第二章一幕「家族」
この話から、最初のページ一行目に
「ワンダーランド 第一章○幕~」って書いてない。
…面倒臭かったんだろうなぁ
『この大地はかつて、同じ世界に生きる者同士による血で血を洗う醜い争いで荒れ果てていました。
欲望のみに身を任せて、同族種族関係なく殺りくを繰り返すすべての生き物に怒った火の精霊王によって一度すべての生き物とともに大地を跡形もなく焼き払って、もう一度一から創り直そうと自分と同じほどの力を持った精霊王たちに提案して了解をとると、大地を跡形もなく焼き払いました。このことから火の精霊王は死を司るとされています。
それから新たに風の精霊王が、焼き尽くされ、死に満ち満ちた空気を風で洗い流し、清潔な生き物たちの生きられる空気を作りだしました。よって風の精霊王は、清浄を司るとされています。
次いで地の精霊王が焼き払った大地を甦らせ、新たな国土を作り上げられました。よって地の精霊王は創造を司るといわれています。
そして最後に水の精霊王が焼き殺された命の記憶をすべて洗い流した上で、それぞれに新たな形を与え、生み出しました。よって水の精霊王、輪廻を司るとされています。
四大精霊王、その名の通り火、風、地、水、この四大精霊を司り、世界に満ちるすべての精霊と、世界に生きるすべての妖精を統べる存在であり、その力は神々をも凌ぐ唯一の最強の四人であります。
世界が混沌に呑まれたとき、異世界リアルより現れるといわれ、その姿なき時はそれぞれ天井の宮城にあって、神々の治める土地を守護しているとされますが、文献ではもう何千年と現れていません。先生は、今年で四十七歳になりますが、生きているうちに精霊王にお会いしてみたいものです。あ、ちなみに。精霊王には敬称を付けないことが慣例となっていますが、やはりそのお立場から付けた方が賢明でしょう。ですがリアルの習慣なのか、敬称を付けて呼ばれることを、精霊王ご自身から拒否されたなら、望まれた通りにするのがいいでしょうね。
よってこの地に時折現れる異世界から来たと言う、旅人たちを今日の我々は“リアルの民”と呼び、彼らの持っている雅な工芸の技術を、教えを乞うて学び、共に生きていく術を見出すのであります。ちなみに先生の友達の知り合いの妹の旦那さんはリアル人だそうで、先生は手先が器用でとても美味しい料理を作ってくれるの♪と自慢されて不機嫌になった友達を慰めた記憶があります。』
『このように、我々の住む国は歪んだ十字のような大陸全体から見て東側、正確には東北にあるわけでありますが、西の国境付近では日々悪魔の襲撃に怯え、しかし退去すればさらに奥へと悪魔たちの進行を許すこととなるのでそうするわけにもいかず、勇敢にも国境付近の住人達は命をかけて我々を守ってくれているわけであるが、国境には創造の時代にはまだ割れてはおらず、何代か前の精霊王が夫婦喧嘩の際に、白熱してうっかり割ってしまった痕だという外海からの水が流れ込んできている渓谷があり、そこに障壁を建てていると聞いたことがあります。そして渓谷沿い数万キロメートル南には、同じ夫婦喧嘩の際にできたと伝えられている標高三百メートル級の山々が連なる山脈があります。
東の国の左側、悪魔が住む北の国は火山と砂漠が広がるだけの荒れ果てた土地で、水はなく、この数千年続く天使と悪魔間の戦争は、もともと水分不足に困った悪魔が天使の住む、美しい湖などで有名な西の国へ攻撃をしかけたことが発端であると言われています。現在では水に困っている悪魔も、水以外のあらゆる資源に困っている天使も双方ともに我々人間や南の半端者の国へ侵略し、略奪することで一時的にしのいでいる状態であり、戦争と我々への残虐行為を終わらせるためにはこれらの問題を解決させることが鍵であるわけです。
我々人間の住む国は鉱山などに恵まれ、いろいろな資源に恵まれているわけでして、半端者であるがゆえにあらゆる面で優れている半端者たちの暮らす国も、同じように天使や悪魔に荒され砂漠となってしまった一部を除いて緑あふれる素晴らしい国です。けれど近年、世界に満ちる精霊が天使と悪魔たちの撒き散らした邪気によって力が弱まり、世界のいたるところが砂漠化してきています。学校のある東の国の神山近くではまだ砂漠化は見られませんが、国境近くや神山から遠くなるにつれて砂漠化は深刻な問題に発展しているそうです。
…それぞれが歩み寄り、助け合おうとすれば簡単に平和になるというのに、その一歩がとてつもなく難しいのですね。ちなみに先生のお友達にハーフエルフの女性がいますが、彼女はエルフのお母様と一緒に暮暮らしています。お母様ともお会いしたことがありますが、とても優しく、ケーキ作りが得意なお美しい女性でしたよ。
こうして一人、一人を見ていけば、けっして歩み寄れない相手ではないのに。生き物の差がというものは恐ろしいですね。長らく争い、嫌いあっていくと発端の事件を知らなくとも、相手が憎く、殺してしまいたくなるのですから。そして、戦う相手以外の種族を見下して遊び道具として空き時間ができたら恐怖の遊びにわざわざやって来る。本当に不思議な生き物です。
さて、そろそろ時間なので、少し早いですが授業を終わります。』(東の国にある子供向けの教育機関で行われたとある授業の風景より一部抜粋)
*
「うわぁ、綺麗ね~」と、元気になったアイリスがベンチに座り、体を捻って腰を下ろしたそばに両手を付いて身を乗り出しながら言った。
彼女の視線を一身に受け止めているのは、海辺の近くでようやく見つけた新たな街で出会った儚く微笑む少女の胸に輝いている、ローズクォーツだ。
地球で言うところのイタリア。全体的に傾斜しており、どこからでも海辺を一望できる町の、一番の絶景スポットである浜辺に設置された木製のベンチ。そこに座って、アイリスと彼女は楽しそうに話をしていた。出会ったばかりの頃は憂いを秘めた瞳で、誰もかれも拒絶することで自分を守っていた彼女は、アイリスの純粋な明るさで救われたようだ。
ときどき喧嘩もしているようだが、大体は仲睦まじい様子で、私やこの町の人々の目の保養となっている。
「今日はアイリスと一緒にじゃないのかい?」
なんて言葉をかけられるたびに、「いつも一緒にいるわけじゃないってば!」と笑って答える彼女がいた。恋人を天使との戦闘で亡くし、塞ぎ込んでいたころの彼女は、もういない。
楽しそうに何かを離すふたりの少女を視界に入れながら、私はここまでの道のりを思い出していた。
私たちは仲間から離れ、どこへ向かうのかわからないまま、闇雲に歩き続けた。進みながら、この世界がどんな国に分かれているのか、この世界が今どんな状態に置かれているのか、それが国々の大地や環境に与えた影響、等々を四人に教わる。私が最初に落ちたのは普段から動物とヒトが混ざった姿や人間と動物二つの姿を持つ二種類ある半獣や混血の半端者と呼ばれる者たちが暮らす南の国だったようだ。あまりいい思い出のないその南の国の砂漠を抜け、森を抜け、野原を抜け、南の国を出たのか、ここはどの国なのかわからないまま、人間や半獣はもちろん敵である悪魔や天使たちにも会うこともなく、何百と太陽と月が入れ換わる光景を見ながらただただ歩き続けた。
