第一章二幕「城」
…深夜のテンションって素敵★
自然豊かな緑の森を抜け、黄色い砂が覆う大地を歩くこと体内時計で二時間。膝上までの長い白いブーツを黄色く染めながら、私の強さも理解できずに飛び出してくる愚かな雑魚たちを鎮めながら歩いていて、さすがの私も疲れてきた。そんな時だった。ようやく彼らの“城”が見えて来たのは。
それは、いくら目の敵にされているからと言ってここまで徹底しなくてもいいだろうに…。と思うような荒れ果てた場所に、彼らの「城」はあった。
城、と言っても、古びた洋館、といった感じの建物だ。乾いて割れた大地に黄色い砂が湧いている。大地が盛り上がったところに、その“城”は建っていた。外から見ると、まるで某ネズミの国のハリウッドの有名俳優主演で映画にもなった、有名人気アトラクションのお化け屋敷のようだ。深夜二時から四時までの、世に言う丑三つ時には、なにかしら人知の及ばぬ存在が我が物顔で遊び歩いていたりしているのかもしれない。もしかしたら、九十九人の幽霊が住んでいて、百人目を待っていたりするのかも。そんな雰囲気をさらに出すためではないだろうが、館を這うように若いアイビーの緑と枯れた茶色が上へと登っていた。三階建ての洋館、その三階部分の一角が崩れて中の木が見えてしまっていた。アイビーはその部屋を目指して登っているのか?
そんな城を見上げて、私は思わず呟いてしまった。「ボロッ…」
聞こえてきた侮辱ともとれる単語に、牛が振り返る。その顔は何分、牛なので、極端に泣いていたりしていなければ表情が分かりにくいが、今の彼は泣いても、笑っても、怒ってもいなかった。どれかと言えば、困ったように笑っている。
「古い建物なので、いろんなところにガタがきていますが、住めば都、というように慣れてしまえば意外と居心地がいいんですよ。それにボロボロの部屋ばかりでもありませんし。」
そんなものなのだろうか。
両親と三人で住む我が家は、築十年のコンクリートがむき出しのモダンな建物だ。社会現象にまでなった某ロボットアニメのヒロインが住んでいる部屋に憧れたデザイナーが設計したその家は、冷たい印象とは裏腹に、権力を掌握している主の人柄を如実に表しているのか、温かみを持つ家庭になっている。
とにかく、何が言いたいのかと言うと、「古い建物の良さなんてわかんない」ってこと。十年前まで住んでいた家だって、築数年のマンションだった。埃アレルギーの母と私のため、父が気を使ってくれていたのだ。私の大切な大好きな場所だ。
“帰る場所”の言葉が咄嗟に出てこなくて、そんな自分に驚いた。人間は嫌いだ、みんな私や私と一緒にいてくれる人たちを傷つける。だが、家は好きだった。私が私でいても受け入れてくれる。大好きな人たちが集まる場所だから。それなのに…、なぜだろう?
「おもしろい、おばば、いる。」
リーリエも、私の不思議そうな、不機嫌そうな顔色を察したのか、新しい情報をくれる。
「オババは、ボクたち半端者に居場所を与えてくれた偉大な方です。」
「おばば、やさしい。すき」
牛の補足の後に続いたリーリエの言葉に、私は驚いた。目を見開いて、びっくり発言をしてくれたリーリエを凝視したが彼女は気付かず、オババを思い出しているのか、楽しそうにハミングしながら歩いている。
リーリエは優しくて、あまり物事を否定しない性質だ。だからなのか、特別嫌いなものもないけれど、好きになることもまた、なかった。その中で、私だけが別格だったのだ。けれどそれも、プログラミングされた、強制された好意だ。彼女が自発的にそう感じているわけではない。だから、リーリエが自分から「好き」だと口にしたことが驚きだった。胸にモヤモヤとあまりよくない感情が浮かぶ。これまで感じたことのない種類のものだ。それに戸惑う。
「ねえ、うし…、ミノタウロスさん。」
「…はい?なんでしょう。」
呼びかければ、彼は歩きを止めずに顔だけ振り返って、答えてくれる。牛の顔に輝くつぶらな瞳は、人間が笑みを浮かべる時と同じように細められていた。
「オババって、どんな人なんですか?」
正面に向き直って、背中しか見えない私からもわかる。彼は腕を組んで考え込んだ。牛の頭が斜めに傾いている。斜め上を見上げて、彼の人の姿を思い浮かべているのだろう。
考え込みながらも歩みを止めない彼。そんなに急いで帰りたいのか。う~ん、と唸る声が聞こえる。「もぉ~」ではなかったのが、地味に悔しい。怒らせるか、呆れさせれば言ってくれるだろうか?
牛の答えを待つ間、私も歩みを止めずに考える。人から与えられた疑問の答えを真剣に考えてくれる彼に比べたら、私の思考を埋めるのはなんてくだらないものなんだろう。
自分のくだらない思考に落ち込みかけていると、横を歩いていたリーリエが白い手で私の手に触れた。慰めるように肩をポンっと優しく叩いてくれる。
ところどころ欠けた石段を登り、古くて、ドアノブを握っただけで扉全体がミシッと音を立てる。私の倍くらいは高さがありそうな扉だった。ミシミシッと軋ませながら牛が押していく。マスター、と促されて入った室内は薄暗かった。一本廊下が通っているが、奥が暗くて見えない。
進める場所はひとつしかないので、そのまままっすぐ進む。
「オババは、」
それまで歩きながらもずっと唸り続けていた牛がようやく人の言葉を発した。リーリエと揃って牛を見る。
「オババは、なんていうかつかみどころのない方です。いつも城にいるというわけでもありませんしね。」
仕方がない。そう言いたげな苦笑で牛は言った。
散々考え込んで出てきた答えがそれか。
そう、言いたくなかったわけではないが、ここは言わずにおく。実際にオババと会ってみれば、私も理解できるだろう。ただ、一つ問題があるとすれば、オババが城にいるときログインできるか、ということだ。私は今、この世界で生きているが、現実世界でも同じように生きているのだ。あちらにも、あちらでの生活がある。
「今は、いるかな?」
誰にともなく呟いた。
「さあ?どうでしょうか。気まぐれな方ですから。」
「マスター、あいたい?」
同時に喋った二人の半獣。
その息の合い具合がおかしくて、私は笑った。現実世界では、数少ない人々の前でしか見せない顔。ここでは、自然と浮かんでしまう。この空間が愛しかった。
「会えたら嬉しい、かな?リーリエがそんなにはっきり好きだって言う人、今までいなかったし。興味があるから。会っては見たい。」
「マスターが、そういうなら、きっとあえる。おばば、そういうひと。」
「そうですね。オババは自分を必要としている者の想いにこたえてくれる、そんなところがありますから。『会いたい!』と願っていれば、どこからともなくやってくるんですよ。」
二人は楽しそうに笑っていた。
そうやって、どこからともなくやってきたオババの姿を思い出していたのかもしれない。
私の知らない人を、リーリエが思って笑っている。それが、なんとも寂しく感じられた。これまでは、リーリエの心に住んでいたのは私だけだったはずなのに…。私の心に黒いモヤモヤとした嫌な感覚が広がっていく。気持ち悪い。
「…やっぱり、会いたいかは微妙かも。」
小さく零れた言葉は、楽しそうに笑いあう二人には届かなかった。
それで、いい。
自分でも無意識に発した本心が、自分には大きく響いて、驚く。リーリエが私以外に好意を寄せることがなかったのと同じように、私もまた、他人を羨むようなことを考えたりはしたことがなかった。容姿を見てからならいざ知らず、まだ見ぬ相手になんて、興味もなかったのに…。初めての感覚に、小さな恐怖が生まれる。私は、どうなってしまうんだろう。
気分を変えよう。
胸に広がりかけた黒いモヤモヤが嫌で、建物の中を見回しながら歩くことにした。
ボロッ。
一言で言うならそれに限る。現実世界にもある物で例えるならば、ここはお化け屋敷だ。下手に作られたものではなく、実際に長い時を経てきた威厳ある建物にしか出せない空気を、ここは放っている。創立百年を過ぎた学校の旧校舎が持つ空気と同じものを感じる。余談だが、私の通っていた小学校が、まさにその創立百二十年を過ぎた古い学校だった。
古くて恐怖を感じると同時に、どこか懐かしくも感じる内部の埃臭い空気を少し、少しずつ吸い込みながら、観察してみた。
窓にはかけたガラスしかはまっていない。そこから入って来る生温かい風が、古く、破れてボロボロの布切れになり果てた白かったんだろうレース地の薄いカーテンと、赤か茶色のカーテンだったんだろう分厚い布切れをなびかせる。カーテンだったものが舞うたび、一緒に舞う埃、というよりも砂が入らないよう、口に手を添える。
少し入ったかも?
