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5.秋の空

   1.


 何処か知らないが、でっかい草原が広がっていて。

 心地良い風が吹いていて。

 上を見上げれば俺の好きな空。

 青空。

 なんだこれ。

 夢か?

 夢の中か?


 人影。

 後姿が見える。

 誰だ?

 わからない。

 だんだんと近付いてくる人影。

 俺が近付いているのか?

 影の方が近付いてくるのか?

 わからない。

 そして振り向かない。

 誰だ?

 誰なんだ?

 別に誰だとしてもいいじゃないか。

 誰だとしても関係が無いじゃないか。

 そう、関係ない。

 

 でも・・・

 なんだこれ。

 この気持ち。

 どこかで・・・


 ああ。

 そう。

 気になる。

 気になるだ。

 この感情は。

 気になる。


 ピピピピピピ――――


 いつもの音で目が覚めた。

 そう、いつもの。

 聞きなれた音。


 見慣れない夢を見たせいか。

 夢・・・

 夢か。



 二学期が始まった。

 九月といえど、まだまだ暑い。

 夏休みボケが抜けない奴ら。

 部活ボケが抜けない奴ら。

 微妙な空気の流れる教室で。

 放課後、タケを待っていると椎名萌に話しかけられた。

 少し、日焼けの残る肌が半袖の制服から見えている。


「髪切ったね。」

「切ってない。」

「うそ、切ったよね。」

「見間違え。」

「切ったよね。わかるもん。」

「暑いからな。」

「私も切ろうかな。そろそろ肩についてきた。」


 そう言って、頭を傾げるから。

 視界に飛び込んできた髪に、手を伸ばしたくなる。


「伸びたな。」


 そう言って髪に触れると、表情が変わっていくのがわかる。

 これはこれでおもしろい反応。

 最初は首をくすぐってやろうかと思ったが。


「俺、長い髪って好きなんだ。」

「そ、そうなんだ。」

「それかショート。」

「長いか短いかどっちかがいいってことね。」


 少し残念そうな表情をして笑っているのがわかる。

 が、次の瞬間にはもう違う表情をしている。

 ほんとにこいつの表情は忙しくくるくると変わる。


「あ、私も去年まではもう少し長かったよ。」

「知ってる。」

「そっか。残念だな。私は去年のあきちゃんを覚えていないもの。」


 だろうな。

 おまえは俺のことを知らなかったのだから。

 おまえは俺のことを知ろうとしなかったのだから。

 俺はタケや二宮の周りをウロウロしていた変な女と気付いていたが。


「よく見かけた。」

「その時の私はどんなだったの?」

「変な奴。」

「えっ?変?」

「ぎゃあぎゃあうるさかったな。」

「変でうるさくて…って私良い所ないじゃない。」

「いつも笑ってるから変な奴だと思ってた。」

「楽しかったのかな、毎日が。」

「悩みもなさそうで、バカっぽく見えてた。」

「そうなの?私印象悪いね。」

「でも、悩んでそうなのも見て、ああ、別に変な奴ではないなと思った。」

「そっかぁ。」


 そう。

 いつも笑っている、いつも騒いでいる、唯のうるさい女だと思っていた。

 でも、いつの間にか色々な表情を見ているうちに・・・

 そう、こいつを見ている俺に気付いた。

 俺が、こいつを見ていた。


「お前は?」

「えっ?」

「俺のこと。」


 少しの間が空いた。


「えっと、印象ね。」


 そう言って、話し始めたこいつの表情は、見ていて飽きないくらいくるくると変わる。

 ただのうるさい女だと思っていた椎名萌と普通に会話をする日が来るなんて、去年までの俺には考えられないことだった。


 人とのかかわりが面倒くさかった。

 女子と話すなんてもっと面倒くさかった。

 返事をしないと倍返しで騒がれる女、

 大人しくてちょっときついことを言われるとすぐに泣き出す女、

 自己主張が強く変な正義感を持っている女、

 かかわるのが面倒くさい女子ばかりが周りにいた。


「はじめは怖かったかな。」

「ふーん。」

「話しかけても無視するし、笑ってくれないし。」

「でも、他の人としゃべっている時は楽しそうにしていて、もしかして私嫌われているのかなって悩んだりもした。」

「へー。」

「絵をね、あきちゃんが描いた絵を、あきちゃんが描いてるとは思わなくて、同一人物だと知って驚いたよ。」

「なんだそれ。」

「だんだん話すようになって、優しいとこや笑顔とか見られるようになって、印象変わったよ。」

「ふーん。」


 絵か。

 こいつが見ていた絵は去年の写生大会で描いた絵。

 誰にも気付かれなかった絵。

 誰にも誉められなかった絵。

 誰にもわかってもらえなかった絵。

 俺にはもう一つ、

 もう一つ抱えている絵がある。

 

