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6.冬の空

     1.


「おばーちゃん、見てみて。」

「はいはい。」

「おばーちゃんてば、早く早く。」

「はいはい。」

「どう?おいしそうでしょ。」

「ふふふ。上手だねー晃。」

「じょうずじゃなくて、おいしそうかって聞いてるのー。」

「はいはい。そうだねー、美味しそうなミカンね。」


 小さい頃、絵が描けるとばーちゃんに一番に見せていた。

 冬は寒くて外で遊ばなかったから、

 家の中で絵ばかりを描いていた。


 家の中の物は大抵描いた。

 テレビに電話、ストーブに炬燵。

 炬燵の上のみかん。


 一つだけ、描かなかったものがある。

 ばーちゃんの顔。

 ばーちゃんはどれも上手いと誉めてくれた。

 

 子供ながらに怖かったのだろう。

 ばーちゃんの顔を描くことが。

 ばーちゃんに誉められなかったらどうしようという不安。

 


「うーん・・・人物画のデッサン、来週までに描き直しね。」

「はい。」

「それから歴史の勉強も。忘れずに。」

「はい。」

「期末試験の勉強と重なって大変だと思うけど・・・」

「大丈夫です。」

「そう。じゃあ頑張って。」


 十二月に入った。

 受験科目の見直しに追われていた。


 普通科高校ではなく、美術科に変更した為、

 今までの受験勉強とは違う準備を始めた。

 美術担当の先生に、直接受験の指導を受けている。

 

 受験内容は・・・

 基礎科目プラス美術科目に実技試験。

 作品に関する理解力

 作者の描いた歴史的背景等。

 美術の授業では教わらない事も。


 そして、今最も苦戦しているのが・・・

 実技試験。

 デッサン力。

 課題に対する理解力と見合った技術が試される。

 中でも・・・

 人物画が苦手だった。


 小さい頃から、縁側で絵を描くのが好きだった。

 庭の風景や遊びに来る鳥達を。

 大きな空を。

 風景画が好きだった。

 尊敬している雅画伯も風景画が専門だった。


 人物画を描く機会が無かった。

 描きたい人物がいなかった。

 ただ、それだけのこと。



「晃ー、終わったか?」


 美術室を覗くタケの姿。

 放課後に、校舎の一番奥の美術室までわざわざ足を運ぶ奴は少ない。


「どう?順調?」

「いや、書き直しだって。」

「マジですか!厳しーっ。」


 片づけを済ませ、タケと一緒に美術室を後にした。


「晃、期末試験と重なってて大変じゃね?」

「いや、準備期間ギリギリだし。」

「そっかー、もう来月試験なんだもんな。」


 来月。

 そう、一月の下旬にS美大附属高校の試験が行われる。

 県外でしかも私立高校の受験なので試験時期が早まる。


「オレも二月だからってのんびりしてらんねーな。」

「タケはM校受けるのか?」

「まさか!」

「親父さん達大丈夫だったのか?」

「まーね。三者面談で泣かれて恥ずかしかったけど、K校で納得してもらった。」

「そっか。」


 タケはK校に決めたのか。

 俺の第二志望もK校。

 S美大附属の試験に失敗したら・・・

 二月にはタケと同じK校を受験する。


 本当はM校・・・と言いたいところだが、

 今も、今までも、

 俺の成績では届かないことはわかっている。

 亘兄の受からなかったM校。

 いつまでもこだわっていたのは俺だけだったのだから。


 俺は自分の道を見つけた。

 俺は自分の道を進む。

 けれど、妥協はしたくない。

 今回の期末試験も。

 美術科へ進むとしても、定期試験の順位は妥協したくない。


「まぁ、期末試験もあと一日だしな。明日は晃の得意な数学と美術だし。この後俺んち来るか?」

「いいのか?」

「もち!最近晃が全然来ねーからさ、カヨさんが寂しがっちゃって。」


 平日は必ずいるお手伝いのおばさん。

 二学期に入ってから色々あって、タケの家に遊びに行く日は確かに減っていた。

 さすがに受験生だし。

 土日は親父さん達も気にするだろうし。

 俺も最近は自分の事で手一杯だったし。


 タケの家に最初に行ったのは中学一年の秋だった。

 雅画伯やKEIGOと好きな美術感覚が合う奴と初めて会った。

 それから毎月、定期購読をしている雑誌を見せてもらいに行くようになり、

 中二の冬にはクラスの男子とタケの家でクリスマス会なんてやったっけか。


「晃君久しぶりねー。しばらく見ない間にまた大きくなってー。若いわねー。成長期かしらー?」

「はいはい、カヨさん、また後でゆっくりね。」


 久しぶりにお邪魔するタケの家だったが

 相変わらずお手伝いさんのカヨさんの出迎えはテンションが高かった。

 そして変わらずふくやかな体系だった。


 タケの家にこうして遊びに来ることも

 あと何回・・・とか思ってしまった。

 当たり前のことなのだけど。

 来月の試験に合格したら、俺は地元を離れる。

 田舎から・・・東京の母方の家でお世話になる。


 タケはK校に合格するだろう。

 学年三位の成績ならM校も見えていたかもしれない。

 俺がもし来月の試験に失敗したら・・・

 タケと同じ高校に通うことになるのかもしれない。

 タケのいる高校生活。

 タケの家にこうして遊びに来ることも。

 楽しいだろう。

 でも、俺は・・・


 自分の道を行く

 そう決めたんだ。


「ほい、お待たせー。」


 タケがジュースを運んできた。


「カヨさん久しぶりだからって張り切っちゃって。菓子焼き始めた。」

「悪いな。」

「いーんだよ。嬉しくて焼いてんだから。」


 広い部屋に十分な大きさのテーブル。

 ジュースを置いても、菓子を置いても、まだ余裕がある。


「カヨさんに晃が県外の高校受験する話ししたらすんげー残念がってた。友達、晃しかいないと思い込んでるから、あの人。」


 そうだな。

 中学に入ってからタケも色々あったから・・・

 今は友達も多いけど、塾が忙しくて遊ぶ時間も無いのだろう。


「そういえばさ、晃が東京行く話しって四組ではけっこう知られてんの?」

「ああ、美術の課題で。個人授業みたいなもんだからな。」

「そっかー。」


 タケがジュースを一気に半分飲んだ。

 なんとなく、本題に入りたいという気持ちが伝わってきた。


「椎名にさ、聞かれたんだけど・・・まずかったか?」

「べつに。」

「そっか、そうだよなー・・・。」


 タケにそこまで気をつかわせてしまうのがなんだか悪い気がした。

 そろそろ・・・

 自分でなんとかしないとな。


「絵の勉強を選んだ時点であいつとは離れることになるってわかってさ、」

「おお。」

「だったら今のうちに離れようって思ったんだけど。」

「後々面倒になるの晃嫌いだしな。」

「出来なかった。」

「おー、意外な答え。」

「結局さ、あいつのこと考えちゃうし。気にしないようにしても気になるなら、もう面倒だから気にしとこうと思って。」

「あははー。晃らしい考え方。割り切れてるねー。」


 タケが笑った。

 割り切れてる。そうタケが言ってくれたのに救われた。


「あいつのことは好きだけど、好きだとか言うつもりはねーし。卒業までこのままでいいと思ってる。」

「へー。」

「あいつを泣かせることになるとはわかってるけど、そん時はそん時で、にのにでも怒られればいいかなーって。」

「あははー。そりゃ当たってるかもな。」

「タケは?」

「は?」

「タケは・・・いいのか?」


 前から気になっていたこと。

 前から思っていたこと。

 今なら聞ける気がして。


「はは。そーだなー・・・」


 そう言うとタケは残り半分のジュースを飲み干した。

 さっきまでの笑顔とは別の顔を用意して。


「なんつーか、おれは小学校の時から椎名と一緒だし。異性とか、恋愛感情とか思ったことは無いんだけど、ほっとけないっつーか。」

「だからにのといる椎名を見ている時は安心なんだけど、にのと付き合うとかは違う感じ。」

「おれんとこに辞書借りに来てたのも、半分は忘れてるんだろうけど、半分はおれの様子見に来てたこととかさ。」

「同士ってわけじゃねーけど、お互いの事確かめ合って試し合いながら過ごしてきた感じ。」

「だから、椎名が好きになった奴のことは気になるし、椎名を好きになる奴も気になる。」

「まさか晃が・・・とは思ってなかったからさ、最初はどう反応したらいいのかわからなかっただけで。」

「今は・・・晃で良かったと思うし、晃が椎名のことちゃんと考えてたってことがわかって安心したっつーか。まぁ・・・そんなとこだ。」


“コンコン”

「まーくん、お菓子持ってきましたよ。」

「はいはい。」


 タイミング良く・・・というか、悪く?

 カヨさんの菓子が運ばれてきた。


 焼きたてのマドレーヌ。

 部屋中が一気に甘い香りに包まれる。


「晃はさ、せっかく掴んだ道、諦めんなよ。」

「え?」

「椎名のことは気にしなくていいから。卒業した後のこととか。」

「ああ。」

「それくらいはおれが面倒見るからさ。」


 マドレーヌを口に運びながら

 俺達は明日の試験、数学の教科書を開いた。


 タケの想い・・・

 聞けなかったこれまでと

 聞いてしまったこれからとで

 何か変わるかといったら

 何も変わらないかもしれない


 それでも・・・

 聞いてよかった。

 聞けてよかった。

 また、納得して次へ進めるから。

 ただ、それだけのこと。




     2.



 期末試験が終わった。

 二学期の試験はこれで終わり。

 終業式までの二週間、あとは普通の授業に戻るだけ。

 いつもの時間割がまた始まる。


 教室移動で

 渡り廊下で

 あいつとすれ違う

 毎週繰り返される時間割の中の一コマ。


「クリスマス会しよーよ。ねーねー。」

「めんどくさい。」

「おれら一応受験生だし?」

「えーっ、またそれー?」


 昼休み。

 珍しくうちのクラスに人が集まってきていた。

 北山、市井、健太、他男子数名。


 どうやら隣の五組は五時間目が移動教室らしく

 空っぽのようだ。

 当然、二宮に関君といった常連がいない中で北山が粘っている。


「クリスマス会ー。絶対椎名ちゃん誘いたいし。」

「いや、無理だから。」

「椎名さんは無理っしょ。」


 相変わらず北山は椎名萌がお気に入りか。

 懲りない奴。

 どう見ても、あいつは北山の事苦手だぞ。


「だって最後だよ?中学最後のクリスマス。椎名ちゃんとは絶対同じ高校行けないし。」

「それは当たってるな、キタ。」

「椎名さんてどこ志望?」

「T校とか言ってたな。」

「げっ、マジで?!」

「あの子頭良かったんだ。」


 俺も同感。

 T校、県内ではM校K校に次いで三番目の進学校だ。

 でもあいつの成績なら十分合格圏内か。


「晃君知ってた?」


 突然話を振られた。

 おいおい。

 俺は別に何も言ってないんですけど。


「いや。」

「へー意外。」

「椎名さんのことで、晃君が知らなかっただなんてな。」


 おいおい。

 なんだその反応は。

 俺が知らないで何が悪い?


「あ、良い事思いついた!キタ、晃君に頼めば椎名さん来てくれるんじゃね?」

「そっか、晃君が誘えば確かに。」

「キタが誘うより確実だな。」

「それじゃ意味ないじゃーん。つーか、あきちゃんズルくない?」


 おいおい。

 なぜそんな話になる・・・

 いつ俺がズルをしたんだよ。


「あきちゃんだって椎名ちゃんのこと好きなくせして一人だけ余裕な感じ?」


 おいおい、北山。

 それどっかで聞いた台詞だぞ。

 俺、また怒りを買うのか??


「キタ、それを言ったらおしまいだろー。」

「あははー、確かに。晃君と椎名さんて噂になってるし。」


 おいおい。

 どんな噂だよ。

 つーか、笑って流せるような話しなのか?


「おれは絶対認めーん!決めた!椎名ちゃんに告る!!」

「無理、無理ー。」

「クリスマスの悲劇!」

「あははー。」


 まぁ・・・

 北山が椎名萌を好きなのは夏前からけっこう有名な話しだしな。

 本人も皆も知っててオープンだったし。

 周りもその事で椎名萌をからかうよりも、

 北山の方に注目が集まっていたから良かったのだけど。


「よし!あきちゃん、勝負だ!!一緒に椎名ちゃんに告ろう!!」


 おいおい。

 あり得ねーっつーの。


「何で晃君と一緒な訳?」

「キタ一人で告ればいーじゃん。」

「やだ!おれだけ振られるの嫌だし。あきちゃんが何もしないで勝つのもむかつくし!」

「理由になってねーし。」

「あははー。キタまじウケる。」

「さぁ、あきちゃん、この勝負、勿論受けてくれるよね?」


 おいおい。

 だからあり得ねーし。

 だいたい俺にはあいつに告る気はねーし・・・


「あー、いたいた。ねー、今日化学Ⅰ使った人いない?」

「椎名ちゃん!」

「おっ、噂をすれば本人登場!」

「化学Ⅱに入ったからもうⅠは使わないかと思ってたのに。Ⅰ持ってない?」


 おいおい。

 なんでこんな時に教室に入って来るんだよ、ばか女。

 時計を見ると予鈴が鳴りそうだった。

 化学実験室から走ってきたのか。


「ほら、キタ、言っちゃえよー。」

「今がチャーンス!」

「ねぇ、Ⅰだよ?ⅡじゃなくてⅠ、持ってる?」


 慌てているばか女にこの状況は読めねーか。

 会話がかみ合っていないことにも気づいてねーし。


「椎名ちゃん!化学よりも・・・おれ、ずっと前から・・・」


 ばーか。


「えっ?あきちゃん?」


 椎名萌の腕を引っ張って

 教室から出た。

 こいつがどんな顔をしてても今は俺のせいじゃねーからな。


「あきちゃん、どこ行くの?ねぇ、私、化学Ⅰ借りないと・・・」

「泉君呼んで。」


「桐谷君ー、お客さーん。」


「はーい、あら珍しい。」

「化学のⅠ貸して。」

「Ⅰね。待ってねー。」


「あきちゃん、一組に知り合いいたの?」


 隣できょとんとしている椎名萌。

 四組から一気に一組に連れてこられたのだから無理も無いか。


「ほい、化学Ⅰ。Ⅱじゃなくていいの?」

「ああ。有り難う。そんで、こいつに貸すけどいい?」


 借りた教科書を椎名萌の頭に乗せてやった。


「おっけー。」

「ほら、予鈴鳴るぞ。」

「わっ、ほんと!急がなきゃ!」

「あ、ありがとう・・・ございますっ!」


“キーンコーンカーンコーン”

