第二章二幕「道」
今日は早く寝ようと思ってたのにな…。
そして一行目の「ワンダーランド~」が復活!
の代わりにヘッダーから「ワンダーランド~」が消えました。
何がきっかけだったのか、いつのころからだったのか。それは、今では思い出すこともできないほど、遥か昔の話である。
彼女は暗い洞窟の中にあって、最奥の幅二メートルはあるオレンジの大きな石、中に赤い炎を宿した意志を祀った祭壇の五段ある階段の三段目に腰を落ち着かせ、独り思い出していた。
赤い炎を宿したオレンジの石は炎の精霊王の力を具現化した神石だ。四大神はそれぞれ同じ方位を守護する精霊王の石を守る存在だ。
あたたか色を宿す神石を見つめて、過去を振り返る。
なぜ、どうして。頭の中が疑問で一杯になる。これまでの数え切れないほどの年月を、自分に問いかけながら過ごしてきた。子供たちを救えない代わりに、問いかけ続けることを止めなかった。それしか、自分にはできないから。そうすることで、彼女は自我を保っていた。
気がつくと、穏やかな性格だった天使と、名とは反対に物静かで優しかった悪魔はいがみ合い、光の子である誇り高きエルフと闇に生きるダークエルフ、自由な聖獣と奔放な魔獣を巻き込んで争いを始めた
彼らの人格が豹変と呼べるほど変わってしまったのはいつからだったのか。
そう、本来の彼らは穏やかな性質を持っていたのだ、それなのに天使は残虐になり、人間を襲うことに快感を覚え、赤い血を見ると酒に酔うのと同じように、血に酔うようになった。物静かだが決めるときにはきっちり決めてくるしっかり者の悪魔も、最初は正義と仁に反する天使を止めようとしていた。しかし悪魔もまた、気がつくと血に酔うようになっていた。エルフとダークエルフ、聖獣と魔獣は、それぞれの属する光と闇に従い、正気を保ちながら過ごしていたかのように見えたが、気がついたときには天使と悪魔と同じように酔いしれて行った。
気がつけば、こうなっていた。
気付いた時には、始まっていた。止まらなかった。
なぜなのか。
愛した少女を失った神の、力と理性の暴走だ。戻って来なかった少女を想う、彼の想いがコントロールを失ってしまった。
いつ、止まるのか。
壊れてしまった神の愛する少女が戻ってきたら。けれど、彼女はリアルに帰り、永遠の命を持つ神でも気が遠くなるほどの時が経った。人間だった彼女が、生きているとは思えない。
彼は、救われるのだろうか?
わからない。
異常な、わからないことを繰り返し、いつしかそれが正常になった。他に知らなかったから。
世界が混沌に呑まれる。
世界を構成する種族が、混沌に呑まれ始めている。これは、そういうことなのではないか。
彼女は願った。
誰でもいいから助けてくれ、と。私の子供たちを、愛する者たちを殺戮の渦から救い出してくれ、と。
力を失った彼女には、この洞窟から出ることも叶わない。立って歩くことも、天使と悪魔たちを止めることも、彼女にはできなかったから。それでも、祈ることだけは彼女にもできた。だから彼女は祈る、どうか、と。
「どうか、伝説に残る白き乙女よ。混沌に沈もうとしているこの世界と、そして滅びの歌を歌う彼をお救いください。」
彼女の思いを乗せた、仲間を救いたいと願う純粋な祈りは、彼には届かない。
*
暗い、ひとつ蝋燭の光が浮かび上がる暗い闇の中で、男は笑った。彼以外にはなにもない闇の中に、世界の南の果てにそびえる神山、その中腹辺りに自分が開けた穴へ閉じ込めた紅い女神の祈る声が、諦めることもなくまた、聞こえてきたからだ。
無駄なことを。そう思わないでもなかったが、無駄なことをしている彼女を見るのも楽しかったので止めはしない。絶望と限りない悲しみに沈む彼女を見るのは、彼にとってこの上もない楽しみ、娯楽となっていた。
そろそろ、この殺戮に彩られた世界を見るのも飽きてきたところだ。自分が、かつての精霊王と同じように、新たな望み通りの世界を創造する時期が来たのかもしれない。
たった四人の、異世界から来たというだけであとは普通の、ただの人間。彼らにできて、自分にできないことがあるだろうか。男はこの世に誕生してからこの数万年、神としてこの世界を見つめて来た。精霊王のいない時も、居る時も、またいない時も。ずっと、ずっと、変わることなく見守って来た。
それに飽きたのは、もうどれくらい前だったろうか。
考えて、不快な思い出を甦らせてしまい、男は細く短い眉根を寄せた。そう、きっかけはなんてことはない、たった一人の少女だったのだ。彼女は彼を置いて行った。またきっと、戻って来るから。そう言って、彼女はこの世界からいなくなった。生まれ育ったリアルへ帰ったのだと、彼は気が遠くなるほどの時を経るうちに、徐々に悟った。けれど受け入れられたかは話が違い、彼はただただ、彼女を待っていた、何年も、何十年も、何百年も、何千年も、そして何万年と時が経つと、彼と同じ時を生きる立場にある者たちが、その目に憐れみを宿して言ったのだ。
「もう、彼女は帰って来ない。」
「精霊王と言えど、リアルではただの人間、もうこの世に生きてはいないだろう。」
友の言葉を背中で聞いて、彼はそれでも待ち続けた。精霊王の魂は巡り、また精霊王として生まれ来るのだと、物語には伝わっている。だから、彼女自身は生きていなくとも、彼女の魂を持つ次の精霊王が会いに来てくれるかもしれない。魂は同じだ、そして精霊王の魂はこの世界に引き寄せられる宿命のもとにある。また彼と再会すれば、魂の奥底に仕舞いこまれた彼女としての記憶も蘇えるに違いない。また、同じ方角を統べる者として一緒にいられる。彼はそう信じていた。希望を抱いて彼がそう語る度、幼い容姿をした西の女神は彼と同じように、もしくはそれ以上に楽しそうに、嬉しそうに同調してくれるが、悲しそうに涙を浮かべる南の女神と憐れむ東の神が不愉快だった。
四大神のふたりがこれでは、彼女が帰って来た時、居心地が悪いではないか。彼女は少しわがままな面があったから、機嫌を悪くしたらまたリアルに帰ってしまうかもしれない。そうなっては、また彼は何万年と待たなければならないのか。
だから、想いを同じくする彼らは、ただ彼女のために、彼女を否定する者たちを排除することに決めたのだ。
かつては四大神として思いを重ねていた神々、力は互角だった。
だが神々の力は互角でも、守護している種族の力には歴然とした差があった。けれど彼女をただ待ち続けた月日と同じ数だけを費やして、ようやくすれ違った神々の守護する種族を絶やせるところまで来たのだ。
ここまで来るのにかかった年月を思い、男がくっくっくっ、と獣のように喉を鳴らして笑う。彼女をここまで強く、強烈に想い続ける自分が面白かった。けれど同時に悲しくもあった。
