◆22.泥沼に嵌まる
「──まだ言い訳を重ねるつもりか、マクエル!」
怒声と共に、分厚い報告書の束が執務机に叩きつけられた。
魔法省南部第3支部長室。その主である父、チェスター男爵の顔は、非常に険しいものだった。マクエルは失った右腕の疼きに顔を顰めつつ、必死に反論の言葉を探す。
「で……ですから、何度も言っている通り〈竜鷲〉の出現は予測不可能でした。我が支部の戦力では、アレを退けることなど到底──」
「貴様の失態の言い訳を聞いているのではない!」
口ごもりながら反論したマクエルに、更なる怒声が飛んだ。
「問題はその後だ! 本部への報告義務、そして会計報告! なぜ先週分が未だに本部に届いておらんのだ!?」
「そ、それは……例の騒動の後処理に追われておりまして……」
「この愚か者めが!」
男爵の拳が机を打つ。マクエルは左手を握りしめ、俯くことで父の視線から逃れた。
エルン王国魔法省南部第3支部の状況は、日に日に切迫している。
否、切迫どころかもはや崩壊寸前と言ってもいい。仕事は滞り、各部署で進行が大幅に遅れ、執務室には処理しきれない書類が山と積み上がり、職員たちの間には、諦観と不満が渦巻いていた。
(しかしそれも、全部あの女のせいであって……)
父の罵声に奥歯を噛み、マクエルは苛立ちに身を震わせる。そもそも、こうなっている原因は全てティナなのだ。
ティナが帳簿の改ざんなんて馬鹿な真似をしでかして、何もかもがおかしくなった。
会計報告は上がらないし、ティナにやらせていた仕事がうまく引き継げなかったせいで仕事が遅れ、職員の苛立ちが不和を呼んで更に効率が落ちている。
つまり悪いのは全てティナであって、こうしてマクエルが責められるいわれはない。
「……先ほど、魔法省本部から最後通告があった」
そう責任転嫁をしながら罵声に耐えていたマクエルは、父が重々しい口調で言った一言に、思わず顔を上げた。
男爵は、眉間に深い皺を刻んでマクエルを睨みつけている。
「会計報告の遅延に加え、書類の提出漏れもあっていよいよ重い腰を上げたらしい。……近々、この南部第3支部に監査官を派遣するそうだ」
「……は?」
マクエルの顔から血の気が引いた。
本部の監査。
それは、この腐りきった支部にとって、そしてマクエル自身にとって、破滅を意味する言葉に他ならなかった。マクエルたちが行ってきた不正や杜撰な仕事が、全て暴かれるのだ。
「全ての責任は貴様にある!」
男爵は呆然とするマクエルを怒鳴り付けた。
「何としてでも丸く収めろ! 万が一にも我が家の不利益になるようなことが発覚すればただでは済まさんぞ! わかったらさっさと行け!」
有無を言わせぬ父の剣幕に、マクエルは奥歯を噛み締め、半ば追い出されるようにして支部長室を後にした。
途端に腹の底から苛立ちが湧き上がってくる。
なぜ自分がこんな屈辱を味わなければならないのだ。運良く支部長の座にいるだけの父に。
(何もかも俺に押し付けやがって……)
そもそも、監査が入ったら困るようなことを仕出かしているのは父だって同じはずだ。それなのに、まるで自分だけが悪いように責め立てられるのは癪に障る。
「おい、聞いたか? ティナ・シストロイズのこと」
そう苛立ちながら自身の執務室へ向かっていたマクエルは、道中で職員たちのひそひそ話を耳にした。
「聞いた聞いた。一昨日ヴァンタール帝国で大きな手柄を立てたんですって?」
「なんでもどこぞの男爵が起こした魔法生物の密猟事件を解決したんだと。聞くに帝国で雇われたらしい」
「しかも宮廷学者でしょ? 皇族からも一目置かれてるって、随分な出世よね。それにひきかえ、ここは……」
(……はっ?)
マクエルは思わず足を止めた。ティナが、帝国で、宮廷学者として成功している? あの、自分が追い出した、愚図で能無しの女が?
