Red Arrow ~紅の護り人~
以前、『ぱろしょ』という投稿サイトに載せていた作品です。そちらが閉鎖されたので、こちらに再掲載させていただきました。お楽しみください。
『序章~遷都~』
「過疎化した土地を元気にしましょう」
「作業員募集」
「住み込みで働けます」
「資格所持者優遇」
こんな呼びかけが、政府の広告という名目で国中に流された。
数年前の大災害で、人々が様々な困難に喘いでいる現状。
動ける者はみんなそこへ向かった。
「急に人が増えたねえ」
「また、宿泊所が建ったよ」
「働き口が増えたのは、良い事だよね」
連なる山脈に囲まれた小さな集落が、どこも人でいっぱいになっていた。
物資を運ぶ為に森が切り拓かれ、大きな車が一日に何百台と通り過ぎていく。
「春日さん大丈夫、身重なんだから無理しないで」
車が通る度に、地震のように揺れる小さな店舗で、おかみさんが若い店員に気を使う。
「うん、これくらい。平気」
迫り出してきた丸いおなかを軽く撫でて、春日さんと呼ばれた女性が笑顔で頷いた。
妙に似合うもんぺ姿に、バンダナの三角巾。
開発現場に一番近いせいか、作業員のおっちゃん達が日に何度も、たくさん訪れる。
彼女は笑顔で良く働いた。
おっちゃん達は、この笑顔も見に来ているのかもしれなかった。
「いらっしゃいませえ」
今日も、元気で明るい声が店内に響く。
「お早う。煙草ちょうだい」
「はいっ。いつものですね」
「俺の弁当あっためて」
「はあい」
おっちゃん達は行儀良くレジに並び、仲間との情報交換も欠かさない。
「この先の峠で、昨日崩落事故だってよ」
「マジか。俺、これから通るんだけど」
「南側に迂回路出来たって聞いたぞ」
そんな話を横で聞きながら、彼女は毎日彼らの無事を祈っていた。
「気をつけてくださいね」
開発は人海戦術で着々と進んだが、深い山はそれでもなお自然を色濃く残し、切り立つ岩山は人を拒んでいるようにも感じた。
数年かけて、ようやく空港が完成すると、建設現場用の宿泊所や売店は順番に撤退していった。
集落は、元通り静かになろうとしていた。
小さな滝の水音と、野鳥の鳴声が森の中に吸い込まれるような、穏やかな時間の流れ。
確かに、誰の、何の為の開発だったのか、詳しい説明は無かった。
そして突然の遷都。
営みを始めた要塞のような山間の大都市。
おとなしいこの国の人々は大きく騒ぐことも無く、大掛かりな引越しもいつの間にか終わっていた。
主要な人々は、連なる山脈に囲まれた森の奥深くに造られた町を『ミヤコ』と名付けた。
当然みたいな顔をして、小型の飛行機が離着陸を繰り返すようになり、ミヤコはすぐに定着したのだった。
『第一章:村の護り人』
「真琴。ちょっといらっしゃい」
要塞都市ミヤコの脇に、もともとあった集落。
若いのにもんぺが似合う春日さんが、彼女に良く似た女の子を呼ぶ。
「なあに、おかあさん」
真琴は、伸び始めた髪の毛を黒いゴムで無造作に束ねながら、母のもとへ走っていく。
「この子、どうしたの」
春日さんの手のひらには、怪我をして動けない雀の雛が乗っていた。
「あっ」
しまった、という判り易い表情の後、真琴は母の顔色を伺いながら説明する。
「こないだの大風の日にね、屋根から落ちてきたの」
上手に隠しておいたはずなんだけどなあ、どうして出てきちゃったんだろう。
「雀のお母さんが呼んでいたからよ」
「え。そうなの」
「ほら、見てごらん」
言われて見上げた家の屋根。
雨どいの端っこに掴まってうろうろしながら、心配そうに雛を呼ぶ親雀の姿があった。
「本当。あそこがおうちなのかな」
「多分ね」
春日さんの手の中で、雛は比較的元気に親雀を呼んでいる。
「元気なうちに、巣に返したほうがいいのだけど」
「オレが行ってこようか」
二人の後ろから、弾んだ声がした。
「あ、紅矢。今来たの」
紅矢と呼ばれた少年は、振り向いた春日さんから雛をさらうと、ひょいと簡単にシャツの中へ落とし入れる。
「畑仕事が一段落したから、休みに来た」
「もう、おなか空いたんだ」
「朝から何も食ってねえからな」
紅矢が着る、土で汚れたTシャツの、おなかの辺りがもぞもぞ動いている。
「じゃあ、それ無事に届けてくれたら、私がお昼作ってあげる」
雛を指差して真琴が言うと、紅矢は首を横に振って笑った。
「嫌だよ。おばさんが作る飯のほうが、うめえもん」
「失礼しちゃうわね」
振り上げた真琴の小さな拳をひらりとかわして、紅矢は屋根を見上げた。
「あそこか」
「そうらしいよ」
「気をつけてね」
片手で雛を抑えながら、紅矢の視線は素早く周囲の環境を確かめる。
「あそこから行けそうだな」
呟きながら歩き出し、屋根に近い一本の木を選んだ。
ほとんど猿みたいな動きで、紅矢はするすると木の幹を駆け上り、突き出た枝から屋根へ飛び移った。
「これでよし」
上から聞こえた紅矢の元気な声に、真琴が母を見て言った。
「すごく簡単な作業に見えるよね」
「……真似しちゃだめよ」
頷く春日さんが一応注意する。
「わかってるって」
笑いながら頷いた真琴が、ふと、空を見上げた。
「紅矢あ」
「んん」
「風が、来るよ」
「りょおかあい」
屋根の上の紅矢にも、西風が塊になって森をの木々を揺らし、音を立てて向かってくるのが目に見えた。
木の葉が舞い散り、土埃に目を閉じる真琴。
適当な場所にしがみついて突風をやり過ごした紅矢が、身軽に降りてきた。
「大丈夫か」
「ん、目に土が入っただけ」
俯く顔を持ち上げて覗き込む、紅矢の整った顔立ちが、最近妙に真琴の胸を締め付ける。
「まったく、白珠もさ、ちょっとは遠慮して吹けよな」
呟いた紅矢の舌先が、不意打ちのように真琴の目尻を舐めた。
「ひゃ、な、何」
「土が付いてた」
自分の舌を手の甲で拭いた紅矢が踵を返す。
「おばさん、何か食い物ある」
「ちょっと早いけど、お昼ごはんにしよっか」
「やった。行こうぜ、真琴」
後ろ手に伸ばした紅矢の手が空を掻いた。
真琴が、両手を胸のところで組み合わせたまま、真剣な顔で空を見上げていた。
黙って傍らで待つ紅矢は極上の番犬だ。
「先、行ってるわね」
満足そうに微笑んだ春日さんが、先に家の中へと戻っていく。
「何か、聞こえたのか」
座卓を挟んだ向かい側に座る真琴に、紅矢が聞いた。
「うん」
おひつの蓋を取った真琴が、手を伸ばして紅矢の茶碗を受け取る。
温めた味噌汁と黄色い沢庵の香り。
「紅矢は、ミヤコに行ったことある」
「ないけど、どうして」
「さっき、しらたまちゃんが言ってたから」
「へえ」
村の神社が祀る風神に、彼女が付けたあだ名が『しらたまちゃん』だった。
気紛れに吹く強い西風に乗っているのか、それが本体なのか、白珠神は時折、真琴に向かって言葉を落として行く。
「何か良くない事が、ミヤコって処で起きるよ。って」
「ふうん」
紅矢は美味しいおかずを口いっぱいほおばり、頷きながら味噌汁を流し込む。
そこへ春日さんが合流した。
「じゃあ、巻き込まれないように、村長さんに言っておかなきゃね」
「うん」
頷く真琴が春日さんのお茶碗を受け取った。
「分かりました、すぐに放送します」
ちょうどミヤコから帰ってきたスーツ姿の若い村長さんが、役場に設置された放送機材に手を伸ばす。
森の奥や山中の畑で仕事をする村人にも聞こえるように、スピーカーは各所に建てられていた。
「あーあー。村長より連絡です……」
のんびりしていた村が、慌ただしく動き出す。
「ちょっと早いけど仕入れに行って来るわ」
「明日納品だったけど、置いてこなきゃ」
「ストック品、多めに買って来て」
「ガソリンは満タンにしておけよ」
村の人々は、天気予報でも聞いたかのように、着々と防災準備を始める。
その翌日、突然吹き始めた強い風は竜巻を起こし、真っ黒な雲が豪雨を降らせ、ミヤコを局地的に襲ったのだった。
要塞と呼ばれる大都市の、ライフラインを切断する規模の大嵐だった。
雲の切れ端は真琴が暮らす村にも雨を降らせたが、予め頑丈な役場に避難していた村人は、全員無事でテレビ画面に釘付けだった。
「舗装路は水を吸わないからねえ」
「あああ。車が水没してる」
「あ。あの店、俺が今日行くはずだったトコ」
「水浸しじゃん」
「北側で土砂崩れだって」
「あっち側は、昔から地盤が弱いんだよなあ」
そこへ村長さんが口を挟んだ。
「例によって、わが村の人的被害はゼロです。真琴ちゃんに感謝ですね」
「ああ、そうだ」
「さすが村の守護者様だ」
一人が室内を見渡して聞く。
「そういえば、真琴ちゃんは」
窓際でお茶をすする春日さんが応えた。
「紅矢と二階に行ったけど」
「おいい。二人きりにして大丈夫かあ」
「大丈夫よ。真琴の相手は白珠様だもの」
「そりゃ、敵わねえなあ」
明るい笑い声が室内に広がり、テレビ画面は相変わらず悲惨な声に劇的な音楽を上乗せして、まるで映画のように騒いでいた。
この遷都は、ひとつの時代の分岐点だった。
富豪層だけを呼び集めて造られたミヤコを、経済的に護られたい下層市民が取り囲む。
しかし度重なる災害は食糧難を呼び、飢餓は新しい伝染病を生み出して、国力は落ちていく一方だった。
すがる者を失った下層市民の心の拠り所が、目には見えない何かに変わっていくのも時間の問題で。
そういう幾つかの選択肢の中から、この村は、代々伝わる慣習とともに生き、静かに滅びゆく道を選んだのだった。
深い山の奥で長い間暮らしてきた彼らが信じるのは、人の生死を直接左右する天候であり、雨雲を運んでくる西風だ。
その風の声が聞こえる守護者の一族を、村の人々は大切に思っている。
『第二章:ミヤコからの使者』
まだ青い朝もやの中を、畑仕事や植林作業に向かう村人が挨拶を交わす。
「お早う。今日はいい仕事が出来そうだねえ」
「嵐で壊れた箇所も、やっと直しに行けるよ」
「そりゃご苦労さん、あとで差し入れ持って行くわ」
「ありがとう。楽しみにしてるよ」
人が入れないほど深い森に囲まれた小さな集落の真上を、飛行機が銀色の腹を見せながら滑空していく。
あの、巨大な機械の轟音と振動に慣れることはきっと不可能だ。
「んん。何だ、ありゃ」
「ヘリだ。珍しいな」
砂塵を巻き上げ、役場のHマークに着陸したヘリコプターから、一人の男性が降りてくる。
太って丸いお腹を突き出して、ふうふう汗を拭い、薄い頭髪はプロペラの風にかき乱されていた。
「お早うございます。どうしました、何か緊急の用事でも」
窓から見ていた若い村長さんは、アポなしの訪問に多少表情を曇らせて外へ出てくる。
二階の村長宅で洗濯物を干しながら、奥さんも不審顔だ。
「私も、こんな朝早くから仕事なんかしたくないんですけどねえ」
黒っぽいスーツの襟に、ミヤコの偉い人であるバッヂを光らせて、男性はいきなり愚痴った。
「上からの命令なんですよ」
ヘリが静かになり、鳥の声が戻る。
「そうですか。まあ、中へどうぞ」
村長さんが役場へ戻っていき、興味半分で見ていた村人もそれぞれの仕事場へ散った。
まだ誰も来ていない閑散とした建物の中で、村長さんの驚いた声が大きく響く。
お茶を用意していた奥さんも、その声にびっくりして給湯室から急ぎ足で出ていった。
「いったい誰から聞いたんですか」
「この村の人でしょう。ミヤコで偉そうに吹聴して回っていたそうですよ」
来客用のソファーに座るミヤコからの使者は、太った身体を窮屈に曲げて、息が漏れる話し方をした。
「お茶です。どうぞ」
奥さんが横からそっと茶托を置くと、客人は顔も向けず手を伸ばし茶をすすった。
「どうかなさったのですか」
心配する奥さんに、村長さんは深く頷きながら、椅子を勧める。
いつも通り、彼のすぐ隣に座る若い奥さんを見て、ミヤコの使者は一瞬、下卑た笑いをその顔に浮かべた。
「この村に伝わる守護者の話を、詳しく聞きたいそうなんだ」
「まあ」
奥さんが軽く笑った。
「子どもを寝かせるための御伽噺ですよ、あれは」
「しかしですねえ」
侮蔑されたと気付いたのか、ミヤコの使者は声色を変えた。
「これは、淡河様からの勅命です。簡単には断れないでしょう」
村の代表である若い夫婦は、押し黙ると顔を見合わせた。
「春日さんに」
困惑を隠して、奥さんが小さく言う。
頷いた村長さんが、早々に切り札を突きつけたミヤコの使者に向き直った。
「昔話に詳しい人がいますので、呼びに行かせます。少しお待ち願えますか」
「分かりました」
なぜか、意地の悪い微笑を口の端に浮かべるミヤコの使者。
朝霧が残る、夏でも涼しい山の朝。
息を乱して土間に飛び込んできた村長の奥さんを、春日さんは驚いて迎えた。
「ただ事じゃありませんね。どうしたんですか」
「淡河様の使者が」
「え」
息を整え、奥さんは細かい説明を始める。
次第に曇る春日さんの表情。
「真琴ちゃんは、今どこに」
「今朝は、紅矢と一緒に上の畑へ行ったのよ」
ものすごく嫌な感覚が、真琴の母親である彼女の胸に渦を巻いた。
「奥さん、お願いがあります」
いつもは開けっ広げで元気な笑顔しか見せない春日さんが、真剣な眼差しで奥さんを見ていた。
「私が先に畑へ行きます。奥さんは戻って、その方が役場から出ないよう配慮していただけますか」
「そ、それだけで」
背筋が寒くなり、奥さんは泣きそうな表情になっていた。
「笑顔でね。お願いします」
おそらく同年代の彼女の肩を軽く叩き、春日さんはしっかり靴を履くと山に向かって走り出す。
その、妙に似合うもんぺ姿を見送って、奥さんは自分を励ますように首を強く振った。
「何だ、お前ら」
紅矢の細い目が見知らぬ相手を睨みつける。
「ひとんちの畑、勝手に踏み込んで荒らすんじゃねえよ」
背後に真琴を庇い、頭の中で逃走経路を探し、少年は吹いてくる風に誰かの足音を聞いた。
「真琴!紅矢……逃げて!」
草深い畑の中で、こう着状態だった大人達と紅矢が、ほとんど同時に反応した。
「来い、真琴」
紅矢の手が真琴の手をしっかりと掴んで走り出す。
慌てて追いかける大人達の隊列が乱れた。
「あっ、痛っ!」
足元はタラの畝。
幹から垂直に伸びる鋭い棘が、土で出来た大地を知らない革靴を貫く。
「うわっ!何だこれは」
縦横無尽に這い回る、赤紫色をした薩摩芋の弦が足首を掴む。
その間に林の中へ消えていった二人の子どもを確かめて、春日さんはほっと息をついた。
「何、あの人達」
足場が悪く、方向感覚を失う山の奥までは、誰もついて来れなかったようだった。
走るのをやめた真琴が、肩で息をしながら聞く。
「知らねえ」
手を繋いだまま、紅矢は厳しい表情だった。
「お母さんの声がしたよね。大丈夫かな」
「それは、大丈夫だ」
前を向き、歩き続ける紅矢の額にも、汗がうっすら光っていた。
「不審者なのに、何で大丈夫って分かるの」
不安が真琴の声を荒げる。
「乱暴なことが出来る人種じゃない、そんなのは見て判る」
歩調を緩め、紅矢が真琴を見下ろした。
「それに、奴らの狙いはおまえだし」
「私」
「ああ。そうだよ」
頷く紅矢の足が止まった。
いつもの隠れ家が見えていた。
「ちょっと待ってろ。中を確かめてくる」
紅矢の手が離れる。
意識していなかった温もりに気付き、真琴は木の陰で、祈るように両手を握り締めて待った。
「誰もいない。しばらく隠れよう」
極太のしめ縄が巻かれた丸い大岩と、一体化したような小さな祠。
何世代も修繕された壁や扉、屋根は苔生して深緑色になっている。
「そういえば、紅矢」
聞こえるのは山鳥の鳴き声、梢を揺らす風の音。
「どうした」
深い深い山の奥、電気も水道も、ここまでは届かない。
ただ、定期的に、車輪を出した飛行機が、銀色の腹を傲慢に突き出して滑空していった。
振動と轟音が鳥のさえずりを掻き消し、枝葉で戯れていたそよ風を吹き飛ばして。
「もうすぐ望月だったね」
真琴の呟きに、紅矢は顔色を変えた。
「そうか。そういうことか」
小さな舌打ちと同時に、固めた拳が土壁を撃つ。
