蒼いガンマリバス
夕暮れ時のバスに揺られながら、窓の外に目を向けていた。どこに焦点を合わせるでもなく、ただ、何かあるといいな、と、小さく願いながら。
俺の容姿は少し怖い。背が高く、特別筋肉質なわけではないが、骨格がいいので体は大きく見える。
太い体と対照的に、というわけなのか、目はやや細い。鏡で自分のことを見る度、睨んだようなその目に、苛立ちと、得体の知れない恐怖を感じることがある。そんなにお前は自分のことが憎いのか、と。
自分自身、自分が大嫌いで仕方がない、なんてことは特にないが、「もしかすると、本当の気持ちは鏡の向こうに現れているんじゃないか」と考えてしまったこともある。
要するに、だ。
俺は、自然と周りに人が寄って来るような人間ではない。自分から近づいても、逃げられるわけじゃないが、五人組の輪に入り込むと、誰かひとりくらいはスマートフォンなどを触りだす。
ふとバス内に目を戻してみると、スマートフォンを触っている人は多い。あの小さな画面に収められた世界は、それほどにまで魅力的なのだろうか。
もちろん俺だってスマートフォンくらい持っているし、SNSなどもそれなりに使うが、あまり好んで使いたくはなかった。俺にとっては、この、流れていく日常的な風景の方がずっと魅力的だった。
バスが止まった。景色も止まる。そんな時、一本の木から、黒い鳥が飛んだ。カラスだろうか。
どんな鳴き声をしてるだろう、と耳を傾けてみたが、窓と騒音で何も聞こえなかった。そもそも鳴いていなかったのかもしれない。
なんで鳥の鳴き声なんか気になったのか、とバスが再び動き出してから、思った。カラスかどうかを確認したかったんだな、と考えた次に、「そういえば」と懐かしい物語を思い出した。
漢詩だっただろうか。詳しくは覚えていないが、大学受験で見た参考書の中にこのような毛色の話が収録されていた。
醜い声を持ったが故に孤立した鳥がいて、その鳥が他のどこかに身を移そうとする。確か、その鳥はこの場での関係を築くことを諦め、新たな場所で新たな関係を築きたかったのだったと思う。だが、旅立つ前に、他の鳥にこのようなことを言われるのだ。
根本を直さなければ、どこに行っても君は孤立するよ。
それを読んで、「そうか、この鳥は俺だ」と思ったのが、薄っすらと、記憶の残滓に残っている。
声なんて変えようがないのだから、あの鳥はどうしようもなかったのだろう。
同じように、俺のこの容姿じゃあ、根本を直すことはできない。諦めるしかない。
不気味な男は不気味にしかなれない。それなら、その道を究めるべきだ。
そんなことを思ったわけではないが、いや、心のどこか隅の方で嘯いたのかもしれない。
どちらにせよ、俺は自分の容姿に抗うことをやめた。
このしかめっ面に似合う言葉はどんな言葉だろうか。
授業中、登下校のバス、トイレ、風呂、ベッド、夢の中。一日中それを考えていた日もあった。
そして、ふと我に返った。
俺は何を考えているんだ。どこに向かっているんだ。
何のために生きてるんだ。
急に考えてることの規模が膨張したな、と嘲笑した。だが、一瞬の次に笑えなくなった。
俺は、何のために生きているのだろう。
授業中、登下校のバス、トイレ、風呂、ベッド、夢の中。考えてみたが、答えは出なかった。
青春漫画みたいなことを思いつく限り羅列してみたが、どうもしっくりこない。そもそも彼らと俺では外見も中身も違いすぎる。服屋でいい服がないかと探していたら、いつの間にか子供服売り場で悩んでいたような恥ずかしさがあった。俺はいったい何を真面目にブレインストーミングしているのか。
自分の答えを見つけるのを放棄してみると、他人の答えが気になってきた。周囲の人間は何のために生きているのか。
急にそんなこと訊ねたら変な顔されるな、と嘲笑した。だが、一瞬の次に笑えなくなった。
その質問こそが、俺の容姿に似合うんじゃないか。
お前は、何のために生きているんだ?