 目の前で笑う椎名萌。

 俺と向き合って話す女。

 こいつの表情を見ていたいと思った。

 うるさい声も、いつの間にか聞かない日は無くなった。

 気になっていた表情も、

 気になっていた感情も、

 こいつを見ているといつの間にか答えが出ている。

 不思議な女。



「お待たせ、晃。」


 タケが教室に入ってきた。

 椎名萌はヒロアキと千夏としゃべり始めた。

 いつものうるさい三人組。


「KEIGO10月号、さっそく見に帰りますか。」

「おう。」


 始業式が終わると午前で学校は終わり。

 下級生達が部活動に励む校庭を横目に、タケの家へと向かった。


「晃、それ筆ダコ?」


 さすが長い付き合いなだけある。

 小さな変化に気付くタケも俺の事を見てくれている唯一の友達だ。


「ああ。」

「え、じゃあ・・・描いたのか?」

「夏休み暇だったからな。」

「ふ~ん・・・」


 意味深な声。

 だが、それ以上何も聞いてこないタケ。

 わかってくれているから、タケとの付き合いは楽だ。


「ペンだこかとも思ったんだけどさ、勉強じゃあそんなところにはつかないよな。」

「タケは夏休み、塾大変だったのか?」

「おうよ。ほとんど毎日夏期講習詰めで死ぬかと思った。」


 タケは親から決められた進路を進む為に、親の決めた塾へ通わされている。

 なんでも有名な教師のいる塾らしく、入塾するのにも大変なのだとか。

 授業料も高くて有名らしい。


「晃は?学校の夏期講習出てたのか?」

「気が向いた時だけ。」

「はは。晃らしいな~」


「絵、どこで描いてたんだ?家じゃ描きづらいんだろ?」

「美術室。」

「あ、そっか。課題やっていいって、夏休み美術室開いてたんだっけか。」

「そう。」

「誰か来た?」

「誰も。」

「だよな~はは。選択授業の課題に誰も真面目に取り組まんよな~。」


 夏の空。

 あの夜、急に描きたくなった。

 暗闇の中に射したもの。

 それは月明りだったのか、

 それは街灯だったのか、

 光だったのかさえわからなかった。

 

 それでも・・・

 夏の空、夏の風、夏の音。

 感じたくなった。

 手を・・・

 動かしてみたくなった。

 何年振りだろうか。

 授業でも、課題でもなく、

 自分の意思で絵を描いた。

 


 その夜だった。


 まただ。

 またあの夢・・・

 続きか?

 いや、違う。

 広い草原のような景色が一面に広がっている。

 心地良い位の風が吹いている。

 そこに立つ一人の女性。

 俺が近づいていっているのか、

 相手が近づいてきているのかはわからない。

 誰なのか。

 誰であろうと関係はないのだが、

 気になってしまう。

 誰なのか。

 その後姿は・・・


 白い壁。

 白い天井。

 どうやら目が覚めてしまったようだ。

 最近、同じような夢を見て目覚めることが多い。

 覚えている時もあれば、覚えていない時もある。

 いったい何なんだ。

 何なんだ、この夢は。



 始業式の翌日から試験が始まった。

 部活動も引退し、いよいよ受験生となる二学期。

 まだ蒸し暑く夏は終わっていないのに、もう秋になったから受験生だと決め付けるかのように試験が押し寄せてくる。

 もう今までとこれからは違うのだからと強引に先へ進めようと。


 当たり前の事だが、受験対策の試験であって。

 出題範囲は中学3年間分。

 今までの定期試験とは違い、範囲は全て。

 限られた範囲さえ勉強しておけば解ける試験とは人縄ではいかない。

 今更気付いた訳ではないが、今回の試験の手応えは正直言うとあまり無い。


 塾の夏期講習詰めに遭って死ぬかと思った位勉強したタケ。

 俺は・・・

 夏休み後半、穏やかな気持ちで過ごしていた。

 まるで受験生ということは頭から離れてしまっていた。

 穏やかに。

 そう、静かに一人で絵を描いていたんだ。



 「ただいま。」

 玄関に見慣れない男物の靴があることに気が付いた。

 亘兄の物ではなかったし、亘兄がこんな時間に帰ってくるはずもないだろう。

 

 その答えは意外なところにあった。


 「おかえりー、晃。手ー洗っといで。」

 

 言われるまま、洗面所へ入ると、台所からばあちゃんの声が続いて聞こえてきた。

 

