捨てられ子猫の押しつけ婚約〜スローテンポな公爵令息は今日も復讐のために利用される〜
その子がやってきたのは、僕が十歳の時だった。
「……何見てんのよ」
家の門の前、ひとり座り込むその女の子は不貞腐れたように僕を睨みつけた。
頭に丸みのある二つの耳がある。クリームを混ぜたようなアイボリー色は、どこの獣人の子だろう? 同じ年頃みたいだけど、見当がつかなかった。
僕は戸惑いながらも「君は誰?」「何してるの?」と頭では返事をするものの、それが言葉として口から出るには少し時間がかかる。
ナマケモノの血を引く僕は、人よりワンテンポもツーテンポも動作が遅いのだ。
戸惑い顔のまま、ようやく睨みつけるその子に返事ができると口を開きかけると、その子はパッと立ち上がった。
「ねぇあなた、フォリヴォラ公爵の子よね? 名前はなんだっけ、スロース?」
「何してるの?」
問いかけに、ワンテンポ遅れた疑問を僕は投げつけてしまった。
その子は「はぁ?」と眉を寄せたあとに「あぁそっか」とひとり納得した。
ころころ変わるスピード感に僕はついていけない。
「あなた、スロースでしょ?」
その子はじっと僕を見た。
今度は僕の返事を待ってくれるらしい。
またワンテンポ遅れて、僕は頷いた。
「そうだよ」
「婚約者いる? いないよね?」
矢継ぎ早の、それも突拍子のない質問。
目を丸くした僕に、その子は答えをもらったと言わんばかりに笑みを見せた。
「おうちに入れて! 公爵様にお話があるの!」
僕は困った。
そもそもこの子は誰なんだろう。
そこにちょうど通りかかった執事長が僕を見つけ、そしてその子を見つけて慌てふためいた。
「いーれーて!」と声を大きくしたその子に執事長は困りながらも公爵、つまり僕の父上に許可を得に走った。
執事長はナマケモノじゃないのだ。
しばらくして戻った執事長は先程の慌てっぷりは収め、恭しくその子を迎え入れた。
何が何だかわからない僕は「あなたもついてきて!」とその子に手を引かれるまま、父上の待つ応接室へと連れられた。
「フォリヴォラ公爵様にご挨拶いたします」
その子は僕に対する態度をがらりと変えて、幼いながらに淑女の礼をとった。
父上は僕と同じくワンテンポ遅れで挨拶を返した。
「レオナ嬢。本日はどのようなご用向きで?」
「婚約のお話を持って参りました!」
ポカンとする父上。
相変わらず何が何だかわからない僕。
突然のことばかりに目を見張る執事長。
「ご子息、スロース様にはまだお相手はおりませんよね?」
「そうだね、まだその時期では」
「でしたら私との婚約をお許しいただきたいのです!」
ワンテンポ遅れの父上に被せてその子は言った。
応接室の扉を通り抜け、屋敷中に聞こえるのではないかというほどに大きな声で言った。
執事長の目は大きく見開き、父上はテンポ遅れではなく驚きで言葉が出ない。
僕だけが間髪入れずに「へ?」とだけ漏らした。
その子は父上の許しが出る前に、大人になりきらない両手をパンッと打ち鳴らした。
「きーまり! 花嫁修行のためこのままフォリヴォラの屋敷に住まわせてもらいますね。スロース、部屋はどこ?」
僕はまた手を引かれ、困惑しきった父上と一瞬だけ目が合って応接室から連れ出されてしまった。
執事長がその僕達を追い抜き、これは大変だと各所に指示を出してとりあえずの部屋をその子に見繕って与えた。
「パンテラ家は爵位争奪の真っ最中じゃ……?」
父上のようやく放たれた言葉は、誰にも聞かれることなく虚しく消えていった。
❇︎
フォリヴォラは代々王家に忠誠を誓う、護りを担う公爵家だ。
対してパンテラは新興貴族の侯爵家。勢いはあるものの、その種族特有の性のせいか代替わりが激しく安定しない。
強大な力を持っているので王家はどうにか取り入れたいと考えているようだが、一筋縄ではいかない癖のある家門だった。
そしてパンテラ家はお家騒動真っ只中。