どうして、こうまでしているのに彼女へこの想いが届かないのだろうか。
くっくっく、笑い声が闇に響く。愉快そうに響いていた笑い声は、徐々に嗚咽の混じる鳴き声へと変わっていった。
彼女はまだ来ない。
*
私たちは進み続けた。進んで進んで進み続けた。何日も、何日も。
太陽が昇って沈んでまた昇る、というのをするのをふたりで六十回ほど見た。首をかしげ、頭を捻りながら、本当に私たちは仲間のもとへ戻れているのだろうか、道はあっているのだろうかと、不安と闘いながら、それでも進み続けた。私たちには、それしかできなかったから。
己の進むべき道を誰かに尋ねることなどできはしない。
なぜなら、その道を進める者は、己以外に他に存在しえないからである。自分の人生は自分でしか進めない。誰かに変わってもらうことなど、できはしないのだ。
そして、私たちの進むべき道を誰かに尋ねることはできない。
なぜなら、私たちの進むべき道に、人がいないからだ。町を出て今日まで、二か月以上旅をしてきたが、私たちは出てきた町以外の町と言う人が集まっている場所を見たことがなかった。正確には「生きている者の集まっている町」を見ていなかった。
進んできた道には、元・町。という場所はいくつかあった。けれどそのどれもが生命体のない屍の眠る、あるいは飾られた場所だったのだ。そして、その場所を見るたび、私とリーリエは待ち伏せをしていたらしい死の天使の集団に襲われた。彼らは白い翼を真っ赤に染めて、目を血走らせて、口はとても楽しそうに三日月型に歪んでいた。そんな彼らが元は町だった場所を見つけるたびに盛大にお出迎えをしてくれたのだ。必ず毎回、町ごとに出迎えてくれる天使たちは、なにか嫌な予感を感じさせた。天使と悪魔は空を飛べるが、東の国は人間の国だ。人間たちは地球と同じように、あそこまでではないが結構技術を磨いている。地球で言うところの近代くらいまでの技術は、リアルから来た人々の知恵を借りたこともあって進歩していると聞いた。そんな人間が守っている国境を越えて来ている天使たちがこれだけの数集まり、私たちを狙っているかのように私たちの行くところ行くところに現れているとは、とても「奇遇ですね~」と言って済ませられることではない。
かといって、町を出たのは約六十日、彼らに初めて大歓迎をしてもらったのは五十日ほど前に初めて見つけた、つい五日前までは生きた町だった場所で、だ。その日、息絶える直前まで配達していたと思われる、人間たち特有の文化である新聞を大量に持った青年が、自分の体を中心に半径五メートルの範囲に赤いドロドロした物を撒き散らしているのを見た。彼が助けを求めるように抱きしめていた「国境での戦闘、ますます激化!」の見出しが躍る紙の束の右上に書かれた日付が、ちょうど私たちが旅立って五日目だったのでよく覚えている。一方的に虐殺される普通の、私や、地球に残してきた家族と同じ人間を見るのは初めてだったので、より鮮明に覚えていた。あの時感じた、目の前が真っ暗になるほどの絶望と天使たちへの怒りは、今思い返しても自分自身に恐怖を感じるほどだ。
死と絶望に満ち満ちた、江戸時代を迎えた頃の日本とよく似た町を、天使を戦ってその血で地を洗いながら、だれか生きている者がいないか探しているとき、ようやく見つけた一人の年老いた生存者。
彼は言った。血走り、濁った黒い瞳で私の目をしっかり見据えて、ハッキリと。
「どうして、なぜ、天使どもを殺してしもうたんじゃ!」
「わしは妻も娘も、孫も、婿も、みぃんな目の前で天使に食い殺された。もう生きている意味はない。あいつらは久しぶりに来た天使じゃ。今日こそ殺してもらえると思っておったのに、なんでじゃ?わしはもう疲れたんじゃ。」
「この殺戮と絶望しかない世界に、力の弱いもんはただ殺される順番を待つしかできることはなあ。今日、わしの番がようやく来たと思っておったのに…!どうしてくれるんじゃ?やっと、ようやっと、家族の待つ黄泉に旅立てると思うておったのに!」
「わしはもう疲れたんじゃ、頼む。天使がすべて殺されちまった今、もうお前さんにしか頼めん、お願いじゃ、天使を殺してしまった代わりに、お前さんがわしを殺してくれ!」
私は、彼にかけて上げられる言葉を持たなかった。目の前で大切なものを失ったことはない。そんな私には、目の前で大切な、自分の命よりも大切な何かを失ってしまった人の心に響く言葉を、かけて上げることなんてできない。
地球に残してきた私を生んで、すべてをかけて守ってくれた両親、一緒に苦しみ、そして笑ってくれた幼馴染たちと日常を生きていただけなのに突然極限の恐怖と絶望を叩きつけられた新聞配達の彼ら人間たちを、一瞬でも重ね合わせてしまったからかもしれない。私も、この世界で生まれ、そして知識を得ながら育っていたならば。もしかしたら彼らと同じように、すべてを受け入れてただ殺されるのを待っているだけだったのかもしれない。
「リーリエ…、これが、この世界なの?みんなが絶望して、死を願っている。これが…!」
自分のしてしまったことが信じられずに、目を限界まで二見開いた私は天使の物ではない赤い血に染まった手を茫然と見据え、小さな、本当に小さな呟くような声でリーリエに話しかけた。
今、私の足元にうつ伏せで横たわっているおじいさんの言葉が、頭の中で何度も何度も繰り返されて離れない。
私を怒りと失望と、そして悲しみを宿した濁った瞳で睨みつけたおじいさん。涙で光って、少しだけキラキラと輝いていた、歪んだ瞳。
涙で揺れた声が、私の胸と頭に響き続ける。
「どうして、なぜ、天使どもを殺してしもうたんじゃ!」
あなたを、助けるために。
でも、あなたから見たら、それは偽善以外の何物でもなかった。
「わしは妻も娘も、孫も、婿も、みぃんな目の前で天使に食い殺された。もう生きている意味はない。あいつらは久しぶりに来た天使じゃ。今日こそ殺してもらえると思っておったのに、なんでじゃ?わしはもう疲れたんじゃ。」
殺戮が、救いであることもあるのだろうか。
死が、生きている者の魂を、救うのか?
「この殺戮と絶望しかない世界に、力の弱いもんはただ殺される順番を待つしかできることはなあ。今日、わしの番がようやく来たと思っておったのに…!どうしてくれるんじゃ?やっと、ようやっと、家族の待つ黄泉に旅立てると思うておったのに!」
本当にそうだろうか。殺戮と絶望しか、この世界にはないのだろうか。
少なくとも、出て来た町には、穏やかな幸せがところどころに存在していた。みんなが家族のようで、誰もが他人を愛し、慈しんでいた。それは殺戮か、絶望か?