ボロボロのかろうじて五人乗れた、穴が開いていないか心配な木の小舟を漁師のおじいさんのご厚意に甘えてもらい、海へ出て波に揺られること三週間。食糧も尽きかけて、一番幼い外見のアイリスが歩けなくなり、そろそろ本格的に不味い、飢えとイライラで生き物として干からびてしまうかもしれないと思い始めたころ、この町に辿り着いた。砂で黄色く染まり、飢えて干からびかけている私たち五人を、町の人たちは快く迎え入れてくれて、ここがもう南の国ではなく、南と東の国境を越えて、さらに東へ進んだ国の外れだと教えてくれた。海を越えたときにはもう、東の国に入っていたのだと。それも、世界に四人、一国にひとりしかいない国を治めている男神の住まう神山も見える海辺の町だと言われて、実際に右の空彼方を見ると、うっすらと頂上の見えない一本の棒が見えた。神様の目が届く場所にいる、そう思うと、私たちは大きな安心を感じて、それ以来、私たちは戦うこともなく、一軒家を借りて穏やかな生活をしている。戦う以外に特技というものを持っていなかった私は、もっぱら家のことを任されるようになっていた。
あれからもうダリアさんやモンブランは医者として、リーリエはふたりのお手伝いとして、毎日町のいたるところを駆け回っている。家に帰って来るのは夕方を過ぎてからだ。アイリスは先に述べたとおり、仲の良い友人もできて、日々を楽しく過ごしている。医者というものはどんな世界でも忙しいもののようだ。大変だね。
毎日家事に追われる日々を過ごしているうちに、ここでは天使とか悪魔とか、戦争とか、命の危機とかの現実が、遠いもののように思えてしまっていた。今もなお、遠い土地に残してきた彼らは戦っているのだろうか?
初めて経験する家事に四苦八苦していた当初、助けてくれた縁で仲良くなったおばさんたちと井戸端会議をしながらふと考えてみた。
彼らは、どうなってしまったのだろうか。
私はここへ共に戦ってくれる仲間を探しに来たはずで、こんな穏やかな生活を満喫している暇はないのではないか。そう思うが、私の話に耳を傾け、気にかけてくれるおばちゃんたちと話していると、つい忘れて行ってしまう。私は、ここへ何をしに来たんだろう?
本当は、こんな穏やかな生活を望んでいたのだろうか。
こうやって家族のために家事をして、近所の人たちと交流を持って、みんなと同じく笑いあう。差別も非難中傷もない、穏やかな生活。
私は、どうしたいんだろう?
疑問を抱いたその日から、寝ても覚めても、私は悩み続けた。なるべく前と同じように家事をこなして、家族には悟られないように気をつける。
にもかかわらず、悩み始めてから一カ月近くが経過した今もなお、モヤモヤとした想いを抱きながら、私は決断することも、穏やかな日常に戻ることもできずにいる。心が迷う、お前はどうしたいのだと心が叫ぶ。その叫びになんと返事をしたらいいのか、答えは出ないまま、日々を過ごしていた。迷い始めると、穏やかだった日常が、そうとは見えなくなってくるから不思議だ。これまで見ていたものが、歪んで見えてくる。
「アズサ、どうかしたのかい?顔色が悪いよ。」
心配そうなおばちゃんの声で我に帰る。これから冬に向けて寒くなるから、座って編み物をしていた私の顔を上から覗き込んだおばちゃんは声音と同じ心配している気持ちを前面に押し出した表情をしていた。
齢五十を数えた人間のおばちゃんは、ふくよかな体躯をゆっくりと私の隣に下ろした。その動作から、彼女が「話は聞くよ。」と暗に言ってくれているのだとわかる。わかるのだが、私は言えなかった。
言えば、おばちゃんは心配して、反対してくれるだろうか、それとも、私の気持ちを押してくれるだろうか。
わからないことが怖い。
どうすればいいのかわからずに、私はただ首を横に振った。おばちゃんが表情を歪めたのが、空気の動きでわかる。ただ心配してくれただけなのに、申し訳ないことをしてしまった。けれど、これだけは言えないのだ、わかってください、おばちゃん。これはあなたのためでもあるんだ。こんな色を持って生まれた私でも、敵であるはずのハイエルフと一緒に流れてきた私たちでも快く受け入れてくれて、心配してくれるあなたたちを、巻き込むわけにはいかない。
「ダリアもアイリスも、リーリエだって、みんな心配しているよ。」
私が悟られないように頑張って隠していたというのに、彼女たちには無駄だったようだ。そこにモンブランの名がないことには突っ込みを入れた方がいいのだろうか。それとも、恐らく返って来るであろう「モンブランだから」という半眼で答えられるだろう返答に、諦めて黙殺するべきか。
私は後者を選び、モンブランについては触れないことにした。
「でも、」と返すと、話せることにか、それともモンブランについてじゃなかったことに安心したのか、おばちゃんがホッとひとつ息を吐く。おばちゃんはそれから、私の背中を軽く(本人は軽いつもりなのだ)、叩きながら豪快に笑って言った。
「もちろん、あたしたち元から町に暮らしている者たちも、心配してるよ?だってそうだろ?ここに来てからずっと明るくて幸せそうに笑っていた子が、初めてこんな暗い顔してるんだからさ!」
若い男どもなんて、恋煩いじゃないかと冷や冷やしてるってのに、あんたは全く気付かないしね~、なんて気を使っての冗談には、ありがたくて、だけどそんな話題に触れる機会があまりなかったから照れくさくて、なんて言えばいいのか分からず、言葉で返すことはできなかったのでとりあえず苦笑を返した。
「アズサ、あんた…(冗談だと思ってるね…、あの子たちも可哀想に)」なんておばちゃんが私の後ろの大きなヤシの木の方を見つめながら想っていたなんてこと、私は知らない。
私は、知らないことばかりだ。
一年以上も前、私は仲間だと思って守ろうとしていた者たちを馬鹿だ、愚かだと罵った。しかし、ここへきてその考えを改めようか、見つめなおそうか迷う。最近の私は、いろいろ迷ってばかりだ。
本当に無知で、愚かだったのは私なんじゃないか。
無知は恐ろしいことだ。
無知ゆえに命の重さを知らず、無駄に散らせてしまった命の数を知らなかった者がいた。純粋に仲間を想い、ひとりで戦っていた彼に、私は冷たい言葉を浴びせかけた。それを聞いていた仲間たちは、みんな彼を庇い、私を非難した。あの時は、あちらが一方的に悪い、愚かな行いを正そうとしてあげているのに、どうしてそれに耳を傾けず、ただ死ぬばかりを選ぶのか、理解ができなかった。
しかし今、穏やかな日常を手に入れてから考える。
戦う術を知らず、ただ挑んでいくしかなかった彼ら。それを懸命に持てる力のすべてでもって、守ろうとした彼。それは本当に愚かで、無駄なことだったのだろうか。だって、守ろうとしたんでしょ。戦っていたんでしょ。
ある半獣に、私は覚悟がないと言われた。
当時の私は、死ぬ覚悟で挑みかかってどうするんだと思っていたから死ぬ覚悟について、持つだけ無駄だと思っていた。それが唯一だった。
私は、どうすればいいのだろう?何がしたいのだろう?