部屋でひとり、呟いてみた。しっくりきた。ああ、俺に似合う服はこんなところにあったのか。
初めてその質問をしたのは大学二年のとき。部活の後輩三人がちょっとした悪事をはたらき、それについて先輩として説教する、その流れだった。
「お前らは、何のために生きてるんだ?」
その瞬間、表面だけ反省していた彼らの顔に、初めて表面的じゃないものが見えた。「驚き」のような、「すっとんきょう」のような、「なに言ってんのコイツ」のような。
それから彼らは顔を見合わせ、黙り込んだ。
その時は「こいつらは、それを考えたことがないんだな」という結論に至ったが、そうでないと分かったのは、いくらか時を重ねていた後のことだった。
校舎内で彼らを見かけた、と思ったら、「先輩がさあ、急に『お前らは、何のために生きてるんだ?』とかキレだして。意味分かんねえよな」「そんなの金と女に決まってんじゃんか」「俺は自由、かな」「地位と名誉、手に入れてえなあ」なんて喋っていたのだ。
そう思っているなら正直にそう答えて欲しかったな、と素直に思った。むかつく、とかそういうのは、まあ、少しくらいはあったかもしれない。
この時には、既に他数人にも同じ質問をしてしまっていた。みんな同じ反応だったので、「そうか、生きる意味なんて、俺くらいしか探してないのか」と結論付けていたが、どうやら否定されてしまったらしい。
それ以降、三年生の夏になった今まで、その質問は封じてきた。どうせ俺みたいな怖い奴が訊いても、誰も答えてはくれない。日本人の典型例のごとく、その場ではダンマリ、あとで話の肴にして嗤うのだ。
結局、俺に似合うのは孤独だな、と学んだ。それを思い出しながら、目を閉じる。バスの揺れが体を、耳を、包む。視界情報を遮断すると、自分が騒音に囲まれて暮らしていることを実感させられる。もっと静かなところで暮らしたい。
初めてあの質問をした時の、三人の後輩の顔が思い出される。あの瞬間は静かだったな。あの言葉は静けさをもたらす効果があるのかもしれない。
このバスの乗客たちは、何を思って生きているのだろうか。
「お前らは、何のために生きてるんだ?」
誰にも聞こえないように囁いた。すると、静かになった。
もしかして結構な音量で言ってしまったのか、と不安になって目を開ける。バスが止まっていただけだった。
こうして後部座席から全体を見てみると、乗客の行動はそれぞれだが、ある程度パターンが決まっていることに気がついた。スマートフォンを触る者、友達や恋人と喋る者、本を読む者、外の景色を眺める者。
すぐ前の席に座っている女子学生の画面が、ちらっと見えた。ノースリーブから生えた細く白い腕を、冷房から守るようにさする後姿からして、清楚な子なのだろう。だが、画面内にあるのは「あの先生、マジ嫌い。生理的にムリ。死んでほしい」という過激的なものだった。
人は文章を使うと、口よりも遥かに達者になる。こいつこんなキャラだっけ、と思うことも珍しくない。その時の感情は、なんとも虚しくて、浮足立つものがある。あいつもこいつも、みんな、俺に対して本音で語ったことなんて一度もなんじゃないか、という、不安と恐怖が綯い交ぜになった感情。現に、あの質問に対して本音で答えてくれた人はいなかった。
零れるような溜息が出た。
その瞬間、あっ、と閃いた。同時にバスが発進して、体が揺れた。
直接訊くんじゃなくて、文章で、SNSで訊けばいい。
その方が向こうにも考える時間が与えられるし、俺の強面もないから答えやすいだろう。
これはいいアイデアだ、と思ってスマホを握り、パスワードを打ち込もうとしたが、ひとつ、難点があることに気付いた。
面と向かって言うより、嘘をつきやすいということだ。本音も言いやすいが、嘘も言いやすい。
俺は、真意が聞きたい。
またバスが止まり、扉が開いた。男子学生数人が出ていき、スッ、と、車内が静かになった。そこから、気の抜けたカラスの鳴き声が、カーカー、と入り込んできた。
――お前は、何を聞けたら満足するんだ?
