【書籍化作品】職業王妃は恋を知らない
マルティナは幼少の頃より非常に利発な子供だった。
三才で読み書きを覚え、五才で詩を暗誦し、七才で数術を理解した。
地方の貧乏貴族である父は、やたらに出来のいい末娘に最初いい顔をしなかった。
「あなた、この子は類稀な才能に恵まれています。ああ、惜しいわ。この子が男の子だったなら、どれほど出世したことでしょう」
母は毎日のように残念がった。
「女なのだから仕方ないだろう。マルティナには学問はさせなくていい。それよりそろそろ嫁ぎ先を探し始めねばならない。良い相手はすぐに先約ができてしまうからな」
豊かな黒髪とそろえたような黒い瞳のマルティナは器量も悪くはなかった。
貧乏貴族といえども、多少の贅沢な条件をつけられる程度の容姿を備えていた。
「この子の才能を生かしてくれるような方がいればいいのですけれど」
「そんなことはどうでもいい。少しでも身分がよくて裕福な相手を探すのだ。多少年上でも側室でもいい。我が家に援助をしてくれるような貴族を探すのだぞ」
両親はそんなことを話し合っていたというのに、その一年後、父はマルティナに信じられないことを言いつけたのだった。
「もっと勉強するんだマルティナ。そうだ、家庭教師をつけてやろう。政治経済に詳しい学者を探してくる。剣術も少しはできた方がいいだろう。いい教師を見つけてやるからな」
兄たちにすら家庭教師代を惜しんでいたというのに、借金までして高名な家庭教師をつけてくれた。
なぜなら……。
マルティナが八才の時にこのギリスア国に第一王子が生まれたからだ。
長く子供が授からなかった王様に、やっと第一子となる王子が生まれたのだ。
国民ももう諦めかけていたというのに、突然降ってわいた奇跡に王家ばかりか国民も大騒ぎになった。
◇
この国には少し変わったならわしがあった。
さかのぼること十代前の王様の時代、国は貧しく周辺国との戦争も続き、国家存続の危機にまでなった。後宮の中でも側室たちが後継争いでお互いに毒を盛り合うような有様だった。
若き王は困り果て、やけくそになって幼少より姉のように慕っていた十才も年上の嫁き遅れた姫を王妃にしたのだった。
彼女の名はシルヴィア。
シルヴィアは不器量で可愛げがなくドレスのセンスも最悪で、家柄はさほど悪くもないのに、ついに三十五まで嫁ぎ先が見つからなかった。
非常に頭のいい姫で、いつもひっつめた髪に黒いドレスを着て分厚い本を片手に王宮を歩き回っていた。彼女はその才覚を見込まれ、王宮の女官頭にまで出世していたのだ。
若き王は、幼少の頃より物知りのシルヴィアを師と仰ぎ、困ったことがあると相談する姉のような存在と思っていた。
そして彼女なら手に余る困難をすべて解決してくれるような気がしたのだ。
実際、彼女はみるみる才能を発揮して、まずは後宮の側室たちの諍いをおさめ、王位継承権の順位を見事に取り決め、罰する者は罰して後宮規範を作ってまとめあげた。
さらに若き王に的確な助言を与え周辺国との戦争を終わらせ、国を豊かにする方策をいくつも提示してあらゆる混乱をしずめたのだった。
彼女は若き王を支えた賢妃として今も語り継がれている。
『初代職業王妃 シルヴィア』として……。
そう。職業王妃。
この国の王の正妻、つまり王妃は『職業』なのだ。
シルヴィアが生涯純潔の身であったことは誰もが知っている。
当然子供は出来なかった。
いや、この時代の医療では三十を過ぎての出産は命にかかわる。
若き王がシルヴィアの命を脅かすことを恐れたのか。
はたまた色気の皆無なシルヴィアにそんな気持ちがまったくおきなかったのか。
それとも師とも仰ぐ姉のような存在に不埒なマネができなかったのか。
真意は分からないが、とにかく純潔のまま王妃として君臨したのだ。
そして側室の生んだ王子の中から一番優秀な王子を世継ぎとして選び、自分の養子とした。
こうして後継者争いもなく、平和な時代が現在まで続いている。
それ以降、王子が生まれると国をあげて『職業王妃』となる年上の賢い姫を探すのがならわしとなった。
そこでマルティナだ。
「マルティナを今度の王妃選抜試験に連れていくぞ!」
父は態度を百八十度変えて教育パパとなったのだ。
しかし今度は母が反対した。
「でも……王妃になればもう女性としての幸せは望めなくなります。この子はそれでいいのかしら。誰も愛さず、誰にも愛されず純潔のまま死んでいくのですよ」
「それがどうした、バカ者! 王妃は国民を愛し、国民に愛されるのだ。その方が百倍も幸せだ。そうだろう!」
「あなたは男性だから出世や名誉の方が大事なんだわ。でも女はやはり一人の男性に愛されて、愛する人の子を生むことを夢見るものですわ」
「子供は王の側室がいくらでも生んでくれる。命の危険にさらされながら出産しなくとも、気に入った王子を養子に迎えて王子の母となるのだ。こんないい話はないだろう」
母はため息をもらした。
この時代の男性に何を言ったところで女の気持ちなど分からないだろう。
「マルティナ、あなたはそれでいいの?」
母は八才の利発な娘に尋ねた。
マルティナは元気に答えた。
「ええ。お母様。私は好きなだけ勉強ができるならそれで満足です。王妃になればお父様たちにもたくさんの援助ができるのでしょ? それならもっともっと頑張って、必ず王妃の座を射止めてみせます!」
そして二年後の王妃選抜試験で、マルティナは言葉通り見事に王妃の座を勝ち取ったのだった。
◇
王子の許婚となったその日から、宮殿にて王妃教育が始まった。
マルティナにあてがわれた部屋は、まだ幼な子の王子の隣の部屋だった。
本来は乳母の部屋だ。
実際、反対の隣に乳母もいた。
そして与えられた服はシルヴィア王妃の時代から続く黒いドレス。
シルヴィアは王妃となった後も黒いドレスしか着なかった。
そして今では職業王妃のドレスは黒と決まっている。
「髪はきちんと後ろにまとめて下さいませね、マルティナ様。王妃たるもの一片の色気も見せてはいけません。王がうっかり欲情せぬよう、一切のスキを見せませんように」
先代の職業王妃も育てたという年のいった女官が教育係としてついた。
「さあ今日より王子のお世話はマルティナ様が中心になってしてくださいませ。幼少より王子の母となり姉となりつき従うのでございます。あなた様が王子を……後には王を、育て続けるのでございます」
マルティナは実際に母のように王子を育てた。
それはマルティナにとって楽しい日々だった。
「クラウスさまがお笑いになられました」
「クラウスさま。こぼさず食べて下さいね」
「クラウスさまが字を読みましたわ!」
「クラウスさま、そんなに走っては転びますよ」
少しずつ成長していくクラウス王子は、金髪に青い目のそれはそれは美しい王子だった。
毎日少しずつ出来ることが増えるようになる日々は感動の連続だった。
「クラウスさま、今日はこの絵本を読みましょう」
「マルティナ、この絵はなに?」