「ごめん、おばちゃん。そろそろ買い物して帰るよ…。」
背中を丸めて編み物を買い物かばんに仕舞って、立ちあがる。小さく苦笑を浮かべながらそう言えば、おばちゃんは皺の目立つおたふく顔でも、若く未来に希望を持っているような強く輝く瞳で私を見つめた。
「わかったよ、アズサ。でもいいかい?これだけは忘れないでおくれ。」
そこまで言って、チラリと私の後ろに生えているヤシの木を見やってから続けた。
「ここに生きているのは、みんなアズサの家族だよ。全員が、あんたを大切に想ってる。たった一年だけどね、みんながみんな、あんたたちが大切なんだ。悩めばいいさ、時には苦しんだっていいさ。だけどね、ギリギリまで自分を追い込んだら、誰かに助けを求めてみるってのも、突破口を見つけるための手段の一つだよ。」
おばちゃんは母親となった経験のある人特有の、何でも包み込んで、許し、導いてくれそうなあたたかい聖女のような微笑みを浮かべた。
「どこに行ったっていいさ。それはあんたの人生だからね。でもね、ここに、この町に助けてくれる者がいることを、家があることを、忘れるんじゃないよ!」
涙が出そうだった。
慣れ親しんだ硬い石畳の道を歩いて、テレビで見たヨーロッパの街並みとよく似た薄いベージュ色の町を家へ向かう。ベージュに囲まれた家々の中に、ひとつだけ茶色い木目調の家。ダリアさんの趣味で固められたそれこそが、私たちの家だった。
可愛らしい動物か小人が住んでいそうな木の扉を開けて家に帰って、桃色の厚手のカーテンと薄い桃色のレース地のカーテンに、楕円のテーブルにかけられたースのテーブルクロス等々のレース類、食器棚や居間に置かれた医学書や料理本を収納している本棚の上に座っているテディベアやウサギのぬいぐるみなど、乙女趣味満載の居間に張られた、やや場違いなこの世界四国が記された横に長い長方形の地図を眺める。ここでまた、この世界がゲームとは違うのだと実感する。ゲーム【ワンダーランド】の地形はこんな形をしていなかった。ディズニーの人気キャラクタースティッチの顔の下にオタマジャクシみたいに尻尾を生やしたような変な形をしていた。もう二年近く前に見たきりだから、はっきりとは覚えていない。酷くあいまいな記憶だが、そんな形をしていて、初めて見たときに幼馴染と「スティッチみたいだね」と笑いあったのを、印象に強く残っていたのでかろうじて覚えているくらいだ。そのスティッチジャクシ形の大地を三つの勢力が争い、基本的に一対一で戦っている設定だった。ただし中央の砂漠は特殊で、三つの勢力が同時にぶつかりあっていた。初心者はこの砂漠で経験値を積み、レベルを上げて強くなってから二国間の戦いへ身を投じて行くのだ。
それはともかく、世界【ワンダーランド】で私たちが今いるのは、この東の最東端に近い場所、神に守られし土地だ。指先でここにきて教えられた場所を指先で撫でる。そして、彼らが戦っているのは南の、大陸の中央にほど近い西の国にも北の国にも触れられる場所。南の女神が住まう山からもっとも離れている場所だ。この土地に住む住人達は、もっとも神山から遠い場所を“神に見放された土地”と呼んでいた。
「神から見放された土地から来たのかい?大変だったねぇ。」
「神から見放された土地、そんなところで、よく生きていられたわね。」
ここへ来て、どこから来たのかを汚れていた訳を含めて話していたときにかけられた言葉だ。善意で駆けてくれた言葉に、私の胸はなにか鋭いもので刺されたような痛みを感じていた。とてもつらい言葉だったので、よく覚えている。
この町の人々は、私の色を何も言わず、好意的に受け止めてくれるが、神から見放された土地に生きる者たちには冷たかった。自分たちとはまるで違う環境に生きているから、理解できないのだろうか?
地図を見ながら、また悩む。
ここからあの土地へ戻るのも、来た時と同じような時間がかかってしまうだろう。そうすれば、ただでさえダリアさんという医者もなく、あるのは知識を持つ者のない医薬品。待っているのは無限とも感じられる数の敵ばかりだ。味方は一戦一戦確実に減っていく中で、戦いの日々。
彼らは、まだ生きているだろうか?
生きていなければ、私がいまさら向かっても意味などはない。下手をすれば私までもが悪魔か天使の手に掛けられて、仲間と決裂するきっかけとなったあの戦いで見た光景の中身となってしまうだろう。それは遠慮したい。
ではどうすればいいのか、私は悩み続ける。
「行けばいいじゃないか。」
食事中にそう軽く、白にアクセントとして小さく中央のくぼみにウサギの絵が描かれているお皿によそった夕飯のクリームシチューを、先っぽがウサギの形をした木製のスプーン(モンブランお手製)で口に運びながら言ってのけたのは、やはりダリアさんだった。普段の性格からはとても乙女趣味とは思えなかった意外な一面を持つ彼女の、普段通り切れ味のいい言葉は時として、体に絡みついたしがらみを切り裂いて自由にしてくれる救いとなるが、今のはまるで見捨てられたようで心に深く刺さって痛い。
「…でも、そう簡単にいくでしょうか?」
自分が作った料理を味わう気分ではなくて、私ようにと作ってくれた先っぴがクマさんの形をしているスプーンをテーブルに置いて両手を膝の上に重ねた。掌を合わせるようにして、ギュッと力を込める。ダリアさんをはじめ家族の顔を見ていられずに俯いた視線にテーブルの陰で暗くなった自分がいた。この先を案じているようで、また迷う。
味わうためにダリアさんが両目をつぶりながら咀嚼するのが癖なんだと気付いたのはいつだったか。生まれて初めて一人で作った料理を食べてもらうとき、美味しくできたか気になって、不味かったらどうしようか、なにを言われるんだろうかと緊張していた。最初に料理を口に含んだダリアさんが両目を軽くつぶり、小さく息を吐いたことが、さらに体を強張らせて、震えさせた。あのときは、数秒ためた後、きちんと笑顔で「美味しい!」って言ってくれた。気を使って言ってくれているのではないかと疑う私に、何度も。その翌日も、そのまた翌日も。
そうだ、ちょうど七日。一週間が経った頃だ。その頃にはもう疑うことは止め、一緒に死線を乗り越えてここまでやってきた、家族のような存在と認識していた四人を私は本当の家族のように感じ、本気でぶつかることができるようになっていた。だから、夕食最中聞いてみたのだ。いつもと同じ味なのにどうして味わっているように目をつぶって食べるのか。
そしたらダリアさんはこう言った。
「大事な家族が丹精込めて作ってくれたものだから、いつでも同じように味わって食べたいの。」
だけど、本当はそれだけじゃなかった。同じ日、夕食の片づけをしていた時、手伝いに来てくれたアイリスから来たこと。
「お母さんはあれだけを教えたけど、本当はもう一つ理由があるの。」
続いた言葉を聞いて、私はこの人たちに着いて来て良かったと、この人たちの家族でよかったと心から思った。そして、心に決めたのだ。私はここで、この人たちと一緒に生きていくのだと。
「お母さん、手作りの物に弱くってすぐに泣いちゃうの。それを作っている間、どんな思いで、どんな苦労があったのかを考えて想像すると、涙があふれてくるんだって。だから、涙を堪えるために目をつぶっているのよ。」
だから冬になったらなにか作って贈ろうかと思ってるの!もちろん、家族全員の分を作るから楽しみにしていてね!