「だから、今、来たのか」
「紅矢。どうしたの」
勢いをつけて振り返り、慣れた様子で祠の中央に座る真琴を見下ろす紅矢。
「おまえ、焔翠玉は」
「持ってるよ」
服の上から大切な御守りを握り締める真琴。
「いつだっけ、満月」
「明後日だけど」
落ち着かない様子の紅矢に首をひねりながら、真琴は心配事を口にする。
「ねえ、紅矢。あの人達の狙いが私ってどういうこと」
「おまえをどっかに連れて行こうとしてた。どっか、じゃねえな。ミヤコだ」
「どうして」
「理由まではわかんねえよ」
「私はどうしたらいいの」
そこで初めて、紅矢がうろうろするのをやめた。
きちんと正座する彼女の前に片膝をつく形でしゃがみ、紅矢は強く言った。
「おまえはここに居ればいい。いつも通り満月をやり過ごして、焔翠玉を元気にすればいいんだ」
何か言いたそうに動いた唇から言葉は出なかった。
静かに頷き、御守りを握り締め、真琴は一日早い祠篭りを開始したのだった。
『第三章;望月ーぼうげつー』
村の守護者、なんて尊敬して呼ばれ、大切にしてもらってはいるが。
真琴自身に何か特別な能力があるわけではない。
この山を守り育むのは、白珠神の名前を持つ西風が運ぶ、季節と天候だ。
村の人々を昔から守っているのは、焔翠玉と呼ばれるきれいで不思議な石だった。
真琴は立って歩くようになってすぐに、白珠神の言葉を拾ったので、焔翠玉を持つ資格者として選ばれた。
それだけだ。
「明日雨が降るよ」
「向こうから強い風が来るよ」
「夜は雪になるね」
真琴の言葉は天気予報と同じだった。
ただし、山の生活でのそれは、時に生死を分ける非常に大切な情報だった。
彼女のおかげで山の畑は豊作で、木こりも猟師も遭難しなくなった。
本当に、それだけだったのに。
「真琴に言っておくことがあるの」
娘に焔翠玉を託したその日、春日さんは真面目な顔で小さな彼女の前に座った。
「この御守りはね、時々元気がなくなっちゃうのよ」
「へえ、そうなの」
その時、真琴はまだ十歳だった。
その石はつるつるした手触りで、ぴかぴかと光っていた。
新しいおもちゃを手に入れた嬉しさで、真琴は何度も手の中で石をひっくり返す。
「その時だけは、お山へ行って、あなたが御守りを守ってあげなくちゃならないの」
「私が、守るの。この石を」
「そう。あなたにしか、出来ないのよ」
真琴の手から石が離れた。
「何か面倒くさいなあ」
座卓の上に無造作に置かれたそのきれいな石を、後ろから誰かがひょいと掴んだ。
「珍しいね。二色の勾玉が組み合わさってる」
立ったまま光に透かし、石の隙間から空を眺める少年。
「え。あなた誰。お母さん、この人何」
慌てて石を取り返して、真琴は自分より少し背の高い彼から距離を取った。
「今日から真琴のお友達よ。紅矢って言うの」
「よろしく」
少年は空いた手を振り、涼しい顔で挨拶する。
社交的というよりは、ふてぶてしい感じがした。
きれいな顔立ちなのに、性格悪そう。
「嫌よ、お母さん。私、男の子苦手だし、お友達とか無理」
全身で拒否する真琴を無視して、紅矢はさっさと座ると春日さんを見上げた。
「おばさん。昨日の握り飯、美味かったです。また、食いたいな」
「そうね。そろそろ夕飯だし、一緒に食べましょう」
「ええ!私は嫌って言ったのに」
野良犬みたいな紅矢は、みんなの畑作業を手伝い、役場のお使いに走り、すぐにこの村に定着した。
働き者で、明るく元気な紅矢を、村の人々はすぐに受け入れた。
しかし真琴は、彼の細い目尻が恐かったし、実は背中で他人を拒否している感じがして、なかなか打ち解けられなかった。
そして、その日は毎月必ずやって来るのだ。
ぼうげつ。
満月の前後三日間。
焔翠玉は力を失い、人智を超えた現象が、村を森に戻そうと動き出す。
見えるものにしか見えない、信じるものにしか理解できない、実体のない何かは、焔翠玉を持つ人間を襲った。
真琴は石を守るために祠に篭り、その祠を、紅矢が守った。
彼はそのためにこの村に来たのだと、春日さんが説明した、事を、真琴は後日人づてに聞くのだが。
「また来たのかよ。滅びねえな、コレ系は」
祠の、閉じた扉の前に立ち、紅矢は蒼白い月光を真上から浴びる。
彼の武器は和弓だった。
漆で紅く染めた長い弓の下方を持ち矢を番える、と、必ず聞こえるこの声。
「戦か、紅矢」
目線は闇から逸らさず、紅矢は待っていたように口角を上げて笑う。
「そうだよ、白珠」
西風が渦を巻き、紅矢の身体に纏わりついた。
「今宵も、楽しめそうだな」
「ああ。頼むよ」
白珠神は彼の放つ矢尻に嬉々として乗ると、暗闇を楽しげに切り裂いていく。
破魔の威力を増した矢は、ミヤコの方角から湧き出てくる何か黒いものに当たり、白く砕け散った。
この時、中の真琴は、まったくの無になる。
何も聞こえない、何も見えない、空腹も感じない。
冷たい石を両手で持ち、祠の真ん中で、眠っているような呼吸を続ける。
今夜も、紅矢は祠とその中身を守り抜き、夜明けの空に安堵した。
月が沈み、太陽が力強い光を届けると、湧き出る黒いものは徐々に力を失い消えていく。
野鳥が目を覚まし、優しく歌い始め、決まった時刻に飛行機が煩く降りていった。
「助かったよ、白珠」
疲れた身体を岩に預けて紅矢が呟くが、返事はない。
「ホント、何なんだろな。白珠って」
日が昇り、紅矢は祠を開けて真琴を外へ出す。
荒行に近い事をしている彼女の足元はふらふらと覚束ない。
そんな真琴の肘を支え、日当たりの良い場所に座らせて、簡素な食事の支度をする紅矢。
「でも、声は聞こえるんでしょう」
温かいお茶を少しずつ胃に入れながら、真琴が微笑んだ。
「私が聞く声と、紅矢が聞いている声って、同じなのかな」
「うーん。どうだろう」
飯ごうで炊いた白飯に大きな梅干、山菜の味噌汁と春日さん手作りの黄色い沢庵。
「思い出そうとすると、風の唸り声みたいになるんだよ」
「まあ、ただの風だしね」
「おまえくらいだろうな、白珠神をただの風呼ばわり出来るの」
「そうかなあ」
太陽は暖かく地面を照らし、真琴は座ったまま大きく伸びをする。
割れない素材の食器類を背負い籠に放り込み、紅矢が誘った。
「明るいうちに、明日の食材でも拾いに行くか」
「うん、お散歩。行きたい」
無邪気な真琴の笑顔に、紅矢も思わず笑みを返す。
たった十五歳の子どもには厳し過ぎる三日間をやり遂げるための、束の間の休息だった。
==========
「申し訳ありません」
「山歩きというものを、した事がありませんでしたので」
血統も能力も、おそらく次期天皇で間違いのないその少年は、椅子に深く座ったまま大人達を見上げていた。
ゆったりと優雅な動きをする上半身は、柔らかな素材を使ったフリル付のシャツに包まれている。
投げ出した長い足のラインをなぞる黒のスラックスは、少し光って見えた。
女性かと見間違えるほど細く優しい輪郭と、日焼けを知らない肌に赤く染まって見える唇。
その美しい唇から、辛らつな言葉が漏れる。
「それで。山奥に逃げられてしまいました、と。それだけをわたくしに言いにきたわけですね。こんな大勢で」
青くなり、冷や汗をかきながら、大人達が平伏する。
「足跡を追ったのですが、道自体が途切れてしまいまして」
「村人は口が堅くて、誰も居場所を言いません」
「もういいです」
少年は叩きつけるように言い放った。
「そんな子どものような言い訳など、誰か一人で来れば充分でしょうに」
細いあごが上がり、少年は瞳の奥を凍らせる。
「責任を負うのが、そんなに嫌なのですね。あなた達大人は」
もう誰も、何も言えなかった。
しばらく黙って宙を見据えていた彼が、ふと立ち上がる。
その動作には音と重さが感じられなかった。
「わたくしが行きましょう」
「ええっ!」
「淡河様がお一人で、でございますか」
様々な思惑に翻弄され、慌てはじめる大人達。
「そうですよ」
薄く笑い、淡河少年はテーブルの上にあった呼び鈴を上品に鳴らした。
「外に出ます。着替えを持ってきてください」
まるで幽霊のように現れた侍従に言い放ち、あとは振り向きもせず自室へ戻る淡河。
後を追うことも出来ずに、大人達は顔を見合わせていた。
『第四章:淡河ーおうごー』
「誰か来る」
西から吹いてきた風に真琴が反応した。
麓の町の水源でもある小さな湧き水で、食器を濯いでいる時だった。
近くをぶらつき、食べられる野草を吟味していた紅矢が顔を上げる。
「まあ、そうだろうな」
「驚かないの」
「今夜で祠篭りはお終いだからな。来るなら今日しかないんだ」
「誰が来るの」
「さあ。そこまでは分からないよ」
風の塊が、真琴の頭を撫でていく。
「何か、嫌だな。恐い」
過ぎ去った風を目で追い、真琴が小さく呟いた。
「大丈夫だ」
紅矢は、背負い籠を肩に担ぎながら真琴の手も引いて立たせる。
「石もおまえも、白珠とオレが守るから」
彼女の顔を見ないように話す紅矢の耳の先が、少し赤くなっていた。
気付かない真琴はそれでも、安心したように彼の手を握り返し、祠のある場所まで戻るのだった。
「あれ。またヘリだ」
「このところ、毎日だね」
「何処へ行くのかなあ」
畑仕事をしていた村人が音に気付いて空を見上げる。
真昼の太陽に照らされた機体は黒っぽく、直ぐには所属が判らない。
珍しく疲弊した表情の春日さんが、洗濯物を取り込んでいる。
この三日間、彼女にも監視が付いていて、子ども達と連絡が取れないでいた。
機動性を重視した小型のヘリコプターは、樹齢何百年という木々の梢すれすれに飛行していく。
春日さんと監視人が、同時に空を見上げてその機体を確認した。
「あっ、いけないっ」
思わず声が出た春日さんは、洗濯物を放り投げて走り出す。
「動いた」
「追いかけろ」
小さな声がしたが、構ってはいられない。
寂れた山村が一瞬騒がしくなった。
低空飛行をするヘリコプターのエンジン音と、人々が走り回る足音と、それらに掻き乱される澄んだ山の空気。
「嘘だろ」
不意打ちに驚く紅矢の初動が遅れた。
プロペラの風圧に、繋いでいた手が離れてしまう。
祠の真上で停止飛行する黒っぽい機体から、機動隊員のような格好をした人物が誰かを抱えて降下していた。
「真琴、山に逃げろ」
「うん」
素直に走り去る気配を背中に感じながら、紅矢は叩きつける小石や巻き上がる土煙から呼吸と目を庇い、降りてくる人物を待った。
「……ガキじゃねえか」
腕の隙間から確かめ、思わず呟く紅矢。
せっかく被っていた帽子を吹き飛ばされ、束ねた長い髪を揉みくちゃにされながらも、淡河少年は優雅に降り立った。
絵に描いたような新品の登山靴、トレッキングパンツにグローブ、ポケットの多いダウンジャケットは白で。
彼が手の甲をちょっと動かすと、機動隊員を収容したヘリコプターはすぐに飛び去った。
静かになった山の中で、紅矢と向き合う淡河。
「こんにちは」
落ちた帽子を拾い、淡河は丁寧に挨拶した。
「少々お尋ねします。この辺りに春日真琴さんという女性がいらっしゃいませんか」
「あんた、誰だ」
牙をむいた野犬を擬人化したら、今の紅矢になるのではないだろうか。
「これは失礼」
淡河は、臆することなく帽子を被り直すと姿勢を正した。
「わたくしは、淡河と申します。名前くらいはご存知でしょう」
驚愕を隠して頷く紅矢。
「ああ。良く知ってるよ」
彼は敵意と警戒を正面からぶつけた。
「本人かどうかは確かめようがないけどな。そんなお方が真琴に何の用だよ」
「そのご様子ですと」
淡河が薄く笑った。
色が白くすらりとした指先で、笑うその口元をそっと隠す。
「あなたは、真琴さんとかなり親しいお友達でいらっしゃるのですね」
「答える義理はねえ」
勝手に萎縮する心を奮い立たせ、紅矢は強く言った。
「ここに真琴は居ない。帰ってくれ」
「今はいらっしゃらなくても」
淡河の話し方はひどくゆっくりで、こちらのペースを奪う。
「日暮れには戻ってこられますよね、ここに」
しめ縄が巻かれた巨大な丸岩を見上げ、淡河は全てを知るような表情で囁いた。
「……必ず」
祠を眺める淡河の横顔に、紅矢の背筋が寒くなる。
「村に、帰ったんじゃないかな」
紅をさしたような淡河の赤い唇を見ながら、言ってみる紅矢。
淡河は視線を紅矢に戻すと、癖のように指先で口元を隠す。
しばらくそのままの姿勢で、彼は黙って紅矢を見つめていた。
「あなたは、嘘がつけない人ですね」
笑う瞳の奥が凍っている。
応えられない紅矢の肩越しに、淡河は何かを見つけたようだった。
「誰かが来たようです」
慌てて振り向いたが遅い。
苔で緑色になった幹の陰から、心配そうな真琴の顔が見えていた。
「真琴さん、ですね」
優雅な仕草と優しい微笑み。
「必ずお会いできると信じておりました」
両腕を広げた淡河が、先に真琴へ向かって歩き出す。
「待て。真琴、そいつは」
一歩遅れた紅矢が大きな声で呼び、走り出す。
どうやって隠れていたのか、背後から突然ヘリコプターの音がした。
意外に素早い淡河の腕が真琴の身体を抱えあげ、二人の身体はあっという間に宙に浮く。
「真琴!……畜生!」
彼女の悲鳴がプロペラの音に消され、駆け出した紅矢は爆風に転がされた。
土を掴んだ拳が地面に叩きつけられる。
吹き飛ばされた時にできた擦り傷から、血が滲んでいた。
「紅矢」
やっと辿り着いた春日さんが、荒い呼吸を整えようとしていた。
「おばさん」
彼女の顔を見たとたん、紅矢の目尻に涙が浮かぶ。
「ごめんなさい……オレ、真琴を守れなかった」
遠のくエンジン音、立ち上がった少年がうな垂れる。
春日さんは腕を伸ばすと、自分の目線より上にある、土まみれの頭をくしゃくしゃと撫でた。
「平気よ。紅矢は元気じゃない。取り返しに行くでしょう」
春日さんは努めて明るく言いながら、少年の顔を覗き込んだ。
「それとも、これきりで諦めちゃうの」
「誰が!」
思わず声を荒げた紅矢は、一度言葉を切り、唇を強く噛みしめた。
「行きます。オレ絶対、真琴を連れて帰ってきます」
==========
その頃、熟練した操縦士が操る小型のヘリコプターは、順調にミヤコに向かっていた。
真琴は、淡河に抱えられたままおとなしく目を伏せている。
三日間の祠篭りで削られた体力で、しかもここは空中、抗うのは無駄だ。
焔翠玉は祠に置いてきてしまった。
これでは白珠神の声も聞こえない。
「おっ、と、危ない」
操縦士の呟きを拾う淡河。
「何か不具合ですか」
気を引き締めながら、操縦士が答える。
「突風です。ミヤコの周囲に時々起こる現象なのですが、予測が不可能で」
悪戯な西風が、真琴を乗せたヘリを揺らす。
伏せていた真琴の目が外を見た。
「右に行って」
「え」
「ヘリを、右の方へ逃がして」
戸惑う操縦士が淡河の顔色を窺う。
「彼女の言うとおりにしてください」
「了解」
最小半径の輪を描いて、黒っぽい機体が旋回する。
その尻を掠めるように、殴りつけるような風の塊が通り過ぎていった。
余波で強く揺れる機体の中で、しばらく無言の時間が流れた。
操縦士も機動隊員も言いたい事は沢山あったが、淡河の前で勝手な発言は許されていない。
同じように無言で真琴を抱える淡河の口元が、薄く笑っていた。
「到着しました」
「そうですね。ありがとう、二人共ご苦労様でした」
真琴の手を引き、優しく立たせる淡河。
「さあ。行きましょう、お姫様」
こんな薄汚れたお姫様が居るものか。
嫌味に聞こえた真琴が淡河を睨むが、動じない彼の柔らかい笑みに、何か逆らえない威厳を感じたのも事実だ。
林立する高層ビルの屋上に降り立った真琴は、遠く周囲を見回す。
「紅矢……」
まだ新しい都市ミヤコを囲むように連なる尾根、深い森に見えるあの一箇所が、彼女の故郷だ。
助けを求める呟きは風が運び去り、背中を押されるようにして彼女は建物の中へ消える。
「いいですか、直に村の子が来ます。彼は非常に大切な物を持っていますので、丁重にお迎えしてください」