「わしはもう疲れたんじゃ、頼む。天使がすべて殺されちまった今、もうお前さんにしか頼めん、お願いじゃ、天使を殺してしまった代わりに、お前さんがわしを殺してくれ!」
横たわるおじいさんを肩に手をかけて、顔が見えるようにひっくり返す。
見えたおじいさんの顔は、幸せそうに微笑んでいた。
ああ、そっか。どこかで歪んでしまった私の心が、納得したようにそっと言葉を吐きだした。一緒に口からも小さく息を吐く。
おじいさんは、家族を、愛する者を失った悲しみに負けてしまったのか。だから事分で立ちあがることもできず、ただ誰かが助けに来てくれることを願っていただけなんだ。
結局は、あのおじいさんも力に負けたんだ。
この町だけではダメかもしれない。けれど、他の町と協力して立ち上がれば、天使たちにだって対抗することが可能だったかもしれないのに。おじいさんも、新聞配達の人も、その他の今はもう形も残っていない人たちも、みんな「これが普通だ」って諦めて、楽な方を願ったんだ。死を待つだけで、何もしないことを選んだ。
私とリーリエは死が満ちた町を出て、次の町へ向けて歩き始めた。
けれど、次の町へ進む間も天使の襲撃は途絶えることはなく、毎日のように天使のお迎えにあっていた。天使もご苦労なことだ。やっぱりここでも彼らは神様のお使いなのだろうか?あとしたら、神様はなぜこんなことを許しているのだろう。歩き続ける中、本能で戦っているのか、体が自然と勝手に動いてしまうので天使と戦っている最中は他に考えることもなくて、私はこの悪循環を生んでいる存在について考えていた。
私と同じ、けれど力を持たない、持とうともしなかったただの人間を手にかけたことで、私の神経は参ってしまったのかもしれなかった。もう、凶悪な顔をした天使を前にしても、武器を振りかざすところを見ても、恐怖を感じなくなっていた。
次の、イギリスの田舎のような町には一週間ほどでたどり着けた。そして、中央に大きな教会みたいな白く美しい建物がそびえ立つ綺麗な町に着いても、また死が待っているだけだった。前と同じように、死に損なった命が、絶対的な、凶悪なまでに強い力でもって天使を殺してしまった私を責めた。そして、最後には決まってこう言うのだ。
「どうして!なんで天使を殺しちゃうのよ。せっかく、これで私も彼のもとに逝けると思っていたのに。どうしてくれるのよ。責任とって、責任とって、あなたが私を殺してよ!」
若い女性だった。
悪魔との戦いで愛する伴侶を亡くしたようで、胸元には彼の額で輝いていたのだろうルーべライトが紐に吊るされて揺れていた。
おじいさんの時と同じように、私の手は気がつくと赤く染まっていて、足元には幸せそうに笑って息絶える女性の冷たい身体。二つのルーべライトが鈍く光っていた。
二度あることは、というように、その十三日後に辿り着いた第三の町でも、同じことを繰り返した。三人目は大地母神を祀る神殿を預かる神官だった。
彼は胸元で手を組み、死神のようにこれまでに浴びたふたりの返り血が乾いて黒ずんだ服に身を包んで、さらに身長よりも大きな弓を持って現れた私に、泣きながら訴えかけて来た。「もう、疲れたのだ」と。
だから私は、これまでのふたりと同じように、いつの間にか彼にも救いを与えて上げた。気がつくと、涙が頬を伝い、足元に横たわった彼に落ちて弾けた。
町のシンボルだったのであろう大きな神殿を矢で射落としてから三つめの町を出て、砂漠地帯を抜けて現れた岩場を、踊るように軽い足取りで進んだ。
「わしはもう疲れたんじゃ、頼む(私はもう、疲れたんです。お願いします)。天使がすべて殺されちまった今、もうお前さんにしか頼めん(せっかく来てくれた天使を殺してしまったのはあなたでしょう?)、お願いじゃ(責任とってよ)、天使を殺してしまった代わりに、お前さんがわしを殺してくれ!(責任とって、責任!あんたが殺した天使の代わりに、あんたが私を殺してよ!)」
頭の中で最初のおじいさんの叫び声に、これまでに聞いてきた魂の叫びが重なって聞こえる。その声は、なぜか私を責めるばかりで、願いを叶えてあげたのに、私を苦しめるばかりで救ってはくれない。解放してくれない。私を縛り付けるばかりだ。
「どうしようか、リーリエ。」
私の横を、ずっとリーリエは影のように付き従って歩いている。ただ黙って、私がなにをしても私の決めたことに口を挟まない。だけど、同時に彼女は私を見ているだけで、救ってもくれない。
離れて行かないけれど、救ってもくれないことが、こんなにも苦しいことだったなんて。日常では決して知ることができない真実、現実。
でも、これで一人だったら私はきっと生きてはいないんだろうな。同時にこうも思い、何もしてくれないけれど一番大切なことをしてくれているリーリエに感謝する。
「アズサ。さいきん、わらわないね。」
囁くように呟いたリーリエの声が、私の胸に響いた。
血に穢れて、助けを望んでいないかもしれない仲間を探す旅に出た私をそばで支えてくれるのはリーリエだけだ。それが、まるでこの世界に、私を愛してくれる人がリーリエただ一人のような錯覚をおこさせる。
歩けども歩けども一向に、私が過ごした時間は短いけれど、リーリエにとっては家のように、家族と同じ仲間とともに過ごした城は見えてこない。
仲間と別れたときには、どうしていたっけ。考えて、そして思い出す。
今旅をしている私とリーリエに加えて、あのときは一緒に仲間から離れたダリアさんとアイリス親子とダリアさんの助手のモンブランが一緒だった。
私たちはどこへ向かうのかわからないまま、闇雲に歩き続けた。旅の最初の頃は、この世界がどんな国に分かれているのかを四人に教わりながら歩いていた。
私が最初に落ちたのは普段から動物とヒトが混ざった姿や人間と動物二つの姿を持つ二種類ある半獣や混血の半端者と呼ばれる者たちが暮らす南の国だったことも、歩きながら知った。あまりいい思い出のないその南の国の砂漠を抜けて、森を抜け、野原を抜け、南の国を出たのか、ここはどの国なのかわからないまま、人間や半獣はもちろん敵である悪魔や天使たちにも会うこともなく、何百と太陽と月が入れ換わる光景を見ながらただただ歩き続けた。