それはカラスが言ったのか、自分の声なのか。考えるまでもなく後者だろうが、いや、前者なんじゃないか、と期待する自分も、どこかにいた。
確かに、俺は何を聞けたら満足するのだろう。自分の賛成意見を聞いて「だよな! 絶対そうだよな! お前とは気が合いそうだ、心の友よ!」なんて熱い抱擁をしたいわけでもない。
まあ、それは満足してから結果論で考えればいいだろう。
あの質問をぶつけるとすると、誰がいいだろうか。悩むまでもなかった。
友坂葵――後輩の女子学生だ。今年入学の一年生。
彼女は飾り気がない。いつもすっぴんなイメージだ。もしかすると男には分からないようなナチュラルメイクをしているのかもしれないが、そうでない方に俺は賭ける。
何故なら、あいつの鞄が汚いからだ。
この前、そのことについて訊いてみたのだが、本人曰く、
「葵、部屋も汚いんですよ。友達の家とか学校とかを掃除するのは好きなんですけど、自分のことは棚に置いちゃう、っていうか、どうでもいい、っていうか。要するにガサツなんです」
だそうだ。
彼女の凄いところは、この数秒の間に、表情をコロコロと変えていたところ。苦笑したと思ったら、悩むように顔をしかめたり。いつの間にか笑みを零し、最後には自虐で手を叩いて大笑い。
少し前に、そこだけ意識して彼女の顔を観察したことがあるのだが、句読点の度に表情が変わっているのだ。笑顔ひとつとっても様々なバリエーションがあり、表情の硬い俺には感動せざるを得なかった。
この前SNSで軽く連絡しあった時も、まるで直接話しているかのように、文章から声が聞こえた。一切のデフォルメのない、耳で記憶したままの声だった。
そのような『時々いるようで、どこか違う』魅力を持つ友坂に是非、あの質問に答えて欲しい。
そう前々から思っていた。あいつなら正面切って訊いたとしてもまともに答えてくれそうではあるが、できずにいた。どこか、俺自身が恐れていたのだろう。あの静けさを。
〈いま何してる?〉
早速メッセージを送ってみた。
既読はすぐについたが、返信されるまでの間に、一度バスが止まり、進み始めた。
〈おはようございます。部室の掃除なう、です〉
いま俺は大学の授業が終わり、直接帰宅している。要するに今日は部活がないわけだが。
〈なんでそんなことしてるんだ?〉
〈皆のため、ですよ。綺麗な部屋の方が深呼吸しやすいじゃないですか〉
あっ、と、口から零れた。中学の頃、こんな会話をしたことがあった。
その日、俺はトイレ掃除の当番だったのだが、他の班員が全員サボったので、仕方なく独りで掃除をするはめになっていた。俺も一瞬「サボろうか」と魔が差しはしたが、トイレ掃除が嫌いなわけじゃなかったし、家に帰ってもどうせ宿題しか待ってない。半ば逃げるような気持ちで掃除していた。
大便器をブラシで擦っていると、同級生の不良生徒が入ってきた。俺のルックスは少々あれだから、この手の人間に絡まれることも多々あったが、彼はそういうことをしなかった。むしろ気さくに話しかけてくれたこともあったくらいなので、嫌な印象はなかった。この時も「よお」とお互いに挨拶したはずだ。
「ひとりでやってんの?」
「ああ」
「大変だな。ま、俺は手伝わねえけど」
ハハハ、と彼が笑うと、俺も、ハハハ、と釣られて笑った。
そういえば彼も、友坂とは違うジャンルの不思議な魅力があった。不良なのに、やけに独自の哲学を切り拓いているのだ。
「なんで、ひとりしかいないのに、こんな退屈なことしてるんだ?」
かっこつけようと思ったのか何なのか、「宿題から逃げるため」と答える前にこんなことを言っていい太。
「皆のため、かな」
すると、彼は苦笑した。その苦味の中に、踏みつぶされた蟻を憐れむような含みがあるように見え、ほんの少し、怒りが沸いた。