 「勝が帰って来とんよー。大学はまだ夏休みじゃて。」

 「東北の有名なせんべい買ってきてくれたとよー。」


 勝兄は長男で大学3年。

 東北の大学にスポーツ特待生として入学し、寮に入っている。

 去年も一昨年も正月にしか帰ってこなかったが。

 大学は9月になってもまだ夏休みなのか。


 「よう。でかくなったな。」

 「ほら、晃、座って食べんしゃい。」


 久しぶりに見る勝兄。

 相変わらず体格が良い。

 中学で陸上を始め、県の中学生記録を持っている。

 未だその記録が破られていない為、今でも校長室の前には立派な成績が称えられている。

 その穂高の名に、俺がどれだけ悩まされたことか。


 「勝は来年教育実習さ受けるとよ。」


 嬉しそうにお茶を啜りながら話すばあちゃん。

 三人兄弟の一番上。

 昔からばあちゃんは勝兄を頼りにしていた。

 明るい性格で社交性も有り、近所の人からも勝兄は人気があった。

 スポーツ推薦で東北の大学へ特待入学。

 学費免除に寮生活、家計にとっても出来の良い兄。

 ばあちゃんの自慢の孫だろう。


 「それで帰ってきて学校さ挨拶行って来たんで。」


 別に興味の無かった俺は、一応お茶の場に付き合ったが勝兄と話すことはなかった。

 物心付いた頃から、兄達に嫌われていたから。

 6つ歳が離れた勝兄は小学校に上がる年に母親を亡くした。

 6年分の母親との思い出。

 小学生になったのに母親が居なかった事、授業参観にばあちゃんが来ていた事、色々と思うことはあっただろう。

 頼りのばあちゃんは俺の育児にかかりっきりだった頃でもあったし。

 生まれた時から母親を知らない俺にとっては、母親が居ないことが当たり前だったから、学校でも授業参観でもばあちゃんが居るのが当たり前だった。

 ただ、それだけのこと。

 弟を可愛がれ無かった。

 ただ、それだけのこと。



 “コンコン”

 部屋に戻るとノックをされた。

 一応教科書を開いたが、勉強しているフリと思われただろう。

 不自然さが残ってしまった。


 「ちょっといいか。」


 意外な訪問者は勝兄だった。

 お互い顔は見なかった。


 「受験校は決めたのか?」

 「一応。」

 「ふーん。」

 

 沈黙と同時に、勝兄の視線が部屋中に向けられていることに気が付いた。

 いや、気付くのが遅かったのだろう。

 既に。


 「今日おまえの学校行って来たんだけど、」


 そういえば。

 さっきばあちゃんが、教育実習の挨拶とか話してたか。

 それってうちの中学の事だったのか。

 教育実習ってことは、勝兄教師になるつもりなのか。

 べつに、どうだっていいけど。

 今年卒業する俺にとって、教育実習なんて関係が無いのだけれど。


 「おまえさ、絵まだ描いてるんだって?」


 緊張感。

 いや、違う。

 血の気が引くというのはこういう時に使う言葉なのか。

 と、冷静にも自分を分析している俺がいた。


 「美術の先生、俺の元担任だからさ。おまえが絵を描いてること嬉しそうに話してくれたよ。」

 「まぁ・・・亘には見つからねーようにな。」

 「受験勉強頑張れな。」


 最後の方は勝兄が何を言っていたのかさえ、覚えていない。

 覚えているのは・・・

 絵をまだ描いているのか の台詞。

 この台詞が頭から消えなかった。

 絵を・・・

 知られた。

 絵を描いていたことを・・・

 知られた。

 絵に興味があることを・・・

 気付かれた。

 絵に未練があることを・・・

 気付かれた。

 ただ、それだけのこと。




 またか。

 あの夢だ。

 またいる。

 あの女性。

 後姿だが、髪が長い。

 いつも俺は声をかけない。

 いつも俺は触れようとしない。

 でも・・・

 徐々に近づいている。

 相手が近づいて来ているのかはわからない。

 誰だ。

 誰なんだ。

 いったい・・・


 何で俺の夢に出てくる?

 何で俺の夢に・・・


 手を伸ばしてみる。

 届く距離に腕がある。

 細い腕。

 女の腕。

 掴んで・・・

 振り返えらせたその姿は・・・


 “ガバッ!!”

 勢い良く体を起こしたせいで、枕元に置いてあった参考書の山が床に崩れ落ちた。

 その音で、現実に。

 一気に目が覚めた。


 目覚まし時計を見ると6時半。

 まだ起床時間の針まで辿り着いていなかった。

 8時に家を出れば間に合う距離。

 だが、早く家を出ることにした。

 勝兄と朝食の時間に顔を合わせたくなかった。



 学校へ着くと7時半。

 校庭には朝練に励む運動部の下級生達が見える。

 九月一週目の朝はまだ蒸し暑さが残っている。

 それでも、誰もいない校舎の中はひんやりしていた。

 教室へは行かず、図書室へ向かった。

 静かな廊下に響く、自分の足音だけを聞くとなんだか安堵を覚えた。


 誰もいない図書室。

 本の匂い。

 木の長机。

 そこに彫られた様々な落書き。

 きっと何年も前から彫られてきたのだろう。

 好きな芸能人の名前、卒業年月日、誰かと誰かの相合傘・・・

 勝兄も、亘兄も、

 ここに座っていたのかもしれない。


 今朝見た夢を思い出す。

 慌てて起きたせいで、普段使わない筋肉を使ったのだろう。

 背中に少し違和感を感じる。

 慌てて起きたのは、目を覚ましたかったから。

 目を覚ます必要があったから。

 早く現実に。

 一刻も早く夢を終わらせたかったから。


 夢の中でずっと立っていた女性。

 青空の日もあれば、無着色の空の日もあった。

 背景は違えど、女性はいつも立っていた。

 俺は話しかけようともしなかったし、

 振り向かせようだなんて思わなかった。

 でも・・・

 近づいて、手を伸ばせば届く距離になってしまった。

 振り向かせてしまった。

 あいつだった。

 振り向いた顔、あいつだった。

 振り向かせた女、あいつだった。

 そう。

 椎名萌。

 