 チャイムと共に、走り去った嵐・・・のような女。

 騒がしい問題に巻き込みやがって。


 ・・・と、もう一つ。

 新たな嵐が吹き荒れる予感・・・の男が一人。

 ああ、面倒くさい。


「あっきらくん、今の子だぁれ?」


 思いっきり笑顔の泉くん。

 視線が痛いし、面倒くさい。


「珍しいねー、晃君が借り物なんて。しかもそれを女の子に股貸し。」

「ねっ、何さん?何ちゃん?」

「ちっちゃくて、かわいかったねー。」


 まるで子供のような無邪気な目で見つめてくる泉くん。

 おいおい。

 新しいおもちゃを見つけて喜んでるガキと一緒じゃねーかよ。


「後で返しに来るから。」

「あの子と一緒に来てねー。」


 背中に聞いた声。

 聞こえなかったことにしよう。

 聞かなかったことにしよう。


 さて、一組まで来て。

 四組まで戻るか。

 北山は自分のクラスに戻っただろうか。

 あの後どうなったか・・・

 面倒くさいな。


 なんでこんな面倒くさいこと

 自分で引き起こしてしまったのか

 自分が引き受けてしまったのか


 あの時の・・・

 あいつを見ていたら

 いてもたってもいられなくなって。


 気づいたら・・・

 頭で考えるよりも先に

 体が動いていた。


 あいつをあの場から離したかった

 あいつを北山から離したかった

 ただ、それだけのこと。



 五時間目が終わった。

 HRまでの時間に・・・


 あいつは来るだろうか。

 と思って、廊下で待っていてやった。


 予想通り。

 走ってきた。

 一人で。


「あきちゃん、さっきは・・・」

「走るとコケるぞ。」

「わぁっー」


 ほんとにこけた。

 馬鹿だ。

 絶対ばかだ。


「ほら。」


 笑いをこらえきれずに噴出しながら

 手を貸してやった。


「ありがとう。」


 廊下に座り込んだのを

 立ち上がらせるのにそんなに力は要らなかった。


「あ、教科書。」

「ん。返しとく。」

「えっ、でもお礼・・・」

「いーよ。」


 急いで走ってきたのはやっぱり

 一緒に返しに行こうとしてたか。


「HR始まるし。髪、解けてる。」

「えっ?うそ?」

「ほんと。」


 走ってきたのとさっきコケたので

 一つに結んでいた髪が解けかかっていた。

 荷物を片手に持ったまま、もう片方の手を後ろに回したが届かなかったらしい。


「と、届かない。どうなってるの?」

「とれそう。」

「えー、じゃあとっちゃって。」


 言われるまま。

 結んであったゴムを解いてやった。

 久しぶりに見る。

 おろした髪。


 その髪に・・・

 触りたくて・・・

 つい手が伸びる・・・


「一組って今日化学あったんだね。知らなかった。」

「いや。俺も知らない。」

「えっ?!だって・・・」

「彼は一年の教科書も貸せると思う。」

「ええっ!?ずっと持ち帰ってないの?」


 泉くんの話に驚いていて・・・

 俺がこいつの髪を触っていることは

 別にどうでもいい・・・のか?


「おまえみたいな借り物の多い奴には教えたくなかったけどな。」

「あ、ひっどーい。私のこと、忘れ物の多い子だって思ってる?」

「よくタケんとこ借りに来てたし。」

「えー、やっぱりそのイメージ?」

「違うのか?」

「ちがっ・・・う時もあるもの。忘れる時もあるけど。」

「ふーん。」


「あきちゃんそれ、HR終わったら返しに行くの?やっぱり私も・・・」

「いーって。」


 タイミングよく、廊下に担任の姿が見えたので

 教科書を持って教室へ入った。


 どちらかというと・・・

 泉くんに会わせたくなかったんじゃなくて。

 三組の前を通させたくなかったんだ。

 あいつを。


 教室塔のある校舎は、真ん中に大階段があって。

 その階段を挟んで、

 一組から三組の教室

 四組から六組の教室

 と分かれている。


 普段、大階段を共有することはあっても、

 一番奥の一組までわざわざ行くことは無い。


 しかも、一組まで行くには・・・

 三組の前を通るわけで。

 さっきは夢中であいつの腕を引っ張って行ったけど

 今思い返してみれば、三組の前を通った時、

 祐也に見られたかと。


 祐也とはあれ以来・・・

 その三組寄りの大階段下の人目のつかない場所で

 祐也が椎名萌に告白したであろう場面に遭遇して以来。


 あいつも思い出すのだろうか。

 あの階段下を見ると。

 三組の前を通ると。

 祐也のことを・・・


 あれから何も言ってこないな。

 祐也も。

 あいつも。



 放課後になって一人で、一組へ。

 泉くんのところへ行った。


「晃君、久々に一緒帰ろうぜー。」


 万遍の笑みとはこういう時に使うのだろう。


「えー、泉君今日カラオケ行く約束はー?」

「悪い、ナナちゃん、また今度ねー。」

「もー、しょうがないなー。」


「じゃあ、皆また明日ー。ばいばーい。」

「バイバイ。」

「桐谷君、バイバイー。」

「泉君また明日ー。」


 教室で、廊下で。

 次々に挨拶を受ける泉くん。

 相変わらず・・・

 というか、以前より女子からモテてないか?


 一組でも人気者なのだろう。

 泉くんのいるクラス。

 見なくてもわかる。

 泉くんの人柄なら当然。


「晃君向こう側になってから全然会わなかったし。」


 向こう側とは、一~三組と四~六組とを

 分けて呼ぶ以前からある呼び方。


「元気してた?」

「まぁ。」

「好きな子できたんだねー。」


 おいおい。

 いきなりですか。


「第二小の子?」

「ああ。」

「オレにも知らない女の子がまだいたんだなー。」


 おいおい。

 そういう風に捉えるのか?


「で?付き合ってるの?ね?どうなの?」


 歩きながら肩を寄せてくる泉くん。

 男同士気持ち悪いんですけど。

 あれ。

 中一で、並んだ時、泉くんの方が大きかったのに。

 俺の背が伸びたのか。


「付き合ってない。」

「えー、なんでー??好きなんでしょー??」


 相変わらず。

 俺の一言に対して、倍・・・いや、倍以上に返してくる。


「俺、来月私立校の受験するんだ。受かったら・・・東京。」

「へー。」

「だから付き合うとかは無い。」

「えー、なんで付き合わないのー??そんなの変だよー。」


 おいおい。

 俺の県外受験のことには触れないのかよ。

 驚かねーのかよ。


「どうせ卒業したら離れるだろ。」

「晃君、その考え方、そんなのおかしいー。」

「そうか?」

「卒業まで付き合えばいいじゃん!思い出作ればいいじゃん!」


 いやいや・・・

 なんというポジティブ感。


「俺の話はいいよ。泉くんは?」

「もち!割り切って先に進むことが大切!」


 いやいや・・・

 恋愛感を聞いたんじゃなくて・・・

 進路とか・・・をだな。


「一人の女の子を大切にするのもいいけど、沢山の女の子に喜んでもらえることも大事な訳。うん、うん。」

「へー・・・。」

「なんつーか、今はまだ義務教育だし?守られた環境の中で出来ることをする?」


 おいおい。

 話の展開についていけねー。

 義務教育?なんの話をしてるんだか。


「人からどう思われようとかさ、良く思われようとか、そういうのって考えちゃう訳。」

「でもさ、結局は自分の好きな子一人から良く思われていればいいって訳。」

「でもでも、いつか来るその日の為に、皆から好かれる人であればさ、その時は好いてもらえるんじゃないかって。OK?」


 いやいや、

 全然わからん。

 そう、顔に書いてあっただろう。


「じゃあ次ね。ここは田舎だから、卒業したら出て行くよ。地元の高校行っても、その先の大学は県外を目指すっしょ。」

「そしたらさ、三年後には皆バラバラな訳。だから晃君は三年早いだけ。たった三年だよ。」

「だからそんな難しく考えねーでさ、今できること、今やりたいことをやればいいんだよ。ここで出来ること。ここでやりたいこと。OK?」


 なんとなく。

 おっけー・・・か?


 偉い真面目な話をしたかと思えば

 急にぶっ飛んだ話をはじめる。

 ふざけているように見えて

 話す内容のところどころに妙な説得力がある。


 泉くんとは不思議と幼稚園から小学校六年間、中学一年までずっと同じクラスだった。

 それだけ一緒にいるから、うちの事情も少し知っている。

 それが楽で泉くんといた。

 クラスのムードメーカー的存在で、頼りになる泉くんに目をかけてもらっていた数年間、平和な学校生活を送っていた俺。

 泉くんのおかげで。


 二年三年と泉くんとは別々のクラスになり・・・

 俺も別々の道を歩むことになった

 今度は泉くんに守られた学校生活ではなく

 自分で過ごしてきたつもりだ。


 今は・・・

 あいつがいる学校が当たり前で

 あいつといる学校生活が当たり前になった


 この生活も卒業したら終わる。

 あと三ヶ月・・・

 そしたらまた新しい生活が始まる。

 あいつのいない生活が。

 ただ、それだけのこと。




     3.


 週明けの朝。

 なんとなく嫌な予感はしていたが。

 こういう時の予感は的中することがほとんど。


 キタに呼び出された。

 先週の事か・・・

 面倒くさい。


「この際だからはっきり言うけど、あきちゃんは椎名ちゃんのことどう思ってるの?」


 おいおい。

 いきなりですか。

 しかも、この際って、どの際だよ。


「いやさ、あきちゃんの意見を聞かなくてもオレはオレのやり方で告ろうと思うけどさ。」


 おいおい。

 だったら俺に聞く必要ないんじゃ・・・


「一応・・・あきちゃんの意見も聞いてやろうかと思って。」


 おいおい。

 朝から呼び出しなんかして

 何言ってるのかと思えば・・・


 キタなりに考えてきたことなのだろう。

 言葉の節々に無理をしている感じが伝わってきた。

 素直じゃないというか・・・

 認めたくないという気持ちか・・・


 キタの表情は硬かった。

 怒っているかのようにも見えるが、緊張しているようにも捉えられた。

 複雑なのだろう。


 以前の俺だったら、椎名萌を好きだという奴を見ていると苛々した。

 好きな子に対して困らせるような幼稚な態度で接しているキタを見ていて。

 中二の頃俺も同じように幼稚な行動をしていたことも思い出して。

 でも・・・

 今は・・・


「悪いなキタ、俺、椎名のこと好きだから。」

「おっと!ここって、「べつに」って言うとこじゃねーの??」


 キタの表情がガラっと変わった。


「あきちゃんが・・・あきちゃんの口からそんな台詞が出るなんて・・・」


 信じられないか?

 だろうな。

 俺も信じられん。

 そう思ったら、ちょっと笑ってしまった。


「しかも、笑ってるし。なんだよー。」

「あ、悪い。」


 以前の俺だったら、

 人とのかかわりが面倒くさいから、適当に答えていただろう。

 なるべく物事を大きくしないように

 なるべく穏便に済ませられるように

 適度な距離感と

 安全で的確な答えで。

 

「オレも薄々気づいてはいたけど認めたくなかったんだよね。二人とも両想いなくせに付き合わないし。」

「だったら・・・オレにもチャンスあるんじゃねーかって。あきちゃんがのんびりしている間に椎名ちゃん獲っちまえるんじゃねーかって。」

「でもなんか、ハッキリ言われたら・・・逆にスッキリっつーか。しかも笑ってるし。あきちゃんも椎名ちゃんのことでは笑うのな。」


 昔から。

 無表情とか、無反応とか言われてたっけ。

 男子からしたら、そこがムカつくとか生意気だとか言われたこともあったっけ。

 でも・・・

 泉くんや二宮といると俺が何もしなくても、俺は何も言わなくても

 いつもそこには人が集まってきていた。

 そしてその中にあいつを見つけた。

 無駄に元気で無駄に笑う騒がしい女。

 やがて気づく。

 あいつを見ていると俺も少しだけ無駄に元気になること

 あいつを見ていると俺も少しだけ無駄に笑っていること

 

「あきちゃんに一つ、聞いてもいい?」  

「何だ?」


 キタの表情は解れていた。

 いつも通りの雰囲気と感じをすっかり取り戻していた。


「なんで椎名ちゃんと付き合わないの?」

「オレだったら、椎名ちゃんと手つないで休日デートしたいとか、色んなこと想像するぞ。」


 キタの表情は既に好奇心旺盛で

 ただ単に質問したいだけに変わっていた


「俺はあいつのこと泣かせたくないから。」

「は?」

「あいつが何で泣いてるかとかわかんねーし。」

「え?椎名ちゃんの泣いたの?いつ?いつ?」


 おいおい。

 椎名萌のことが好きだとかいっておいてそれはないだろう。

 あいつけっこう泣いてるぞ。


「だから今はなかせないように、なるべく笑っていてもらえようにするだけでいっぱいいっぱいっつーか。」

「オレの知ってる椎名ちゃんはいつも笑顔だけどなー。その笑顔がかわいいし。からかうと反応面白いし。」


 だからそれはキタが幼稚な態度で接するから・・・

 いや、それはおいといて。

 キタは何を見ているんだ?

 キタにはあいつが毎日笑顔に見えるのか?


「椎名ちゃんのどこが好きなのかって聞かれたら、オレだったら間違いなく笑顔!って答えるね。」

「あとはねー、タケとか周りの男子がゲームの話ししてても隣でニコニコ聞いててくれるとことか?ほらさー、よくいるじゃん、ゲームの話を嫌う女子とかってー・・・」


 キタの話しはまだまだ続くようだった。

 今度は適当に話を聞きながら・・・


 キタはあいつの笑顔が好きだという。

 確かに無駄に笑顔で騒いでいるが・・・

 あれは作りモノだろ。

 笑ってるふりして、

 元気なふりして、

 皆をうまく騙しているつもりなのだろう。

 うまく騙せているつもりなのだろう。


 でも俺は・・・

 騙されない。

 気づいてしまったから。

 あいつの作り笑いに。


 だから思うんだ。

 あいつのことを見てやりたいって。

 あいつのことを見ててやりたいって。


 そして・・・

 できるなら、他の奴らにもあいつを見てやってくれと思うんだ。

 あいつのことを好きだという奴は・・・

 あいつの笑顔の裏のサインに気付いてやってほしい。

 あいつの悩みにも気付いてやってほしい。

 あいつを見守ってやってほしい。


「じゃあ、あきちゃん、そういうことで椎名ちゃんのことは諦めるから、アレ、来週には持ってきてねー。よろしく!」


 え?

 おいおい。

 なんだっけか?


 時計を見ると朝のHRが始まろうとしていた。

 キタと急ぎ足で校舎の方へと戻った。


 ふと、前を歩く人山の中に、

 祐也の姿を見つけた。


 数人の男子の中から、特定できてしまうというのも男同士でなんだか気持ち悪いが。

 そのまま後ろを歩き、キタとも祐也とも、大階段の曲がり角で別々の方向へと別れた。


 笠原祐也。

 あれ以来特にかかわり無し。

 祐也はあいつに告って・・・どうだったのだろうか。

 あいつを好きだという奴には・・・

 あいつのことを見守ってやってくれって・・・

 それが祐也であっても。

 

 そう思っていた矢先の事だった。



 放課後、受験の課題で残っていた。

 美術室から教室へ戻った頃にはすっかり下校時間を過ぎていた。

 日直も、最後の戸締りを確認する生活委員も、当番を終え、帰った後だった。


 誰もいない廊下に響く足音。

 嫌いじゃなかった。

 誰もいない教室に響く時計の針音。

 嫌いじゃなかった。

 誰もいない校舎に響く部活動の掛け声。

 どれも嫌いじゃなった。

 一人でいたい時、

 部活をさぼった時、

 図書室で過ごしていた時、

 これらの要素はどれもが俺を落ち着かせた。


 が、一変して崩れた。

 教室の扉が少し開いた。


 足音なんて聞こえなかったのに。


 なんだ、誰かまだいたのか?