その目はなんだ、と普段から細い目が、更に細くなったと思う。あ、まずい。こんな顔したらガン飛ばしたと勘違いされる、と焦ったが、彼はまだ小便もしてないのに、背中を見せ、こう言い残して去っていった。
「人の為、と書いて『偽』って読むんだ。そんな感情、所詮はマガイモノなんだよ」
その言葉により、ひとりでトイレ掃除なんてする気は失せ、途中で切り上げて帰ったはずだ。それ以来、ひとりで掃除なんてしなくなった。サボる気になれなくても、サボった。宿題も、サボった。
思い出していると、色々なものが混ざったアンモニア臭が、鼻の奥によみがえってくる。
どうせだから、と、その言葉を友坂にぶつけてみることにした。
〈人の為、と書いて『偽』って読むんだ。そんな感情、所詮はマガイモノなんだよ〉
自分で書いて「こんな先輩嫌だな」と、後悔さえあったが、あまりにもすぐに戻ってきた返信メッセージに、俺は圧倒される。
〈本当だ! すごい! 初めて知った!〉
あの時、返す言葉を失ってしまった俺とは対照的な反応だった。生きてきた世界の違いを、痛感させられる。
そうやって素直に驚いたり、感動したりできたら、もう少し、明るい顔に育ったかもしれない。
今度は、マガイモノ発言をした俺の方が、何を返すべきなのか、見失ってしまっていた。
だが、俺が答えを見つける前に、友坂からもう一件、長いメッセージが来た。
こんなに長いメッセージを書く時間を与えるほど、俺は自分を見失っていたのか。
そう思うと、背筋が痒かった。背中を背もたれに押しつけ、擦る。
〈確かに、人の為っていうのは、『それをしている自分に酔いしれる為』ってことと同じかもしれませんね。
でも、偽物だから何なんですか?
偽物、とか、偽善者、とか言われることを恐れていて、何になるんですか? 何も解決しないし、自分の気持ちも曇り続きなだけじゃないであうか〉
ないであうか。
「ハハハ」
最後の最後に誤字か。お前らしいな。
想定外のオチに、不覚にも笑ってしまった。それまで「ほお」と感嘆していたというのに。
すぐ前の清楚な女子学生が一瞬、不審そうに振り返ってきたが、にやけている俺を見て気分悪そうに目を逸らしてきた。普段なら怒りが腹の底を熱っすることだろうが、友坂の前では、コンセントの火花ほどでもない。
彼女が芸能人だとしたら、なんて、ふと考えてしまった。
災害が起きた時、すぐに募金とかするんだろうな。売名行為だと罵られたとしても「だから? 自分の評判を気にして、助けられる人を助けない人の方がクズでしょ」なんて堂々と言いそうだ。
〈そういう考え方もあるんだな。お前らしいと思うよ。
なんか、響いた〉
掃除をサボるようになって、『掃除をする』という使命感を無視するようになって感じ始めた、あの、数十人もの糞尿の混ざったような、もやもやした感情。不良に植え付けられた変な理性よりも、そっちを晴らそうとした方が、きっと、気持ちよかったんだろうな。
〈ありがとうございます!〉
〈ってかさ、部室のパソコンで書いてるのか?〉
〈え! なんで分かったんですか? もしや盗撮を……! センパイのエッチ……///〉
〈んなわけないだろ笑
誤字の仕方がキーボードなんだよ。あと、絵文字がない〉
〈あ、ほんとだ……。
ないであうかw
恥ずかしい……。フリック入力、苦手なんですよ〉
メッセージを送った後に、異様なレベルの校正技術を手に入れ、恥ずかしくなることはよくあるが、友坂にはないらしい。
そうか、お前は読み返さないのか。前しか見えていないのか。
羨ましいな。
そろそろ、あの質問をぶつけてみようか。
俺と相反する人生を送ってきた友坂は、どう反応するのか。
高揚に、胸がうずく。
〈友坂は、何のために生きてるんだ?〉
文章を打ち込んだが、送信を前に親指が躊躇った。ひとつ深めの呼吸をして、送信する。そのくさい文が会話の中に混じった瞬間、ほのかな羞恥心が波寄せてきた。
