19:朝の勉強会
「本当に朝の7時から開いているんだな」
こうして朝早くに学校へ来たのは初めてだった。部活動にだって入っていないから朝練で早く来る事もないし、日直になった時は黒板を消したりの雑務で登校時間はあまり関係ない。朝7時から開いているのを知っていたのは、以前に姫月から教えてもらった事があるからだ。
結局は支度を済ませて学校に着いたのは7時15分。急いできたがこれが限界だ。ここからメアが来るまでに抜き打ちテストの準備もやらないといけない。
メアに教える為にその問題の範囲をまとめて、彼女が来た後にすぐ教えられるようにするつもりだった。
あとは俺の教え方次第なのだが、そこは何とか上手くしよう。こう見えても誰かに何かを教えたりするのは得意なほうなのだ。異世界での旅が俺をそんな立派な人間に成長させてくれた。
靴を履き替えて学校の中へと進んでいくが、誰も通らない廊下に、声も聞こえてこない教室というのはとても新鮮でわくわくとした気持ちになってくる。階段を登り一学年の俺のクラスを目指す。そして教室の扉を開いた瞬間、俺は驚いて思わず声を漏らした。
開けた窓、朝の爽やかな風がカーテンを揺らす。
朝日が差し込む教室の中には彼女の姿があった。
窓辺に立って空を見つめながら、そよ風で揺れる水色の髪をそっとかき上げる。
物静かな少女のその仕草に俺は目を奪われる。それを見た瞬間、自分の胸の奥底で何かが弾けるような感覚を覚えた。鼓動が激しく脈打つ。心臓の音がやけに大きく聞こえてくる。身体が熱い。
夢の中で見るような幻想的で美しい光景がそこにあった。
そして彼女は俺が来た事に気が付いてゆっくりと振り向く。
「え……?」
「あ」
俺達は目を合わせて固まった。
彼女にとって朝誰よりも早く登校してくるのは変わらない日常のはずで、普段なら居るはずもない俺の姿を見て驚くのは当然の事だと言える。では何故俺の方が驚いてしまったのか、その理由はシンプルなものだった。
「雨宮?」
「あおいくん……?」
自分の中ではクラスの誰よりも早く登校してきたつもりだった。けれど先に教室へ来ている生徒がいた、メアだった。
「おはよう、雨宮……」
「お、おはよう」
彼女はたどたどしく小さな声で挨拶を返す。メアも驚いているが俺も驚いている。どうしてメアが一番乗りで教室に来ているのかその理由はどうだとか、色々な事が頭の中でぐるぐると回っていた。
「雨宮って毎日こんな時間に学校へ来てるのか?」
「う、うん……わたしは毎日朝七時に。そっちは今日どうして?」
首を傾げるメア。まあ当然の反応だろうな、普段は絶対こんな時間に登校してこない俺が、今日に限ってはいつも一番乗りなメアの次に登校してきたのだから。
しかし、その理由が今日は数学の抜き打ちテストがあって、そのテストでメアが良い点数を取れるように勇者の力を使ってタイムリープしてきたとは言えず、上手に誤魔化す事で話を進めようと思った。
「いつもは学校に行く前、家で勉強してから登校してくるんだけどさ。今日はなんか朝から学校で勉強してたい気分だったんだよな」
「そうだったんだ」
メアは俺を見つめながら「ゆあべはわあんゆ、ゆるぐ」と口にする。
その内容は『とても頑張り屋さんなんだね、素敵だよ』と今日も朝から異世界の言葉でデレてくる。まあ俺の方は嘘だけど。朝から勉強なんて全くしてないけど。
メアへこうして嘘をつくのに罪悪感を覚えながらも、今日は朝から数学の抜き打ちテストに向けて、彼女にみっちりと勉強を教えてあげる為の行動を開始しなくては。しかし、どう話を切り出すべきなのか、朝早くから彼女が教室に来ているのには理由があるはずで、その理由よりも俺との勉強を優先させるには、彼女を何と説得すべきなのかと考えていた――のだが。
メアは自分の席に座り込むと机の上に教科書とノートを取り出して、俺が言い出さなくとも勉強を始めていた。もしかして……メアが誰よりも早く教室に来ている理由ってこれなのか?