 おそらく数センチだろう。

 開けられた扉から聞こえてきた声と共に・・・


「あきちゃん?」


 入ってきたのはあいつだった。

 人が通れるだけの扉を開けて。

 

「あきちゃんだ。まだ居たの?」


 胸に突き刺さる感情。

 その声を聞いた瞬間。

 胸の辺りがちぎれそうに痛かった。


 泣いた跡

 泣いた顔

 じゃなくて

 泣いている顔

 今、泣いている


「どうした?」


 声をかけた途端

 その目から涙が落ちた


 その涙。

 その泣き顔。

 流れる涙に流されるようにして・・・

 俺の手が伸ばされた。


 無意識だった。

 無意識にあいつに触れていた。

 あいつを腕で引き寄せて。

 抱きしめていた。


「どうした?」

「なんでもない・・・」

「なに泣いてる?」

「泣いてないよ。」

「泣いてるだろ。」


 いつもとは違う声で

 いつもとは違ったところから聞こえてくる

 俺のすぐ横にある顔。

 

「泣いてないよ。」


 そう言うと、椎名萌の方から離れていった。

 今はもう、別のところから声が聞こえる。


 今度はあいつの声がすぐ横に聞こえないことで自分のしていた行動に気づいた。

 驚かせたか・・・。


「どうした?」

「ごめんね、なんでもないよ。」


 涙は止まったようだ。

 やはり驚かせたか。

 空いていた椅子に腰をかけた。


「どうした?」

「なんでもない・・・」


 座ったまま俯いている。

 隣の椅子に座り、横から顔を覗き込むことにした。


「なんで泣いてる?」

「泣いてない。」

「泣いただろ。」

「泣いてないよ。」

「おまえな――」

「あ、あのねっ、席替え、席替えしたの。」


 急に話を変えた。

 急に顔を上げた。


「それでねっ、隣はけいちゃんなんだよー。すごいでしょー。斜め前にはにのもいてねー。授業始まる度にけいちゃんがにので黒板が見えないーってね、」

「それでね―――」


 急に溢れ出したおしゃべり

 急に溢れ出した笑顔


 なんなんだこいつは

 とも思ったが。

 今は見ていることにした。

 今は。


 目が合った。

 逸らさなかった。

 逸らされなかった。

 もう大丈夫なのか。


 隣の席に座った状態で

 楽しそうに喋っていた。

 うるさいくらいに。

 もう大丈夫なんだな。


「ほんと忙しい奴だな。」


 そう言って、隣で笑う笑顔に触れた。


「泣いたり、笑ったり。」


 さっきまで流れていた涙。

 頬はまだ湿っていた。

 俺の手が冷たかったのか

 椎名萌の頬が熱を持っていたのか

 わからなかったが・・・


 このままこうしていたかった。

 このまま触れていたかった。

 このまま・・・


「あ、あきちゃん・・・あのね・・・私―――」

“キーンコーンカーンコーン”


 突然鳴り響いたチャイムの音で最後まで聞き取れなかった。

 静かな教室に響き渡るチャイムは最終下校を知らせる合図だった。

 

「か、帰らなきゃね。」


 これ以上残っていては問題の対象になるだろう。

 受験生の立場上、良くないことぐらい誰だってわかる。


 校門まで駆け足に歩いた。

 ここから先は別々の方向になる。

 当たり前の事。

 帰宅経路が真逆なのだから。

 

「あきちゃん、あの・・もう少し話せないかな?」


 まただ。

 胸に突き刺さるような感情。

 さっき最初こいつを見た時から感じていた。

 なんだこれ?


 今度は俯いたままの椎名萌。

 だから表情はわからなかった。


 でも確かなことがあった。

 おまえがそんな顔をしていると

 おまえがそんな震えた声でいると

 俺は無意識に触れたくなっていることに。


 よくわからない感情が多すぎて

 今は自分をコントロールできないことに。

 だから・・・

 

「今日はもう遅いから帰れ。明日の朝早く来ればいいだろ?」

「う、うん。」

「じゃあな。」


 そう言うので精一杯だった。

 あいつが帰ったか、振り返って見てやることもしなかった。

 あいつのことを見ててやりたいって思っていたのに・・・。

 出来なかった。


 言いかけて消された言葉。

 言おうとして言わせてもらえなかった言葉。

 何を言おうとしていたのか・・・

 何を言うつもりだったのか・・・


 俺は何を言おうとしていたのか

 俺は何を言うつもりだったのか

 あいつに・・・

 言わないつもりだったのに

 言うことはないと思っていたのに


 言ってしまいそうだった。

 あいつがあんな風に泣くから

 言ってしまいそうだった。

 あいつがあんな風に笑うから


 おまえのことが好きだって。


 泣かせたくないのに

 見ていてやりたいのに

 俺は・・・

 

 今日、なんであいつが泣いていたのかはわからなかった。

 けれど、

 俺のところへ来て泣いて

 俺のそばで笑いに変わったのなら

 それでいいかとも思う。


 ああ。

 そうか。

 わからなかった感情。

 痛かった胸。

 今ならわかる気がする。


 あいつが何で泣いていたのかはわからなかったけど。

 泣いているあいつを見て・・・

 触れたかったんだ。

 見てるだけじゃなくて。

 抱きしめたかったんだ。

 見てるだけじゃなくて。

 

 そして・・・

 伝えたかったんだ。

 ただ、それだけのこと。




 翌朝。

 朝食を食べているとばあちゃんに話しかけられた。


「今日は早いんねー。」

「美術の先生に受験課題見てもらってるから。」

「そうかい。」


 ばあちゃんは豪く笑顔だった。

 本当はあいつと約束したから早く行くんだけど。


「晃は昔から絵が上手かってん。合格間違いないとよ。」

「ばーちゃん変なプレッシャーかけないでよ。」

「そんなことないばい。」


 ばあちゃんが食卓にカレンダーを持ってきた。


「学校は二十五日までじゃろ。」

「うん。」

「じゃあ二十六日から東京さ、行ってみるかい?」

「うん。」

「ならあちらさんに連絡入れとこーな。」


 これまた嬉しそうにカレンダーに印を書いていた。

 日付のところに丸印。

 それだけのことなのに、ばあちゃんがはしゃいで見えるのは気のせいだろうか。


 居間の壁に掛けられたカレンダー。

 そういえば、印をつける事なんて滅多に無かった。


 父さんは不規則に勝手に帰宅していたし。

 勝兄の帰省の時もカレンダーに印は無かった。

 俺の修学旅行の時以来か?

 まぁ、来年のカレンダーにはびっしり印が付けられるのだろうが。

 俺の試験日に亘兄のセンター試験日。

 来年の一月は受験カレンダーと化すだろうに。


 ふと、カレンダーに目を戻す。

 二学期の終業式まであと一週間か。

 あいつと過ごす学校生活もあと一週間。

 俺は大丈夫だろうか。

 一週間。

 言わないでいられるだろうか。

 あいつに・・・



 学校に着いた。

 部活動の朝練並に早い時間。

 十二月の冷え込む校庭にも数人の後輩達がランニングに励んでいる。


 当然、校舎の中は人気が無い。

 俺はまた、一人で歩く廊下の響きを味わっていた。


 そして開ける教室の扉。

 なんだかいつもよりも重たく感じた。


 昨日、ここで泣いていたあいつ。

 昨日、ここで笑っていたあいつ。

 昨日、何かを言いかけたあいつ。


 今日、ここにどんな顔で来るのだろうか。

 今日、ここで何を言うのだろうか。

 そして俺は・・・

 何を言ってあげれるのだろうか。


 俺には伝えたい気持ちがある。

 でも今は言えない。

 言わない方があいつの為なんだ。

 

 人気の無い朝の教室は冷え込む。

 脱いだコートをまた羽織った。

 小説を捲る手が悴んで。

 手袋もはめたいくらいだった。


 しばらくして

 一つ足音が聞こえた。

 短い間隔。

 小刻みに。

 女の小走り。

 そして・・・

 元気に扉が開かれた。


「あきちゃん、おはよう。」


 おいおい。

 なんだよそれ。

 いつも通りの笑顔

 いつも通りの喋り声


「ほんとに早く来てくれたのだね。」


 昨日まで泣いていた奴とは思えないほどの回復力。

 ほんとに笑ってんのか?

 また作り笑いなんじゃ・・・


「ここ座っていい?」


 前の席に腰掛ける。

 目が合う。

 やっぱりな。


「寝れなかったのか?」

「あ・・・えっと・・う~んと・・・」


 作り笑いではないようだが、

 万全な回復を見せたわけではないのがわかった。

 目の下にクマ。

 答えづらそうな顔をしていたので話を変えてやることにした。


「話って?」

「あ、うん。」


 表情が変わった。

 あ、いいの?みたいな。

 やっぱおもしれー奴。

 みるみる表情が変わっていく。


「あ、あのね、あの・・・」

「私があきちゃんを好きでいるの、迷惑?」


 は?

 おいおい。

 何を言うのかと思えば・・・


「べつに。」

「迷惑じゃないの?」

「ああ。」


 おいおい。

 それはそうだろう。

 今更・・・

 迷惑って言葉、使い間違えてんぞ。


「ほ、ほんと?」

「ああ。」 

「本当?」

「本当。」


 そして表情が変わる。

 ああ。

 ほら、笑顔になる。


「おまえ、この会話になるとしつこいからな。先に言うぞ、本当だ。」

「良かった~。」


 その表情。

 その笑顔。

 俺が見たかった顔。

 俺が見たかったのはこいつ。

 そして・・・

 そんな顔で笑っていると触れたくなってくる。

 その頭に、髪に、頬に。

 触れたくて・・・

 捕まえたくて・・・


「あとね、あきちゃん昨日あんな遅くまで残っていたのって・・・」


 さっきまで晴れていた空に

 雲がかかる・・・

 そんな表情。

 雲の色は不安色・・・ってとこか。


 こいつなりに・・・

 色々考えたんだろうな。

 昨日おまえが何で泣いていたのかわからない分、

 わかってあげられなかった分、

 俺は今日おまえの不安に答えることにするか。


「先生と進路についての話。」

「高校のこと?」

「ああ。」


 複数の足音が聞こえてきた。

 そろそろタイムアップか。

 さすがに人前では泣かないだろうし。

 だが、不安を消してやることはできなかったか。


「あきちゃん、と、東京に行くってほんと?」


 教室内に人が入ってきたというのに

 珍しく粘ってきたな。

 いや、始めから知っていたのか。

 そいうえば、前にタケが言っていたか。

 だから・・・

 今度は自分の口から聞いて、俺からの答えを聞きたいってとこか。


 それで一つの不安が消えて

 笑ってくれるなら

 それでいい。


「ああ。」

「そ、そうなんだ。」


 やっぱり泣くか?

 やはり泣かせてしまうのか?


「あきちゃんの夢、叶うといいね。」


 そう言って教室から出て行った。

 なんだろう。

 作り笑いとは違って

 笑顔なんだけど、

 笑ってくれていたのだけど、

 どこか解り急いでいるというか・・・

 

 絵の勉強に進むと決めた時からわかっていたことじゃないか。

 両方は無理なんだって。

 

 中学を卒業したら皆別々の高校になって

 高校を卒業したら皆別々の進路に向かう・・・

 いずれ社会人として、一人の大人として、向き合う日の為に。


 そうやって来たじゃないか。

 そう思ってここまでこれたじゃないか。

 そしてこれからも・・・


 だから無理なんだ。

 俺には無理なんだよ。

 あいつに伝えられる訳がない。

 あいつに告る権利が無い。

 ただ、それだけのこと。




     4.



 帰りのHRで一枚のプリントが配られた。

 行事の多い二学期最後を飾るもの。

 行事という程大袈裟なものではないが。


 校外学習。

 地域の保育園・幼稚園・高齢者施設・病院を訪問する半日体験学習。


 面倒くさいことに班毎に訪問するらしく。

 面倒くさいことに班が編成される訳で。

 もっと面倒くさいのはクラスランダム編成ということ。


 一組から三組までの前半クラスと

 四組から六組までの後半クラスとで

 訪問日を分け。

 更に、前半クラス後半クラス単位で

 四人一つの班を作りそれぞれの訪問先へと向かう。

 といった内容が書かれたプリント。


 興味は無かった。

 それよりも終業式までに仕上げなければならない受験課題のことで頭がいっぱいだった。

 あと五日か・・・。


「晃君は明日どこ行くの?オレ老人ホーム班だったー。」

 

 健太がやって来た。

 いつの間にかHRが終わっていた。

 帰る者、お喋りを続けている者、教室中が騒がしかった。


「よーすっ、あきちゃん、アレ持ってきてくれた?」


 騒がしい奴がもう一人。

 キタが教室に入ってきた。


「アレって何?」

「さぁ・・・?」


 健太に聞かれ、そう答えた。


「終業式までには持ってきてくれないとー。冬休みは入ったらやりたいんだからー。」

「何だっけ?」

「えー!ひどっ。忘れたとは言わせねー。」


 キタに首をしめられそうになって思い出した。

 ああ。

 確か・・・

 椎名萌のことを諦めるからとかなんちゃら言ってた時のことか。


「明日持ってくる。」

「明日ね!了解!」

「何の話?」


 健太だけが状況が読めていなかった。

 俺も・・・たぶんゲームを貸す話しだろう位にしか覚えていないが。


「あ!でも明日って・・・」

「校外学習。キタはどこ行くの?オレ老人ホームだったー。」

「オレは歩いて10分の幼稚園!近くていいだろー。」

「確かに、それいいー。」

「あきちゃんは?どこ行くの?」

「見てない。」

「えー、なんていうか、あきちゃんて周りに興味なさすぎだし。」

「オレまず、訪問先よりも誰と一緒の班かの方が気になったし。」

「だよねー。健太、それ普通だし。まずは班の女の子チェックからだよー。どこぞのクラスのかわいい子と一緒かもしれないじゃん!」


 そう言うと、机の上に置いたままだったプリントを持ち上げた。

 健太も一緒になって覗いている。

 何が楽しいんだか。

 誰と一緒にどこへ行こうが同じだろ。

 たかが校外学習。


「うっそー!!ショーっク!!」

「確かに。」


 俺のプリントを見た二人の言葉。

 おいおい。

 勝手に人のプリント見ておいてその反応・・・

 なんだよ。変な奴とでも一緒の班だったのか?


「や、破きたい。破いてしまいたい!」

「あはは。確かにキタからしたらそうだろうな。」


 おいおい。

 だから人のプリントを勝手に見といて破くとかありえねーから。

 だいたい、名前入りで個別に配られたプリントなんだから誰が誰と一緒の班とかの一覧は載ってねーだろう。

 俺のプリントには俺の班員の名前と訪問先しか・・・


「ありえない!あきちゃんと椎名ちゃんが一緒の班だなんて!神様の意地悪!」

「すっげー偶然。一緒になる確率とか低そうなのに。」


 おいおい。

 今何て言った?

