20090415 ニューカムにて
クトゥルフ神話の短編です。
残酷な描写有り、と言う事になってますが、クトゥルフ神話なりです。
ニューカムと言う街のオリジナル設定が混じっています。
1 ニューカム
アメリカ東海岸。マサチューセッツ州には州都ボストンをはじめ、植民地時代と開拓時代の面影を色濃く残す街並が今も残っている。
また、歴史ある著名大学が集まる州でもある。
ボストンには歴代アメリカ大統領を多く輩出した名門ハーバード大学。
世界最高峰のマサチューセッツ工科大学。
そしてボストンの北、アーカムには世界的に有名な図書館を備えるミスカトニック大学がある。
東海岸の好漁場を囲む港町が多いのも特徴で、船が流通の中心だった時代に繁栄を迎えた。
だが時代は鉄道、そして自動車の時代へと移り、その変化の中でインフラ開発の遅れから時代の波に乗り遅れてしまった地方も存在する。
広大なアメリカであるが故に、鉄道網を敷くには時間がかかり、道路の建設も遅れる場合がある。
ボストンから南に40マイル。ケープコッド半島の付け根辺り。
そんな場所にあるニューカムは発展から取り残された典型的な港町だった。
*
第一次世界大戦。
この戦争が当時はまだ二等国扱いだったアメリカを一等国へと伸し上げた。
戦費で疲弊した欧州先進国が凋落し、物を売ったアメリカが独り勝ちしたのである。
戦勝国は敗戦国のドイツに莫大な賠償金をかけたものの、莫大であるが故に回収の目途は立たず、逆に天文学的なインフレの引き金となってヨーロッパに暗い影を呼んだ。
一方、黄金の二十年代。アメリカは建国史上稀に見る好景気を迎えていた。
だが、開発が遅れていたニューカムは、この好景気に乗る事ができなかった。
多くの街が好景気で開発が進んだのに対し、この街は鉄道も、自動車すらほとんど入らなかった。
アメリカの文化として大きく花開いた映画も、この街では上映される事は無かったと言う。
主力産業の漁業も運搬する術が無かった。港町故に大型船が入る事も無く、獲った魚は周辺で消費するしかなかった。
農業も昔ながらの栽培方式で、機械化が進んだ他の地域とは全くかけ離れてしまった。
まさに時代に取り残された町。
もっとも、それ故にその後に来る大恐慌の影響もさほど大きくは無かったのだが。
その後、この街は緩やかに時間が進んでいく。
ボストンからの道路が整備され、それなりに近代化が行われていった。
とは言え、漁業も農業もすでに太刀打ちできず、企業の誘致もできず、人口が爆発的に増えると言う事は無かった。
*
2001年。
転機となったのは、この街の雰囲気を気に入って、著名なB級ホラー監督であるマイケル・レイノルズとその娘であり女優であるエリコ・レイノルズがその膨大な私財を投じてマイケル自身の映画をモチーフとした巨大ホラーパーク『イルブリード』を郊外に建設した事が発端になる。
アメリカ全土だけではなく、世界中のコアなレイノルズファンが集まり、ニューカムも宿泊地として恩恵を受ける事になる。
街の名士となったレイノルズ親子の意向で、19世紀の面影は残されたまま、街はささやかな発展を享受する事になった。
2 警察官ジムの罪
2009年4月15日夜
ニューカム郊外には車での旅行客の為にモーテルが何箇所か整備されている。モーテル自体は1920年代からアメリカ各地で作られたが、ニューカムではずいぶん遅れた。