ボロボロの、かろうじて五人乗れる、穴が開いていないか心配な木の小舟を漁師のおじいさんのご厚意に甘えてもらって、海へ出て波に揺られること三週間。食糧も尽きかけて、一番幼い外見のアイリスが歩けなくなり、そろそろ本格的に不味い、飢えとイライラで生き物として干からびてしまうかもしれないと思い始めたころ、この町に辿り着いたのだ。
あれから二年が経つだろうか。
行きの時と同じように、漁師のおじさんの好意で船に乗せてもらい、海を渡った。お礼を言って漁師のおじさんと別れた後は、以前通った時には意識も混沌としていてなにをしているのかわかっていなかったから、道を覚えているはずもなく、適当に、やっぱり闇雲に歩いた。
五人で歩いた時には会うこともなかった三つの死が満ち満ちている冷たくて寂しい町。やはり違う道へ迷い込んでいるのだろうか。しかし、来た道を戻ろうにも、すでに町を三つ越えている。踵を返してまた歩きだしても、同じ道へ戻れるとは思えない。
このまま、進んでみるしかない。
第一の町を見つけるより前に、子供のアイリスがいなくて、こう言っては何だが、進む速さも早く、そろそろ見覚えのある景色があってもいいのではないかと不安に思って、この世界の住人であり、異世界から来た私などよりもよっぽどこの世界の地理に詳しいはずのリーリエに、聞いてみたことがあった。道がわからないか、どうか、このまま歩き続けてもいいのかどうかを。
彼女は、不安など微塵も見せずに、眩しいばかりの笑顔で答えてくれた。
「…アズサが、おもうとおりに、すすんでみればいい。そうすればきっと、みちはひらける。」
占い師のようなことを言われただけだった。それ以来、私はリーリエに道を聞くことはなくなり、リーリエが屈託のない、純粋な、輝くばかりの笑顔を見せるときは自信がないときなんだと知った。
私は歩き続ける。
存在としての孤独からは、隣を歩くリーリエによって守られている。
思考の孤独が激しい。隣に、ゲームの時と同じようにパートナーとして立つリーリエがいるから、余計に。寂しくて、苦しかった。すべてが全部、私自身が決めて行かなくてはならない。誰に従うこともできず、誰に尋ねることもできない。
私は現在、十七歳になろうとしている。
高々十七歳の少女に、少女自身の命とリーリエという一人分の命を背負わせるなんて酷なことではないか。私は地球で、将来はきっとニートになるだろう道をまっすぐに歩いてきた人間だ。学校へは碌に行かず、友達づきあいも悪い、近所でも評判の異常さ。こんな人間に、神様はいったいどうしてこんな精神的重労働をさせるのでしょうか。
私が悪いことをしましたか?
自慢じゃないですが、私はこれまで事なかれ主義だったので、いいこともしていなければ、悪いこともしていません。私がこんなつらい運命を歩くいわれはないと思います。
第一の町に着くまで、初めてこの手を同じ人の血で赤く染めるまで、私はそんな風に、心の中で叫び続けていた。どうして、なぜですか神様、と。
あのおじいさんにこの手で平安をもたらして上げてから、私は神を信じなくなった。どうせこの世界には言い神様なんていない。神を信じていた神官でさえも救ってはくれない神など、信じる価値はないのだ。そう、思うようになっていた。私の頑なな心。
第三の町で手に入れたフード付きのマント。
ずれてきたフードを、もう一度目深に被り直す。私は少し大きめのそれを。リーリエは人の上半身だけを覆う、子供用とも見えるそれを。
風が吹き、二枚のベージュが汚れた茶色のマントを揺らす。
砂漠化した土地までは、出て来たのだ。半端者たちの暮らす城もまた、砂漠が近くにあった。二十日で一メートル、砂漠化が進行するそうだから、あそこ一面もすでにもう砂漠となっているだろう。
砂が口に入らないよう、私たちは無言で歩いた。
時折、枯れ果てて軽くなった、十メートルほどの倒木が突風に乗ってどこからか飛ばされてきた。もとの南の国は緑あふれた自然豊かな国だと聞いたから、きっとその時の名残だろう。ということは、仲間のいる南の国に近づけているのだろうか。それとも、十メートルもある倒木が何度も強い風に助けられてここまでやってきただけだろうか。
聞こえるのは、風の音と砂が舞う音、そして風の精霊たちが恐怖に叫ぶ声だけ。
見えるのは、黄色い砂と、砂が舞い上がって目の前もハッキリ見えないほど黄色も濃く染まった空間、時折風の精霊がどこかへ逃げようとしている姿が見えたが、それだけ。
そして、私を支えるのは皮の硬くなった白い手の持ち主だけだった。
砂漠となったかつての一国は、私たちをどこへ導いてくれるのだろうか。
希望輝く未来か?
それとも、救いのない絶望か。
あたたかいリーリエの手を握る自分の手にギュッと力を入れて、私は目だけ横を歩くリーリエを見た。フードのせいで、彼女の虎の脚しか見えない。彼女がどんな表情でいるのかも見えなければ、何を考えているのかもわからない。
もしかしたら、この旅に着いてきたことを悔いているかもしれない。砂とフードに遮られて見えない表情は、後悔の念で歪んでいるかもしれない。
謝ることもできずに、私は俯きそうになった。視界は目をつぶって塞ぎ、体は唯一の支えであるパートナーに拒絶されてしまうかもしれない恐怖に震える。
怖くて口内に砂が入り込むのも構わずに口を小さく開け、唇を噛む。開いた隙間から入り込んだ砂が唇を噛んだ歯にへばりついた。その感触は不快で、意識と思考も一瞬奪うが、それはつないだ手をギュッと握られたことでどこかへ飛んで行った。
「…リーリエ?」
一度砂の入りこんだ口。もうどれだけ入っても同じだろうと思ったが、そうでもなく、唇をかみしめたときとは比べ物にならないほど大量に入り込んできた黄色い砂に、息を吸ったのと一緒に喉まで侵入を許したのか勢いよく咽た。
どんなにせき込んでも落ち着くことなんてなくて、それ以上砂が入って来ないようにマントの中でせき込んでみても、それは同じで。何も言わずに離された手が寂しくて、そして絶望にも似た想いを感じて、もうどうしたらいいのかわからなくなり、誰の視線にも怯えないで済むマントの中でひとり格闘していると、マントの上から背中を撫でる優しい手の感触を感じた。
せき込みながら振り返って見ると、逆光で黒く見えるリーリエの、被っているフードから唯一見える口元が優しい、いつもの笑みを浮かべながら背中を、時々軽く叩きながらさすってくれている彼女が見えた。