 二人とも・・・勝手に・・・

 っておいおい。


 自分のプリントを見た。

 確かに。

 そこに書いてある名前は

 『四組 穂高 晃』

 『五組 椎名 萌』

 と、

 『六組 知らない奴二名』


「でさ、あきちゃん、椎名ちゃんとはどこまで進んだ?」

「えっ?進むって何?」


 さっきまでのテンションはどこへいったのか。

 キタの意味深な質問に、すっかり健太まで食いついてきた。

 面倒くさい。


「告った?ねえ、言ったの?」

「え、何、マジだったの、晃君、椎名萌のこと・・・」


 面倒くさい。

 それどころじゃねーし。

 つーか、俺告白なんてする気ねーって言ったよな?


「勿論、約束は守ってくれるんだよね?あきちゃん。」

「キタ、約束って?何?何?」

「オレが椎名ちゃんに告るの辞める代わりに・・・あきちゃんは椎名ちゃんと付き合うこと。そんで、傷心のオレに、ソフト一本くれるって話。」

「なんじゃそりゃー。そんなんでゲームソフト一本?え?え?」


 そうだったのか。

 あの時の話はよく覚えてなかったし。

 貸す位・・・じゃなくてあげることになっていたとは。


「ねー、あきちゃん、で、どうなってんの?」

「べつに。」

「でた!あきちゃんのべつに。発言。」

「あははー。キタ、真似まですることねーから。」

「いやいや、健太、これはマズイ展開なんだぜ。あきちゃんのべつに発言は興味関心がゼロの状態を指す。このままではマズイのだー!」


 おいおい。

 なにがマズイんだか知らねーが。

 ゲームなら明日持ってくるからもう面倒な事はやめてくれ。


「あきちゃんが言わないなら、オレが言ってやろうか?うまくやるよー。オレ。」

「とか言っちゃってー、キタがうまくやるとは思えんが。」

「オレはやる時はやる!うん!オレはソフトをゲット。あきちゃんは椎名ちゃんをゲット。どう?いいでしょ?」


 おいおい。

 勘弁してくれよ。

 だいたいあいつは物じゃねーし。

 一緒にするなって。


 そう思って念の為、教室内を見渡した。

 あいつが居ないか、じゃなくて。

 こんな会話、聞かれたら面倒くさい奴がいるだろ。

 斉藤恵子に聞かれたら・・・

 「ゲームと一緒にすんな!」って怒るだろうしな。


 そこまで考えたら思わず笑ってしまったが。


「あ、あきちゃん笑ったし。やっぱ椎名ちゃんのこととなると笑うんだよなー。」

「そうなの?」

「この間もさー・・・」


 椎名萌と同じ班か。

 訪問先は保育園。

 ただの校外学習だろう。

 どこへ行ってもあいつはあいつだろうし。

 明日はいつも通りの時間割じゃないだけ。

 半日で終われるラッキーな日程。

 ただ、それだけのこと。


 話に盛り上がっている健太とキタを残し教室を後にした。

 受験課題を提出しに美術室へ行った。


 すると、意外な人物と遭遇した。


「晃君。」


 美術室の前に立っていたのは咲良だった。


「これ、晃君の絵だね。」

「ああ。」


 美術室の前に張り出された俺の絵。

 先生に剥がしてもらうよう伝えてあったのに。

 まだ剥がされていなかったのか。


「一年の時から晃君の描く絵、上手いとは思っていたけど。」


 咲良は絵に目を向けたまま話し始めた。

 俺は正直言ってどこに視線を落とせばいいのかわからなかった。


 咲良と会うのも話すのも一年の時以来だったから。

 まだ俺が泉くんの影にいた頃。

 泉くんの光のおかげで安全な学校生活を送っていた頃。


「晃君、高校から絵の方に進むんだってね。」


 知ってたのか。

 泉くんから聞いたのか。

 いや、でも確か泉くんと咲良はもう別れてだいぶ経つはず・・・。

 まぁ、余計なお世話か。


「すごいね。ちゃんと自分の進む道決めていて。なんか置いてかれた気分ー。」


 そう言って、初めて笑顔を見せた。

 変わらない。

 咲良のサバサバした気持ちのよい笑顔。


「晃君って・・・めぐちゃんと付き合ってるの?」

「えっ?」

 

 思わず。

 思わず言葉に出た。


「あら。珍しい。晃君でもそんな反応するんだ。」


 そう言って咲良は笑った。

 さっきまでとは違う笑顔で。


「誰に聞いた?」


 思わずそう聞き返してしまった。

 いつもの俺ならこれ以上話を広げることなんてしないだろうが。


「噂よ。噂。そんな噂があるのー。」


 またそれか。

 噂ね・・・


「でも、否定しないということはそうなのね。」

「・・・・・・。」


 噂ねー。

 咲良の口から聞くことになるとは思ってもいなかったが。

 しかも、咲良と椎名萌が知り合いだったとは。

 同じ小学校出身だったか。


「ふーん。晃君がねー。」


 「べつに」とか、「違う」とか、

 そんな言葉を選べばよかったのに。

 いつも通り・・・。

 なんだろう。

 咲良の前では適当が出来なかった。

 適当に受け流すことも、否定することも、肯定することも。


「女子になんて興味なかったのにねー。そっかぁー。」


 確かに。

 一年の時の俺は人とのかかわりが面倒くさかったから。

 特に女子だなんて。

 でも咲良は割りとサバサバしていて、一緒にいても苦ではなかった。

 

「まぁ、どっちみち、一年の時の晃君に告白してもダメだったってことね。」

「えっ?」


 思わず聞き返してしまった。

 思わず。


「あ、三年になった今もダメかー。残念。」


 言葉が出なかった。

 思いっきり。


「やーね。そんな顔しないでよ、っていうか、晃君もそんな顔するのね。昔は表情一つ変えなかったのに。」


 咲良に表情を読まれる程、

 俺動揺してるのか?


「私の知っている晃君と違うってことは、違う風に誰かが変えてくれたのかもね。大事にしてね、その子。じゃあね。」


 そう言うと背中を向けた。

 校舎の一番奥の美術室から。

 咲良の後姿だけが見えていた。


一年の頃は・・・

 同じ位の身長だった咲良。

 細身の体系は変わらず。

 でもいつの間にか俺は咲良の背を軽く追い抜いていた。


 告白?

 誰が?

 誰を?

 誰に・・・?


あの時はわからなかったけど、

 気づかなかったけれど、

 俺、一年の時・・・咲良のこと好きだったんだ。きっと。


 美術感覚が合うタケとの出会いに、

 初めて出来た友達に、

 嬉しすぎて忘れていたけど。

 それまでは、咲良のこといいなって感じていたと思うんだ。


 でも・・・


「はーい、そこのキミ。」


 聞き覚えのある声。

 美術室から帰ろうと廊下を歩いていたはずなのに・・・

 気がついたら保健室の前で呼び止められていた。


「見ーちゃった。」


 またこの保健医かよ。

 今度は何だよ。


「あなたの好きな子、見つけちゃったー。さっき一緒にいたでしょー?」


 また嬉しそうな顔して話しかけてくるし。

 何が見ーちゃっただよ。


「違いますよ。あの子じゃないです。」

「あら、ずいぶんとはっきり言うのねー。つまんなーい。」


 おいおい。

 つまらないって・・・


 白衣の裾が保健室に消えるのが見えた。


 おいおい。

 それだけ?


 それだけで充分俺を保健室へ引き寄せたが。

 廊下で話されるのが嫌いなことを知ってか。

 保健室へ足を入れると満足そうな表情で迎えていた。


「じゃあ、さっきの子は・・・」


 また嬉しそうに一人で喋り始めた。

 この保健医は・・・いつもそうだ。


「わかった!告白でもされた?」

「ゲホッ。」


 思わず咳き込んでしまった。

 ほんとなんなんだこの保健医は。


「あったりー!!そーかそーか。」

「いーねー、放課後の誰もいない廊下に呼び出し。あー懐かしい。」


 そう言ってまた一人で勝手に自分の青春時代の思い出話を始めた。

 これを聞かされる為に俺はここに来たのかと思うとなんだか情けなくなったが。


「まー、あんただって告白されるの初めてじゃないでしょ?そのポーカーフェイスを崩せる女の子も珍しいだろうねー。」 


 ポーカーフェース。

 無表情。

 無反応。

 何考えてるのかわからない。

 とか言われたこともあったか。


 昔は表情一つ変えなかったのに。

 さっき咲良にそう言われたことを思い出した。


 あれが告白だったのかはわからないが・・・

 告白というものを受けるのは確かに咲良が初めてじゃなかった。


「で?穂高の末っ子は今どうなの?」

「俺、べつに告る気ありませんから。」

「おや。おやおや、あらあら。」


 即答で返したことが意外だったのか。

 自分の意見を言ったのが意外だったのか。

 保健医は自ら仕掛けるゲームの運びが意外な方向へ進んだことに驚いたような、

 それを楽しんでいるかのような表情を見せた。


 俺は俺なりに・・・

 この保健医といると調子が狂うし。

 適当にとか、考えていると余計に面倒くさいことになると

 ここ数回のかかわりでわかったことだし。


「中学時代なんてね、クラス替え毎に毎年好きな子が変わったって、同じ委員会になったとか、そんなんでもいーんだから。」


 急に声のトーンを抑えて喋り始めた。

 さっきまでのハイテンションとはまるで違って。

 

「恋なんて、実っても実らなくても、告白してもしなくても、人を好きになるっていう過程が大事なんだから。適当でいーのよ。」


 そういうと、仕事机に目を向け

 椅子に腰をかけた。


 これ、帰っていいわよの合図。


 黙って保健室を後にした。




 その夜、自室でスケッチブックを開いた。

 

 進路が決まって・・・

 受験科目の見直しをして・・・

 美術の先生からの課題をこなして・・・


 スケッチブックをパラパラめくった。

 デッサン力をつける練習。

 ここ数週間は人物画ばかりを描いていた。


 女性は柔らかいタッチで

 優しさが溢れるように。

 男性はシャープに

 筋肉を表現して力強く。


 技法と

 想像力の

 練習。


 模写なら得意だった。

 風景でもそこにある物も人物もそう変わらないと思っていた。


 やがて訪れる白紙のページ。

 めくる手を止めた。


 白い紙が好きだった。

 何にも書いていない白い紙。


 そこに描くのが好きだった。

 自分だけの世界を。

 

 “バサバサッ!!”


 思わず手が滑った。

 机の上に積んであった資料本が音を立てて崩れた。


 白昼夢か?!

 まさか・・・


 今一瞬、白い紙の上に

 あいつの顔が浮かんだ。

 浮かんだんだ・・・


 おいおい。

 勘弁してくれよ。


 絵を描いている時は

 絵を描いている時だけは

 誰にも邪魔されないのに

 誰にも邪魔されたくないのに・・・


 なぜあいつの顔が浮かんだのか。

 だいたいわかるけど。

 だいたい予想はつくけど。


 あれが告白だったのかはわからないが

 あいつの好きな奴は俺だった。


 気になるという気持ち

 好きという感情も

 好きになるという想いも

 あいつが教えてくれたもの


 あの夏からずっと、あいつはそれを伝え続けてくれていた。

 秋になって俺の態度が冷たくなっても


 でも・・・

 ふと思うんだ。


 あいつは変わらず好きでいてくれたのだろうかと。



 今日咲良と会って。

 一年の時の想いに今頃気づいた。

 あいつとかかわっていなければ、

 あいつを好きにならなければ、

 この先もずっと気がつかなかったかもしれない。


 咲良があの時俺を好きだったとしても、

 咲良は泉くんとつき合ったじゃないが。

 それが事実。


 俺を好きだというあいつも

 他の奴とつき合ったりするのだろうか


 今、告白されたら・・・

 誰かに告白されたら・・・

 誰かが告白したら。

 あいつはつき合うのだろうか。


 祐也に・・・

 芳沢に・・・

 キタに・・・

 ヒロアキに・・・

 そしたらあいつはどうするのだろうか。

 

 


 翌日。

 校外学習の日。


 面倒くさいが二学期もあと四日で終わるのだから。

 それに今日は授業も無いし。

 適当に校外学習の時間を過ごして

 午前中で帰れるラッキーな日。

 のはずなのだが。


「おはよう、あきちゃん。」


 朝、下駄箱で会った。

 今日の校外学習が椎名萌と同じ班だったことを思い出した。


「晴れて良かったねー。歩いて五分の所だしねー。」


 外靴から上履きに履き替えながら

 いつものように元気に喋っていた。


「お早う。」


 と、すぐ後からもう一つの声。

 芳沢だった。


「おはよう。」


 靴を替え終えて

 普通に挨拶を返す椎名萌。


 ふつう・・・か?


「今日も寒いね。」

「ねー。風が吹いていないだけいいかも。」

「そうだね。」


 おいおい。

 なんだよこの時間差。

 明らかに、後ろを歩いてましたっていう差だろう。

 同じ通学経路なのに。

 何で一緒に来なかったんだ?

 なんかあったのか・・・? 


「校外学習、感想文書かされるって知ってた?」

「えー、知らなかったー。」

「だよね。前半組みの奴に聞いたんだ。」

「ただ行けばいいのかと思ってたのにー。」


 三人で教室まで歩くことになった。

 

 すぐ横に椎名萌。

 その隣に芳沢。

 会話上は普通に見えるが・・・

 二人の距離感が微妙に見えた。


「あきちゃんは感想文書くって知ってた?」

「いや。」

「きっと知らない人の方が多いよねー。」


 本当は朝一で美術室へ行こうとしていたのだが。

 芳沢とこいつを見ていたらほっとけなかった。


 というよりは。

 芳沢と椎名萌を二人にさせたくなかったのかもしれないな。


 四組の前に差し掛かかったところで、


「じゃあまた後でね。」


 そう言って芳沢は五組へと向かった。


「おはよー。」

「めぐちゃん、おはよん。」


 相変わらず椎名萌は朝のおしゃべりに

 自分の教室でもない四組に寄るのが日課。


「ちなっちゃーん、校外学習の感想文あるって本当?」

「あったわね。」

「げ!北川、それマジで?!」


 待っていたのは北川千夏と河野ヒロアキ。

 クラスが離れても仲の良いうるさい三人組。


「どれくらい?」

「四百字詰三枚だったかな。」

「千二百字!!そんなに書けるかよー。」

「あら、ヒロアキ計算できてるじゃないー。」

「そこかよっ!」

「あははー。」


 椎名萌が笑っている。

 いつもの朝の風景。

 三年になって、こいつらが朝四組に集まって。

 他愛も無いバカ話をしている。


 会話が丸聞こえなのを知ってか知らずか・・・

 聞かれてもいい話か。

 うるさい三人組の朝のこの時間につきあうのも最近の日課になっていた。

 そして、三人組でいる時のあいつの笑顔を見るのも悪くなかった。



 HRで今日の校外学習の説明を受けると、各自でそれぞれの訪問先へ向かった。

 行きは引率の先生を先頭に

 近い訪問先から回りながら、生徒達は次々に送り出された。


 訪問先の保育園に着いた。

 保育士から今日の説明を受ける。

 

 気がついたら、横に椎名萌がいた。

 何の偶然かは知らないが、ランダム編成の班に

 こうして椎名萌と一緒になるとは思ってもみなかったが。


 保育士より、二クラスある為二人ずつに分かれて実習を行って欲しいとの説明がある。

 横にいた椎名萌と一緒になった。

 今日は四人で来ているが、六組からの二人とは特別親しいわけではなかった。

 それは椎名萌も一緒だったのだろうか。

 人見知りだなんて無縁そうな、無駄に明るいうるさい女も、さすがに六組の奴とは喋っていなかった。


 そういえば。

 一年の時から借り物が多く、無駄に元気でうるさい女だったが、

 その周りにはいつも誰かがいた。

 北川千夏に河野ヒロアキ、

 二宮、斉藤恵子、関くんにタケ。

 そのおなじみのメンバーと一緒にいないというのも不思議な感じがするな。

 こいつはこいつなんだけど。

 なんつーか。

 今は俺といるんだなーっていうか。


「ねえねえ、お絵かきしよ。」

「こっちきてレゴやろ!レゴ!」

「ねーおにいちゃん絵本読んでー。」

「でけーにいちゃんだなー。ぐるぐる遊びしてー。」


 いつの間にか、園児達に囲まれていた。

 おいおい。

 面倒くさいぞ。


「だめだめ。今からまみとお絵かきするんだもん。」

「レゴーでお城作りしよーぜ。」

「本読んでもらうのー。」

「ぐるぐる遊びー。」


 おいおい。

 だから俺はそんな真剣に遊ぶつもりは無いから。


「お絵かきー!」

「レゴー!」

「絵本ー!」

「ぐるぐる遊び!やりたいー!」


 おいおい。

 そんなに引っ張っても俺の体は一つしかないんで。

 そもそも、ぐるぐる遊びって何だ?


