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 ここで一旦、私の住んでいる涼原市について、概括しておきたい。唾棄すべき記憶と向き合うには、心の準備が必要である。今暫くの時間が欲しい。


 涼原市。その場所は、本州中央に位置する某県の北東部、ということになるだろう。綾濱川右岸、俗に言うところの笛草ふえくさ地域を構成する、三市一町の一つである。市制前は、涼原町すずはらちょうと称していたらしい。市木市花は……何だっけ。まあ良いか。県庁所在地・切葉きりはや、県下一の商業都市である磐札いわざねなどで形成された県中心部から一五キロ圏内にあり、ベッドタウンとしてそれなりに栄えても良さそうなものだが、実際の人口は八万を切る。確か、七万八〇〇〇人ぐらいだ。残念ながら多くの人で賑わう、とは形容し得ないだろう。今一つ活気に欠けるのは、出来の悪いサツマイモのような形をした市域が一二平方キロメートルほど、と狭いことが原因だろうか。それとも、大手私鉄たる波赴はきゅう電鉄の車両基地がある以外に、特に見るべきもののないことがその理由か。隣接する澄枝市が三〇万超の人口を擁し、駅前を大規模商業施設や複合型アミューズメント施設で犇めかせ、荘旺そうおう大の新キャンパス誘致にも成功したのと比べると、雲泥の差である。こちらの市もJRと波赳、それぞれの駅――涼原駅と涼原市駅――を有してはいるものの、両駅前にはせいぜい中型スーパーか、広いとはいえない書店、もしくはコンビニが店を構えているに過ぎない。ファストフードの店舗も、JRの方にドーナツチェーンが一軒のみ、市駅前には何一つない。私が栄養面の問題や、それに付随する健康への影響等々を考慮した上でそれでも利用するかはさておき、ハンバーガー屋の類が市の南外れに一軒あるだけで駅周辺には皆無、とは、どういうことなのだろうか。

 歴史を紐解いてみても、特筆すべきことはないに等しい。江戸初期のほんの一時、この地を中心とした小藩が存在していたようだが、三〇年ほどで廃藩となっている。その程度だ。市政施行は今から五〇年ほど前。今の市長は、もう一〇年ぐらいその座にあると思う。涼原出身で世間に遍く認知されている芸能人やスポーツ選手は、一人もいない。特産品として涼原牛蒡なるものがあるらしいのだが、我が家の食卓に上ったことはない。小学校は全部で八。中学が四つ。小中は公立のみで、私立学校はない。高校は公立が一、私立が一。レベルは共に、下の上から中の下といった辺りだ。国公立大のキャンパスは市内になく、私大が一つとその系列の女子短大が一つ。入学するのは、共に楽な部類だとされている。専門学校も一つか二つ、あった気がする。

 さてこの中で、市内に存在する四つの中学に焦点を当てたい。涼原市立のそれには何の捻りもなく、北東南西の順に第一から第四の名が与えられている。即ち兄さんが卒業し、また私が通う涼原四中は、市の西部にある、ということだ。そしてそれぞれの中学は、近隣の小学校二校ずつ――四中なら涼平すずひら小と涼平西小――から生徒を集めているのだが、ここで関係してくるのが、我が家の位置である。市北部の生徒を集める一中校区との境ギリギリに住んでいるのだ、私は。家を出て数分歩けば、道路の向こうはあちらの校区、という感じである。当然ながら、近所といえる範囲に住む同世代の大半は、一中校区の小学校から一中へと進むことになる。つまり、登下校を共に出来る人の数が、私は極端に少ないのだ。ほぼ居ないといって差し支えない。そもそも四中生、詰まるところ涼平・涼平西の児童は、中学の南西方面に住んでいる子が圧倒的に多く、北東側から通う人間そのものが、まずかなり少ない。それに加えて、私は校区の端も端、際の地域に住んでいる。一人での登下校になってしまうのも、仕方ないといえる。因みに、途中から、もしくは途中まででも道中を共にする相手がいれば、とは母も思ったようだが、同級生ないし前後一学年の女子で、該当する子は一人もいなかったらしい。最も条件に近かった子でも、私と比べればかなり小学校寄りに住んでいる上に使う路も異なり、一緒に登下校というのは厳しかったようだ。

