19.チョコレートが先か、器が先か
チョコレートが食べたい。他の甘い物もいくつか食べたが、どうしてもチョコレートが欲しい。アクラシエルは窓際で、ぼんやりと外を眺めていた。
愛らしい外見の幼子の右腕は、ぐるぐるに包帯を巻かれている。固定した骨がつくまで、数週間かかるらしい。その話を聞いて、アクラシエルは溜め息を吐いた。
ここで勝手に治癒をしたら問題になる。それ以前に、霊力を使うほどにシエルの魂が薄くなるのだ。絶対に治癒は禁止だった。母レイラもゆっくり回復しているようだ。これ以上の治癒は、誰か同族が来てからにしよう。そう決めた。
人族にあまり干渉しない方がいい。人族とは、驚くほど欲深い種族だった。一つ欲しいと強請られて与えれば、もう一つ、もっと! とさらに要求がエスカレートする。ドラゴン同士は情報を共有することも多く、そういった話は嫌というほど耳にした。
今回も治癒の能力を見せれば、神殿に目をつけられるだろう。シエル本来の力ではないので、もしアクラシエルが新しい器に移れば治癒は使えなくなった。それでも幼子に治癒の能力を求めるだろう。
誰にとってもいい話にならない。アクラシエルは、窓の外の鳥達に目を向けた。あの中にベレトがいないか。居たら、チョコレートのお使いを頼もう。この幼い体では、勝手に買いに行くのは不可能だった。
この都市で手に入らなくとも、よその街へ行けば手に入るはず。ドラゴンならひとっ飛びだ。期待に目を輝かせるアクラシエルは、ふと視線を下ろした。
「どうしたの? シエル」
「お母様、犬がいる」
指差して、ほらと促す。侍女に支えられたレイラが窓から覗き、本当ねと微笑んだ。
「犬と遊んでいい?」
「あなたはケガをしているのよ」
レイラは心配に表情を曇らせる。だが、侍女と一緒ならと許可を出した。
前回大人しくしていたアザゼルは、危険な犬と認識されていない。大喜びで走って階段へ向かうが、手前で追いつかれて侍女と手を繋いだ。
降りた先で、お座りして尻尾を振るアザゼル。大型犬の姿で会いに来たなら、朗報を持ってきたのだろう。駆けて行って抱きついた。といっても、片手は固定されている。
「我が君、その腕は……っ」
「しぃ。心話にしてくれ」
『おケガをなさったのですか? 誰にやられたのです。人族ならばこの都など滅ぼして!』
『落ち着け、ベレトだ』
腕を折った犯人の名を告げると、アザゼルはがくんと顎を落とした。いわゆる顎が外れたような状態に見える。何度かぱくぱくと口を動かし、人目を気にしたのか、口を閉じた。
『……は?』
表面上の落ち着いた様子と真逆の、怒りが滲んだ声が届く。ドラゴンが日常的に使う心話だが、感情豊かに伝えるアザゼルは鼻に皺を寄せた。人の姿なら眉間か。犬の姿形では、ここしか表現できなかったらしい。
『悪気はないから叱らないでやってくれ。それより、チョコレートを頼んだだろう。なぜか手に入らないのだ。持ってきてくれ』
最後まで聞いて、よく理解してからアザゼルは大きく溜め息を吐いた。そのまま姿勢が崩れて、ぺたりと伏せてしまう。
『我が君、チョコレートとやらは甘味だそうですね』
『ああ』
『……新しい器を用意しました。そちらに移ってから差し上げます』
きらっと目を輝かせるアクラシエルは、幼子の姿で笑った。無邪気な笑顔に、侍女達から「癒されるわぁ」と声が漏れる。
『アザゼル、早く器を持って来い。チョコレートを食べるぞ!』
チョコが先か、器が先か。普通は器の発見に喜ぶんですけれどね。そんなアザゼルの嘆きも知らず、アクラシエルは大喜びでくるくると周り、幼い足をもつれさせて転んだ。
「いたぁ!」
骨折箇所を強打し、思わぬ痛みに叫ぶ。伏せていたため、アザゼルに傷害容疑がかかることはなかった。屋敷に連れ戻される幼子を見送り、アザゼルは大急ぎで街外れに走る。器の卵を運ばねば……その一心で周囲の迷惑を顧みず、飛び立った。
再び都のすぐ傍に黒竜が現れたことで、王城は大騒ぎとなる。だが、竜族も魔族もそんな瑣末事を気遣う者はいなかった。