「ほらほら、みんなで色々な事言ったらおにいさん困っちゃうでしょ。みんなで相談して何で遊ぶか決めてごらん。」

「はーい。」

「じゃんけんで決めよう。」

「そうだんだよ。」

「話し合って決めるんだよ。」


 助かった。

 保育士の一言で、体にくっついていた園児達が離れた。

 さすが保育士。

 子供の扱いに慣れている。


 ふーっと大きく息を吐いた。

 ため息というやつだろう。

 

 それを椎名萌が笑って見ていた。


「うるさい。どうにかしろあれ。」

「あれ、もしかしてあきちゃん子供苦手?」

「嫌い。」


 隣に立つと目が合った。

 まだ笑っている椎名萌。


「なんで笑う?」

「だって。あきちゃんだって小さい頃はああやってはしゃいでいたと思うよ。」

「俺は静かな子だった。」

「あはは。自分で言うかな。」


 隣で笑っている。

 こいつの笑顔。

 いつもと同じ。

 学校でも訪問先でも、こいつはこいつ。


 知らないんだもんな。

 俺がどんな子供だったか。

 俺に母親がいない事も

 俺が兄達に嫌われていたことも

 こいつは・・・

 知らない。

 知らなくていい。

 俺の隣で笑っていてくれれば

 俺の隣にいてくれれば

 それでいい。


「じゃあぐるぐる遊びに決まりー!」

「おにいちゃん、ぐるぐるやってー。」

「やってー。」

「ぐるぐるー!」


 話し合いとやらは終わったようで

 一番意味不明だったぐるぐる遊びとやらに決まっていた


 おいおい。

 だからぐるぐる遊びって何だよ。


「きゃー!たのしー。」

「わーい!」

「目ーまわるー。」


 どうやら。

 ぐるぐる遊びとは、園児を抱き上げて回転する遊びだった。

 つまり、目が回るのは俺の方。


「ボクもやってー。」

「あたしもー。」

「次ボクの番だよ。」

「順番ね。」


 おいおい。

 あとどれだけ回させるつもりだよ。


 教室の中央で園児を持ち上げて回しながら・・・

 自分も回転していた。


 教室中を見渡せて

 あいつを見てみると

 数人の園児とピアノを囲んで遊んでいた。


 そういえばあいつ、ピアノ弾けたんだったか。

 合唱コンクールで伴奏してたか。


 毎年クラスの女子の中で数人ピアノが弾ける子がいた。

 音楽の授業で、合唱コンクールで、伴奏者に選ばれていた。

 きっと子供の頃から習っていたのだろう。


 子供の頃の習い事。

 勝兄はスイミングスクール。

 亘兄は学習塾に書道と英会話教室だったか。

 俺は習い事はしなかった。

 特に興味が無かった。

 行く必要が無かった。

 絵を描いていたから。


 中学に入る前の椎名萌。

 今まで考えたことなかったが。

 以前タケの家で蓮田第二小の卒業アルバムを見たことがあった。

 小六の椎名萌の顔。

 小五の時の転入生だと言った。

 椎名萌がどんな子供だったのか。

 ピアノを習っていたのか。

 そして・・・

 小四の時の絵のコンクールには・・・


「ねーおにいちゃんは好きな人いるの?」

「いるのー?」

「ねー、いるのー?」 


 ぐるぐる遊びには想像以上の体力を使ったので

 休むことになった。


「だぁれー?」

「おしえてー。」


 おいおい。

 休憩時間くらい静かに休ませてくれよ。


「わかった!あのおねえちゃんだ!」


 おいおい。

 どのおねえちゃんだよ。


「えー?ほんと?」

「あのおねえちゃん?」


 園児達が指差した方を見ると・・・

 教室の隅っこで椎名萌が絵本を読み聞かせているところだった。


「ほんと?」

「おにいちゃん、おねえちゃんのことが好きなの?」

「すきなのぉー?」


 おいおい。

 マセたガキだな。

 面倒くさい。


「じゃあ、まみがおねえちゃんに言ってきてあげるー。」

「ボクも言う!」

「おねえちゃーん、このおにいちゃんねー・・・」


 おいおい。

 どうしてこう面倒くさいんだ。


「はい、ストップ。」


 小さい子供の足を追いかける位大したことではない。

 教室の端から端まで走っても

 たかが子供の足。

 歩幅が違う。

 簡単に追いついて止めることができた。


「えー?言わないの?」

「どうして?」


 両脇に園児二人を抱えて戻った。

 簡単に片手で抱えられた。

 子供って小さい。軽い。


「どぉしてー?」

「ねえねえ、何でー?」


 でたでた。

 やたらと質問したがる子供。

 やたらと訳を知りたがる時期。


 俺は小さい頃から自分の家が他の子の家とは違うことがわかっていた。

 ばあちゃんに育てられていることも知っていた。

 子供ながらに色々と悟っていた分、大人しかっただろう。

 ここにいる子供達のように、思ったことを素直に口にして

 無邪気にはしゃいで、動き回って・・・

 そういう子供ではなかっただけのこと。


「一番大事なことは、一番大事な人にしか言わない。」

「一番?」

「ああ。」

「一番?」


 連れ戻した園児達にしゃがんで話しかけた。

 同じ目線で。


「一番だってー。」

「一番。」


 子供の好きそうな言葉。

 場面の切り替えに使うのが有効的だろう。

 子供の世界だけでなく、俺達の世界でもそうだ。

 場面の切り替え、雰囲気の切り替えが上手い二宮を見てきたからな。

 これくらいは俺にもできる。


「おまえらにも一番あるだろ。」

「一番。」

「あるー!」

「まみの一番ね、ママー。」

「ボクもー。」


 だろうな。


「おにいちゃんぐるぐるの続きやってー。」

「次、あたしからだよー。」

「その次ボクー。」 

「順番ー。」


 おいおい。

 まだやるのか?

 そろそろ腕筋、攣りそうなんだけど。 



 帰り道。

「楽しかったね。」

「そうか?」

「可愛かった。」

「どこが?あんなチョロチョロしてうるさいのがか?」

「うん。」


 そう言って横で笑う椎名萌。

 俺の隣を歩いている。


「あきちゃんだって人気者だったじゃない。」

「べつに。」

「ぐるぐる遊びだっけ?長蛇の列ー。」

「腕痛いし。」

「あははー。」


 保育園から学校までの帰り道。

 五分とかからない距離。

 隣には椎名萌。


「でも子供苦手って言っていた割には懐かれてたねー。」

「苦手じゃなくて嫌い。」

「あははー、またそんなこと言ってー。」


 さっきまで同じ保育園にいた。

 こいつが俺の横にいた時間。

 クラスが同じになったことはないから、

 一緒に授業を受けているという感覚をもったことがなかった。

 当たり前だけどこいつとは学校では会うけど、

 互いの教室で会っていはいるけど、

 同じ教室にはいなくて。

 同じ授業時間は過ごしていなくて。


 でも、毎朝続く仲良し三人組うるさいお喋りからはじまって、

 移動教室の途中、廊下で遭遇したり、

 ふらっと昼休みに顔を出したり、

 放課後にも会ったりする。

 そうして過ごしてきた時間が当たり前で。

 でも今は・・・


「なんか自分の子供の頃の記憶ってあんまり無いのだけど。私もあーやって元気だったのかなーって。」

「うるさかっただろうな。」

「あ、ひっどーい。」

「本当の事だろ。」

「そんなことないもん。」


 こうして一緒にいる。

 会話して。

 ちょっと怒らせてみたり。

 笑わせてみたり。


「おまえの園児姿って相当うるさそう。言うこと聞かなそうだし。」

「えー、私ってそんなイメージなの?」


 学校までの道。

 一緒に歩く。

 ただそれだけのことなのに。

 ああ。

 こいつと休日に会ってデートしたいとかキタが言ってたか。

 こんな感じなのか。

 これをするために告白するってどうなんだろう。

 これをしたいならべつに告白しなくても、

 つきあわなくてもできるんじゃないか。

 そもそも付き合うってなんだよ。

 告白して、付き合ってくださいって定番。

 告白しなくても好きな想いはあるし、

 好きだって想い合ってる奴らだっているだろう。

 両想いだからって必ずしも付き合わなくても・・・

 

 前から自転車が来ていた。

 そっぽを向いているこいつは気づいていないのか。

 避けようとしていないので


「あぶねーぞ。」


 そう言って、腕を引き寄せた。

 歩道の隅に避けて自転車をやり過ごす。


「あ、ありがと。」


 掴んだ腕を・・・

 離したくなかった。

 離してはいけない気がしたんだ。

 あの夏の日に

 この手で離した

 こいつのことを・・・


「あきちゃん?」

「手、冷たいな。」

「あ、手袋してこなかった。」


 そのまま歩いた。

 手の感覚はひんやりしていた。


「ピアノ。」

「え?」

「習ってたのか?」

「うん、小六の頃までね。」


 小さい手。

 あの夏の日につないだ手。

 

 外で手をつなぐなら

 告白しなくても

 付き合わなくてもできるだろう


 つなぎたいときにつなげばいい。

 ただそれだけのこと。



 校門が見えてきた


 この手を離さなければいけない。

 わかっているが

 離したくなかった


 離さないで済む方法なんて・・・

 あった。

 告白?

 いやいや、俺相当混乱してるし。


 今日、園児達に言われた言葉。

 「おねえちゃんに言ってきてあげる」

 誰かから、俺の気持ちを言われてしまうだなんて

 考えたこと無かった。


 でも・・・

 だから思った。

 だから気づいた。

 俺がこいつを好きなこと、

 知っている誰かが言うかもしれない

 学校に居る誰かが言うかもしれない


 今日かもしれない

 明日かもしれない

 明後日かもしれない


 園児達に言われて気づいたこと。

 誰かからこいつに言われてしまうこと。

 それなら・・・

 いっその事・・・

 自分の口から・・・

 伝える方が・・・

 伝わる方が・・・


「クシュン!」

「風が出てきたね。早く教室戻ろう。マフラーも置いてきちゃったし・・・」


 そう言って

 俺の手から

 離れていくのが

 やるせなかった

 なんだこの気持ち。


 まだ捕まえていたい

 まだこいつを離したくない

 今度こそ・・・

 離したくない


「やっぱおまえのこと好きだ。」

 

 後姿が

 足が

 ピタっと止まった。


 俺の思考も止まった。


 気持ちと感情の整理がつかないまま・・・

 頭で考えるより先に勝手に行動した結果。


 すぐに後悔する


 その表情

 俺が見たかったのとは違う

 俺が見たかったのと違った


 その顔に

 マフラーを巻いてやった。

 その顔を

 隠してやりたかった。


 なんつー顔、

 させてんだよ、俺。


 その表情。

 俺がさせたのか。

 

 ばーか。

 なかったことにしてやるよ


 俺の身勝手だよな

 おまえを困らせて。

 悪かった。


 オレは大丈夫だから

 そんな顔するな。



 今日は午前で終わりだった。

 校外学習だけで。


 終わりのはずだったのに・・・


 美術室に一人残っていた。

 受験課題の指導を受ける為に。


 三年の授業は午前で終わりだが、

 一、二年生の授業は続いている。


 校舎の一番隅っこにある美術室。

 締め切った教室。

 一人の教室は嫌いではなかった。

 静けさが、頭の中を軽くしてくれたから。


「穂高君、遅くなってごめんなさいね。」


 扉が開き、美術教師が入ってきた。


「一人で寒くない?ストーブつけようか?」

「いえ。平気です。」

「受験生なんだから体調には気をつけないとね。二学期もあと三日だし。」


 あと三日。

 そう。

 今日を入れてあと四日だった。

 四日後には冬休みに入る。

 それまでに・・・


「うん、よく仕上げてきたわね。人物画の方も良くなってきたわ。」


 スケッチブックをめくりながら美術教師は評価を続けた。


「特に女性像のタッチが柔らかくなったわね。捉え方も変わってきてるし。うん、うん。調子上がってきたわね。」

「そうですか。」

「何か変化でもあった?」

「え?」


 美術教師らしくない質問に驚いた。

 美大の付属高校の受験が決まってから、選択授業でもお世話になっていたこの美術教師が受験指導を引き受けてくれることになり

 急な進路変更で短期間だったこともあり、割と厳しく指導されてきたのだが。


「あ、別にね、生徒のプライベートに立ち入るつもりはないのよ。気を悪くしたらごめんなさいね。」

「いえ。」


 美術教師も慌てて繕っていた。

 自分でも意外な質問をしてしまったと思ったのだろうか。


「でもね、美術感覚って、生まれ持った才能もあるのだけど、それ以上に美術感覚を磨くことも大事なのよ。普段の生活から、色々なことに触れて、見て、感じて。それは物や風景だけじゃなくて、人とのかかわりだったりもするのね。だから、これから色々な人とかかわって、穂高君の美術感覚がどんどん変化していくのも楽しみね。」


 人とのかかわり・・・か。

 一番俺が面倒くさいと思ってきたことが

 一番大事なことだったなんて。

 なんだか皮肉なもんだな。


 人とのかかわりが面倒くさくて

 人とのかかわりを避けてきた

 そんな俺の中に・・・


 あいつはいつの間にか入ってきていて

 面倒くさかったけど

 避けてもみたけど

 それでもあいつは・・・

 懲りずに俺のそばにいた。


 気がつけば・・・

 俺が目で追う大事な存在になっていた。


 なのに・・・

 それなのに・・・

 あいつを困らせた。


 見ていようと

 見守っていようと

 決めていたのに・・・


 ほっとけなくて

 触れたくて

 引き止めていたくて


 大事にしてやりたいと思う反面、

 離したくないと自分勝手にあいつを巻き込んだ。


 あいつの気持ちも考えずに・・・

 自分の想いを優先させた結果だ。


 どうしてあと四日、

 我慢できなかったのか。

 我慢しなかったのか。


 伝えてしまった今となっては

 俺自身はすっきりしている。


 でもあいつは・・・?