「これはうさぎと言います。耳が長くて両足をそろえて飛ぶのです。ほら、こんな風に」
マルティナは実際に飛んでみせて、クラウス王子はきゃっきゃっと喜んだ。
「うふふ。今度本物を見にいきましょうね」
言葉を話せるようになると、クラウス王子はあらゆるものに興味を示し、マルティナに「これなに」攻撃をしてまわった。その一つ一つをマルティナは丁寧に教え、機会があれば本物を見せて、知る限りの雑学を面白おかしく話した。
そして月日は流れ……。
王子が八才になると、マルティナは十六才になっていた。
王子は歴代随一と言われるほど賢く、また美しい王子に成長していた。
王子の成長と共に、マルティナも社交界を垣間見る機会も増えてきた。
今までは王子と、その学友となる同年代の子供たちと過ごすことの多かったマルティナだったが、自分と同年代の姫たちの姿も見かけるようになった。
みんなきらびやかなドレスを着て、王宮で開かれる舞踏会を楽しみ、やがて殿方に見初められて結婚していく。
時には実家にいたころの友人なんかにも出会ったりする。
「まあ、マルティナ様。お久しぶりでございます」
友人は次期王妃に対して、恭しく挨拶をする。
「このたび男爵さまのところに嫁ぐことになりました。王様にそのご挨拶に参りましたの。マルティナ様の時代になりましても末永くよろしくお願い致します」
みんな殿方と腕を組んで幸せそうに告げる。
色鮮やかなドレスを着て、髪を流行りに結い上げ美しい花を飾っていた。
一方で自分は真っ黒のドレスを着て、髪を後ろにひっつめている。
ドレスの生地は数倍もいいものだが……。
身分も比べられないほど自分の方が高いが……。
マルティナは彼女たちの方が幸せを誇っているような気がした。
別に不満があるわけじゃない。
愛らしい王子の成長を一番そばで見届けられる自分は幸せだ。
日々の生活も豊かだ。
でも……。
「あんな綺麗な色のドレスを着てみたいなあ」
「髪を結い上げたらどんな感じになるかなあ」
夜になると鏡の前に立って、おろした髪を持ち上げてみる。
女性として、自然にわきでる憧れだった。
そんなある日のことだった。
王宮の中庭でクラウス王子が花壇から花を一輪摘んで戻ってきた。
「見てマルティナ。綺麗な花を見つけたんだ」
王子は嬉しそうに白い花を差し出した。
「デイジーの花ですね。ギリスア国の国花でございます。春に咲く一年草です。他にもいろんな色があって……」
「もう、そうじゃないよ、マルティナ」
「え?」
いつものように王子に雑学を教えようとしたマルティナを制して、クラウスはその花をそっとマルティナの髪に挿した。
「やっぱり! マルティナに似合うと思ったんだ。マルティナの大きな黒い瞳には白い花が一番似合うよ。マルティナも他の姫のように髪を飾ってカラフルなドレスを着ればいいのに」
「クラウス様……」
王子の言葉はとても嬉しくて、そして……とても悲しかった。
幼くとも異性の王子に花が似合うと言ってもらえたことにトキめいてしまった。
そしてすぐにそんな自分に罪悪感を持った。
自分の中に女性として見られたい欲望があったから王子に隙を見せてしまったのだ。
八才の日に、母が『職業王妃』になることを反対した意味がようやく分かるようになった。
自分は男性から女性として扱われてはならない存在なのだ。
この先、一生誰に恋することも、されることも望んではいけない。
それがこれほど悲しく淋しいことだと、十六になるまで気付かなかった。
「どうしたの、マルティナ? この花は好きじゃなかった?」
愛らしい王子が首を傾げて尋ねる。
「いいえ。大好きですわ、クラウス様。ですが王子がせっかく私のために摘んできて下さったお花ですから、髪を飾るより押し花にしてもよろしいでしょうか?」
「押し花? うん、いいよ! 僕も手伝う」
「では一緒に作りましょう」
マルティナは髪から花を取り、丁寧に押し花を作った。
そして自分の愚かな欲望と共に、引き出しの奥深くにしまい込んだ。
「さあ王子、午後からはギリスア国の歴史について学びましょう。今日は高名な教授にきていただいています。楽しみですね」
マルティナは以前にも増して長い黒髪を地味にまとめあげ、ドレスの襟は首が締まるほど高く閉じて完ぺきな『職業王妃』になることを決意した。
「えー、教授の授業かあ。僕はマルティナの話す歴史物語を聞いている方が楽しいんだけどなあ」
少し口をとがらせる王子は本当に愛らしい。
我が子のように、弟のように愛してきた王子が立派な王として君臨できるように、この身を捧げる覚悟はとうに出来ていた。
純潔の王妃として生きる覚悟は……出来ていたはずだった。
こうして仲のいい姉弟のように、平安な日々が続いた。
そんな日々が少しずつ変化し始めたのは、王子が十才の時だった。
マルティナは十八才になり、いよいよ次代の王妃として本格的に学ぶ時期がきていた。
まだ十才の王子が学友と過ごす数時間に、マルティナは現王妃の下で実務を学ぶこととなった。
今まで乳母と共に四六時中王子と一緒にいた時間が少しずつ減っていった。
「マルティナ、どこに行ってたの? 急にいなくなるんだもん、探したよ」
最初の頃、半分泣きべそをかきながら探してくれた王子も、徐々にマルティナ離れができるようになり、やがて同年代の男の子たちと遊ぶ方が楽しくなっていった。
少しずつ自分から離れていく王子に淋しさを感じながらも、マルティナ自身も次期王妃として学ぶことが多く、感傷にひたっているヒマはなかった。
王子が十三才の時には、現王妃の隣国訪問に付き添って二ヶ月留守にした。
『職業王妃』は対外的にも王の名代として丁重に扱われた。
むしろ王よりも実際にこまごまとした公務を取り仕切る王妃との交渉を望む国も多かった。
いずれはそんな立場の者として外国とも交渉しなければならない重責を思い知って、マルティナは帰ってきた。
「ただいま戻りました。クラウス様」
マルティナは真っ先に王子の部屋に行って挨拶をした。
「……」
王子は足を組んで椅子に座ったまま、そっぽを向いていた。
ほんの二ヶ月前に出発する時は、こんなに長く離れることに不安そうな顔をしていたくせに。
たったの二ヶ月で何があったのか、急に大人びた気がした。
「あの……王子。何か怒っていらっしゃいますか?」
「別に……」
むすっとした表情が静かに怒っている。
こんな表情もするようになったのだとマルティナはほんの二ヶ月の成長に目を瞠った。それでも怒っていても愛らしい。マルティナにとってはやっぱり愛おしい弟のようなものだ。
「そうだ。隣国でおみやげを買って参りました。きっと王子の気にいるものと思います」
「ふん! そうやってすぐ子供扱いするけど、僕はもう十三なんだ。珍しいお菓子なんかで喜ぶと思わないでくれ」
子供扱いされることが嫌な年になったのだと、マルティナは微笑ましかった。
「お菓子などではございません。最新の大型船の模型です」
「!」
さっきまで拗ねていた王子は、パッと顔を上げた。