少しずつ落ち着いてくると、叩くのをやめ、ただ撫でるだけになる。あたたかいその手と見えた優しい笑みに安心して、咳の苦しさと重なって涙がこぼれて来た。
「リーリエ。」
同じ失敗はしない。
マントの中で、砂が入って来ないようにと注意を払いながら声を出す。マントと風に邪魔されているから、その分大きく声を出さなければならなかったけれど、リーリエはきちんと聞きとってくれた。
また手をつないで、リーリエの方からギュッと握った。
「だいじょうぶ。」
そう言ってリーリエはまたにっこり音が鳴りそうなほど大きく笑った。
「あるけばみち、みつかるから。」
まっすぐに目を見つめる。
握った手を目線まで上げて、また力を入れた。
「いっしょに、さがそ?」
こてん、と首を傾げる仕草が可愛い。
キュンッと胸に天使(地球バージョン)の矢が射られるのを感じた。咄嗟に、何も変わりのない胸に手を当てて確かめる。
気付かない内に、顔に着いた細かい砂を洗い流して、あたたかい雫が落ちて行った。
ありがとう、リーリエ。
「……うん。」
「…あるこう。すすんでいれば、みつかるから。」
「うん、リーリエ。」
「なあに?アズサ」
「ありがとう、大好きだよ。」
私の口にした初めての言葉に、リーリエは一瞬キョトンとして、それからこれまでで一番の輝きを宿した笑顔を浮かべてくれた。瞳にはうっすらと、砂が入ったとか、そういう原因ではない涙が浮かぶ。
「アズサも、だいすきよ!」
世界を覆う砂の上を、私とパートナーの半獣リーリエは走っていた。
それと言うのも、まるで私たちの行く場所がわかっているとでも言いたげに行く先々の村々で、ご丁寧なお出迎えをしてくれる天使と正面切って戦うために、少しでもやりやすい場所を探すためだ。リーリエは戦えないし、隠れるための場所がなければ、私が安心して戦えない。
リーリエは赤く汚れた私を癒してくれる最後の砦だ。失うわけにはいかないし、そのためには私が守らなければならない。
弓を持ち、砂嵐に邪魔されて相手も私たちの位置をつかみにくいのか、時折時間を不自然にあけながら斬りかかって来る天使の刃を、弓の持つ場所からやや上、胴の部分を中心に、そこから薄いオレンジの盾を作りだすイメージを抱きながら弾き返す。砂嵐の風も手伝って、天使は一度飛ばすとなかなか戻って来なかった。
今回のお出迎え要員は、と考えて、天を仰ぐ。
太陽の光を背に受けて、逆光で白い羽が黒く見える天使の影が一、二、三…六人。六つの黒い影が、私とリーリエを狙っていた。
どれか一つに狙いを定めることはせずに、適当に力を溜めて、適当な場所を狙って射る。いくら私が強いと言っても、さすがに力とイコールの関係である体力の限界点がある。あまり力を使い過ぎると、死ぬことになると、私は最近知った。
何番目の町だったかは忘れたが、死の町となりかけていたそこで、出会ったおばあさんに教えてもらったのだ。若い者たちが希望を失い、生きる意志を失って、死んでいく町。彼らを外れにある家でひっそりと暮らしながら、視力も落ちたおばあさんは黙ってジッと見つめていた。死を肯定した町の人々に、助けに入った私が逆に武器を向けられた。追われ、なす術もなく、小さな傷を付けて外れまで来てしまった私とリーリエを、唯一優しく受け入れてくれたおばあさん。家へ招き入れてくれて、傷の手当てもしてくれると言うので、好意に甘えてマントを着たまま手当てを受けた。おばあさんは手当てをしながら、自分の昔話と、この町がかつてはどれほど輝きに満ちていたかを話してくれたのだ。
おばあさんは、若いころは勇ましく東の国の防衛軍に所属し、治安を守るため日夜働いていた。当時はこの町も、外から来た旅人でも住人でも構わずみんなが心からもてなしていたこと、鉱山が枯れ、世界一自然資源が砂漠に変わっていき、同時に人の心も余裕が消え、死を望み、絶望していったこと。昔を思い出しながら、今の現実を憂い、ただでさえ皺のように細い目を細めて、目じりに皺を増やして話してくれた。
人生経験も、戦闘経験も豊富なおばあさんが言うには、この武器から出すことのできるパワーショットは体力と気力を使って可視光球として攻撃に使っていると。体力にも気力にも限度があるのは当然で、それを力の源としているパワーショットにも使える限界がある。使い過ぎると、死ぬ。おばあさんは人生を諦めたとも悟ったとも言える軽い口調でそう言った。
手当ても終わったその後、おばあさんの家の窓から身を乗り出して天使を討ち落としていた私のもとへ、怒り狂った町の住人が武器を片手に怒鳴りこんできた。どうして、私はあなたたちを守りたいだけだと、そう叫んでも聞いてくれない。そう涙をこぼしても、彼らは私から武器を取り上げようと、自分たちを殺しに来た天使を守ろうと私に襲いかかって来た。家の主であるおばあさんは、その光景をただ見つめるだけ。狂った同胞を止めることもなければ、同調することもなく、長年暮らしてきた家が壊されていくのをただ見ていた。
元は農具だった即席武器を手に、血走った目で睨みを利かせる町の人々の方が天使などよりもよっぽど怖く感じた私は、町中の生き残っていた人が全員集まっているのではないかと思ってしまうほど人が溢れる本来の出入り口から逃げることを諦め、リーリエの虎の下半身に前後反対に跨り、人の上半身に背中を預けて窓から飛び出した。外には天使がこの上もなく愉快そうににやりと笑いを浮かべて待ち構えていたが、飛び出して空中で回転し、私を天使側に向けたリーリエの背中に寄りかかりながら、突然方向転換してくるりと背中を向けたリーリエに驚いて目を丸くしていた天使に向かって光の矢を放った。油断していた天使たちは一度の正射で何本も飛んでいく矢に、簡単に射られてくれた。六人すべてを一度に仕留めた。綺麗に揃って地に倒れる天使に、達成感とか満足感、などは、全く感じなかった。それどころかボト、ボトッと鳥が落ちるような音を鳴らしながら、地に倒れていく六人の天使を見て、私は自分で自分が怖くなった。
こうやって、私は人間であることを忘れて行くのだろうか。いつかは、天使たちのように殺戮に快感を覚えるようになり、狂っていくのだろうか?