迎え出た侍従に言い残して、淡河も建物の中へ入っていった。
『第五章;六十階建ての皇宮』
屋上のヘリポートから高層ビルの中に入ると、真琴の足が止まった。
「どうかなさいましたか」
前を歩いていた案内役の女官が気付いて振り向く。
「あの」
真琴は正直に感想を述べる。
「外側と違って中はすごく和風だなあ、って思って」
彼女はにっこり笑った。
「外見は変わっても皇宮ですから」
「こうぐう、って」
「天皇の御所です」
「じゃあ、さっきの白い上着の人は」
「次期天皇の淡河様です」
「天皇!そんな人が私に何の用なんだろう」
「それについては説明があると思いますので、先にお召し物を変えましょう」
女官は真琴を豪華なエレベーターに乗せ、数階下にある一室へと導いた。
大きく重たい扉の中は、真琴が生まれて初めて見る物で埋め尽くされていた。
来賓用のベッドルームらしいが、完全な洋風で、自分の家くらい広い。
女官は壁際に置かれた巨大な振り子時計を示して、気後れしている真琴に言った。
「一時間後にお迎えに参ります。それまではごゆっくりなさってください」
「あ、ありがとうございます」
丁寧なお辞儀にお礼を返して見送ると、入れ違いに別の女官がやってきた。
「お風呂にご案内します。どうぞこちらへ」
美しく配置された調度品に目を奪われながら、真琴は広すぎる部屋を横切る。
風呂場の作法を聞きながら、壁一面の鏡に映る自分はドブネズミみたいに薄汚れていた。
祠篭りの三日間は風呂に入らない。
食事もろくに取らなかった顔は疲れ果て、やつれている。
「紅矢。早く来て」
悲しい思いになりながら真琴は、絢爛豪華な風呂を汚さないように片隅でシャワーだけを使った。
脱衣所で待ち構えていたのがまた別の女官で、濃紺のワンピースを真琴に着せる。
世の中にはこんな手触りの布があるのか、と驚く真琴の手のひらが、無意識に何度も、服の上を滑っていた。
椅子に座らされ、髪をセットされるのは、七五三の行事以来だ。
「きれいな髪ですね」
今までで一番気さくな感じがするその女官は、真琴の髪を梳きながら誉めた。
「そうですか。ありがとうございます」
真琴は素直に礼を言う。
「痛みがなくて、艶があって。きれいな空気とお食事のおかげかしら」
彼女は楽しそうだった。
「食事って関係あるんですか」
母親手製の漬物を思い出しながら聞き返す真琴。
「髪に良いと言われる食べ物はありますよ」
「へええ」
真琴にも、髪を整えるその時間が一番楽しかった。
気さくな女官が退室して、真琴は少しの間一人ぼっちになる。
広い部屋の隅っこに身を寄せるように窓際の椅子を選び、彼女は開かない窓を見上げていた。
その手が胸元へ伸び、何かを握ろうとしてワンピースの襟を掴む。
「そうだ。焔翠玉、置いてきちゃったんだっけ」
あのきれいな石が力を取り戻すのは明日の朝だ。
「大丈夫かな。村の人達」
あと、一晩。
守らなければならなかったのに。
そんな真琴の気持ちなどお構いなしに、事は進んでいく。
==========
「紫の間でございます」
そう言って通された宴会用のフロアは、思ったよりたくさんの大人達で埋め尽くされていた。
怯えて立ち止まった彼女に、淡河が近付く。
「さあ、こちらへどうぞ。真琴さん」
差し出された手にどう対応してよいか分からない真琴は、黙って淡河の顔を見上げた。
掴まれると意外に骨っぽい、淡河の白くてほっそりとした指。
導かれるまま真琴がフロアの中心へ歩いていくと、周囲の大人達は話をやめてじっと彼女を見つめた。
「こちらへお掛けください」
いつの間にか傍へ来ていた侍従が、絶妙なタイミングで椅子を引き、真琴を座らせる。
長大な机の上に、絵本でしか見たことのないような食べ物らしき品々が色も鮮やかに並んでいた。
美味しそうな匂いに、真琴の腹が正直に反応する。
「大丈夫です。誰にも聞こえてはいません」
恥ずかしさに真っ赤になった真琴の耳元で、淡河の囁き声がした。
はっとして隣を見ると、淡河はすました顔で侍従に何か言いつけている。
「お料理は温かいうちに頂きましょう。お話はその後で構いませんね」
全体を見回した淡河がグラスを掲げてそう言い、彼は返事など待たずにグラスの中身を一口飲んだ。
それが合図のように、穏やかな会食が始まった。
「こちらをお使いください」
戸惑う真琴に、侍従が黒塗りの和箸をそっと渡す。
「ありがとうございます」
どれを使ったら良いのか分からなかった沢山の銀食器。
目の前にあった純白の皿は、いつの間にか前菜が美しく盛られたものに変わっている。
喉がカラカラで、ほとんど一気に飲み干した水のグラスも、魔法みたいに満杯だ。
「真琴様はこちらをどうぞ」
彼女だけに用意されたお粥が朱塗りの椀に入っていた。
この数日、ほとんど絶食状態だった彼女の為に、淡河が用意させたのだ。
「あの」
お礼を言おうと横を見て、真琴は言葉に詰まる。
「淡河と、呼んでください」
「ありがとう。淡河さん……様」
首をかしげた真琴に、淡河は緩慢な笑顔を向けた。
「どちらでも、お好きな呼び方で構いませんよ」
これがただのお粥かと驚く美味しさで、弱った身体が癒される。
「淡河さんって、優しい人だったんですね」
「そう思っていただいて光栄です」
春の景色が降りてきたようなデザートを食べながら、ようやく笑顔になる真琴。
穏やかに微笑み、淡河は紅茶を勧めた。
「お食事が済んだら、少しお散歩をしませんか」
「お散歩、ですか」
「なぜ真琴さんをここへ連れてきたのか、その理由を知っていただくために」
「聞きたいです」
つられて敬語になっている自分を面白く思いながら、真琴は素直に頷いていた。
「では、行きましょう」
真琴の手を引き、淡河は室内を見渡した。
「皆さんはもう少し、ごゆっくりなさっていてください」
ゆったりとした動きで、淡河が少し前を歩いていく。
真琴の後ろからは侍従が一人、影のように付いてきていた。
==========
「ここは松の階といって、皇宮内で最も格式の高い部屋があります。新年祝賀の儀、勲章親授式、朝見の儀、即位礼正殿の儀など重要儀式に使います」
「へ、へえ……そうなんですか」
何を言われているのかさっぱり解らないまま、次のフロアへ。
「ここは竹の階。わたくしの父や母が外国の国家元首・外国政府要人と会見する時に使います」
「外国の……だから洋風なんですね」
そろそろ大きく豪華なエレベーターにも慣れてきた。
「この梅の階では、皇后関係の儀式・行事……母の誕生日をお祝いする時などに使います」
「それだけのために」
「そうですよ」
その他、本来一般人は絶対に入れない天皇・皇后の寝室、居間、書斎などのフロアも案内された。
「これで三分の一程度の紹介が終わりました」
歩き疲れた真琴の手を取って、淡河が顔を覗き込む。
「どうでしょう。わたくしの住まいはお気に召したでしょうか」
「広すぎて、よく分からないんですけど」
握られた手に戸惑いながら、真琴が返す。
「……何か思うことがおありですか」
優しく首を傾ける淡河。
「何だか、とても大切な物がいっぱいある場所なのかなあって」
「そうなのです」
淡河は穏やかに微笑んだ。
「それが伝わったのなら充分です」
「でも、私を連れてきた理由がまだ」
「それは、次のフロアで説明します」
これまでと同じように、エレベーターの扉が音もなく開く。
しかし、そのフロアに足を踏み入れた瞬間、真琴の動きが停まった。
「なに、ここ」
異質な空間だった。
真っ赤に彩られた鳥居が、合わせ鏡に映したように奥へ奥へと林立している。
広いフロアにわざわざ作られた迷路のような細い通路は、侵入者を惑わせる為なのか。
左右から迫る壁は墨色に塗られ、足元に置かれた行燈には何か記号のような印が墨で描かれている。
「ここが、真琴さんに一番関係の深い場所なのです」
立ち止まった真琴を励ますように、淡河が言った。
「私に関係が」
手を引かれ、おそるおそる足を進める真琴。
確かな足取りで奥へと彼女を導く淡河。
頼りない蝋燭の揺らぎは、彼の横顔にも神秘的な陰影を浮かび上がらせていた。
「淡河さん、ここは」
「陰陽寮です」
「おん……」
「真琴さん、あなたは白珠神の声を聞くことが出来るそうですね」
薄暗闇の中で、淡河の声色が変わった気がした。
「あなたの力を貸していただきたいのです。わたくしの大切なミヤコと、この国を護るために」
『第六章:白珠神』
「そんな」
真琴が慌てた。
「私に力なんて無いです。焔翠玉は置いてきちゃったし、しらたまちゃんの声だって」
「聞こえていたではないですか」
淡河が上品に小さく笑った。
「先程ヘリコプターで帰ってきた時、あなたのお陰で事故を回避できたのですよ」
「あれは。その……」
淡河の片手が、最後の鳥居に下げられていた黒いカーテンをさっと引いた。
「わっ、眩しい」
思わず言葉に出るほどの強烈な明かりが、広い室内に満ちていた。
昼の太陽を連れてきたような白い光が、天井全体を光らせている。
その明かりの下で、会食の席にいた大人達が二人を待っていた。
「お待ちしておりました」
「こちらへどうぞ」
その時、入口で離れたはずの侍従がそっと淡河の傍らへ寄り、耳元へ囁くのが見えた。
頷く淡河の優雅な指先が何かを指示する。
再び消えていく侍従を目で追う真琴に、淡河が教えた。
「やっと到着したようです。大切な宝物を持参した、あなたの忠実な番犬が」
「えっ……」
言葉の意味を理解する前に、真琴は待ちかねた声を聞いた。
「真琴!無事か!」
既に懐かしささえ感じる姿。
「紅矢!」
真琴は迷わず紅矢の胸に飛び込み、彼もまたしっかりと彼女を受け止めた。
「良かった……もう帰れないかと思った」
「それはねえよ」
安心感に冷静さを呼び戻されて、紅矢は照れ隠しに腕を伸ばすと、身体を離して真琴を見下ろした。
「怪我はないみたいだな」
「うん。優しい人ばっかりだったよ」
肩の力を抜き、真琴は目尻を指先で拭う。
「それにしても。ここは、何だ」
片腕で彼女を抱えるように立ち、紅矢は周囲を見渡して、最後に、佇む淡河を睨みつけた。
「真琴は返してもらうぞ」
淡河は穏やかに、紅矢の鋭い視線を受け流す。
「落ち着いてください。少しでいいので、お話を聞いていただけませんか」
「は。ふざけんな。人攫いみたいな真似しといて、威張ってんじゃねえよ」
狂犬のように唸る紅矢に周囲の大人達は怯え、少し離れた場所から淡河の指示を待つだけだ。
「待って、紅矢」
服の袖を引き、真琴が見上げる。
「私、まだちゃんと聞いてないの」
「何を」
「私がここに連れてこられた理由」
「そんなもん、別に聞かなくたっていいだろう」
聞く耳を持たない紅矢に、淡河が静かに近付く。
「紅矢さん、でしたね」
「気安く呼んでんじゃねえよ」
真琴の肩を片腕で抱え込んだまま、噛みつく紅矢。
土で汚れたTシャツとぼさぼさの髪が、本物の野犬のようで。
「あなたは、本当に真琴さんを守る気があるのですか」
「当たり前だ」
何を言い出すのかと淡河の顔を見れば、思ったより真剣な眼差しで紅矢を見ている。
「もう、日は落ちたのですよ」
「それがどうした」
言いかけた紅矢がはっと口を閉じた。
「今居る場所が明るいので、勘違いをなさっているようですが」
淡河のすらりと長い腕がフロア全体を示す。
「ここには、夜がありませんから」
言われて天井を見上げる紅矢。
表情を崩さない淡河の話し方は理知的だ。
「擬似太陽と天体模型、陰陽道の極みと最新の科学技術を融合させました」
「よく解らないけど、夜が来ないなら……」
呟く真琴を見て表情を緩め、微笑で頷く淡河。
「そうです。ここに居れば、真琴さんは安全に満月をやり過ごせるのです」
淡河の白い手のひらが、紅矢に向けられた。
「紅矢さんも、今夜はこちらに待機してください」
==========
外界では、本物の満月が、ミヤコを照らしていた。
濃紺の闇を、蒼白い光が切り裂く。
切り取られた影はくっきりとアスファルトに浮かび、その輪郭が幻のように揺らぐ。
「満月の夜に真琴さんを護るのは、紅矢さんにしか出来ない難しいお仕事ですから」
明るく暖かいフロアの中央へ誘いながら、淡河が言う。
「真琴さんはこちらに」
床に描かれた大きな丸。
縁取るようにぎっしりと書き込まれた文字や記号には、特殊な力が込められている。
丸の中央には、座ったらひっくり返りそうなくらい分厚い座布団が置いてあった。
「焔翠玉を渡してください」
急に言われて、紅矢は思わずカーゴパンツの大きなポケットを上から抑えた。
「誰がおまえなんかに。ていうか、どうして持って来たって知ってるんだよ」
少しだけ首を動かして、淡河はその質問を流す。
「わたくしにではありません。真琴さんに、です」
「紅矢、持って来てくれたの」
「……あとで、そっと渡そうと思ってた」
紅矢はしぶしぶポケットに手を突っ込み、周囲の大人達は好奇の目で見守った。
「素晴らしい輝きです」
「何と、神々しい光でしょうか」
「あれが焔翠玉なのですね。初めて見ます」
「しかし、素手で掴むのは如何かと」
「あんな無造作に。汚れた服のポケットなんかに」
真琴の胸元に戻った焔翠玉は、安心したように周囲の光を反射した。
ワンピースの濃紺色が、石の美しさを更に引き立てている。
「祠篭りは今日まででしたね」
「はい」
「その円の中を、あの祠と同じ状態にしてあります」
「え」
「そんなこと、出来んのかよ」
「論より証拠、です。真琴さん、入ってみてください」
「は、はい……」
真琴は焔翠玉を胸元でしっかり握り締めたまま、紅矢の顔を見上げる。
「大丈夫だ。オレがいる」
「……うん」
ぴんと張り詰めた空気。
少し冷たい山の風。
苔むした古い匂いと、穏やかで巨大な丸岩の呼吸。
円の中に入った真琴は、それらを肌で感じた。
真琴の表情が変わる。
豪華な座布団を脇に避け、真琴は床に直接正座すると、両手で石を包むように持って目を閉じた。
「最後の夜が始まりました」
少し緊張感を増した淡河の声は、紅矢にではなく周囲の大人達に向けられる。
「総指揮を彼に一任します。紅矢さんに従い、粗相のないように」
「はい」
「畏まりました」
「お願いしましたよ」
淡河の手が、紅矢の肩に載せられた。
体温を感じない冷たい指先だった。
「あ、あんたは。何処に行くんだよ」
少し不安な紅矢の声。
「わたくしがここに居ても邪魔なだけですから。自室で明朝を待ちます。では失礼します」
呼び止めて何か質問できるような空気を持ち合わせていない後ろ姿に、紅矢は不満たっぷりのしかめっ面を送る。
「あのう……紅矢様」
そう呼ばれて振り向けば、迷える羊達がきれいに整列して指示を待っていた。
「私達は何をすればよろしいでしょうか」
彼らは束帯と呼ばれる正装で立っており、今夜が大切な日であることは理解している様子だ。
「おじさん達は弓とか刀とか、武器持ってないの」
当然のように言い放つ紅矢から目を逸らし、彼らは小さく固まると何やら相談をしている。
「まあ、いいや。はじめから期待してねえし」
畑の土で汚れた白いTシャツ、迷彩柄のカーゴパンツ。
通した櫛が折れそうな、硬くてぼさぼさの髪。
そんな少年が背中にくくり付けてきた漆塗りの和弓は、彼が手に掴むと同時に殺気を孕んで周囲を威圧した。
「真琴……」
床に描かれた丸は、見えない壁を作って他者の侵入を阻んでいる。
岩壁越しに背中で庇ってきた真琴が、今日は見える場所に居た。
「……あんな顔、してたのか」
既に無我の域に居る、穏やかで静かな真琴の顔は、何処かの屏風に描かれた観音様のようで。
「私達の武器といえば、こんな物しかありませんが」
「これでよろしいでしょうか」
真琴を見つめる紅矢の背後から、膝の力が抜けるような情けない声がした。
「何、それ」
「魔除けの護符です」
「私達は護身しか学んでいないので」