口を覆った手の中で、心配症のリーリエに気付かれないよう、小さく、抑えて咳をした。反射だ。
大丈夫、まだ大丈夫。
忠実に現実の私を再現してくれているゲームだったが、厄介なアレルギーまで再現することを私は当然許さなかった。夢の中でくらい、面倒がなくしたって良いじゃないか。
歩き、進んでいく。キィキィと鳴く床を、肝試ししてみたいな、なんて思いながら歩いていく。牛の足音と私の足音。リーリエは足音を立てない。虎の四肢をしなやかにすらすらと動かして歩いていく姿は、お化け屋敷のようなこの建物には似合わないが、やはり美しい。突然襲ってきた満足感に、私は我慢できずにニヤリと微笑んだ。自覚はないが、きっと臆病な牛あたりが見たら涙を浮かべていたかもしれない。
「アズサさん?どうかしましたか?」
口を覆っている私の様子に気がついたのか、牛が不思議そうに、心配そうに立ち止まって私が近づいてくるのを待った。振り返って歩いてきた道を見返してみると、一つ扉があって、その二メートル先は曲がっていて見えなくなっていた。多分、階段だ。石段とは別に、なんかを登ってきた気がする。
「私、現実ではアレルギーで、埃とかダメだから…、癖で。」
「そうですか。」
特に疑問を持たれる様子もなく、牛はホッとしたようにそう言って、またすぐに前を向いて歩きだした。
心配されると面倒だが、心配されないのもなんだか寂しい。
自然と表情は硬くなる。前を向いた牛に気付かれないように、覆った手の中で舌を出す。
「マスター、くるしい?」
ちょうどよく、私の苛立つ手前で心を配ってくれるリーリエの存在がやはり嬉しい。
笑顔を返すことができた。
五十メートル走ができそうな、長い廊下を歩き続け、突き当たりの、ひと際大きく、豪華な扉の部屋に入る。牛はノックをしなかった。自分の部屋なのだろうか。それとも近しいものの部屋か。
「オババ、お兄、お客さんだよ。」
大きな扉の先にいたのは、小さな魔女っぽいおばあさんと、
「ミノタウロス、部屋に入って来る時にはまずノックをして、許可を取ってからだと何度言ったらわかるんだ?」
やけに理屈っぽい馬でした。名前はきっと、ケンタウロス。
「でも、ケンタウロス兄…、」
やっぱりな。
「でもじゃない。それが礼儀だ。」
「お兄ぃ~」
「情けない声を出すんじゃない!」
兄弟喧嘩の最中、割り込むのも失礼かと思い、室内の観察をさせてもらう。
馬とおばあさんが居るのは部屋の中央に置かれた、円卓。古いながらも綺麗な姿を保っているそれは、とても大切に扱われてきたのだろうことがうかがえる。豪華な装飾などされていないのだが、木目の自然な美しさが、それにはあった。
あとはあのおばあさんくらいならそのまま放りこんで、丸々焼けてしまえそうな大きさの暖炉に、きっと数え切れないほどの者に座られてきたのだろう、擦り切れた座席部分が年代を感じさせるソファが、窓際に向かい合って置かれている。
「客とは、その子かえ?」
しわしわの外見とは違い、いやに艶のある喋り方と声だった。
話す声だけを聞いていれば、その発信源が皺くちゃのおばあさんだとはだれも思うまい。牛とリーリエの話から、「昔は、夜の繁華街をブイブイ言わせたもんじゃ。」なんて、仲良くなってきたら言いそうな人なんじゃないかと思ってしまう。それだったら面白いんだけど…。
「アズサと言います。」
ひとつ、軽く頭を下げる。
オババは楽しそうに、満足そうに笑った。おほほほほ、と上品な笑い声が響くが、大きく開いた口を隠そうともしない。すべての歯がよく見える。欠けた所も、虫歯もない、健康そのものの歯並びだった。
「妾の名は、訳あって教えること叶わぬ。オババとでも呼べ。」
「はい。」
うん、そういう不思議設定、いいよ。ゲームのだいご味だよね。これが本当は世界の神様だったりするんだよ。でも、そこまでやっちゃうとぎゃくに興ざめかな?ここは本当はエルフを裏切ってきたハイエルフの長老、くらいにしとこうかな。
リーリエが無条件で許し、慕っていることにやきもきしていたのも忘れ、私はオババという新キャラが持つ神秘性にオババの裏設定を考えていた。裏を探るのが、私は地味に好きだ。
「俺はケンタウロス。そこのミノタウロスは俺の養い子だ。」
「だけど、年近いからお兄ちゃんって、呼んでます♪」
「ここではリーダーのようなことをしている。」
「アズサです、よろしく。」
ふむ。と、ケンタウロスは頷いて、「茶でもどうだ?」と手ずからティーセットのポットを持ってカップにお茶を淹れてくれた。その手つきが顔と体躯に似合わず繊細で、思わず「料理とか得意かも」と思ってしまったのがまずかった。似合わないという印象つながりで、ふりふりのレースが裾に付いたピンクのエプロン姿のケンタウロスを想像してしまった。笑い出しそうなのを堪えて、笑顔を浮かべる。…くっ、…ちょっと歪んでしまったかもしれない。許せ、馬!