もう一度息を吐いて、スマートフォンをスリープさせる。ポケットには仕舞わず、掌で包み込んだままにした。
突飛な質問に困惑して、一、二分くらいは返信が来ないだろうと覚悟していたのだが、意外にも、ほんの数秒で返ってきた。
〈センパイ、もしかして中二病ですか?(((〉
〈うるせえ〉
ほとんど反射的に言い返してスマートフォンをポケットにしまう。
さあ、さっきまでスマートフォンを触っていた人の内、どれくらいがそれをやめただろうか、と見まわして数えてみると、むしろひとり増えていた。
そして赤信号。バスが止まる。
ふと外を眺めてみると、スズメが三羽、地面をタッタッと跳ねていた。親子だろうか、一羽は大きく、もう二羽は小さかった。親が右に左に首を動かすと、子供たちも真似して右に左に首を動かす。
その愛くるしさに、思わず頬が緩んでしまった。
ああいうふうに生きてみたいものだ。
こうしてバスが止まらなかったら絶対に見逃していただろうな。
そう思い、希有に喜びを滲ませていると、ポケットが振動した。
ああ、そうだそうだ。俺は友坂と話していたんだった。何のために生きているのか、と本題を訊いて、話を逸らされたところだった。
そして、質問の回答が帰ってきた。
〈ちょっと汚い話かもしれないですが、葵たちは、お父さんが放出してきた数十億、数百億、もしかしたら兆単位かもしれない、精子の中から選ばれた一人なんです。その確率を考えると、生まれたってだけで幸せな気がしませんか?〉
そういう考え方もあるのか。
女子学生が堂々と「精子」なんて言葉を使っているのを見ると、どこか、こちらが気恥しくもあったが、友坂なら不思議と納得できた。
更に、彼女の意思は続く。
〈何のために生きるのか、っていう質問、あまり好きじゃないんですよ。だって、この質問、生きることを、さも当たり前だ、って言ってるみたいじゃないですか〉
バスが発進した。スズメの親子が視野から消えていく。それを追いかけようと体をひねるが、背もたれが邪魔で、もう見えなくなっていた。
そういえばスズメを見たのって、いつぶりだっただろう。小さい頃はたくさん見かけたが、最近はもう、めっきり見かけない。
〈葵は、何かの目的を成し遂げるための時間が『人生』だなんて思いたくありません。生きる、ってことが目的なんです〉
あいつの真面目な顔なんてほとんど見たことがないし、冷静な調子の声も耳馴染みがない。でも、文章から声が聞こえる。顔が見える。
子供のように、どこまでも健気で、どこか必死な顔だ。
〈人はいつ死ぬか分かりません。だから私は、最期を遂げる時に笑顔でいられるよう、何も思い残すことのないよう、『生きる』ことをしたいmmです〉
本当に、こいつは大事なところで……。
その文字列を見て、心の中に、力強い熱さと、不思議な寒さを感じた。この寒さは、記憶にある。
小学生の頃だっただろうか、「オスの動物はメスと交尾をして子孫を遺すために、他のオスと戦う」という話を聞いた時、どこか、うすら寒いものを感じたのだ。
そんな生き方で楽しいのかな、と。
その感情が時を超え、いま、初めて消化された。
生きる、ってことこそが、楽しいのだろう。
それ以上のものは求めない。
そう思うと、友坂の『時々いるようで、どこか違う』不思議な人間性は、そのような動物的な考えから来ているのだと、感じられた。
彼女のそういうところに、俺は惹かれているのだ。
そうなりたい、と意気込む自分と、お前には無理だ、と指さす自分がいた。
確かに、俺は友坂にはなれない。
でも、すっきりした。嬉しかった。
飾らない言葉が聞けて。
そういえば、俺は、いつも本音を語らない。言葉に膜を張ってしまう。
それはきっと、何かを恐れているからだ。
確かに、俺は友坂にはなれない。
でも、その膜を剥がそうとするくらいなら、頑張ればできるんじゃないか?