 迷惑だっただろうか。

 困らせてしまっただろうか。

 泣かせてしまっただろうか。


 今頃・・・

 泣いているだろうか。




 翌朝。

 家の玄関を出る際、後ろからばあちゃんの足跡が聞こえた。


「あ、晃、待ちんしゃい。」

「なに?」

「明後日の終業式が終わったら父さん迎えに来ると。一緒に母さんの実家に行きんしゃい。」

「うん。」

「学校気をつけて行っといで。」

「いってきます。」


 二学期もあと三日。

 今日と明日と終業式で終わり。


 今日、あいつはどんな顔で学校に来るだろうか。


 気になって仕方がなかった。

 あいつに気持ちを伝えてみて知った感情もある。

 自分勝手だとは思うが。


 気になるから好きなんだし

 好きなのだから気になる


 仕方ないじゃないか。

 俺だって自分がこんなにも椎名萌のことが好きだなんて知らなかったのだから。



 早めに登校してみたが、

 さすがに四組の教室には来ない・・・か。


 いつもの三人組の朝のお喋り時間。

 今日はヒロアキしか来ていなかった。


 二学期最後の期末テストも終わり、

 今日と明日の授業が終われば終業式。

 そんな時期に授業に集中する方が難しかった。


 横に視線を向けると・・・

 授業とは関係のない教科の参考書を開いている奴、

 受験対策の文字の書かれた本で勉強している奴。

 それでも授業は進んでいった。

 時間表通りに。

 

 二時間目が終わり、三時間目は移動教室だった。

 いつもの時間割。

 いつもの移動教室。

 いつもの移動経路。

 すれ違う廊下で・・・


 今日初めて椎名萌と会った。

 というか、避けられた。

 

 おいおい。

 明らかな態度。

 二宮の後ろに隠れるあたり、絶対わかってやってるな。

 

 そうきたか。

 あいつのことだから・・・

 また変なこと考えてるんだろうな。

 また変なことで悩んでいるのだろうな。

 俺に対してとった行動とか。


 そんなの気にしてないのに。

 俺が自分勝手に伝えただけなのに。

 巻き込んで悪かったな。

 だから大丈夫。

 大丈夫だから、顔を見せてよ。

 戻ってこいよ。

 俺の隣に・・・



 昼休みになった。

 いつものように五組へ遊びに行くと

 いつものように二宮の周りに人が集まっていた。

 いつものように二宮のフンも健在。


 タケの隣に行った。

 椎名萌のとこからも、俺は見えているだろう。


 話しかけようか・・・

 首をくすぐってやろうか・・・

 どうしようかと思っていたら


 後ろからキタの声が聞こえた。


「あきちゃん見ーっけ。持ってきてくれた?」

「ああ。」

「わーい!じゃあ取り行く!」


 キタと一緒に四組に戻ることになった。

 振り返ってあいつの方を見たが、二宮の後ろで俯いたままだった。


「あきちゃんサンキュー。これでおいらの冬休みはゲーム三昧さっ!」

「攻略本も付けるか?」

「おお!なんて良い人!行き詰まった時には喉から手が出るほど欲しい攻略本!あきちゃんサンキュー!」


 相変わらずテンションの高い奴。

 キタはこの後五組に戻るのだろうか。

 また椎名萌にちょっかいを出すのか・・・


「そういえば、あきちゃんと椎名ちゃんケンカでもした?」

「は?」


 思わず口に出してしまった。


「いや、今日なんか二人とも雰囲気違うっていうか。」

「べつに。」

「でた!あきちゃんのべつに。」


 おいおい。

 今度はなんだよ。


「いやさ、こうしてソフトも貰った訳だし、あきちゃんって良い奴だと思うし、だから椎名ちゃんのことはきっぱり諦めようと思ってたんだけどさ。」

「なんか二人がうまくいってないのかなーって思ったら、やっぱオレいける??みたいなー。」


 おいおい。

 だから面倒くさいって。


「なーんて、冗談だって。そんな怖い顔しないで。何があったか知らないけどさ、早く仲直りしちゃいなよ。きっかけなんてなんでもいいんだからさ。椎名ちゃんは笑顔がかわいいんだから。」


 俺の顔が怖いって?

 椎名萌の笑顔がかわいいって?

 おいおい。

 俺は何にも言ってないぞ。


「じゃーねー。」


 そう言うと、キタは教室を左に出て行った。

 方向的には自分の教室へ戻ったのだろう。

 五組へは戻らないか。


 時計を見るともうすぐ昼休みが終わろうとしていた。

 

 きっかけね・・・

 確かに。

 あいつのことだから色々と悩んでいるのだろう。

 俺とどうやって話せばいいかとか。

 昨日のことについてどうすればいいのかとか。


 そんな風に悩ませているのは俺なのに。

 困らせているのは俺の方なのに。

 うまく言えたらいいのだろうけど。

 大丈夫だって安心させてやれればいいのだけど。


 どうやって言っていいのかわからないし。

 どうやって接したらいいのかわかっていない。

 あいつのこと大事に思えば思うほど、実はどう接していいのかわからなかったりもする。


 それでも・・・

 どうにかしてやりたい。

 今回は俺の身勝手さが引き起こしているのだから。


 おまえは悪くないって言葉で伝えれば簡単だけど

 そんなこと言えるほど器用な人間じゃないんで。


 せめて想いが伝わるように・・・


「あ、あきちゃん。」

 

 五組へ向おうと廊下に出た時だった。


「あ、あのね。」


 廊下に先に来ていたのは椎名萌だった。


「あの・・・」


 俯いたまま・・・

 言葉に詰まっている。


「あの、昨日、昨日ね・・・」

 

 その表情。

 そんな顔するから・・・

 触れたくなる。

 

 ああ。

 この感情の答えは抱きしめたいだったのか。

 前にも何度か感じたことのある感情。


 泣きそうで・・・

 でも一生懸命なこいつの顔を見ていると。

 抱きしめてやりたくなる。


 大丈夫だから。

 もう大丈夫だ。

 そう、言いながら。


「タケに理科の一分野貸してって言って。」

「えっ?」

「いいから、借りてきて。」

「う、うん。」


 きょとんとした顔をしていた。

 それでいい。


 すぐに戻ってきた椎名萌。

 それでいい。

 その表情。


「これタケの?」

「そうだよ。」

「おまえのかと思った。」

「え?」


 チャイムが鳴ったので、そこで会話は終わった。

 五組へ戻っていく後姿を見送って。


「あれ?晃君借り物?珍しー。」

「いや。」

「えっ?あれ?なんで二つ・・・?」


 席に戻ると健太が机に二つ並んだ教科書を見比べながら不思議そうな顔をしていた。

 同じ理科の教科書が二つ。


 これでいい。

 これでいいんだ。


 あいつが言おうとしていたこと

 聞いてやることもできたかもしれない。


 でも・・・

 言わなきゃいけないと必死になっている表情がわかったから。

 そんなに大変な思いをしなくていいんだと、

 そんなに抱え込まなくてもいいんだと、

 その緊張感から離してやりたかったんだ。


 キタの言っていたきっかけとは違うかもしれない。

 それでも・・・

 次また会う理由ができて、

 今日もう一度会える理由ができて、

 そこでまた話せばいい。


 今度こそ、

 大丈夫だからって伝わるように。



 五時間目が終わった。

 掃除の時間になるのを待って、五組へ行った。


「これ、返しといて。」


 箒を持った椎名萌の頭の上に乗せてやった。


「もうすぐタケやん来るよ?」

「いや、返しといて。」


 さっきよりも落ち着いた表情をしていた。

 きっかけになっただろうか。


「あ、あきちゃん、」

「ん?」

「あ、あのね、あの・・・」


 片方に箒

 片方に教科書

 持つ手に力が入っているのがわかった。


「昨日ね、ごめんね、私・・・あの・・・ごめんなさい・・・」

「昨日?ああ、それで寝不足か?」

「え?」

「ここ。」


 今日初めて目が合った。

 顔をあげて。

 向き合った。


 目の下にクマ。

 やっぱりな。

 昨日のこと。

 寝不足になるくらい考えたのか。

 悪かったな。

 俺の自分勝手な感情に巻き込んで・・・


 今も俺、自分勝手な感情で

 こいつに触れたいって思った。

 こいつを抱きしめてやりたいって思ってる。

 でも・・・


 感情を抑えて。

 目の下のくまを指で触った。

 ずっと目が合っていた。

 

 今度は逃げずに・・・

 正面からこいつと向き合いたい。

 そう思った。


 好きだという想いを伝えたら

 何かが変わるのかと思っていた。


 変わることを望んでいたのか。

 そうじゃないだろう。

 俺達は。

 例え好きだとしても

 卒業したら別々の道を歩むのだから。


 変わりたくて伝えたわけではない。

 単に俺が我慢できなかっただけ。

 感情を抑え切れなかっただけ。


 人とのかかわりを避けてきた俺が

 初めて人とちゃんと向き合ったのだから

 それくらいの反動は仕方のないことだ。

 それくらい処理できなくてどうする。


 俺が椎名萌のことが好きなだけ。

 それでいいじゃないか。

 何も変わらなくても。

 自分の口から伝えたかっただけ。

 だから、返事を求めているわけではないんだ。

 答えが聞きたいわけではないんだ。

 ただ、それだけのこと。




 翌日。

 終業式まであと一日。


 今日で二学期の授業は最後となる。

 一時間目から移動教室だった。

 五組の前を通りかかった時、

 中からタケに声をかけられた。


「おっす、晃。今日放課後な。」

「ああ。」

「おれ週番だから待たせると思うけど。」

「わかった。」

「おはよう、あきちゃん。」


 タケの後ろから顔を出した。

 目が合う。


 ただ一言。

 挨拶を交わすだけ。

 

 それだけで十分だった。

 いつもの椎名萌の顔に戻っていた。


 大丈夫だ。

 あと二日。

 今日と明日。

 泣かせないように

 笑っていられるように

 見守っていてやりたい。



 給食が終わり

 昼休みになった。


 タケのところへ行こうと教室を出ると、

 廊下で待っている奴と目が合った。


 ヒロアキであって欲しかったが・・・

 どうやら俺を待っているようだった。


 笠原祐也。


「昼休み、萌ちゃんのところ行く予定だった?」

「べつに。」

「そう。ならいいんだけど。邪魔しちゃったかなって。」


 おいおい。

 既に皮肉たっぷりな話しが伝わってくるんですけど。


 歩きながら向かっている先は・・・

 人気の少ない体育館への渡り廊下。


「これ、萌ちゃんから貰った。」


 校舎から離れた場所までやって来ると、

 振り返った祐也が手紙のような封筒を手にしていた。


「読む?」

「いや。」

「そう。」


 おいおい。

 椎名萌が祐也に宛てた手紙を何故に俺が読まねばならぬ。


「オレ、萌ちゃんに告白したんだけど。その返事がこれ。」

 

 同じ小学校の出身だが、元々付き合いがないので笠原祐也の表情を読むのは難しかった。

 目の前にいるが、何を考えているのかわからない分、落ち着かなかった。


「気にならない?」

「べつに。」

「へー。余裕だね。」


 二学期も今日と明日で終わりという時期に・・・

 祐也はいったい何をしたいのだろうか。


「でも、萌ちゃんとは付き合ってないんだってね。」

「ああ。」

「何で?」


 おいおい。

 それって、答えなきゃならねーのか?

 正直に?

 いやいや。

 適当に?


「気持ちだけじゃどうしようもなんねーこともあるから。」

「ふーん。大人だねー。オレだったらどんな手使ってでも自分の方に向かせるけど。」


 そう言うと、祐也は目線を外へ向けた。

 その時、祐也の体格は割りとがっちりしていることに気がついた。

 夏に部活を引退して・・・少しぽっちゃりしたのだろうか。

 椎名萌と同じ部活動の部長か。


「オレ、萌ちゃんのことずっと好きだった。一年の時から。」

「でも、好きな子はいても、部活と勉強の両立が難しくてさ。必死で誰よりも上に立とうとしてきたら・・・」


 変わらず体と目線を外に向けている。

 おいおい。長い話しかよ。


「気がついたら萌ちゃんのこと好きな奴が周りにけっこういてさ。オレ逃げたんだよね。ちょうどそん時告白されて。逃げたんだ、自分から。その子と付き合うことで周りの奴らより優位に立って。」

「それでも萌ちゃんのことは気になってて。ずっと見てた。そしたらさ、萌ちゃんの好きな奴がオレだったっていう噂を聞いて。それと、聡一と付き合ってるとかいう噂もあったり。すんげー気になった。」

「でもさ、どんな噂があっても、萌ちゃんが誰を好きでも、片思いなら良かったんだ。誰とも付き合わなければ、それで良かったんだ。」


 そこまで話して、

 祐也が体をこっちへ向けた。


「でも今度は違った。晃君も萌ちゃんのこと好きだってわかったんだよね。」


 俺は肯定も否定もしなかった。

 おそらく、表情もうまくコントロールできていただろう。


「それなのに晃君は萌ちゃんを泣かせてばかりだった。許せなかった。オレだったら泣かせないのにって思った。オレが萌ちゃんと付き合いたいって思った。だから栗原とは別れた。」

「二人が付き合ってるっていうのは噂で、まだ付き合ってないって知った時、だったらオレにもチャンスがあると思った。」

「萌ちゃんが傷ついている時に、萌ちゃんに告白して。奪ってやろうと思った。いいタイミングで告れたと思ってたんだけど・・・。」


 再び、祐也は視線を外した。

 おそらく、今日は言いたい事を事前に考えてあったのだろう。

 感情に任せて喋っているようには思えなかった。


「萌ちゃんはオレとは違ったよ。流されなかった。逃げなかった。それだけ想いが強かったのだろうね。だから尚更晃君がムカついた。萌ちゃんにこんなにも想われているのに・・・さ。」


 落ち着いた喋り方。

 淡々と、でも大事なところは感情を込めて話す。

 こういう話し方をすると、人に伝わりやすいのだろう。

 テニス部の部長をして、

 学級委員をして、

 生徒会副会長を務め、人前で喋ることなんて慣れているのだろう。

 人に何かを伝える。

 あいつにも・・・ 


「晃君高校から県外出るんだって?」

「ああ。」


 急に話の方向が変わった。

 自分の話は終わったという意図だろうか。


「だったらオレは時間をかけようかと思って。今すぐ萌ちゃんと付き合うだけが結果じゃないし。高校生になってからでもいくらでもチャンスはあるしね。」

「晃君には冬休みに入る前に伝えときたかっただけだから。それだけ。」


 おいおい。

 それだけって・・・

 けっこう喋ってたぞ。

 もう昼休み終わるし。


 俺の昼休みが・・・

 祐也の長話で潰れたんですけど。


 あいつ、手紙なんて書いていたのか。

 喋るの苦手そうだしな。

 無難な手段か?