そう言ったアイリスの顔は、流しに流れる水に反射した光に照らされて、キラキラと美しく輝いていた。光のためだけじゃない、アイリスの放つ希望が、彼女の半世紀を生きてもなお幼い体を輝かせたのだ。
ここに来てからの、印象深かったことを思い出してみる。別に、アイリスの年齢を知ってしまったから思い出深いのではない。それもあるが、それだけがすべてではない。
アイリスとダリアさんが、家族だと思ってくれていることが嬉しかった。
そして思い出す。地球に残された家族は、あれからどうしているのだろうか?この世界と同じ時間軸であるならば、私が消えてから一年以上も経っている。近所の人からなにか言われていないだろうか、私をまだ家族を思ってくれているだろうか、いなくなった娘の心配をしてくれているだろうか。疑問、不安が尽きない。
地球への家族に向ける「私は無事です。」と伝えたい想い。
捨ててきた仲間からの「大丈夫だ。」と聞きたい、確かめたい想い。
二つが交差して混じり合う。私の目をまっすぐに見つめてくるダリアさんの、額に輝くローズクォーツの薄いピンクとは反対の青い瞳。アイリスのくりくりとした愛くるしい丸い大きな瞳と同じ色なのに、形が違うだけで印象は随分と変わるものであることを、ここにきて知った。細められた瞳が、迷って自信無げに情けない表情を浮かべている私を映し出していた。
私が悩み、考え込んでいる間も手に持ったスプーンを離すことなく食事を進め、私の思考が戻ってきたことを察すると、彼女は食べ物を含む目的以外でもう一度、口を開いた。
「自分の命がどうのとか、もしも生きていなかったら無駄足だとか、そんなこと考える時点で止めた方が賢明だと、私なんかは思うね。」
言い終わると、再び何事もなかったかのように瞼を下ろし、食事に戻る。私たちを横から見守る家族たちは、その間黙って事の成り行きを見つめていた。三人とも食事の手を止め、心配そうに表情を曇らせて問題の私とダリアさんを見比べていた。
「ふきにふればいい。」
食べ物が口に入った状態で喋る。ダリアさんはこの中で恐らく、最年長だろう。けれど彼女はこんな風に、子供のような行動をとることがあり、それを注意するのはいつも私だった。アイリスとリーリエはそんなこと気にしないし、モンブランは怖くてできないと震えていたので、私しか残っていないのだ。
ここでも、いつもなら注意する。これはもしかして、ダリアさんが気を使っていつも通りの私に戻りやすいようにとしてくれたのかもしれない。でも、逆にここを出ていきやすいようにかもしれない。どちらだろう?それにも迷い始めてしまい、私はどちらのタイミングも逃した。
俯き、ガクガクと震えだした私に、さすがに見ているだけにはできないと我慢の限界がきたのだろう、横に座っていたリーリエが手を伸ばして私の膝の上に置いてあった拳にあたたかい手を乗せた。横を見て、リーリエが半獣の能力なのか、段々と冬に向かって寒くなって来ている今日この頃、それでもなお生まれおちた姿そのままの格好でいられるリーリエが、純粋にすごいと思った。
そう言えば、猫の半獣は服を着ていたが、牛はともかく馬も服を着ていなかった。普段から動物と人間が混ざった半獣はそれが流儀というか、それこそが身だしなみなのだろう。…見ているこちらは寒いが。
ブルリと一度、足から頭まで震わせて寒気を逃がし、それからリーリエに微笑みかける。
ダリアさんに背中を押してもらった。それなら、私は進まなければならない。進むためには、助けに行くにしろ行かないにしろ、どちらにしてもここから出なければならない。このあたたかい町にいたのでは、そのどちらもできないのだから。そして、どうせ出て行って旅に向かうのならば、最初に目指すのは南の国だ。
私は進む道を決めた。
「ごちそうさま。」
普段通りの声でそう言って、私は席を立った。心配そうな視線を向けてきたアイリスとモンブランにはにっこり「もう大丈夫だよ。」と笑顔を向ける。視界の隅で、ダリアさんが満足そうに笑ったような気がした。もしかしたら、そうであったらいいな、と思っていた私のイメージでしかないのかもしれないが…。確かめる勇気もその気もないので、気にせず私に与えられた、この一年ほどお世話になった部屋へ向かった。
準備をしなければならない。
リーリエと共同で使っている部屋へと入った私は、まず室内を見回した。アンティークというか古いというか、年代物の調度品で揃えられている私の部屋の物はすべて町の人たちから譲り受けた、いわば町との絆だ。服やら下着やらを入れている箪笥やリーリエの勉強も兼ねて薬草類を入れている銀属性の棚も、この家に入って最初の絆だったベッドも、おもにリーリエが使っていた机も、私だけが使っていた椅子も、ふたりともあまり使わなかった鏡も、窓際に飾ってあるリーリエが採ってきた薬草を植えた鉢植えも、すべてが絆。私たちが買ってきたものなんて、ひとつもこの部屋にはない。
あたたかくて、優しかった部屋。料理を失敗して自己嫌悪に駆られた日にも、逆に成功して有頂天になっていた日にも、仲間を思い出して泣いているリーリエに、かけてあげられる言葉が見つからなくて、自分の無力に嫌気がさした夜も。すべてを見守ってくれた。
視界に入る物、入る物、それぞれのかけがえのない思い出が蘇える
部屋に入ってきたときは、目を赤くしていたら心配をかけてしまうから、ここの思い出たちはとても優しいものだから楽しく、笑顔で片付けよう、そう思っていたのに。思い出が走馬灯のように脳裏を駆け抜けていくたびに涙が溢れてしまう。悲しくなんてないのに、止まらない。
目をつぶって天井に顔を向けた。視界は瞼にふさがれて一面の暗闇だ。けれど、瞼の裏にはっきりと浮かぶ。この町に来て初めての絆。長年人に愛されて使われてきたことを感じさせる、茶色の濃い木の天井。木目が人の顔に見えるって、初めての夜泊まりに来たアイリスが怯えながらもはしゃいでいた。
瞳を開けば、イメージ通りの天井。アイリスがはしゃいでいた一年前にも思ったけれど、年代を感じさせる木目は何度見ても人の顔には見えない。そこが鈍いと言われるところだろうか?