侯爵である兄を弟が討ち取り、爵位を持つ者が変わった直後だ。討ち取られた兄、元侯爵の子であったレオナが家を飛び出し逃げ出すのもおかしなことではなかった。
パンテラ家では代替わりの時、先代侯爵の血を引く子供は皆殺しにされるというのだから。
「レオナー?」
そんなことなど露知らず、僕は教えられたその子の名を呼んで屋敷の中に姿を探した。
温和な父上はレオナの境遇を哀れに思い追い出すことをしなかったのだ。
「レオナ、どこー?」
その裏には家を失ったレオナに「癖の強い家門との婚約にならなくてよかった」という安堵もあり、婚約をどうするかはデビュタントを終えた後、僕に一任することにしていたらしかった。
もし僕が婚約話を蹴れば、レオナをフォリヴォラ家の養子とする準備もしていたという。
「ねぇ、レオナー」
それすらも知らない僕は『突如現れた婚約者』に胸踊る年頃で、ただただレオナという子猫のことを追いかけていた。
時間があれば話しかけ、僕とはスピード感の違う彼女のことを知りたくて仕方なかった。
「授業の時間!?」
シュタッと身軽に上から降ってきた。
玄関ホールでようやく見つけた姿を認め、僕は高い天井を見上げた。
この家で一番豪奢な装飾の施されたシャンデリアが揺れていた。
木登りなら僕も得意だけど、あれはなぁ……。
見上げたままでいる僕にレオナは「授業の時間なの!?」とまた言った。
「ううん、まだ先生はいらしてないよ。時間があるからおしゃべりしようよ」
「時間があるならもっと体を動かせるわね! 一緒に走る!?」
「僕と君とじゃスピード感が……」
言い終える前にレオナは走り去ってしまった。
置いてけぼりの僕は首をこてんと横に傾げる。
「運動不足なのかなぁ」
レオナは基本、止まっていない。
起きている間じゅう、何かしらのことをして体を動かしている。
故に、僕の視界に留まってくれるのは授業中と食事中のみだ。睡眠中はさすがに覗き見ることはできないから。
だから、レオナとゆっくりおしゃべりをするという目標が僕にはできてしまっていた。
「ねぇ、スロース〜」
走り去ってしまったはずの姿が、曲がり角の壁からちょこんと顔を出す。
僕は遅れて出てくる言葉のかわりに「なぁに?」と笑顔を向けた。
「私、武術を習いたい。剣術でもいいよ。スロースも習うでしょ?」
笑顔のまま目を瞬かせた僕に、レオナはにんまり口角をあげた。
子供らしさのある可愛い、それでいてイタズラ心を隠しきれてない笑顔だ。
レオナは大人になりきらない両手をパンッと打った。覚えのある光景に、僕の笑顔は固まった。
「きーまり! 明日からね!」
今度こそ走り去るレオナ。
僕はやっぱりそこに取り残されて、彼女のスピード感にはついていけないのだった。
❇︎
カンッ! カンッ!
と打ち合う木剣の音はレオナと師範のものだ。
僕も付き合わされて剣術を習うことにしたけれど、人よりも動作の遅い僕にはやっぱり向かない習い事だった。
才能のあるなしに関わらず、そもそも不得手なのだから。
こればっかりは鍛えても仕方ないと苦笑した師範は、僕に基本中の基本だけを教えてやる気に満ち溢れているレオナに向き合うことにしたらしい。
カンッ! と木剣がぶつかるたびにレオナから汗が散る。師範の次の太刀を身軽にかわして、レオナはまた踏み込む。カンッ! と小気味良い音が高らかに鳴った。
存分に体を動かし汗を流したレオナは、とても満足そうだった。
「レオナ、次の授業が始まるよ」
「すぐに行くわ!」
その後には座学が始まる。
これは剣術よりも前から学んでいた国の歴史や一般教養、貴族マナーなどだ。
体を動かすことを得意としない僕だけれど、座って学ぶことに関しては要領よく頭に入れることができた。するする入ってくる知識がおもしろくて仕方なかった。
対してレオナはこちらは不得手のようで、よく先生に質問を繰り返しては一生懸命に紙に書き記していた。
授業終わりには休憩のティータイムに、僕にも質問をぶつけてくるほどだ。
「今日の授業は難しかったわ」