カップの数は三つ。円卓の上にはティーセットの他に、アンティークのキャンディーボックスや、小さく欠けた所もある何十枚とクッキーが山盛りになった大きなお皿が乗っていた。
「あ、どうも。」
「いや。」
短い会話を交わしながら、私と牛は円卓とセットなのか、違うのか。なんとなく違和感を感じる椅子に座り、リーリエは椅子をどかして虎の四肢の後ろ脚を折って床に直接座る。
何度も何度も、色が出なくなるまで使うのだろう。普通の紅茶だと思うのだが、これまでに見たことがないくらい薄い色しか出ていないお茶をすすりながら、私は「ここではどんなクエストがあるんだろう?」と考えていた。
左隣に座るリーリエに視線をやって、「今、何時?」時間を訊く。機械的に、すぐ「ごご、ごじ。」と返ってきた。口調だけリーリエが残っていて、ちょっと気持ちが悪い。
カップを置いて、クッキーの手を伸ばす。届かないそれをお皿ごと、牛がこちらに寄せてくれた。「ありがとう」と言うと、笑顔で「いいえ。」と返って来る。そこに、牛と馬の義理兄弟である関係性を感じる。何時頃に帰ろうか、考えながら甘さ控えめ、というか素材の味を大切にしているクッキーを噛んだ。
気になってしかたがない。
何が気になるのか、馬がさっきから素材の味を大切にしたクッキーをかじる私の方へ、円卓を回り込んで徐々に近づきながらチラリ、チラリと視線を投げてくる馬。どうかしたのか、私に変なところがあるだろうか、もしかしてクッキーを不味い!と思っていることがばれたのだろうか、等々考えていた私だったが、訊いた方が早い、と結論付けて、ついに隣に座っているリーリエの横まで来ていた馬が視線を投げてきたところにこちらからも睨みつける勢いで視線を合わせ、キャッチした。私から「何ですか?」と尋ねることなく、馬は照れたように男らしい肉の少ない引き締まった頬を桃色に染めて、味はどうだろうか?と尋ねてきた。言葉の内容に驚く、どころではない衝撃を受ける。クッキーと紅茶を吹き出しそうになるのを堪えて、私は真面目な顔を作った。馬の顔が不安そうな色になる。
まず、…言いかけて考えた。
馬はここのリーダー的存在だと言っていた。その彼の印象を悪くしてしまったら、私のパートナーであるリーリエの待遇に影響が出てしまうかもしれない。だれだって、嫌いだと思った相手とつながっている存在には冷たくしてしまうものだ。
これは新しいクエストだろうか?しかし、ここはこの地区に設けられた私たちの種族陣営に与えられた休憩所のはずだ。そこでは体力回復アイテムの購入や他のプレイヤーとの交流、パートナーのレベル上げに必要なミニゲームしかできない。見たところ、ここには他のプレイヤーはいない。オババの不思議設定といい、彼女はプレイヤーキャラクターではない。馬も、牛も違うだろう。プレイヤーキャラは指導者にはなれない。
私は考えた。どうすれば偽りにならず、この不味さを伝えられるのか。そして、先ほどから何度も何度も使っていた言い回しを伝えることにした。きっと、わかってくれるよ。
ちゃんと褒めるから、そんな期待したキラキラ光る目で見つめないで!
「…えーっと…、…なんというか、とても素材の味を大切にしていると、思います…?」
そう言った私の目は、きっと泳いでいたことだろう。私自身が、「視線、定まらないな~」と感じていたのだから確実だ。瞬きをするたびに、視線の位置を変えていた。
言い終わり、馬を見る。彼は私の太ももくらいはありそうな太さの腕を組み、満足そうにうん、うん頷いていた。なんだ?と目を瞬かせていると、馬は嬉しそうにはにかんで「そうか、そうか」と、幼い子供にするように、優しく頭を撫でていった。その時の馬は園児におやつを与える保父さんと同じだった。
優しくて、いい人(半分は馬だけど)だと感じられる人物だっただけに、本気の本音を言えなかったことが苦しい。
「…リーリエ、私、そろそろ帰ろうかな?」
居づらくなった私は、手っ取り早く逃げることにした。リーリエはもちろん、牛も残念そうに「え~、もう言っちゃうんですか?」なんて言っている。原因である馬はと言えば、威厳たっぷりに腕組をして「また食べたくなったら、来なさい。」と言っていた。ごめんなさい、それだと私、もうここには来られない…。
「なぁに、また遊びにいらっしゃいな。今度は他の子供たちを紹介しましょうて。」
オババは、理由もなにもかも察しているのか、いないのか、外見には似合わない上品な笑い声を響かせて送り出してくれた。それぞれに別れを告げて、目をつぶる。意識が上に引き上げられる感覚が私を襲う。ジェット虎スターや車で急な坂道を下りているときに感じるあのなんとも言えない浮遊感が一瞬、瞼の向こうに光が溢れた。
「おかえり、梓ちゃん。」
しわがれた声が聞こえてきて、戻ったのだと知る。頭に被さったヘッドセットが元の位置に帰って行くのを待ってから、椅子の後ろに立っているおばあちゃんを見た。
「今日、初めてのフィールドに行っちゃった!」
「それはよかったね。」
おばあちゃんは楽しそうに、笑顔で私の話を聞いてくれる。きっと、ゲーム内の話しをされたって、わからないだろうに、文句を言うでもなく、ただ笑顔で付き合ってくれた。わざわざ電車を乗り継いでまでここに通うようになった理由は、そこにあるといっても過言ではない。このおばあちゃんが好きなのだ、私は。
挿入口からシュッと軽い空気音とともに出てきたカードを受け取って、胸ポケットに入れれば、帰り支度が終わる。
「それじゃ、明日も来るから。」
「待ってるよ。」
そう言って別れたふたりだったが、二度と顔を合わせることは叶わなかった。
翌日、平成の世からひとりの少女が消えた。彼女の両親は警察や児童相談所など、思いつく限りの場所を当たったが、愛娘の行方はようとして知れず、再び一家団欒の時を迎えることなく、悲嘆に暮れる中で天寿をまっとうしこの世を去ることとなる。
*
午前七時
今日も昨日と同じ目覚めの時を迎える。
目をつぶっていても眩しい朝の光を浴びて、梓は目覚めた。季節に見合った紅葉模様のベッド用具。毛布から上半身を出し、大きく伸びをする。「ん~!」
まだぬくもりの残るベッドに入りっぱなしの下半身も冷たいコンクリートむき出しの床に下ろし、立ちあがって歩く。女の子らしい暖色を基調とした物で揃えられた部屋を出て、灰色の堅い階段を下り、母が居るであろうキッチンへ。中に入ろうとドアを開けると、美味しそうな音とともに匂いも香ってきた。ジュー、と美味しく焼けているだろうベーコンかウィンナーの声が半分寝ている梓の頭を呼び覚ます。
「おはよう!」
