2.突然の緊急事態
ここエルン王国では、魔法関係の職に就くのは大変に名誉なこととされている。
その中でも特にエリートが集まるのが、国内の魔法に関する事柄を一手に引き受ける機関──『魔法省』だ。
チェスター男爵が支部長を務める南部第3支部は、国の南の方の──その更にちょっと田舎を管轄する支部である。
……正直少し存在感は薄いが、腐っても天下の魔法省。特に、世間知らずの田舎者であれば、魔法省というだけで平伏するだろう。
「ああ、あの子。チェスター様のところの息子と……」
「魔法省のお金をちょろまかしてたって。ほんとああいう子はねえ……」
……そして何より、田舎は情報が早い。
主婦たちの侮蔑の視線に晒されながら、ティナは鞄を漁った。
(今の持ち物は……替えの服が一着と、杖と、お父さんのノートと……あと、お金がちょっとだけ、か。……先立つものがないなあ)
一応魔法省で働いていたティナだが、南部第3支部は末端も末端。貰える給金は仕事量に比べて微々たるものだった。
(……ここまで悪い噂立てられたら、この辺で働くのは無理かなあ)
せめて隣町にでも移動すべきだろうか。
「あ、見て。〈白鷲〉よ」
そう考えていたティナは、主婦の言葉にぱっと視線を上げた。西の方の空を見上げると、確かに真っ白な翼をした大鷲が空を悠々と飛んでいる。
「あら、もう9時? 早いものねえ」
「今日は特段時間が経つのが早かったわあ。そろそろ帰ってお昼の準備をしないと」
(……もう、そんな時間?)
エルン王国では、頻繁にああいった──人に害を為す魔法生物、通称『魔物』が姿を現す。
白鷲はその中でも危険度が低いもので、討伐隊の新人の練習にも使用される魔物だ。
習性上、朝の9時近辺に現れるため、この辺りでは白鷲を時報代わりに使う住民も多い。
(あれ? まだ8時にもなってない。白鷲がこんな早い時間に出ることなんてあったかな……)
不思議に思いつつも空を見上げ、ティナは山の方へ飛びゆく白鷲を見送った。じきに、南部第3支部から討伐用の小隊が派遣されるだろうが……。
(でもあの子、ちょっと飛び方が変わってたような……白鷲って、薄い羽をバタバタ動かして飛ぶ魔物だよね?)
無意識に両手で飛び方を真似しながら、ティナはううんと考える。
先程の魔物は、大きな羽を最低限の動作で動かし、上手く風に乗っていた。飛行能力が低い白鷲にしてはやけにのびのびとした飛び方ではなかったか。
ティナは、魔法生物学者だった父の影響で魔法生物が好きだった。
その知識量はそこらの学者を凌ぐと言っていい。ティナの頭には、あらゆる魔法生物の記録がこれでもかというほど詰まっている。
(……あ)
そこでひとつの可能性に行き当たり、ティナはベンチから転げ落ちるようにして立ち上がった。
(違う、……あ、あれ、白鷲なんかじゃない……!)
あの優雅な飛び方を、ティナは父の手帳の中で読んだことがある。
「り、〈竜鷲〉じゃない……!」
竜鷲。鳥型魔物の中でもとりわけ危険な種類だ。
その皮膚は竜の鱗のように硬く、気候や温度によって変色する特徴を持つ。飛行能力も鳥型魔物の中でトップクラスに高い厄介な魔物だ。
それに加え、上級魔物である竜鷲は魔法を扱うことができる。大きな口から炎を吐き、足から風を発生させるのだ。
(なんでこんな田舎に竜鷲なんて……!)
上級魔物は、魔法省の本部から大規模な討伐隊が結成されるほど危険な存在だ。こんな田舎のちっぽけな討伐隊じゃ、きっと傷ひとつ与えられない。
「どっ、どうしよう、向こうは……!」
竜鷲が飛んで行ったのは山の方だ。この時間なら、猟や林業で生計を立てている人が山ほどいるだろう。
(助けなきゃ……! でも第3支部の討伐隊じゃとても相手にならないし、今朝解雇されたわたしの話なんて聞いてもらえるかどうか……)
無力を承知で向かうか、仕方ないと諦めて立ち去るか。
はやる鼓動の中辺りを見回すと、口々に何かを喋りながら公園を後にする主婦たちの姿があった。
彼女らは、先程までティナの陰口を叩いていた人たちだ。
人の噂話と、陰口が何よりも好きな人たちだ。ここにはそんな人ばかりが暮らしている。
そしてティナは、そういった人間の格好の的だった。コネで魔法省に所属した男爵家の居候なのだと、真っ向から言われて心を痛めたこともある。レイラには女としての魅力がないと散々馬鹿にされた。
「い、……いかなきゃだめ……」
でも、それでも、見捨てて良い人などいない。
(わたしが何かできるとは思えないけど……でも、避難誘導くらいならできるかもだし……!)