日本や中南米のような性行為の為の施設提供とは違い、基本的には宿泊施設であり、家族も対象にしている為ベッドは大きく部屋も広い。
とは言え、セックスを目的としたカップルに都合が良いのも事実だ。
ベッドは大きいし、シャワーもある。そして宿泊料金は格安だ。
わざわざ自宅で行為に及んで汚すよりは楽でいい。
犯罪者に利用される事を懸念したFBIの指導で全米のモーテルはカード清算が基本になったが、カード社会のアメリカでは普通の人間には関係無い話だ。
*
ジムと彼女であるナンシーが入ったのは、比較的古くからあるモーテルだった。
ホラーパークの人気と共に新しいモーテルが何件も建ち、経営が苦しくなった古参が客を増やすため、彼らのようなカップルにも目くじらを立てなくなった。
ホテル業界では良くある話である。
日本では大手ホテルが日中二時間のステイプランと言う、実質ラブホテルの休憩と同様のサービスを打ち出した事もある。
二人がそれぞれ住むアパートは狭く、楽しめない。なので二人はデートの時はモーテルを使うのが決まりになっていた。
久しぶりのデート。そしてセックス。
一回目が終わり、ナンシーはシャワーで汗と体液を流した。
そして安いバスローブを巻いてベッドに戻って来たナンシーは、ジムが拳大の丸い石を玩んでいるのを見た。
黒い縞模様の入った、磨かれた石。金色のラインが入っているのが見えるが、ナンシーの位置からではそれがどんな模様なのか見えなかった。
「なあに、それ?」
「何だと思う?」
「わからないわ」
「縞瑪瑙さ。結構凄い工芸品だと思わないか? ボストンの古美術商が幾ら付けるか楽しみだよ」
ジムのその言葉に、ナンシーは目を曇らせた。
彼女は知っているのだ。この男が手癖の悪い人間だと。
ニューカム警察の巡査、ジム・ライミは典型的なホワイトプアだった。
郡の警察学校に入った彼は何とか卒業。テーマパーク目当ての観光客が訪れ瞬く間に発展したニューカムの警察に配属になった。
ところが、彼は昔から手癖が悪かった。
かっぱらい、万引き、遂には空き巣もしている。
警察に捕まった事は無く、逆に彼は何と警官になってしまった。
ナンシーと付き合うようになってからも、度々ジムは手癖の悪さを披露していた。
警察の押収品や保管品を横流した事も、彼女が知る限り一度や二度ではない。
こんな代物を彼が持っている事がおかしい話だった。
「………もしかして、また何かやったの?」
「まさか。ちょっとした宝探しが上手くいったのさ。持ち主はとっくの昔に死んでる。百年以上前にさ」
「百年………」
「結婚資金の足しになれば良いよな」
そう言うとジムはナンシーにそれを渡して裸のままシャワールームに入っていく。
「……不思議な石だわ。それに、これって金が流し込まれたのよね」
ベースボールの球ほどの大きさのそれには、金の模様が入っていた。
専門外だが、見事な芸術品であると感じる。
曲線が組み合わされたそれは、花弁のようにも、手を広げた人間のようにも見えた。
………あるいは。
どこか遠くから、己を見つめる瞳のようにも。
「………宝探しって、何をやったのかしら?」
今朝まで勤務だった筈だ。交代して、午後からデートだった。
まさか勤務中に、何かをしたのではないだろうか?