(──ありえない)
そうだ、ありえない。そんなことあるはずがない。
だってあのティナだ。ノロマで愛嬌もなく、いつも俯いてばかりの使えない女。
そんな奴が帝国で成功なんて、冗談に決まっている。
そう思いたいのに、職員たちは確信めいた様子でティナについて語っていた。やれ新聞に載っていた、やれ高給取りになったらしい、やれ自分も早くこんなところ逃げ出したい──。
(……くそっ)
胸の奥から、嫉妬と屈辱と、そして名状しがたい焦りが込み上げてくるのを感じ、マクエルは再び強く拳を握りしめた。
だが、今はあの女のことなど考えている場合ではない。監査だ。監査をどう乗り切るかだ。
マクエルは、自身の懐に入れている討伐隊の費用のことを考えていた。幸いと言うべきか、先日の〈竜鷲〉の一件で支部は壊滅的な被害を受けた。
装備の損耗、施設の修繕──それらを理由にすれば、マクエルが横領したぶんの金の流れは誤魔化せるはずだ。ギリギリの賭けだが、他に手はない。
だが、マクエルの分はそれでいいとしても、更に大きな額を堂々と横領している父などは、監査の目を逃れられないだろう。
いくら取り繕ったって手遅れだ。しかしそれは、マクエルにとっては好都合ではあった。
(こうなったら、いっそ監査に父の不正を暴かせてやったらいい。……父が逮捕でもされれば、次期支部長は俺になる)
そうだ、それがいい。邪魔な父が消えれば、全てマクエルの思い通りだ。
「マクエル様、先ほどは父君と何のお話だったんですか?」
そう算段を立てていると、背後から甘ったるい声がかかった。
振り返ると、レイラが相変わらず能天気そうな顔で立っている。マクエルは簡潔に告げた。
「近々、本部の監査が入ることになった」
「かんさ……?」
「ああ、金の流れを全て調べられるそうだ。俺が着服していたぶんは問題ないだろうが、父は──」
そこまで言いかけて、マクエルはレイラの顔色がサッと青ざめたのに気づいた。「全て……?」と震える声で繰り返すレイラに、マクエルは不審を抱く。
「どうした、レイラ。何かあるのか?」
「へっ? あ、ええと……」
「何かあるなら言え。時間がない」
問い詰めても、レイラは視線を泳がせるばかりで答えようとしない。
「でも……」
「話を聞いていないのか!? さっさと言え!」
業を煮やしたマクエルが激しく問いただすと、ようやく彼女は観念したように、しかし悪びれもしない様子で衝撃の事実を白状した。
「以前、ティナさんが帳簿を改ざんしてお金を得ていたって言ったでしょう? ……あれ、実は私がやったんです」
「…………はっ?」
マクエルは耳を疑った。帳簿の改ざんを、ティナはしていない? それを理由に、ティナを追い出したのに?
呆然とする彼に、レイラはあざとく首を傾げてみせる。
「確かに悪いことをしたなあとは思ってますわ。でも、マクエル様と結ばれたかったですし……それに、ティナさんのせいにしたんですから、大丈夫ですわよね?」
その言葉に、マクエルの堪忍袋の緒が切れた。
「そんなわけがあるか! 監査が入れば誰が帳簿を改ざんしたかなんて筒抜けだ! なんてことをしてくれたんだ、それじゃあお前のせいで僕まで……!」
マクエルは感情のままに叫んだ。わけがわからない。どういうことだ。
マクエルがティナとの婚約を破棄したのは、ティナが帳簿の改ざんを行い、その上仕事の一部を他者に押し付けていたとレイラが証言したからだ。
ティナという面白みのない婚約者に飽き飽きしていたマクエルは、なるほど都合が良いとそれを鵜呑みにしてティナを追い出した。
(それで良かったはずなのに、……改ざんを行ったのはむしろレイラの方、だと?)
そんなの聞いていない。それどころか、監査が入れば当然このことは明るみに出るはずだ。
まずい、とマクエルは思った。
本部には、既にティナを横領の罪で解雇したと通告している。それが別人の仕業だったなんて、バレようものなら確実にマクエルの責任になる。何せマクエルは、レイラの話を鵜呑みにしてティナを解雇した張本人なのだ。
(くそ、くそ、くそ……! こうなったらレイラを解雇して、僕はあくまでも騙された被害者という立ち位置にするしか──)
「まあ、大変なんですね」
自分が生き残るためにはどうすべきか。
そう必死に頭を回すマクエルを、レイラはクスクスと喉を鳴らして笑う。
「『大変』だと……? 一体誰のせいでこうなっていると思ってるんだ!」
「ふふ、そんなに怒らないで。でも私が糾弾されれば、マクエル様も少々お困りになるかもしれませんね」
「は?」
何を言っている。もはやレイラに対する愛など消え失せたマクエルは、不愉快を隠そうともせず眉を寄せた。
「マクエル様と私が懇意にしていることは、職員みんなが知っていることですもの。マクエル様が無関係を主張してもそれがまかり通るとは思えませんし」
「……お前……!」
「私を解雇なさるなら好きにすればいいですけど、そうやって責任を押し付けたところで、私が『マクエル様に指示された』とでも証言したらおしまいじゃないですか。逃げられませんよ、マクエル様」
マクエルは、レイラの瞳の奥に、確かな計算高さと冷酷な光が宿っているのを見た。衝撃で言葉が出ない。
どうすればいい。ティナがいれば、ティナが全て上手くやってくれたのに。そうだ、全部あの女が悪いのだ。あの女が人生を狂わせた。
そこまで思考が至った瞬間、マクエルの脳裏に、ふと忘れかけていたある存在が閃いた。ティナから奪った、ティナの両親の「遺産」の存在を。
◇◇◇
チェスター男爵邸内のマクエルの私室で、マクエルは大きな箱を開けていた。
どうせ大した価値はないだろうと思い、金目のもの以外は倉庫の奥に押し込んでいた、ティナの両親の遺品だ。
と言いつつ、中身はほとんどがティナの父であるアステル・シストロイズの研究資料や物品だったが、マクエルはこれに一縷の望みをかけていた。
(あの〈竜鷲〉との一件……。ティナが乗っていた得体の知れない黒い怪物は、竜だったのではないか?)
