい。フェリィは眉を吊り上げると、くわっと噛みつくような勢いで言い放った。
「言語・道断ッ! ですわよ! 観察中の部屋に外気を取り込むなど研究者失格! 外の空気を吸いたければご勝手に! ですわ!」
「あ、す、すみませんっ!」
「まったく……。ご心配なさらずとも、グリフォンたちが異常をきたしている原因は必ず突き止めてさしあげます。お気遣いはありがたいですが、休むべきはグスタフ様では? 心労が顔に出ています」
その横で、ティナはグスタフが指し示した窓の外をじっと見つめていた。
空気。人間には感知できない何か。
そこまで思考が至ったその時、ふと脳裏に、以前フェリィが口にした言葉が蘇った。
──『魔法生物の突発的な体調変化には、微量な魔力の過不足が関与しているケースも報告されていますから』
瞬間、なにか確信めいたものが脳を突き抜けた気がして、ティナは勢いよく立ち上がった。
両開きの大きな窓に手をかけ、力任せに思い切り開く。
どこか澱んでいた室内の空気が一気に入れ替わり、風がテーブルの上の書類を巻き上げ、フェリィが「きゃあ!?」と甲高い悲鳴を上げた。
「ちょっと! 外気は言語道断だと──」
「フェリィさん!」
風が髪を乱すのも気にせず、振り返ったティナの瞳は、思い至った可能性にきらきらと輝いている。
「この間あなたが言っていたこと、正解だったかもしれません……! 空気中の魔力濃度に、何か異常があるのかも!」
その言葉に、フェリィは驚いたように目を見開いた。自分の過去の発言を、ティナが覚えていたことが意外だったのだろう。
フェリィは数秒考え込むような仕草を見せた。採取したサンプルにちらと視線をやり、観察キットを見やり、最後にティナを見やる。
「……なるほど。確かに、その可能性はありますわね」
それから少しだけ得意げな表情を取り戻すと、一つ咳払いをして頷いた。
「いいでしょう。かつて中央魔導学院が開発に携わったとされる観測計で、ここの魔力環境を徹底的に調査いたします」
◇◇◇
一時間後、放牧場の一角に、巨大なパネルのようなものが数枚展開されていた。
フェリィの指示のもと準備されたそれは、複数の水晶と金属で構成された高精度観測計で、周囲の魔力を精密に計測することができる優れものだ。驚くティナに、フェリィは少しだけ胸を張って見せた。
観測が始まって、すぐに異常は見て取れた。
「これは……」
出力された魔力の波形データを確認し、フェリィが眉を寄せる。飼育場全体の魔力濃度が、不安定に乱高下していた。濃度が異常に高まったかと思えば、次の瞬間には希薄になる。その周期的な歪みは、自然現象ではありえないことだった。
その波形を見て、ティナは確信する。
(このパターン、宮廷の図書館で読んだ本にあった、竜に関する記述と一致する……!)
エルン王国では禁忌とされ、触れることさえできなかった竜の知識。帝国に来て、ティナは貪るようにそれらの文献を読み漁っていた。
そのうち一つに、特に興味深い一冊があった。比較的新しい論説を取り扱っているその本によると、竜という存在は、人間が生活を営むこちらの世界ではなく、混沌とした魔力が渦巻く『外』の次元に棲まうとされるのだという。
そして、竜がその領域である『外』からこちらの世界へ干渉しようとする時、世界には様々なひずみが生じるのだ。
魔力濃度が上下するというのも、そんなひずみのうち一つにあげられていたことだった。
(魔力濃度の変化は、人間を含め多くの生物にはほとんど影響がない。でも──)
苦しむグリフォンたちの姿を思い返す。
鋭い感覚器を持つグリフォンは、空気中の微量な気体成分の構成比率や、そこに混在する魔力濃度といった見えない情報を化学的・魔術的に分析し、天候の変化や外敵の存在などを正確に察知する。
(つまり、グリフォンたちは……竜が『外』からこっちの世界に干渉しようとしていることを察知して怯えていたのかも)
揃って怯えた様子を見せていたのも、この異常な魔力の波を、おそろしい竜がやって来る予兆として感じ取っていたからに違いない。
「グスタフさん」
ただ、一つだけ気にかかることがある。
ティナは隣で不安げな顔をしているグスタフに尋ねた。
「はい?」
「グリフォンたちが衰弱したり凶暴化しはじめた正確な日付は、いつでしたか?」
「日付……ええと、三日前だったかと思います」
ティナは僅かに目を見開いた。
「三日前……?」
「ええ。どうかなさいましたか?」
途端に顔色を変えるティナに、グスタフがぱちぱちと瞳を瞬かせる。彼の問いに答える余裕もないまま、ティナは必死で記憶を漁った。
(わたしが王国で〈竜鷲〉の対処のためにクロを呼び出したのが、だいたい二週間くらい前だ……。でも衰弱や凶暴化が三日前から始まったのだとしたら、日付がおかしい。……グリフォンたちが察知した竜の気配は、クロのものじゃないの?)
おそろしい可能性に行き当たり、ティナは息を呑んだ。
(……クロじゃない別の竜が、この世界に来ようとしている……?)
竜は本来、滅多に『外』の次元から姿を現さない。
文書に残るような最後の目撃例は、数百年前に遡る。エルン王国が竜によって壊滅的な被害を受けた、あの厄災の時代だ。
竜学者のアステルやその娘であるティナは黒竜のクロと交流を持っていたが、それも心を通わせることができたからだ。もし、全く別の竜が、この世界にやって来ようとしているのだとしたら。
「ティナさん」
ぽんと肩を叩かれ、ティナははっとして顔を上げた。
フェリィだ。観測結果が記された紙を小脇に抱え、真剣な面持ちで立っている。
「魔力濃度の上下がグリフォンたちに影響を及ぼしているのは確実でしょう。すぐに安定結界を張るべきです」
「あ、は、はい。そうだと、思います」
「帝都の魔法士ギルドに、腕のいい結界術士が何名かいらっしゃいます。三人ほど呼べば、十分な効果を持つ結界を展開できるでしょう。今から緊急要請を出せば……そうですね、おそらく三日後には全てが完了するはずです」
手帳をぱらぱらと捲り、フェリィはフンと鼻を鳴らす。
「それじゃ、遅すぎます」
しかしティナは、きっぱりと言いきった。
「今すぐに、結界を展開します」
「すぐにって……本気で言っていますの!? この飼育場全体を覆うほどの規模ですのよ!? そんなこと、いくらなんでも──」
できるわけがない。そう続けようとしたフェリィの言葉は、ティナの静かな、それでいて揺るぎない眼差しによって遮られた。
「できます」
すっと前を見据えて宣言するその声には、いつもの自信なさげな響きは微塵もない。
「わたしが、やります。……テストの点数なら、魔法生物学より結界魔法術の方が良かったんです」