フライパンを左手に、なぜかお玉を右手に持って、楽しそうに鼻歌を歌っている母に声をかける。常に穏やかな笑顔で、愛する家族を包み込んでくれる優しい母。彼女の背中の中ほどまで伸びる梓とは正反対の黒い髪は、踊るように揺れる本体につられて左右に揺られていた。それが大きくなびいて、梓によく似た顔が見える。
「あら、おはよう梓ちゃん、今日も早いのね~♪」
フライパンをコンロに置き、お玉を体と垂直に持ち上げた状態で振り向いた母。限界まで細められた微笑む瞳もまた、梓とは違う茶色である。
これだけ色素が違うのに、顔だけが同じ系統というのは、何度見ても不思議なものだ。そう思いながら、梓は母から視線をコンロの上に載せられたフライパンへと向かった。母はよく、物を焦がす。
「お母さん、またウィンナー焦げかけてるよ」
「あら、いけない!」
慌てたように言いながらも、その動作はゆったりしたものだ。若干端の方が炭になりかけているウィンナーを見つめながら、梓は朝一番のため息を吐いた。これもまた毎朝の恒例行事であった。
「私が結婚して、家出たらどうするの?」
「あらあら!そうしたら梓ちゃんが家事をするようになっていると思うわ♪」
「…確かに、ね。」
「梓ちゃん…、そこは『それまでにはもっと上手くなってるよ、お母さん!』って言うところよ~」
悲しそうに眉をハの字にしながら、体をくねくね揺する。娘が十五歳になり、自身もまたそれだけの年月を重ねているはずなのに、変わらず愛らしい動作の似合う母が、梓は好きだった。まるで、年の離れた姉妹が交わす会話のような、母との交流。外の世界では冷たいばかりの会話を嫌悪していた梓にとって、暖かく感じるこの家族との対話は大切な時間だった。
「…それは、冗談でもそう言える人に対して言う言葉だよ。お母さんそうじゃないんだもん。」
「……でもね、梓ちゃん…、」
「『お母さん、これでも新婚の頃よりは上手くなったのよ?』なら、もう古いよ。新しいネタを披露する時期だと思います!」
腕を組み、プイッと顔をそむけて譲らない姿勢を示す。すると母は「そんなぁ~…」と残念そうな、無念そうな眉根を寄せた顔をして見せたが、それでも娘の態度が変わらないことを知ると、諦めたようにだらりと両手の力を抜いて俯いた。「精進します…」宣言を聞いて、梓も耐えきれない、というように吹き出す。つられて母も笑い出し、しばらく女性ふたりの高い、けれど、抑え込んだ小さな笑い声が朝のキッチンに響いていた。
力を抜いていた手に力を入れ、持っていたお玉を持ちなおす。今度はフライパンの隣に置かれた小さな鍋に向かって、格闘し始めた。両手に重ねた三枚の白い無地の皿を持って、フライパンの中で出番を待つ端が炭になりかけているウィンナーを迎えに行く。ついでに、ちらりと横目で鍋の中身を確認した。
「味噌汁…、何が入っているかは、口に入れてからのお楽しみバージョン…」心の中で呟いて、これが出来上がらない内に、出かける準備をしに部屋へ退散した方がいいのだろうか?しかし、それでは父ひとりに被害が集中してしまう。…どうしようか?
「おはよう!…う~ん、今日も朝からいい香りだねぇ…」
何も知らない子羊がやってきた。四十歳も半ばを過ぎても、いまだ爽やかな好青年の風体を保っている、母と同じく、年齢詐称疑惑のある父親だ。ご近所さんでも娘の悪評とは正反対に「あそこの奥さん、いつまでもお若いわよねぇ、どこの化粧品使ってるのかしら?」とか、「旦那さん、かっこいいわよね~この間なんて、近所だからって重たい荷物持ってくれたのよぉ」それは老人扱いされただけなのでは?なんて、言ってはいけない。…とまあ、両親揃ってご近所では評判の夫婦なのだ。
この家に住む者で、ご近所に受け入れられない存在は私しかいない。私の存在が、両親が親切を振りまいて上げた、この家を取り巻く周囲の評判を落としているのだ。
ごめんなさい。梓は物心ついてから、この容姿が普通ではないのだと、自分の周りにいる人たちから受け入れてもらえない姿なのだと理解してから何度も繰り返してきた言葉を心の中でそっと呟いた。目の前にそろった両親には届かない謝罪。今さっき母と笑いあった笑顔はそのままに、心で静かに涙した。
三人で、食べよう。
フライパンを左手に持って、右手に持った一枚の白い皿の上まで持っていく。真上でフライパンを徐々に傾けていくと、思惑通り汚れなき白い地に、こんがりをやや通り越したウィンナーが降り立った。横でそれを見ていた母が、「梓ちゃんはお料理上手ね~」とのんきに呟いていた。母は母で、問題作を仕上げていく。冷蔵庫から味噌を取り出し、以前「これをやりたくて、お嫁さんになったの~」と言っていた、お玉で味噌を溶かす工程を、実に楽しそうに鼻歌をハミングしながら行う。けれど、小さなお玉とはいえ、それ一杯の味噌を二リットルもない味噌汁に入れてしまっていいのだろうか?注意してしまいたいが、なんでもかんでも入れてみなければ気が済まない『入れたがり』である母に言って、それに代わって別の何かを入れられても怖い。
「おはよう、お父さん…、これ、テーブルに運んで!」
「お!これ、梓が作ったのか?美味そうだ~!」
お皿に乗ったウィンナーに鼻を近づけて湧きあがる香りを楽しむ。
「いや、よく見てよ、それ。端のところ炭になりかけてるから。焼くだけの料理とも呼べないそれを作るのに、私だったら炭を作ったりしないから!」
「母さんかぁ~…うん、でも美味そうだ!」
遠い目をしながらそう言った父の視線の先、私の背後では母が輝く笑みを浮かべた顔の横まで持ち上げたお玉を光らせていた。
「あ、ふざけてないでさっさと食べよう。遅刻しちゃうよ?」
「「は~い!」」
いい年した大人が声をそろえて娘の言葉に従う様は何とも言えない無気力感を感じさせる光景だ。梓は日常となったその光景に溜息をこぼしながらも、笑みを浮かべていた。
自分の席、と定めた椅子に腰をおろして手を合わせる。
「いただきます!」と重なった三種類の声に、いつも通りの一日が始まったことを改めて感じた梓だった。
お父さんがつけたテレビの中で、テレビ用の笑顔を振りまいたお天気お姉さんが「今日の天気は晴れ。お洗濯日和の一日となるでしょう。」と言う声を聞いた、午前七時三十分。
*
朝食を食べ終えた梓は、八時から流れている情報番組を見ながらひとり使い終わった食器を洗い、今は濡れた食器の水分を拭き取りながら整理された食器棚の中に戻しているところだ。食器洗剤を付けてオレンジのスポンジが泡で隠れてしまうまで泡だてたスポンジで汚れを拭っている間に、両親は片方ずつにリップ音を立てた可愛らしい愛情いっぱいのキスをしてから仲良く仕事へ出かけて行った。ふたりの職場は家を中心にそれぞれ反対方向にある。彼らが毎日双方別れがたく、「行ってらっしゃい」「行ってきます」と言いあうのに一時間はかかっているということを、梓は知っていた。