「紅矢様は、その弓で戦われるのですね」
「様とか言われても嬉しかねえけどさ」
ため息混じりに紅矢は、皇宮仕えの陰陽師達を眺め回す。
「おじさん達はいつも、こんなとこで何をしているんだ」
見渡す室内は神社のようで、しかし何かの研究室にも見える品揃えだった。
「私達はここで天体や天気を、二十四時間体制で観察しております」
天井からぶら下がって見える立体画像の大きな球体は、地球だったのか。
「異常があればただちに報告することが義務付けられておりまして」
話す機会のなかった特別で難しい仕事を、陰陽師達は若干表情を緩め、口々に説明したがった。
大きな半円形の、銀色のテーブルに載せられた沢山の精密そうな機械。
「他には、新しいミヤコの暦を作ったり、亀甲や筮竹を使用した卜筮(ぼくせい・占い)をおこなったりしています」
示された方を見ると、なるほど本物の亀の甲羅があり、香炉では炎が小さく揺れている。
「それから、相地(地相に現れた吉凶を見ること)も研究対象にしております」
「あああ!」
苛々と紅矢が遮った。
「何言ってるかさっぱり解んねえよ」
その他大勢から意識を戻した紅矢の身体が動いた。
足を肩幅よりやや広く開いて立ち、後ろから押されても重心が動かないくらい腰を安定させる。
上半身はまだリラックスしているのに、その背中から一切の隙がなくなった。
「おお……」
「なんと美しい」
静かに呼吸を整えた紅矢が弓を構えると、大人達は思わずため息を漏らした。
淡河に対して殺気を剥き出しにしていた彼とは、まるで別人だ。
「ここにも来るじゃねえか」
細い目尻の鋭い視線が、北東方向の壁を睨みつけている。
「え」
「まさか。また来たのでしょうか」
束帯で護符を握り締めた大人達にも、それらは見えるようだった。
「また、なのか」
言葉尻に反応した紅矢が聞き返す。
「紅矢様、お助けください」
「あれは以前にもここへ来たことがありまして」
すがり付くような彼らの視線が重たい。
「襲われた者が、生命を落としております」
「死んだのか」
さすがに驚いた。
「はい」
「あいつは知ってるのか。そのこと」
「あいつとは何方のことでしょうか」
「淡河だよ」
苛々と早口になる紅矢は、自分が今ここに居る、本当の理由に気付き始めていた。
「もちろん、ご存知です」
「その者は、淡河様を御守りして犠牲になったのですから」
返事をしない紅矢の右手が空を掴んだ。
弓は、押して引く。
余計な力みは要らない。
彼はいったい、誰から弓の作法を教わったのか。
「あの少年で、本当に大丈夫なのでしょうか」
「しかし淡河様が、彼に従えと仰いましたから」
「ちょっと見てください。前と違いますよ」
「何でしょう。あんなものが来るなんて、聞いていません」
背後の動揺には構っていられない。
紅矢は、分厚い鉄筋コンクリートの壁すら通り抜けるそれらの動きを見守り、待った。
「今夜は趣向が違うようだな、紅矢」
待ちかねた相棒は窓のない室内に小さな竜巻を起こし、デスクに積まれた書類をわざと散らかしてから矢尻に乗った。
固く結ばれていた紅矢の口元が笑う。
「もう、来ないかと思ったよ」
光を纏った破魔の矢が、もぞもぞと黒く蠢いて見える壁に向かって一直線に飛んでいく。
侵入に成功した最初の一体が、その矢をまともに受けた。
嫌な軋み音が耳の奥でかすかに聞こえ、黒く蠢くものは形になる前に消え去る。
「おお」
「凄いです。一撃ですよ」
「浄化が出来るのですか、彼の矢は」
震える両手で護符を握り締めていた大人達が息を吐く。
「まだ、だ」
構えを解かずに紅矢が言った。
「次が来るぞ」
「任せておけ」
白珠の名を持つ西風が矢を強化する。
黒いものは、染みのように点々と壁を汚し、広がりながら室内へと侵入しようと蠢いていた。
「ああ。あんなにいっぱい」
「紅矢様」
恐慌状態の大人達。
振り向かない紅矢が大きな声を出す。
「おじさん達は、自分の身だけ護っていればいいよ!」
紅矢の声は室内に大きく響いたが、丸の中に居る真琴は微動だにしない。
横目でそれを確認した紅矢が薄く笑う。
「油断するな、紅矢。今宵は大物が来るぞ」
白珠が警告した。
「大物って」
「そら。あれだ」
壁の染みが一所に集まり、形になっていく。
「鵺か!」
頭部が猿に似ていて、正面に付いた双眼は人のように見えた。
胴は狸くらいの大きさだが、尾が蛇になっていて、手足は虎のように頑丈だ。
特徴はその鳴声。
まるで人がすすり泣いているような、薄気味の悪い音が広い室内に響いた。
「恐ろしい」
「紅矢様。お助けください」
生まれて初めて聞くその鳴声に、煽られた大人達が一斉に紅矢の周囲に集まってくる。
動き難い束帯、握り締められた護符。
不安のあまり今にも倒れそうな顔色で、紅矢の筋肉質な腕へと必死にすがる。
「ちょ、引っ張んな。狙いが」
耳元で笑うのは白珠。
「人気者だな、紅矢は」
鵺は細々と鳴きながら、しかしその双眼はかなり残虐な光を湛えて、ゆっくりと間合いを詰めてくる。
「おじさん達。わかったから、手は放してくれって」
「もう一体来たぞ」
白珠が警告した。
「早くその矢を放て」
「でも」
ぬるりと壁を越えて、凶暴な猿の顔が現れる。
「わああ。また来た」
「ひいい。助けて」
慌てて振り回した誰かの手が、紅矢の手の甲を打った。
何か言う間もなく、弾かれた矢は明後日の方向へ吹っ飛んでいく。
「くっそ。一番の敵はこのおっさん達じゃないのか」
「仕方がないな。人間は」
少しも待たない白珠が呟き、纏っていた風を脱いだ。
「おお。何だあれは」
「人なのか」
「物の怪の類ではないのか。急に現れたぞ」
護符を握り締め、紅矢に群がる大人達がその姿を認める。
渋柿色の小袖に黒っぽい裃、その手に携える棒は木の枝ではあるまい。
猫か狐を思わせる細面の、高貴で色白な風貌は、淡河に似て見えなくもなかった。
「この姿になるのは久しいが」
音もなく鞘から抜かれた鍔のない細身の刀身が、天井からの照明を反射する。
鵺が明らかに警戒心を高めた。
身を低く、太い足の先に力を込める。
「試し切りだ」
慣れた仕草で鋒を地へ下ろし、無造作に鵺に向かって歩いていく、人の姿をした白珠。
引き摺る草履の音がなく、大人達は紅矢の後ろで、護身の呪文を声高に唱え始めていた。
「少しは心得があるようだな」
皇宮仕えの陰陽師達をちらりと振り返り、動きを鈍くした鵺と向き合う白珠。
「白珠」
「ああ」
紅矢が呼ぶ声に、白珠は片腕に纏っていた風を放り投げ、刀を構えた。
次の瞬間。
殆ど同時に跳ねた二体の鵺が、光る矢と刀の一閃で粉々に霧散した。
「い、一瞬で」
「あんな化け物を」
鋒を汚す黒い霧を、白珠が鋭い腕の一振りで消し去り、弓を背中に戻した紅矢を待つ。
「真琴は無事なようだ」
円の中で無心に祈る真琴を見つめた白珠が呟いた。
「もうすぐ、夜明けだな」
「ああ。良かった」
「とはいえ、まだ油断はするなよ。紅矢」
先刻のような邪魔が入らないとも限らない、と、白珠は大人達を振り向いて薄く笑った。
「紅矢様」
円の淵ぎりぎりまで寄り、真琴の傍に立つ二人に、一人の大人がおずおずと近付く。
「先ほどからこの方を白珠と呼んでおられますが、まさか白珠神のことでは」
「そうだよ」
野良犬のような紅矢が、片足に体重を掛けた、リラックスした姿勢で頷く。
「ご、ご本人様」
「ま、まさか。そのようなことが」
自分の視力の方を疑う大人に、紅矢が追い討ちをかけた。
「だって見ただろ。この人急に現れて、鵺を一斬りだよ。ばっさあ!と」
「い、いや。しかし」
目を合わせられず、人型の白珠神を、下から横から盗み見る大人達。
「信じなくてもいいよ。とりあえず、前みたいに死人が出なくて良かったな」
「は。はい、それはもう。心より感謝致します」
「ありがとうございました」
「これからも、よろしくお願いいたします」
「え」
最後の台詞に紅矢が首を傾けた。
「これからも、って」
「紅矢」
黙っていた白珠が不意に呼んだ。
「んん、どうした白珠」
「夜明けだ」
「ああ。ほんとだ」
広い窓いっぱいに、本物の朝日が射し込み、満たし始めていた。
「淡河といったか」
「え、何が」
「紅矢。気を付けろ」
朝日に掻き消される白珠の姿。
ふと顔を上げた真琴が、小さく微笑む。
その優しい笑顔に吸い込まれていると、背後から氷のような空気が迫ってきた。
「皆さんご無事で何よりです」
「淡河」
「紅矢さん。本当にありがとうございます、焔翠玉は護られました」
柔らかな素材の衣服に包まれた淡河の中身が、剣山の様に棘とげしく感じて、思わず退く紅矢。
気付かない陰陽師達が、口々に己の功績を報告する。
「オレが護ったのは、石じゃない。真琴だ」
扉を開けるように、真琴が立ち上がり円の外へ出てくる。
ふらつく華奢な身体を支え、紅矢はその頭にそっと唇を寄せた。
「お疲れさん」
「ありがと。紅矢」
『第七章;ミヤコを護る者』
広く豪華な客間のど真ん中で、紅矢の怒声が響き渡る。
「焔翠玉を置いていけ、だと」
さらりと受け流す淡河が、細く美しい指先を優雅に動かした。
「現在このミヤコは、歴史にも記されていない程の危機に晒されているのです」
「何言ってるかわかんねえよ」
苛々と歩き回り、困った顔で椅子に座る真琴の傍に戻る紅矢。
「更に困ったことに」
相手の話を聞かない術に長けているのか、淡河は紅矢の怒りを物ともせず話を続ける。
「焔翠玉は、真琴さんの手元にないとその力を発揮しないのです」
「そんなこた、オレの方が良く知ってるよ」
真琴の傍で呆れた声を出す紅矢。
肩を落とし、淡河は小さなため息を床に落とした。
神秘的な、感情が見えない淡河の瞳に見つめられ、真琴は頬を染めて俯くしかない。
「昨夜は大活躍だったようですね、紅矢さんは」
淡河は話す相手を真琴に変えた。
「そう、ですね」
肘掛に載せられた真琴の小さな手が心細くて、紅矢は黙って自分の手を重ねる。
淡河の視線がそこで留まっていることに、気付かない紅矢ではない。
口の端だけで意地悪な笑みを浮かべ、野良犬は唯一の主人に付き従う。
「真琴さん」
噛みつかれない距離感を保ったまま、淡河は真剣な眼差しを真琴に向けた。
「あなたに、ミヤコの守護をお願いしたいのですが」
「私がですか」
戸惑いを隠さずに、真琴は紅矢を見上げる。
「正しく言うとな、焔翠玉の力が欲しいんだよコイツは」
唇を歪めた紅矢が唸る。
「でもこの石には、そんな凄い力なんてないのに」
重なった紅矢の親指を握りしめるようにしながら、真琴が淡河を見上げた。
「知っています」
表情を変えず、淡河は静かに話し続ける。
「焔翠玉はあくまでも媒体です。その聖石を通して繋がるのが、白珠神の名を持つ西風ですね」
「随分と詳しいじゃねえか」
白珠神の名が出た瞬間、紅矢の警戒心が増した。
「白珠神は山村を護る風神、のように言われていますが、わたくしは少し違う見解を持っております」
重なる手に力が入るのを感じた真琴が、不安な表情で紅矢の横顔を見上げる。
「単なる風神などではなく、戦神。スサノオ様なのではないか、と、わたくしは考えているのです」
淡河は、内緒話のように声を潜めた。
鼻で笑い、あごを上げた紅矢が真琴から離れた。
「あいつはそんな凄い神さんじゃねえよ。喧嘩は大好きだけどな」
「お友達のように仰りますね」
淡河の眉が上がる。
「しかし、喧嘩がお好きなら尚更。このミヤコも護っていただけるでしょう」
「どうだかな」
笑った顔のまま、大げさに肩をすくめる紅矢。
「あいつは気紛れだからな」
「紅矢。何か来るよ」
真琴の囁きに、紅矢が身を翻した。
「ここに、か」
「ううん。わかんない」
真琴の声に自信はない。
淡河の瞳が一瞬鋭く細められた。
誰かが何か言う前に、あの侍従が淡河の傍らへ擦り寄っていた。
「忍者みてえ」
興味深く見守る紅矢。
「お入りなさい」
侍従の耳打ちに頷いた淡河が、大きく重厚な扉に視線を向けた。
「淡河様」
「また、顕れました」
昨晩の陰陽師達が数人、真っ青な顔で飛び込んできた。
「まだ昼間ではないですか。とうとう、太陽の位置も関係なくなってしまいましたか」
さすがに厳しい顔つきになった淡河が、真琴に視線を向けた。
「真琴さん。どうか。ご決断ください」
「ああ。私達からもお願いいたします」
「また犠牲者が出てしまう前に」
縋るような、困り果てた声に真琴が固まる。
「何が来たんだよ」
紅矢がその会話に割り込んだ。
「か、カモウゾの類でございます」
覇気に圧されながらも一人が応える。
「じゃ、オレで充分じゃねえか」
振り向いた紅矢は、椅子に座ったままの真琴の頭をわしっと掴んだ。
「ちょっとここで待ってろ。オレが行ってくるから」
「大丈夫なの」
「どってことねえよ」
元気に笑って見せ、窓辺に立て掛けておいた和弓を掴む。
「ほら。行くぞ」
「は、はい」
「よろしくお願いいたします」
立派な大人達をぞろぞろ引き連れて、少年が部屋を出て行く。
その後ろ姿に、満足そうな微笑みをそっと浮かべる淡河。
「大丈夫ですよ、真琴さん」
番犬が居なくなったお姫様にようやく近付くことができた。
「紅矢くんを困らせるような輩ではありません。カモウゾごとき、彼なら一捻りです」
「そうなんですか」
微笑む淡河を見上げ、曖昧に返す真琴。
「紅矢くんは鵺を一閃する程の方です。わたくしは今、万人の兵を得たような安心感を覚えておりますよ」
初めて、淡河が緊張を解したように見えた。
「彼は最高の戦士です。そして真琴さん」
「はい」
「あなたの感知能力。この二つがあればミヤコは安泰です」
肩の力を抜き、心底、安心したように表情を崩している。
淡河の本当の顔が見えた気がして、真琴もまた、知らずに微笑んでいた。
==========
「ああ。紅矢様」
「だあから。様なんか付けても嬉しくねえって」
「あれです、あれ」
「雑魚じゃねえか」
白珠を待つまでもない。
紅矢は、破魔の力を込めて弦を弾く。
「おお。素晴らしい」
「浄化されていきますよ」
「流石です。紅矢様」
「おっさんにモテてもなあ」
すぐに村へ帰るのは無理そうだ、と、真琴から手紙が届いたのはその数日後だ。
春日さんは手紙を握りしめ、山の頂から、霞に煙るミヤコを眺め降ろしていた。
『第八章;西からの侵入者』
重要な来賓、という肩書きで皇宮に入ってから、一週間が経った。
最高級に快適な暮らしに慣れ始めた真琴の表情にも、余裕が生まれていた。
「どうぞ」
ノックの音に返事をしながら、顔を室内に向ける真琴。
環境が人を変え、育てるというのは本当のようだ。
窓辺に佇む彼女から、山村の子というイメージが消え始めている。
「失礼いたします。真琴様」
淡河の侍従が、扉を開けた位置でお辞儀をした。
「淡河様より、夕餉をご一緒したいとのお誘いでございます」
窓から見える景色が、夕闇に染まる時刻。
「わかりました」
「では、一時間後にお迎えに参ります」
再び丁寧なお辞儀の後、去りかけた侍従を真琴が呼び止めた。
「あの」
「はい。何でございましょう」
「紅矢は。まだ帰ってこないの、ですか」
顔を真っ赤に染めて、両手をお腹の辺りでもじもじする。
無表情だった侍従が、ふっと頬を緩めた。
「今なら、陰陽寮にいらっしゃいますよ」
花が咲いたような、と表現したい。
沈んでいた瞳が輝き、顔を上げると同時に背筋まで伸びて、真琴は侍従を見た。
「行ってもいい、のかな」
躊躇いがちな呟き。
「ご案内しましょう」
淡河の前では見せない柔らかさと言葉遣い。
「わあい!」
と、ここが村だったら万歳して叫んでいそうだ。
跳ねるようについてくる真琴を従え、足音を吸収する分厚い絨毯の上を進む。
大きなエレベーターに乗って階下へ。
「だあからあ!そんな甘い考えじゃ駄目なんだって」
連なる鳥居を抜け、最後の暗幕を開けたとたんに聞こえた紅矢の声。
「紅矢」
