ルシオ三級審問官、最後の事件(1/4)
〜 アルール歴1180年 〜
■■ 4月13日23時・帝都某所の地下通路 ■■
このクソッタレが。
左手に持った松明の明かりだけを頼りにして、俺は埃っぽい地下通路を走っていた。さっきから呼吸が苦しい。視界が歪み、霞む。視野が狭くなっているのを意識するが、もう自分ではどうしようもない。
この、クソッタレが。
まだだ。まだ、俺は終わっちゃいない。こんなところで終わってたまるか。三級審問官として20年、俺は最前線でサイコな異端野郎どもと戦ってきた。いかにも善人でございって顔をしながら、夜になると意味不明な理屈で選びだした「教団の裏切り者」を拷問して殺すような極悪人どもと、互いのつま先がぶつかる距離で殺し合ってきた。
だから、俺はまだやれる。今まで乗り越えてきた危機に比べれば、こんなものは危機でもなんでもない。俺が成すべきことはただ一つ、ひたすら前に向かって走り続ける。それだけだ。それだけのことで、俺はもう一度、戦える。
そうやって必死に走っていると、目の前に錆びついた鉄の扉が見えた。やった。やってやった。ここまで来れば、あとは扉を蹴破って外に出れば、そこはもう愛しの帝都だ。まだ完全に逃げ切れたわけじゃあないが、それでも状況は俺にとって圧倒的に有利になった。
だから俺は全力で鉄扉を蹴破って、転がるようにして外に出た。
扉の先には、深い谷に架けられた水道橋があった。今では使われていないが、大昔には帝都に水を供給する重要なルートだったという。
足元は危なっかしいが、逆に言えばこんなところを追って来る奴はいない。落ち着け。そうだ、落ち着け。俺は逃げ切った。ここで足を踏み外して橋から落ちて死ぬなんざ、まるで笑えない。いまは深呼吸して、冷静さを取り戻せ。
だがそれでも、俺は深呼吸の途中で、息を止めざるを得なかった。
水道橋の向こうから、月光に照らされてあの女が近づいてくるのが、見えたから。
この――クソッタレが。
■■ 4月13日14時(9時間前)・審問会派本部第2会議室 ■■
このクソッタレが。
俺は眼の前に広がる惨状を睨みながら、心の中でそう呟いた。
もちろん、こうなるだろうってことは予想していた。伊達に異端審問官を20年もやっちゃいない。この程度の予想もできないようじゃ、とうの昔に異端者の祭壇に飾らえるオブジェになってただろう。
だが実戦ってやつは、常に予想を裏切る。俺が講じておいた対策はことごとく打ち破られ、もう俺には最後の切り札しか残っていない。
この、クソッタレが。
口の端まで上がってきたその言葉を飲み込むと、俺は懐に押し込んでおいたフラスクを取り出し、中身を口に含んだ。フラスクの中身は、限界まで濃く淹れた茶――これを茶を呼ぶのは茶に対する冒涜だが、成分表示をすれば「茶」になるはずの液体――だ。あまりの苦味に思わずうめき声を上げたくなるが、必死でこらえる。普通ならこのドーピングをすれば、午後いっぱい持つはずなのだ。
「――で、あるからして……よってこの新たな状況に際し、我ら審問会派としては、緊急かつ敢然たる対処を――」
「そうは言うが、そもそもこの問題は――つまり本来、この状況に至った責任を問われるべきは我々ではなく……従ってここで性急な動きを見せれば政治的に――」
ドーピングしたにも関わらず、一瞬で意識を持っていかれそうになる。
まだ俺が新人だった頃、同期に「死ねばいいのに」が口癖だった女がいて、俺はあの女がそう口にするたびにイライラしていたし、あいつが異端教団に殺されたと聞いたときは内心で「ざまあ」とか思いもしたものだが、そういう過去の遺恨はさておき、いまこの会議室で無限の議論を繰り返している老人どもには「死ねばいいのに」以外の感想が湧き上がろうとしない。
ああ、このクソッタレな神よ。
