第二章 虚構と現実 3
β-type
未体験の地震後、恭介は全速力で山道を駆け下り、数分前までは閑静な住宅街であった場所に立っていた。古い家屋は崩れ落ち、窓は全ての建物で割れている。辺りは鼻を刺激する臭いが黒煙に乗って早くも充満し始めていた。鼻を摘み嗅覚を封じたいという衝動に駆られた恭介だが、視覚が捕らえる現状から逃げることは出来そうもない。恭介は走るのをやめ、ゆっくり歩きながら住宅街を進み、危機感さえ麻痺させる焦燥感の芽生えを覚えた。聴覚は絶えず何かが崩れ落ちる音を捉え、その都度緊張を迫られるこの状況は一体どうすれば解決できるのだろうかと、恭介は考えざる終えず、しかし回答は出なかった。
恭介が悶々と街の惨状を受け入れ始め、比例して仲間への安否に対する不安を募らせていたとき、それをやめさせたのは瓦礫と化した古い家屋からの小さな人の声だった。
「…………」
それは決して何を言っているのか分からず、だからこそ緊急を要する救済を求める声だと恭介は思った。
思った瞬間恭介は走ってその崩れた瓦礫へと向かった。瓦礫はへいに囲まれており、入り口だけ見れば崩壊は無く、日常のままであった。だが中は完全に家屋の形状を留めておらず、廃材置き場に近い状態となっていた。
「大丈夫ですか! どこにいますか!」
恭介は緑のコケが多く生える庭から大声で叫んだ。瓦礫からは絶えず何かが零れ落ちる音がし、なんとか声を聞き取ろうと恭介は瓦礫に近づいていった。
「た、助けてっ!」
恭介は瓦の下、恐らく玄関があったのであろう場所で確かに声を聞いた。
――ここなら瓦礫を除ければ助けられる!
思ったと同時に恭介はそこらじゅうにある瓦や木片を庭へと投げ、声の聞こえた場所を捜索した。すぐに瓦礫から人の手が見え、程なく顔を確認することが出来た。表情は力なく、埃が顔中を汚している。頭からは鮮やかな赤い血が流れ、短い髪の毛を額に張り付かせていた。どうやら男性のようで、見た目では自身の倍はありそうな年齢を感じさせた。
「大丈夫ですか? 今、今助け出しますから!」
恭介は埋もれたその人を助け出す為に、さらに回りに合った瓦礫を除けていった。そして恭介には分かってしまった。彼の両足は決して曲がってはいけない方向へと湾曲し、腹部は服が裂け、おびただしい量の血が流れていた。出来上がった血だまりは恭介が人生で見た中でも明らかに異常な量の出血であった。彼は死ぬ。確実に助けることは出来ない。恭介は自身の顔から血の気が引いていくのを感じ、必死にそれを何とかしようと顔を三発叩き、
「苦しいですか? 俺に何か出来ることはありますか?」
全てを理解してもなお、瓦礫をどかし続けた。
「か、家内はぶ、じです、か? 娘はど、こ……」
恭介はすぐには回答できず、押し黙り、考えるように空を見た。脳内に巡った答えを言うべきなのか。現実をそのまま伝えるべきなのか。恭介は澄み切った空から今にも消え入りそうな表情をしている男へ視線を戻した。
「奥さんは……先に助け出されていますよ。今、娘さんを、迎えに、行っている……ところです」
「そう、か。よか、った」
それが恭介の出会った他人の最後の言葉となった。恭介のついた嘘を信じ、そして二度と戻らない場所へと逝ってしまった。恭介はほんの一瞬前まで生きていた男を目の前に、罪悪感と、死を目撃したことで強烈な吐き気に襲われていた。
「これは、こんなのって、ない、だろ……」
弱々しく四つんばいでその場を何とかか離れ、へいにしがみつくような形で何とか恭介はその場に立った。振り返る事は出来なかった。初めて人が死ぬ瞬間を見て、気が動転し、気が付けば恭介は焦燥の漂う住宅街を駆け出していた。目の前で人が死んだという事実もあるが、何より仲間が同じような状況に置かれているのではという考えが脳裏をよぎり、耐えられなくなっていた。一刻も早く仲間に合いたいと願い、勢いもそのままに足は繁華街へと向かっていた。
――その時だった。恭介の耳に、崩落した地元の町に、一種の冗談にしか聞こえないような機械的なアナウンスが流れたのは。
Σ-type
少し前の事、中野はようやく動転した感情を押さえ込み、現実を受け入れて歩き出せるようになっていた。トイレを出ると小さかった銃声は益々大きくなり、そしてかなりのスピードで音は少なくなっていた。呼応するように、中野は銃声のする方向へ走り出す。銃は構えていなかった。冷静になり、現状を少しでも改善する為に現場へと向かうのだ。
中野には確信にも似た予測があった。おそらく銃での打ち合いは近接攻撃となり、つまりは高確率で相撃ちが起きているだろうと。
――高谷は間違っている。問題を解決する為に同じ存在を争わせるなど、うまく行くはずが無い。恐らくは二割、いや最悪半分がお互いに攻撃しあって命を落とすかもしれない。現にもし自身が早くソレに攻撃を仕掛けていなかったら、今頃は俺が床に転がっていたかもしれないではないか。