 夢。

 そう、ただの夢。

 ただ、それだけのこと。



 図書室に人が入ってきた。

 気がつくと登校時間になっていた。

 図書委員だろう。

 本棚の整理を始めていた。

 俺は静かに図書室を後にした。


 教室までの道、避けて通ることもできたのだが、美術室の前を通った。

 今はもう飾られていない絵。

 去年までは飾られていた俺の絵。

 賞を取るつもりで描いたわけではないのに。

 選ばれてしまった俺の絵。

 誰にも気付かれなかった俺の絵。

 誰にも誉められなかった俺の絵。

 誰にもわかってもらえなかった俺の絵。

 もう、いいじゃないか。

 十分じゃないか。


 「まだ絵を描いているのか」

 勝兄の台詞が頭の中で繰り返される。

 エンドレスリピート。

 まるで、俺の生き方そのものだ。

 勝兄に知られてしまった。

 絵を描いていること。

 勝兄に知られてしまった。

 絵に興味があることを。

 勝兄に知られてしまった。

 絵に未練があることを。


 俺が絵を描くことは家族を悲しませる。

 俺が絵を描くことは俺の立場も悪くなる。


 わかっていることではないか。

 わかっていたことではないか。


 なのに・・・

 なんで・・・

 こんな大事なことを忘れていただなんて。

 こんな大事なことを忘れていたんだ。



 「あきちゃん、おはよー。」

 

 いつもの声。

 いつものうるさい女。

 そう、いつもの。

 でも、顔を上げることができなかった。

 あいつの顔を見ることができなかった。

 振り向かせてしまったあいつの顔は。

 ただ、それだけのこと。



 家に帰ると、男物の靴は無くなっていた。

 勝兄、出かけているのか。

 

 「おかえりー、晃。」

 

 和室から聞こえてくるいつものばあちゃんの声。


 「勝、高校の友達に呼ばれたとて、今夜は遅くなるそうや。」

 「そう。」

 「せっかくこっち帰っと、家でゆっくりする時間も無いがや。」

 「勝は昔から友達ぎょーさんおったからね。母親おらんで寂しいのを友達と遊んで紛らわしとったんかねー。」


 俺は何も言わずにばあちゃんの煎れてくれた麦茶を一気に飲み干した。

 何も言えない。

 俺には何も言えない。


 「勝な、卒業したらうちに帰って来ると。」

 「こっちで教員試験さ受けると。」

 「勝が教師ば・・・なんか信じられんねー。」


 ばあちゃんの嬉しそうな声。

 勝兄が家に戻ってくる事、教師という立派な職業に就く事、

 どちらもばあちゃんにとっては幸せな報告だったのだろう。


 「晃は?」


 ばあちゃんの惚気話から、一気に現実に引き戻されたので焦った。


 「晃は進路どうするん?来月にはほら、あるじゃろ、三者面談。」

 「ああ。」

 「晃はなりたい職業とかあるん?」

 「べつに。」

 「べつに。て、無いんかいな。勝みたいに教師とか、亘みたいに医者とか。」


 い、医者?

 おいおい。

 亘兄が医者を目指しているだなんて話、初耳だぞ。


 「晃は・・・」

 

 そう言ってばあちゃんが言葉を選ぶように話し始めたのがわかった。

 勝、亘、晃。

 それぞれに対する想いがばあちゃんにはあるのだろう。

 男三人兄弟をばあちゃん一人で育ててくれたのだから。


 「晃は自分のやりたい事をやればいいんよ。勝もそう言ってたがや。」

 「あんまり無理せんと、頑張りすぎんようにな。」


 そう言うと、先に席を立ったのはばあちゃんの方だった。

 麦茶のポットを持って。

 ばあちゃんの煎れる麦茶。

 夏の味。

 毎年当たり前のように飲んできた味。

 九月に入ってもまだまだ暑い日が続いている。


 ばあちゃんが何を言いたかったのか。

 勝兄はばあちゃんと何を話したのか。

 勝兄は、ばあちゃんに俺の話をしたのだろうか。

 ばあちゃんは勝兄から俺の話を聞いたのだろうか。


 「まだ絵を描いているのか」

 止まることのないリピート中の台詞。

 ばあちゃんは知っているのだろうか。

 ばあちゃんもそう思っているのだろうか。


 ばあちゃんを悲しませただろうか。




 「あきちゃん、おはよう。」


 翌朝も、いつものように朝が始まった。

 下駄箱で声をかけられたが、返事はしなかった。

 いつものこと。

 教室まで隣を歩くこいつの顔が見れなかった。

 隣にいるこいつの顔が見れなかった。

 隣で話す椎名萌の声が耳に入ってこなかった。

 ただ、それだけのこと。


 教室に入るといつものようにうるさい三人組が喋り始めた。

 いつものこと。

 でも、うるさく感じなかった。

 あいつらの声が耳に入ってこなかった。


 あいつの顔が見れないのも、

 あいつの顔を見なくてもべつにいい。

 あいつの顔を見たいと思わないから。


 あいつの事が気にならないのも、

 あいつの事を気にしなくてもべつにいい。

 あいつの事を気にかけたいと思わないから。


 俺は・・・


 俺が絵を描くことは家族を悲しませる。

 俺が絵を描くことは俺の立場も悪くなる。


 わかっていることではないか。

 わかっていたことではないか。


 こんな大事なことを忘れていただなんて。

 

