"黒星の瞳"
「あの子…」闘技場の客席の一角で、少年は呟いた。
「よりによって、あの人の目の前であの剣を見せるなんて」
―あの娘を皇太子の掌で踊らせてはならない。
これは前々から大巫女様が仰っていたことだ。
少年は立ち上がると急いで闘技場から出た。そして、その足で郊外にそびえ立つサーシャ宮へと向かう。その白磁の宮の最奥に大巫女はいた。
「大巫女様、…でございます」
珠簾の向こうから澄んだ声が響く。
「入りなさい」
彼は顔をあげ、足音をたてずに珠簾の中に入っていった。
ティルカは目を開けた。間近にシェーラの顔が見える。
「…ティルカ、大丈夫?」ティルカは頷き、起き上がった。
「大会は…どうなったの」その問いに彼女は顔を曇らせる。
「ねぇ、ティルカ。一緒に…」
「逃亡は赦されない。勅命だからな」
座長がシェーラの言葉を塞いだ。何の話が掴めないティルカはシェーラを見て驚いた。彼女の瞳からは大粒の涙がこぼれ落ちていた。「泣くならラフィの所で泣け」
無情なそれは真っ直ぐに突き刺さる。シェーラは服の袖で拭うとそれに従い、部屋から出ていった。
…どうかしたのかな。シェーラが泣いたことなんて見たことないのに。
彼女の悲しげな背中を見送った後、ティルカは座長に尋ねた。
「一体どうしたんですか」
「皇帝がお前を王城へ呼び出した…勅命だ」
ティルカはその非現実的なことにポカンと口を開け、彼を見た。
勅命…って、皇帝陛下のご命令よね。陛下が私みたいな平民階級に何の用があるっていうのよ!
目を白黒させている彼女を見て彼は顔を一層厳しくした。
「『紅蓮草』というお伽噺を知っているか」
ティルカは頷いた。「確か…女将軍と時の皇帝の恋物語ですよね。トーラ=ザンの大戦で敵に捕らえられ、命を奪われた女将軍の…」 そのお伽噺はティルカが幼いころからずっと好きだった話だ。当時は自分もこんな恋がしてみたいと思ったものである。ティルカは勅命がこのお伽噺と意外な繋がりがあるかと思い、期待に胸を膨らませた。
だが、座長の口から滑り出したのはその期待を裏切るものであった。
「民衆に伝わるのは…な」と座長は苦々しく呟いた。「その物語は王家が無理やり事実を歪ませた話だ。本当は、女将軍は味方に捕らえられた…時の皇帝ラザン帝によって」
ラザン帝って…、確か稀代の名君で"聖君"なんていう呼び名が付けられた素晴らしいお方のはずでしょ。
「ラザン帝は聖君です!そんなことあるわけ…」
「女将軍のこと以外は聖君だよ」座長は一息つくと、窓から射し込む日の光に目を細めた。「だがな…、女将軍を孕ませたが、心だけは奪えなかった。彼女は別の男と好き合っていたんだ…」
ティルカは嘘だと思いたかった。500年以上も前の話なのだから、本当かどうかなどわからない、と。それほど、物語の中の聖君は年頃の娘にとって理想の男性像だったのだ。ティルカがショックを隠せないでいる横で、座長の話は続く。
「…皇帝の末の弟とな。現在、その王弟について書かれた文献はない。焚書だ。王籍から除かれ、反逆者の烙印が捺され、大戦の後に自分の城に火を放ち、自害したと伝えられている」
焚書令…今はなきそれが法令だったのは、400~300年前だ。その100年間は暗黒時代と呼ばれ、その後王家傍流によって、ハノーダ王朝は滅ぼされ、現在に続くスワラ王朝になった。
「…女将軍は敵に殺されたと勘違いしたらしい。彼は自分が反逆者だとは知らなかったのだ」
彼が立ち上がって、二人分の水をコップに注いでいる間、ティルカは質問を投げかけた。
「自分が反逆者だと知らないというのはどういうことですか?」
座長はティルカの方を見ずに答えた。
「水面下の話だったからだ。その王弟は国中を流浪していたようだ」
ティルカは頭の中で生じた疑問を口に出した。
「…なぜ、そのような話を座長が知っているのです?焚書となった、その王弟の話も誰も知らないはずなのに」