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閉じた扉に背を預け、ふう、と安堵の息を吐きだす。全身から力が抜けていくのに任せ、ズルズルとそのまま床に腰を下ろした。
危うく、兄さんの部屋から出てくる私の姿をその兄さん本人に目撃されるところだった。間一髪自分の部屋に飛び込めた筈なので、見られたのはせいぜい自室に入ろうとする私の姿、程度だと思われる。或いは――幾分か楽観的な予想をすれば――私の部屋のドアが閉じる音を聴かれただけで済んだかも知れない。妙に慌てて部屋に入っていったな、やけに大きな音を立てて扉が閉まったな、などと怪しまれていなければ尚良いのだけれど。トイレにでも行っていたのかな、程度に兄さんが考えてくれていることを祈る。
頬を伝う冷や汗をハンカチで拭い、心臓の鼓動を落ち着ける。……いや、それにしても本当に危ないところだった。薄氷を踏む、どころの騒ぎではない。
普段、一緒にお喋り、以外の目的で私が兄さんの部屋を訪れる時は、兄さんが不在かつ直ぐには部屋に戻って来ないことが確実なタイミングを、慎重に見計らうようにしている。兄さんが室内にいなくても短時間で戻ってくる可能性が高い場合、例え『お喋り以外の目的』があろうとも、兄さんの部屋に私が入ることはない。
息を潜めつつ扉の内側に耳を押し付け、部屋の外から聴こえてくる音へと神経を集中させる。そうすれば例え私がドアを閉め切った自室内にいても、外部の音をある程度は認識することが可能だ。玄関や兄さんの部屋、この階のトイレ、風呂場、等々の扉の開閉音や、一〜二階を繋ぐ階段及びこの階の廊下を人が移動する音、辺りがそれに該当する。私や兄さんの部屋はそれなりにしっかりした防音性能を持ってはいるが、あくまでそれなり。ごく普通の子供部屋に過ぎないため、防音室などには遠く及ばない防遮音性しか持っていない。無論、このやり方で知覚できる音の大きさには限度もあるけれど。
『九月一七日二一時五四分に通販サイトで注文した“九重楓フィギュア・七分の一スケール完成品”が珍しく発売日当日に配送され、在宅していた母がそれを受領。その際に立て替えられた代金の返済』――先ほど兄さんが二階に赴いていたのは、十中八九この用事を済ませるためだろう。簡単な金銭のやり取りを目的として部屋を空けた兄さんが短時間で戻ってくるであろう可能性の高いことは、想像に難くない。いつもなら、この隙に兄さんの部屋へ、とは考えもしないシチュエーションだ。
今日の放課後私の身に降り掛かった、酷く不愉快で、怖気が走るほどに気持ち悪く、思わず吐いてしまうまでに忌々しいあの事件。あれさえなければ、目的を果たすには時間的余裕のないことを承知の上で私が兄さんの部屋に入り、結果途方もないスリルを味わう羽目になることは恐らく無かっただろう。
今から一時間ほど前の、一二時三五分過ぎ。三日間に渡って行われた二学期期末テスト、九科目全ての試験を漸く受け終えた私は、解答用紙提出、口頭による連絡事項伝達、解散の挨拶、といった作業を淡々とこなし、帰宅するべく教室を後にした。
私が通う涼原市立第四中学校――四中は、日本全国津々浦々どの地域にでも存在するであろう、ごくごく平凡な公立の中学校である。敷地内に一風変わった設備を持つ訳でもなければ、校舎が大理石で出来ていたりする訳でもない。一流レストランのシェフが腕を振るう豪華絢爛な学食があったりすることもなければ、校名を広く轟かさんばかりの実績を持つ部活も存在しない。地区大会でこそ、そこそこの成績を挙げていると聞く野球部も、県全体では中の中にやや手が届かない、程度の実力らしい。全国的には、勿論完全に無名だろう。学業面でも特筆する程のものはなく、数少ない上位層が進学校と呼ばれる高校に進み、多くの中下位層は中堅・下位高や商工業高に進む、といった感じだ。
そんな至ってありふれた公立中学たる涼原四中において、私――土浦美桜は、一応“優等生”というものをやっている。
学区トップの公立高である綾濱こそ少々厳しいものの、三番手の畝砂は、現段階の成績を進級しても維持出来れば余裕を持って合格可能。二番手の澄枝や、県内で名門私立女子高とされる大庭女学院も十分狙える、と一〇月に受けた塾の模試で判定される程度の成績を修められている、というのがまず一点。部長兼クラリネットパート長として吹奏楽部を統率している、というのが二点目。運動面でも学年の平均を上回る記録を残せているし、問題行動を起こさず、人当たりも良く友人も豊富。……いや、何というか背中が痒くなってくるような自賛だが、周囲から概ねこのような評価を受けているであろうことは恐らく間違いない。部活の後輩やクラスの友人、担任教師等々の言動から察せられる限りでは。