シュタッと小さな音を立てて地に下り立ち、リーリエから降りて自分の足でしっかりと地面を踏みしめる。
何度かジャンプして、自分が地面に足を付けて立っていられていること、正気でいられていることを確かめていると、「アズサ!」緊張したリーリエの声が聞こえた。答えて振り向くと、さっきまでレンガ造りの茶色い家が炎でオレンジと紅の混ざった暖かい色で染まっていた。中からは、いろいろな音で、いろいろな叫び声が聞こえてくる。
「死にたくない!」
「熱い!」
「たすけてくれぇぇ!」
人々が助けを求めて手を差し出している窓。私とリーリエが飛び出せるほどの大きな窓はさっきまでなかった鉄格子がはまり、外に出られないようになっていた。その隙間から何本も、何本も腕が伸びている。
私は目を見開いて、その異様な光景を見つめた。
窓の、奥の方からおばあさんがこちらを見つめている。その目は、なんと想いを伝えてくれていたのか。私には理解することができなかった。
おばあちゃんは燃え盛る家の中にあって、唯一静かな優しい、穏やかな微笑みを浮かべていた。おばあちゃんの周り、同じ場所に立つ人たちは、「殺されるために天使を待っていたんじゃなかったのか!」と怒りたくなるほどうろたえ、逃げ道を探して彷徨って部屋中を走り回り、助けを求めて叫び、まさしく地獄絵図の様だった。
消火のために水を出したりできない私とリーリエは燃えて行く家に、なにかひとつとしてなす術もなく、ただ言えが燃え、大きな音を立てて炎の柱が天高く昇っていく様を見ているしかなかった。
偶然かもしれないが、ゴォォォッと音を立て家が崩れるのとほぼ同時に、砂嵐が止んだ。おばあさんの死を悲しんでいるかのように、精霊たちが炎の柱を見上げる。
煙と重なって見えたおばあちゃんの優しいしわしわの微笑みが、なんだか懐かしかった。
「……、行こっか、リーリエ。」
「うん。」
弓をしまい、マントのフードをかぶりなおし再び右と左手をつないで歩きだす。
それから何度、私は天使を討ち落とし、同じ人を手にかけたのだろう。
町を見つけて「人がいるかもしれない!」と抱いていた希望は、町を見つけるたびに打ち砕かれ、町に入る度に裏切られ、町の人と話す度に絶望した。
私の瞳は知らず知らずの内に、急速に光をなくしていった。絶望に彩られ、闇を宿す。心配してつないだ手に力を入れたり抜いたりして遊んで、私の反応をみるリーリエ。何もし返さないとしゅん、と落ち込むその姿が可愛かったが、今の私には答えて上げられるだけの心の余裕がない。
それでもなんとか手に力を入れて、握り返した。そうやってなにか反応を返したりすると、リーリエは決まって安心したようにホッと息を吐きながら、無意識のうちに零れたような微笑を浮かべるのだ。それがまた可愛くて、この荒れた生活の中でひとつの楽しみ、癒しになっていた。
そうやって進みながらも、いつまでも次の絶望は見えてこなくて、私はイライラっと苛立っていた。だから、あの言葉には気持ちは入っていなかったんだ。そう、言い訳をしたところで、取り消せるわけもなく。逆立った私の気持ちを少しでも癒そうとしてくれているのだろう、唯一つながった手で遊んでいるリーリエのことが無性に目に着いて、不快に感じてしまった。
苛立つ想いそのままに舌打ちをして、緩く握られていた手を振り払う。驚いたようにただでさえ大きな目を見開いて、ゆっくりと細めたかと思えば傷ついたように涙を浮かべて、ハッとして振り払われた手を胸元で握り、一方の手を添えて守るようなリーリエにまた苛立つ。守っていたのは、いつも私でしょ、リーリエはいつも、守られてばかり。傷つくのはいつも私で、リーリエはいつも慰めてばかり。
「…いつも、いつもいつも!リーリエはそうやって守られてばかり。傷つくのはいつも私で、リーリエは隠れて安全な場所で終わるのを待っているだけ。楽でいいわね、守られるだけって!」
言葉を吐きだそうとするのに、喉が閊えて声が出にくい。それでも想いのままにできるだけ吐きだしてしまう。リーリエがどんな表情で私を見つめているかなんて、気にする余裕がなかった。
いつまでも、どこまでも続く砂の道。静かになった風の代わりに、容赦ない太陽の光がふたりを照らす。
沈黙が私とリーリエを包み込んだ。
「…ごめんね、アズサ。」
泣きそうに目じりに雫を乗せたリーリエが言って、そっと俯いた。フードで見えなかったリーリエの表情が、下を向いてしまったことでさらに見えなくなってしまう。胸の前で握りしめられた両手が力の入りすぎで元から白かった色がさらになくなっていくのが悲しかった。どうして今この時爆発してしまったんだと私の感情に怒鳴りたい。
違うの、こんなことを言いたかったんじゃないの。
いつもリーリエには感謝してる。今だって、この旅に出て何度も心が潰れちゃいそうになったことあった。それでも生きてこれたのは、純粋にリーリエの存在があったから、リーリエを守らなくちゃ、私が死んだらリーリエが一人になっちゃうから生きなくちゃって思っていたから。私は、リーリエの存在そのものに何度も助けられて、救われてきた。
「…あ、…り、りえ…。」
違う!
心の中で叫んでも、目の前に立ちつくす彼女には届かない。
わかっているはずなのに、声の出し方を忘れてしまったかのように、喉の奥が張り付いて声が通らなかった。届けたいのに手段がない、出したいのに出せないこのもどかしさ。
「…いこう、さきに。すすもう。とまってはいられない。」
私の横を通って、リーリエは歩きだす。
その白い荒れた手を取って引きとめて謝りたいのに喉も思い通りになってくれないなら体全体も思い通りに動いてくれなかった。
悔しくて、涙がこぼれる。
同じ人を、彼らの希望に沿って動いた結果だとしても、殺めてしまってからこちら、段々と忘れかけていた感触が頬を伝う。顎まで流れて、首元のマントに当たって弾けた。
静かに涙する私に、リーリエは気付かない。このままだと、置いて行かれてしまうかもしれない。幼い頃に負った小さな傷が騒ぎ出す。
あれは、私がまだ自分が異端の色を宿していると知らない、三歳頃のこと。出かける先でいつも冷やかな視線を向けてくる大人たちや、嫌な言葉をかけてくる子供(当時の私と同い年かそれ以上だったが)たちを疑問に思い、母や父に純粋な気持ちで「あの人たち、何見てるんだろうね?」と訊いていた頃。
私は一度、迷子になったことがあった。
あれは幼馴染二家族とともに買い物に出かけた日のことだ。大きなデパートで、ワンフロア使った、といっても、地下の関係者が利用する施設のある一角に作ったので、広さはない。薄暗く、経費は満足にもらっていないのだろうなと感じさせる一角に迷子センターがあった。幼馴染と一緒になって近日発売のゲームソフトを見ていたとき、夢中で見続けた結果みんな離れて行くのに気付かずに置いて行かれたのだ。