少し前、南部第3支部が管轄する地区内に、〈竜鷲〉という危険な魔物が出現した。
マクエルの右腕を奪った忌々しい魔物だ。あの眼光を思い出すとマクエルは未だに身が震え上がるが、しかしあの時〈竜鷲〉を追い払ったティナは、更に身が震えるような恐ろしい怪物を従えていた。
エルン王国では禁忌とされている存在──竜。
数百年前、国を襲った甚大な竜被害を理由に、王国では竜に関する研究が厳しく禁じられている。アステル・シストロイズが異端視されたのも、彼がその禁忌に触れたからだ。
そんな禁断の存在を、おそらくティナは従えていた。
詳しいことはわからない。だが、あの馬鹿で愚図なティナが帝国で宮廷学者として働けているのは、その竜の力があってこそではないのか。
(そうだ、そうに違いない! ならば僕も、竜を呼び出すことができれば……)
この絶望的な状況を打破し、こんな田舎の支部ではなく、帝国で、あるいはそれ以上の場所で名を馳せることができるかもしれない。
(竜学者のアステルは竜を呼ぶ方法を知っていて、その手順を娘のティナに教えたのだろう。それであいつは竜を呼んで、帝国で雇われた)
そう思うと無性に苛立って、マクエルは舌を打った。
まったく馬鹿な話だ。父の力に頼って帝国で職を得るなど、愚図にはそれしか方法がなかったに違いない。
(ガラクタばかりじゃないか)
逸る心で箱の中身を漁る。古びた紙の束、どこで拾ってきたのかも判然としない奇妙な形の石、枯れた植物の化石……。どれもこれも、竜の召喚に関連しているとは到底思えない。
マクエルが苛立ちまぎれに箱の底を掻き回した、その時だった。指先に、硬質で冷たい何かが触れる。
他のガラクタとは明らかに異なる、異様な存在感を放つそれを取り出すと、マクエルの目に黒光りする物体が映った。
それは、手のひらに収まりきらないほどの大きさの、湾曲した黒い──何かの角だった。まるで生きているかのように、それはマクエルの手の内で脈打っていた。
「なんだ、これは……」
思わず呟き、唾を飲む。
そして、その角と共にするように、箱の底にはもう一つ、古い羊皮紙の束があった。
手に取ってみると、どうやらアステルの研究資料だったらしい。細かい文字が綴られたそれには、竜の姿を模したと思われる挿絵があちこちに見られた。
資料の大半は、竜の生態や分類に関する記述で、マクエルにとっては退屈な内容だった。
だが、資料に貼られた日記のようなメモに視線をやった時、彼の目が大きく見開かれた。
『長年頼み込んだ甲斐があった。ついにクロの角を採取させてもらえた!』
『さすが始祖竜と呼ばれる種の角だ。ワイバーンやシーサーペントとは訳が違う。』
『竜綱・真竜目に属する竜の角が、仲間同士で連絡を取り合うための波動を出すのは既知の通りだが、中でもやはり始祖竜の角から出ている波動は別物らしい。質も強さも桁違いだ。』
『他の竜の気配を広範囲で拾ってるし、それだけじゃなくて、他の始祖竜をこっちに「呼ぶ」力がある。とんでもない代物だ。』
「他の竜を……呼ぶ……?」
まさか、この角を使えば、ティナのように竜を召喚できるというのか。
更に資料を読み進めていくと、マクエルの全身を驚愕が貫いた。そこには、アステルの推論としてこう記されていたのだ。
『始祖竜の力は想像を超えていた。推測が正しければ、始祖竜の力で欠損した身体組織を再生することすら可能だぞ』
「なっ……!」
竜を召喚すれば、失った右腕が再生する──?
途端に先ほどまでの絶望が霧散し、マクエルは歓喜に震えた。これだ。これさえあれば。
マクエルは、左手で黒い角を強く握りしめた。
決まりだ。この角を使用して竜を召喚し、あの忌々しいティナを、父を、王国なんて小さな場所で口うるさく小言を言う奴らを見返してやる。
そしてこの醜く失われた右腕を取り戻し、全てをその手に掴むのだ。
「ハハ……ハハハ……」
静かな私室に、マクエルの乾いた笑いが響き渡る。
角から立ち上る微かな黒いオーラが、嘲笑う彼の顔を不気味に照らし出していた。