しかし、この“優等生”という評価を得、そして維持するという行為には、多くの気苦労が伴う。というか、ぶっちゃけ面倒くさいことばかりである。本心では苦手な相手にも愛想良く振る舞わなければならないし、疲労が溜まっていて体を休めたい時でも予習復習は欠かせない。適当な理由をつけてサボりたい体育の授業にもやむを得ない事情の時を除いては毎回全力で取り組む必要があるし、自分の事でいっぱいいっぱいであっても部活内の人間関係に神経を割く必要がある。正真正銘の優等生ならば苦もなくこなせることなのかも知れないが、根がそう(・・)ではない私からするとストレスが溜まって仕方ない。では何故、私が少なからず無理をしてでも“優等生”をやっているのか、というと。
偏に、兄さん好みの女になるため、に他ならない。
――土浦雅明。私と血の繋がった実の兄にして、県立澄枝高校二年生。そして何より、私の愛するヒト。彼が持つ理想の異性像、平たく言えば女の好みに合わせるべく、私は日々“優等生”を演じているのだ。序に言えば、現在髪を伸ばし中なのも、胸を大きくするべく大豆や鶏肉を積極的に摂っているのも、化粧に全く手を出していないのも、全て兄さんのため、である。
腰まで届くストレートの黒髪、豊かな胸、細い腰、適度な肉の付いた太腿、それなり以上に整った但し化粧をしていない顔、必要以上に遊ばず学業にしっかり取り組む、堅苦しくない程度に真面目、周囲の人間との間にトラブルを抱えない。兄さん好みの女、とは、大まかにはこんな感じだろう。少しずつではあるが、外見はそこそこ近付いて来ているという自信があるし、内面もそうあれるよう努力している。兄さん好きする女になるべく、兄さんが私を女として求めてくれるようになるべく、研鑽は欠かしていないつもりだ。
では何故、これほどまでに兄さんの寵愛を欲している私が彼に対して辛辣な言動を取っているのか、というと。
兄さんが己に自信を持たないようにするため。もっといえば、兄さんと私以外の女が親密な関係を持つ危険性を下げるため、である。
客観的に見ても、兄さんは本人が思っている――思い込んでいるほど、魅力に欠ける男ではない。顔の作りは、絶世の美男子というほどではないにしても、そう問題なく見られる顔をしている。少なくとも、パーツ全てがどうしようもない形状であったり、それらの配置がとんでもなくおかしかったり、ということはない。体型はやや太り気味ではあるが、それを好ましく感じる女性も少なからずいる程度のものであり、高身長ということもあって見るに耐えない肥満体、という訳ではない。内面も、温厚で包容力もあり柔和、粗暴や酷薄などといった言葉とは程遠い。女がひっきりなしに近付いて来ることはなくても、その良さを理解出来る女が周囲に皆無、ということも無い筈だ。深く付き合えば、兄さんの魅力にアテられ、腰砕けになってしまう女が一人や二人は必ず出てくるだろう。長年兄さんと接し続ける内に男性として意識するようになってしまい、とある出来事が決定打となって、兄さん無しの人生なんて想像も出来なくなってしまった私が言うのだから間違いない。因みに私の主観が入った評価ならば、兄さんの外見にも内面にも文句なしの満点がつくというのは、言うまでもないことだ。
ただ悲しいかな、自信や積極性、恋愛面での強引さ、といったものが兄さんには大きく欠けている。卑屈や自己嫌悪の気があり、それが外見や言動にまで滲み出てしまっている。兄さんがこの歳まで交際経験の一つもない原因の多くはこれだろう。そして、それを引き起こしている要因の大部分は私の普段の言動、と考えてまず間違いないと思う。いくら妹とはいえ、年の近い異性に四六時中己を否定する言葉を浴びせ続けられれば、そうなってしまうのも無理はない。
卑屈さや自信のなさがルックスに大きくマイナス補正を与えた結果、それこそ致命的なまでの不細工に見えてしまうと、流石に女は殆ど寄って来ない。もし外見を気にせずある程度兄さんと親しくなる女がいても、一定以上関係が進展することはまずない。己に自信のない兄さんには異性との関係を発展させるという発想がないし、もし向こうが関係を進めようとしても兄さんの方が引いてしまうだろう。そんなことは考えたくもないが、万が一兄さんが私以外の女に恋慕の情を抱いても、卑屈な思考を巡らせてしまう彼にとっては、その女と恋人関係はおろか友人関係を成立させることさえ、至難の業に違いない。このような状況で兄さんが男女交際を経験する、という事態はほぼ発生し得ない筈。
うん、やはり私の普段の言動によって、兄さんと私以外の女が親しくなるリスクは大幅に引き下げられているのだ。
