商家のお転婆
リカスタンはスシュ大陸の東側にある縦長の国である。そのため、北と南では文化が違っていた。
王都ザッカから南西に向かって2週間ほど歩くと高い城塞のある商業都市ディーシャにたどり着く。
ティルカは大通りの喧騒を尻目に、貸本屋で本を読んでいた。
「お嬢ちゃん、家には戻らなくていいのかい」と店主の声が耳に入るが、ティルカは曖昧な返事をする。
…嫌だよ、あんな親父のいる家に帰りたくない。
心の中を見透かしたのか店主は呆れてため息を漏らす。この町で、ティルカを知らない者はほとんどいない。その家柄も彼女のしている行動も有名処である。 ティルカ・シャナンはディーシャの大商人ジャハール・ティドの三女である。歌舞の稽古をすり抜けては毎日市井に繰り出して貸本屋や賭博場、はてまた男の身なりで女人禁制の闘技場まで入り込むお転婆だ。
頭を痛くした父親は彼女を王立女学院に強制入学させることに決めた。それがティルカが16歳の夏、まさに昨日決まったことなのである。
その話を父親の部屋の天井で聞いたティルカはすぐさま家出をしようと決めた。
誰が王立女学院なんかに行くか。…王立学院なら喜んで行くさ。
ティルカが思うほど、ことは甘くなかった。王立学院は優秀な男子しか入学を認めていない。女は下等だと昔から人々の中で根付いているのだ。したがって、文字の書ける女子の割合は極めて少ない。王族・貴族・商売人くらいではないだろうか。ティルカにしてみれば、それは馬鹿げたことであり、速急に直すべきだと考えている。
ティルカは本を閉じると「もう二度とおじさんには会えないと思う」と言い残し店を出た。
中央広場に差し掛かると楽の音が聞こえてきた。ティルカは立ち止まり、人だかりの近くに寄り、広場を囲む煉瓦塀に飛び乗る。
旅芸人がいる。しめた、彼らと共に町を出よう
楽人らはリカスタンの伝統楽器を手に持っている。北笛、南琴、中鼓、余程の手練れであるとみた。舞手は浅黒い女と色白の男で、歌い手は金髪の女である。
北笛なんて初めて見た。と少し嬉々とする。彼女自身、南笛が得意な楽器なのだ。数少ない荷物の中にそれもある。
歌い手が歌い終える。
惜しみ無い拍手の渦を帯びて彼らは布の帽子に観客からの金を集める。周りに人がいなくなると、ティルカは彼らに声をかけた。
「ごめんください」
浅黒い女がティルカの声に気がついた。
「…どうかしたのかい」
浅黒い女はティルカの身の上話を聞くと、楽士の一人を呼んだ。
「ラフィ、あんたが一番この子に近い生い立ちだろうよ」
楽士のラフィは目深に被っていたフードを背中に下ろした。
「君は何がしたいんだい」 眼鏡の奥にある菫色の瞳で見つめられ、ティルカは少しどぎまぎした。
「家出だということは君の様子から掴んだけれど、何がしたいか言ってくれなければわからないだろう」
ティルカは押し黙った。「それに君は名を告げてない」
ティルカは下唇を噛み締める。
偽名考えてないよ、と少し焦る。
「ジャハール・ティドの三女でしょう。確か名が、ティルカ・シャナン」
思わぬ横槍にティルカは後ろを振り向いた。歌い手だった。
「シェーラ、知っているのか」
歌い手シェーラはラフィを一瞥すると、ティルカの方に目を向けた。
「貴女は私を知らないわ。私は貴女の奔放をたまたま近くで見たことがあるだけだから。
ラフィが能無しなことを言ってごめんなさいね。あんな奴に話すより、座長に直接言った方がいいと思うのよ。貴女、家出でしょう。私と同じことしてるもの。座長は馬車の中よ。入って来なさいな。――ラフィ、あんたもさっさと入んなさいよ」
シェーラはティルカの腕を引くと、荷馬車の中に連れていった。そこでは、木箱が床一面に敷かれ、その上に団員が円になって座っている。その一番奥に優雅に寛いでいる男がいた。シェーラは男に言った。
「座長。ティルカ・シャナンですよ」
他の団員が興味深そうにちらりと見る中、その男は眼光の鋭い瞳でティルカを見た。シェーラはティルカを座長の目の前に座らせた。
「ティルカ・シャナン、目的はなんだ」
ティルカはその瞳に怖じ気づくことなく、しっかりと見つめ返す。
「この町を出ること。私はこの町にいて、ただの女として一生を終えるのは嫌です。だから、私が一人で生きていけるまでここにおいて下さい」
「お前は何ができる。歌か舞か楽か」
即座に問われたことにティルカは言い返す。
「見せられるものではありませんが、剣舞以外なら習っていました」
男はおもむろに立ち上がった。そして自分が座っていた縦長の木箱から長剣を取り出すと、それをティルカに向かって投げた。ずっしりとした重みに二の腕が張る。
「あいにく、歌い手も舞手も楽士もいるのでな。お前は剣舞をやれ。今、剣舞がちょうど欠員だからな」
男は片手でティルカの髪をぐしゃりとかき混ぜた。「俺が直々に教えてやる…どうだ、この話に乗るか」 上から降ってくる音の一片にティルカは勢いよく頷いた。
「どうぞ宜しくお願いします」
幼き頃より、芸人一座は卑しい身分であると教えられてきたが、そう思わなかった。それには彼女なりの深い考えがあるのだが、浅はかな考えは身を滅ぼしかねないとして、己のみぞ知る思いである。
「よし、決まった。さぁ、次の町に行くぞ」
座長の掛け声に、ガタンと荷馬車が動き始めた。
「ラフィは馬の扱いが上手なのよ」
シェーラが耳元でそっと囁く。
「貴女の"場所"は私の隣でいいかしら」