「どこがわからなかったの?」
「最後のところ」
「あぁ、あれは難しかったね」
レオナは決して理解力が乏しいわけじゃない。
先生の解き方では飲み込めない答えを、僕がもう少し丁寧にほぐして解いてあげると簡単に飲み込んでくれる。
それが僕は嬉しかったし、ゆっくりな僕のしゃべりをレオナが根気強く待ってくれるから、この時間が好きだった。
「スロースは教えるのが上手よね」
「そう? 嬉しいな、ありがとう」
「教師に向いてるんじゃない? あ、でも遅いのよね」
「遅いのばっかりは、どうにもならないんだ」
これが僕の習性だからね。
本当は機敏に動くこともできるけど、それはいざとなった時のみ。死ぬ覚悟で動く時だけ、ナマケモノは機敏に動くことができるんだ。
そうやって言葉を繋げようとすると、レオナが「ふわぁ……」と大きなあくびをした。
テーブルの上の腕枕に、とろんとした瞳で吸い寄せられていく。
「もったいないなぁ、スロース。もったいない」
「何がもったいないの?」
眠気を含んだレオナの声はふわふわとし始めて、いつもの快活さは先に眠ってしまったようだ。
ゆったりとしたしゃべり口調は、僕のしゃべりとよく似ている。
「スロースは遅いから、いっぱい逃してるものがあると思うの」
「そうかなぁ。逃してるものなんてないと思うよ」
「あ、違うわ、これから逃してくのよ。いっぱい逃してくの」
「うーん……よくわからないよ」
寝ぼけ始めたレオナの会話はだいたい支離滅裂になってくるけれど、それでも僕はレオナが眠りに落ちるまでの時間を大事にしたかった。
言葉が遅くなり、ゆっくりおしゃべりする僕達は、この時ばかりはぴったりとペースが合っていたから。
「そんなんじゃダメ。でもスロースは遅いのがいいからなぁ。私が、なんとかしてあげたらいいんだけど……」
「レオナがなんとかしてくれるの?」
「なんとかしてあげたいなぁ……」
無防備にまぶたを閉じてしまうレオナの、小さくなっていく声を聞き漏らさないように僕は耳を澄ませる。
「でも……いつまでも一緒じゃないし…………」
そして、穏やかな寝息に変わる。
僕は起こしてしまわないように静かにひとり眉尻を下げた。どうしていつまでも一緒じゃないの? それはもしかして、いつかは離れていくということ?
すやすやとあどけないレオナの顔にかかる髪を指ですくい流した。
丸い耳がぴくぴくと揺れる。レオナが寝入った時の合図だ。
僕はそのままレオナの頭をそっとなでる。ふわふわの髪が僕の手のひらをくすぐり、僕の胸もくすぐったくなった。
いつもは遅いと自覚する僕の体が、瞬く間に熱を持った。
そうして日々は過ぎていき、僕がレオナを追い続けて六年。止まることなく走り続けたレオナは僕に追いつくことを許さず、あっという間に六年が経った。
❇︎
十六歳になった僕達の一大イベントといえばデビュタント。国王陛下に拝謁し、社交界にデビューをする第一歩だ。
公式の場でのエスコートは初めてなので、失敗しないよう遅れないようにと執事長とたくさん練習をしてきた。
王城に到着する手前、馬車の中で僕のお尻はすでに浮き気味で準備をしていた。
「スロース、気が早すぎじゃない?」
「僕はこのくらいでちょうどいいんだ」
馬車が止まると、僕はすぐに下りて手を差し出した。レオナがくすくすと笑いながら僕の手に幼さの抜けた手を乗せる。
僕は誇らしく、レオナをエスコートしてダンスホールへと進んだ。
華やかに着飾る同年の令嬢がそれぞれに輪をつくり、雑談を交わしながらこちらを見る。
いつもよりもぴしりとした正装の令息が、ちらちらとレオナを見る。
僕は隣に立つレオナにこっそりと声をかけた。
「みんな君を見ている」
「うーん、そうかもね」
「あなたを見てるのよ」とは返さないレオナらしさに、僕は小さく笑った。
和やかな雰囲気の中、荘厳な楽器の音と共に国王陛下がお出ましになる。
厳粛な言葉とデビュタントの祝いの言葉を賜り、参加者はそれぞれにパートナーを見つけて手を取った。