……まあ、言ってしまえば。嫉妬心・独占欲故の行動に他ならない。兄さんに、毎日毎日キツい言葉をぶつけ続けるのは心苦しい。思ってもいないことを言っているだけに、酷い事をしている、という罪悪感はある。滅多に言い返して来ない、口論になっても容易く矛を収めてくれる兄さんに甘えている嫌な女だ、という自覚もある。以前は素直に好意を発露する妹だった覚えがあるから、兄さんも随分と戸惑っていることだろう。
ただ、それでも。兄さんを他の女に盗られたくなくて。兄さんの隣で私以外の女が微笑んでいるのを想像しただけで、どうしようもなく心がささくれ立って。兄さんから女を遠ざける方法、兄さんに女が寄って来ない方法を必死で考えても、こんな稚拙な手しか思い付けなくて。それでも、兄さんに女が近付く可能性を下げられるなら、一時的に私が嫌われることになっても構わない。兄さんに嫌な思いをさせることになってしまっても、どうしても他の女に兄さんを盗られたくない。何処ぞの女と兄さんが付き合う、何て事が現実のものとなってしまったら、その女――人の男を盗った泥棒猫にどんなことをしてしまうか自分でも想像が付かない。
最近では、恋愛に対して最早諦めにも似た感情を兄さんが抱きつつあることは知っている。その代償行為としてか、サブカルチャー、所謂オタク文化の深みに彼がズブズブと嵌って行っていることも、承知している。兄さんが漫画やゲームの女キャラに興味を持つというのは決して面白くはない……というかハッキリいえば不愉快なことではあるが、所詮相手は実在しない人物。仮想の女の存在ぐらいは、何とか容認できる。私の中で荒れ狂う嫉妬心も、ギリギリ言うことを聞いてくれる範疇だ。これがアイドルグループの写真集だったりしたならば、カッターで切り刻んだ後焼却処分するが。どうやら、兄さんはそちら系統への興味は薄いらしい。
胸に抱いた兄さんへの恋心が取り返しの付かない境地に至って、はや三年以上。ドロドロとした爽やかさの欠片もない感情を心の奥底に飼いながら、もうそれだけの月日が流れた。そんな日々の中、毎度のように兄さんに吹っ掛けた口論がいつになくヒートアップ。どうやら数学の問題集がサッパリ解けず非常に苛々していたらしい兄さんが珍しくその舌鋒を中々緩めず、それに私も応じた結果、二人の間でいつの間にやらとある取り決めが成されていたのは、つい昨夜のことである。この取り決めが、現在の兄さんとの関係に終止符を打ち先の段階へと進む決意を私にさせた。
取り決めとは即ち、『クリスマスまでに兄さんに彼女が出来れば兄さんの勝ち。出来なければ私の勝ち。負けた方は、勝った方の命令を何でも一つ聞く』というもの。この勝負、兄さんが勝つ可能性はほぼ皆無と考えて間違いないだろう。一〇〇パーセントに限りなく近い確率で、私が勝者となる筈である。クリスマスの晩無事勝利を収めた私は、兄さんにこう命令するのだ。
――私と付き合って下さい、と。
無論、兄さんは本気にしないだろう。面白い冗談だな、と笑われてしまうかも知れない。或いは、急にどうした頭大丈夫か、と訝しがられるかも知れないが。その時はそれでいい。翌日の朝日が昇る頃には、私は紛れもなく本気だったと、兄さんは身に沁みて思い知ることになるだろう。
聖夜に好きな男と恋人関係になる、というのは、何だかんだ言っても女の憧れだ。私にはミーハーの気があるので、尚更のこと。加えて今年は、二五日の朝から翌二六日の昼前に掛けて両親が家を空ける予定なのだ。私の計画は、彼らが在宅だと成功率が下がりかねない。もしくは、途中で妨害される恐れがある。邪魔者が入る危険性のない今年のクリスマスは、私が兄さんを手に入れるべく温めてきた策を成すのに、もってこいの日なのである。
この計画、本来は来年か再来年辺りのクリスマスに実行するつもりだったのだが、昨夜取り決めを交わした後で何だか心に踏ん切りが付いてしまった。よく考えれば来年や再来年のクリスマスにまた両親が家を空けるかは分からないし、何より正直言って現在の関係に耐え続けるのも限界が近い。取り決めの結果発表とそれを受けての罰ゲーム命令、という形を取れば私としても幾分話が切り出し易い。この点も、決行を決断させた重要な要因だ。何の前振りもなく突然愛の告白、というのは如何な私でも少々ハードルが高い。
ともかく、この計画を無事遂行することが出来れば、兄さんは私だけのものに、私は兄さんだけの女になることが出来る。細部を詰める必要はあるが、策にほぼ抜かりは無い筈。悲願成就の日は近い。
まあそんな訳で。私は兄さんと恋人同士になった後の幸せな日々を夢想しながら、上機嫌で下駄箱へと歩みを進めていた。 酷く不愉快で、怖気が走るほどに気持ち悪く、思わず吐いてしまうまでに忌々しい事件。それが私を襲ったのは、正にそんな時であった。