暑苦しい万年新婚バカップル。心の中で悪態付きながら母の使っていたコップを泡のたくさんついたスポンジでキュッキュッ軽い音を立てながら回していく。自分の行いで綺麗になっていく食器を見るのが梓は好きだった。
片付けも終わり、両親から三年前の誕生日プレゼントにもらったピンクのエプロンを外す。食事の時に座っていた自分専用と定めた椅子の背にかけて、リモコンでテレビを静かにしてからリビングを出た。スリッパの音を鳴らしながら出かける準備をするために二階の自室へ向かう。
五年前の誕生日プレゼントとして両親から贈られたクジラの形をした木のネームプレートがかかっているドアを開ける。中はモデルとなった某ヒロインの部屋のイメージそのままだった。両親の部屋のように新しく壁紙を張ることもなく、コンクリートがむき出しの部屋。その中におよそ年頃の女の子の部屋だと思わせる愛らしい要素がまるでない。あるのは幼馴染や両親からプレゼントとしてもらった写真立てや本などと、それをまとめて収納できる棚、眠るのに必要なベッドと洋服や下着を整理する箪笥に、本来教科書や参考書などが並んでいる場所にゲーム関連の本が整理されて並んでいる勉強机だけ。情報を手にするのに重宝されるべきテレビも、ラジオも、パソコンも、この部屋にはない。
この部屋に訪れ、中を見るたびに「もっとかわいい物買ってきてあげましょうか?」と楽しそうに目を輝かせて自分を見る母親を思い出して、梓は笑った。可愛げがなくとも、梓にとって大好きな家族と家族のような幼馴染たちと自分をつないでくれる大切な“絆”が、この部屋には溢れていた。部屋に入り、ドアを閉める。パタン、と音が鳴った時には梓はまっすぐ歩き、ゲーム関連の資料が並ぶ勉強机の前に立っていた。
一度、一列に並んでいる本たちの背を流し読みすると、うん、と頷いてから横を向き、ベッドの向こうにあるクローゼットへ。スライド式のドアを開けると、色とりどり、いろいろな種類のバッグが几帳面に並んでいた。部屋の室内は女の子らしくない梓だが、こんな風に服を選んだりバッグを選んだりするのは、年頃の女の子と同じくらい好きだった。
茶色のバッグが固まって置いてある一角へ行き、その中からひとつを選び、クローゼットから出て部屋に戻り、バッグの中に幼馴染ふたりとお揃いで買った一人一人色違いのピンクの財布、母とお揃いで買った表面に花柄が浮かんでいる赤い携帯、お気に入りのハンカチと街頭でもらったティッシュを入れて手に持った。
部屋を出るためドアを開けた。また七時間後には戻って来る。
廊下へ出てから背中越しに片手でパタッと音を立てて、軽い気持ちで梓は与えられた部屋の扉を閉めた。この家に帰ってきたらまた散らかした部屋を片付けよう。食べた後、そのままにしていて忘れていたおやつのお皿も、おやつと一緒に持ってきたオレンジジュースが入っていたコップも。今は、とにかく早くゲームをしたいから。
ごめんね!と心で叫んで、梓は玄関へつながる階段を駆け降りた。足に足が引っ掛かって転びそうになり、冷や汗をかきながらも、何とか降りて靴を履く。今日は、寒くなりそうだったのでブーツにした。足首を覆うだけの短いブーツ。
つま先を地面に打ち付けながら玄関の靴箱の上のスペースに置かれたキーケースから、家族三人お揃いの熊かブタかわかりにくい、これは一体どちらだ?と買ってきてから散々家族会議で話し合われたことのあるピンクの、黒いスーツの上着を着たブタのキーホルダーを付けた鍵を持つ。
「行ってきます!」と誰もいない家の中に響かせる。
外へ出て、梓は正面の家を見た。その家の奥さんは、事あるごとに梓を目の敵にする、この近所一帯では彼女の一番の敵だった。いつも噂はこの奥さんから始まるのだ。口も軽く、言うことも軽いことで有名なおばさんだった。
その嫌味なおばさんが外、見える場所にいないことを確認してから振り返って鍵を閉める。ガチャン、と音がして、安心したようにホッと息を吐いて駅へ向かうために歩き出した。
奥様方の活動時間は決まっているのだろうか?
そんなつまらないことを思ってしまうほど、息ピッタリに入道家の左と右、そして正面の家の玄関が開いた。茶色のドアが開き、ゴミ袋を片手に持ったおばちゃん連中が、薄いピンクのブラウスに薄い朱色のスカートを履いてエプロンをした、示し合わせたようによく似た格好で出てくる。
正面の、梓が警戒していたどこの時代のおばちゃんかと笑いたくなるようなパンチパーマのおばちゃんが、最初に梓に気がついた。あら、と驚いた顔をして、次いで美味しそうな獲物を見つけた狡賢いオオカミのような、厭らしい笑みを浮かべる。
梓は一瞬でも早くこの場から駆けだして、逃げてしまいたい想いがしたが、ここで無言で走り去ってしまっては彼女を育てている両親が何と言われるかわからない。自分のせいで、両親が「一人娘のしつけもろくにできないろくでなし」などと言われるのだけは避けたかった。
だから梓はひきつっているのを感じながら、全身の力を顔に、頬に集めて、なんとか口角を引き上げようと頑張った。
「…おはようございます。」
声が震えているのが、梓自身でもしっかりと感じ取っていた。それでも、過去にこの容姿である故に彼女たちから受けた精神攻撃の恐怖を思い出しながらも、両親を守りたい一心で耐えた。彼女たちがどんな表情をしているのか、視線を向けているはずなのに見えない。視界は白く、霧がかかったように見えていた。
体が動かない。会釈はしたかどうか、もうわからなかった。していなかったら、何を言われるんだろう。
「あら、入道さんところの梓ちゃん。おはよう。」
声は優しいものに感じた。
「あら、梓ちゃん、おはよう。しばらく見なかったから、どうしたのかと思ってたのよ。」
正面の家に住むおばちゃんが声をかけて来たのを皮切りに次々と声をかけられる。
どれも、梓に好意的だった。声だけの印象だったが、少なくとも、梓にはそう感じられた。
「おはよう、梓ちゃん。お父さんたちはもうお仕事に行かれたの?」
「あ、はい。」
質問に戸惑いつつ答える。
かけられた声は、どれも優しく穏やかなものだ。これまで感じていた自分に向けられた嫌悪、憎悪、とにかく負の感情はなんだったんだろうか。疑問に思いながら、梓は彼女の意思で動くようになってきた体を巡らせた。視界も、正常に世界を映している。
視界に映る梓の母親、父親よりも長い時を生きている女性の表情は、どれも声と同じように優しかった。