そんな考えにナンシーは憑りつかれた。
ふと、何かニュースがあるかもしれないとテレビをつけたナンシーは、その驚愕のニュースを知る事になる。
『本日未明、州警察のトラックが、ニューカムとボストンの間で局地的なツイスターに巻き込まれ、行方知れずになりました』
耳を疑うようなニュースが耳に入って来る。
『トラックには本日ニューカム某所で押収された証拠物件が積まれており、アーカムのミスカトニック大学に運ぶ途中だったと発表されいます』
目を落とせば、金の、否、黄の印がナンシーを見つめている。
何か、得体の知れない感情がナンシーに湧き上がる。
この、黄の印を、自分の、中に、押し込めなければ、ならない。
バスローブを脱いで見事な裸体を晒したナンシーは、ちょうどよく手近にあったペーパーナイフを手に取った。
3 ウェザートップの隠れ家
ニューカムの歴史において、ウェザートップの名は禁忌に等しい物だった。
南北戦争以前。奴隷貿易で財を成したウェザートップ家はニューカムに、付近の家並みとは全く異なる邸を建てて移り住んだ。
周囲と交わる事を避けて近親婚を繰り返して、結果没落したウェザートップ家は、ニューカムの住民から『魔法使い』と呼ばれて忌避された。
実際、ウェザートップ家が現れてから幾度と無く不可解な行方不明事件が起きている。
八代目のベネディクトが失踪し、ウェザートップ邸は無人になり幽霊屋敷と呼ばれるようになった。
1925年1月。
この邸に入り込んだ少年が想像を絶する形で惨たらしく殺されると言う事件が起きる。さらに翌2月に至るまで、この無人の屋敷に外部の人間が何人も集まった事が目撃された。
この事件は解決に至らなかったものの、その後の調査でウェザートップ家が過去におぞましい行為を繰り返していた事が判明する。なんと、屋敷の中に人間を解体していたと思われる施設が確認されたのである。
1935年頃、ミスカトニック大学のラバン・シュリュズベリィ博士がウェザートップ家を魔女裁判で有名なセイレムの邪悪な魔女の流れを組む一族と言う調査報告を出した。
現在、この屋敷はミスカトニック大学が、ニューイングランドの魔女裁判に関わる史跡として管理保存している。
そんな経緯もあって、ニューカムにはウェザートップの名が付けられた忌避される場所が幾つかある。
例えば、ウェザートップ墓地が有名だ。
ウェザートップ家とは縁も所縁も無い町の墓地だったが、1900年前後、幾度と無く墓が掘り起こされたと言う事件が過去に起きており、ウェザートップの仕業と結びつけられた。現在は新しい墓地が造成されて完全に寂れてしまい、刻まれた名も分からない朽ちた墓石だけが並んでいる。
その中の一つが、もう一つの幽霊屋敷と呼ばれる建物である。
通称『ウェザートップの隠れ家』。
郊外の、道路も通らない場所に造られた小さな屋敷は、奇妙な事に町の住民の誰も、ここに誰が住んでいるのか知らなかった。
すでに廃屋になって久しいが、ウェザートップ邸の悲劇を覚えている住民たちは、ここに子供たちが近づかないように徹底的に躾けた。
*
パトカーが二台に、武装した警官が五名。
ニューカムでは破格の人員が、その捜査に投入された。
地元では幽霊屋敷で有名な廃屋に、最近何者かが住み着いた、と言う情報が警察に入ったのである。
「どうせホームレスだろ。そうじゃなきゃアルカイダだ」
「軽口を叩くな、ジム。慎重に行くぞ。アルカイダじゃなくても武装してる可能性はある。ここはそう言う国だ」
「武装テロより全米ライフル協会(NRA)の方がいっぱい武器持ってるってマジですかね」
「少なくとも資金力は上だろうな」
武装テロの被害以上の人間が、アメリカでは銃で殺されている。その度に自分の身を守るために銃は必要だとテンプレな主張は繰り返されるが、実は護身に成功する確率は1パーセントを割る。銃は先制攻撃には有利だが、それ故に身を守る武器としては効果が低い。
五人はショットガンや拳銃を構えつつ廃屋を取り囲む。
二人を表に残し、三人は突入した。
探索はあっさりと終了する。
