微匂
ハッピーな笑顔で人の悪口を言う時、この世のどんなクスリよりも効くと豪語するのは、自称心理学者の大学客員教授だ。彼は授業中、笑顔で言葉を吐くことはないので、おそらく退屈なのだろうが、それはこちら側も同様に確からしい。講義とは、静寂に突き刺さる駄文の子守唄であるから、当然のように眠りにつく人間は多数ある。最もスマートなのは出席カードだけをしたためて、早急に講義室を立ち去るものだろう。しかし彼らは突然のレポートに対応できないために盤石の評価を惜しくも得られずにいる。人は噂話や悪口を言い合うことで優れた人間や空気を乱すモノの精査をしあう。あらゆる合否を下すことが、生きていくのに最も重要だったのだと、教授の子守唄が響いてきた。本日の子守唄はそれほど悪くないと思う。実際に共感できる点がいくつかあった。空気という名の無条件、強制参加のシステムが全人類に間で形を変えながら存在しているのは、それが最も進化に近づくシステムであるということを歴史が証明している。おそらく子守唄はそういうことを伝えたいのだろうと考えたとき、X軸に四、Y軸に六席離れた位置にいる、メガネをかけた口元の汚い、スーツを着たカバのようなデブが、人の許容を明らかに超えているdBを叩き出し、イビキをかいて寝ている。音を出して寝る奴はデブばっかりやな、と隣の席の男がその隣の男と囁き合っていた。彼らはおそらく付き合っているのだろう。デブの方に視線をやると、周辺の人々は爆笑の一つ手前くらい笑っていた。笑ってはいけないという状況が、余計に緊張感を増幅させて笑ってしまうといった笑いだった。隣のゲイたちも二人揃ってデブを見て笑っている。たった今、この講義室には色付きの空気があらゆる人間から激しく放出されていて、微かに香りが漂う錯覚が起こっている。中心にはスーツを着たカバがいる。講義の画面にもガバの頭部だけが写ったような気がするが、気のせいだろう。この視界に嫌悪感を覚える理由を少し考えて、退屈な講義をやり過ごす。デブ以外にも寝ている人は多々存在し、寝ていること自体は空気を逸脱していないことは確かだろう。問題はおそらく音で、動物が大きな音に反応しないと危険に気づくことができない構造が、ここにきて活きていると予測できる。さて、音の正体がイビキだとわかった人間は、慣習と名付けられた空気から逸脱した人間を笑った。これはおそらく攻撃だろう。笑いとは攻撃なのだ。決して幸福の証でもなく、何かを解決するための理由にも効果にもなりはしない。何かを攻撃してハイになっている人間が、内側から創出される消化しきることのできない歓喜の衝動を爆発させた身体効果なのではないだろうか。笑いで得られたように錯覚する幸福は、この世で最も恐ろしい攻撃的支配的暴虐的洗脳的異端的大胆不敵な凶器だ。凶器は狂気を呼び、生々しい悪口大会が空気を読む者たちの中で繰り広げられる。新しく生まれ変わった空気の中で彼らは大いにハッピーな笑いを弾かせて人の醜悪さを言い放ち合う。彼らはどんなクスリ患者よりもハイになって踊り狂う。こうやって排除するのかと感心してしまった。空気逸脱違反、排除。空気速度違反、排除。空気非追従、排除。空気清浄、排除。排除、排除、排除排除排除排除排除排除排除、そして排除。飽きもせずに数万年も繰り返してきた進化のシステムに想いを馳せた時、膨大な何かが脳内を支配してしまって、色付きの空気のような匂いが、脳から鼻の穴を通って微かに匂った。それは自らの存在についてだ。排除すらされていないのに、空気の中にも入れない存在は一体何に該当するのか。途端に居ても立っても居られなくなったため席を立つ。すみませんと言いながら、人の足を掻き分けてデブの元へと向かった。今だに大きな声でイビキをかいているデブの目の前に立ち、腕を振りかぶって後頭部を激しくド突いた。間抜けに驚いた汚顔に間髪入れずビンタを打ち込み、中途半端に長い髪の毛を鷲掴みし、無理やり顔面をこちらの両の眼に向けさせた。「やかましいねんボケ!次イビキをかいたら殺すど!」この一言二言で喉が壊れてしまいそうな勢いで叫んだ。喉の犠牲が自分の存在をなにか高尚に近しい物体のように扱ってくれることを願う。あるいは神無月の頃、出雲にて柱合会議が行われているのであれば、是非とも参加したい。そういう気分でスーツを着たカバの目を見つめてみた。周囲は愕然とし、何よりも驚いた表情を浮かべている様子だったが、絶対にデブから目を逸さなかった。教授の子守唄も止み、周囲は新たな静寂、空気に包まれた。今度の空気に、色はついてない。冷たく乾ききって誰も近づいてはいけないような空気だった。その中心は、紛れもなく自分だったが、そんなことはどうでも良かった。馬鹿のように呆けた顔をして状況を最も理解できていないスーツを着たカバは、イビキの後にどんな言葉を発するのか。このデブに抱く感情は怒りでも救済心でもなく、同情だった。最後になるかもしれない。おそらく数秒後には大衆の排除運動の餌食になるのは自分だろうから、縋るようにデブの目を見つめた。せめてこの眼だけには、何か響いてほしい。己から生まれた何かが他人に刺さってほしい。一瞬には到底思えない一瞬のあいだ、ただ,祈り、祈って、祈る。祈りが身体に宿り始めたころ、スーツを着たカバは徐に大きな口を開いた。何もかも飲み込むように。
「くち、くさ」