移動距離にして約一キロ、無機質なコンクリートに囲まれた道を進み続けること五分ほどであった。高谷のアナウンスと同時に轟いた銃声はもう完全に無くなっていた。そして、現場に到着した中野は呆然とその光景を眺めるのに終始していた。
広大ともいえない空間にはおよそ二十人あまりが配備されていたとして、その倍の四十人が一斉に引き金を引いていたのだ。壁という壁はすべて銃弾の雨で崩れ落ち、粉塵となって辺りに漂っていた。
「くそっ! これじゃ……こんなの当然の結果じゃねえか!」
崩れたコンクリート片は全て赤い血に染まり、足元には夥しい数の死体が転がっていた。中野は生存者を確認すべく一人づつ入念に脈を確認し、血の海と化した現場を移動した。
誰か生きているかもしれない。それだけを頼りに根気強く動き回ってはうつぶせになっている体に触れ、落胆し、また隣へを繰り返した。同じ顔が必ず二人おり、死体だらけという凄惨な光景をさらに異様たらしめている。
そして、すべての作業を終えた中野はその場に崩れ落ち、生存者がいなかった現実を目の当たりにした。コンクリートで建造されたRT-1では場違いな支給品の迷彩服は真っ赤に染まり、肌の露出した部分は顔も死者の血が付着した。
「がああああっ!!」
中野は激しい落胆と高谷に対する怒りで叫ばずにはおられず、同時に凄まじいスピードで高谷のいるであろう会議室へ走り出した。
――ふざけるな、ふざけるんじゃねぇ! こんな決断があってたまるか! あの野郎に目にもの見せてやる!
怒りに我を忘れ、まだ他に配置されていたであろう隊員の安否を確認することさえ考える事が今の中野には出来なくなっていた。
自身が最初に行なった殺戮。この事実が中野を苦しめ動かし、高谷を止めねばという考えを生み出していた。その為にはたとえまた自身が殺戮をしてしまうかもしれないという覚悟とともに。
中野はただ走り、僅か数分で高谷がいるであろう会議室の付近まで近づいた。
だが、中野は高谷を捉える寸前で足止めせざる終えない事を耳にした。それは機械的な音色で蛍の光を流し、機械的な声で喋りだした。
『緊急放送、緊急放送。只今、直下型の大規模地震により不測の事故が発生しました。つきましては、市内全域の指揮系統を一時軍の管轄に置き、指示、命令にしたがって頂きます。また、現在未知の生物が市内全域に派生しております。市民の姿に変化しており、大変危険な存在になっております。もし同じ容姿をした人間を確認した場合、危害を加えてくる恐れがありますので、落ち着き、速やかに避難をしてください。つきましては現在におかれる状況により、超法的措置を適応し、一時的な武器の所持を許可いたします。避難の際は自衛隊関係者の指示に従い、くれぐれも細心の注意を払い、対処をお願いします。避難場所は巨大加速器RT-1の施設内となります。住所は――』
中野は呆然とその放送を聞いた。これは施設内で放送されているのではなく、明らかに町全体へ向けて放送されていた。つまりは今中野が見てきた光景と同じ惨状が町でも起ころうとしている事を意味し、止めようも無い事態となってしまった事を認識させるには充分な効果があった。
――ちくしょう。俺のせいじゃない。俺は悪くは無いんだ! なんでこんな事に……行かねえと町に!
頬を流れる涙に一切気付くことなく、高谷に対する怒り以上の自責の念を胸に中野はRT-1の出口へと走り出していた。
その行動と同時刻で高谷は別の行動を起こしていた。放送を行ない、今後の活動をすべて自衛隊の管轄にすることで、形式上はこの問題の管轄から外れることに成功し、かつ実質的な決断は自分で行なえる立場であることも事実にした。すべては超マイクロブラックホールの観測を継続するためであり、余りにも異常で残酷な行動も単なる時間を稼ぐための方便でしかないことに、周りの人間は保身と混乱で気がついてはいない。
――せいぜい混乱していればいい。その間に私は偉大な発見をするのだ。すぐにでも実験の 観測結果を元に再実験のシミュレートを行なわなくては。
高谷の狙い通りに動くかのように、混乱は増長していた。指揮権を手にしたのはこの実験をするにあたって軍事管轄となったために、強制的に参加を余儀なくされていた。岩田次郎であり、岩田は高谷の言うとおりに行動した。
「施設内にいる隊員をすぐに入り口に集めろ! 町は混乱している。速やかに出動してこれを抑える必要がある。対処法は高谷教授に聞いてあるので問題ない。とにかく早急に体制を整えるんだ!」
全てが高谷の考えどおりに動き、混乱していく。唯一共通で真実なのは、確実に町は凄惨な未来へと動いていることだけであった。