「レオナ、僕と踊ってくれる?」
「えぇ、もちろん」
僕達も向かい合うと、流麗な音楽の始まりに合わせてステップを踏んだ。レオナのドレスが動きに合わせて揺れる。
王城の煌びやかなダンスホールで、隙なく散りばめられた宝石が光りを反射し、僕らの世界に輝きを与える。
僕を見つめていたレオナが、そっと口を開く。
「スロース、踊れたんだ?」
「たくさん練習したよ」
「私、今日はきっと足を踏まれると思ってたのに」
レオナがくすくすと笑う。
そうならないように執事長と特訓を重ねた僕は、それでもレオナの足を踏まないように細心の注意を払っていた。
本当ならもっと上手くリードしてあげたいところだけど、今の僕は緊張が勝ってしまっていた。
硬くなりつつある僕の表情を見て、レオナはぐいっと僕を引き寄せる。
「ねぇ、笑って? 楽しもう!」
レオナは女性パートで、僕は男性パート。
確かにステップはその通りなのに、まるで逆転したかのようにレオナは僕を引っ張り踊る。
その勢いと大胆さがレオナそのもので、あまりにもレオナらしくて、僕はよろけそうになりながらも笑ってしまった。
その勢いのままレオナが僕を回そうとするから、さすがにそれは僕の役目だとレオナをくるりと回した。
「レオナには敵わないよ」
「ふふ! 楽しいね、スロース!」
パートナーと踊る、はじめてのダンスとは思えないほど僕達は笑い合って踊った。
周りの目なんて気にならない。もはや音楽とも合っていないステップに、恥ずかしさも忘れてただひたすらにレオナだけを見ていた。
くるくる、ふわりと舞うドレス姿のレオナ。
いつにも増して可憐で美しくて、目を離すことなんてできなかった。
だから僕は気づくことができた。音楽が止まり、手が離れた瞬間。
レオナの瞳にわずかに寂しさが滲んだことに。
「スロース、ありがとね」
「え?」
突然言われて僕は動きを止めた。
「今までありがとう」
ダンスが楽しくてありがとう、ではない。めずらしくレオナから神妙な雰囲気を感じて僕は困惑した。
「スロースと一緒にいる時間は、まるで陽だまりの中にいるように心地よかったわ。ゆっくりで優しくて、あたたかくて。パンテラの私が子猫にでもなったかのように眠気を誘われる。あなたの側にいられることは、本当に幸せだと思ったの。……だから」
先ほどの笑顔とは打って変わり。
あどけなさは微塵も残らない、女性らしい微笑みをレオナは湛えた。
「――婚約破棄しよ、スロース」
静かに、強く芯のある瞳で。
呆気に取られた僕は「え? 待って、レオナ」とワンテンポもツーテンポも遅く、そしてそれ以上の言葉を紡ぎ出せない。
そんな僕をよく知っているレオナは、ドレスの裾をたくし上げて持つ。
最後に「私、やらなきゃいけないことがあるんだ」と微笑んでダンスホールを飛び出してしまった。
「レオナ!!」
僕は声の限りに叫んだ。
それと同じくして次の演奏が始まる。新たなパートナーと手を取った参加者が踊り出した。
周りは僕を訝しげに見ている。それでも続くダンスはくるくる、くるくると僕の視界の端で鮮やかな色を舞わせる。
世界が早い。
それは僕にとっては当たり前で、レオナにとっては当たり前じゃない。
たったの六年ですべてを身につける必要があったレオナにとって、この世界はとてつもなく遅く感じただろう。
「パンテラだから……」
父上は僕に伏せてけれど、隠していたわけじゃない。レオナが僕にはじめて明かしたその名を、僕はとっくに知っていた。
「レオナ……」
ずっと一緒にいたから。
隣で見ていたから、僕はわかるんだ。君がやりたいこと。望んでいたこと。
決断したことには「きーまり!」と手を打つこと。
婚約破棄だと言った時、君はその手を打たなかった。
「レオナ、僕は……!」
くるくると舞う鮮やかな色を僕は通り過ぎる。煌びやかなダンスホールを駆け抜け、大きな扉はあっという間に僕の背後にあった。