「組み立て式でして、内部まで精巧にできています」
「ほんとに? 自分で組み立てるの?」
王子は目を輝かせて立ち上がった。
大人びて見せても、やっぱりまだまだ子供だった。
「ええ。今からこちらに運んで一緒に組み立ててみましょう」
「うん!」
二ヶ月のブランクなどすぐに埋められた。
しかし今度はマルティナが二十三の時、友好国に留学することになった。
期間は二年間だ。
王妃は代々見聞を広めるために留学する慣わしになっていたが、これまでの王妃はもっと若い頃に済ませていた。
だがマルティナはたまたま時期が合わず、ずるずると先延ばしになっていた。
クラウス王子が十五の年に旅立ち、戻ってきたのは十七の年だった。
この時期の男の子の成長をマルティナは甘くみていた。
王子はすでに王について公務を行うようになっていて、久しぶりの対面は王と王妃に並んで座る謁見の間であった。
最初謁見の間を歩き進みながら、マルティナはそれが王子だと気付かなかった。
どこかの国の賓客が王の隣に座っているのかと思った。
とても美しい青年が王の隣に座っていると……。
「久しぶりだな、マルティナ」
だから声変わりした低い声に呼びかけられてキョトンと見上げてしまった。
「何を不思議そうに見ている。まさか未来の夫の顔を忘れたのか?」
クスリと笑いながら告げられた言葉に驚愕した。
「ク、クラウス様……?」
旅立つ時はまだ子供っぽさの残る丸みのあった顔は、すっかり大人の骨格になっている。
肩で切り揃えていた金の髪は、成人男子らしく長く伸ばして後ろで結わえていた。
そして何よりマルティナと同じぐらいだった背丈が、隣の王と変わらぬほどになっている。
座っているから分からないが、もうマルティナと同じ高さでは絶対ない。
「いい男になっててびっくりしたか? 抱きついてキスぐらいしてもいいぞ。許婚なんだし」
「!」
聞き間違いかと思った。
あの可愛らしい王子が口にするはずもない言葉だ。
「これこれ、クラウス。慎みなさい。マルティナが驚いているだろう」
隣の父王が嗜めた。
「そなたがいない二年間に反抗期というのだろうか、ずいぶん荒れた時期があってね。雰囲気が変わっただろう。マルティナが戸惑うのも分かる」
「は、反抗期でございますか?」
「勝手に人のことをタチの悪い病気みたいに言わないで下さい、父上。友人たちに比べたらかわいいもんですよ」
しれっと言い返す王子に、今度は王妃が口を挟んだ。
「悪い子息たちと付き合うようになったのです。一番多感な時期に王妃が留守にしていたのは大きいですね。これからマルティナには王子の更生のために尽力してもらわねばなりませんね」
「王子の更生?」
「王子ももうすぐ十八です。まずはあなたと盛大な婚儀の式典を行いましょう」
マルティナは婚儀の式典と聞いて、クラウスに視線を向けた。
そして以前より大人びた青い瞳と目が合って、ドキリと鼓動が大きく跳ねた。
自分を無邪気に慕っていた青い目は、攻撃的とも思える強い光を放って睨みつけている。
どこか不満気にも見えるその視線に衝撃を受けた。
(もしかして迷惑だと思ってる?)
ずっと『職業王妃』として生きる自分の気持ちばかりを考えていて、王子が嫌がるなんて考えたこともなかったけれど、形だけとはいえ正妃なのだ。
王子にだって選ぶ権利はある。
この先ずっと隣に並ぶ人間ぐらい自分で選びたいだろう。
マルティナは思わずうつむいた。
そして続く王妃の言葉にさらに心が打ち砕かれた。
「クラウスも年頃ですからね。それでイライラしているのだと思うのです。あなたとの婚儀と同時に何人か側室を後宮にあがらせましょう。戻って最初の仕事は王子の側室選びです。元気な子を生める良家の子女を王子と相談して選んでおきなさい」
それは幼い頃から知っていたしきたり。
『職業王妃』と別に、寵妃となり王の愛を受け子を生む側室たち。
初代の王は十人以上の寵妃を娶り、王子や王女に恵まれた。
代が変わるごとに側室の数も子供の数も少なくなったが、現王にも三人の側室がいる。
そしてクラウス王子と妹王女二人が生まれた。
分かっていた。
留学中も他国の王子が数人の妻を娶っている姿を見てきた。
クラウス王子も例外ではないことぐらい充分知っている。
知っているのに……。
なぜ心がこんなに沈むのか……。
「そのくだらないしきたりはいつまで続けるつもりですか?」
ふいに降りかかった言葉に再び顔を上げた。
クラウス王子がいよいよ不機嫌に王妃を睨んでいた。
「くだらないとは何ですか! このしきたりがあるから、我が王国の平和が続いているのです。他国をごらんなさい。寵妃を何人も作ってあちこちに子供を生ませるものだから、後継争いで側室同士が殺し合ってるでしょう。あるいは学のない毒妃にそそのかされ国費を使い果たした愚かな王もいます。愛などという不確かなものに権力を与えるから混乱が起こるのです。王と並ぶ権力を持つ王妃には愛は不要どころか害となります。権力を与える者と愛を与える者は別々にするのが賢明なのです」
「何人も側室を持つから争いになるのでしょう。学のある賢妃一人でいいでしょう」
クラウス王子は思いがけないことを進言した。
「子の生めない妃だったらどうするのですか? それこそ王家が途絶えてしまいます」
「そんな心配は子が生めないと分かってから考えればいいのではありませんか?」
「どうしたのですか、クラウス。あなたがそんな純愛主義とは知りませんでしたよ。この二年間、悪い友達とずいぶん女遊びもしたと聞いているのに」
「な!」
クラウス王子はガタリと立ち上がった。
そして真っ赤になってマルティナを見た。
「か、勝手な噂話をこんな場所で言わなくていいでしょう! とにかく僕はこのくだらないしきたりに従うつもりはありませんから!」
クラウスは言い捨てて足音荒く謁見の間から出て行った。
「やれやれ、困ったものだなクラウスには」
「一体なにが不満なのでしょう。歴代の王は大喜びで好みの側室を選んだというのに。あなた様も確か私が選ぶよりも先に側室の目星をつけていましたわよね」
王妃に余計な話を向けられ、王は焦ったようにコホンと咳払いをした。
「い、いや、まあ……、顔や体型の好みというのがあるのでな。だ、だが、一番信頼しているのは王妃だぞ。それは間違いない」
「当たり前でございます。色事にしか興味のない側室と比べないで下さいませ」
「い、いや、そうだな。すまん」
歴代の王と王妃はだいたいこんな力関係だったと聞いている。
『王妃たるもの、毅然と王を叱る気概を持ちなさい』
幼い頃からそう言われ続けてきた。
年上で母のように育ててもらった王妃に王は逆らえない。
権力者にとって逆らえない人間がいるということは大事だ。
王であっても全能になってはいけない。
そういう存在がいるからこそ、暴君があらわれなかった。
でも……。
マルティナはさっきのやりとりですっかり自信を失っていた。
たった二年ですっかり別人のようになってしまった王子。