 人とのかかわりが面倒くさかった。

 女子と話すなんて、もっと面倒くさかった。

 かかわるのが面倒くさい女子ばかりが周りにいた。

 椎名萌は最初からうるさくて騒がしい女だった。

 借り物が多く、度々やってきては騒いで去っていく。

 いつも笑っていて、いつも喋っていて、無駄に明るくて元気で。

 ばかな女だと思った。

 何の悩みもないばかな女だと思っていた。

 かかわりたくないと思っていたのに。

 面倒くさいと思っていたのに。

 なのにあいつはどんどん俺の中に入ってきた。

 気付くと・・・

 俺があいつを目で追っていた。

 俺があいつを見てしまった。

 

 もういいじゃないか。


 俺は大事なことを思い出した。


 もういいじゃないか。


 俺は自分の道を進む。


 あいつとかかわるのはもうやめよう。




 数日後、勝兄は寮へ帰った。

 ばあちゃんに、勝兄が何を話したのかはわからない。

 勝兄がばあちゃんに俺の話をしたのかはわからない。

 あれからばあちゃんも何も言ってはこない。

 それでいい。

 それでいいじゃないか。

 ただ、それだけのこと。




     2.



 休日。

 タケの家へ遊びに行った。

 インターホンを鳴らすと、いつものお手伝いさん・・・の明るい声ではなく、明らかに不機嫌な声の持ち主だった。

 

 「何か?」

 「穂高です。」

 「ああ。雅史は今勉強中だからまたにしてもらえるかしら。」

 「はい。失礼しま・・・」

 

 こちらの声を最後まで聞かずにインターホンは切られたようだ。


 休みの日にお手伝いさんが居ないのは珍しいことではないが。

 社長と副社長のタケの両親が家に居るというは珍しかった。


 何かあったか。タケ。


 いや、今の感じだと俺も相当気に入られていない感じだったな。

 タケと友達になってから二年が経とうとしている。

 頭が良く、成績は常に十位以内。

 親が会社の社長だというお金持ちの一人おぼっちゃん。

 一年の時に同じクラスになったタケは、出身小学校の違いもあり、クラスでいじめの対象になっていた。

 偶然、席替えで隣の席になり、雅画伯の写真集、KEIGOの雑誌と共通の趣味を見つけ友達になった。

 中学で同じ美術感覚を得ている奴に出会えるとは思っていもいなかった。

 物持ちなのは家が裕福だから。

 物知りなのはそれだけ本を読んでいるから。

 金持ちなのも、一人っ子なのも、タケが悪いわけではない。

 子供は親を選ぶことができないのだから。

 そして、タケの将来は親の会社を継ぐと決められている。

 親の決めた大学に入る。その為に親の決めた塾へ行かされている。

 高校までは自由にやっていいと言われていたはずだが。

 

 受験シーズンの始まった日曜に、友達と遊んでる時間は無い。

 そんなところか。



 市立図書館に寄って画集でも眺めようかと思ったが、

 館内に入る前に気付いた。

 明らかに、いつもより停まっている自転車の台数が多い。

 自転車置き場から溢れている。

 塾の帰りに図書館で勉強か。

 そんなところだろう。

 こんなところで学校の奴と顔を合わせるなんて面倒くさい。

 もはや秋の図書館は静かに過ごせる場所では無くなったようだ。



 足取り重く、家に帰ると珍しく父親が居た。

 こんな田舎から都内の大企業に勤めている父。

 主要都市に支店を構える企業らしく、父は日本全国を飛び回っている。

 出張、出張、また出張。

 たまに家に帰ってきたかと思えば、半日も居ないで出かけていくこともある。

 ばあちゃんに三人息子の世話を預けたまま。

 べつに、今更。

 父親が家に居ようが、居まいが、どうでもいいことだが。


 何となく嫌な予感はしていたが。

 やはり父親が居るということは、単なる休日ではなかった。

 玄関で靴を脱いでいるとばあちゃんに肩をたたかれた。


 「晃、父さんが話があるて。」


 居間に入ると、父親と、ばあちゃんと、亘兄。

 何故、亘兄まで?

