9話:恥ずかしい思い
俺は一心不乱に走る。
今日の一時間目は、俺の苦手な魔法学。教室はB棟三階の七番教室だ。
(畜生、こんなときに限って三階かよ……)
一階から三階へ、階段をダッシュするのに約二十秒。地味に痛いロスだ。
昨日アイスを買ったコンビニ、シャルと鬼狩りの三人組と出会った十字路を超え、しばらく走る。すると前方に帝辺高校の大きな校舎を捉えた。
校舎時計の示す時間は八時二十八分。
(……いけるっ!)
正門を抜け、B棟で土足から上履きへ履き替えた俺は、一段飛ばしで階段を駆け上がる。
そしてようやく視界の端に七番教室を捉えた。始業を告げるチャイムはまだなっていない。――俺の勝ちだ!
「セーフっ!」
勢いよく扉を開けるとそこには――着替え中の女子性徒たちのあられもない姿があった。
「あ、あれ……?」
まるで時が止まったかのように静かな世界で、侮蔑の視線がナイフとなり我が身を穿つ。俺はその全てを甘んじて受け止め、そして雄弁に頭を下げた。
「……すまない」
――そして時は動き出す。
「き……きゃーっ!?」
「で、出ていけーっ!」
「最低っ! 変態っ! ゴミクズっ!」
罵声と共に雑巾にチョーク、黒板消し、果てには椅子までもが俺の体を打つ。それでも俺は倒れない。否――倒れるわけにはいかない。彼女たちの受けた恥辱は、こんなものではないのだから。
既に満身創痍な俺の前に立ちはだかったのは、同じクラスの委員長、東条貴凛だった。
「神夜式久……おまえという男は……っ!」
凛とした顔立ちに長くて艶やかな黒髪が特徴的な彼女は、上下にお揃いの白い下着のまま、顔を真っ赤に染め上げている。規則に厳格で風紀の乱れを嫌う彼女の目には、今の俺はどう映っているのだろうか。
「へっ……やれよ」
既に覚悟はできている。右の頬を差し出した上に、なんなら左の頬を献上することだって厭わない。
「こんの……いっぺん、死ねぇーーーーーっ!」
「へぶっ!?」
音速に迫る勢いのビンタが炸裂し、俺の頬に季節外れの紅葉が咲いた。
(嗚呼……それでいい……)
かくして元々雀の涙ほどしかなかった女子の好感度は、一瞬にしてマイナスへと振り切れることになった。一度失った信頼を取り戻すのは難しい。帝辺高校に通い始めてたった三ヵ月で、その後三年間の独り身が決まってしまった。
■
なぜ魔法学の授業教室であるB棟三階の七番教室が、女生徒の更衣室になっていたのか。その真相を究明すべく、職員室へ向かった。
そこで俺は、今日の授業は来週に控えた対校戦のため、臨時の実技テストに変更になっていること、開始時間は九時だということを告げられた。
(あー……、そういえば昨日のホームルームで、先生がそんなことを言っていたっけか……)
ついでに言うなら、夜の魔法の鍛錬のときにも友人の一人が言っていた気がする。
あまりにもいろいろなことがあり過ぎて、すっかり忘れてしまっていた。
体操服を持って来ていない俺は、仕方がなく制服のまま、実技テストの会場である運動場に向かう。
そこでは体操服に着替えたクラスの男連中が、楽しそうに談笑していた。
(それにしても……)
実技テストが男女別で行われることに、これほど感謝する日が来るとは思いもしなかった。もし男女合同だったならば、俺は刺すような視線の中、地獄のような一日を過ごしていたことだろう。
「おはよう」
適当に朝の挨拶をして、クラスの輪に加わる。
その場にいた友人たちは「おう、おはよ……う?」と微妙な挨拶を返してくれた。どうやら、俺の頬に咲いた紅葉が気になるらしい。
すると皆を代表して緑里が、その細い糸目をさらに細めて、俺に問いかけてきた。
「シキやん、体操服忘れたん? ……それにその顔、どないしたの? えらい腫らしてるやん」
「服は普通に忘れんだけど……。顔は……その、ちょっといろいろあってだな……。まあ、気にしないでくれると助かる」
俺は回答を濁した。まさか口が裂けても、『いろいろあって女子更衣室にお邪魔した』とは言えない。
その後、しばらくすると体育教師であり俺たち一年C組の担任でもある日取飛鳥先生が姿を見せた。
「おう、お前ら、おはよう。早速だが今日は、昨日のホームルームでも説明した通り、実技テストを行う。……ん? 神夜、お前体操服はどうした?」
全員が体操服の中、一人だけ制服の俺は否が応でも目立ってしまう。
「あー、すいません。家に忘れました」
「全く、仕方がない奴だな。まぁ、いい次から気を付けろ。――よし、それじゃまずは準備運動からだ。体育委員、任せたぞ」
そういうと飛鳥先生は、手際よく実技テストの準備をし始めた。