あの独立心に富んだ王子をどうやって諌めればいいというのか。
とてもじゃないが自分の手には負えない。
もう従順で愛らしい王子はいないのだ。
そして何より気付いたことがあった。
「王様、もしやクラウス王子には想う相手がおられるのでは?」
二年の間にどこかの姫君に出会い、心奪われたのかもしれない。
だから一人だけを愛したいと思ったのだろう。
そうとしか思えなかった。
「なるほど、そういうことか」
「なんてことでしょう。愚かな女に騙されてなければよいのですが」
どんどん気持ちが沈んでいく。
たった二年だったのに、この二年は離れてはいけない年代だった。
王子はもはやマルティナの手の中から勝手に巣立ってしまったのだ。
「王妃様、もしもクラウス様の思う姫が家柄も良く賢い姫であるならば、どうか王子の望みを叶えてあげて下さいませんか? このまま私と婚儀を行っても決して幸せにはならないでしょう。それならば、王子の想い人に王妃の仕事を引き継いだ後、私を解雇して下さいませ」
「な、なにを言うのですか、マルティナ!」
「そうだとも。そなたは非常に優れた王妃の才覚がある。しかも歴代でも一番の美貌じゃ」
「……」
「あ、いや。現王妃の次に美貌じゃな」
王は慌てて言い直した。
しかし王妃はため息を一つついて続けた。
「王妃に美貌など必要ありません。私はそこだけが不満ですが、おおむねあなたほど王妃にふさわしい姫はいないと思っていますよ、マルティナ」
「ありがとうございます。私も自分ほど王子の幸せを願う人間はいないと自負しております。でもだからこそ、王子には幸せになって欲しいと思っています。クラウス王子を幸せにすることが私の勤めと思って今日まで仕えて参りました。だから王子の願いを叶えて差し上げたいのです」
「でもそなた、今さら王妃の座を退いてどうするつもりじゃ。すでに今年二十五になったのじゃろう? この国では嫁き遅れもいいところだ。嫁ぎ先などないぞ」
「もとより純潔の王妃となる心づもりでおりました。結婚は考えておりません。実家に戻り、兄の手伝いでもしようかと思います」
「うーむ、もったいないのう。そなたほどの才能を田舎で終わらせるとは」
「どうじゃ。このまま王宮に残って女官頭として働くのは。初代王妃も元は女官頭だった」
「いえ……王宮からは下がらせて下さいませ」
それだけはマルティナは強く願った。
王宮に残りクラウス王子のそばにいることがどうにも苦痛だった。
そばで見守りたい気持ちはある。
でもその隣に自分ではない王妃がいることに耐えられそうにない。
悲しくて苦しくて憎しみすら感じてしまうかもしれない。
そんな人間が次代の王妃のそばにいてはいけない。
「どちらにせよ、まずは王子に想う姫がいるならその相手を聞き出し調べることじゃ。その素性を探り王子の真意を聞いてくれ」
「帰国早々じゃがさっそく取りかかってくれ」
「かしこまりました。お任せください」
マルティナは暗い気持ちで頭を下げて謁見の間を辞した。
◇
マルティナが王宮から離れていた二年の間に部屋変えが行われていた。
長く王子の隣の乳母部屋だったが、王子には王の下の階にある執務室を伴う個室が与えられ、マルティナは王子の隣に補佐官専用のような個室を与えられた。
殺風景な執務机と大きな本棚、政務官たちと話し合うための革張りのソファセットと、奥には清潔に整えられたシンプルなベッド。クローゼットを開ければ真っ黒なドレスが並ぶ。
以前の乳母部屋よりもさらに可愛げのない部屋だった。
「やっぱりそうなるのよね」
マルティナは部屋を見回してため息をついた。
留学していた他国の宮殿では次期王妃ということで、マルティナの年頃に合わせた花柄の壁紙にカラフルな色合いの可愛い部屋を用意してくれた。
二年間そこで過ごすうちに、マルティナは自分がカラフルで可愛い物が好きなのだと気付いてしまった。ドレスこそ国の規定で黒しか着れなかったが、その他の持ち物は自由に出来た。
部屋の真ん中で持ち帰ったトランクを開けると、色とりどりの小物やハンカチ、帽子や手袋などでいっぱいだ。処分できずに持ち帰ってしまった。
現王妃の部屋を訪ねたこともあるが、この部屋を何倍も広くして豪華にはなっているものの、モノトーンでまとめた政務室の延長のような部屋だった。
歴代王妃はみんなそうだったらしい。
みんながみんなそういう趣向なのかもしれないし、先代にならってそうしているのかもしれない。ともかくマルティナも可愛い物好きは封印しなければならないのだ。
「王妃を辞退して正解かもね。やっぱり私には向いてないんだわ」
マルティナは自分に言い聞かせるように呟いた。
「そうだわ。実家に帰ったら部屋中の壁を花柄にして、可愛い小物でいっぱいにするの。それからフリルたっぷりのピンクのドレスを着て、髪は天井につくぐらい結い上げて、色とりどりのデイジーの花で飾るの」
そんな日々を思い描くと、少しだけ気持ちが上がるような気がした。
「うん。案外その方が幸せなのかも……」
クラウス王子が愛する姫と仲むつまじく過ごす様子を見守る日々よりは……。
「ふーん、マルティナはそんなに王妃になるのが嫌だったんだ」
ふいに背後から低い声がかかって、マルティナは驚いて振り返った。
「クラウス王子……」
ドアにもたれて腕を組んで聞いていたらしい。
乳母部屋時代の気安さでノックもせずにドアを開けることに抵抗感がなかった。
王子もマルティナも。
だから全然気付かなかった。
「い、いえ、嫌だなんて……そういうわけでは……」
「これは留学先で使ってた物? こんな色っぽい帽子をかぶってたんだ。ふーん」
王子は近付いてきてマルティナのトランクの中をのぞき込んでから不機嫌そうに言った。
「あ、いえ。こ、これは付き合いで……その……頂き物なので持って帰っただけです」
本当は自分で買ったものがほとんどだったが、少しだけ嘘をついてしまった。
「頂いたって男から? そういえば向こうの王子の中にはマルティナと同年代のヤツもいたよね。なんか手の早そうな軽いヤツだったよな」
マルティナはドキリとした。
確かにそういう王子がいて、留学している間中しつこく言い寄られていた。
もちろんうまくかわしてきたが、どこかで噂にでもなってるのかと焦った。
「た、他国の王子さまをヤツ呼ばわりするものではありませんよ、クラウス様。二年前はそのような乱暴な言葉遣いはされませんでしたのに」
「まだそうやってお姉さん気取りで話すんだ。いつまで子供扱いする気だよ」
「子供扱いなどしてません。王妃は王を諌めるのが役目ですから……」
「それが気に入らないっての。歴代の王はそれでうまくやってきたかもしれないけど、俺はそういう風になりたくないから」
「つまりそれは……」
自分を王妃にしたくないのだとマルティナは理解した。
「クラウス様。どなたか想う姫がいらっしゃるのですね?」
「!」
マルティナに問われ、クラウスはみるみる真っ赤になった。
それが答えだった。