「雨宮って毎日誰よりも早く教室に来ているみたいだけど、もしかして毎日こうして勉強してたのか?」
「うん」
返事をした後に教科書とにらめっこしながらノートの上で鉛筆を走らせる。
驚いた、彼女の真面目さとその努力家ぶりに心底驚いた。俺が知らなかっただけでメアは転校してきてからずっと、こうして毎日朝誰よりも早く教室に来て、一人で頑張っていたのだ。
では何故それが成績に反映されないのか、単純な理由だった。
頑張ってはいるけれど勉強の仕方が悪いのだ。一度に全部を覚えようとしていて、そのやり方には無理がある。きっと彼女は焦っているのだ、転校してきてから周りに追いついこうと必死になっている。
俺は彼女に近寄って勉強する手を止めさせた。
メアは首を傾げて俺の事を見上げている。
「どうしたの?」
「雨宮、もし良かったらさ。俺が教えても良いか?」
「教えても良い……? 勉強を?」
「そうだ。雨宮が頑張っているのは見てて伝わってきたけど、俺ならもっと分かりやすくメアに合わせて教えられるはずなんだ。成績が振るわなくて焦ってそうで、それで毎日朝早く学校に来てまで勉強しているんじゃないか?」
どうやら俺の予想は合っていたらしい。
彼女は小さく頷いていた。
「……うん」
「俺に任せてくれ、雨宮。もし雨宮が頑張りたいっていうんなら、俺は毎日でも朝早く来て勉強に付き合うつもりさ。そうすればテストだって良い点数が取れるようになるし、授業中に当てられてもきっと答えられるようになる。どうだろう?」
その言葉にメアは目をきらきらと輝かせながら俺を見つめる。彼女にとって願ってもない相談だったのかもしれない。成績学年トップの俺が勉強を教えてくれるというのはきっと心強いものだったのだ。
「教えてくれるならお願いしたい……自分でもどう勉強したら良いか分からない、困っていた」
「そうか、力になるよ。一緒に頑張ろう」
本当は今日の抜き打ちテストへの対策を講じる為だけに俺はタイムリープしてきた。けれどその結果、彼女が誰よりも早く学校へ来て一人で勉強をしている事を知った。それを知る良い機会になった。彼女が望むなら勉強であろうと何であろうと力になってみせる。
そう思いながら俺は気付かぬ内に、彼女の両手を握りしめていた。いつから握っていたのか覚えていない。気持ちが強くなりすぎて無意識のままにやっていた。
そして俺に手を握られていたメアの方は、冷たかった彼女の手に俺の手の熱が伝わってほのかに温かくなっていて、さっきまで白かった頬は赤く染まっていた。彼女は目線を俺から逸しながら、薄く開いた口から震えるように弱々しく息を吐いて、小さな声が俺の耳に届いた。
「あおいくん、手……」
「あ!? 雨宮を驚かせるつもりはなかったんだ、すまん!」
慌てて手を離して俺はゆっくりと後ずさった。気分が高揚しすぎて無意識とは言え、とんでもない事をしてしまったと、彼女に危害を与えるつもりはないと両手を上げてみせる。今のでメアを怖がらせてしまったんじゃないかと思っていたが、
「あらゆは……いうはびはぴ、いゆはへまはろ……」
メアは温かくなった自身の手をもじもじとさせながら異世界の言葉で呟いた。
その言葉に今度は俺の体温が急上昇して心臓の鼓動が高くなる。だが悟られるわけにはいかないと平常である事を装った。
俺は慌てる心を落ち着かせながら、自分の机をメアの机にくっつける。
「雨宮、じゃ、じゃあ早速だけど勉強しよう。今日は数学をやらないか? 雨宮に教えたいところがあるんだよ」
「分かった。それじゃあ数学を教えて欲しい」
俺達はくっつけた机で寄り添い合って、朝からの勉強会をスタートさせる。
今日の抜き打ちテストまで時間はある。彼女がちゃんとテストで合格点を取れるように、上手に教えてあげなくては。俺はタイムリープ前に見たテストの範囲を重点的に教えていった。
そしてその勉強をしながら、メアは俺の手を時々見つめる事がある。その度にさっきの言葉を思い出す。
『あなたの手が好き。もっと握っていてくれても良いのに』
異世界の言葉でしか伝えられない彼女の真っ直ぐな気持ちを思い出しながら、平常心を装って勉強を教え続ける俺。メアは俺の教える内容に耳を傾けた。
こうして朝の時間に俺とメアの勉強会が上手く行った事で、今日の数学の抜き打ちテストでメアは無事に合格点を取る。初めてテストで良い成績を取れた事を喜ぶメアを見ているとこっちも嬉しくなってくる。
これからも毎日朝早く学校に来て彼女に勉強を教えよう、昼休みになったら一緒にご飯を食べて、夕方になれば文芸部室で共に本を読む。
そんな彼女と一緒に過ごす充実した毎日が何よりも幸せだと感じ始めていた。