走って公園から出ると、ティナは人気のない開けた場所に出た。
「や、やる、一旦がんばる……仕事は、そのあと探すんだからっ……!」
震える声で己を鼓舞し、祈るようにして両手を繋ぐ。すると、右腕につけたブレスレットが微弱な光を発した。
ティナの父、アステル・シストロイズは、著名な魔法生物学者だ。
アステルには才があったが、その一方で父は親戚から揃って縁を切られていた。エルン王国民としての禁忌を犯したからだ。
この国の人間は、過去の歴史から竜を嫌う。
数百年前、国を甚大な竜被害が襲ったからだ。
たくさんの竜が吐く炎によって地が焼かれ、巻き起こす風で人が死に、それが年表の一部となった今でも竜は不吉の象徴だ。
アステルは、いつだってそんな竜の姿を追い求めて旅をしていた。
竜に関する研究を行うことはエルン王国民としての禁忌である。アステルはそれを知りながらもひたすらに精査と調査を続け、そしてついに成し遂げたのだ。
今や架空の存在となっている竜を、彼はたった1人で見つけてしまった。
(……マクエル様に取られたのがお金だけでよかった。このブレスレットまで取られたら、お父さんに顔向けできないもの)
祈りのポーズで静止したティナの周りを、不自然に強い風が包む。
耳鳴りを感じた。もうすぐだ。
「き、──……きて、クロっ……!」
そう呟いた瞬間。
暴風が突き上げ、ティナの身体が一瞬にして浮き上がった。
浮いたティナは何かにぶつかる。
必死にしがみつきながら目を開けると、真っ黒な鱗に覆われた巨体が目に入った。
巨体は大きな翼をはためかせ、空へ向かって急上昇する。
巨体に振り落とされぬよう手に力を込め、ティナは思わず頬を緩めた。この巨大な影は、エルン王国では神話上の存在とされている禁忌の生物──竜だ。
「ク、クロ……! 来てくれたの!?」
クロと呼ばれた大きな竜は、器用に片翼でティナを背へ放り投げた。
「お前が呼んだんだろうが。それと、クロじゃなくて〈クロウスショット・クロロフィル──」
「ねえクロっ、向こうの山に行って! 竜鷲が出てるの!」
背の上で叫べば、クロは呆れたように目を細めた。
「竜鷲?」
「そうなの! 見ただけだけど多分そうだわ……!」
「ほお? お前が追い払おうというのか」
クロの身体がグンと上昇して飛び、高所恐怖症のティナは固く目を瞑った。
クロ──個体名を〈クロウスショット・クロロフィル・アイルブラン〉というこの黒竜は、長年の研究の末父が出会った魔物だ。初めて彼の姿を見たのは、ティナが5歳の頃だった。
ティナも詳しくは知らないが、とにかくクロは、彼自身の鱗で作ったブレスレットを手にして祈ると飛んできてくれる。
普段どこにいるのかも、どうやって父と知り合ったのかも不明だが、今重要なのはそこではない。一刻を争うのだ。
「それにしたって久しいな、ティナ! 前に見た時はもう少し食い甲斐があったように思うが、いくら何でもくたびれすぎじゃないか? 老けたな?」
「ふ、老けたって、まだ1年ちょっとしか経ってないでしょう……!」
「ああ、あの時は調査任務に遅れる、なんて理由で足代わりに呼び出されたんだったか──あの時ばかりは不敬で食ってやろうかと思ったが」
「謝ったじゃない!」
ティナの黒歴史を掘り起こして満足したのか、クロは自身に透明化の魔法をかけ直しながらスピードを上げた。趣味の悪い竜だ。
「もうすぐお目当ての山地だが……竜鷲は見えるのか? まさかただの鳥と見間違えたのではあるまいな?」
「たぶん、大丈夫だと思うけど……」
真下の山々を恐る恐る覗くも、それらしき姿は見えない。
「ねえ、クロ……もうちょっと低く飛べる? わたしここ数年で目が悪くなっちゃって」
「……フン、とっとと見つけろ」
クロの身体が急降下し、風圧で木々が揺れる。
猟師や作業員が目の回る速さで過ぎ去っていく中、ティナは必死に木々の隙間を見つめた。
「……ところでティナ、お前、また随分と軽くなったな? なぜお前はそう食い甲斐を無くしていくんだ」
「く、食い甲斐……わたし、別にクロに食べられるために生きてるわけじゃないんだけど……」
「馬鹿、嘆かわしいんだ。1年前より更にやつれたし、またあの馬鹿息子にでもいじめられたか?」
図星である。何なら数時間前、婚約破棄と解雇を言い渡されたばかりだ。
「だから言ったろうに。あんな馬鹿貴族どもさっさと見限って、お前は自由に生きろと──」
「わ、……わかってるよ。わたしもそうしたかったけど……」
でも、ティナにはできなかった。
あの時マクエルに拾ってもらえなかったら1人寂しく死んでいただろうし、恩は簡単に捨てられない。
「でも、わたし今日からは自由だから。1人で生きていくの」
「……ふうん?」
「だから、これからはクロとも遊べるんだよ。今までは周りの目が怖くて呼び出せなかったけど……」
ついでに仕事と財産も奪われたわけだが──とまたネガティブ思考に陥ったティナは、ある一帯を過ぎ去ったところで目を見張った。
(……あそこ、何本か不自然に木が倒れてた……)
たった数本ではあるが、まるで上から潰されたように木がひしゃげていた。きっと竜鷲が足でも休めたのだろう。
(……この辺りに竜鷲がいるかもしれない)
ティナは目を閉じ、耳をすませた。
鳥型の魔物が立てる羽音は特徴的だ。
白鷲のように飛行能力の低い魔物なら叩きつけるような音がし、竜鷲のように上級の魔物なら、風を切る音がする。
ティナは生まれつき耳が良い。故に陰口も必要以上に聞こえてしまうのだが、今は違う。クロが立てる竜巻のような羽音の中でも、風の音がしっかりと聞こえた。
「……! クロ、叫び声! あっち!」
その中に男性の悲鳴が混じったのを聞き取り、ティナは叫んだ。クロが旋回し、上空をとんでもないスピードで駆け抜ける。
(がんばれ、がんばれ、わたし……! くよくよしてても、誰もご飯はくれないんだから……!)
早くなっていく鼓動を手で押さえつけ、ティナはそう自己暗示をかけた。
そうだ。勇気を出さなきゃ人は救えないし、ご飯だって食べられない。