序章 奏でられた前奏曲
それは、ある満月の夜に、突然起きた出来事だった――。
城の三階に備え付けられているバルコニーから、エレジーはいつものように夜空に浮かぶ月を眺めていた。
漆黒の空に浮かぶのは、星と大きな月だけ。月は満ち、城の全体を月明かりが照らしている。空気は澄み、涼しい風が、バルコニーへと流れていく。今日は、とても過ごしやすい夜になるだろうと思うほど、とても美しい夜だった。
エレジーは、その城に住む姫らしく、白いドレスに身を包んでいる。磁器のように白い肌と、金色のブロンドの長い髪から、上品で女性らしいオーラが醸し出される。
この風景はエレジーが最も愛しているものだった。夜の闇に、星、月、風――。全てにおいて偶然に出来上がったものとはいえ、自然と落ち着く。今まで見たものの中で最も美しく見える。何と言っても、この微妙な光の加減がいいものだ。明るすぎず、かといって暗すぎもせず――。
「エレジー」
バルコニーの下、庭から、男性の声が聞こえる。聞き覚えのあるその声に、エレジーは、バルコニーから身を乗り出す。
「ジェミス!」
庭に立っているのは、エレジーの幼馴染に当たる、ジェミスだった。
茶褐色の髪に、琥珀色の瞳を持つジェミスは、黒い軍服に身を包んでいる。
「どうして此処に――?」
エレジーの問いに、ジェミスは照れ笑いをしながら答える。
「遊びに来た。エレジーも、こんなに綺麗な月なのに、一人で見るなんて寂しいなと思ったから、さ」
こんな時間に、来るなんて思ってもいなかった。
仮にも、貴族の一人息子が、こんな時間に両親の許可も無く勝手に出てきてしまって良いものなのだろうか。
「エレジーの家だったら、母さんたちも許してくれると思って」
ジェミスは、エレジーに笑いかけた。
その笑顔を見て、エレジーも表情を綻ばせる。
「もう……っ。ちょっと待ってて。私の家に入りなさい」
「仰せのままに、お姫様」
ジェミスは、冗談交じりでエレジーに言った。
エレジーは、その言葉に少し頬を膨らませるが、ドレスを翻し、ジェミスの待つ庭へと足を運んでいった。
木々が鬱蒼と立ち並ぶ森のような庭は、バルコニーから眺めているよりもまして暗かった。その暗さに、エレジーも怯えを感じる。
庭に下りたというのに、ジェミスの姿は見えなかった。
「ジェミス……?」
ふと、視線の先に人影が映った。エレジーは、静かに声をかけてみた。しかし、その影は動きもせず、エレジーの言葉にすら反応しなかった。
「ジェミスってば! 勝手に来ておいてそれは――」
エレジーの言葉を待たずして、影はエレジーの腕を掴んでいた。
「何をするの? ちょっと、離して」
影はその言葉すらも無視する。
「……ジェミス……?」
エレジーに一抹の不安がよぎり始める。腕を掴む強靭な力。それは、どう考えてもジェミスのものとは思えない。もしかして、この人はジェミスじゃない――?
気付いたときには、もう遅かった。影は無理矢理にエレジーを引きずろうとする。
「やめてっ!」
エレジーもそれに反抗するが、力が強すぎてそれは叶わない。
「エレジー!」
声が耳に届くと同時に、影に襲い掛かる小さな男の姿がエレジーの目に映った。
ジェミスだ――。
「大丈夫かい、エレジー」
「ジェミス……」
影は、ジェミスの攻撃を受けて、倒れている。だが、それはすぐにでも動き出しそうで――。
「エレジー、すぐに城に戻るんだ。ここは、僕が――」
「駄目! 一人で戦うなんて危険すぎるわ」
ジェミスが戦おうとしていることは、声色と構えた剣から一目瞭然だった。
エレジーは、戦いを好む人間ではない。勿論、こんな状況になったら止めに入ってしまうのだ。
「良いから戻って。一国のお姫様に何かあったら、国は混乱する」
「でも――」
「早く!」
ジェミスに怒鳴られ、エレジーはその指示に従うことにした。
戦いの場から逃げさる。それは、城の者にこの事件を伝えるためだった。そして、ジェミスを危険から逃れさせるために――。
ジェミスの行動により、一国の姫君の命が救われたことは、言うまでもない。だが――。
ジェミスがその事件で行方不明になったことをエレジーが知るのは、その翌日のことであった――。