「差しつかえなければ教えて頂けませんか? その姫の名を」
「な!」
クラウスは信じられないという顔で目を丸くした。そして……。
「さ、差しつかえだらけだよっ! 自分で考えろっっ!」
クラウスは怒鳴るように叫んで部屋を出て行ってしまった。
「自分で考えろと言われても……二年も留守にしていて王子の交友関係などさっぱり分からないのに……」
マルティナは仕方なく、翌日から王子がこの二年間仲良くしていた人物に一人ずつ聞いてまわることになった。
知りたいような知りたくないような……。
いやきっと知りたくないのだろうと気付いていた。
出来ればこのまま誰かも分からず、姉のように王子と過ごせたなら……。
だがもちろんそんな訳にはいかない。
しかし聞けども聞けども、なかなか姫の名は出て来なかった。
王妃が悪い友人と言っていたのは、どうやら商人の子息連中らしい。
町民の服に着替えて夜な夜な酒場に入り浸ったり、賭け事をしたり、いかがわしい場所に出入りしていたらしい。時には商人のキャラバンについていって一週間ほども帰ってこなかったこともあったようだ。王も王妃も大層心配して軍隊を出しての捜索騒ぎになったそうだ。
昔から好奇心旺盛だったが二年の間にそこまで破天荒になっていたとは知らなかった。
仲のいい貴族もいたが、商人仲間のことまでは知らないらしい。
王宮の中で話が聞けるのは貴族だけだ。
情報源がなく、すっかり行き詰ってしまった。
マルティナは意を決して町娘に変装してクラウスがよく入り浸っていたという酒場に潜入することにした。
「マルティナさま、なにも次期王妃さまがそこまでせずとも」
「危険でございますわ。町人の酒場だなんて」
「大丈夫よ。私は王妃見習いとして武術も習ってきたのよ。もしもの時に王のお命をお守りするのも王妃の役目ですもの。町人ごときに負けません」
まだ正式に婚儀も済ませてないマルティナは、現在のところ何の肩書きもないただの田舎貴族の娘だ。王子と一緒の時は多くの衛兵に守られているが、一人の時は自分から頼んだ時以外は護衛の一人もつかない。案外自由な身だった。
「初代王妃シルヴィアさまも、若い頃は町民の暮らしに興味を持たれて、よくお忍びで出かけていたと言われています。だから民の暮らしをよく理解して数々の政策を思いついたのでしょう」
実際は嫁き遅れの女官頭の憂さばらしとして、町の酒場で飲むのが気に入っていたという噂もあるが。王妃の功績を残した今では美談として語られている。
「私も自由な身である今の内に見聞しておいた方がいいと思うの。これがよい機会だわ」
こうして心配する侍女たちをなだめ、町娘の服を用意させた。
「それにしても……今時の町娘は結構おしゃれなのね。このふんわり袖とパニエたっぷりのスカートが可愛いこと」
侍女たちが用意したのは、町娘の中でも裕福な部類のワンピースだった。
さすがに次期王妃にボロ服は着せられない。
色は地味めに深緑にしたものの、黒髪と黒目のマルティナに似合いすぎていた。
ひっつめていた黒髪を町娘風に片側に下ろして花飾りをつけると、ため息がもれるほどの美女に仕上がってしまった。
「黒のドレス以外を着たのなんて何年ぶりかしら。若い町娘に見えるかしら?」
変装とはいえ、色柄つきの服を着たことに、ちょっと楽しくなってきた。
「私どもも町の酒場など行ったことがございませんので分かりませんが……」
「美しすぎて目立ってしまうかもしれませんわ」
侍女たちもマルティナがここまで美女になるとは思ってなかった。
「まあ。おだてなくていいのよ」
「いえ、おだてているわけではなく……」
「立っているだけで気品が洩れ出てしまっております」
侍女たちは心配してマルティナに黒いフード付きマントをかぶるように頼んだ。
こうして侍女二人を連れて馬車で町の酒場にたどりついた。
「本当にお一人で大丈夫なんですか? マルティナさま」
「ええ。町娘が侍女を連れてたら変でしょ? あなたたちは馬車に乗ってここで待っていて」
「危ないと思ったらすぐに逃げて下さいませね、マルティナさま」
「分かったわ。うまくやるから心配しないで」
馬車を路地裏に停めて、マルティナ一人で酒場に入った。
そして店に入ってすぐに自分の姿が場違いだったと気付いた。
こんなパニエたっぷりのワンピースを着た若い女性など一人もいない。
ほとんどが薄汚れた労働服の男たちで、ちらほらといる女性は肌の露出の多いドレスに濃い化粧の、クセの強そうな女ばかりだ。
マルティナが店に入ると、一斉に視線が集まり気味の悪い沈黙に包まれた。
沈黙はすぐに雑音にかき消されたが、纏わりつくような視線はマルティナが席についてからもずっと浴びせられたままだ。
「お嬢ちゃん、店を間違えたんじゃねえの?」
「良い子はおうちに帰って寝る時間だぜ」
「お酒なんか飲めるのかい?」
マルティナの周りにはすぐにガラの悪い男達が数人集まってきた。
「私はもう二十五です。お嬢ちゃんと呼ばれる年でもないし、お酒も飲めます」
「ひゅう、あんた二十五なのか? 見えないなあ」
「こんないい女なのに嫁き遅れたのかい?」
「ああ、それとも離婚したのか?」
「まあこんな所に来るぐらいだから、よほど晴らしたい憂さがあるんだろうさ」
「どうだい? おいらがその憂さを晴らしてやろうか?」
「おいおい、それなら俺が先だよ」
「一番に声をかけたのは俺だぜ」
なんだか分からないが勝手に小競り合いが始まった。
酒臭い男達が間近で胸倉をつかみあってモメている。
次期王妃として男ばかりの世界には慣れているはずだった。
時には現王妃に付き添って会議に出席し、時には他国との交渉の場で発言することもあった。
だがマルティナがこれまで出会った男達はほとんどが上流貴族ばかりで、いきなり目の前で小競り合いをするような輩に接するのは初めてだった。
五人ぐらいの男たちが今にも殴り合いになりそうだというのに、周りの人々は手を叩いて喜んでいる。
「いいぞ、もっとやれ!」
「喧嘩で勝ったヤツがこの美女をお持ち帰りできるぞ」
「よっしゃ。それなら俺も参戦するぞ」
「俺もだ! こんな上玉めったにないぜ」
「うるさいよっ! あんたたち! この子はこの店の客なんだ。勝手に持ち帰るんじゃないよ」
しかし一人の女性の一喝で、あっさり騒ぎは終息した。
腰に手をあててマルティナの前に立つ女性。
年は大人びた口調のわりに若そうだ。
ブロンドの巻き毛を後ろで結って、紺のワンピースに白いエプロンをつけている。
緑目の美しい女性なのに、不思議に場違いな感じがしない。
掃き溜めの鶴のようなのに浮いていない。
むしろ彼女がいるから店が成り立つような絶対的な存在感がある。
「そう怒らないでくれよ、ミランダ」
「そうそう。ちょっと珍しい客だからからかっただけだって」
「やっぱミランダが一番だもんな」
「俺たちゃミランダに会うためにこの店に通ってんだからさ」
「はいはい。分かったから、もう散りなさい」
彼女が命じると、男達はあっさり引いていった。