保護された私は、不気味な白い子供の小さな手を嫌がって引くことなく、知り合いだと思われたくないから離れて歩くため歩くペースも合わせることなく歩く中学生ほどの少年に着いてそこへ来た。センターのお姉さん(と呼べるかは微妙な年だった。メイク用品の匂いがぷんぷん臭う人で、個人的にはオバサンの域に達していたと思っている)に引き渡すと、少年は黙って去って行った。
離れて行く少年の小さな発展途上の背中をなぜだかとても寂しく感じた。
捨テラレタ。
そう、幼い私は思ったのだ。初めて会って、ここに来るまでも無愛想で何か特別なことを話したわけでも、気を使ってもらったわけでもない。何か買ってもらったわけでもない。
本当に無愛想で、どちらかというと邪見に扱われていたと幼いながら理解していた。出会ってから一度も私の目を見てくれなかったし、迷子のところを見つかって最初にかけられた言葉「おい!迷子センター、こっち。」が最後の言葉でもあったから、普通ならただの怖いおにいちゃんだ。そんな彼の去って遠くなっていく背中に、私は捨てられたと感じていた。小さくなっていく存在に寂しくて悲しくて仕方がなかった。
「無愛想なお兄ちゃんね~」
オバサンは目が笑っていない笑みで私にそう言った。
助けてくれたおにいちゃんとの別れからつながって現れた孤独。
私の反応を見ることなくすぐに仕事に戻り、私から名前を聞き出したオバサンは年齢に似合わない素早い動きで館内に放送を入れて、義務的な声で私に「あっちにある遊具で遊んでいていいわよ。」と言った。オバサンの指し示す方を見てみると、確かに、カラフルな柔らかい素材の仕切りで区切られた向こう側に、たくさんの遊具で溢れていた。遊具の置いてある一帯の近くには、数冊の薄くて大きな本。見るからに絵本だろう。
私は道具で一人遊ぶよりも、静かに読書することの方を好んでいたため、本棚から適当な本を手に取り、私の腰ほどの高さと五十センチほどの奥行きがある仕切りに座って読み始めた。
静かな空間。
一冊目を読み終わったとき、ふと視線を感じて顔を上げず、視線だけで辺りを窺うと、オバサンともう一人の若いお姉さん(本物)がひそひそと私を見ながら小声で話している姿が目に映った。なんだろう、と思わないでもなかったが、興味がなかったため、さして気にも留めずに本に目を戻した。でも、なにか私を見る一瞬の視線に嫌な物を感じ取って、私は耳だけふたりに集中させた。
「気味の悪い子。」
オバサンの声だった。
どうしてオバサンって、古今東西噂話とか陰口が好きなのだろうか。それも、本人が聞こえるところで話すのが女性らしいというか、嫌味だ。話すことに夢中で、聞こえているかもしれないとか、噂の本人が聞いているかもという可能性について考えることができないのか。
「アルビノっていうんですよね、絵とかで見ると綺麗だなって思えるけど、やっぱり実物は違うんですね~。」
若いお姉さんもあからさまに私をジッと見つめて来て、間延びした口調で言うが、口元には感心している笑みではない、オバサンと同じ嫌味な、見下すような笑みを小さく浮かべていた。
楽しかったはずの幼馴染を含めた家族でのお出かけが、これから始まるつらい人生の幕開けとなった瞬間だった。この日を境に私は周囲から向けられる冷たい視線を敏感に感じ取るようになり、自分が異端なんだと理解するようになる。
二冊目の絵本を、半分ほど読み終わったときに迎えはやって来た。
一時間かけてセットした顔と髪形を乱しながら、母が走ってやって来たのだ。来訪者に気がついたオバサンがいち早く表情を営業用の顔である人の良さそうな笑顔に付け替えて、応対に出た。といっても、ここのフロアにあるのはこの微妙な迷子センターのみ。あとは客には関係のない施設が並んでいる。彼女の目的など明確だった。
オバサンは振り返って私を見ると、笑顔で手招きをした。寄って来た私の薄い肩を掴んで、「良かったね~、お母さんと会えて!もうはぐれちゃダメよ~」と言いながら母に引き渡した。
「じゃ~ね~!」
手を振りながら、嬉しそうに本物の笑顔で笑うオバサンは、銀色に輝いて見えた。
嫌なことを言われた仕返しに、私はプイッと顔を背け、そして絶対に振りかえらなかった。
あの時に見た、離れて行く背中に、リーリエの白い背中が重なって見える。
今、リーリエはマントを着ているので背中はベージュだが、重なっているのはいつもの白い背中。幻だと、幻影だとわかっているのに、私は逃げること、否定することができなかった。
どんどん遠ざかって行ってしまうリーリエに、かける言葉も見つからなくて私は冷えて行く左手に寂しさと切なさを覚えながら、前を歩くリーリエを見れなくて、視線を上げることはできずに足元を見つめながらトボトボと情けなさを背負って歩きだした。
俯く私の耳に風を切る音と、戦場でよく耳にする衝撃音が届いた。どこからか、考える暇もなく、顔を上げて前を見る。前方から大きな砂の波が襲ってきた。黄色い砂で視界がふさがれ、前を歩いていたリーリエの姿が見えない。
「リーリエ!」
大声で呼ぶけれど、彼女が答えることはなかった。
「リーリエ!…くそっ」
走り出し、けれど彼女がどこで攻撃を受けたのか分からない。闇雲にだがとにかく前へ。
答えないリーリエに不安が募り、普段は口に出さない悪態を吐く。
「リーリエ!リーリエどこだ!」
爆風の中心に着き、辺りを見回す。足元の黄色い大地に黒い影が小さく蝿のように動いていた。
空を見れば、背中に太陽の光を受けて黒くなった天使の姿。逆光で表情は見えないが、きっとにやにやと厭らしく笑っているに違いない。
黒い人型が動き、急降下してくる。きらりとその手に持った銀色の刃が光を受けて凶悪な光を放つ。目に受けてひるむが、空気を切ってこちらに向かう音を頼りに弓矢を絞り、そして放った。
感覚だけで放った矢は狙った通りにはなかなか行かず、天使の頬の肉を抉って空中に弾けた。チッと舌打ちしてもう一度弓を絞る。
こいつらを倒して、速くリーリエを探さなければ。
ここは一面黄色い砂漠が広がるのみで、隠れる場所なんてない。あってもそれだけしかないので、カモフラージュもできず、狙ってくださいと言っているようなもので安全ではない。救いと言えば天使の起こしてくれた爆風で、視界がハッキリしていないことか。私もやりにくいが、条件は相手も同じだ。この黄色いカーテンが腫れない限り、リーリエが狙われることはない。が、私とリーリエが会える確率も低い。
リーリエはどうしているのだろうか。ちゃんと逃げているだろうか。
突き放してしまった後悔が胸を占める。そばにいれば、私が確実に守って上げられたのに。どうしてあんなことを言ってしまったのか。
一回、二回、三回と連続して立て続けに矢を射る。その中で射る場所を微妙に修正して、見えない中でも天使を射る術というかコツを会得して射続ける。見えているいつもより矢を消費するので、それに伴って体力も減って行く。
私の体力が尽きるのが先か、天使がすべて落ちるのが先かの勝負となった。
つらい、苦しい、痛い。
力の使い過ぎで、これまで経験したことのない、腕の内側から筋肉をつねられるような強烈な痛みが弓を引く右手を襲う。
それでも爆風に吹き飛ばされないよう足を踏ん張りながら、私は耳を澄ませて天使の羽音がする方向へ矢を放ち続けた。