 じゃなくて。

 やっぱり告白してたのか祐也。

 返事は・・・

 祐也の話からして断ったってことか。


 なんだ。

 情けなねーけど。

 どっかで安心している俺がいる。

 だっせー。



「あれ、晃君タケが探しに来てたぜ。」

「ああ。」


 教室に戻ると予鈴ギリギリの時間だった。


「昼休みどっか行ってた?」

「ちょっとな。」

「椎名萌とデートですか?」

「違うし。」


 健太にまでからかわれるとは。

 いったい噂というのはどこからどうやって伝わっているのか。

 それがわからないようになっているから噂なのだろうけど。


 椎名萌と松岡聡一、

 椎名萌と芳沢、

 椎名萌と俺・・・か。

 お騒がせな女。



 放課後。

 今日はタケと買い物に行く約束をしていた。


「あっ!椎名、何食ってる?!」

「ごめんなさーい。生活委員の竹田くん。」

「おまえ悪いと思ってないだろ。」

「思ってます。思ってます。はい。」


 鞄を持って五組へ向かうと

 廊下まで聞こえてきたのはタケとお騒がせ女の会話。


「おいしい?」

「まあまあな。」

「はいこれで共犯。」

「椎名―!!」

「あはは、怒らないでって。ひゃあああー@※@※@」


 タケに首をくすぐられ、悲鳴を上げていた。


「タケやん、首はやめてっってばっ!」

「早く日誌書けよ。戸締り見てくるから。」

「はいはい。書きます――ひゃあああー@※@※@」


 今のは俺。

 久しぶりにくすぐってみたが、

 相変わらず首は弱点のようだった。


「ちょ、だ、誰??」

「タケ、終わるか?」

「おう。もう少し。」

「あきちゃん?!」


 タケが生活委員の当番で遅くなるというのは聞いていたが。

 椎名萌が今日日直だったとは知らなかった。


「あきちゃんも食べる?」

「おいっ、椎名!」


 一人席に座って日誌を書いている椎名萌。

 どうやら菓子を食べていてタケに見つかったらしい。


「チョコか。甘いな。俺のガム食うか?」

「おいっ!晃!」


 戸締りチェックをしているタケ。

 三人しか残っていない教室に響き渡る声。


「ったくおまえらは生活委員の俺の前で堂々と菓子を出すな!」

「あきちゃんありがとう。」

「そして食うな!」

「あきちゃんタケやん待ってるの?」

「ああ。」

「おまえら俺の話聞いてないだろ!」

「一緒に帰るの?」

「買い物。」

「おれは何も見てないからな!」


 なんだかんだいって、タケもこいつには甘い。

 まだ時間がかかりそうなので、椎名萌の前の席に座ることにした。


「買い物って・・・参考書?」

「いや、ゲームの発売日。」

「えー、ゲーム?受験生なのにゲーム?」

「受験は関係ねーだろ。」

「余裕だね。」


 同じクラスになったことがないから、

 こいつの字を見る機会はあまりなかった。

 学級日誌の半分位書き進められていた。


「椎名、早く日誌書けよ。晃とゲームが待ってる。」

「わかったよー。でも手が冷たくて思うように動かないのよ。」

「今日雪降ったもんな~。」


 タケが窓の外を見ながら言った。

 椎名萌は持っていたシャーペンを置き、両手に息を吹きかけて暖めている。

 目の前の、その手を握ってみた。


「冷たいな。」


 そういえば、こいつの手は冷たいことが多い。

 この間は手袋を忘れたとか言ってたか。

 室内でもこんなに手が冷たいのか。 


「隣行ってくるから戻って来るまでに書いとけよ。」

「は、はい。」


 教室を出て行くタケ。


「おまえ手も小さいな。」


 まだ冷たさの残る手を、自分の右手を広げ合せて比べてみた。


「第一関節より下だな。」

「そ、そう?」

 

 小さい手が・・・

 離れていった。

 再びシャーペンを握り、日誌を書き始めた。


 今日は二つに結んだ髪。

 俯いた体勢からは、前髪が顔にかかっていて表情が見えない。

 

 秋になって縛り始めた髪。

 初めて手をつないだ夏は肩上で短かった髪。

 三年になって髪をばっさり切った時、

 失恋したとか噂になったか。


 でも椎名萌が祐也を好きだったのって二年の話しだろう。

 べつに、何で髪を切ったのかなんて今更興味は無いのだけれど。


 今日、祐也の話の中で思ったこと。

 適当に聞いていたつもりだったが、

 一つだけ覚えていることがあった。


 自分の恋がうまくいかない時に

 自分が一番自分を嫌いな時に

 そんな自分を好きだという奴が現れたら

 人は簡単にその人の手をとってしまうのだろうか


「な、なに?」


 視線に気がついたのか

 椎名萌が顔を上げた。


「祐也と付き合うのか?」

「えっっ・・な・・・」


 言葉に詰まったその後に、

 出てきたのは涙だった。

 

 やばいと思ったのは俺。

 やばいと思ったのは椎名萌。


「また泣いて・・・」


 慌てて拭おうとしていたので

 その手を取った。

 落ち着かせてやりたかったから。


「だって・・あきちゃんが変なこと言うから・・・」


 まさか泣くとは思わなくて。

 ここで泣くとは思わなくて。

 また俺の言葉で傷つけたことを知る。


「違うのか?」

「違うよぉ。」

 

 こいつの泣き顔はもう何度も見ていた。

 泣いた後の顔。

 でも、目の前で泣いているのを見ると

 俺が泣かせたのだと思う反面、

 俺の前で泣いていることに妙な安堵感を感じている自分がいる。


 自分の言葉で傷つけておきながら

 自分の目の前で泣いているのがたまらない

 この感情はなんだ?


 大事に思う反面、かかわり方が曲がってしまう。

 

 泣かせたのは俺なのに、

 泣いているこいつを可愛いとさえ感じてしまう歪んだ心。


 自分で泣かせておいて、

 自分が慰めてやることで償っているつもりなのだろうか。

 俺は・・・


「あきちゃん、何で祐也の事知っているの?」


 ピタっと泣き止むということもあるのだろうか。

 さっきまで、伝っていた涙を

 頬を、

 この手で触れていたのに・・・

 もう、まっすぐに俺を見つめていた。


「知ってるの?」

「ああ。」


 目を逸らさない。

 逸らそうとしない。


「聞いたの?本人から?」

「ああ。」


 まっすぐな目。

 相槌を打つだけで一杯だった。


「そっか、知っていたのだね。」

 

 そう言うと、再びシャーペンを持ち日誌を書き進める。

 今度は口を閉ざして。


 こいつの涙はどこから来るのだろう。

 この前もそうだった。

 急に泣いたかと思えば、

 次の展開では笑っている。


 以前から表情がくるくる変わる忙しい奴だと思っていたけれど。

 感情が不安定というか。

 人を簡単に信じやすいというか。

 無駄に元気で無駄に笑って無駄に喋って・・・

 でも無駄だと思っていたことも、それは全部こいつな訳で。


 感情が不安定なのは豊かな表現が出来る長所でもあって。

 人を簡単に信じれるのは向き合ってやることが出来る長所でもあって。

 そういうの全部含めて椎名萌の良いところなんだろうなって思う。



 シャーペンを片付け始めた。

 日誌を書き終えたのだろう。

 口を閉ざしている間・・・

 何を考えていたのだろうか。


「なんで泣いた?」

「え?」

「なんで泣いた?」

「えっと、あきちゃんから祐也の事言われたから。」

「辛いのか?」

「う、うん。」


 短時間で、表情を立て直していた。

 俺からの質問には恐る恐る答えている様子だったが。


「辛いから泣くのか?」

「す、好きな人から言われたらショックだよ。」

「ふーん。」


 好きな人・・・か。

 あれが告白だったのかはわからないが

 

 気になるという気持ち

 好きという感情も

 人を好きになるという想いも

 こいつが教えてくれたもの


 あの夏からずっと、それを伝え続けてくれていた。

 秋になって俺の態度が冷たくなっても

 それでも・・・

 変わらず好きでいてくれたのだろうかと


 椎名萌のことが好きだと認めてから気づいたこと。

 あの時は好きだったかもしれないが

 今は違うかもしれない

 昨日までは好きだったかもしれないが

 今日からは違うかもしれない


 人を好きになることを認めた途端、

 人とのかわかわりが怖くなった


 あ。 

 限界だ。

 自分の言動と行動と感情が

 コントロールできなくなる感覚。


 前にもあったから。

 今度はわかる。

 今度は抑える。

 抑えなければ。

 今は・・・

 

「俺は何でおまえが泣いているのかもわからないし、俺といて何でおまえが笑っているのかもわからない。だから俺より祐也と付き合う方がいいだろ。」



 最低だな。

 言葉で傷つけるとわかっていたのに。

 言わなきゃ良かったのに。

 言わなくても良かったのに。



「タケ、俺を殴れ。」

「え、いいの~?じゃあ遠慮なくっ。」

「やっぱいい。」

「おいおい、晃ー。頭冷やせー。」

「わかってる。」


 あの後、タケと合流して。

 ゲームを買ってタケの家に行った。

 今日発売のゲームをやる為に。

 そのはずだったのに・・・


「あいつ、泣いてたか?」

「いや。俺が日誌貰いに行った時は普通だったぞ。」

「普通か・・・。」


 あいつの普通がそもそも理解できん。

 タケから見る普通と俺の普通感覚が同じとも言えないし。


「おいおい晃、どーしたよ?おまえがゲームの封も開けずにここに居ることが信じられんよ。」

「だよな。」

「そんな、マジになっちゃったのか?」

「は?」

「ゲームに手がつかないほど、椎名のこと。」

「んー・・・距離感が掴めねー。」

「めっ、珍しい!雪降るか?大丈夫か?」

「タケ・・・」


 今気づいたのだけど。

 この状況を楽しんでいるのはタケ一人だった。


「悪い悪い。つい・・・な。」


 そう言いながらも、十分楽しそうで嬉しそうな表情をされてますけど。

 それでも何にも言い返せねー。情けねー。


「まぁ、あれだ。椎名は割りとこうなって喜んでるかもだな。」

「えっ?」


 全く意外な言葉に驚いた。

 タケよ、今度は何を言い出すのかと・・・


「晃にさ、それだけ喋らせたのって、かかわりが深くなってるってことじゃん。他人に関心の無かった晃がだぜ。一人の女に、それだけのこと言うんだからさ。」

「晃が何言ってもさ、言葉で傷つくってよりも、まずはそこまで喋ってくれた、自分に興味を持ってもらえたってことが伝わってんじゃねーの。晃が椎名を見る目、変わってんの周りも気づいてるし。」

「そうか?」

「おうよ。いくら付き合ってなかろうが、おまえらってけっこう周りから見ると両想いですっつーオーラ出てんぞ。」

「べつに・・・」

「おまえらの場合さ、付き合うとか付き合わないとかそんな問題じゃないだろうし。いーんじゃん、明日で学校終わりなんだから。変にこじれたまま冬休み入らねーようにだけすれば。」

「んー・・・」

「さっ、考えても答えの出ない面倒くさい問題はやめて、面倒くさくない晃の好きなゲームしよーぜ。」


 真面目に聞いてくれてるのかと思えば

 タケの気持ちはやはりゲームに向いていたようで。

 せっかく買ってきたばかりのゲームをやりたくて仕方のないオーラが出てるし。


「こんな調子グダグダの晃、もう二度と無いかもしれないからな。今のうちにオレが勝っておきたいしー。」


 おいおい。

 そこかよ。


 確かに。

 こんなグダグダの俺、もう二度とあって欲しくはないのだけど。


 昔から人とのかかわりを避けてきた俺にとって

 面倒くさいの一言では片付けられない面倒くさい問題とぶち当たると

 対処法がわからず

 処理する引き出しも足りず

 ここまで落ちてしまうものかと。


 あいつと向き合うと決めたのは俺。

 向き合ったら今度は離さないと決めたのも俺。


 一人・・・

 たった一人と向き合うのに

 これだけの労力が必要だっただなんて。


 どうする?俺。

 面倒くさい。

 あと一日・・・

 面倒くさい。

 明日は終業式・・・

 すんげー面倒くさい。


 でも・・・

 あいつとのかかわりだけは面倒くさいの一言で片付けられないんだ。

 適当にと思っていても。

 適当が出来ない。

 あいつがいつの間にか俺の中に踏み込んできていたように・・・

 俺も今、あいつの中に踏み込んでいるから。

 もう後には引けない。

 もう少しであいつを捕まえられるところまできているのだから。

 