私は箪笥の下着を入れてある段を開けた。色とりどりの下着が入っているが、目的の物はその一番奥。これはさすがに買った下着を掻き分けて、奥に手を入れる。指先に触れた堅い金属を手繰り寄せて、一年ぶりに取りだした。今はもう夜なので、日の光に当ててやることはできない。
埃は着いていないが、なんとなくそうしたくなって、一年ぶりに外の空気に触れたガントレッドを撫でた。触れた個所から昔の感覚が戻って来るような気がする。腕にはめてみて、その感覚はさらに強まった。
手の甲にちょうどはめ込まれている無色透明の水晶が来るように微調整をして、きっちり付けられると、甲の宝石がきらりと一瞬眩いばかりの炎ばりにあたたかい橙色の光を放った。一年という歳月を過ぎても正常に働けることを確認すると、本格的に荷支度を始める。といっても、その工程は至極簡単で、ただ持っていきたい物に水晶を向けるだけ。そうすると水晶から先ほどよりは弱いが範囲は広い光が、持っていきたい荷物を照らす。そうすると地球の青いネコ型ロボットのポケットや、教育テレビで絶賛放送中アニメの主人公平安時代から来た五歳児の烏帽子のように光の中へと吸い込まれることで、収納できるのだ。
重さはガントレッドの分のみで、やたらと持ち運びたい荷物の多い女性に優しい代物だ。
何度もオレンジ色の光を放ちながら、必要なものをそれに仕舞っていく。毎回物に宿った絆を思い返して時のはざまに浸りながら進め、三十分くらいで支度ができてしまった。
窓を見て、空に星が輝いているのを見つめる。この空が明るく、太陽が輝き始めたころ、私はここを旅立つ。朝には誰にも声をかけず出ようと思っているので、今のうちに挨拶を済ませてしまいたい。夜も遅いため、町の人たちには「ただいま。」だけでいいだろう。私は生きて帰って来るつもりでいるのだ。町の人たちにわざわざ別れの言葉をかけて心配させる必要もないだろうが、家族にはそうはいかない。「行ってきます。」を言って、きちんと「おかえりなさい。」と「ただいま。」を言いたい。
私は二階にあるリーリエとの共同部屋から出て、軋む階段を下りる。まだ明りのついているリビングの扉を開けた。中にはこの家の主、ダリアさん。一人でコーヒーなどを飲むのに使っていたカップを左手に持って、右手は行儀悪く胡坐をかいた足を超えて椅子の淵を持っていた。ダリアさんは私の入って来たのに気がつくと、チラリと見てにやりと笑った。
「よっ、もう支度はできたのかい?」
男らしい話し方にも、優しさを感じる。
「お前も酒、飲むか?」
「いいえ、遠慮しておきますよ。」
苦笑して返す。
いい加減に見えるこの人には、本当にお世話になった。この町に来てからは私の方が世話をしていたような気がするけれど、そのおかげで私は家事全般をマスターすることができた。無謀な勇気を語り、死にに行こうとしていた仲間たちに気付かせるきっかけも与えてくれた。彼女のまいた種を、私が回収しに行く。
頷いて近寄ると、ほのかに香るお酒の香り。ダリアさん、実は酒豪で落語『抜け雀』に出てくる狩野派の画家のように、ここに来てから毎日たくさんのお酒を飲んで暮らしていた。それが一カ月経過した頃、それを聞いた患者さんたちが「そんな医者には安心して命を預けられん!娘ならなんとかしてくれ!」と食事一切を管理していた私に泣きついてきたのだ。泣きつかれて困った私は、どうすればいいのか迷って、結局ダリアさん本人にぶつかってみることにした。泣きつかれた後の夕飯で、いつものようにお酒を瓶で呑もうとしていたダリアさんののん兵衛でありながら細い手首をつかんで止める。不思議そうな表情を浮かべて私を見る。
「ダリアさん、お酒はもう止めてください!今日、患者さんに泣き着かれたんです『酒びたりの医者には命を預けられない!』って。」
その言葉を聞いたダリアさんの綺麗な眉間にしわが寄った。でも、ダリアさんの健康のため、患者さんが安心して診察を受けてもらうため、ここで怖気づいて逃げるためにはいかない!