こうなることは、分かっていた。
千年を越える栄華を誇るアルール帝国と、真理の守護者にして代理人である教会は、これまでこのエルマル世界の繁栄と平穏を守ってきた。なかでも特に、異端審問官の元締めたる〈審問会派〉は、世界を影から蝕む異端者どもとの戦いにおいて、常に最大の犠牲を払ってきたのだ。
だがこのところ、よりによって帝国と教会の中心地である帝都アルール・ノヴァで、小規模な異端教団が次々に発生するという重大事件が発生している。教団の規模はいずれも小さいが、どんなに取り締まっても翌週にはまた大量の異端教団が結成されているありさまで、まるで対策が追いついていない。異端教団なんてものがそうポコポコ生まれたりはしないのだから、これはつまり「いつのまにか帝都では想像を絶する数の異端教団が成立していた」ということに他ならない……はずだ。
どうしようもなく、腹が立つ。
この状況を真に受けるなら、誰がどう考えたって俺たち審問会派がいま成すべきことは、組織の総力を結集して帝都の異端者狩りをすることだ。少なくとも、尋常ならざる眠気をこらえながら、にっちもさっちもいかなくなっている会議を聞くことではない。
けれど現実に発生しているのは、審問会派の上層部が互いに責任を押し付け合う、おっそろしく見苦しい会議でしかない。こんな調子では、とてもではないが帝都から異端を掃滅するなど不可能だ。
実に俺らしくないそんな思いを転がしつつも、現実問題として言えば今の俺にとって最も重要なのは欠伸を噛み殺すことだと気を引き締める。何の因果か審問会派のお偉方が集まる会議に参加を要請された俺としては、だらしない振る舞いひとつで審問官資格を失う羽目になるなんざ、想像したくもない。
とはいえ昨晩も徹夜で帝都を駆け回っていた俺の疲労は、ピークに達しつつある。朝から退屈な会議に駆り出された挙げ句、会議参加者用の豪華なランチを食べ終わっての午後1時ともなれば、襲ってくる睡魔の強さは尋常ではない。
そんなとき突然、俺の名前が呼ばれた。
「――ですので、私たちは実際に現場の声を聞くべきです。
ルシオ三級審問官。帝都における異端との戦いは、率直に言えばいかなる状況にありますか?」
どんよりとした空気が立ち込める会議室に、凛とした声が響き渡った。俺は慌てて姿勢を正すと、声の主に向き直る。
俺に率直な意見を要求したのは、この退屈極まりない会議に午後から参加した、美しい女性審問官だった。
彼女の名はザミーラ・シャレット。この地でアルール帝国が産声を上げた頃から続く大貴族であるシャレット家の一員にして、類まれなる美貌と才能をもって知られる、当代きってのエリート審問官。そうでありながら謙虚にして剛毅かつ愛される人物でもあり、審問会派の内外問わずに愛称である「ミルカ」で呼ばれている。
「もし人の世に完璧というものがあるならば、彼女こそがそれに相応しい」と詩人が歌う、まさにパーフェクトとしか言いようのない人物だ。
「失礼しました、ミルカ一級審問官。その、少々、集中力を欠いておりました。
いま、自分に率直な見解を示せと命じられたように思いますが……ええと……正気、もとい、本気ですか?」
俺の言葉に、列席者から失笑が漏れた。少なくともこの場において発言を許されるのは最低でも二級審問官であって、現場を駆け回る三級審問官が発言するなど、横紙破りも甚だしい。つうかなんで俺なんだ。公開処刑じゃねえか、こんなもの。
だがミルカ審問官は上品に小首を傾げると、俺の発言を促した。
「現場の意見なしに机上の空論を回したところで、時間の無駄です。
命令が必要であれば、私が貴方に発言を命じます。ですが個人的には、ルシオ三級審問官の自発的な協力に期待します」
かのミルカ審問官にここまで言われては、逃げようがない。俺は覚悟を決めて、それでも嫌々ながら、起立する。