「あんた、町民じゃないね。どこぞの貴族さまだろ?」
ミランダと呼ばれた少女は、男達が離れると小声で問いかけた。
「え? どうして分かったの?」
「分かるよそれぐらい。立ち姿一つすら全然違うっての」
「もしかして、貴族の知り合いがいるんじゃないですか?」
マルティナは気付いてしまった。
「二年ほど前からよくこの店に来てる青年がいるでしょ?」
「……」
マルティナの問いに、ミランダは黙り込んだ。
そしてポツリと呟いた。
「そうか。あんたクラウスの知り合いか」
やっぱり……と思った。
そしてきっとこの女性がクラウス王子の想い人だ。
言葉遣いには多少の難はあるが、この荒くれ男たちを一声で鎮められるカリスマ性は凡人ではない。その上、この美貌なら貴族のドレスを着せたら見違えるほどの器量になるだろう。
クラウス王子が町娘を好きになるとしたらこの女性以外ありえない。
「クラウス様は……ここでどのように過ごしているのでしょう?」
マルティナは動揺を隠しながらミランダに尋ねた。
「どのようにって、ここは酒場なんだから酒を飲むに決まってるさ」
「一人で飲んでいたのでしょうか?」
「仲のいい連中とさ。今日は……ああ、あそこのテーブルで飲んでるね」
ミランダは一番奥のテーブルで飲む三人を指差した。
彼らは他の客より身なりがよく、年もクラウスと同年代か少し上ぐらいだった。
「金持ちの商人の息子たちだ。ギリスア国の商売はたいがい彼らの家の息がかかってる。あいつらを怒らせたらこの町で商売は出来ないって言われてるよ」
「少し話ができるかしら?」
「バカ、やめときな。あんたみたいな上玉、いいように利用されて売り飛ばされちまうよ」
「悪い人なんですか?」
「悪いっていうか、わけあり女の行き着く先はそこしかないと思ってんだろうね。本人たちはいい事をしてるつもりなんだろうさ」
「わけあり女?」
「貴族の娘がこんなところに来るなんて、わけありに決まってんだろ? それとも……そうか。あんたクラウスに惚れてんだね?」
「えっ?!」
急に惚れてるなどと言われて、マルティナは驚きの声をあげてしまった。
そんなあからさまな問いを受けたこともなかったし、そもそも王宮では惚れてるもなにも王妃になることが決まっていて、マルティナの気持ちなどを尋ねる者はいなかった。
「惚れてるというか……自分の命より大切な人には違いありませんが……」
「そういうのを惚れてるって言うんだよ。あんた二十五にもなって分からないのかい?」
「そ、そうなんですか? 知りませんでした」
自分の知らないことを知っているミランダに敗北感を抱いた。
「でも残念だけど、クラウスはやめときな」
「え? どうしてですか?」
「あいつは好きな子がいるよ。他の女なんてこれっぽっちも眼中にないのさ」
「それはもしかして……」
あなたのことですか? と尋ねようとしたところで、クラウスが仲良くしているという奥の三人がマルティナの周りを取り囲んでいた。
「ミランダ、この美女は何者だい?」
「さっきから俺たちを見ながら話してただろ?」
「もしかして俺たちに用があるんじゃないかと思って、こっちから来てやったよ」
「ひょお。見てみろよ。彼女の服。こりゃあシルクだぜ」
一人の男がマルティナの黒いマントをスルリと脱がしてしまった。
深緑のドレスと艶やかな黒髪があらわになると、周りで見ていた男たちがピュー、ピューと指笛を鳴らして、またしても注目を浴びた。
「俺の妹でもこんないい服は着てないぜ」
「あんた没落貴族の娘か?」
「それとも夫に離縁されて行き場がないのか?」
「金に困ってるなら俺たちに任せておけ」
「い、いえ、私は……」
「服を売ってもいいが……そうだな、このまま大商人の妾になるってのはどうだ?」
「あんたなら高く買ってくれる」
「贅沢三昧させてくれるぜ。悪い話じゃないだろ?」
「あの……私は……」
言いよどむマルティナの手を一人がガシッとつかんだ。
「いや、待て、みんな。俺がもらう。一目ぼれした」
「おおっ! なんだよお前、調子のいいヤツだな」
「そうだよ。お前、もう結婚してるじゃねえかよ」
「彼女を正妻にする。もう決めた」
「おいおい、奥さんに怒られるぜ」
マルティナ抜きでどんどん話が進んでいく。
どうやらこういう男優先社会は貴族も町人も同じらしい。
「あんた。早く帰った方がいいよ。クラウスのことは諦めな。今日は来ないと思うよ。しばらく忙しいから来れないって言ってたからさ」
ミランダがマルティナに耳打ちした。
自分よりもクラウス王子のことをよく知ってるらしいミランダにチクリと心が痛んだ。
(やっぱり、この人がクラウス様の想い人なんだ)
それが分かったなら、もうこれ以上ここにいる必要はない。
「あの……手を離して下さい。もう帰ります」
「え? なんだよ。気を悪くしたのか? 結婚してるってのが気に入らないなら、妻とは離縁するよ。あんただけを大事にする。それでどうだ?」
「いえ、そういうことではなく……」
「ああ。俺ならこう見えても結構な金持ちなんだ。実家は裕福な商人だし、こいつらと新たな事業を始めようと思ってる。将来有望な男だぜ」
「いえ、そういうことでもなく……」
「ははっ。お前が好みじゃないんだってさ」
「じゃあさ、俺はどう? 俺はまだ独身だぜ」
どんどん話がややこしくなっていく。
「いえ。誰とも結婚する気はありませんので。どうか手を離して下さい」
「え? 誰ともってどういうこと?」
「誰か好きなヤツがいるの?」
「ちょっ……とにかく離して」
マルティナが手を振りほどこうとするのに、がっしり掴まれて離せない。
武術は習ってきたが、触れられる前にかわす方法がほとんどだ。
がっつり掴まれた手はもはや力勝負しかなく、女性のマルティナには不利だった。
こんな不躾に手を掴む貴族の男などいないので油断してしまった。
困り果てていたマルティナの腕が、ふいに他の誰かに掴まれた。
そして同時にマルティナを掴んでいた男の腕も掴んでいる。
「え? い、いててて……うわっ……なにしやがる!」
握られた男が叫び声をあげ、マルティナの手から離れた。
「てめえ……あれっ?」
相手に殴りかかろうとした男は、急に動きを止めた。
「クラウスじゃねえか」
その言葉に驚いてマルティナも顔をあげた。
「クラウスさま……」
なぜかクラウス王子が息を切らして恐ろしい顔でマルティナを睨んでいた。
「こんなところで何をしている、マルティナ」
ひどく不機嫌な声だ。
その低い声にマルティナはひやりと心臓が凍りついた。
(見たことがないほど怒ってる?)
当然だった。
勝手に自分のテリトリーに入り込み、想い人に接触しているのだ。
「マルティナ? じゃあこの人が……」
ミランダが驚いたように何かを言いかけた。
どうやらマルティナが許婚だという話も聞いているらしい。
そしてマルティナはこれがとんでもない修羅場だと気付いた。
(もしかして私って想い合う二人の仲を裂く邪魔者じゃないの?)