 無論、小学校低学年から中学年にかけては母が付きっきりで送り迎えをしていたし、高学年になって通学路の途中までにはなったものの、送迎は六年間続いた。三つ離れた兄さんが在学中は、彼が共になることも多々あった、というか私がそれを望んだので、正確には一人きりではなかったが。兄さんもまた、低学年時は母の付き添いを受けていたため、長じてからも家族での登下校に、あまり抵抗はなかったようだ。私より三年早く、卒業してしまったが。ただ、私が中学に進学して部活に入り、行き帰りの時間がかなり不規則になったこと、幸いにも我が市の治安がそこそこ良いこと――これは涼原の数少ない美点かもしれない――、所謂しっかりした子に育っているように両親からは見えたこと、等々を踏まえ、一年ほどの様子見期間を経た上で、中学二年になった今年の四月から、毎日の送り迎えという制度は廃止された。今でも、帰りが一九時を回るような日は、母か兄さんが迎えに来るけれど。

 私自身は、兄さんへの情を自覚してから、暇さえあれば兄さんのことを考えていたいし、対外的な評判を維持する以上の友人付き合いに必要性を感じないので、一人での登下校は何ら苦ではない。寧ろ、兄さんについて考えを巡らせられる、至福の一時である。兄さん以外の男には何一つ与える気はないので、その手の輩を撃退する品々の収集・携行は欠かせないが。中学入学当初は、下駄箱や校門までだけでも一緒に帰ろう、と呼びかけられることも何度かあったものの、角を立てないように細心の注意を払いつつ、多忙さ――“優等生”をやるために多くの時間と労力を割いているので、嘘ではない――を盾にしたり、お喋りが始まってすぐバイバイになってしまうのは心苦しいというような意味のことを言ってやんわりと断っている内に、好意的な解釈をされた上で、その手の無駄な時間に誘われることはなくなった。良いことである。良いことなのだが、今日に関しては、全く持って良くなかった。というか、最悪だった。一人での帰宅が、あんな事態を引き起こしてしまったのだから。本当は思い出したくもないのだが、一応は何があったのか確認しておいた上で、記憶を封印したほうが良いだろう。

 先にも触れたとおり、私は期末テスト終了後、一人でかつ速やかに教室を出た。私の所属する二年一組は、解答用紙回収等の行程がスムーズに進んだようで、私が下駄箱付近に差し掛かったとき、周囲には殆ど人が居なかった。上機嫌で妄想を膨らませながら歩いていた私に声が掛けられたのは、まさにそんな場、そんな状況で、である。


「――さん。――浦さん。土浦さん。おーい」

「……え? ああ……」

 耳朶が声を認識。どうも、何度か呼びかけられていたようだ。妄想が盛り上がってきたところで邪魔が入ったことに、内心苛立ちを覚える。急降下する己の機嫌を宥めつつ、視線を音の発生源へと向け、たはいいが……えーっと、この男子誰だっけ。何処かで見た顔のような気はするが……。基本的に兄さん以外の男の顔は覚える気がさらさらないので、こういう時に少々困る。父のそれはまあ一応記憶にあるし、“人当たりの良い優等生”をやる以上ある程度は、と思って学校における男の知り合いも識別できるように努力はしているものの、やはり根本的に興味が無いものは如何ともし難く、中々苦労している。んー、二重瞼の下に並ぶはしばみ色の瞳には、見覚えがあるような、ないような。高めの鼻筋にすっきりした輪郭、全体の均衡を崩さない程度の筋肉で覆われた体躯、と、まあ、整っていると評しうるだろう容色をした男だ。私自身の好みというか趣味を脇に置くと、何処で何をしていても黄色い声に包まれていそうな人間ではある。運動部、それも男子バスケかサッカー辺りの点取り屋なり主将なりをやっていそうな――