子供のように口をとがらせるダリアさん。そこはやはり親子で、アイリスがすねたときとよく似ていた。
「今までだって、酒は飲んできた。どんなときでも、酒は裏切らないし、呑まないとやっていけないときもあるんだよ。それに、私は酒を飲んでも、酒に呑まれることはない!」
手首をつかまれたままに胸を張るダリアさんだったが、そこにいつもある説得力はまるでなかった。
「威張らないでください!とにかく、この町には来たばかりでお互いによくわからないところなんですから、不安を感じている患者さんに安心して診察を受けてもらえるように、今日からお酒はしばらくお休みにします!」
そう宣言して、ダリアさんが取ろうとしていた酒瓶を取り上げて、胸に抱いた。ごねるダリアさんに背中を向けて、隠すためにリビングを出て行った。
いつか隠したはずの瓶が、コップを持って椅子の上で胡坐をかくダリアさんの後ろに見えている。
ダリアさんは胡坐を解いて、隣の椅子を引いて座れるようにすると、その椅子をパチパチと叩いた。促されたのに従って、ダリアさんの横に座った。
「そのお酒、隠してたはずなんですけど…いつ見つけたんですか?」
ダリアさんは私の料理を味わって食べてくれる食事のときと同じように目をつぶって、お酒を楽しんでいる。ニヤリと笑む口元が、なぜか寂しそうな気がして、ダリアさんを見つめてしまう。しかしそれは一瞬で、いくら見つめても、普段通りの表情に戻っていた。ダリアさんとアイリス親子は、強がる時に無理して平静を装おうとするのがそっくりだ。
アイリスは転んで痛い時などに「大丈夫よ!」と強がったり、ダリアさんが忙しくて帰って来られないときや夜急に体調の悪くなった人のために出かけて行くときなど強がって平気なふりをする。見た目はエルフと人間のちょうど中間に位置するハーフエルフであるダリアさんと、エルフの血が入っていながらも人間に近くて容姿も人間に近いアイリス。顔立ちもアイリスは人間の父親に似たのか、ダリアさんとはあまり似てはいないが、性格や考え方なども、エルフと人間どちらにも疎まれて生んだ親からも見捨てられてそだったダリアさんと、人間である父とは寿命で死に別れたが、それまでは両親にそれ以降は母親に愛されて育ったアイリスでは、生まれ育った環境の違いか、あまり似てはいない。しかし、時折見せる仕草が、この母娘はとてもよく似ているのだ。
「さっき偶然見つけてね、アズサも明日出発するんだろ?お前たちの代わりに出てきてくれたんだよ、きっと。」
「無茶苦茶な理屈ですね。それにそのお酒は私の部屋の箪笥の上に隠しておいたはずです。…リーリエに取らせたんですか?」
隣に座った呑んだくれに詰め寄って問う。丸いテーブルにドンッと勢いよく手をついて立ちあがる。片付けも終わらせて、ようやく落ち着いて座ったばかりだったのに。
怒る私をよそに、ダリアさんはばれてしまってはしょうがない、とどこの悪役だと思ってしまうセリフを言うと、背中で隠していたらしい酒瓶を抱きしめ、こぽこぽと新しく注いだ。溢れそうになる瞬間に止めて、いっきにあおる。くぅ~と笑う表情が、アイリスのとてもうれしい時に浮かべる表情と同じだった。
そんな子供のように純粋な表情を見せられては仕方がない。どうしようもないな、と私は苦笑して上げた腰をもう一度落ち着かせた。
「それで、私も、ってどういうことですか?明日出るのは、私だけなんじゃ?」
ダリアさんの言葉で気になったことを問う。お酒を奪われることはないと感じ取ったダリアさんは、ついにカップの方をテーブルに置いて、瓶を右手で握って直接口をつけて呑み出した。胡坐という態勢も、ラッパ呑みという呑み方も、とことん女性らしくない人だ(いや、ハーフエルフだけど)。
「いや、お前と一緒にリーリエが行きたい、と言っていたからな。」
一気に飲み干してしまったのか、瓶の狭い口から中を覗き込んで確認しながら私の疑問に答えてくれたが、リーリエからそんなこと、一言も聞いていない。そう聞くと、「お前が部屋に下がった後に言いだしたからな。」と答えが返ってきた。
どういうことだ?
ずっと部屋の中で荷づくりをしていたが、部屋でもリーリエとは会っていない。リーリエはどこにいるのだろうか?一緒に来ることを止めはしない。ダリアさんやアイリス、モンブランが止めなかったのと同じように、彼女には彼女の生きる道があり、それに私が介入することはできない。自分で決めるしかないのだ。人生に【代理】はない。
「でもリーリエ、部屋には来なかったし…荷づくりとかいいのかしら?」
心配してつい口に出してしまった疑問を聞きとったのか、頬を赤く染めたダリアさんは染まった顔で呆れたように眉を目と平行にした。立ちあがって、私の一目惚れで買った可愛い花の絵が描かれているカップにホットミルクを入れて持ってきてくれた。ありがとうございます、と受け取る。
「そもそも動物が混ざっているタイプの半獣であるリーリエになにか荷物が必要なのか?」
「…それもそうですね」
「だろ?」
「なら、リーリエどこに行ったのかしら?」
受け取ったカップを両手で持って、顔に近づける。カップからあがる暖かい水分の蒸気が顔に当たって潤う、というより湿る。汗がにじんだような状態になってしまった顔からカップを離して、呟いた。その呟きもダリアさんに拾われて、今度はニヤリと悪い人の笑みを浮かべた。
「パートナーを定めたらそいつに一生を捧げるタイプの半獣であるリーリエだって、性別は女だ。そりゃあ別れの前に行っておきたいところがあるだろうさ。」
頬に熱が集まるのを感じる。カップをテーブルに置き、熱を持った頬にあたたかい手を当ててダリアさんを見つめる。そう言えばこの人、こんな男性みたいな性格と口調だけれど、女性としての経験はこの家の誰よりもあるはずの先輩だ。
いつもポヤポヤとしていて、私や家族にべったりのリーリエに限ってそんな!そう思うけれど、彼女の容姿は私が一番よく知っている。なんて言ったって、私がデザインしたのだ。
「でも、リーリエに限って、そんな!」
「そうかな?」
にやにやと笑い続けるダリアさん。その顔は、人をからかって遊ぶ時の物だ。一年一緒にいたのだ。もうわかっている。
「か、からかわないでください!」
叫んで、ダリアさんの抱えていた瓶を奪った。中は空だ、わかっている。それなのに、酔っ払いというのはなぜこうも中身の入っていない瓶を取られただけで情けない声を上げ、すねるのだろうか?
ここに来た目的は、なんだった?忘れそうになるが、それを果たすため、私は真剣な表情を乗せてダリアさんを見つめた。今だけは、本気で答えてほしい。
想いが通じたのか、ダリアさんは一度大きくため息をついて俯き、深呼吸してから顔を上げた。目は伏せられていて、憂いを帯びている。酔って染まった頬がどことなく色っぽかった。
そして覚悟を決めたのか、泣きそうに潤んだ目で私を見つめる。瞳は泣きそうだったが、表情は真剣だった。
「で?なにか言いに来たんだろ。」
「はい。」
緊張してきた。体に入った力を抜くために私も深呼吸をする。せっかくダリアさんが合わせてきてくれた視線を、伏せることで逸らしてしまった。
息を吐くとすぐに顔を上げ、もう一度視線をしっかりと合わせる。
「明日、というか夜が明けたら、ここを出ようと思います。いままでお世話になりました。」