声だって、訓練すれば多少は変えられる。
同じように、意識すれば、多少は自分を変えられるんじゃないか?
ルックスのマイナスイメージを中和するくらいには。
今まで、友坂の魅力を天然的なものだと思ってきた。そしてそれを、羨み、恨めしく思わなかったこともない。
でも、見えていないところで、こいつはこいつで何か努力しているのかもしれない。
例えば、頼まれてもいないのに部室を掃除したり。
バスが止まり、引き締まったスーツを着た男が入ってきて、俺の隣に座った。黒いスーツから漂う陽の残り香と熱は、心地がよかった。
友坂は次にどんな言葉を出すのか、と期待し、暗転した画面をタッチして明るくする、という作業を五回ほど繰り返したところで、気づいた。
あいつはこちらの返信を待っているのだ。
〈なるほど〉
と、半ば焦りながら、短く送る。
そして続けた。
〈お前らしいな。ありがとう。なんだかすっきりしたよ〉
〈突然「何のために生きているんだ?」なんて送ってくるから、病んだのかと思いましたよ〉
〈うるさい。俺はいつも通りだ〉
〈その辺の人なら気味悪がってブロックしたかもしれませんが、感謝してください。中二病センパイをも受け入れる葵の心は、あの蒼い空のように広いんです〉
画面の向こうにドヤ顔が見える。でも、友坂のそういうところは嫌いじゃない。
ただ、ひとつだけ気に入らなかったことがある。
『蒼い』なんてかっこつけた字、使いやがって。中二病はお前だろ。
〈そうか。残念だが、俺には、今の空は赤に見えるな〉
窓の外、無機質な建物たちの隙間から見える空は、茜色に輝いている。
友坂が空を蒼だと思ったのも無理はない。部室のパソコンの前に座り、そこから窓の外を見ても、向かいの校舎しか見えないのだから。
〈なぬ!? ちょっと見てきます!〉
椅子から立ち上がり、窓へと駆け、空を見上げて、眩しがりながらも微笑む友坂の顔が想像できた。そんな場面に巡り合ったこともないのに。
今、友坂はパソコンの画面を見ていないんだろうな、と思いながら、こう送ってみた。
〈お互い頑張ろうか〉
スマホをしまい、一息つくと、一気に、車内に赤い光が差しこんだ。ビル群を抜けたのだ。俺の体も陽に当たり、胸から下が赤く照らされていた。
車内を見渡すと。手元の画面に食いつく人よりも、空を見上げる人の方が多かった。
今、同じ空を見上げている人たちに、運命的なものを感じたわけではなかったが、何故だろう、心の中で「お互い頑張りましょう」という思いが滲み出た。
それに呼応するように、スマートフォンが揺れる。
〈はい! 蒼いガンマリバス!〉
なんだこれ。
あ、「葵、頑張ります!」か。
思わず、口角が上がってしまい、掌で隠す。
『蒼い』なんて字をわざわざ使うから、そんな誤字するんだよ。
すぐに〈間違えた!〉と送られてきた。さすがの友坂でも、これはすぐに気付いたらしい。
これはいいオチだと思い、会話を終わらせる挨拶を送ろうとしたが、送信ボタンを押す前に新たなメッセージが届いた。
〈逆に訊きますけど、センパイは何のために生きているんですか?〉
バスが止まった。
〈俺は、〉
そこまで入力したところで、気付いた。今バスが止まっている場所が、俺の下りる停留所だと。
スマートフォンを一度ポケットにしまい、立ち上がる。そして、燦然と輝く茜空に照らされながら、狭い車内を抜けていく。