その途端、俺に視線が集中した。いや、わかってる。俺がそういうツラをしてるってのは、よくよく分かってる。
確かに俺は異端審問官だが、ランクとしては「三級」、つまり正式な審問官としては最下位だ。不器用な俺は、いわゆる政治が苦手で、今に至るまでずっと危険な最前線任務に就いてきた。
その任務の中で唯一得たのが、頬に残った深い傷跡だ、もともとゴリラ系の造形をした顔に、道行く誰もがぎょっとするような傷跡が刻まれたら、そりゃあ誰だって伝説の怪物を見た的な気持ちになるだろう。
だから俺は、こういう場で何かを発言しても碌な反応が得られないという経験だって、何度も繰り返してきた。言うだけ虚しい話だが、「自分は出自や性別に囚われない」ことを誇りにしているインテリさんたちですら、ミルカ審問官みたいな美女は優遇するし、俺みたいなバケモノ人間の言葉には耳を傾けようとしない。そんなもんだ。
「はっきり言えば、現場はもう限界に達してます。
自分は今日この会議に呼ばれることを知ってましたが、それでも昨晩は徹夜で捜査をするしかなかった。誰も彼もが似たようなもんです。ほとんどまともな休憩も取れず、昼夜なく帝都を走り回ってますから。
そりゃあ自分たち現場の人間も『なんとかしなきゃマズい』とは感じてますけど、気力も体力も尽き果ててます。現状、これ以上に任務を増やされても、自分たちが実際にどれくらいやれるかってことになると――まあ、かなり怪しいですね」
投げやり気味ながらも、今の現場が抱えてる不満を、ストレートに口にする。上の連中が何を考えてるのかは知らないが、これくらいは言ってもバチはあたらねえだろってくらい、前線は疲弊しきってる。
だのにその上の連中は、ゾッとするくらいにテンプレな反応を返してきた。
「怠慢だ!」
「職務放棄だ!」
「神の下僕としてあるまじき言葉!」
「異端者による思想汚染だ!」
……頼むぜ神様、こいつらに「異端者は会議室にいるんじゃあない、現場にいるんだ」みたいな啓示を下してもらってもいいんじゃねえの?
俺が怒りを通り越して呆れ顔をしそうになったそのとき、ひとりの一級審問官が挙手すると、杖を片手にゆっくりと立ち上がった。審問会派でも長老格の、クラウディオ一級審問官だ。ここ一月ほど、病気がちとかであまり人前に姿を見せなかったが、ついに公務を再開したというわけだ。
教皇直属の助言者として働いたこともある彼が立ち上がったことで、会議の場は一瞬にして静まり返った。
「諸君。まずは己が足元を見たまえ。
私も含めて、この場にいる審問官は誰も彼も、実に美しい靴を履いている。審問会派の歴史と伝統に相応しい、品格と格式を備えた靴だ。
一方、ルシオ三級審問官の靴はと言えば……論評にも値しない。今にも底が抜けそうな、貧乏人の靴でしかない」
老クラウディオの言葉に、会議室にはどっと笑いが溢れる。この途轍もない侮辱の直撃を受けた俺ですら、恥ずかしさと怒りと情けなさと泣きたさが入り混じって、半笑いしかできずにいたくらいだ。笑わなかったのは、ミルカ審問会だけだった。
だが老クラウディオが再び口を開くと、会議室の空気は一変した。
「つまりこれは、この場にいる審問官のなかで、ルシオ三級審問官の言葉が最も正しいということだ。
諸君。審問官にとっての勲章は、履きつぶした靴だけだ。私も含め、傷一つない靴を履いた審問官など、審問会派にいてはならない。もし私の師匠がこの場にいれば、我らは雁首揃えて訓練場を夜明けまで走らされることになっただろう」
静まり返った会議室に、クラウディオ審問官の老いてなお迫力ある声が響く。さすがに、「審問会派の獅子」という二つ名を守り続けているだけのことはある。
「審問会派の歴史? 伝統? そんなものに何の意味がある!