「ここはもうアズサの家だ。帰って来るなら、ここにしなさい。」
段々と震えてくる声でそこまで言って、ダリアさんはふと笑った。
「もっとも、新しい家を作る気になったら、そっちに入ってもいいんだぞ?」
笑いながら言っている意味がわからなくて、数秒ダリアさんの背中に手を回すため上げた手が止まる。少し考えてその意味を理解するとダリアさんの背中に急いで手を回し、バンバン叩く。
「からかわないで下さいってば!」
彼女は楽しそうに笑っていた。くすくすと笑う体の振動が、抱きしめ会って触れている私の体にも伝わって来る。笑いがおさまると、ダリアさんは私の背中を幼子をあやすように優しく叩き、さする。
「わかっている。お前たちの家はここだ。やりたいことが終わったら、帰ってきなさい。」
抱きしめられながら、私はあの言葉を聞いてからずっと考えていたことを伝えた。
「この旅に、リーリエは連れて行かないつもりです。」
「!しかし、リーリエはそうは思っていない。知っているだろう、あれは見た目に似合わず頑固だ。連れて行かなければ、なんとしてでも着いていこうとするだろう。自主的に連れていくか、それともドッキリか、だ。」
自主的に連れて行った方が、安心だぞ?体を離し、顔を見えるまで抱きしめていた腕の力を抜いた。背中から肩に手を移動させて、ポンッと軽く叩く。いつもの調子を取り戻したのか、ニヤリと笑ってそう言ったダリアさんはとても楽しそうだった。
「…朝になって、リーリエが戻っていたら、私のそばにいたら……連れて行きます。」
そう言ってから、ダリアさんを抱きしめた。
帰って来る。
願いがあるから、私は行く。
見たい景色がある。会いたい人たちがいる。別れはつらかった、だから再会で喜びを感じたい。
「行ってきます。」
「行ってらっしゃい。」
おかえりなさいを言わせてね。
続いた言葉に、最高の笑顔を返した。私もまた、ただいま、を言うためにここへ帰って来る。そしてまた、みんなで笑いあうのだ。できれば、仲間と、彼らも共に。
願う未来のために、私は旅だった。
迎えに行く。家族として生きてほしい彼らを。
まだ飲むらしいダリアさんに背を向けて、自室へ戻ろうと階段に足をかける。階段にも、ダリアさんの趣味がいたるところに施されている(実際に手を加えたのはモンブラン)。
たとえば、階段の手すり。「好きにしていいよ。」と譲られたときに言われ、ダリアさんは本当に自分の思う通りの理想の家にしてしまったのだ。手すりには、モンブランにやらせた細かい、寝物語を模った細工がなされている。下から始まり、上へ昇るにつれて物語も進んでいく。登場人物の衣装や装飾品まで細かく彫られているのだから大したものだ。初めて見たときは感動して思わずモンブランに抱きついてしまったこともあった。あのときの慌てたモンブランの顔は面白かった。
階段の段の淵にも、花柄の模様が彫られている。バラや、アネモネ、百合に牡丹に桜。なぜかあまり目立たないアカシアも彫られていた。あんな葉っぱをなぜチョイスしたのか、ダリアさんの趣味はよくわからない。
階段を手すりを撫でて段の淵を見ながらゆっくり時間をかけて登り切り、部屋のある二階へ来る。
そこにもまた、ダリアさんのこだわりが溢れている。
各部屋の扉。ひとつ、ひとつ、模様が違うのだ。三つ部屋が並んでいる直線。階段を上ってすぐそばにあるモンブランの部屋には下から緑のアイビーの葉が上へ昇っているし、その隣の私とリーリエの部屋の扉の中央には大きく、右に白い百合の花、左に同じく白の芍薬の花、そして中心に赤い一輪のバラが咲いている。さらにその隣、アイリスの部屋の扉の中央には可憐な白いアイリスの花が花束のように丸く咲いている。最後に階段からまっすぐ、三つの扉を超えた先にあるダリアさんの部屋の扉には、シンプルに扉の色を生かした茶色い一輪のバラの花が咲いていた。
私とリーリエに与えられた百合と芍薬とバラの部屋に入って、窓際に備え付けられたベッドに早々に横になる。明日は朝が早い。時計のないこの世界、時間を知る術は太陽と月の位置だけだが、窓の外を見てそれを確かめると、もう出発の時刻と定めた日の出はあと五時間もなかった。
外装、内装はダリアさんの趣味だ。けれど与えられた室内のデザインは使いやすさなどから与えられた本人に任せられている。私もリーリエも物自体あまり置くのが好きではないこと、買うのが面倒で揃えていないことから、私たちの部屋は住み始めてから一年以上経つ現在、私が旅の支度をし終わったとはいえ、がらんどうとしていた。ベッドを覆う毛布はそのままに、箪笥の中身などはもう、ほとんど入っていない。
パッと見れば普段となんら変わりのない部屋だが、今ここにリーリエはいないし、外観はかわらない箪笥でも、旅の支度で明日に備えて荷づくりしてしまったため、中身はほとんど空だ。
リーリエはどこに行ったのだろうか。
彼女の行きそうな場所を考え、何かあったんじゃないだろうかと心配している内に、段々と意識が白く霧が出てくるように、意識が白く染まっていき、そのまま沈んだ。
瞼に明るい光が射して、視界が黄色と白に染まる。それがまぶしくて、私は起きた。
ベッドに上半身を起こし、頭を右に回して、窓の外を見る。外はまだ静けさに包まれていたが、すでに十分なほど太陽の光が注がれていて、あたたかかった。
寝過してしまった!と慌てて枕元に畳んでおいておいた洋服と装備一式を身につける。すべての部屋に備え付けてある洗面台で顔を洗い、うがいをした。備え付けの棚に置いてあるヘアブラシで髪をとかして後ろ髪、自分では見つけにくかった寝ぐせを軽く簡単に大人しくさせる。
荷物という荷物は特にないが、水晶のはまったガントレットを腕にはめて、ドアの前へ。
結局、リーリエは帰って来た様子はなかった。
彼女のために用意され、一昨日までは使われていたリーリエ用のベッドは昨日の朝に整えたまま綺麗な姿を保っている。
リーリエはいったい、どこへ消えてしまったのだろうか。
ダリアさんから聞いた話だと、リーリエは私と一緒に旅に行きたいと言っていたらしいし。それならそれで嬉しいが、肝心のリーリエ自身がいないのでは話しあうこともできない。連れて行くことも、説得して残すこともできないのだ。昨日、ダリアさんからリーリエが私と一緒に行きたがっていると聞いたとき、正直嬉しかったし、姿が見えないのも出発する頃になって出てきて「連れていけ」と言うつもりなのだろうかと考えていたから、そんなに心配はしていなかったのだ。
しかし、その予想を裏切って、出発しようとして、室内の最終確認をしている今になっても、リーリエは現れない。なぜか。
もしかして、直前になって私とともに旅に出ることが怖くなったのだろうか。この旅はけっして楽なものではないだろう。危険だって当然のようについて回る。目的地へと生きてたどり付けたとしても、そこには誰もいないかもしれない。絶望を目の当たりにするだけかもしれない。そんな旅に着いて行くのが嫌になったのだろうか。
それならそれでもいいだろう。リーリエのためを思うならば、私とともに旅に出るなんて止めて、ここに残ってダリアさんのお手伝いをしていた方が断然いいに決まっている。戦闘向きではないリーリエの性格と能力を考えてみても、ともに行動する私の負担から考えてみても、その方がいい、というか彼女をここに残して行くことが最良の案だろう。けれど、それでは私が寂しいのだ。