「――ごめんごめん、佐盛さもりくん。ちょっと考え事してて。私に用事?」

 佐盛、確かひろむ。記憶の奥底から漸く掬い上げた、それが闖入者の名である。私との関係は、一応委員会仲間、ということになるだろうか。今年度の前期、私は女子評議委員を務めていた。学校によっては学級代表とか代議員とかいうらしい、あの役職である。吹奏楽部の部長兼パート長職を秋口に上級生から引き継いで以降は、流石に負担が大きすぎるため委員継続は辞退したが、主として教師陣からの信頼と評価を更に積み上げるべくクラス替え当初にその座を欲し、また射止めた覚えは確かにある。佐盛とは、学内全学級の評議委員が一堂に会する会合の場で出会い、何度か言葉を交わしたことはある。が、それだけだ。彼が後期も続けて評議委員をやっているのかいないのかは知らないが、私がその座を退いて三ヶ月近く経つ今、委員会関連の用件で話しかけてきた、ということはないだろう。そしてその話題を抜きにすると、私と佐盛の間には会話を交わす必然性がなくなる。委員会以外での個人的な関わりが、皆無だったからだ。うーん、何だろう。疑問を持った私の首が、少し傾ぐ。

「いいよいいよ。ちょっと他の人に聞かれたくない話だから、場所変えたいんだけど大丈夫かな。C棟の前までついて来てくれる?」

 こちらの仕草を見て取ったのか、そんな提案を投げてくる佐盛。声色は柔らかかったが、その発言内容には、あっ、と察するものがあった。C棟というのは所謂特別教室棟で、理科室や図書室、吹奏楽部の根城である第一音楽室などを抱える建物を指す。そして各学級のホームルーム教室以外で滅多に定期考査が実施されない四中においては、確かに今日この時間、限りなく人目に触れにくい場所の一つである。現状人が居ないに等しい、下駄箱周辺以上に。そんな場所で、恐らく。恐らくとはいえ、かなり確度の高い予想なのだが、彼から私へ恋情の吐露が行われるのではないだろうか。単なる自意識過剰で、告白されるかもなどというのは杞憂に過ぎず、全く別の用件で呼びだされているのであれば良いのだが、どうも、この推測は当たっているような気がしてならない。榛の揺れ動き方や、よくよく見ればやや落ち着きに欠ける所作が、私にそれを予感させる。一瞬で胸中を埋めていく嫌悪感。嫌だ。兄さん以外の男に、愛を囁かれたくない。睦言を交わすのは、兄さんだけが良い。他の男が発する愛の言葉に、鼓膜を震わされたくない――

 実のところ、兄さんを想うが為に容姿内面能力の研鑽を重ねていくうち、私は兄さん以外の男から見ても目を惹く女になってしまったようで、告白と呼ばれる行為を受けた経験が、何度かある。まあ告白というよりは、劣情の披瀝をしているだけのような男もいたが。ひたすら顔と胸と腰の間で視線を往復させながら、ペラペラと舌を回しているような。それほどではなくても、自身を飾り立てる装身具として“美人の彼女”を求めているだけの男もいた。この二人については、私自身の評判が下がらないようには留意しつつ、拒絶の色を濃くした態度で追い払った。これらに比べれば誠実といえる態度の男も無論いたが、私は兄さんと一生を添い遂げることを決めているので、こちらには幾分丁重に、しかし毅然とお断りした。このように、相手の出方によって応対を変えてきた私であるが、男から慕情を打ち明けられた時心中に浮かぶ思いは、いつ如何なる時もただ一つであった。即ち、“嫌”である。最近は、告白される隙を見せない立ち振舞いというものが身に付きつつあったようで、男共からその手の用件で声を掛けられることは減っていたのだが……。気が緩んでいた、のだろう。兄さんを手に入れた後のことを考えるあまり心ここにあらずで、特に今日は警戒心が鈍っていたのかもしれない。ああ嫌だ。普段なら、あまり角の立つ態度を取って悪評を立てられるのも勘弁願いたいので、一応話は聞くのだが、今日はいつも異常に、相手の男のことが思い疎まれる。私の大事な大事な一時を、くだらないこと極まりない用件で妨害された恨みだろうか。兄さんを私だけの兄さんにする未来が現実的なものになりつつあることで、もう彼以外の人からは何を思われようがどうでもいいという想いが萌芽したのか。佐盛に気を使おうという気持ちが、微塵も湧いてこない。