梓は瞬間、自分はこれまで何を見ていたのか、どうして私を囲む他人すべてが自分を傷つけると思い込んでしまったのかを疑問に思い、そう思って周囲を嫌い、心から閉めだしていたことを恥じた。自分が歩み寄っていたら、周囲はこんなにも暖かく、優しいものだったのに。他愛もない世間話をおばさんたちと交わしながら、心から実感する。あたたかいなにかが、梓の胸に生まれていた。これまで冷え切って、それしかないと決めつけていたから、初めての感覚だ。
帰ってきたら、もっと自分から歩み寄ってみよう。怖いから、傷ついてしまうかもしれないから、端から視界に入れることも拒絶するのは止めよう。そう決めて、梓は家を出てから初めて笑顔を浮かべた。
話の切りがいいところでこれから出かける旨を伝え、背中に「いってらっしゃい」の声を三つかけられながら、梓はとても幸せな気持ちで走った。
足が背中に羽がついて、実は飛んでいるのじゃないか、そんなことを思ってしまうほど、とても軽く感じた。これなら、駅までの道のりをいつもより三分の一の時間で行けるかもしれない。小学校のときから他人と触れ合うことを怖がって学校へ行かず、体育の授業も受けたことがなくて体力がないのに、そんな幻想を見た。
当然、そんなに走り続けることができるはずもなく、梓は家から二十メートルほど離れたところ、角を二つ曲がったところで膝に手をつき、息を整えなければ歩けもしないほどになっていた。
ご近所を受け入れることができたから、今度からは朝にジョギングでもしてみようか、なんて考えて楽しくなる。弾む息の中、ふふ、と笑って、梓は膝から手を離し、まっすぐ立って右手を胸に当てた。ドクドクと弾んでいる鼓動が掌に伝わる。
呼吸がやや早いところまで落ち着いてきた頃、ゆっくりと歩き始めた。
いつもと同じように電車に乗り込み、車両の端、乗り込んだこの駅から目的の駅まで一方のドアしか開かないので、開かない方のドア近くの隅っこを陣取る。ずっとドアに寄りかかって横目で窓の外を流れる景色を、梓は一心に眺めていた。
数回、電車はゆっくり走りだし、スピードを上げて町中を走り、東京の狭い土地を走っているのでそう長い時間を走り続けられるわけもなく、三分と走らない内に段々とスピードを落としてゆっくりと停車する。そうすれば、梓は下落合駅に到着。次の駅はもう目的の駅だ。
けれど、梓はなんだか落ち着かなかった。
先ほど近所のおばちゃん連中と別れて少しの距離を全力疾走した疲れが残っているわけではない。それは駅に着くまでの間に深呼吸をなんどかした結果落ち着くことができた。
ならばなぜか。
梓は、ゆっくりと動き出した電車の窓から外を眺めながら考えてみた。けれど確かな答えは出てこない。漠然とした不安だけが胸に浮かんだ。
再びこの道を、行くことができないような。そんな不安が胸の中に溢れそうになる。俯いて、胸に渦巻く不安を見ようとするかのように下を見て胸元へ視線をやる。そこには、当然何もなかった。
ゲームに浸って不安を吹き飛ばそう。
気持ちを入れ替えて、梓は顔を上げて前を向いた。電車がゆっくりと徐々にスピードを落とし、そして泊まった。閉じた銀色の前に移動して、その時を最前列で待つ。軽い空気音とともに開く銀色の扉を誰よりも先に抜けて、梓は見慣れたホームに降り立った。
降りたホームの中ほど、西武新宿線高田馬場駅をBIGボックス出口から出て、建物沿いに歩く。午前七時に起きて家族三人で、母親の作った朝食を食べてきた梓の食欲を掻き立てるピザやマクドナルド、ケンタッキーフライドチキン等々、美味しそうな匂いを漂わせる店を横目に、二つ目の信号を渡って、店と店の間、影ができて晴れの日の昼間でも暗くなっている道の奥へと、慣れた様子で入って行った。十メートルほどで光のもとに戻る、学校のような、不登校を続けている梓には少し近づきづらい建物を左手に見ながら進む。しまむらやそのほかのいろいろな店のややくたびれている裏側、消費者が見てはいけない店の裏の顔。左手には学校を中心に広がる住宅地。学校から二つ目の角を左に曲がり、住宅街へと入ってまたしばらく歩くと、見えてきた目的の場所。レトロな外観を見ると、ゲームへの期待から不安だった思いが晴れた気がして、ホッと長い息を吐いた。あまりに長く重かったので、本当にそれだけかと考えてしまう。思い当ったもう一つの可能性を、全力で否定したいが、できないことを梓は自分で一番よく知っていた。幼いころから嫌な思い出と同級生や教師に対する「何を言われるんだろう」という恐怖しか学校になかったため、あまり小学校にも行かなかった。体育も当然やったことがなく、これまで家から近所のゲームセンターまでしか歩いたりしてこなかったせいで体力もなく、ここまで歩いてきただけで息が切れたのだろうか。まだ十五歳で若いのに…、情けない。やはり、明日から朝走ってみるべきだろうか。このまま、家やゲームセンターの往復だけで生きていけるほど、人生は甘くはない。なにかを始める時期なのかも知れない。梓はそう想い、居間が決心の時かと前の何もない空間を睨みつけた。
息が静かなものに戻ったところで前を見る。先ほど曲がった角の方を見る。壁が邪魔で見えないが、そちらには学校があった。また、昔の無邪気だった頃のように楽しく、笑って通えるだろうか。
梓は自分が、本当は心で何を望んでいたのかを知った気がした。
本当は、みんなと同じように学校に行って、みんなと同じように過ごしたかった。笑って、楽しく。
明日。明日から、私は変わろう。
そう心に決めて、梓は最後の【ゲーム】を楽しもうと前を向いた。
木造の外観はパッと見た感じでは昭和の駄菓子屋さん。入口の横には「たばこ」の文字が、増税された今日もまた、かかっている。昨日と同じように、歩く私の横すれすれを走り去る乗用車をチラリと睨み、車と歩く私自身が生み出す風を感じながら店に近付いた。
【竜宮城】
今日で、いったんは来るのを止めようか。体力のある若者たちとの生活に慣れるまで封印して、慣れてきたら報告がてらみんなと一緒に来よう。幼馴染のアヤメと刀馬と、他にも、友達ができたらその子達を誘って。
梓は未来に希望を抱きながら、古びて動かすたびに大きく軋んで耳障りな音を立てるスライド式の扉を開けた。清々しい気持ちとは反対に、いつも通り薄暗い店内。この薄暗さを目にするのもしばらくはお休みか、そう思うとこの目に悪い薄暗さも愛しいもののように感じられてくる。
中に入り、音を立てながら閉める。
「おはよう、梓ちゃん。」
いつもなら聞こえてくる声が、今日はなかった。それに少しだけ寂しさを感じながらも、奥に行けば会えるだろうか。
外からの光を遮断して、さらに暗くなった店内を、梓は慣れたように歩き出した。記憶に刻み込もうとするように、周りを見回しながら歩く。キョロキョロと忙しく視線を動かしている梓は、傍から見たらとても怪しい人物だろう。