本命の恋人のところに乗り込んできた、しつこく付き纏う許婚というところか。
(私って最悪だ……)
泣きたくなった。
「ご、ごめんなさい。クラウス様。勝手なことをして……」
クラウスはマルティナの手を掴んだまま、その姿を見下ろした。
そう見下ろしたのだ。
二年前は同じ目線だったのに、今では見上げるほど背が高くなり、掴まれた手はマルティナの力では振り払うことができなくなっている。
二年の月日が二人の関係性をことごとく変えてしまっていた。
クラウス王子はもはや弟などではなく、立派な青年になっていた。
「クラウスの知り合いだったのか?」
「なに? お前の侍女かなんか?」
「貴族さまは侍女も美人揃いなんだな。羨ましい」
クラウス王子はもちろん王子の身分を内緒にしているらしい。
マルティナをご主人を迎えに来た侍女だと思ったようだ。
だがミランダにだけはマルティナの名を教えていたのだ。
つまり……彼女だけは特別なのだ。
またしてもチクリと心が痛んだ。
「なぜ勝手に色つきの服を着ている……」
「え?」
勝手にミランダに会ったことを怒られるのかと思ったが、なぜかクラウスの怒りポイントはそこだったらしい。
「も、申し訳ございません。町人に変装しようと思ったら黒いドレスというわけにもいかず勝手に掟を破ってしまいましたこと、お許し下さいませ」
「……」
クラウスは深緑の服を着たマルティナを上から下まで見た後、悪友たちの顔を見回して「チッ」と舌打ちをした。そしてテーブルに置かれた黒いマントを引っ掴むと、マルティナの頭からかぶせてしまった。
「あの……クラウスさま……」
「お前はここで自分がどういう目で見られてるのか分かってるのか?」
「あ、はい。服装を間違えました。もっと露出の多いドレスと派手な化粧をするべきだったのですね。町人の酒場についてもっと研究してから潜入すべきでした」
「な……」
クラウスは呆れたようにマルティナを見つめた。
ミランダがそのクラウスを見て笑った。
「うふふ。マルティナって聞いてた通りの人だね」
「まったくだ。俺の苦労が分かっただろう、ミランダ」
クラウスも同意して苦笑した。
その様子を見て、マルティナは二人が普段交わしていた会話を思い描いた。
『俺には八才も年上の許婚がいるんだ』
『そうなの? どんな人?』
『両親は気に入ってるんだけどさ、地味で頭がいいだけの女さ』
『どうしてそんな人と許婚になっちゃったの?』
『しょうがないんだ。生まれた時に勝手に決められたんだから』
『でも八才も上だと話が合わなくない?』
『そうそう。考え方がおばさんっていうか、ダサいっていうか』
『うふふ。苦労するわね、クラウスも』
ダメだ。想像しただけで心が折れる。
「とにかく注目を浴びてる。帰るぞ、マルティナ!」
クラウスはマルティナの腕をくいっと引き寄せた。
「なんだよ、もう帰るのか? クラウス」
「例の商談の話をしにきたんじゃなかったのか?」
「いや、マルティナがこの店に行ったと聞いたから慌てて来ただけだ。その話は今度な」
どうやらミランダに余計なことを言われないように飛んできたらしい。
そして商談ということは、王子は悪い連中と付き合うというより、なにか考えがあって出歩いていたらしい。これほど頼もしい青年になっていたとは。
嬉しい誤算というか……。
いよいよ遠い存在になったような気がした。
店を出て王子の馬車に乗って二人で向き合うと、妙な緊張感に包まれた。
クラウスは窓の外を見たまま、むっつりと黙り込んでいる。
その横顔はもはやマルティナの知っている可愛らしい王子ではなかった。
次代の王としての自覚を持ち、自分の意志で国を豊かにしようと夢と希望に溢れた青年。
それはマルティナにはあまりに眩しく……遠い。
さっきミランダに問われた言葉を思い出した。
『あんたクラウスに惚れてるんだね?』
カッと体が熱くなり、顔がほてるのが分かった。
見上げるような背たけ。
つかまれた手の力強さ。
王の風格さえ感じさせる余裕ある態度。
八才も年下だからと安心していたのに……。
恋なんてものを一生知らないままに生きていけると思っていたのに。
王子だけを真っ直ぐ見続けていたなら、誰に心奪われることもないと思っていたのに。
(私は八才も年下の、我が子のように弟のように思っていた王子に惹かれてしまっている)
目の前の横顔一つにトキめいてしまっている自分に驚愕した。
(愚かな……。歴代王妃の中で一番愚かな王妃だわ)
「あのさ……ミランダはマルティナのこと……なんか言ってたか?」
王子は窓の外を見て顔をそらしたまま、マルティナに尋ねた。
「いえ。ミランダさんはなにも……」
「そ、そうか……」
クラウスは少しホッとしたような、残念なような顔をした。
「ミランダさんは何も言わなかったけれど……王子の気持ちは分かりました」
「えっ!?」
マルティナの言葉に、クラウスは弾けたように視線を向けた。
そしてみるみる真っ赤になった。
大人になったといっても、恋愛にはまだまだウブなところがあるらしい。
クラウスにこんな顔をさせるミランダが羨ましかった。
そして羨ましいなどと思ってしまう自分を恥じて、マルティナも顔を赤くしてうつむいた。
「ホントに? 俺の気持ちを分かってくれたのか? マルティナ」
マルティナの手をとって尋ねるクラウスの嬉しそうな顔が心に痛い。
「はい。分かりました。クラウス様の望む通りに私も尽力しようと思います」
「じゃあ……マルティナも同じ気持ちだと思っていいんだな?」
同じ気持ち……ではないけれど、自分が身を引くことに異論はない。
「はい。さっそく王様と王妃様にお話ししてみます」
「マルティナ……君がそこまで積極的に動いてくれるとは思わなかった。君のことだから歴代のしきたりに逆らうことは出来ませんとか言って断られると思ったよ」
想い合う二人の仲を裂いてまで、自分が執念深く王子に縋りつくと思われていたのかと、それもまた悲しかった。
気持ちは確かにクラウスに縋りつきたい。
でもそんな自分だから、一刻も早く王と王妃に話して王宮を出て行かなければ。
クラウス王子のそばから離れなければ。
「マルティナ。王と王妃には俺から話すよ。君は俺が呼ぶまで部屋で準備して待っててくれ」
「準備?」
なんの準備だろうと思った。
「この日を夢見て、君にプレゼントを用意してたんだ。後で部屋に届けるから」
「プレゼント?」
やたらに嬉しそうなクラウスに心が悲鳴をあげている。
そんなにミランダと結婚する日を夢見ていたのだ。
自分の前でそんなに嬉しそうにしなくてもいいのに、とちょっと恨みたくなった。
◇
「これは何かしら?」
部屋に戻ったマルティナに届けられたのは、ピンクのフリルたっぷりのドレスだった。
「クラウス様に、これに着替えて髪を華やかに飾るように言い付かりました」
わざわざ流行の着付けが得意な侍女まで派遣させてきた。
マルティナの侍女たちは、シンプルな黒ドレスとひっつめ髪しか出来ない。
出来る必要もなかった。
「これはどういう意味かしら……」
「マルティナ様なら納得済みだと仰せつかりましたが……」
派遣された侍女たちの方が首を傾げている。
「ま、まさか……」
そういえば留学から帰国した日にピンクのドレスを着たいなどと独り言を言ったのを聞かれていた。だから……。
(王妃の黒いドレスを脱いで、これを来て領地に帰れということなの?)