 と、思ったが、

 三人の表情を見てわかった。

 なんとなく、大体、わかった。


 「俺は絶対嫌だからな。こいつの為に俺が被害を被るなんて。」

 「亘、いいかげんにしなさい。」

 「晃、座りなさい。」


 久しぶりに見る父親。

 久しぶりに聞く声。

 正月にちらっと顔を見たきり。

 その後は・・・

 そういえば、前回もこんな感じでもめてたことあったっけか。

 亘兄が俺を睨んでたっけな。

 余計なこと言うなよ的な目で。

 今回は・・・


 「晃、来月の三者面談、父さん出るから。」

 「うん。」

 「高校はもう決めたのか?」

 「うん。」

 「そうか。塾へは行っていないようだが?」

 「フラフラ遊び歩いてるような奴に塾なんて行かせることねーよ。」

 「こりゃっ、亘。」

 「だから、父さん、俺にもう一つ塾行かせてくれよ。俺絶対、医大に合格してみせるから。」

 「亘、今は晃と話してるんだから待ちんしゃい。」

 「だって、医大目指す奴らはもっと有名な塾を掛け持ちしてるんだぜ。そりゃ、俺が私立の高校通ってるってだけで金かかってんのはわかってるけど、それでも勉強しないでフラフラ遊んでおまけにまだ絵を描いているような奴にかける金があるなら、もっと俺にかけてくれたっていいだろ!」


 これにはばあちゃんも亘兄を止めることをしなかった。

 父親は、展開についていけないという表情をあからさまに出していた。

 ばあちゃんはどこまで知っていたのか、混乱ではなく困った顔をしていた。

 最後まで言い切った亘兄だけが、すっきりした顔をしていた。


 「亘がもう一つ塾に通いたい話はわかった。うん。検討しよう。それで・・・」


 父親は一つ一つ整理するかのように、自分に納得させながら喋っているのがわかった。

 ばあちゃんも隣で一生懸命頷いていた。

 亘兄の表情にはすっかり余裕が出ていた。

 次の攻撃に備えて準備を始めているかのように。


 「晃は・・・オホン。」

 「つまり・・・晃は、塾へは行かない。絵を描いていた・・・ということか?」


 父親の口から絵という言葉。

 描くという言葉。

 ばあちゃんの顔から、悲しみという表情。

 それだけで十分だった。

 充分だったよ。


 俺が絵を描くことは家族を悲しませる。

 俺が絵を描くことは俺の立場も悪くなる。


 わかっていることではないか。

 わかっていたことではないか。

 こんな大事なことを忘れていただなんて。

 俺はどうかしていた。

 俺はどうかしていたんだ。


 「高校はM校を受ける。」

 「は!見ものだね~。俺が落ちたM校とはずいぶん生意気なこと言ってくれるね。」

 「こりゃ、亘、辞めんしゃい。」

 「だってそうだろ、塾にも行かず、勉強も中途半端な奴に簡単にM校の名前を出されちゃさー。」

 「もう、亘は終わりにしんしゃい。」


 攻撃の準備はどうやら間に合ったようだ。

 そうくると踏んでいたのか。

 その割りには普通の嫌味だったな。

 もっと痛いところを突かれるかと思っていたが。

 まぁ、

 お陰ではっきりしたけどね。

 俺も。

 目が覚めた。


 高校受験、亘兄は第一志望のM校に不合格。

 滑り止めで合格していた私立の学校に通うことになった。

 「おまえのせいだ。」

 亘兄にそう言われた。

 俺が居なければ、俺なんかが居なければ。

 合格したのか?

 ただの八つ当たり。

 そんなのわかっていた。

 

 中学に入学すると、担任の先生から、穂高兄弟の三番目か。と言われた。

 兄貴達がそれだけ優秀だったということだろう。

 勝兄がスポーツ推薦だろうが、

 亘兄が成績優秀者だろうが、

 別に俺には関係ない。

 そう思っていた。

 だが。

 こうも考えるようになった。

 亘兄が出来なかったこと。

 亘兄の落ちたM校に、俺が合格したら・・・

 そんなことを考えなくも無かった。

 

 それが今、現実になっただけ。

 ただ、それだけのこと。 

 

 「じゃあ、晃、来月の三者面談で。」


 最後に父親らしい台詞が言えて終われることができたか。




 翌日。

 先日の試験の結果が出た。

 廊下の掲示板に上位三十名の名前が張り出される。

 いつものことだ。

 そう、いつもの・・・


 廊下にざわめきが広がる。

 なんだ?

 そのざわめきと、この結果がつながっていたのかなんてわからない。

 誰も俺の順位を気にする奴なんていないだろう。

 順位を落した。

 十位内に名前が無かった。

 ただ、それだけのこと。



 「晃、どうした?」

 

 教室にタケが入ってきたことさえ気付いていなかった。

 慌てて時計を見る。

 昼休み中だった。

 一瞬、今自分の位置がわからなくなっていた。

 

