21:看病
「ここが雨宮の家……なんだよな」
俺はコンビニ袋を片手にスマホのマップアプリに映る座標と目の前の建物の位置を確認する。何度も何度も見直した、それが間違いだと祈りながら何度も確かめた。
そこは2階建ての古めかしい見た目のアパートだった。
色が褪せた白い壁、崩れそうな屋根、立て付けの悪そうな扉、階段と手すりは塗装が剥げて錆びついて、取り壊し寸前の安アパートだと言われてもなんら違和感はない。
ここにメアが住んでいる、というのは間違いであって欲しかった。
けれど担任から渡されたメモを頼りに208号室へ向かって、扉に付けられた名札の『雨宮』の文字を読んで、ここが本当に彼女の住居である事を知ってしまった。
翔太が言う話ではメアの親が多額の借金を背負ってしまうハメになったとか、彼女が貧乏な暮らしをしている様子は学校生活を通じても伝わってきていたが、このアパートを見ているとその噂話は本当なんじゃないかと不安になってくる。
異世界で魔王として君臨していた時のメアの自宅は、見上げる程の巨大な城壁が天高く突き出す塔を囲み、世界中の権力者が羨むような宮殿に住んでいた。転生後のメアの自宅はまさにその真逆、酷い外見のボロアパートだった。
雨宮の親が出てくる可能性を考えて、俺は服装を正した後に意を決して呼び鈴に手を伸ばす。扉の向こうからピンポーンとチャイムの音が鳴り響く。しばらくして足音が聞こえてきて、鍵が開いて扉の向こう側の光景が見えた。
そこにはマスクをして咳き込みながら、顔を火照らせるパジャマ姿のメアがいた。扉の向こうに居るはずのない俺の姿を見て、彼女はかなり驚いているようだった。
「……っ」
「よう、雨宮。具合は大丈夫か? 今日、学校を休んでたから先生に頼まれてプリント持ってきたんだ」
俺はまとめられたプリントをメアへと見せた。しかし、彼女の瞳は何処かぼやけているようで焦点も合っていない。
「親御さんから医者に連れてってもらったか?」
「まだ行ってない……」
「どうしてだ?」
「一人暮らしで、体が重くて……」
「一人暮らしって……それじゃあ朝と昼はちゃんと食べたのか……?」
「……っ」
この様子だと多分朝も昼も食べていない。医者にも行けずに具合が悪くて動けなくてずっと寝たきりだった、というところだろう。親と一緒に暮らしていると思っていたのだが、まさかメアも一人暮らしだったとは。となれば晩御飯の用意はどうするつもりなのだ。
病弱のか弱い少女を放ってはおけない。
メアが一人暮らしで食事も作る元気がないというのなら、彼女の為にキッチンを借りて夕飯を作ってあげたりした方が良いんじゃないか、そう思ったりもした。
けれど突然やってきた異性を家に上げるなんて普通に考えたらあり得ない事だし、家に上げて欲しいと聞くのも失礼に思えて、プリントとコンビニで色々と買ってきたものを渡してこのまま退散するべきなんじゃないかと考えてしまって――。
「――大丈夫か、雨宮!?」
メアがふらりと倒れそうになっていた。
急な目眩に襲われたのかもしれない。
目の前で倒れようとするメアを腕で支えて、苦しそうに息を吐く彼女を見つめてただ事でないと思った。ここで帰るだなんて選択肢はない、彼女の看病をしなくては!
「雨宮、すまない。上がらせてもらうぞ」
俺はメアを抱き上げて小さなアパートの中へと入っていった。
殺風景だった。部屋にはベッドが一つ、シンプルな壁掛け時計にカレンダー、窓を遮るカーテンに、小さなテーブルが真ん中で鎮座している。
その中で俺がプレゼントしたワンピースが綺麗に飾られて、一緒に渡した本も並べられていた。ベッドの上には俺がプレゼントしたぬいぐるみも置かれていて、抱いて寝ているような様子が残されている。それを見ていると大切にしてくれているのが伝わって嬉しくなってきた。
俺は部屋の隅に置かれた小さなベッドにメアを横たわらせる。
火照った彼女の額に手を当ててびっくりするほど体温が上がっている事に気が付いて、俺はキッチンの蛇口に向かって駆け寄った。
コンビニで買っておいた新品のタオルを水で濡らして良く絞って、それを持ってメアの元へと戻っていく。彼女の額に濡れタオルを乗せて、俺はメアに話しかけた。
「メア、今日はゆっくり寝ていた方が良い。俺が夕飯を作ってやる、看病は任せておけ」
「でも……わたしの風邪、伝染っちゃう……」
「気にするな、大丈夫だって」
風邪をひいて具合が悪いはずのメアが、自分の事よりも俺の事を心配してくれている。
俺は元勇者だ。メアと違って異世界と変わらないステータス、そんな俺が風邪をひいてしまう事はない。免疫力だって最強なのだ。だからメアには自分自身の事を気にかけて欲しい。
風邪をひいて具合が悪い時は、普段よりたくさん寝る事と栄養価の高い食事を取る事が大切だ。メアの場合は今発熱が凄いからきっと脱水状態でもあるはずで、経口補水液はコンビニで買ってきたし飲ませてあげた方が良いだろう。あとは消化に良いおかゆを用意したり、他にも色々とやるべき事がある。