呆気に取られる衛兵の顔は、そこに残された者だけが見られただろう。
はじめて世界が遅いと思った。
遠ざかる王城、流れる景色、自分のものとは思えない僕の足。
歩行者をかわして記憶の通りに角を曲がり、上がる息など構わずに走る。
こんなに息が苦しくなるのだと知った。
こんなに体が熱くなるのだと知った。
それ以上に急ぎたいと思う気持ちは、これだけ早く走ってももどかしさを拭えない。
見ているだけじゃ知れないレオナを知り、僕は歯を食いしばってさらに足を動かした。
「僕は……!」
もぬけの殻の敷地をまっすぐ突っ切り、半開きになっていた屋敷の扉から体を滑り込ませる。
見張りの騎士はおろか、僕という部外者の侵入に驚く者さえいない。
パンテラの屋敷内は騒然とし、奥にある一室からは物騒な打撃音や唸り声が聞こえた。
立ちすくむメイドらを押し退け、僕はその一室に駆け込む。
「レオっ……」
――キンッ、と金属音が弾けた。
僕の顔の横に剣が突き刺さり、刹那の危機にとっさに固まる。真横に伸びる剣を認識し、ゆっくりと視線を部屋の中央へと移動させると、そこにはレオナの姿があった。
「これはこれは、フォリヴォラのご子息が何の御用でしょう?」
剣を薙いだのはパンテラ侯爵だった。
レオナと同じく頭に丸みのある二つの耳がついている。ただ違うのは、その毛色がパンテラにはありふれた黄褐色だということ。
百獣の王である獅子が、横目で僕を威圧した。
剣を払われ失ったレオナは僕の登場に驚いて目を丸くした。
「スロース……!?」
「ご覧の通り、今は取り込み中でして。部外者はお引き取り願いたい」
侯爵が視線をレオナに戻した。
途端にその喉元が低く唸りをあげ、剣を持つ手に力が入ったのがわかった。
僕は無我夢中で横に刺さった剣を引き抜き、侯爵とレオナの間に割って入る。レオナに振り下ろされた重い一振りを受け止めた。
「……ナマケモノもそのように素早く動くことができるのですね?」
感心したように言う侯爵。
僕の後ろではレオナが声を大きくした。
「スロースなんで来ちゃったの!? なんで間に入ってきちゃったのよ!」
「まったく……理解に苦しみますね」
「ちょっと! スロースは関係ないんだから剣を引きなさいよ!」
「だから部外者は帰れと言ったんだ」
レオナに対しては途端に口調が変わる侯爵は、それでも僕に振り下ろした剣を引こうとしない。
交わし合った刃がギチギチと嫌な音を立てる中で、僕は一瞬たりとも力を抜けずにいた。
「スロースに傷ひとつでもつけたらただじゃおかないんだから! 引きなさいクソライオン!」
「そもそもお前は俺を殺しにきたんだろう? いくらフォリヴォラの子息といえど、お前を庇うなら殺すまでだ」
「庇ってなんてないわ! スロースは関係ないもの!」
「関係がないと言いながら、お前はフォリヴォラを後ろ盾にして利用していたじゃないか。婚約者としてお前を守りにきたこの男が哀れなものだな」
「スロースとの婚約は破棄したわ!」
僕を間に挟んでライオン達が吠えている。
剣では僕を圧し、口ではレオナの相手をする侯爵には牙がぎらついていた。その余裕さに、僕を庇いつつ結局は部外者にしているレオナに、嫌味たらしく哀れみを見せる侯爵に、僕の苛立ちは爆発した。
レオナと言い合う侯爵の油断は僕に対する侮りだ。
僕がわずかに剣を引くと侯爵はバランスを崩し、立て直そうとしたところに思いきり頭突きを食らわせた。下から頭を突き上げられた侯爵はのけぞって床に倒れる。
僕は痛みで頭がぐらぐらしながらも、苛立ちのままに声を荒げた。
「レオナがパンテラ前侯爵の子でライオンだというのも、お前から逃げて僕を盾にしていたことも知っている! 急いで学び鍛えた理由だって、ご両親の仇を討つためだ。僕を利用した理由はすべてご両親のためなんだ! 隣でずっと見てきた僕は、全部知っている!」
ふぅ、とひとつ息を吐く。
レオナは白目を剥いて動かなくなった侯爵を見て「スロースが倒しちゃった……」とつぶやいた。