侍従が入室の挨拶をする前に、走り出す真琴。
机の上に座って講義?をしていた紅矢が振り向いて笑顔になった。
「おう。真琴」
それだけで泣きそうになる。
両手を差し出すと、机から降りて迎えてくれた。
安心する腕に飛び込みながら、紅矢の匂いを胸いっぱいに吸い込む真琴。
「カビ臭い、紅矢」
良く干された布団みたいな、いつもの匂いがしない。
腕を伸ばして身体を離し、真琴は唇を尖らせた。
「失礼だな。そりゃ、物の怪の返り血だ」
Tシャツの肩辺りを自分の鼻で確かめながら紅矢が言い返す。
「自分じゃ感じないけど」
「今日も喧嘩してきたの」
咎めるような言い方に、おじ様達が紅矢を庇い始めた。
「あれは、喧嘩などと軽々しく呼べるものではありませんよ、真琴さん」
「そうですとも。紅矢様がいなかったら私は」
「そうそう。この方なんか、腕を喰われそうになって」
すごく仲良しになっている紅矢と陰陽師達を見比べる真琴。
ふと、彼が村に来た日のことを思い返した。
野良犬みたいな紅矢は、いつの間にか村人に馴染んでいた。
「だから。オレはおっさんにモテても嬉しかねえって」
真琴を抱えて立つ紅矢が、耳の先を染めていた。
「でも、望月でもないのに物の怪が襲ってくるの」
「そうなんだよ」
紅矢が首を曲げた。
「村では望月に真琴を護ってりゃ、それだけで良かったんだけど」
「こちらに来て座りませんか」
陰陽師の最高位にいる、道治さんが声をかけた。
「お茶でも出しましょう」
「あ、はい」
呼ばれて離れた真琴の体温がちょっと淋しい紅矢。
「奴らの狙いが真琴じゃないんだよな」
彼女の隣を陣取り、先に紅矢がお茶をすする。
「私じゃない」
「うん」
「狙われているのは、初めから、私達。陰陽師なのです」
向かい側に座って、道治さんは真琴にもお茶を勧めた。
「お二人がこちらにいらっしゃる前から、その現象はありました」
語り始める道治さん。
「初めは精神攻撃でしたが、徐々に肉体への攻撃が増えまして」
湯飲みを見つめ、ため息がこぼれる。
「つい先日です。死者が出たのは」
沈む気持ちを切り替え、道治さんが顔を上げた。
「淡河様は、紅矢様がミヤコの守護神だと仰っていました」
「オレが」
驚く紅矢。
「真琴じゃないのかよ」
「はい」
行儀良く座る普段着の陰陽師。
他の人は室内に散らばり、日課をこなしている。
「紅矢様の破魔矢が、私達には必要なのです」
「だったら、最初からオレだけ呼べばよかったんじゃないのか」
淡河が軍用ヘリまで飛ばして真琴を攫った理由にはならない。
「それは真琴さんが」
「紅矢」
湯飲みを置いた真琴が顔色を変えた。
「どうした、真琴」
忠実な番犬は、主人の次の言葉を待つ。
「何か、来るよ」
小さく震えた真琴を、紅矢が包むように抱き寄せた。
「ここに向かってるのか」
「うん」
大きく分厚いガラス窓から見えるのは、暮れたばかりの薄闇。
僅かに残った夕陽の残り香が、空の端に追いやられる。
「まだ、遠いけど」
「どうすっかな」
迎撃に出たいが、ここを離れたくもない。
机上に寝かせた和弓を横目に、紅矢が唸った。
「狙いはここの陰陽師達なんだよな」
確かめるように言うと、道治さんが青い顔で頷いた。
「一人、遣いに出ている者がおります」
「何しに」
噛み付くような紅矢の言い方に、道治さんが身を縮めた。
「形代用の木や藁を集めに、朝から出ておりまして」
「もう逢魔時じゃないか。何で一人で外にいるんだよ、護りきれねえよ」
唸る紅矢に、道治さんは不安な声で続けた。
「昼過ぎには戻ってくる予定でしたので、もしかすると」
「ああ」
拳を固めた紅矢が真琴から離れて立ち上がった。
「もう襲われてっかもしれないな」
他の人達にも聞こえていたようで、広いはずの室内に重たい空気が充満する。
「失礼します」
重厚な扉が開いて、空気が動いた。
部外者の声で我に返る陰陽師達。
淡河の侍従が、真琴を迎えに来る時刻だった。
「真琴様。お支度はよろしいでしょうか」
「あ。えっと」
困惑顔の真琴が紅矢を見上げる。
「どうしよう」
「緊急事態だ。今すぐは無理だと淡河に言っとけ」
侍従を追い返した紅矢が和弓を掴んだ。
「真琴。ついて来い」
射るような瞳に縛られる。
「は、はい」
「待ってください」
真琴の手首を掴んだ紅矢を、椅子から腰を浮かせた道治さんが引き止めた。
「真琴さんまで連れ出すのですか」
「だって、相手がどこにいるかオレじゃ判んねえもん」
「しかし、危険ではありませんか」
少し上から、紅矢が強気に笑った。
「オレの傍が、真琴には一番安全な場所だろ」
後は振り向かない二人の背中を隠すように、重厚な扉が閉まる。
「上に行くの」
エレベーターの中で真琴が不思議そうな顔をした。
「外に出るのに」
「ヘリが一番速いだろ」
真琴の手を握ったままの紅矢が返した。
「でも、淡河様いないよ」
「あいつは関係ねえよ」
屋上へ出ると、外気の感覚に真琴の全身が驚いていた。
「そういえば、外に出るの久しぶり」
「そうだな」
淡河ーアイツーが閉じ込めるから、と舌打ちをする紅矢。
ヘリポートに常駐する操縦士を捕まえて、紅矢が真琴を振り返った。
「ここからだったら、どの辺か判るか」
「えっとね。ちょっと待ってて」
真琴が焔翠玉を手のひらに包む。
同時に風向きが変わり、旗が音を立てて強く揺さぶられた。
目を閉じた真琴の横顔が、美しく引き締まって見える。
紅矢は少しの間、いろんなことを忘れて見入っていた。
「あっち」
やがて呟き、指で示す真琴。
「何か目印は」
紅矢が訊ねる。
操縦士は不思議なものを見る目で待っていた。
「高いビルの隙間。青い光」
目を閉じたままの真琴の眉間にしわが寄る。
「ダメ、紅矢」
急に目を開けた真琴が、怯えた顔で紅矢にしがみついた。
「何が、見えた」
そう訊ねる紅矢の喉がカラカラに渇いて、声が擦れる。
彼女の表情から、大体の事情が見えていた。
「もう間に合わないよ。首が」
「首が、ないのか」
震える身体で頷く真琴。
「全く。酷なことをさせるな、紅矢は」
不意に響いた声に、紅矢と真琴が同時に顔を上げた。
「白珠」
「真琴、そのような穢れた物など、見んで良い」
「え。誰」
渋柿色の小袖に黒っぽい裃、その手に携える白木の刀。
猫か狐を思わせる細面の、高貴で色白な風貌。
「あ、そっか。真琴は初めて見るんだな。白珠だよ、真琴」
「え。え。しらたまちゃん!」
焔翠玉が真琴の手の中でふわりと温かくなる。
その石と同じ色をした瞳が、真琴の視線と静かに絡み合った。
「行くぞ、紅矢」
目が合ったのは一瞬だった。
逸らされた視線。
高貴な横顔に淡い微笑みが浮かんでいる。
「私も、一緒に」
健気な真琴の足と声は震えていた。
紅矢と白珠が黙って顔を見合わせる。
「真琴はここで待っておれ」
こちらを見ずに白珠が言った。
「何のかんのと言いながら、ここには強力な結界が張ってある」
「そうなのか」
ばかにしたような紅矢に、頷く白珠も薄く笑い返した。
「私が入れる程度だが」
突然現れた侍風の人間は、操縦士にも見えているらしい。
受け入れがたい出来事に心拍数がかなり上昇している様子だった。
「大丈夫か、渡辺さん。ヘリ飛ばせる」
「だ、大丈夫です。でも、何処へ」
紅矢と話しながら、怯えた目線をそっと白珠に送る操縦士。
「青い光って、何だろう。空から見て青いもの、あっち方向にある」
「青、ですね。飛んでみましょう」
操縦士が支度をする間に、紅矢は真琴の傍に戻った。
「すぐ戻るから。真琴は陰陽のおっさん達のところで待ってろ」
「うん。わかった」
建物の中へ戻った真琴を見届けて、ヘリが飛び立つ。
「あれですね」
直ぐに目標物が見えた。
比較的高いビル群の隙間に、青い電飾で発光する看板があった。
「あの下か」
「ビルの屋上に降ります。許可を取るので少しお待ちください」
無線で連絡を取り始めた操縦士の後ろで、白珠が背筋を伸ばして鎮座している。
面白く感じながら、紅矢が訊いた。
「何を考えてる、白珠」
「窮屈な乗り物だ。座が硬い。音も煩い」
声を上げて笑う紅矢に、操縦士が伝えた。
「許可が下りました。ただ、長時間の待機が」
「ああ、いいよ。帰りは歩くから」
ありがとう、と操縦士の肩を叩き、刀を持った侍と和弓を背負う少年が降りていく。
時代錯誤な違和感を胸に、ヘリコプターは皇宮へと戻っていった。
「で、相手は何。首を取るなんて、侍か」
「笑い般若だ。女子の姿をしているはずだ」
ビルの隙間に冷たい夜風が強く吹き込む。
道行く人が見当たらず、地上は暗く静かだった。
「赤子の首を好むと聞いていたが」
「あれか」
ビルとビルの隙間。
黒い陰になった地面に、こんもりと白っぽい塊がうつ伏せていた。
「気を付けろ、紅矢」
「わかってる」
こういう狭い場所で弓は不利だ。
至近距離から襲われたら紅矢に闘うすべはない。
警戒しながら細い路地に入っていく。
「間違いなく、皇宮仕えの陰陽師だな」
白珠が立ったまま呟いた。
黒い袴、白の狩衣、その上にあるべき頭部が無い。
「迎えを寄越さなきゃいけないな」
気持ち悪さに耐える紅矢が周囲を見回したその先に、一人の女性が立っていた。
こんな近くなのに、姿を認めるまで気配すら感じなかった。
長い髪は手入れをしないまま荒れ放題、乱れた服装の肩口がずり落ちて見える肌が夜目にも青白い。
狂気を含んで顔に張り付いた笑顔。
何よりも、その手が抱える、血に塗れた人間の頭部。
「やべえ」
呟いた紅矢が思い切り跳ねて距離を取った。
弓を手に跳び、足が地に着くと同時に矢を番えたが、音もなく接近してくる速度が尋常ではなかった。
「紅矢」
白珠が、斬るように短く叫んだ。
「放て」
金縛りを解く白珠の声。
反射的に放たれた矢は、金色の光に包まれて、風の唸りを上げながら真っ直ぐ飛んでいく。
獣の咆哮に似た叫び声が、ビルの谷に吸い込まれた。
嫌な重たい音がして、人間の頭部が地面に転がる。
「こ……の国を……護……」
笑い続ける般若の顔が、霧状に変化して消えていく。
放心して弓を構えたままの紅矢に、白珠が近付き肩に触れた。
「やはり、人型は心臓に悪いか」
頷く紅矢が、白珠の淡い微笑を見て全身の力を抜いた。
「人型なんて初めて見たよ。人の言葉を喋ったし」
「そうだな」
物の怪が消えた場所を見つめながら、白珠が口を閉じる。
「どうかしたのか」
「いや」
首を振り、細面の侍は抜いていた刀を鞘に収めた。
「ただ、少し気になった」
遺体はその後、皇宮関係者が処理したようで、噂にもならなかった。
しかし、陰陽師が狙われる事件はなくなるどころか、そこから一気に回数を増やす。
紅矢は連日ミヤコを飛び回り、白珠と共に次々沸き出る物の怪を退治し続けた。
「紅矢様」
昼寝で連戦の疲れを癒していた紅矢の元へ、また陰陽師が駆け込んでくる。
「今度は何だ」
皇宮に寝所を持たない彼は、ミヤコの一角に部屋を借りていた。
「道治さんが襲われました」
「まじか」
飛び起きる紅矢。
「最高位だろ、あの人」
言いながら身支度を整える。
「もう、どうして良いのか」
混乱して泣き出す彼を叱咤して、弓を背中に部屋を飛び出た。
「相手は」
「蜘蛛のようですが、私達には姿すら見えなくて」
今では常に傍に居る白珠が呟いた。
「大蜘蛛だ、紅矢。奴は姿を消して移動するぞ」
「面倒だな」
舌打ちをした紅矢に、白珠が鋭い声をかける。
「紅矢、急ぎ陰陽寮へ向かえ。真琴が危ない」
人工的な森に囲まれた60階建ての皇宮へ向けて紅矢が走る。
背中の弓が激しく揺れた。
「真琴!」
力強い大声が室内に響き渡った。
「紅矢!道治さんが」
真琴を護るように抱え込んでいた道治さんの意識は、もうない。
耳に届く彼女の泣き声に、紅矢の頭でかちりと何かが外れる音がした。
研ぎ澄ませた紅矢の聴覚が、壁を這う足音を捉える。
「この野郎!」
視覚的には何の反応も無い壁に向かって、紅矢が矢を放った。
白珠が嬉々として乗り込むのが見えた。
竹林を強風が揺するような轟音がして、大蜘蛛が姿を現す。
「出たな、クソ妖怪が」
音を立てて壁から落ちた大蜘蛛の頭胸部に、しっかりと矢が刺さっていた。
二列に並んだ八つの目の総てに、弓を構える紅矢が映る。
「もう一度頭部を狙え」
囁くように言った白珠が刀を抜き、音のしない摺り足で紅矢の前に出た。
「ちょ、それじゃ、邪魔だって」
矢を向けた紅矢が焦った声を出した。
大蜘蛛と紅矢の間に、白珠が立つ恰好になる。
「紅矢。私は右へ薙ぎ払うぞ」
「は。おい、ちょ」
刃が煌めいた。
僅か左へ傾く白珠の、肩口すれすれを掠めるように矢を放つ紅矢。
また、木々を揺さぶる音がした。
八つの目が刀で刻まれ、頭胸部からは大蜘蛛の脳が飛び出す。
もの凄い切れ味と速度を見せて、次々と八本の足を切り落としていく白珠の剣術。
それらが総て霧になり、禍々しい空気が浄化されていく。
「無事か、真琴」
駆け寄った紅矢の足元に、変わり果てた道治さんが倒れ込んだ。
全身の血が吸われ、ところどころ皮膚が剥げ落ちている。
「道治さん」
思わず抱き止める紅矢。
「見るな、真琴」
羽織の袖が真琴の視界を遮り、白珠はそのままふわりと彼女を包みこむ。
「しらたまちゃん……」
白珠の羽織から、山で嗅ぐ西風の匂いがした。
懐かしさと同時に春日さんの笑顔が浮かび、真琴は袖にしがみつくと強く目を閉じる。
「お母さん、恐いよ……助けて」
焔翠玉が、真琴の胸元で何かの光を反射した。
暖かい空気が白珠と真琴を包み込み、周囲を巻き込んでいく。
「……うう」
「生きてる。道治さん!」
支える紅矢の腕の中で一命を取り止め、緊急入院した道治さんは、数日後には陰陽寮に戻っていた。
「普通では考えられないと、お医者様に言われました」
真っ白な包帯でぐるぐる巻きにされながらも、道治さんは開いている方の目で笑う。
「全てが、あなたのお陰です。有難う御座います」
一瞬真顔になった道治さんは、車椅子に座った姿勢で深く頭を下げた。
「いや、違うよ。それは、俺じゃなくて」
耳を染めて照れる紅矢の隣で、涙を浮かべる真琴。
「ごめんなさい、道治さん。私を庇ったからそんな目に」
膝をつく彼女の頭に、道治さんは慈悲深い手のひらをそっと載せた。
「あなたが無事で、本当に良かったですよ。真琴さん」
少し離れた場所でその光景を見ていた白珠が、紅矢を呼んだ。
「紅矢。少し話がしたい」
「何だよ改まって」
細面で色白な青年剣士は、背筋を真っ直ぐ伸ばしたまま視線だけを向けた。
「真琴」
「はいっ」
急に呼ばれて顔を染め、真琴は急いで傍へ走り寄る。
「そなたの寝所を借りるがよろしいか」
意味が解らず戸惑う真琴に、紅矢が説明した。
「内緒話がしたいんだってさ。一緒に来いよ」
「うん。わかった」
連れ立って陰陽寮を出て行く紅矢と真琴を見送りながら、陰陽師達が会話していた。
「また、誰かと話している様子でしたね」
「私には見えませんが、白珠神がいらっしゃるのでしょう」
「病室にも、いらっしゃったんですよ」
道治さんが穏やかに微笑んだ。
「本当ですか」
「はい。温かな風に包まれた感じがしました」
包帯だらけの腕を擦りながら、道治さんは嬉しそうだった。
「これでミヤコは安泰です。白珠神の加護が受けられるのですから」
安心のため息が、数ヶ月ぶりに陰陽寮を満たしていた。
==========
「で。何だよ、白珠」
広すぎる真琴の部屋で、紅矢は一番大きなソファを選んだ。
その向かい側に真琴を座らせ、白珠は窓際に立つ。
「先日の女子が遺した言葉を覚えているか、紅矢」
「何か言ってたっけ」
寛ぐ姿勢の紅矢。
「やはり聞こえていなかったか」
無表情に見える白珠の端整な横顔を、黙って見守る真琴。
感情が読めないのは淡河と似ているが、決定的に違う何かがある。
「この国を護ると呟いていた。あるいは、護りたい、と」
「だって、襲ってきてるのは奴らじゃねえか」