「………人が居たって形跡は無いですね。キッチンを使った様子も無い」
水道も電気もガスも無い。キッチンと言ったが、あるのは薪を使う古いオーブンだ。
「浮浪者が出入りしているだけ、か?」
「こんな場所にわざわざ出入りするんですかね」
「あれじゃないか。ホラーパークの観光客がこっちでもそれらしい場所に踏み込むって苦情が出てる。ウェザートップ墓地の方も最近観光客が入るらしい」
「何を好き好んでわざわざこんな場所に来るんだろうな」
「何だジム、知らないのか? レイノルズの映画にウェザートップ邸を題材にした『影のフランス』って言うのがあるんだよ。凄いぞ。最初はゴースト物で、中盤はスプラッタで、最後は怪獣映画だ。ホラーパークにもアトラクションがあるし、レイノルズファンにとっては重要スポットになるんじゃないのか?」
「ホラーパークの延長と考えられても困るんだがな。ここじゃ何かあったら遭難しかねんぞ」
隊長が廃屋を調査し終わって撤収するかと言う流れになった時、ふとジムは違和感を抱いた。
「………俺、ウェザートップの事詳しくないんすけど、確かあの話だと地下室があったって感じじゃなかったか?」
「ああ、そうだな。俺、この間彼女とデートでアトラクションやったんだけど、確かに地下に拷問部屋があってな。そこから異世界に移動するんだよ。いや、よくできてたな」
「………あのさ、このくらいの家だと食料貯蔵用の地下があっても良いと思うんだけど、それらしい物は無かったよな」
「確かに無かったな」
「食料保存庫も無いんだよ。もちろん冷蔵庫もな」
「………どう言う事だ?」
「もし、ここが住むための場所なら食料を置いておく場所が絶対必要なんですよ。周囲にも建物の中にも無いなら、地下しかない。でも見た範囲で地下に下りる場所が無い。とすると?」
「まさか隠し階段があるってか?」
「『グーニーズ』って映画、見た事あるか? 暖炉の下の洞窟に、隠し階段の船長室だ。あるとしたら分かりにくく出入りがしやすい場所だな」
「どうします?」
「見張りはそのまま。三人で三十分探索して、何も無ければ引き上げだ」
「何かあったら?」
「その時考える」
*
はたして、ジムの読みは正しかった。
書斎と思われる場所で空っぽの本棚が動いたのである。
予想通り、地下に下りる階段が現れた。
一人が上に残り、ジムと隊長がライトを持って降りる。
かなり余裕のある造りだった。二メートル半は高さが取られている。
最初に見つけたのはジムが予想した食料保存庫。
壁に棚がかけられ、かなりの食糧がここに置けたと言う雰囲気がある。
「隠れ家、って言う呼び名も、案外間違いじゃないのかもしれませんね」
「住むとすればせいぜい二人。長期に渡ってここに留まる為の容量か。冴えてるな」
もっとも、棚はほとんど空っぽで、中に何が詰まっているのか分からない年代物の瓶だけが何本か残っている。
「………これだけって事は無いですよね」
「そうだな。わざわざ隠して作る物じゃない。本命は奥だろう」
「………マジでウェザートップの隠し財産だったりして」
「あの一族の遺した物だとしたら、ロクでもない物に決まってるがな」
隊長が指差す。食料保存庫のさらに先に扉がある。頑丈な金属製のドアだ。
予想に反して、その扉に鍵はかけられていない。押せば開く。
「風?」
一瞬だが二人の横を、風が通り過ぎた。
扉を開いて中をライトで照らす二人が見た物。
それは、ある意味予想通りであり、予想を遥かに超えた代物だった。
「ミ、ミイラっ!?」
「………ガッデム。なんだよこいつは」
そこはやはり保存庫だった。
ただし、ここに保存されていたのは食料ではない。
ミイラだった。
それも一体や二体ではない。
全部で十二体のミイラが、壁に吊るされていた。
ここで死んだ、のではなく、明確に人の意思を持って、ミイラは吊るされていた。
まるで、自分が撃った獲物を剥製にして飾るかのような。
あるいは、肉屋の冷蔵庫で吊るされる肢肉のように。
かつて人であった亡骸は、壁に吊るされて並べられていた。