リーリエを思うならば、生きてほしいと願うならば、置いて行った方が絶対にいい。けれど、幼い私はやはり危険な一人旅は怖くて、決心した今、自分でもそれでいいのかと心に問いかけてしまいそうになる。
「仲間を進んで死なせるようなやつ、放っておけ。それよりも、ここで幸せに、穏やかに暮らしていた方が利口だと思わないのか?」
「あいつらは私を侮辱した。助けに行ってやった私を、異質な色を宿した人間だからと、奴らの方から拒んだのだ。そんな奴らを、なぜ危険を冒してまで助けに行かなければならないのか。」
「そもそも、本当に奴らはまだ生きているのか?死んでいては、旅の苦労も水の泡だぞ。」
心が、私の中に宿る心の闇が、好き勝手なことばかり言う。しかし、それが私の本心であり、決意の裏に巧妙に隠された真実なのだ。ただ、光に照らされている一遍の私が、信じたくなくて、望みを抱いていたくて、押し込めてしまっているだけなのだ。
抑え込む力を抜いてしまえば、すぐに表に出てきては私を惑わせる。
「幸せは歩いては来ないんだ。ここで一握りの人々が幸せでも、また別のどこかでは別の誰かが泣いて、苦しんでいる。それが知っている人たちならば、助けたいと思うのが自然だろう。進んで死なせているわけではない、環境が、時代がそうさせているのだ。戦わなければただ死を待つだけだ。彼らは、大切なものを守るために、命がけで戦っているのだ。それは称賛もできないが、一方的に切り捨てられるものでもないはずだ。彼らもまた、命を背負って生きているのだから。」
「彼らも、ただ生きていたくて必死だったのだ。極限まで緊迫した状況では、感情を他人にぶつけたくなることもあるだろう、彼らもまた長い絶望的な戦争の中で、限界だったのだ。運悪く、その時にあたってしまっただけ。」
「私は信じている。彼らが生きていると。諦めきれないから、それを確かめに行くのだ。」
懸命に押し込めようと、光のあたる部分も言い返すが、どちらも私の心だ。優越が付けられるはずはなく、そのまま私は、瞳を閉じて耐えるだけだった。いったん、応急処置で抑え込んだ闇をそのままに、私は部屋の扉を開けて廊下へ出た。そこから部屋を見回す。
一年間過ごしてきた部屋は、その間に培ったこの町の人たちとの思い出、この家に住む家族との思い出に溢れていた。優しくて、あたたかい思い出たちを振り返って、深く頭を下げる。
「いってきます。」
心の中で叫んで、静かに扉を閉めた。主のいなくなった部屋の扉は、音もなく閉じられた。
絶対に、また再びここに、この家に、この部屋に、帰って来るから。
決意も新たに私は歩き出す。
誰もいない廊下を歩き、軋む階段を下り、外からの明るくあたたかい光を大きめの窓から差し込んで、部屋中を照らされたリビングを通って、ついに玄関の扉のノブに手を乗せる。
ここを、一日の初めに触るのはいつも私だった。
町のおばちゃんたちが面白おかしく町の情報を書いた、地球で言うところの新聞を新聞配達とジョギングを兼ねた編集記者たちの旦那さんたちが届けてくれるのを受け取るために外へ出るのだ。冬は寒くて、配達のおじちゃんたちにココアをご馳走したこともあった。
「これが楽しみでやってるんだよ~」なんて言ってくれたおじちゃんの言葉が嬉しくて張り切ってやったら、すっかり冬の町の名物になってしまったのも、記憶に新しい。今年も、同じようにできるだろうか。
そんなことを考えて、胸に冷たい風が吹くのを感じる。大丈夫、私たちは生きてまた、ここに戻って来るのだから。心配はいらないんだ。自分が自分を信じて上げなくてどうする。自問自答しながらドアノブを回し、ガチャリと意外にも響いてしまったドアの音に鼓動が躍る。後ろを振り返って、二階に異変がないか気配で探るも、異変は見られず、安心してほっと溜息を吐いた。ここまで来て、最終的には送り出してくれるだろうが、それまでが大変そうなアイリスや騒ぎそうなモンブランに見つかっては意味がない。
キィィィと静かながらも耳障りな音を立てながら開いていく扉。私が通り抜けられるほどのスペースが空いたら、扉を中心に、クルリと半周回って外へ出た。
今日はいつもより遅いのか、それとももう配達し終わってしまったのか、ジョギングスタイルのおじちゃんたちと一度もすれ違うこともなく、起きているときは常に笑い声、話し声の絶えない町が、静かな空間となり変っていることに驚きを感じながら、町のいたるところに宿った町の人々との思い出を振り返った。
死ぬときはそれまでの人生が走馬灯のように脳裏に走るというが、まさかこれかとちょっと心配になり、弱気になってしまう。私はもう一度、再びここに帰って来るんだ!と決意を心で叫ぶ。心の中とはいえ、思い切り叫んでみるとすっきりと軽い気分になることができた。ベージュの町を抜け、大きな門がそびえ立っている町の境まで来た。
白い、ところどころ霧雨林の影響でコケが生え、茶色く変色してしまった個所も目立つ門の足元に誰かが立っているのが遠く見えた。後ろ手で指を組み、門に寄りかかって空を見上げている。同じように見上げてみると、空一面に、地球ではなかなかお目にかかれないほど澄んだ青い空が広がっていた。
見間違えるはずがない。
あの白い身体に白い虎の四肢。どうやったら、彼女を間違えられると言うのか。
あと十歩、大股で飛ぶように歩けば触れられる位置までやって来た。やはり、近くで見ても彼女に違いない。
「や!リーリエ、朝帰り?」
笑い含みの声音でそう言うと、リーリエはにっこりと穏やかな微笑みを浮かべた。なにも言葉にはしなかったが、彼女の思いが伝わって来る。「ずっと、いっしょ。」
手を差し出してきたリーリエに、首をかしげる。彼女が何をしたくて、そして今までいったい何をしていたのかを聞いてみたかったが、差し出されたリーリエの白く、荒れることを知らない手を見る。今度は、リーリエも口を開いた。
「たびのおともに、いじゅつをマスターしかけたはんじゅうはいかがですか?」
ダリアさんのもとで修行していたのはそのためかと再確認。嬉しくて涙が出そうになる。私が彼女を心配している時間、リーリエもまた私の心配をしながら、少しでも役立てるようにと懸命に考えて、そして行動してくれていたのだ。
「このせかい、ひとりでたびをするにはひろいの。」
ちず、みたことある?
とても楽しそうな、とぼけた笑みでそう言われて、私もふたりで、ふたりだけに通じる内緒話でもしているかのように楽しくなって微笑みながら「毎日見てたよ!」と返した。
*
ふたりの少女が、手を取って歩き出した。
アズサの握ったリーリエの手はとても暖かかったけれど、ここに来る途中のつらい旅の中で安らぎを求めてすがりついて握った時よりも、医者の助手として働いていたけれど、それってそんなにしんどいのかと心配してしまうほど白い手は荒れていた。掌の皮がゴワゴワと硬くなり、大きさもなんとなく変わったような気がする。アズサの手を包み込む大きさに成長していた。
この手が、私と一緒にいてくれる。私を支えてくれる。
アズサはそう思い、そしてギュッと力を込めて、門をくぐり前へ向かって歩き出した。この先に、家族になれなかった仲間が待っていることを信じて。
もしも携帯で見てくれているメシアのような方がいらっしゃいましたら、いまさらですが、…ほんとすんまっせんしたぁぁぁぁぁ!!!