呆れた、と言いたい仕草で、紅矢はソファの上でひっくり返る。
「人間を滅ぼして、物の怪だけの国を造りたいのか」
天井を見上げて大きく伸びをする紅矢の瞳が光った。
「そうはいくか、っての」
「いや。そうではないらしい」
窓から見渡せるミヤコは霧にうっすらと煙っている。
「何か知ってる言い方だな、白珠」
それには応えず、白珠は二人の幼い人間を振り返った。
「確かめたい事があるのだが、紅矢」
「何だよ」
身体を起こす紅矢が厳しい顔つきになっていた。
真琴は黙って二人の会話を聞いている。
「真琴を連れ出すことは出来ないだろうか」
「……おまえが直接淡河に頼んだら」
白珠はカミサマだ。
神に人間の常識や善悪なんかが、通用するわけがない。
今、白珠がやろうとしていることが、人間の為なのかは解らないのだ。
「淡河に逢うことは適わぬ」
きっぱりと言い放つ白珠。
「何で」
喧嘩を売るときの勢いそのままに、紅矢が窓辺の白珠に近寄った。
「今、わたしが縛られるわけにはいかないだろう」
「縛られる。そんなこと出来るのか、淡河って」
「彼は真の天皇継承者。神器により八百万の神々と契約し、使役できる力を持っている」
固めた拳から力を抜いて、紅矢は半分納得していた。
柔和に見える微笑みの裏から見え隠れする、本物の威圧感、氷山のように冷たく強い力。
「だったら。淡河がミヤコを護ればいいじゃないか」
「彼が護るのはこの島国の行く先だ」
白珠が語る。
「一時の闘いで血の継承を失うわけにはいくまいよ」
「で、俺達が噛ませ犬ってわけか」
苛々と吐き捨てる紅矢。
「じゃ何で、白珠はオレ達と一緒にいるんだよ」
悔しさに歪んだ表情で、紅矢が白珠に噛み付く。
「捨て駒を助けたって意味ないじゃないか」
「わたしは」
白珠は言いかけて一旦言葉を切り、真琴の方をちらりと見た。
「この島国そのものに興味はない。過去も未来も、どうでも良いことだ」
「そうだよな。オレ達の一生だって、あんたには一瞬なんだろ」
胸の奥が苦しかった。
ちっぽけな自分、どうにも出来ない強大な相手。
圧し掛かる見えない何か。
「しかし、真琴は」
急に名前を呼ばれて、真琴の背中がぴんと張った。
「わ、私」
緊張した両手が無意識に胸元の焔翠玉に触れる。
「真琴はわたしの声を拾ってくれた」
無表情に見えていた白珠の瞳に感情が灯り、直ぐに消えた。
「言葉を交わせる人間は数少ない。言葉が通じれば、大切に扱おうという気にもなろう」
紅矢の脳裏に、笑い般若の恐ろしくも儚い形相が浮かんだ。
あの時番えた矢を放てなかったのは、彼女が人語を操ったからだ。
物の怪ではなく、人として認識したから。
「少し、解る」
深く吸った息を長く吐いて、紅矢は踵を返すとソファに戻った。
今度は寝転がらずに、姿勢を正して白珠を見ながら紅矢が言った。
「……真琴と一緒に行く先は」
「王御嶽」
『第九章;マヨヒガ』
「王御嶽、って、御嶽山のことだよな」
「今はそう呼ぶのか」
窓の外に視線を向ける白珠につられて、紅矢も外を見る。
立ち上がった真琴が、窓枠にしがみつくようにしてその景色を確かめた。
「あそこに見える中で、一番高い峰がそうだ」
腕を上げて指し示す白珠の手の甲が、陶磁器のように滑らかで繊細だった。
「てっぺんが、雪だね」
真琴が呟く。
「そうだな」
僅かに頷く白珠が、傍に佇む真琴を見下ろした。
触れれば折れそうに細い首筋、肌理の細かい柔肌。
「人には寒いだろうな」
「私、自分の服なんてひとつも持ってきてないよ」
困ったように真琴が振り向いた。
目が合った紅矢は少し考える。
「オレが村まで取りに帰ってもいいんだけど」
「監視者に覚られると淡河が動くな」
「そうなんだよ」
再びソファに身体を沈めた紅矢が深く考え込む。
白珠の手が、見守る真琴の背中をそっと押した。
「春日に持参させよう。そなたはここでしばし待て」
「えっ。お母さんに!会えるの!」
「いや、それは叶わぬ」
真琴を椅子に座らせ、白珠は風に戻る。
「いいなあ」
開かない窓を物ともせずに通り抜けていった西風を見送って、真琴が呟いた。
==========
「春日よ」
春日さんは、野良仕事で汚れた長靴を、土間の水場で洗っていた。
確かに開けっ広げな造りの日本家屋ではあったが。
「わあ!驚いた」
土間の出入り口からひょいと顔を覗かせたのは、白っぽい毛色の猪だった。
一目見ただけでは犬かと思う。
「もしかして、しらたまちゃん」
いつものもんぺに、下駄サンダル。
尻餅をついたままの姿勢で、春日さんは猪に話しかけた。
「事が動く。それを知らせに来た」
猪は、時々瞬きをしながら、静かに佇んでいる。
「そうですか。やっぱり、避けられなかったのね」
「これは最早、運命という言葉で表すしかない」
遷都の時期と場所。
真琴の誕生。
村に流れ着いた、紅矢という少年。
「真琴は、元気ですか」
人間の母親という役が長過ぎたのか、春日さんはそんなことを訊いた。
剥製のように動きを止めた猪はやがて、小さな尻尾を振る。
「ああ、元気にしている」
幼い頃から村の守護者として扱われ、大人達の中で育った真琴。
狭い村の環境、数少ない人間関係、代々続く歴史。
周囲の人に気を遣い、子供らしい我儘などほとんど言わなかった。
「愛されて、いますか」
真っ直ぐに見つめる春日さんを見返して、白珠が強く頷いていた。
「それだけは、確かだ。心配は要らない」
安心した、淋しい微笑みは、いつも明るく元気な春日さんとは別人の表情だった。
==========
「紅矢」
仮宿に戻っていた紅矢は、寝転がっていた畳から跳ね起きた。
「うわあ!びっくりした」
相手を確かめ、和弓に伸ばしていた手を引っ込める。
「何だ、おばさんか」
勝手に上がりこんだ春日さんは、部屋の中央に立ったまま鼻を鳴らした。
「物の怪臭いわね。相当闘ったんでしょ」
胡坐をかき、疲れたように頷く紅矢。
「うん、殆ど毎日だ。数え切れないよ」
「疲れたわねえ。紅矢も、弓も」
子犬をあやすように、春日さんは紅矢の頭をぽんぽんと軽く叩く。
少しの間、目を細めてなすがままだった紅矢は、やがて目を開けて春日さんを見た。
「随分、いろいろ持ってきたね」
「そうよ」
腰に手を当てて、疲れたような素振りを見せる春日さん。
「真琴の防寒着に、山歩き用の靴でしょ。サバイバル・ナイフと、これはランタン」
「そんな物、必要かな」
降ろされたリュックサックから次々と出てくる面白道具に、目を輝かせる紅矢。
膝でにじり寄り、興味津々バッグの中を覗きこむ。
「真琴はか弱い女の子なのよ」
こんな装備じゃ足りないくらいだ、と、春日さんの怒りの矛先は白珠神へ向かう。
「今直ぐ、これから標高3000mの登山。とか、ばっかじゃないの!」
「オレに言われても」
困って頭を掻く紅矢は、直ぐに顔を上げると強く言った。
「でも、オレがついてるからさ。大丈夫、真琴はオレが絶対護るから」
「ありがとう。紅矢はほんとにいい子だわ」
また頭を撫でられて嬉しい紅矢。
お母さんの手のひら、ってのは、こんなにも癒されて優しいものなのだ。
春日さんは差し入れのお握りと沢庵を、紅矢と一緒に食べて帰っていく。
「これは真琴に」
「へえ、御守だね」
春日さんのもんぺと同じ生地で作られた手作りの御守だった。
==========
「お母さんに会ったのね」
御守を渡しに行った紅矢に、真琴は勢いよく抱きついた。
「な、何だよ」
驚きながらも受け止めて、紅矢は彼女の涙に気付いた。
「お母さんの匂いがする」
若干伸び放題の紅矢の髪に顔を埋めて、真琴は静かに泣いた。
戸惑っていた紅矢の腕が、意を決したようにしっかりと彼女の背中に回される。
こうやって腕の中に閉じ込めると、何て小さい身体なのかと改めて感じた。
そして、後戻りできないほど惹かれていく心を止められなくなる。
「真琴」
いつか来る別れが悲し過ぎないように、距離を取っていたつもりだった。
「ん」
伝わる温もりに安心して、乾いていく真琴の頬。
「おまえのことは、オレが絶対護るから」
柔らかな髪に唇を寄せて囁きながら、紅矢の目は違う所を見ていた。
いつの間に入ってきたのか、人の姿に戻った白珠が窓辺で佇んでいた。
「あんたにも」
感情剥き出しの燃える瞳で、紅矢が白珠に宣戦布告をしていた。
「真琴は渡さないからな」
何も言わない白珠の、静かな湖面のような瞳が、紅矢と真琴を眺めていた。
==========
皇宮から抜け出す作業は、非常に簡単だった。
「陰陽寮からの依頼で調査に出る」
紅矢の言葉を疑いもしない操縦士の渡辺さんは、喜んでヘリを飛ばしてくれた。
「お気をつけて」
「ありがとう。行ってくるよ」
別れ際、真琴が口走る。
「ごめんね、渡辺さん」
疑問符を頭上に浮かべる彼を放置して、紅矢は急いで真琴の手を引いた。
修験者の山として有名なそこは、常に多くの登山客が訪ねてくるような超・有名観光スポットでもあった。
自然を色濃く残す広大な中腹が、険しい地形と深い森できっぱりと人を拒んでいる。
その中で、四足歩行の動物達だけが知っているような、穢れない絶景が展開されていた。
「これも、壊されてるね」
修行僧が建てたのか、小さな祠は山の至るところに在った。
風化してただの丸い石となった菩薩像が横倒しになっている。
獣道を歩きながら、紅矢は真琴の手をしっかりと握っていた。
「古いせいもあるだろうけど、これなんかは、明らかに誰かが壊してるよな」
背の高い雑草に埋もれた、大きめの噴石に気を付けながら進む紅矢。
「誰か来るよ」
急に真琴の足が止まり、緑に染まる前方を見つめた。
「間違いなく、人じゃねえよな」
こんな場所に、と周囲を見上げれば、野性の強い鳥達が、すぐ前の枝から二人を見下ろしていた。
甲高く、脅かすような鳴き声が響き、底知れない森の奥へと吸い込まれていく。
それが合図のように目の前の茂みが揺れ、小さく震えた真琴の手は胸元の焔翠玉を握った。
「お待ちしておりました。真琴様、紅矢様」
言いながら丁寧にお辞儀をする、人に見える何か。
翁の面を被って、薄い水色の衣を纏った小さな人型が姿を見せた。
「あ、あ、あの」
返事に詰まって紅矢を見上げる真琴。
「待ってた、って」
真琴を背中に庇いながら、紅矢の肩に力が入る。
「はい」
頷く翁の、面に開いた二つの穴からは意思を感じない。
「仲間をいっぱい消したオレ達を、殺すためか」
紅矢は背負っていた弓を手に持ち直し、いつでも動けるようにした。
「いいえ」
今度は面が横に揺れる。
のんびりした動作は、風に身を任せる風鈴のようで。
「助けて欲しいのです」
「は……」
思いもしない相手の言葉は聞き逃すことが多い。
「誰が、誰を」
「否、もう来たか。伏せて下さい、お二方」
翁の口調と動きが変わった。
言われるままに地面へと身を屈める二人。
その頭上を掠めるように、黒っぽい何者かが飛び越えていく。
「何だ、ありゃ」
屈んだ体の中に真琴を包むようにして、紅矢が顔を上げて確かめた。
「天狗さんかな」
翁の面を投げ捨てた人型は、二倍もの大きさになって空中へ浮かんだ。
背中には大きな羽、赤い顔、長い鼻。
そして、天狗に襲いかかる相手にも、黒い翼が生えていた。
「Die、 he、 and jast!」
鋭い爪、尖った牙、早口に叫ばれた音声は聞き取れる言語ではなく。
「な、何。今何て言った、あの黒いの」
動揺する紅矢の、腹の下から真琴。
「悪口、言ってる」
「真琴は解るのか」
「何となくだけど。あっち行け、って」
「追い払いたい、だけには見えないけどな」
戦場が空へ移り、二人は立ち上がって見守った。
ふと、思いついた紅矢が、弓を構え、矢を番える。
弦を引きながら、空中でぶつかり合う水色と黒い者に狙いを定めた。
「大丈夫なの、紅矢」
間断ない接近戦を繰り広げる水色と黒。
「当たった方の逆側が、オレ達の味方になる、って寸法だな」
「なにそれ」
呆れる真琴の手の中で、焔翠玉が怒ったように煌めいた。
「助けて、って言ったのは天狗さんだよ」
「あんな素早く動かれちゃ、いくら弓の名手でも」
紅矢の指が滑った。
「あ」
快晴の空へ向けて、破魔の矢が元気よく飛んでいく。
声も出せずに見守る真琴。
西風が吹いた。
自動車事故みたいな音が森に響いて、すぐに山は静かになった。
「しらたまちゃんの気配」
真琴が周囲を見回す。
「あいつ、余計なこと」
弓を背中に戻す紅矢が、別の気配に顔を上げた。
「ありがとうございます、紅矢様」
水色の衣を着た天狗が、かなり上の方から子供達を見下ろしていた。
「でっけえなあ」
「おうちの二階に届きそうだね」
炎を映した赤い瞳が、笑ったように感じた。
教えられたとおりに獣道を進んでいくと、その建物はあった。
「迷い家ーまよひがー!すごおい、本物なの」
「普通は迷子が辿り着く場所なんだけどな」
細長い平屋、純・日本家屋。
程よく手入れされた庭先には、四季の草花が咲き揃い。
開け放しの玄関から外へ流れ出る、ご馳走のいい匂い。
「味噌鍋だな」
鼻を動かす紅矢が目を細めた。
屋敷中に灯された、行燈の柔らかな明かり。
水場に下げられた手ぬぐいが微風に揺れる。
つい今まで、そこに誰かが居たような雰囲気で、囲炉裏端にはお茶の用意がしてある。
「あったかいね」
隅まで掃除の行き届いた畳部屋に上がり、真琴がほっと息をついた。
古めかしいが、磨かれて艶々と光る調度品。
格子窓の向こうから、牛と鶏の鳴き声が聞こえてくる。
しかし見事に、人の姿だけが無かった。
「紅矢見て。お茶菓子もあるよ」
「よし、食おう」
囲炉裏端に向かい合って座り、山歩きで疲れた足を擦る。
置いてあった赤い座布団も、綿が新しくふかふかだ。
「おうちに帰ってきたみたい」
きょろきょろと明るい家の中を見回しながら、真琴が言った。
「ああ」
お菓子を口に頬張りながら頷く紅矢。
「その辺から、ひょいとおばさんが顔を出しそうだ」
「……そうだといいのにな」
真琴の淋しい呟きに、自分の無神経を呪う紅矢。
「ごめん」
独り言よりも小さな謝罪が、彼女に届いたかどうか。
やがて廊下を歩く軋み音が聞こえて、先程の天狗が姿を現した。
「先刻は、神業ともいえる見事な弓矢のお陰で助かりました」
2mはありそうな、大きな天狗が、きちんと正座して頭を下げる。
「いやあ、あれは。まじで神の仕業だったし」
口に残っていたお菓子を急いで飲み込む紅矢。
「あんま、畏まれると嫌だなあ、オレ」
天狗が顔を上げた。
真っ赤な皮膚とその形相は恐怖を誘うものだったが、紅矢は気にも留めずに笑う。
「対等でいこうよ」
中身の減らない湯飲みを両手で包む真琴は、そのやり取りを見守るだけだ。
「では」
お言葉に甘えて、と、天狗は胡坐をかくと持参した酒を取り出した。
ねずみ色の壷みたいな入れ物に、直接口をつけて流し込む。
会話は、天狗がミヤコの様子を訊ねるところから始まった。
やがて、先程の黒い化け物へと話題が動いていく。
順を追った説明のお陰で、紅矢にも真琴にも、その話は充分伝わった。
「オレ達は急いでミヤコに帰らなきゃいけないな」
元気良く立ち上がる紅矢。
「もう、無駄に闘わなくて済むんだ」
明るい紅矢の笑顔を見つめながら、真琴は消えない不安に胸を痛めていた。
『第十章;戦闘開始』
「よく、ご無事で戻られました」
「お怪我などありませんか」
「お元気そうで何よりです」
皇宮に戻ると、二人は心配していた人々に囲まれた。
陰陽寮だけでなく、侍従や女官、関わりのあった人達が次々と部屋にやってきては声をかけていく。
謝ったりお礼を言ったり、忙しく表情を変えて疲れきった最後に、彼がやってきた。
「何処へ行っていたのですか」
硬い氷の表面が、内側からの熱で溶け出しているように感じた。
静まり返った広い部屋に、空調の機械音が響いて聞こえる。
先生に叱られた生徒のように、二人は仲良く並んで俯いていた。
