1.婚約を破棄されました
「ティナ、君には呆れたよ。僕との婚約を破棄して、ここから出て行ってくれないか」
婚約者、兼上司であるマクエルの一言に、ティナは絶句した。
「こ、……婚約を、破棄……?」
震えた声で尋ねると、マクエルは険しい顔で頷く。
その瞬間、ティナは「ひょっとして18歳の誕生日を祝ってくれるのでは」なんて淡い期待を抱いた自分を殴りたくなった。
「ああ。理由はわかるだろう? 君の数々の不正だよ」
「ふっ、不正……!?」
「とぼけないでくれ。君が仕事を同僚に丸投げしていたことも、会計の文書を改竄して不当な収益を得ようとしたことも既に知っているんだ。当然解雇になる」
「解っ……!?」
先ほど以上の衝撃に襲われ、目の前が真っ暗になる。マクエルが発した不正の数々は、断言できるほどに覚えがない。
当然だった。ティナはただ、身を粉にして働いていただけなのだ。
「やっ、やってないです、そんなこと……! そもそもっ、わたしは職務中自分の部屋から一歩も──」
「出ていない、と? それを誰が証明できるんだ。事実、君に仕事を押し付けられたと証言している人間もいるし、会計の文書だって改竄されていたんだぞ」
「そ、それは、今初めて聞きましたし、わたしも事情が全くわからなくて……」
「見苦しい。会計の収支報告は君の担当だっただろう? 君以外に誰が改竄なんてできると言うんだ」
確かに、ティナは専門の資格がいる収支報告の仕事も請け負ってはいた。
でもそれはマクエルに頼まれたことで、他の仕事で多忙だったティナが望んだことではない。改竄なんてする余裕も、三徹が当たり前の激務じゃ皆無だ。
「言い訳なんてみっともない真似はやめるんだな。僕は証人だって連れてきているんだ。……ほらおいで、レイラ」
「はぁい、マクエル様」
そんなティナの否定を聞き入れることなく、マクエルはちらと扉の方を見やる。
呼ばれて執務室に入ってきたのは、ティナも知っている女性だった。名をレイラという、今年から採用されたティナと同い年の同僚だ。
マクエルはレイラの腰を親密そうに抱くと、くるんとウェーブしたレイラの髪にそっと口付けた。婚約者が見せたまるで恋人のような仕草に、ティナは思わず目を見開く。
「レイラは君に仕事を押し付けられたと証言している。会計報告の見直しに、あろうことか調査報告の取りまとめまでやらせていたんだろう?」
「え、え……?」
「ええ、その通りです。私とっても怖くって、でも逆らったらここで働かせなくしてやるって言われて……。従うしかなかったんです」
ぐすんと涙声で語るレイラに、ティナはただ絶句していた。そんなのあり得ないどころの話じゃない。
そもそもこうしてレイラと話すのだって、ティナにとっては本当に久々のことなのだ。
ティナは顔を合わせるたび「芋っぽい見た目」だ「同い年がこれだから私が引き立つ」だなんだと笑ってくるレイラのことが苦手だったし、加えてあの激務だ。仕事を押し付けるどころか、レイラと話す暇さえなかったに等しい。
(なのになんで、レイラさんはこんなこと……)
恐怖にぶるぶると震えながらレイラを見やると、彼女は相変わらず涙を流しながらマクエルに擦り寄っている。
だがその口元は勝ち誇ったような笑みで歪んでいて、ティナは思わず「ひっ」と声を漏らしてしまった。
「話はおしまいだ。……ティナ・シストロイズ、これを以って、君を魔法省南部第3支部から解雇する。婚約も破棄だ。もう二度と僕の前に現れないでくれ」
「まっ、……まって、マクエル様!」
「黙れ、愚図め。明日になってもここにいるようなら衛兵に突き出すからな。……さあ行こう、レイラ。もう君に不自由はさせないからな」
「まあ、そんな……。私、マクエル様のお優しいところが大好きです」
「ああ、僕もだ」
甘ったるい声で囁き、マクエルはレイラを抱き寄せ歩き出す。
「お願いです、待ってください! 本当にわたしは何も──」
ティナは去り行く婚約者の背を追おうと踏み出し、しかし振り返ったレイラが嘲笑を浮かべていたのを見て思わず足を止めた。
勢いで足がもつれて転び、それと同時に気力も削げる。床にへたり込み、ティナは唇を噛んだ。
(……どうしよう)
頭を埋め尽くすのはそんなことだ。婚約を破棄されて、職も失って、これからどうすればいいのだろう。
(レイラさんとマクエル様の噂は知ってた。夜中に同じ部屋に入っていくのを見たとか聞いたし、でも、まさかこんなことになるなんて……)
今になってわかる。レイラが仕事を押し付けられたと嘘をついたのは、ティナをこうして解雇に追いやるためだろう。
レイラはたびたび「あんな地味な人がマクエル様の婚約者だなんて」と愚痴を吐いていたし、きっとマクエルの婚約者の座を狙っていたのだ。それでティナの存在が邪魔になって、あんな突飛な嘘をついたに違いない。
(……あの様子からして、マクエル様もレイラさんが好きだったんだ。だから、証拠も確認せずにわたしを──)
つまり、ティナはレイラにまんまとしてやられたということである。
それを再認識するとどっと力が抜けて、ティナは地面にくずおれた。視界に涙が滲み、どうしてこんなことになったんだろう、と何度目かわからない疑問が浮かぶ。
そもそもとしてティナは、ここ──魔法省の南部第3支部での『永年雇用』を、確かに約束されていたはずだった。
そして永年雇用を確約すると言ったのは、婚約者でかつ副支部長のマクエル・チェスターだ。