 「昨日、悪かったな。」

 「ああ。」

 「塾で全国模試受けたんだけどさ、運悪く、昨日結果持ち帰っちゃって。母親にバレて大変だった。」


 全国模試か。

 俺が夏に一度だけ受けた校外模試は県内模試だった。

 その時は適当に合格圏内の高校名を書いたっけ。

 M校を意識してなかった頃だからな。

 確か、書いた三校の合格率は合格圏内で良い結果だった。

 M校、今の俺には何パーセントの合格率なのだろうか。


 夏休み、勉強した奴らとしなかった奴の差があきらかに出ていた。

 掲示板の校内順位、記載された名前に変動が現れていた。

 相変わらず首位を独占し続ける松岡。

 十位圏内を外れたことのないタケ。

 十位圏外に出された俺。


 「タケは高校決めた?」

 「それがさ、うち大学は親の決めたところって言ってたじゃん。」

 「ああ。」

 「高校までは自由にしていいって言ってたのにさ、昨日母親が県内で一番の高校を受けなさい。とか言い出しちゃってさー。」

 「M校か?」

 「そう。おれには絶対無理だって言ったんだけど。」

 「無理なのか?」

 「おいおい、晃ー。M校って言えば超がつく公立の進学校だぞ。私立より金かからんし、有名大学への進学率も高いしさ。親孝行だって。」

 「タケ四位じゃん。」

 「いやいや、今回の校内模試で四位っつっても当てにならんよ。県内模試とか全国模試で他の中学の奴らと戦ってみないと。」

 「その全国模試何位?」

 「聞いて驚けよー。なんと、五百八十八位!」

 「・・・・。」

 「微妙でしょー。」

 

 全国模試を受けたことのない俺にとっては、五百八十八位が良いのか悪いのかはわかるはずもなかった。

 単純計算で・・・

 全国都道府県四十七で割ったとして・・・

 四百七十位くらいの位置だと、県内で十番に入るってことか??

 そんな単純計算が通用するはずがないか。


 「まぁ、万年一位の松岡聡一なら受かるんじゃん。おれはせいぜい頑張って次のランクのT校かな。そもそもさ、担任からM校の受験許可下りないって。」


 M校。

 タケで無理なのか。

 校内一位の松岡か。

 県内、各中学校の一位の奴を集めたら・・・

 定員分の百八十名なんて簡単に集まるか。

 

 校内一位か・・・

 亘兄も一位、とったことあったんだよな。

 一位とっても、M校不合格。

 悔しかったんだろうな。

 でも、まぁ。

 そんなの誰だって同じだ。


 M校か。

 まずは受験できる範囲、校内試験で二、三位までに入らないとだな。




 「ただいま。」


 家に帰るとばあちゃんのいつもの返事が無い。

 ついに耳が遠くなったか。

 そんな風に思いながらも、もしもの事を考えて、一応居間を覗いてみる。


 なんだ。

 いるんじゃないか。

 居間の先の縁側に座って外を見ているようだった。

 聞こえなかったのか。

 やっぱり耳が遠くなったのか。

 俺が居間に入った気配にも気付いていないようだった。


 「ただいま。」


 今度は聞こえたようで、慌てて振り返っていた。

 着替えに二階へ上がろうとすると、ばあちゃんに止められた。


 「晃、昨日の話かて・・・」

 「なに?」

 「父さんも、ばあちゃんも、同じ気持ちじゃって。」

 「うん。」

 「晃、昨日はああ言ってたけんど、本当は別のことあるんじゃなかと。」


 縁側に腰を下ろしたまま、ばあちゃんは俺の方を振り返らずに続けた。

 空はちょうどオレンジ色に染まっていて。

 きれいな夕日が縁側の床板をオレンジ色に染めていて。

 昔、縁側でしていたお絵かきの事を思い出させた。

 こんな時に。


 「晃、自分のやりとう事あるんだったら・・・」

 「べつにないよ。」

 「父さんも、ばあちゃんも、反対したりせんよ。」

 「ないよ。」

 「晃は、晃の好きな道を進めばいいんよ。」


 自分の好きな道・・・

 昔、縁側でクレヨンを使っていて。

 夢中になって描いていたら紙をはみ出して床板に描いてたことがあった。

 絵の具を使っていた頃は、

 バケツの水を取替えに行くのが面倒くさくて縁側から庭に撒くところを見つかって。

 どんな時も、ばあちゃんが見てたっけ。

 俺が絵を描いていた時、ばあちゃんがいつも側にいた。

 

 そのばあちゃんを悲しませたのは俺。

 そのばあちゃんを悲しませたのが俺。


 お絵かきだったから良かった。

 ただの、お絵かきだったなら良かった。


 絵を描くと、上手く描けるようになると、ばあちゃんが喜んでくれた。

 絵を描くと、上手に描けるようになると、学校の皆が誉めてくれた。


 小四の時、絵で賞を貰うまでは。

 賞を貰うと、学校の先生が喜んでくれた。

 賞を貰うと、クラスの女子が誉めてくれた。

 賞を貰うと、クラスの男子に生意気と言われた。

 賞を貰うと、ばあちゃんは喜ばなかった。

 賞を貰うと、父さんは誉めてくれなかった。

 賞を貰うと、兄さん達は余計に冷たくなった。


 幼少の俺、小学生の俺、中学生の俺、

 母親は居なかったけれど、母親に対しての考え方も感情も芽生えていった。

 歳を重ねる毎に母親の存在を意識している。

 母親を知らないから、俺はまだ救われている方なのかもしれない。

 母親を知らないから、平気で絵が描けたのかもしれない。

 兄達は・・・

 母親を知っているから。

 絵を描く母親を知っているから。

 辛いのかもしれない。

 父親も、ばあちゃんも。


 俺が絵を描くことは家族を悲しませる。

 俺が絵を描くことは俺の立場も悪くなる。


 わかっていることではないか。

 わかっていたことではないか。

 こんな大事なことを忘れていただなんて。

 俺はどうかしていた。

 俺はどうかしていたんだ。


 だから、もう辞めよう。

 だから、もう終わりにしよう。


 絵のことは、忘れよう。

 大事なことを思い出したのだから。




     3.