僕はそんなレオナに向かい合った。
「レオナが本心から望まない婚約破棄なんて絶対に受けない。侯爵を討つなら最後まで僕を利用していい。君が望むなら、僕は喜んで盾になる」
手が小刻みに震えるのは、怒りなのか羞恥なのか。熱の上がった頭では判断がつかず、僕は思いのままに言葉にしていた。
「僕は、レオナのためならライオンにだって負けないよ」
「うん、スロース、倒しちゃったね……」
「レオナのことを知ってから、僕だって覚悟はしてたんだ」
「私のこと、知ってたんだね」
天真爛漫で無邪気な子猫を追っていれば、隠していたとしてもいつかは知る事実だ。僕は当たり前だと頷いた。
「知らないほうがおかしい。僕はずっと、ずっとレオナを見ていたんだから」
「……望まない婚約破棄っていうのも?」
「望んでいないでしょ? あの時レオナは、両手を打たなかった」
そこに関しては、少し不安を抱きながら。
威勢よく無意識にレオナを口説いていた僕は、その時になってようやく自分の勢いに気づいた。
体中が熱を持ったはじめての心地の中で、そっとレオナを窺い見る。
レオナは大きく口角をあげて笑顔になっていた。
「……うん。うん!」
令嬢らしからぬ屈託のない笑みで、下がった眉尻にはこれ以上にないほどの嬉しさを秘めていて。
そして僕が知っている、お決まりのフレーズを口にした。
「きーまり! 私、スロースのお嫁さんになる!」
パンッと大人になっても華奢な両手が音を立てた。
僕の反応がすぐに返ってこないのを分かりきっていて、けれど僕の緩んだ口元に僕の嬉しさを誰よりも理解してくれていて。
僕の手から抜き取った剣をポイと捨てたレオナは、ぎゅっと僕の手を握った。
「私、パンテラが復讐してきても返り討ちにするね! 絶対にスロースを守るよ!」
「ううん、レオナ。僕が君を守るから」
「スロースはいいの。私を守るために剣を持ってくれたスロースはカッコよかったけど、あなたはやっぱりゆっくりなのがいいの」
それはずいぶんと前の、僕たちの会話の続き。
レオナが覚えていたことに、僕はふふっと笑いを漏らした。
はにかんだレオナが僕の目をまっすぐに見る。
「駆け付けてくれてありがとう。私、スロースが好きだよ」
「僕も、レオナが……」
上がった熱に耐えられず、頭がくらくらとする。
ばくばくと跳ねる心臓の音に、もう我慢できないとレオナを包み込んだ。
いつも見てきたレオナは、見ている以上に小さく華奢だった。
「スロース?」
「……ごめん、レオナ」
だんだんと力が抜けて覆い被さっていく僕。
日々鍛錬を欠かさずにいたレオナはそんな僕の重さを揺らぐことなく支えてくれ、すぐさまその異変に気がついた。
「ねぇ、なんでこんなに体が熱いの? スロース?」
そう、抱きしめたのではなく、倒れ込んだが正しかった。
「……ナマケモノは……怠けない、と、死ぬ…………」
「えっ!?」
ナマケモノはゆっくりとしか動けない。
そんな認識をされがちな僕らだが、決して機敏に動けないわけじゃない。文字通り、死ぬ覚悟を持った時にのみ機敏に動く。
その代償として体に熱が溜まり、熱を放出する術のない僕らは命の危機に瀕するわけだけど。
「レオナ、好きだよ……君が好きだ……」
「遺言みたいな告白しないで!」
レオナにお姫さま抱っこをされて運ばれる最中、朦朧とした僕はうわ言のように告白を繰り返していたらしい。
そんなことを知らない僕は、一命を取りとめ回復した後の結婚式で愛の誓いと共に「二度と走らないこと」を誓わされた。
レオナが大人しくしてくれていたら僕が走ることもないんだけどなぁ、と溢すも、それは受け入れてもらえなかった。
「そろそろ、子供もほしいんだけどなぁ……」
空いたレオナの席をちらりと見る。
元気な子猫は今日も、僕の見えない所でフォリヴォラの屋敷の中を走り回っている。
「まぁ、気長にいこうか」
レオナが大人しく僕の隣に座ってくれるのは、まだまだ先のことのようだ。