私の言葉で傷つけた彼女に謝るために、また、彼女の荒れた白い手を取るために。
「こちとら急いでるんだよ、早く落ちろ!さっさと消えろ!」
体力が徐々に減って行き、矢に込められる力も減って行く。まだ目に見えての変化はないが、私は敏感に自信に起きている変化を感じていた。強い者は、体調の変化にも敏感でなければならない。そうしなければ、力を使いきって死んでしまうのだから。
今まで以上の焦りが、冷静さを奪っていく。自然と口調も荒くなる。
「落ちろ、落ちろ、落ちろ落ちろ落ちろ!」
言いながら矢を放つと、私の気合に応えてくれたのか、放った矢はひとつも外れることなく天使の体を射抜いてバッタバッタと蝿のように地面に落ちて行った。
空を仰ぎ、青の中に黒い存在がないかどうか確かめて、周りを見回す。リーリエはいないか、黄色い大地の中に白がないか探す。
見回しても、砂の山しか見えない。
「リーリエ!」
叫んでも、応えてくれる白い虎の半獣はいない。
「リーリエ!どこだリーリエ!答えろリーリエ!」
「…ぷはぁ!」
近くの砂山が噴火したように爆発し、四方に黄色い砂の雨を降らせた。
中から黄色に染まった白い半獣が現れる。
「リーリエ!」
叫んで駆け寄り、砂まみれの体を抱きしめた。あたたかいぬくもりにホッと安心して息を吐く。ここまで安心
したのは久しぶりだ。意識して神経を張り詰めていたのと、無意識のうちに尖らせていた神経がぷつりと切れて一気に涙となって流れ出した。
「アズサ?」
抱きしめた私の背中を撫でて、不思議そうな惚けた声が耳に直接吸い込まれていった。小さく漏れる嗚咽を聞きとったのか、リーリエはそれから少し私が落ち着くまでの間、背中を優しく叩きながら、じっとしていてくれた。
時間にしてどれほどの長さだったのだろうか。正確なところはわからないが、体感時間としては一時間にも感じられるほど長く感じていた。それだけの間無言で抱きしめ会ってすすり泣いていた私。止まることなく流れていた涙がようやく止まり、抱きしめていた腕の力を抜いて体を放す。
こんなに泣いたことが恥ずかしくて、リーリエを見ることなく顔を下に向け視線を逸らす。熱を持っている目じりを人さし指の腹で残っていた雫を拭った。
「いこう、アズサ。たびはまだ、はじまったばかり。」
「リーリエ、もう絶対に離れないで。」
「?」
まだ潤んでいる目にリーリエを映し、考えていたことを言葉にする。
不思議そうに目を丸め、首をかしげるリーリエに、彼女は今日怖くなかったのかしらと疑問に思った。はぐれてしまった非戦闘員が恐怖を感じることなく平然としていて、はぐれてしまった戦闘員がとても怖くて怯えて焦っていたなんて、どんなお笑いだろう。普通、逆なのではないか?
「私、今日とっても怖かった。リーリエと離れて、呼んでも叫んでも答えてくれなくて、どうしたらいいのかわからなくなった。」
「…ごめんね、アズサ。」
少しは、私の苦労というか、心労というか、今日感じたどうしようもない恐怖をわかってくれただろうか。
他人の気持ちに敏感で、素直なリーリエ。私のように恥ずかしくて意地を張ることもなく、非を認めれば謝れる。だけれど、今認めたからと言ってこれから同じ状況におかれたとして反省点を生かせるかというと、そうでも無くて、同じことを繰り返す場合も、ゲームリーリエはあった。
彼女はどうだろうか?
「私、絶対にリーリエを失いたくない。」
「うん。」
「リーリエは、私にとって心そのものだから。」
「…アズサの、こころ?」
「今まで何度も、何度も私の心を守ってくれた。だからもう私の心を守るのはリーリエの役目。私は何があってもリーリエを守るから。」
反省して少し暗くなってしまったリーリエの表情。少しでも明るく戻ってほしくて、いつもの優しい笑顔を見たくて、まずは私から笑って安心させてあげたいのに、瞳に残っていた涙がなぜか増えて、泣き笑いになってしまう。
けれど私の心からの言葉を聞いたリーリエは、とても嬉しそうにキラキラ輝く笑顔を浮かべた。勢い余って私に抱きつく。私の白い髪に同じく白い顔を埋めるリーリエ。あまりの喜びように、言った私でさえも少し困った。先ほど泣いていた私にしてくれたように、今度は私がリーリエの砂まみれのマントに包まれた背中を軽く叩きながらあやす。
「これからは、リエがアズサのこころをまもるよ。だからずっと、ずっといっしょね!」
「うん、ずっと、ずっと一緒よ!」
魂と魂の約束。
腕に付けたガントレットにはまった水晶がオレンジ色の光を放ち、私とリーリエを包み込んだ。眩しい光に目がくらみ、ふたりしてギュッと目をつぶる。しばらく目をつぶって視界を塞いでいても瞳に届くオレンジの光。
目を閉じて暗くなるはずのオレンジの視界が黒く闇に包まれるまで、私たちは無言だった。
何が起こるのかわからなくて、ちょっと怖い。
視界に闇が戻ってきても、少し、数秒目をあけることができなかった。こう言ったところで、私よりもリーリエの方が度胸があるのかもしれない。
「アズサ、め、あけて。」
リーリエの穏やかな声で大丈夫なのかと怖々瞳を開く。
開いた目に初めて映ったのは、当然のようにリーリエで。何か異変がないかどうか見つめる私の目にはどこにも異変を見つけられなかった。
「…さっきの、なに?」
「わからないけど、なんだかあったかい。」
私の質問に、リーリエも首をかしげる。
私は感じない、リーリエだけが感じているあたたかさを疑問に思うけれど、彼女に悪影響を与えているわけでもないようなので、そのままにした。
リーリエの微笑んでいる顔をジッと見つめて、考える。そして、一分関考えて、ようやくわかった。
「リーリエ、額の石の形が変わってる!」
「そう?」
額に埋まってはいるけれどそんなに感覚はないのか、リーリエは指摘されて初めて気がついた、と言っている不思議そうな表情で額の赤い、雫型から額の三分の一ほどの大きさがある円の石に触れた。形を確かめて、生まれてからこれまでに慣れ親しんだ雫がそこにないとわかると、リーリエは驚いた表情で口を置きく「ぽー」と言いながら開けた。意味がわからない。
「痛かったりしない?大丈夫?」
「…うん、ぜんぜんだいじょうぶ。」
石に触れたり、爪で叩いたりしているリーリエ。本当に変な感じはしないようなので、「そっか」と言ってそのまま、リーリエに手を差し出した。
「行こう、リーリエ。」
「うん。」
手を取って、リーリエの右手と私の左手をつなぎ合わせ、小さく前後に振りながら、砂についた人と虎、二種類の足跡を振り返りながら歩き始めた。
このとき私は知らなかった。
苦しくて涙が出ないほどの悲しみに出会うのが、徐々に近づいて来ていること。
裏切りの使者がやって来るまでに私たちに残された時間は、あとわずかしかなかったが、そのことに気づくことができなかった。
ふたり一緒に歩いて行く道は、どこまでも続いていると、途切れることはないのだと、そう信じていた。
……いとこに書いてもらった設定画はどこへいったんだろう?