 あの夏の日に・・・

 俺の手で離したあいつを

 今度は離さないと決めたのだから

 向き合うと決めたのだから

 ただ、それだけのこと。




 翌朝。

 二学期終業式。


 いつもの朝のお喋り三人組・・・

 はさすがに今朝は揃っていなかった。

 終業式だもんな。


 登校してすぐに体育館へ移動した。


 長い校長先生の話しを聞きながら・・・

 隣のクラスの女子列から椎名萌の姿を探した。


 身長順に並んでいる列。

 小さいと思っていたが、真ん中位にいた。

 女子の平均身長ってそんなもんだったのかと。


 後姿・・・

 終業式中に後ろを振り向くことはないだろう。

 あいつ真面目だしな。

 そう思うと、ずっと見ていられることに気づく。


 壇上の校長先生を見ているよりもよっぽどマシだろう。

 その校長先生の長い話が終わり、今度は生活指導担当から冬休みの諸注意が始まった。


 今日は一つに結んでいる髪。

 耳の上あたりで結んでいる髪は、ちょうど肩にかかる。

 頭が動くと揺れる髪束。


 こんな風に今まで後姿を見ていたことなんてなかった。


 最も、中一の時は前から数える方が早い位背の低かった俺。

 中二になって伸び始めたが。

 中三の今、クラスの男子の中では後ろから二番目。

 だから、前を向いているだけで三年のほとんどの生徒を見渡すことができている。


 終業式なんて。

 全員が話を聞いているわけがない。

 俯いたままの奴も、キョロキョロと周りを見渡している奴も、あくびをしている奴も

 立ったまま器用に居眠りをしている奴だっている。

 こっそり隣の奴と、前後の奴と、小声で話をしている奴らだっている。


 話を聞いているだけの退屈な時間を

 皆それぞれに工夫して過ごしているのだろう。

 俺があいつを見ているように。

 今までも

 これからも

 誰かをこんなにも見ていたことは無いだろう。

 ただ、それだけのこと。



「晃君、この後暇?」

「バレー部寄ってかない?」


 終業式が終わり、教室に戻る廊下で

 奥井と梶原に話しかけられた。


「今日は用事あるから。」

「そっかー。残念ー。」

「たまには後輩君達に顔見せてやってよ。」

「ああ。」


 奥井と梶原の間に入り肩を組まれる。

 最初はこの二人との身長差に驚いていたが。

 今では三人並んでもそう変わらなくなった。


「そういやさー、晃君って椎名ちゃんと付き合ってるんだって?」

「キャー、おっくんたら、本人の前で直球ー。」


 おいおい。

 二人とも顔近いってば。

 小声で話してくれただけいーけどさ。


「いやー、意外だったなー、椎名ちゃんとは。」

「晃君ってああいう子がタイプだったんだなー。」


 おいおい。

 だから俺まだ何も言ってないんですけど。


「で、冬休みはデートですかい?」

「その前にクリスマス?!いーねー!」

「いや、冬休みは親戚の家で過ごす。」

「そうなの?」

「早速離れ離れー?!」


 おいおい。

 廊下でオーバーリアクションだけはやめてくれよ。


「あ、椎名ちゃん!」

「噂をすればなんとかだね。」

「あれ、おっくんかじくん。」


 おいおい。

 偶然にしてもタイミング悪いし。

 教室に戻るところだったのだろうか、椎名萌が通りかかった。


「はーい、椎名ちゃん元気してた?」

「あはは、元気だよー。二人とも背高いから目立つね。」

「待ち合わせには便利でしょ。」

「あははー、目印?!」

「そうそう。でもねー、今日みたいな全校生徒並んでる時は、目立ちたくないのに先生から目つけられちゃうんだぜー。」

「あ、そうだね、背高いと大変なこともあるんだね。」

「うんうん。椎名ちゃんの好きな奴は背高いの?」

「えっ!?」


 おいおい。

 なんちゅー質問をするんだよ。


「えっと・・・」


 そしておまえもそこで言葉に詰まるなよ。

 奥井と梶原の思うつぼだろ。

 ほら、二人して嬉しそうな顔してるし。


「えっとー・・・」


 だから困った顔するなって。

 だいたい真面目に答えなくてもいいし。

 適当に流せよ。


 困って固まっている椎名萌に対し

 嬉しそうに笑っている奥井と梶原。


 ふと思い出した。

 確か一学期の終わりにも・・・

 終業式の後、こうして奥井と梶原と椎名萌と話したこと。


 あれからもう半年か。

 バレーの試合を見に来て

 引退試合で勝てなくてあっけなく終わった夏だったのに

 なのに・・・

 あいつと行った夏祭りで

 あいつのことが気になって。


 好きだと言われて

 俺も気になると答えて


 気になるという気持ちを知って

 好きだという想いを知って

 好きだということを認めた。


 かかわらないと決めた時も

 結局向き合うことで解決した

 絵と離れると決めた時も

 結局向き合うことで解決した。


 そう。

 椎名萌を好きにならなければ

 絵の道に進んでいなかったかもしれない

 椎名萌に好きになってもらえていなかったら

 今も絵と向き合えていなかったかもしれない


 そう考えると不思議だ。



 いつの間にか質問が変わっていた。


「椎名ちゃん志望校は決めた?」

「・・・T校。」

「おおー!!」

「すっげー、進学校じゃん。」

「おっくんとかじくんは?」

「俺らはK校だよん。」

「え?おっくんかじくん高校も同じところ受けるの?」

「もち!俺らゴールデンペアだからねー。」

「仲良くて羨ましいなー。」

「椎名ちゃん達には負けますわー。」

「ええっ?!・・・えっと・・・・」


 再び言葉に詰まる椎名萌。

 おいおい。

 バレバレだぞ、その態度。


「あら、おっくんたら椎名ちゃんいじめると怒られちゃうわね。」

「あら、かじくんの言う通りね。そろそろ邪魔者は退散しましょうね。」

「じゃーまたねー。」


 最後まで笑顔で去っていった二人。

 廊下に残されたのは椎名萌と俺。


「志望校、決めたのか?」

「あ、うん。」


 前にキタから聞いたことがあったが。

 T校というのは本当だったのか。

 奥井と梶原も驚いていたが、正直な反応だろう。

 実際、椎名萌が成績上位者なのは俺も未だに信じがたいし。

 隣に目線を移す。

 

「あ、あきちゃん。」

「あのね・・・あの・・・」


 また言葉に詰まっている。

 表情も何かを堪えているような・・・


「えっと・・・その・・・」


 またそんな顔させたのは俺か

 この場を変えてやろうか

 このまま話しを聞いてやろうか・・・

 どちらがいいかと考えていると、


「でさー、やっぱ古いじゃん?」

「だよなー!」


 後ろから数名の男子生徒が大声で喋りながら歩いてくるのが見えた。

 話に盛り上がっているのか、四人で廊下を並走している。

 すれ違う他の生徒も自らが避けている。

 話に夢中で直進し続けている男子生徒達が横を通り過ぎようとした時だった。


 リアクションを大きくとった一人の男子が

 弾みで列から飛び出して椎名萌とぶつかりそうになった


「えっ?」


 突然肩を引き寄せられた椎名萌。

 驚いた顔をしていた。


「あっ・・・」


 大声で通り過ぎた男子がぶつかってきたのを

 避ける為だったことを悟ったようだ。


「あ、ありがとう。」


 椎名萌がそう言って。

 俺が肩から手を離そうとした時だった。


「いーねー、ラブラブでぇ。」


 次に通り過ぎた男子生徒の集団。

 その中の誰が言ったのかはわからない。


 こいつにも聞こえただろうか。

 噂のこと、知っているのだろうか。


「俺とおまえが付き合ってるって噂らしいな。」

「えっ?!あ・・・えっと・・・」


 再び言葉に詰まる椎名萌。

 その表情から・・・

 困らせたか。


「あ・・・あのね・・・」


 噂といえば・・・

 三年になって噂話で誤解されたこともあったっけ。

 また変な噂立てられて・・・困ってるか?


 俯いたままのその表情を変えたくて・・・

 目の前の後頭部を叩いてやった。


「あきちゃんやめてよー。崩さないでってば。」


 軽く髪に触ったつもりだったが、

 どうやら髪をぐしゃぐしゃにされたと思われたらしい。

 まぁそれでこの場が和むのならいいのだけど。


「あのね、私・・・」


 あれ。

 まだ続けるのか。

 また言葉に詰まりながら話し始めようとしている。


「わ、私・・・ね・・・」


 よく見たら・・・

 噂のこととか、さっきひやかされたこととかを気にして言葉に詰まっているのではない様子。

 なんだ?

 何か別の・・・

 言いたい事があって言葉に詰まっている・・・のか?


 聞き出してやった方がいいのか

 この場を終わらせてたやった方がいいのか

 判断に迷っていると・・・


「あっきらくーん。」


 聞き覚えの・・・

 馴染みのある声が後ろから降ってきた。


「あっ!」


 と、言ったのは椎名萌。

 やって来たその人物に見覚えがあった様子。


「あらあら、いつぞの・・・」


 顔を上げた椎名萌を見て、

 彼も思い出したようだ。


「えっと、この間はありがとうございました。」

「いーえ。どういたしましてー。えーっと・・・?」

「あ、椎名です。」

「椎名・・・何ちゃん?」

「萌です。」

「萌ちゃんねー。オッケー覚えた。」


 スマイル全開の泉くん。

 女子と話す時はいつもそうだが、椎名萌にも同じだった。


「で、泉くんは何か用?」


 大階段を挟んで別校舎の一組の泉くんが

 わざわざ別方向の四組に来るとは用事があるのだろう。


「いずみくんっていうの?」


 名前を聞いていた椎名萌。

 おいおい。

 また余計なことを・・・


「そう!桐谷泉。泉って呼んでね、萌ちゃん。」

「あ、はい・・・。」


 おいおい。

 いきなり名前で呼び合うのかよ。

 まぁ・・・いいけど。

 俺には関係の無いこと。


「めぐー、ちょっと来てー。」


 五組から呼ばれた。

 声の主は勿論斉藤恵子。


「あ、じゃあ・・・また。」

「うん、またねー、萌ちゃん。」


 笑顔で手を振り見送る泉くん。

 萌ちゃん、萌ちゃんと連呼する泉くん。

 おいおい。

 俺には関係無いだろう。


「ふーん、晃くんが好きになる女の子ね・・・」


 おいおい。

 何の用事で来たんだよ、一体・・・。


「ちょっと意外だった。晃くんって、もっとこう・・・大人しそうな感じの子?好きそうだから。」

「俺も同感。」

「え?そうなの?」

「あいつの第一印象はうるさくて騒がしい馬鹿女だしな。」

「え?え?そこまで言っちゃう??」

「無駄に笑って、無駄に喋って、無駄に元気。」


 そう言う晃の表情に笑みが浮かんでいるのを泉は見た。

 椎名萌のことを話す時の雰囲気が柔らかいことにも気づいた。


「まぁでも、ただの馬鹿女じゃないっつーか。馬鹿は馬鹿なりに気を配って、自分も傷ついて・・・。俺も泣かせてばっかだし。」

「晃くん、確かに変わった。」

「は?」

「うん、うん。変わった変わった。聞いた通-り。」

「何それ?」

「この間、咲良が言ってたのー。」


 咲良?

 この間の事って・・・


「まだ付き合ってんの?」

「いんやー。お友達。」

「ふーん。」


「あ!泉くんだー。」

「泉くん元気ー?」

「おー!カナちゃんに清美ちゃん。元気元気ー。」


 女子生徒に話しかけられ

 再びスマイル全開の泉くん。

 別校舎の廊下だというのに、相変わらず女子からの人気。


「じゃあまたねー。」

「冬休み遊ぼうねー。」


 そういえば、泉くんがわざわざ別校舎まで訪ねて来た理由をまだ聞いていなかった。

 

「で、用事は?」

「うん。咲良が晃くんにフラれたーっていうから、慰め会しようと思って。晃くんも参加しない?」


 おいおい。

 何の慰め会だ。

 誰の慰め会だ。

 何故に俺がそこに行くのか。

 言いたいことは山ほどあったが、冗談にしては変な話だろう。


「じ、冗談でーす。」


 俺の表情を読んでか、

 場面が違うことに気づいてか、再びスマイルを全開させてみた泉くん。


「でも、誘ってるのは本当。今日、一年時のメンバーでクリスマス会やるからさ、久しぶりに晃くんも誘おうってことになって。」

「悪い。夜から用事あるんだ。」

「デートですか?」

「違う。」

「なーんだ、つまんないのー。」


 またひやかしに入るのかと思ったら

 泉くんの表情が急に変わった。


「慰め会ってのも本当。」

「え?」

「咲良、晃くんにカノジョできたのショックだったって。」


 おいおい。

 なんだ、その話。

 だって・・・咲良は・・・


「晃くんは女の子になんて興味無いから、ぼくと付き合った方が楽しいよーって言ったのー。で、結局フラレちゃったのはそのぼく。」

「中学三年間なんてさ、毎年クラス替えだってあるし、委員会とかさ、新しい出会いなんていくらでもあるのに。結局好きになった人は忘れられないみたいよー。」


 ずしんと重たいものを感じた。

 なんだこれ。

 心に突き刺さるこの感情。


 いつか祐也が言っていた。

 どこかで保健医が言っていた。

 キタも・・・

 タケも・・・

 そして咲良も・・・


 椎名萌が教えてくれた

 人の想い・・・か。

 人の想いの重さだ。


 今更気づくなんて。

 今更気づいても・・・

 俺にはどうすることもできない。


「だから、晃くんには後悔して欲しくないんだってさー。あ、ぼくも同じ考えね。」


 今更気づいても・・・

 どうすることもできないだろう。


「泉くんは?まだ咲良のこと・・・」

「ぼくはもう進んだー。咲良にフラれた時にね。次に進めたー。だから咲良も、もう次に進んでるよー。それでいーのさ。」


 そう言うと、泉くんは穏やかな表情を見せながら帰って行った。

 廊下を歩く先々で、女子生徒達に声をかけられながら。


 なんか・・・

 豪く疲れた。

 終業式さえ終われば今日はもう終わったも同然だったのに。

 

 鞄を取りに教室へ入って

 自分の席に腰掛けるともう、立つのが面倒くさかった


 しばらく机に顔を伏せていると

 徐々に教室のざわめきが消えていくのを感じた。


 帰宅時間のピークには

 混雑している廊下も、下駄箱も、玄関口も

 きっと今なら空いているだろう


 誰にも話しかけられずに

 誰とも話さずに

 学校を後にしようと思っていたその時だった。


「あきちゃん。」


 教室に響く一つの声。

 一つだけということは、残っている生徒は他に誰もいないということ。


「あの、少し話してもいいかな。」

「ああ。」


 廊下にはまだ数人の生徒の声が木霊している。

 近くは無い、でもそう遠くもない距離にいるのだろう。


「わ、私ね、あきちゃんとはちゃんと話したいから、今・・・えっと・・・」

「あの、でも言葉にするとうまく伝わるか・・・ちゃんと話を・・・」


 緊張しているのか、文章が支離滅裂になっている。

 そんな目の前で困っているこいつを・・・

 今の俺にどうにかしてやることはできるのだろうか。


「て、手紙とか、じゃなくて・・・あきちゃんとはちゃんと話したいと思ってて・・・」

「だから・・・その・・・手紙は辞めたの。うん。ち、ちゃんと言うことにしたの。つ、伝わるかわからないけど・・・」


 言葉に詰まりながら話しているのを、ただ、見ていることしかできなかったが、

 見ているうちに、だんだんと、困っている表情ではないことに気がついた。

 一生懸命に何かを伝えたがっている?

 手紙?手紙って何のことか・・・


「わ、私ね、祐也とは付き合わない。あきちゃんのことが好きだから。い、今は受験があるからお互い頑張らないとね。お、終わったら・・・また皆で遊ぼうね。」


 まるで吐き出すかのように台詞を並べたような・・・

 ぐちゃぐちゃな文章だったけれど。

 充分だった。

 俺には充分伝わってきた。


「ばーか。」


 そう言って、椎名萌の頭をぐしゃっと撫でてやった。

 俺の手の下に見えた椎名萌の表情。

 笑っていた。

 

 

 手紙のこと、

 ちゃんと話すこと、

 祐也のこと、

 

 祐也に手紙を書いたということはこの間本人から見せられて知っていた。

 そのことは椎名萌は知らないだろう。

 手紙なら、読み返して修正が可能だから

 今のように支離滅裂な文章になることもなく伝えることが出来るだろう。


 でも、そうじゃなくて、そうしなかったのは、

 俺とはちゃんと話したいから

 会って話したいから今。

 だから手紙にしなかった

 逃げなかった

 逃げたくなかった

 そんな気持ちが伝わってきた


 またこいつに助けられたな

 大事な想いを。



 昨日、言葉で傷つけたあいつに

 今日、言葉で助けられた

 そんなこともあるのだと。


 ちゃんと向き合うとどうなるのか

 ちゃんと向き合った先には何があるのか



 見慣れたはずの廊下から見える景色。

 雪をかぶった山々達。

 その雪景色が解けて・・・

 緑色の山々に景色が変わる頃・・・

 春にはもう別々の路を歩むというのに


 今はまだ、解けるはずもないと信じてやまない。

 解けるはずのない安心感。

 まだ知らない

 それが守られた中での安心感だということに

 まだ気づけない

 それが当たり前でなくなるということに


 雪解けまでは・・・

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