けれどこの店に、梓は自分以外の客を見たことがなかったので、その心配はないと安心して無防備に行動していた。
その罰だろうか。
まっすぐ前を見ずに歩いていた梓は、前から来た誰かとぶつかってしまった。少女マンガのお約束のように、ぶつかって、勢いに負けた梓は誰が掃除しているのかわからないが、いつも綺麗に磨かれてガムなどが張り付くことも煙草を押し付けられた痕もない床に尻もちをつく。
「すみません!」
梓は叫ぶように声をかけたが、相手からの答えがない。
どこか怪我をしたのかと視線を前にやるが、相手は床に座り込んでいる自分とは違い、きちんと立っていた。なんだ、吹っ飛んだのは自分だけか、と寂しいような悔しいような、複雑な思いに駆られる。
ずっと座り込んでいても仕方がないので、梓は動かずに立ち尽くす相手を横目に見ながら自分の力で立ちあがった。「自分の力で立ちあがった」って、ちょっとカッコイイかも、なんてくだらないことも考える。朝のおばちゃんたちとの会話から、自分に自信が持てるようになってきた。醜いと、怖いだけだと思っていた他人に対しての恐怖と嫌悪の思いが薄れると、この世界も素晴らしいものに見えてくるから不思議だ。
「すみませんでした、よそ見をしていて。」
ぶつかってしまった者の礼儀として、もう一度謝罪する。一瞬「女の子が立ちあがろうとしているところに、手くらい貸してくれてもいいじゃないか。」と思わないでもなかったが、キョロキョロとよそ見をしていてぶつかっていったのは確かに梓自身だ。
梓がぶつかったのは、ひ弱そうな細くて青白い男だった。黒い長髪で、病的なまでに白い顔をほとんどを覆っている。髪と同じくらい黒い、腕や腹を出した露出の多い服をまとい、肌の白さを際立たせている。薄暗い店内で、黒い服に浮かび上がる白い肌が不気味だった。だが、服のデザインと秋で涼しくなってきたにも関わらず季節を無視しようとしているとしか思えない、大きく開いた腹部の服から見える肉質で、相手が男だとわかる。
「…あ、あのぉ…」
髪に隠された瞳を見ようと顔を覗き込むが、薄暗い室内で長く黒い髪に阻まれて瞳を、というよりも顔を見ることは叶わなかった。かけた言葉にも、彼は答えてくれない。
さて、どうしたものか。
梓がどうしたものかと困り果て、いっそのことなかったことにしてさっさと【ワンダーランド】へ行ってしまおうかと思った時だった。
「!」
息をのむ音がして、ずっと下を向いていた彼が前を向き、梓を払った髪の間から見えた、髪の毛と同じ夜空のような、覗きこめば吸い込まれてしまいそうな黒い瞳がようやく見えた。
黒曜石のように美しいが、どこかハ虫類を思わせる黒い瞳に梓を映し、彼は慌てていた。
「あ、すみません!ボク、時々意識を飛ばすらしくて…」
「…私がよそ見をして歩いていて、あなたにぶつかってしまったんです。すみませんでした。」
梓は心からそう言って、「それじゃあ、」と別れるつもりでいた。
「いえ、ボクのほうこそ…」
「いえ、ぶつかったのはよそ見をして歩いていた私の責任です。すみませんでした。」
そう言って歩き出し、男の横を通って「それじゃあ、」のそ、を口に出したところで、彼が梓の腕をつかんだ。細く、弱そうな印象を抱かせる彼の白い腕。けれどやはり男だからか、梓の腕をつかむ力は彼女が振り払えないと一瞬で判断できるほど。ギョッと振り返った梓は、慌てた表情が再び無になっているのを見てしまった。
なんなんだ、この男。
不気味な、正体のわからない彼に、気味悪さを感じる梓。その容姿を幼いころから疎まれ、陰口、誹謗中傷を一身に受けて来た彼女だ。世の中にはびこるそう言った負の対象、障害者や高齢者などを差別する言葉を口にすることを嫌っていたが、彼は障害者でも、当然高齢者でもない。それに、彼のまとう空気はそばにいてはダメだ、と梓の本能的な何かが訴えていた。
「な、なにか?」
震えた声を乾いた唇から絞り出す。体が震えるのを、梓は確かに感じ取っていた。店の空調は秋にふさわしく、暖かく感じられる適度な温度だ。それなのに、汗が出ないで震えが体を包む。
怖い。
そうだ、これは恐怖だ。
梓は声と体が自分の意志とはまったく関係なく震えだしたわけをようやく理解した。精神的な恐怖には慣れていたが、実際に目に映るものを対象にした恐怖には初めて遭遇するのだ。いつも、大切な幼馴染や愛する家族が守ってくれていたから、こんな危険とは縁がなかった。
ドクッ、ドクッドクッ鼓動が早まっていく。人生で、鼓動の回数は決まっているという話を聞いたことがあるが、本当だろうか。そうすると、私は今寿命を短くしてしまっているのか。梓はそんなことを考えてみるが、体の震えが止むことはない。
いっそのことさっさと襲いかかって来るか、手を離すかしてもらいたい。不謹慎にもそう思った。一刻も早くこの恐怖から解放されたかったのだ。むき出しの腕には、気付かなかったが、一本一本は軽そうなシルバーのブレスレットがいくつも付けられていた。数が多すぎて、もはや太いブレスレット一本のように見えてしまっている。キラキラと少ない照明の光に照らされて、鈍く光っていた。
梓は問いかけた。答えはまだ帰って来ない。動いているのは彼の付けているブレスレットだけだ。
両者黙りこみ、沈黙が場を支配する。
沈黙がこんなにも気まずいものだと、梓は初めて知った。これまで、沈黙もとても心地よい物と受け止めていた。そんな梓にとって、今手に入れた新しい知識ほどいらない知識はないと思ったことだろう。
「…待ってください、ボク、なにか謝罪を…」
一刻も早く別れて【ゲーム】をしたい。謝罪はお互いにもういいよ、痛み分けでいいじゃないか。
そう思わないでもなかったが、正直に言うことはできなかった。善意でそう言ってくれているのだ。無下にすることなどできはしない。
では、どうすればいいのか。
「いえ、ぶつかったのは私のせいですし、気になさらないでください。私も、気にしないで頂けると嬉しいですし…」
「……はあ、」
それは了承の意味だったのか、それともはっきりとした溜息だったのか。梓にはわからなかったが、どうか前者であってくれ、と願い、そちらに取ることにした。
ここで初めて明るい笑顔を浮かべ、彼に向ける。優しく、明るい笑みに安心したのか、浮かない表情だった彼の顔にもホッとした力の抜けた笑みが浮かんだ。顔が見えなかったときにはわからなかったが、笑った顔はなかなかに美形だ。年も、梓と十も離れていないのではないか。
「あ、それじゃあボク、目的のゲーム機のところまでご案内します!」
「大丈夫です。私、こう見えても常連ですから!」