「あなた達が行方知れずになって一週間、どれ程わたくしが苦心惨憺したか」
「ごめんなさい」
小さな声で真琴が謝る。
時間の感覚がずれていることに驚いたが、それどころではないようだ。
紅矢は黙って唇を噛む。
「真琴さん」
「はい」
「何処へ、行っていたのですか」
冷たい声だった。
厳かで近寄りがたい空気を纏う淡河。
これが、本当の淡河なのだろう、と思わせる。
「悪いけど。それは言えない」
萎縮する真琴を庇い、紅矢が一歩前へ出た。
「何故ですか」
「それも、ノー・コメントだ」
目線はほぼ同じ高さ。
手触りの良い真っ白なシャツを着た淡河。
山の土で汚れた半袖の紅矢。
年齢だって、きっとそんなに離れていない。
「……いって」
乾いた音が弾ける。
真琴が、目をまん丸にして二人を見ていた。
淡河は、手の甲に残った痺れに、自分で驚いていた。
不意打ちを喰らった紅矢の唇が切れて、鮮血が滲む。
「何だ。やれるんじゃん」
紅矢の眼が光り、硬い笑顔になる。
「子供の喧嘩」
言いながら固めた紅矢の拳に、真琴が飛びついて両手を被せた。
「駄目、紅矢」
そこで我に返った淡河。
「申し訳ないことをしました。紅矢君、許してください」
「いいや。許さないね」
一歩離れた淡河に、紅矢は挑戦的な目を向けたまま言う。
「オレは怪我をしたんだ。条件を付けさせてもらう」
切れた唇、滲む本物の血液。
目眩を感じながら、淡河は頷いていた。
「何でしょう」
「真琴を自由にしろ」
淡河が何か言い出す前に、紅矢が畳み掛ける。
「こいつは今後、オレと一緒に外で闘う」
意地悪く細められた瞳が、淡河を見据えていた。
「真琴にミヤコの守護者でいて欲しいんだろ。だったらこの条件は呑むしかないぞ、淡河」
淡河の白く細い指が、握った手のひらに食い込む。
震える唇を噛みしめて、やがて、淡河は承諾した。
「彼女の絶対の安全を、約束してください」
「当たり前だ、そんなの」
そして、その夜から、真琴は紅矢と共にミヤコの巡回に出掛けるようになったのだ。
==========
夜目にも鮮やかな真紅の巫女服。
これが彼女の戦闘服だった。
首の後ろで縛っていた髪は、肩の上まで短く切り揃えた。
闘う相手は、鵺や大蜘蛛ではない。
「With my!墜ちろ!」
トツクニー外ツ国ーからの侵入者。
あの時天狗を襲ったのは、ラウムと呼ばれる烏の悪魔だった。
「Fade them!消え去れ!」
西洋の悪魔達が、この島を侵略しようと湧き出てくる穴が、御嶽山中に在る。
地図には無い、六番目の火口湖。
湖とは名ばかりで、多雨の翌日僅かな水溜りが出来る程度の窪みだ。
その中央付近に、底知れない深い穴が開いていた。
「うじゃうじゃいるな!」
和弓を構えた紅矢が息を吐く。
月明かりを塞ぐ勢いで、空を埋める大量の烏。
「トツクニの魔物は、数が多いのです」
煩い囀りの隙間から聞こえるのは、落ち着いた天狗の声。
「各々の力は弱いのですが」
天狗の刀が横向きに振り抜かれると、耳に痛い叫びと一緒に数十羽の烏が霧散した。
「……タ、スケテ……」
また声がした。
「何処からだ。真琴」
「こっち、紅矢」
真琴を先導にして走り寄ると、ラウムの集団が地面を突いていた。
「イ、タイ……イタ、イ」
黒い塊の下から聞こえる、か細い声。
「おまえら、どけえ!」
紅矢が放つ破魔の矢に、真琴が焔翠玉の力を載せた。
石を載せた手のひらを上に向けて揃え、タンポポの綿毛を飛ばすように息を吹く。
焔と翠の名の通り、炎と水を纏った光の矢が、ラウムの集団に当たって破裂した。
回転する炎と水は、破裂後に拡散して周囲の魔物へも攻撃を与える。
「早くどっか行け」
霧散したラウムの下から這い出てくる、どこか呑気な日本の妖怪。
背後から集団で襲われて、毛でも毟られたのか、頭を撫でている。
「ア、リガト、アリガト」
呟きながら、蚤が跳ねるように暗闇へ消えていった。
「きりがないな」
見上げた夜空で闘う、天狗みたいな強い妖怪は少ない。
そして、トツクニの魔物はラウムだけではなかった。
「紅矢」
真琴が紅矢のシャツを引っ張った。
鵺が喰われている。
人みたいなすすり泣きが、夜の闇に消えていくところだった。
「え。ライオンか、あれ」
月明かりに確かめる、四足の魔物マンティコラ。
獅子の体躯に人間風の顔、おまけは蠍と同じ毒を持つ尻尾だ。
「気持ち悪いな、あれ。喋るのかな」
離れた位置から弓を構え、紅矢がぼやく。
大きな口が開き、ラッパに近い音が鳴り響いた。
静かなミヤコの夜道に、自動車のクラクションに似た音が反響する。
「真琴、しゃがんでろ」
早口に告げた紅矢の弓が唸る。
蠍の尻尾が一瞬光って見えた、と同時に腕に鋭い痛みが走った。
「あいつ、毒針飛ばしやがった」
唸り声を上げて、額の急所に矢を受けたマンティコラが霧になる。
「紅矢。大丈夫」
しゃがんでいた真琴の傍に膝をつく紅矢。
今夜の敵は殆ど片付いている、数が減れば、奴らは撤退するはずだ。
「相打ちだけど。油断したな」
自戒する紅矢の腕が、月の明るさでも青黒く変色していくのが分かった。
「やだ。どうしよう」
「焔翠玉を使え。真琴」
背後から聞こえた涼しい声音に、二人は同時にその名を呼んだ。
「しらたまちゃん!」
「白珠」
渋柿色の小袖、黒っぽい裃。
「邪魔な奴らよ」
鍔の無い刀を振る、洗練された動き。
白珠の一閃が、月の光を吸って扇形に広がり、敵を殲滅した。
「おまえ何でもっと早く来ないの」
待ち合わせの学生みたいな紅矢の言い方に、思わず笑う真琴。
「私の一振りは相手を選ばんからな」
なるほど良く見ると、向こうの方で逃げ遅れた日本の妖怪まで霧散している。
白珠は刀を納めると、真琴の手を掴んだ。
「きゃ」
陶磁器のように白く繊細な指先。
冷たいのだが、神木に触れた時と同じ、仄かな温もりがある。
鼓動を強めた真琴は頬を染めて、白珠のすることを見守った。
白珠は真琴の手のひらに焔翠玉を載せ、上から自分の手を重ねて言った。
「真琴は、紅矢が好きか」
「えっ」
「は、ちょ、おま。急に何を」
とたんにうろたえ始める二人に、白珠が初めて、笑顔を見せた。
雑草の陰でそっと咲くすみれのような、口元だけの儚い微笑み。
「どうして、そんなこと」
顔を真っ赤に染める真琴の手が震えている。
「念の入れ方を指南しようと思ってな」
すぐ傍にいる白珠を見つめて、真琴が決心して口を開くのを、横から凝視する紅矢。
息が詰まる。
「好き。紅矢のこと、ずっと前から好きだった」
その瞬間だけ、全ての動きが止まり、音が消えたように感じた。
ここが何処で、何をしている最中だったのかも、忘れかけた。
「そうか」
白珠の手が、力強く真琴の手を握る。
重なった手の隙間から、陽光が溢れて零れた。
「その光を掬って、傷口に落とせ。傷には触れるなよ」
「は、はい」
僅かに震えを残して、真琴は反対の手で光を掬い、青黒い場所へ注いだ。
変色が止まり、小さくなっていく。
「……すげえ」
「想いがないと、この業は成功しないのだ」
同時に痛みも消えた腕を擦りながら、紅矢が白珠を見た。
「じゃ別に、好きとかじゃなくても良かったのか」
「そうだな」
考え深く、白珠が頷いた。
「傷を癒したい。治って欲しい。そんな想いで充分だったかな」
「おまえ、急にボケたふりすんなよ」
くるりと後ろを向いた白珠の肩が揺れている。
紅矢が追いかけて、顔を覗き込んだ。
「笑ってるのか、白珠」
「ああ」
暫くして、背筋を伸ばす白珠。
「数百年ぶりだ。こんなに笑ったのは」
「数、百って」
呆れる紅矢。
「白珠神様」
闘いが終わり、空から天狗が降りてきた。
「そのお姿。お久しゅうございます」
「ああ。久しいな」
挨拶後の会話は簡単なものだったが、途方もない年月を直に感じた。
「また明日な、真琴」
迎えのリムジンに真琴を押し込み、紅矢は仮宿へ戻っていく。
「うん。また、明日ね」
振り向かない紅矢の、背中を見つめる真琴を乗せて、リムジンが皇宮へ帰っていく。
次に天狗が山へ帰って行き、静かな夜道に白珠が独り残された。
見上げた夜空に、薄雲に隠れた月がぼんやりと光っている。
「流されるのが運命なのか、逆らうのが業なのか……」
白珠のため息は細い風になる。
『第十一章』
「オレ達がやってることってさ」
ある日の早朝。
夜毎の戦闘を終えた紅矢が、帰り道、振り向いた。
「うん」
疲れた足でゆっくり歩きながら、頷く真琴。
「思ったより影響力がデカいのかもな」
「そうかな」
片手で焔翠玉を弄る、真琴の反応は薄い。
紅矢の鼻息が荒くなる。
「だってさ。オレ達が闘い始めてから結構いろんな事件が起きてるじゃないか」
大きな地震が、全国各地で起きた。
都市が焼け落ち、津波が海岸を襲った。
眠っていたはずの火山があちらこちらで噴火した。
『がんばろう』
『助け合おう』
『辛いのは今だけだ』
そんな儚い思惑を嘲笑するように、異変は続いた。
『また揺れたね』
『屋根の修理が間に合わないよ』
『燃料が届かないんだ』
『飲める水があるところを教えてくれないか』
生活の復旧に追われる人々。
その背後で、汚染物質がこっそり野山に流されていた。
牧場や田畑が傷んでしまった。
破壊された道路はなかなか直らない。
住む場所も、仕事も失い、路頭に迷う人々が増えた。
頑張って説明する紅矢の、やや後ろを歩く白珠がうっすら笑っている。
真琴と並んで歩く大きな天狗は、困ったように視線を泳がせていた。
「楔が壊された」
ミヤコに集められた陰陽師達が緊急会議を開いていた。
集中的に破壊された都市には、大切な樹木や大岩があった。
注連縄は、オブジェではない。
「そちらにも陰陽頭を派遣して」
「高位の者が不足しております」
長い歴史の中でずっと無事だった神社仏閣が、次々と破壊された。
地震、放火、神木を切り倒す誰か。
仏像や狛犬を盗む者まで現れて。
「こんなにも混沌とした時代があっただろうか」
道治さんが呟く。
「信じる人が減ったから」
彼の独り言を真琴が拾った。
「真琴さん」
普段着が巫女服になってしまった真琴。
それ程に、物の怪退治に呼び出される回数が増えていた。
「神様も、悪魔も。存在する為のエネルギーは一緒なの」
「存在する為のエネルギー、ですか」
いつものお茶を用意して、道治さんと真琴は向かい合ってソファに座る。
落ち着かない空気の陰陽寮。
「人の想いは見えないけれど、物理的な力になるのよ」
真琴は、揃えた膝の上に、焔翠玉を載せた手のひらを置く。
すらりと伸びた色白な脚、細い腰、伸ばした黒髪。
「そうですね」
そんな研究を長年やってきた。
道治さんは納得の表情で頷く。
真琴は落ち着いた声で続けた。
「みんな、悪いことばかり信じて、良いことは信じようとしないわ」
「その方が楽ですからね」
何故、神様の話をすると胡散臭くなるのだろうか。
悪魔信仰は支持するのに。
良いことを信じてはいけない、それが既に悪魔の誘導ではないのか。
信じる力が人々を助ける。
そんなことも忘れた人々は、すがるものを失い混乱していく。
そして、ミヤコは安泰だった。
「失礼します」
兎歩の廊下から続く鳥居の暗幕を押し上げ、淡河の侍従が一礼した。
「淡河様」
道治さんが丁寧に迎える。
「真琴さん」
近付く淡河の表情が、いつになく険しい。
「はい。何でしょうか」
「あなたは今日まで、誰と闘っていたのですか」
誰から何を聞いたのか、淡河は感情を声に上乗せした。
「物の怪ですよ」
二年も暮らせば、淡河対策だって上達する。
真琴は澄んだ瞳を真っ直ぐ淡河に向けて、返事をした。
「それは嘘でしょう」
「なぜ、そう思うのですか」
微笑みながらも凛とした態度。
「嘘だと思う理由が、目に見える形になったからです」
「それは何でしょう。私にも見せていただけますか」
揺るがない、意志の強い瞳。
頬を染めて淡河を見上げていた幼い少女はもういない。
淡河とほぼ同じ目の高さに、立ち上がった真琴の、美しい顔があった。
本人は自覚していない高貴な色香を漂わせて。
「オレも行く」
弓を支えに目を閉じていた紅矢が、ソファから立ち上がった。
「そろそろ出なきゃいけない時間だしな」
子犬は狼に成長し、光る双眸は鋭く相手を射抜く。
淡河と真琴が歩く少し後ろから、紅矢は黙ってついてきた。
背中を向けると湧き上がる恐怖心を、淡河は拭い切れないでいる。
「真琴さん」
「紅矢様」
連れて行かれたのは皇宮の最上階だった。
窓がない保管庫のようなフロア。
オレンジ色の照明に浮かぶ馴染みの陰陽師達は、笑顔を半分引き攣らせて挨拶を送った。
「あっ」
不意打ちに声を上げた真琴が、後悔したように片手で口を抑える。
「おい、おまえ達。何やってるんだよ」
紅矢が唸った。
「わたくしが真琴さんの言葉を嘘だと思った理由です」
言いながら淡河が指で示した先に、翁の面が捨てられていた。
神通力を失い、床に捻じ伏せられた水色の袴。
「天狗さん」
真琴の声に、天狗が顔を動かした。
「め、面目次第もない」
「どうしてこんなことを」
駆け寄る真琴の声は、怒りよりも哀しみで彩られる。
申し訳ない思いに負けて、陰陽師が手を離した。
「今この国の人々は、大災害に見舞われ非常に苦しんでいるのですよ」
言いながら淡河は、置かれた大きな棺から何かを取り出した。
それが何か理解する前に、天狗が全身を震わせて顔を伏せる。
「それは」
天狗の傍らで膝をつく真琴が、顔を上げて訊いた。
「十握の剣です」
暗闇に浮かぶ淡河の白い顔は冷淡だ。
「とつか……」
「草薙の剣だよ。聞いたことあるだろ」
教える紅矢が、剣に共鳴するように弦を震わせ始めた和弓を握り直した。
「いくら次期天皇でも、簡単に持てる物じゃないはずなんだけどな」
疑う眼差しで、淡河を睨みつける。
「真琴さん。本当のことを話してください」
相変わらずのスルースキルで、淡河は真琴を見下ろした。
「話していただけないと。わたくしは、この妖怪を斬らなければいけなくなりますよ」
「そんな」
美しく育った顔を困惑に染めて、真琴は紅矢を振り仰いだ。
「……長くなるぞ」
淡河を睨んだまま、紅矢が言った。
「話すから。しまえよ、そんな物騒なもの」
長大な和弓を握るあなたに言われたくない、そんな視線を伏せて、淡河は棺の中に剣を収めた。
震えていた天狗の肩から、重石を外したように力が抜ける。
「本当はもう、判ってるんだろう」
紅矢が話し始めたとき、真琴が焔翠玉に力を込めるのが見えた。
一歩前に出て、淡河の視界を遮る紅矢。
「確認です」
いつもの距離感が縮まった気がして、淡河は無意識に後ずさる。
「あなた方から直接訊きたかったので」
「お察しの通りだよ」
斜めに構えた自我の強い顔つき。
「オレ達は、消し去る相手を選んでる」
「何故ですか」
弓を持つ手を下げ、紅矢は僅かにあごを動かした。
示した先に、上品な応接セットがある。
「本当のことを話して、あんたが納得するのかな」
言いながら動いた紅矢の身体に、従うように淡河がソファの方を向いた。
「それを判断するためにも、是非、話してください」
陰陽師の誰かが小さく息を飲む音が聞こえて、振り向く淡河。
実は一歩も動いていなかった紅矢。
その足元で、跪いていた真琴が焔翠玉を胸にしまった。
捕らえていたはずの天狗の姿が消えている。
「……逃がしたのですね」
「神通力をお返ししただけです」
立ち上がった真琴がソファに向かい、先に座った。
いつもならそんな非礼はしないのだが。
「淡河さんは、ミヤコを護りたいのですよね」
怒った顔の真琴は、二人の男性が座るなり口を開いた。
「この国を、です」
背筋を伸ばした美しい座り方で、淡河が小さく頷く。
「天狗達も同じ気持ちなんだよ」
横から紅矢。
「トツクニの魔物がこの国を乗っ取ろうとしているんだ」
「天狗さん達は、その魔物と闘っていただけなのです」
真琴が続けた。
御嶽山の山中に、魔物が湧き出る穴があること。