「うーん、ごめん。今日ちょっと急いでるんだよね。親にさっさと帰ってくるように言われてて。今度でいいかな?」

 それでも最低限の愛想を滲ませた声音で返答しつつ、己の下足スペースへと向かう。相手からの答えは待たずに、内履きのスリッパからローファーへと素早く履き替える。

「それじゃ、また」

 振り返って、面食らったかのような顔をしている佐盛に一声かけ、足を正面玄関へと向けたその時――それ(・・)は起こった。

「――土う……美桜さん! ちょっと待っ――」

 端的に言えば私は。兄さん以外の男に下の名前を呼ばれてしまった驚きと不快感に、身体の動きをびくりと止めてしまい。追いかけてきた佐盛によって兄さん以外の男に、肩を掴まれかけてしまったのだ。刹那の硬直から回復した私は、伸びてきた腕をすんでのところで躱し、振り向きざまに音を立てて払う。佐盛は「あ、つい。ごめ……」などと謝罪の言葉を発しかけたようだが、眦を決して冷たく一睨みしてやると、言葉を継ぐことはなかった。嫌だ嫌だ。気持ち悪い。心の底から気持ち悪い。お前が私の名前を気安く呼ぶな。お前が私の身体に、少しでも触れようとするな。それらが許されるのはこの世でただ一人、兄さんだけだ。間違っても、お前なんかが許されるはずがない。鬱陶しい。羽虫のように鬱陶しい。心中相手への忌避感が膨れ上がり、もはや佐盛に欠片ほどの心配りをする必要性すら見出だせなくなった私は、自身の言動について取り繕う気も起きず、それ以上相手へ一瞥もくれることなく、その場を去った。

 兄さん好みの女という観点から言えば、あまり周囲との間に問題を持ちたくはなかったが……まあ、トラブルというほどの大事にする気は、向こうもないだろう。袖にされて女々しい態度を取ったとあれば、高いであろう評判の急落は避けられない。そのリスクを冒すような感じは、受けなかった。これから先、万が一佐盛と親密な関係になりたいと願っても、そうはなれないというだけである。そしてそんなことを願う日は、永久に来ない。


 校門を出て帰路についた私を襲ったのは、途方も無い不快感である。兄さん以外の男に愛を囁かれそうになること、兄さん以外の男に「美桜」と名を呼ばれること、兄さん以外の男から身体的接触を受けそうになること、それぞれ単独でも私に多大な不愉快さを覚えさせる事象である――後者二つは、父や祖父などの身内であれば一応は許可しているが――。これら三つが組み合わさって私を汚染した時、心身が訴えるその影響は、中々のものがあった。冷や汗と動悸が止まらない。側頭部が痛みを発する。中でも酷かったのは、迫り上がるような嘔吐感である。已む無く、帰宅途上にある小さな児童公園の、公衆トイレに駆け込む羽目になった。個室の戸を慌ただしく開閉し、便座に向けて屈み込み、喉元まで来ていた胃液を便器内にぶち撒ける。数瞬の後、もう一度。荒い呼吸。暫くして、漸く拍動と気分が落ち着いてきた。やれやれである。吐瀉物を下水へ流し、便器外に飛び散っていないか確認。大丈夫そうだ。個室を出て手洗い場へ。備え付けのハンドソープを使い両手をよく洗浄してから、口を濯ぎ、ハンカチで額の汗と口元を拭う。ふう。出すものを出したおかげだろうか、身体の不調は頭痛も含めて何とか治まりつつあった。呼吸を落ち着け、トイレを後にする。念のため、一〇分ほど公園内のベンチで休息を取ってから帰宅を再開させたため、私が自宅のドアを開いたのは、午後一時一五分を過ぎた頃であった。