笑顔で言うが、彼の表情は晴れなかった。力んで張り切って浮かんでいた自信満々の笑みが、すうっと引いていき、泣きそうな表情になる。ころころ表情の変わる男だ。そう思いながら控えめに観察してみる梓。
「あっ!でも、昨日の夜、今日の夕方届くことになっている新しいゲーム機を置くのにスペースを確保するために場所を入れ替えたんです。いろいろといじっちゃったから、常連さんでも迷われるかも…特にこのゲーセンはご覧の通り、特殊ですからね。」
前半はハッとした驚いた表情で、後半は店主の行動を思い起こしたのか、苦笑してそう言った彼。
彼と店主のおばあちゃんとはどんな関係なんだろうか。今となっては真っ白になってしまったおばあちゃんの髪だが、昔は彼のような黒かったんだろうか。そうすると、祖母と孫だろうか。
通うスクールの教師と、ちょっと妖しい雰囲気を漂わせる生徒の一人との関係を探ろうとするおばちゃんのようなことを考えながら、梓はまっすぐに苦笑する青年を見つめた。
迷う心も、先ほどの恐怖も忘れてしまったわけではないが、ここは彼の言うとおりにすることに決めた。彼とおばあちゃんの関係も気になることだし、ちょうどいいから聞き出してみようか。やや邪な思いを抱きながら梓は了承の意を伝えるために口を開いた。
「それじゃあ、お願いします。」
「はい、任されました!」
笑顔で答えてくれた彼の顔は、小学生のように無邪気で純粋だった。
話している内に打ち解けて来たふたりは、他愛もない会話を交わしながら楽しい時間を過ごしていた。
「ボク、おばあちゃんの親戚なんです。祖母と孫ってわけでもないんですけど、今日、おばあちゃんは新しいゲームの入荷日で、自分で車運転して仕入れに行っちゃってるんですよ。だからボクはただの代打で、おばあちゃんが帰って来るまでの店番していたんです、…意外とお小遣い弾んでくれるから、親戚の間では結構競争率高いんですよ~?」
最後は内緒話をするように、口に左手の甲を当てて、梓の体に寄り沿うようにしながら、ささやき声でそう言った。
とても楽しそうに目を狐のように細めて笑って言う彼に、梓も楽しくなって、一緒に忍び笑いを浮かべた。誰もいないのに、隠れるように口元に手を当ててなるべく声が漏れないようにするのが、何かいけないことを話しているようで楽しかった。
気になっていたふたりの関係も無事にわかったし、梓は満足だった。
「あ、着きましたね。あそこが、昨日から【ワンダーランド】の置き場所です。大変だったんですよ~、移動させるの。おばあちゃん、経費削減だって言って、機械とかなにも使わずに人の手だけであれだけ重量のあるものを運べって言うんですもん。」
「うわぁ…それはそれは。」
「おかげで昨日は夜の十時から一家総出で働きました。」
「すごいね!」
「あ、ボクの家、ここから近いんで、よく駆り出されるんです。」
「近いと便利な時もあるけど、そうじゃない時もあるんだね…」
「そうですよ。梓さんも気を付けてくださいね!」
「ふふふ。はい、そうします。」
上品に口元に手を当てて笑う。
梓よりも年上の二十五歳だと言っていた彼が梓に敬語で、十も離れている年下の梓がため口で話しているこの事実も、昨日のおばあちゃんの無茶ぶりも楽しかった。
だから気がつかなかった。
彼が、名乗った覚えのない梓の名を自然に読んでいたことを。
数メートルの距離を並んで歩く。
シートの横まで付いてきた彼は、梓がシートに腰をおろし、カードを挿入するところまで横で見守っていた。機械がカードを飲み込み、起動音が聞こえてきたところで、梓が言おうと思っていた「それじゃあ、」と言って背中を見せる。
意識が遠のいて行った梓には、背中を向けた彼の表情も、彼が小さく呟いた言葉も、認識することはできなかった。
「おかえりなさい。死と再生を司る火の精霊王、入道 梓。」
そして、さようなら…。
言葉が音として空間に落ち、消えてしまう頃には、音の主の姿は空間には存在しなかった。そして、彼の背後に置かれたゲーム機のシートに座り、眠っていたはずの梓の姿も、薄暗い空間に吸い込まれてしまったかのように一瞬にして消えてしまっていた。
そこには、ただ操縦者の居なくなったゲーム機【ワンダーランド】が起動音を鳴らしていた。
ピー、ピー、ピー。
店中に響く音量で警告音を発する、先ほどまでは確かに誰かが使用していた機械。それのカード挿入口から一枚のカードが吐きだされる。
「プレイヤーを感知できません。カードを入れ直し、もう一度ヘッドセットをかぶりなおしてください。」
機械的な冷たい声音が言うが、その相手はこの空間にはいない。
虚しく響いた警告音。一分ほど泣き続けた機械は、やがて諦めたように静かになった。
*
十一月初旬。東京都内にある中学校に在籍していた女子学生が、遊びに出かけたのを最後に行方を絶った。
世間はその少女の容姿とそれまでの短い十五年の人生を面白おかしく報道し、騒ぎ立てた。珍しい容姿を生まれ持った少女は、世間に広められた人生で思い知った通り、それだけで話題性に乾いた社会でのヒロインとなりえたのだったが、ついに彼女がそれを知る機会は来なかった。いじめに敏感な現代、それを彼女が勇気を持って公にしていれば、あるいはこの結果は変わったのかもしれない。
少女は消えることもなく、彼女を愛した者たちは嘆き、悲しむこともなかった。
悲しみ、涙する“家族”の中でふたり、彼女の生存を信じ続ける者たちが居た。幼馴染である妙見寺刀馬と一色アヤメである。ふたりは世間と同じように消えた彼女をネタにする学校を見限り、愛する白い少女を探し求めた。来る日も、来る日も。平日も休日も。それぞれの家族に止められても、外出を禁じられても、禁を破って探し続けた。
そして努力は実を結び、台風が来るために荒れた天気の中、ふたりはついに、彼女が通っていたゲームセンターに辿り着いた。
ふたりは古びて風にギシギシと大きく、なにかを訴えてくるかのように耳障りな音を立てる扉を開けて、中へと入って行った。
三十分、一時間、二時間三時間、四時間五時間、ついには一日二日、一週間と時間は経ったが、ふたりは出てこなかった…。
*
「城に帰ったのです。」と、男は言った。
長い、腰まで届く黒髪を流している、ハ虫類のように笑う男だった。何もない、暗闇が支配する空間で、男は楽しそうに、地獄の底から湧きあがって来る憎しみと憎悪を込めて、笑った。
男の後ろに静かに控えるは、種族を表す褐色の肌に細長いとがった耳と光に透かせば銀にも見える、月光のような金髪を持った、艶やかな女性だった。
女はなんの色を浮かべることなく、男を見据えていた。
伏線?
何それおいしいの??