ずいぶん用意のいいことだ。
まるでとっとと出て行けと言われているような気がする。
(クラウス王子は聡明で独立心旺盛で立派にお育ちになったけど……)
女心はさっぱり理解できない男に育ててしまったかもしれない。
きっとクラウスはマルティナが喜ぶと思ってプレゼントしたのだろう。
念願のピンクのドレスをもらって喜んで領地に帰っていくのだと。
マルティナの心がこんなにずたずたに傷つくなんてまるで気付かずに……。
でもそれも仕方がない。
女心の指南などしてこなかった。
マルティナ自身が恋など知らなかったのだから、教えようもなかった。
自業自得というものだ。
「まあ……なんてお綺麗なんでしょう」
「いつも黒いドレスばかりで地味なイメージでしたが、華やかなドレスを着たら王宮のどの姫よりもお美しいですわ、マルティナさま」
ドレスに着替え、贅沢に髪を結ったマルティナは、若い頃夢見た華やかな姿を鏡に映して、小さなため息をついた。
確かに憧れたドレス姿だったけれど……。
恋を知った今は、想う相手との決別に等しい装いが虚しかった。
八才から今日までの日々はなんだったのだろう。
最後の最後にこんな若い娘が着るようなピンクのドレスを着て追い出されるための日々だったのか。
「二十五にもなって……ピンクのドレスなんて……笑っちゃうわね」
「いえ、よくお似合いでございますよ、マルティナさま」
「ええ。十代の姫だと言っても誰もが信じますわ」
侍女たちがあわててお世辞を言ってくれるのも虚しい。
「少し……一人にして欲しいの。いいかしら?」
「は、はい」
「かしこまりました」
「王子様がお呼びになりましたら知らせに参ります」
「そうね。ありがとう」
人払いをするとマルティナは羽ペンを取り出した。
「ごめんなさい、クラウスさま。私に冷静になる時間を下さい」
クラウスへの手紙をしたため、誰にも見つからないようにそっと王宮を出ることにした。
◇
クラウスがマルティナが部屋にいないと聞いたのはそれからすぐの事だった。
王と王妃を説得して、女官にマルティナを呼びにいかせたら部屋にいないと言われた。
あわてて部屋を探しにきたら、クラウスに宛てた手紙だけが残されていたのだ。
『親愛なるクラウスさま
急に領地に帰ることをお許し下さいませ。
クラウス様とミランダ嬢の婚儀の日には必ず戻って参ります。
そしてミランダ嬢に私がこれまで学んだ王妃の心得のすべてを引継ぎます。
ですがそれまで、ほんの少し心の準備をさせて下さいませ。
八才の時よりクラウスさまの妃となるべく覚悟を拠り所として生きて参りました。
あまりに突然の解任に心は乱れ、少しばかり動揺してしまいました。
このままでは私はミランダ嬢に冷静に接する自信がないのです。
領地に帰り、自分の乱れた心を鎮め、冷静になれる時間が欲しいのです。
戻った暁には必ずや心からお二人の結婚を祝福致します。
どうか私の最後のわがままをお許し下さい。
クラウスさまの幸せを心より願っております。
マルティナより 』
「なんということだ……」
クラウスは手紙を読むなり、蒼白になって駆け出していた。
◇
「マルティナさま、このような夜更けに馬車を出すのでございますか?」
馬車の御者は、こんな夜中にピンクのドレス姿で現れた次期王妃に驚いた。
「ええ。申し訳ないのだけれど、私の実家まで今すぐ行って欲しいの」
「今すぐと言われましても……夜は山賊も出ますし危険でございます。ましてドレス姿の姫様一人なんて誘拐してくれと言っているようなものでございますよ」
「煌びやかな馬車に乗るから山賊に狙われるのよ。一番ボロの馬車でいいから」
「いえ。さすがに次期王妃さまをそのような馬車に乗せるわけには……。せめて護衛の騎士を数人お連れ下さいませ」
「護衛なんて……私はもう次期王妃でもないのに……」
「え? そうなのでございますか?」
御者は驚いてマルティナを見返した。
確かに王妃の証ともなる黒のドレス姿ではない。
何かよほどの事情があるのだろうと、御者は気の毒そうな顔になった。
「だからもう護衛なんてつける身分ではないのよ。馬車の賃金代わりになるような……ちょっと待ってね。留学先で買ったブローチがあったわ。それで送って欲しいの」
マルティナはトランクを開けてゴソゴソと中を探った。
しかしブローチよりも先に思わぬ物が目に入った。
「これは……」
遠い昔、クラウスがマルティナにくれたデイジーの押し花。
あわてて引き出しの中のものをトランクに詰めたので、さっきは気付かなかった。
白い花が似合うと言ってくれた幼いクラウスを皮切りに、次々に王子との日々が思い浮かぶ。
じわりと目頭が熱くなった。
黒いドレスを着ている時は次期王妃という鎧をまとっていたけれど……。
ピンクのドレスはマルティナをただの少女にしてしまう。
予期せぬ涙が勝手に溢れてくる。
「本当は嫌なの。たとえ迷惑がられても、女官頭でも侍女でもいいからクラウスさまのそばにいたいの……」
御者相手にずっと我慢していた弱音が出てしまう。
「マルティナさま……」
「でも私は……きっと冷静でいられないから……うう……王宮を出なきゃダメなの」
泣きくずれるマルティナに近付こうとした御者は、ハッと顔を上げあわててひざまずいた。
「こんなことを言ってクラウスさまを困らせてはいけないから、今すぐ出て行きたいの。だからお願い……馬車を出して……」
懇願するマルティナの背がふいに温かいぬくもりに包まれた。
「?」
驚いて背後を見上げたマルティナは、言葉を失った。
「嫌なら出て行くな。ずっと俺のそばにいればいいだろ」
「……クラウス……さま……。なぜ……」
クラウスに背後から抱き締められていた。
「なんなんだ、いったい。どうやったらミランダと結婚なんて勘違いをするんだよ。俺の想う相手なんて考えなくても分かるだろ?」
「ミランダ嬢じゃなかったのでございますか?」
「ミランダは俺の呆れるほど鈍感な許婚のことで相談にのってもらってただけだよ」
「呆れるほど鈍感な許婚?」
「王と王妃も説得したよ。二人ともマルティナなら許すって言ってくれたんだ」
「私なら許す?」
「ここまで言っても分からないのか?」
クラウスは呆れるように言ってから、マルティナの手をとってひざまずいた。
「俺はマルティナを純潔の職業王妃になんてしたくない。愛してるんだ、マルティナ」
「クラウスさま……」
マルティナは信じられないままにクラウスを見下ろした。
「マルティナは? 俺のこと、どう思ってるんだ」
「ど、どうって……。私はクラウスさまより八才も年上で、王妃のくせに恋なんて……」
「王妃は王に恋するもんだ。それが普通なんだよ」
「でもこの国では……」
「あのさ。公にはなってないけど、歴代の王妃の中にも王に愛された王妃は何人もいたんだ」
「え?」
「俺もさっき王と王妃に訴えにいって初めて知った。現王も尻に敷かれているようで、王妃を愛してるそうだ。長年、子が授からなかったのも王妃の子供にこだわったかららしい。でも結局出来なくて、側室が生むことにはなったけど。だから本当はもうずっと以前から、すでに形だけのしきたりになってたんだ」
「そ、そうなんですか?」
「マルティナがいない二年間、俺は多くの姫君たちを見てきたけれど、誰にも心動かされることはなかった。マルティナ以外の誰にもトキめかないんだ。だからたくさんの側室なんていらないからマルティナだけが欲しいって頼んできた」
「クラウスさま……」
マルティナの目から再び涙が溢れる。
まさかこんなことを言われる日がくるなんて思いもしなかった。
「マルティナの返事は?」
マルティナは涙を溜めたまま、初めて恋を知った少女のように頬を染めた。
「ずっとずっとクラウスさましか見ておりません。今までもこれからもあなた様一人に夢中です」
クラウスは少年のように微笑むと、立ち上がって頭一つ分高くなった背でマルティナを強く強く抱き締めた。
END