マクエルは元々、ティナの父親の後輩だった。
ティナの父は魔法生物学者である。
若くして国に認められた逸材だったが、ちょうど10年前、ティナが8歳の誕生日を迎えた日に事故で亡くなった。
母親はティナを産むと同時に亡くなっており、縁者もおらず、残されたのは遺産だけ。
そんなティナに優しく声をかけてくれたのが、当時15歳のマクエルだった。
『君がティナかい? 初めまして、僕はマクエル・チェスター。君のお父さんの後輩だ』
『ねえ、君さえよければ僕のところに来ないか? 僕の父は男爵でね、魔法省の南部第3支部で支部長をやっているんだ』
『僕たちは君を支援したいんだ。あのアステル・シストロイズさんの娘となったら、きっと君もとびきり優秀だろうし──』
そんないきさつで、8歳のティナはそのままチェスター男爵家の居候になった。
ただ、待遇は決して良かったわけじゃない。
チェスター男爵は平民のティナを毛嫌いしていたし、プライドが高い男爵夫人に家を追い出されかけたことだって数えきれないほどある。
真冬にバルコニーで寝させられた時は死を覚悟したくらいだ。ティナの扱いは使用人以下で、ほとんど奴隷といって差し支えなかった。
(職場から追い出されたら、わたしどうなってしまうんだろう……)
執務室の床にへたりこんで何分が経っただろう。やっと立ち上がったティナは、とぼとぼと廊下を歩きながら溜息を吐いた。
15歳で魔法学園を卒業し、永年雇用の約束で魔法省の南部第3支部に勤め──そのまま3年。
やってもやっても減らない仕事を1人でやっとこなした結果がこれだ。覚えのない悪事で糾弾され、婚約も破棄され、職までをも失おうとしている。
(……マクエル様と婚約した時は、やっと幸せになれるんだって思ったのに……)
マクエルに婚約の打診を受けた時、ティナは何かの冗談だと思った。
彼は貴族の長男だし、何より男爵も、男爵夫人も、ティナのことを嫌っている。
それでもマクエルはティナが良いと言ってくれた。男爵たちもどうにかすると、僕は君だけを愛していると伝えてくれて、涙したのだってよく覚えている、のに。
「……で、出ていかないとだわ……」
あの日を思い出すとまた泣きそうになる。拳を握り、ティナはぐっと前を向いた。
副支部長かつ、支部長の息子のマクエルがああ言ったのだ。もう何を言っても結果は変わらないだろうし、とにかく奮起である。
まずは職員寮から自分の荷物を全て出して、新しい職を見つけなければならない。
(まずは、何よりもお金……! お父さんとお母さんが残してくれたお金がまだそっくりあるはずだもの)
小さく作ったガッツポーズを控えめに突き上げ、ティナは地面を踏み締めた。
(も、もう泣かない……! わたし、独り立ち、する!)
◇◇◇
そんなわけで、内気なティナは意気込みながら行動を開始した。
何より必要なのはお金である。両親の遺産がそっくり残っているはずだし、当面はそれを使えば良いだろう。
ということで、まずは朝の開業と共に銀行へ駆け込んだのだが。
「えっ、お金、全額ないんですか……!?」
「だからそう言ってるでしょ、お客さん。もう帰ってくれないかね」
銀行職員の言葉に、ティナはまたも絶句した。
「そっ、そんなはずは……! だってわたし、10年前に預けててっ」
「だから入ってないもんは入ってないの。な〜んもなしだ、すっからかんだ。貧しすぎて幻覚でも見てるんじゃないの?」
「まさか……! どうかもう一度確認を──」
「知らないよ。とにかく、お客さんの金庫には一銭も入ってないんだ。諦めてくれ」
職員は片手をしっ、しっと追い払うように振り、すたすたと去っていく。残されたティナはどうすることもできず、「うう」とその場に蹲った。
入っていないはずなんてない。男爵家への居候が決まった日、ティナは確かにマクエルとここに来て──。
(……あ)
そう記憶を漁ったところで、零れかけた涙がぴたりと止まる。
ある程度察しがついてしまった。というか、必然的にそうだった。
金庫の中身をティナが引き出していないとなれば、残る可能性はもう、『マクエルが引き出した』しかない。
「……わ、わたし、もしかして最初から騙されて……」
己の不甲斐なさを呪い、ティナは両腕に顔を埋めた。婚約を破棄されて、働かせるだけ働かせられて、お金も仕事も奪われた。
もはや然るべき場所に訴えるべき案件だとも思うが、こんな田舎町じゃ男爵貴族の影響は絶大だ。
ティナの推測が当たっていたとしても、誰かが貴族を糾弾してくれるとは思えない。
(前途多難って、きっとこういうことを言うんだわ……)
いっそ草にでもなってしまいたい。
心がぼきぼきと折れる音を感じながら、ティナはふらつく足で立ち上がった。
「……とにかく休みたいなあ」
働き始めてからというもの、日々の睡眠時間は3時間あれば良い方だった。
徹夜は当たり前。生活を削って仕事をする日々で、ティナの体はもうぼろぼろになっている。
(ああ、せめてこんな時くらいたくさん寝たい……あと欲を言えばフェンリルの毛皮に埋もれたい……)
小さい頃、父が自作した魔法生物図鑑で見たもふもふの毛皮を思い出しながら近くの公園に入る。
すると、井戸端会議に励んでいた主婦たちが目ざとくティナの姿を見つけた。
「……ねえ、見て。魔法省を追い出された女だよ」
確実にティナのことだ。ティナは自分の無駄に良い耳を恨みながら、控えめにベンチに座った。