俺がメアの看病を始めようと立ち上がろうとした時だった。
「行かないで……」
俺の手をメアが小さな手で握りしめていた。
今にも消えてしまいそうな弱々しい声で俺を呼ぶ。
「すぐ良くなるからな。俺がついてるから安心しろ」
大丈夫だ、俺はここにいる。
こんなか弱い少女を置いて何処に行こうと言うのか。さっき来たばかりの時に渡すものを渡して帰ろうとした俺自身を殴ってやりたいくらいだ。
身体だけではなく今のメアは心も弱っている。
彼女に寄り添って安心させる必要があるだろう。
俺はメアの頭を優しく撫でる。
彼女は青と碧の瞳で俺をじっと見つめて小さく微笑んだ。
※
目を覚ますと時間は深夜の3時だった。
自分の額に手を当てる。あれだけ熱かった体温が収まっている事に気付いた。
今日の朝に起きた時は具合が悪くて熱もあって、目眩も酷くて動けなかった。
ご飯を食べる気力も湧かなくて、ただひたすらベッドの中で横になっていて、それで夕方になって誰かが家に来て、朦朧とした意識の中で……その誰かがわたしの傍に寄り添って看病し続けてくれていたのをおぼろげに覚えていた。
目眩もしない、頭も痛くない、あれだけ苦しかった風邪が何処かに吹き飛んでしまっていたように、わたしの体調は普段どおりに回復していた。
寝息が聞こえてくる。
わたしはその音がする方に視線を向けた。
「あおいくん……?」
わたしが寝ていたベッドに上半身だけを突っ伏して、小さな寝息をたてるあおい君の姿があった。彼の姿を見た瞬間、わたしの記憶にかかっていた霞が晴れていく。
あおい君が来てくれたのだ。わたしにプリントを届けようとしてくれて、その後に倒れそうになったわたしを彼が助けてくれた。
その後もずっと離れずにわたしの看病をしてくれた。
あおい君の作ってくれたおかゆはとっても美味しくて、ずっとずっと面倒を見てくれた。それで疲れてしまったのかもしれない、あおい君はぐっすりと眠っていた。
わたしは身体を起こす。あおい君にそっと手を伸ばした。
『俺がついてるから安心しろ』
彼はそう言ってわたしの頭を優しく撫でてくれた。
いつも優しく差し伸べてくれる大好きな彼の手。
彼の手にそっと触れる。温かい彼の手に触れているとどきどきと胸が高鳴ってくるのを感じていた。こうしているだけで胸がいっぱいになって心が満たされていく。胸の中がぽかぽかと温かくなってくる。
彼がわたしに話しかけてくれたあの日、わたしの中に何かが芽生えた。
初めの頃は学校に行きたくなかった。
勉強も、運動も苦手で、人と話す事も出来ない、友達もいない。
校門の前で立ち止まって、前に進む一歩を踏み出せない事が良くあった。
けれどあおい君がそんなわたしを変えてくれた。
毎日学校に行きたくなって、学校で過ごす日々が楽しくなった。
「起きて……ないよね?」
あおい君はわたしの言葉に反応する様子はなくて、今も小さな寝息をたてている。
いつもは恥ずかしくてわたしは以前にいた異世界の言葉でしか、本当の想いを伝えられなかった。けれどあおい君が寝ている今なら、わたしをずっと看病してくれた今日くらいなら、彼が分かる言葉でこの想いを伝えても――ううん、感謝の想いをちゃんと伝えるべきなんじゃないかと思った。
彼の頭を優しく撫でる。
そしてわたしはその想いを、伝えたかった言葉を口にした。
「今日はありがとう――あおいくん、大好きだよ……」
わたしの元いた世界の言葉じゃなく、初めて彼の知る言葉で想いを口に出来て、急に恥ずかしくなってわたしは毛布を被った。あおい君が起きている時も、今のように面と向かって言葉と想いを伝えられるようになりたい。あおい君ともっと仲良くなりたい。
でもどうしたら仲良くなれるの。
普段は彼にそっけない態度を取ってしまう。
本心を伝えようと思っても、恥ずかしくて異世界の言葉でしか伝えられない。
わたしはカレンダーの日付を見て気付いた。
「文化祭……」
この国では学校に通う生徒達が行う文化祭という行事がある。カレンダーに書かれた赤丸は文化祭の当日を示している。以前にホームルームの時間、クラス委員長の姫月さんが文化祭の話をしたのを聞いて、忘れないようにわたしが印をつけたものだ。
文化祭についてはわたしも知っていた。生徒同士の共同作業を通じて、仲を深める良い機会だという事を教えてもらった。
――あおい君を文芸部に誘って、彼と一緒にお互いの大好きな本を通じて、初めての文化祭を成功させられたら。
そしたらわたしは、ちゃんとこちらの世界の言葉で、この気持ちを言葉にして伝えられるようになるかも――ううん、伝えるんだ。
「決めた……がんばろう!」
明日の学校が待ち遠しくなってくる。
あおい君を文芸部に誘う為に勇気を出そう。まずその為に明日は出来るだけ異世界の言葉を使わない。勇気を出さなきゃ、きっとあおい君への入部届だって渡せられない。
そう決意して、わたしは眠り続けているあおい君を見つめる。
流れていく幸せな時間を――大好きな彼と一緒に過ごすのだった。