「………一応大発見だな。俺は本部に指示を仰ぐ。おまえは何か他にも隠し部屋みたいなものが無いか、調べておけ」
「了解です」
隊長が上に戻り、ジムはミイラたちを横目に壁や床を調べ始めた。
しかし、さすがにもう隠し扉の類は無いらしい。
一つ気になったのは、ここは地下でありながら乾いている事だ。
ミイラが腐っていない事からここが長期間にわたって乾燥していた事が予想できる。
次にミイラに目を向けると、それらが奇妙な共通点を持っている事が見て分かった。
まず服を着ている事。裸ではない。その服が、どうにもアメリカだけではないような感じだった。
また、それらが随分と古めかしい。ドレスや、中国の古い衣装もあった。
そして、身体の中心部。
心臓のある位置に、十二体すべてが金色の同じ模様が入った黒く丸い石を嵌め込まれている事。拳大のそれが埋め込まれた跡は、間違いなく人の手で行われたものだ。
死体を切り刻み、施された行為。
これが決して、死者を弔うための行為ではない事は、直感でジムにも理解できた。
「………ただの石じゃないな。宝石じゃないけど、工芸品なんじゃないのか?」
服で石が隠れる一体に目を付けたジムは、ナイフでそれを慎重に抉り出した。
幸いにも傷一つ付いていない。
それを荷物の中に入れたジムは、何食わぬ顔で隊長の帰還を待った。
*
十二体のミイラは調査の為、ミスカトニック大学に運ばれる事が決定した。
これはニューカムの警察では受け入れられる施設が無く、またウェザートップ邸の調査研究がミスカトニック大学の区分だった事が理由である。
大学から派遣された職員と共に慎重に運び出され、ミイラはアーカムに向けて出発した。
一方、ジムたちは警察に帰還し、非番に入った。
4 仮初の心臓
亡骸を守る呪法には、力ある石が必要である。
大いなる神の力を秘めた石を、仮初の心臓として亡骸を守る事ができる。
生ある状態、あるいは死してすぐに心臓を取り出して、代わりに石を埋めて魔法陣の中に横たえ、呪文を唱えよ。
ただし注意せよ。
呪法の成功には力ある石が不可欠である。
しかし力ある石は亡骸を侵食する。
もっとも良き物は、『千匹の仔を孕みし森の黒山羊』の聖石である。
ムー大陸にて祀られた聖石は命の力に満ち溢れ、亡骸を若々しく保つだろう。
『邪悪の皇太子』の黄の印は、亡骸を木乃伊に変えるだろう。
されど、黄の印によって生み出された木乃伊は、『邪悪の皇太子』に捧げる贄として有益である。
赤牟館書房刊『超訳妙法夜音経 第八百八十八巻』より
5 風が吹く時
アーカムを著名な街にしているミスカトニック大学はアメリカ東部を代表する総合大学の一つである。
中でも、他の大学を大きく凌駕する要素こそミスカトニック大学付属図書館の存在だ。
昨今では電子書籍化が進む中、その蔵書数によるメリットは薄れつつあるものの、稀覯本の収集率は世界屈指と称され、その数は40万冊以上とも言われている。
そして、その中には一般閲覧が許可されず、大学内の一部、立場有る人間にしか公開されない物も百を越える。
その中の一冊に『シュリュズベリィ博士の予言』と呼ばれる手書きのノートがある。
ラバン・シュリュズベリィ博士は、一時期哲学の授業で教鞭を執っていた人物であり、古代の神話や信仰の権威だった。しかし、博士はミスカトニック大学図書館に保管されていた禁断の書物群によって知識を得て、未だ存在するカルトの危険性を熟知し、その脅威に立ち向かう道を選ぶ。
彼が最後に公式で確認されたのは1947年9月のアメリカ海軍による特殊作戦だった。
その後、ミスカトニック大学図書館に博士手書きのノートが郵送される。
それは、少なくとも二十一世紀末まで起きるであろう、環太平洋地域の大小の神話的危機に対する警告だった。
ミスカトニック大学上層部はこのノートを厳重に管理し、その内容に照らし合わせて警戒活動を行っている。万が一の事態が起きた時は可及的速やかな処理を行う為である。
ニューカムにおけるウェザートップ邸の保管も、その一環であった。
*