そこが外国と繋がっているらしいと。
日本の妖怪は本来、戦闘種族ではないので、真琴と紅矢が助っ人に呼ばれたこと。
想像も出来なかった話を急に聞かされた、淡河の思考が停まった。
「お茶です。どうぞ」
タイミングを見計らった侍従が、テーブルにカップを並べて下がる。
「ありがとう」
「いただきます」
ゆっくり飲みながら、真琴と紅矢は黙って淡河を待っていた。
「妖怪達がこの国を護ろうとして闘っていた、と」
淡河の顔は半分怒っていた。
「あなた達はそう言いたいのですね」
「全くその通りだよ」
素っ気なく紅矢が返す。
「そんな戯言を信じろ、と」
語尾が震える淡河。
「そうだな」
目を伏せて、カップの中を見つめながら呟く紅矢。
「オレ達はいつでも、本当のことしか言わねえよ」
その時、真琴が震えた。
「来る。紅矢」
「またか!」
次の瞬間、60階建ての皇宮がゆらりと、揺れた。
「大きいぞ」
大波を乗り越える、船のような動きだった。
ゆっくりと足元が回る、酔いそうな感覚。
「地震ですか」
淡河がソファから立ち上がる。
「行こう。真琴」
「うん」
まだ揺れている廊下に、二人が走りだす。
「お待ちなさい。何処へ行くのですか」
慌てた淡河が後を追う。
「迎え撃つ」
紅矢の鋭い声が返った。
「これ以上、好き勝手させてたまるかっての」
「ごめんなさい、淡河さん」
真琴の澄んだ声が廊下に響いた。
「これで、最後にするから!」
「真琴さん」
嫌な予感が淡河の胸を鷲掴んでいた。
余韻が残る屋上に、紅矢と真琴が飛び出していく。
「渡辺さん。最後のお願いだ」
「私達を、御嶽山まで連れて行って」
拒否を許さない強い意志の力。
下界は、今しがたの地震で大騒ぎになっていた。
幸い、死者が出るほどの規模ではなく、一時的な停電で困っただけだ。
「お気をつけて」
二人を降ろした渡辺さんが不安な顔を向ける。
「ありがとう」
真琴の笑顔が儚い。
何だろう、この胸騒ぎは。
「さよなら」
一瞬、泣きそうになったのを隠して、真琴が先に歩き出す。
「大丈夫。オレがついてるから。もう行って、渡辺さん」
紅矢の声が頼もしい。
「は、はい」
「ありがとう」
くるりと背中を向けた紅矢の傍らに、侍風の誰かが寄り添って見えた。
==========
「お待ちしておりました」
山の入口では、天狗達が待っていた。
「行きましょう」
闘える妖怪達を見渡す、真琴の澄んだ声が響き渡る。
「総力戦です。これを、最後にしましょう」
妖怪達の雄叫びが御嶽山を揺らした。
後日、地元の人々が、大きな地震の後に山鳴りがした、と、話した。
地図にはない六番目の火口湖へ、真琴達は進んでいく。
「Do not come!来るな」
「Away with you!立ち去れ」
地上にはミノタウロス、空にはハーピー。
今まではいなかった、半分人型の大きな魔物達が武器を持ち、牙を見せていた。
「手加減は出来んぞ」
弓を構えた紅矢の前に立ち、白珠が刀を抜く。
「真琴は下がっておれ。そなたの手には負えん」
「私も闘う」
焔翠玉を抱え、退かない真琴。
空中戦が先に始まっていた。
「そなたの力は、癒しに使うとよい。皆を頼んだぞ」
緊張の欠片もない白珠が、散歩みたいに火口湖にある穴へ向かって歩いていく。
その肩に、誰のものか判らない羽毛が雪のように降ってくる。
「オレも行く」
後を追う紅矢が走り出すと、魔物の注意もそちらへ動いていった。
「真琴様はこちらへ」
その隙にと、酒呑童子が大きな木の下へ、真琴を誘導した。
「天狗達の手当てをお願いいたします」
「わかりました」
足を停めた白珠が刀を一振りすると、閃光が扇形に広がって魔物達を切り裂く。
「He’s a jerk!あいつめ」
「Kill a head!頭を仕留めろ」
強敵と認識された白珠に的が絞られ、侍姿はあっという間に取り囲まれて見えなくなった。
「白珠!」
叫ぶ紅矢が放った破魔矢が金色に光って突き刺さり、魔物が霧散していく。
しかし、数が圧倒的に多い。
「白珠神は俺達に任せろ」
「紅矢は天狗を助けてくれ」
酒呑童子率いる鬼軍団が、塊になって突進していく。
地面を揺らし、土煙を巻き起こし、湧き上がるような怒声を伴う姿は、まさに鬼。
乾ききった火口湖の淵で、鬼とミノタウロスがぶつかりあった。
大きな手が角を掴み、捻じ伏せる。
口を大きく開け、牙で噛み千切った。
「この上ない大乱闘だ」
少しの間、紅矢は大迫力なその光景を眺めていた。
空中では、素早く動き回るハーピーに圧され気味の天狗たちが苦戦している。
「ちゃんと当たるかな」
空へ向かって弓を引き絞り、矢を放つ。
破魔矢は光を纏い、意志を持ってハーピーを狙い落とした。
「よし。いけそうだ」
日本の妖怪と西洋の魔物の闘いは、白珠神と巫女の力も加わった妖怪側に分があった。
じわりじわりと、火口に向かって魔物を押し返していく。
湧き出る端から叩き返す、鬼の力は勇ましく激しかった。
「このまま穴を塞いでしまいたいな」
真琴の傍に戻った酒呑童子が、翁天狗に話しかけた。
闘いは終盤に向かっている。
妖怪達の傷付いた部分を癒しながら、真琴は黙って聞いていた。
「我々が穴に入ろう」
翁天狗が言った。
「力が足りないときは、頼むよ。酒呑殿」
「おう。任せろ」
太い腕を振り上げ、鬼が笑う。
「もとより、覚悟の上だ」
「あの。天狗さん」
手を止めた真琴が口を開いた。
「穴に入って、その後どうやって塞ぐのですか」
「俺達が結界に為るのですよ、真琴様」
笑った顔のまま、酒呑童子は真琴を見下ろした。
「結界に、為る」
「そうです」
「さて。そろそろ頃合ですかな」
静かに手当てを受けていた、翁天狗が立ち上がった。
「あ……」
何かを言いかけた真琴の、小さな頭に大きな手がそっと載せられる。
「今まで、本当にありがとうございました。ここまで闘えたのは、あなたのお陰です」
翁天狗の大きな赤い目が、真琴にはとても優しい眼差しに見えていた。
胸につかえた言葉が、声にならない。
両手を胸の前で握り締め、その瞳からぽろりと涙が零れて落ちた。
「ああ。本当に、優しい方だ」
酒呑童子が穏やかな声で言った。
「真琴様にお会いできたこと、共に闘えたこと、光栄に思いますよ」
「あ。あの……私」
こんな時、何と言えばいいのだろう。
膝が震えて、上手く立っていられない。
涙が視界の邪魔をする。
「酒呑。翁。急ぎ戻れ!」
不意に聞こえた白珠の声は、耳ではなく頭に響いた。
慌てて振り向くと、火口湖の穴から、真っ黒な雲が溢れ出していた。
「何だ、あれは」
「急げ、白珠神様の元へ」
優勢だったはずの鬼たちが、黒雲に吹き飛ばされるのが見えた。
「雲ではない、形になってゆくぞ」
「怯むな。行こう」
空から応戦しようと、天狗達も火口に向かって飛んでいく。
「真琴!無事か」
「紅矢!」
戻ってきた紅矢にしがみつき、真琴は空を見上げた。
「紅矢、あれって」
「ドラゴン……まじか」
形を成した黒い塊は山のように大きく、その表面が、鋼鉄並みに堅い鱗へと変化していく。
山肌が崩れるような雄叫びが響き渡り、足元が震えた。
「無理だろ」
紅矢が呟く。
あれだけ頼もしく、大きく見えていた酒呑童子が玩具のようだ。
黒光りする竜の、ジェット機のような前足が振り回された。
「うわ」
「きゃ」
咄嗟に真琴を庇う紅矢。
竜巻みたいな突風が、火口付近にいた妖怪も魔物も、まとめて吹き飛ばす。
空中へと浮き上がったそれらに狙いを定めるように、大きく邪悪な竜の目が動く。
開けられた口から、炎の柱が噴射された。
「お構いなしかよ」
鬼もハーピーも、一緒くたに灰にする、巨大な竜。
「あんなもんが山を降りたら、こんな小さな島なんか一撃で終るな」
「紅矢。あれ」
竜の足元から、小さな光の塊が飛び立ったように見えた。
「白珠だ」
侍姿の白珠が、居合いの構えで飛んでいく。
円を描くように煌いた刀の軌道が、レーザー光線のように竜の前足に食い込んだ。
耳を塞いでも鼓膜を痛めつける咆哮が、山を揺らす。
地響きと土煙の先に、竜の前足が一本、周囲の木々を焼きながら霧散していくのが見えた。
「すげえ」
怯んだ竜の足元で、雄叫びが沸き上がった。
今の一太刀で闘志を取り戻した妖怪達が、再び闘いを開始する。
「でも、駄目。しらたまちゃんは、結界になれない」
「真琴!」
飛び出した彼女を掴もうとした紅矢の手が、空を掴む。
「真琴っ!」
一気に心拍数が上がった。
『最終章』
真っ赤な巫女服が駆けてくる。
空中で竜と対峙し、もう片方の前足に狙いを定めていた白珠が気付いた。
「手を離したか、紅矢」
冷静な瞳が足元を確かめる。
一度踏まれたのか満身創痍の酒呑童子が、同じように燃え残った魔物と闘っている。
鬼軍団だけは、まだまだ戦意を失っていないようだ。
少し離れた場所で翁天狗が、虫の息で転がっていた。
「運命とは。切ないものよ」
何かを変えようとしたわけではない。
白珠神にとって、人の世の行方など、どうでも良いことだ。
例えばこの島が沈んだとしても、神の居場所は消えない。
……真琴の瞳に反応しただけだ。
「では、わたしが貰い受けよう」
白珠の視線が戻り、動いたように見えた腕の先で、竜の前足が斬り飛ばされていた。
痛がる竜の、大きな口から溢れる咆哮がまた竜巻を起こし、バランスを失った真っ黒な巨体が倒れていく。
「真琴!真琴っ!」
火口湖付近まで近付いた紅矢も、倒れてくる巨体には気付いていた。
巻き上がる土煙と、揺れる地面に邪魔されて、思うように動けない。
「くそおっ」
血眼で真琴を捜す紅矢の全身が、引っ掻き傷で痛々しい。
倒された大木の枝に、弓の弦が引っ掛かった。
「邪魔だ!こんなもん」
怒りに任せた紅矢の手から、和弓が離れる。
そのタイミングで竜巻が、小さな身体を襲った。
ゴミ屑のように、力を失った翁天狗が吹き飛ばされていくのが見えて。
「翁っ」
思わず腕を伸ばした紅矢に向かって、根こそぎ抜かれた倒木が襲いかかる。
すべてが土煙と轟音に包まれて、視界から消えた。
「……しらたまちゃん」
浮遊感に、閉じていた目を開ける真琴。
「そなたは、何がしたいのだ」
無謀な特攻から掬い上げて、真琴は今、白珠の腕の中にいる。
蠢く巨大な竜、その下敷きになって瀕死の妖怪や魔物たち。
それらを空から見下ろしながら、白珠は真琴にそう訊ねた。
「しらたまちゃんは神様だから」
距離感に、頬を染める真琴。
幼い頃から大好きだった、西風に包まれる感覚が甦っていた。
「結界に『為る』ことは出来ないでしょ」
「……そうだな」
言葉を切り、真琴は下界を見た。
「あの穴を塞がないといけないのに」
「確かに。天狗や鬼では、役不足だな」
気付いていたのか、この巫女は。
腕の中に閉じ込めた、白く細い身体がふわりと温かくなった。
伏せたまつ毛を濡らして、透明な水が一滴、下へ落ちていく。
「私が……」
言葉が続かない。
覚悟と恐怖は別の場所にある。
紅矢の笑顔が浮かんだ。
生意気で、我ままで、俺様で……愛しくて。
「護りたい」
生まれ故郷の景色が次々に浮かんで消えていく。
春日さんの底抜けに明るい笑顔も。
「しらたまちゃん。私」
「もうよい。何も言うな」
視界が塞がれた。
渋柿色の着物の中に、強く抱き締められる真琴。
風の香りを強く感じて、真琴は目を閉じた。
ざわめく心が、凪のように落ち着いていく。
時間が止まり、やがて、白珠が囁いた。
「覚悟は出来たな、真琴」
「はい」
穏やかな顔つきにもう恐怖はない。
「案ずるな真琴。そなたは、わたしに選ばれたのだ」
「えっ」
問い返す暇もなく、火口湖に向かって急降下する二人の身体。
穴を塞ぐ邪魔な竜の巨体を、真上から白珠の刀が貫いた。
片腕に支えられた真琴は、鋼鉄の鱗が黒雲に戻るのを目の当たりにする。
辺り一面を焼き尽くして、ようやく、竜の存在が消えた。
降り立った火口湖の中心に、底知れない深い穴が開いている。
「紅矢に」
ふと、真琴が振り返った。
「会いたかったな」
そんな感傷に浸るには、なんとも風情のない光景だった。
焼け爛れた山肌。
霧散していく妖怪や魔物の残骸。
長い髪を揺らす山風は、焦げた木々の臭気で汚されていた。
「真琴」
白珠が穏やかな表情でその名を呼ぶ。
「また、会えるであろうよ」
「そうなの」
確信のある言い方に、真琴が白珠を見上げる。
その澄んだ瞳を見つめ返して、白珠が小さくあごを動かした。
「あちらは忘れているやもしれぬが」
白珠の手が、そっと真琴の背を押す。
「さあ。行こうか」
「しらたまちゃんも、行くの」
焔翠玉を胸に抱える真琴。
「途中まで送ろう。独りで行くには不安であろう」
白珠の声は優しかった。
「……ありがと」
ふと、思い出したように、白珠が訊ねる。
「真琴。そなた、春日の守りを持っておるな」
「はい。ここに」
袖口から取り出した春日さんの手作り御守を、白珠が受け取り、その場に置いた。
「これは紅矢への餞別だ」
「うん」
地面に置かれた御守を、横目で見ながら、祈りの姿勢をとった真琴が先に降りていく。
巫女を支えていたはずの白珠神が、その場から動くことはなかった。
何の前兆もなく、深い穴が消える。
初めからそこには何もなかったように、六番目の火口湖も、消えてしまった。
残されたのは山火事の跡と、
「白珠。真琴はどこだ」
消えかけの魂でようやく辿り着いた紅矢。
この惨状の中で涼しい顔をして立つ白珠は、やっぱり淡河に似ている、と思った。
黙って示す指の先に、御守が落ちている。
「これ。おばさんの、御守……」
震える手で御守を拾い上げた。
その瞬間、空間が歪み、宇宙へ放り出されるような感覚が紅矢を襲う。
時間への無理な干渉は、小さな人間など簡単に破壊してしまう。
==========
気が付くと、緑の草むらに横たわっていた。
ひやりとした風が髪を揺らし、額に触れていく。
誰かの指先のように感じて、少年は周囲を見回しながら起き上がった。
「あっちに展望台があるって」
「行ってみようか」
登山の恰好をした人々が、景色の一部みたいな彼を無視して通り過ぎていく。
「温泉まだあ」
「もう少し頑張って歩いて」
『……当園の営業時間は日没までとなっております……』
観光客の楽しげな笑い声、スピーカーから流れる音楽と案内放送。
直射日光に目を細めて、少年が立ち上がる。
眠りは深かったようで、足元がふらついた。
『左 展望台 春日神社』
『右 秘郷 真琴温泉』
背後に、大きく立派な看板が建てられていたが、少年は振り向くことなく歩き出す。
「あのう」
声をかけられて顔を上げた。
「この先に、旅館があると聞いたのですが」
慣れない山歩きで疲れきった表情の老夫婦が、膝を震わせながら少年を見上げている。
「ご案内しますよ」
そうだ、休憩中だったんだ。
濃霧が晴れるように、すっきりとしていく意識。
「ぼく、そこの従業員なんで」
「ああ。よかった」
営業スマイルで、少年は手を差し出した。
「お荷物も、良かったらお持ちしますよ」
「すみませんねえ」
「ご予約のお名前は」
「渡辺ですう」
天気の話。
有名な秘湯の話。
3人はのんびり談笑しながら、きれいに整備された山道を歩いていく。
快晴の空が、どこまでも青く澄み渡り、雪を残す山頂をくっきりと浮かび上がらせていた。
=END=
2016/05/23
<エピローグ>
数年前にテレビで紹介されてから、急激に観光客の増えた山の温泉。
怪我や病気に効くと伝えられ、湯治客が後を絶たない。
霊験あらたかと噂される秘湯の足元には、新しい宿場町が出来る勢いだった。
観光用にはまだ整備されていないが、山の頂上にある源泉まで辿り着くと、
巫女服を着た少女を見かけることがあるらしいと、噂されていた。
彼女の姿に気付いた人には、不思議な現象が起こるとか起きないとか。
この温泉街では時々、子供が白く光る石の破片を拾って帰るが、いつの間にかなくなっている。