我らは常にいまが正しいか否かを問う者であり、それゆえに我らのいまが正しいか否かが常に問われる。
ミルカ・ミルーシュカ・ザミーラ・シャレット一級審問官、君がこの場にルシオ三級審問官を招いたのは、そういうことではないかね?」
老クラウディオの指摘に、ミルカ審問官は苦笑交じりの笑顔で答えた。老クラウディオはミルカ審問官の名付け親だそうで、今なお彼女を幼名である「ミルーシュカ」で呼ぶ数少ない人物でもある。
老クラウディオが杖を頼りにゆっくりと着席すると、指名されたミルカ審問官は再び立ち上がり、新たな提案を口にした。
「ルシオ三級審問官が報告してくれたように、前線で異端者を捜索している審問官たちは疲労の限界に達しています。このままでは最悪、貴重な審問官を喪失することにも繋がりかねません。
これに基づき、現在帝都で異端教団の捜索と摘発にあたっている審問官らに対し、明日から9日に渡り、3日ずつ三交代での休養を提案します。その間、現場が手薄になるという問題については、応急処置として私たち綺麗な靴を履いた審問官が穴を埋めましょう。
現状を分析するに、今回の異端禍はもはや、短期決戦で片付けられる状況ではありません。長期戦を戦える体勢へとシフトすることが、私たちにとって急務であると提案します」
それまでの混迷が嘘だったかのように、ミルカ審問官の提案はほぼ全会一致で認められた。実際のところ、「今回の小規模異端教団大量発生問題を迅速に解決することは不可能であり、腰を据えた対応が必要だ」というのは、この場にいる誰もが共有する認識だった。
たったそれだけのことを決めるために半日かかったのは、それを口にした者がその責任を取らねばならないからに過ぎない。そしてミルカ審問官が「自分が責任を負う」と遠回しに宣言したからこそ、会議は決着したというわけだ。
俺としては怒っていいのか喜んでいいのか誇っていいのか混乱するばかりの決着だったが、会議の最後にミルカ審問官から「ルシオ三級審問官の勇気ある報告に感謝します」と言われると、まぁ悪い気はしないなってところで気持ちも落ち着いた。かくして3時の鐘が鳴る前には、皆で「天に栄光を、地に繁栄を、人の魂に平穏あれ」と唱えて会議は解散とあいなった。
――が、それですべての話し合いが終わったわけではなかった。
ミルカ審問官じきじきにお褒めの言葉を頂いた俺は、そのことに気づいていなかった。そしてその不用心さこそ、俺が死地へと追い詰められる、直接の原因だった。
だのにそのときの俺は、内心でヘラヘラ笑いながら、「これでミルカ審問官とお近づきになれりゃ最高なんだが」なんていう、途方もなく馬鹿なことを考えていただけだったのだ。
■■ 4月13日15時(1時間後)・審問会派本部某所 ■■
3時の鐘がなったとき、その部屋には2人の人物がいた。
テーブルの上に並んだ茶器は華やかで、そこに注がれた茶もまた清らかな芳香を放っていた。茶菓子として用意されたのがシンプルなドライフルーツだけというのは、どちらかの趣味だろう。
「……それで、ルシオ審問官はどうです?」
「硬骨漢を気取れども、中身は腑抜けよ。そのうえ、うっかり意志堅固と見間違えそうなほど、愚鈍だ。
自分の金玉よりもカネのほうを選ぶかと思えば、タマを売ったカネで女を買いに行く類の馬鹿に、つける薬はない」
交わされる言葉はいささか下品だが、ティーカップを手にした彼らの所作は完璧なまでに優雅だ。
「手厳しいですね。では彼は、私たちの計画の障害には成り得ないという理解でよろしいですね?」
「その用心深さは、実に君らしいな!
だが彼は取るに足らない羽虫に過ぎん。羽音は煩わしいが、それだけのことだ」
「最期は自ら火に飛び込む、と?」
「君が最初にそう読んだようにな。この話はここまでだ」
二人は限りなく無表情に近い微笑みを交わすと、繊細な絵付けがなされたカップをソーサーに戻した。
「了解しました。
ところでクラウディオ閣下はこの後、ご予定があるのでは? お茶をご一緒できたのは嬉しい限りですが、そろそろ互いに腰を上げなくては、『一級審問官は時間にルーズだ』と謗られかねません」
「安心したまえ、ミルーシュカ!
いざとなったら走っていくさ。私だってまだまだ若い者にかけっこで負けたりはせぬよ――君には勝てぬにしても、な」