1935年。二十年の失踪から突然復帰したシュリュズベリィ博士は、ニューイングランド地方で起きた様々な事件の調査を精力的に行った。特に1925年1月から3月にかけて発生した事件を重点的に調べていた。
その中でウェザートップ邸の事件に目を止めた博士は屋敷を調査。
その結果、ウェザートップ家が強大な旧支配者の顕現に成功していた事実に行き当たる。
幸いにしてその脅威は終結していたが、博士は幾つか用意されていた手段に懸念を示していた。
召喚に使われたおぞましい代物が、複数保管されている可能性がある。
もしそれが悪意ある第三者、あるいはその邪神を崇めるカルトの手に渡れば、人類は未曽有の危機を迎える事は間違いなかった。
シュリュズベリィ博士は来るべき危機への警告を、ノートの一文に記してミスカトニック大学に託す。
*
「ああ。間違いない。黄の印だ。ハスターの紋章だ」
ミスカトニック大学から派遣された職員は、ミイラの胸に埋められた黒い縞瑪瑙を見てそう呟いた。
彼は表向きはミスカトニック大学付属図書館の職員だが、実は大学が極秘に組織した神話事件に対応するスペシャルチームの隊員だった。
ミイラを州警察の輸送トラックに積み、七十マイルは離れたアーカムを目指す。
「ハスター、と言うのは悪魔ですか?」
事情を知らないメンバーが訊ねる。
「面白い例えだ。確かにハスターは我々が想像する悪魔に近いかもしれん。時に人と契約を交わし、有益な行為を行う。だが、それはハスターの目的のための傀儡を造る行為に過ぎない」
「悪魔の目的?」
「遥か遠い宇宙の彼方に居るハスターは地球に降臨しようとしている。理由は想像もつかないが、この世界を己の玉座に変えようとしているんだ。ハスターが降臨すれば、この地球は黙示録の光景に変わるだろう。ただし、一つだけ大きな違いがある」
「その違いとは?」
「誰も助からない。人類すべてに福音も救済も一切無い。ただただ強大な神の如き存在の質量に、我々は押し潰されるのみだ」
「………もしかして、今運んでいる物は」
「ハスターを召喚する鍵になると思われる。適切に処理を施すまで、油断はできん。注意して運転してくれ。カルトが妨害してくる可能性は十分にある」
運転手は顔を青ざめさせて前方を食い入るように見ている。
「それにしても何て日だ。今日は『古の黒きアテン、或いはニャルラトホテプの祭日』だぞ。よりにもよって、なぜ今日なんです。シュリュズベリイ博士」
職員は携帯電話でミスカトニック大学に定時連絡を入れる。
異変はその時起こった。
*
「どうした? 何が起きた?」
『信じられない! ツイスターだ! ガッデム! どうしていきなり!』
「ツイスター? ツイスターだと? そんな話は」
『ああ! 逃げられない! いや、何だあれは! まさかあれは! 窓の向こうに! 窓に! 窓に!』
「窓? 窓の向こうに何が見えた? 聞こえるか? 返事を!」
『……………』
「返事を!」
『足りない』
6 ジム・ライミの最後
その事件は2009年4月16日の午前十時頃に起きた。
まるで火事で焼け出されたかのような、着の身着のままの格好でメインストリートを歩く男が居た。
憔悴した顔は酷くやつれ、髪は櫛も入れずボサボサ。視線は虚ろで焦点が合っておらず、真っ直ぐ歩けていない。
着ているシャツはボタンがかけ違いで、しかも二つしか止めていない。
靴も履かず、裸足のまま。
だが、通行人が何よりも目にしたのは、その手に握られたM9ピストルだった。
たちまち通報され、警官が取り囲む。
警告を呼びかける警官の声が聴こえたか、男は乾いた笑い声を上げると、自分の頭に銃口を向けて、その頭を吹き飛ばした。
持っていた私物から、男の名はニューカム警察のジム・ライミと判明。
彼と付き合っていたナンシーと言う女性は、目下の所行方不明である。
電話ネタに「馬鹿め。〇〇は死んだわ」と言うネタを入れると負けた気がします。
黄の印にまつわる短編を書いてみました。
十二体のミイラと黄の印の行方は、決めていません。
思いついたら書きます。たぶん。