 偶然顔を合わせた兄さんに、もはや習慣となってしまった罵倒を浴びせてから自室へ向かう。スクールバックを室内に置き、洗面所でもう一度手を洗い、口を濯ぐ。兄さんは、自身の部屋へ入ったようだ。今日届いた美少女フィギュアを開封し、ご対面と洒落込むのだろう。湧き上がった嫉妬心を抑えこみつつ、私は上階へと向かい、テレビを見ていた母に帰宅を告げる。「ちょっと帰ってくるの遅かったね」とは言われたが、部活関連の雑務があって、と弁解すると、あっさり納得してくれたようだ。兄さんからの伝達通り、昼食として焼きそばが用意されていることを、母からも告げられる。コップと箸を用意する間に焼きそばをレンジで軽く温め、両手にそれらを持って炬燵へ。母と期末テストの出来について会話を交わしながら、二〇分ほど掛けて食事を摂る。どうにか体調は回復したようで、無理なく完食することが出来た。食器類を洗い、階段を下りて再び己の部屋に入る。バックの中身を整理し、配布されたテスト問題をファイリングしてから、部屋着に着替える。洗い物を洗面所内にあるそれ用の籠に放り込んで、三度自室へ。一通り帰宅してからやるべきことを済ませた私は、室内側から扉に耳を押し当てた。兄さんの動向を探るためだ。


 この時私の脳内の大部分を支配していたのは、“兄さん成分”を補給したい、という思いであった。兄さん成分とは、兄さんを感じられる得も言われぬ何か、のことを指す。兄さんにギュッとしてもらうのが最も効率の良い摂取方法なのだが、現状の彼と私の関係では、それをお願いするのは難しい。難しくしている要因は私の普段の言動なので、文句は言えないのだが。しかし、成分は体内に取り込みたい。そんな私が妥協案として編み出し、ここ数年使っているのが、兄さんの肌に触れた、或いは兄さんが身に着けた物品を私がギュッとする、という方法である。当初は学ランやカッターシャツ、制服のズボンが主だったが、最近は彼が毎夜頭を載せる枕に顔を埋め抱きしめるのが、マイブーム――因みに肌着類を拝借するのは、どうにか我慢している――である。一度試すと、虜になる甘美さが枕にはあるのだ。勿論、そんな行動を取っているところを兄さんに見られるわけにはいかないので、成分摂取に当たっては慎重に慎重を期している。彼が長時間部屋を空けることが確定的な状況以外では侵入を図らないようにする程度の分別は、私にもあるのだ。

 ただ今日は。佐盛に甚だしく気分を損ねられたせいか、一刻も早く兄さん成分を補給したいという欲求への自制が、効かなかった。汚染された私の心を可及的速やかに、かつ少しでも兄さん成分によって癒やしたいという願望を、抑えることが出来なかった。目的を果たすには時間的余裕のないことを承知の上で私が兄さんの部屋に入り、結果途方もないスリルを味わう羽目になったのは、これが原因である。やはりあの枕は、甘い危険を孕んでいる。何度、陶然とさせられたことだろうか。幾度、身体に熱を帯びさせられたことだろうか。


 現在の状況に至るまでの振り返りが終わり、重ねてふう、と息を吐き出す。取り敢えず佐盛との一連のやり取りを、「二度と思い出したくないフォルダ」に放り込む。漸く鼓動が平常運転に戻り、冷や汗も引いてきた。全く、今日は何度心臓と汗腺に負担をかければ良いのだろうか。あっ、そういえば、今月の部活の練習予定、確認しておかないと。

 ――そんなことを考えながらも私の右手は、いつの間にか下腹部に伸びつつあった。先程は丁度良いところで、中断を余儀なくさせられたのだ。このまま放っておいては、頭が茹だってしまう。真昼間からはしたないとは思わないでもないが、自分の行動を鑑みれば、今更のような気もする。


 兄さん、兄さん。貴方の良さは、私だけが分かっていればいいんです。兄さん、兄さん。もう少し、もう少ししたら、私の愛を骨身に染み渡るほど理解させてあげますからね。貴方を想う気持ちがどれほど大きいものか、教え込ませてもらいますからね。私だけの兄さん。兄さん――

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