 空の色。

 何色?

 薄暗い色。

 でも地面は緑色。

 心地良い風も吹いている。

 広い草原。

 どこまでも続く空。

 佇む人影。


 またか。

 あの夢。

 もう見ないと思っていたのに。


 なんで俺の夢に出てくる?

 なんで俺の前に現れる?


 徐々に近づいてくる人影。

 髪の長い女性。

 手を伸ばせば届く距離。

 掴めば振り向かせることができる。

 振り向かせたところで・・・

 俺は何もできないのに。

 俺はもう、何もしないのに。


 あいつとかかわるのは辞めたんだ。


 だからもう、振り向かせても・・・


 あの日見た顔。

 あの夏の日、俺が見たあいつ。

 あの夏祭りの夜、腕を掴んで振り向かせたあいつそのものだった。



 一週間が過ぎただろうか。

 椎名萌と目を合わせなくなって。

 椎名萌を見なくなって。


 朝、いつものように挨拶をされたけど、

 会話をしなくなってどれくらい経つだろうか。


 ばか女でもいい加減気付いただろうに。

 少しは静かになったということか。

 俺にあいつを見る余裕もここ数日なかった。

 だから、今日は久しぶりに見た。


 移動教室だった。

 廊下で偶然すれ違った。

 いや、毎週同じ移動経路なのだから、毎週廊下で会ってはいたのだろう。

 気付くか、気付かないか。

 見てるか、見ていないか。

 ただ、それだけのこと。


 最初は下を向いていた。

 だから表情はわからなかった。

 相変わらず二宮の後ろを歩く、金魚のフン。

 相変わらず歩くラジオ中継のような二宮の声。

 いつもは負けないくらいの周波数で喋る椎名萌が、今日は静かだった。

 すれ違う時、一瞬顔を上げた。

 目が合った。

 確かに目が合った。

 泣きそうな顔をしていた。

 それだけはわかった。


 今朝の夢。

 振り向かせたあいつ。

 あの日見た顔。

 あの夏の日、俺が見たあいつ。

 あの夏祭りの夜、腕を掴んで振り向かせたあいつそのものだった。

 

 友達とはぐれ、祭りの人ごみの中、迷子になっていたあいつを見つけたのは俺。

 恐怖心と警戒心の塊で掴んだ腕を振り払われた。

 

 あの時、振り向かせたあいつを・・・

 俺はこの手で突き放す。

 人ごみの中へ・・・

 

 もう、はぐれて見えない。


 これでいい。

 振り向かせてはいけなかった。

 俺が振り向かせてはいけなかった。

 これでいい。


 もう、あの夢は見ないだろう。


 俺は、俺の決めた道を進む。




 「すごい顔してるぞ。」

 

 急に話しかけられ、ハッとした。

 最近自分でもこんなことが多いと自覚はしている。


 「タケか。」

 「どうした?何かあったのか?」  

 「いや、大丈夫。」

 「そっか。」


 こんな時、表情を読み取れるのもタケだけだろう。

 読み取った上で、無理に話そうとしなくてもいいと言ってくれるのが楽である。


 「いや、俺はいいんだけどさ。うん。」

 「あのさ、椎名と何かあったか?」


 珍しく、ここで引かなかったタケ。

 そんなに俺は変だったのか。

 タケがこれ以上突っ込んでくるのは珍しい。


 「べつに。」

 「そっか。」


 父親の事、ばあちゃんの事、兄達の事、

 忘れかけていた大事な事

 今の俺には進む道がある。

 だから・・・


 「椎名はさ、おれには何も言わないんだけど。」

 「まぁ、おれも人の心配しているような余裕も無いしな。うん、べつにいいんだ。」


 そう言うと、帰っていくタケ。

 悪いなタケ。

 今は話せないことが多くて。

 でもいつか、話せる時が来たら、

 間違いなく、一番にタケに話すから。

 タケならわかってくれる。

 俺が進もうとしている道を。

 


 放課後、珍しく関くんと帰り道が一緒になった。


 「久しぶりだねー、あきちゃんと帰んの。」


 部活をしていた頃はよく一緒に帰っていたものだ。

 部活。

 バレー部を引退して二ヶ月か。

 過ぎてみるとあっという間だな。

 二年以上続けてきた活動をぴったり辞めるというのも変なものだが。

 部活動が無くなり、放課後は自由になった。

 拘束されるものがまた一つ減った。


 「コーチがさ、受験勉強ばっかしてると体鈍るからたまには動かしに来いって。」

 「へー。」

 「あきちゃんも行こうよ。おっくんかじくんも誘ってさ。」

 「ああ。」

 「あとねー、今日授業で・・・」


 適当に返事をした。

 関君には悪いが、今はバレーどころではなかった。

 受験勉強で体が鈍るよりも、今まで鈍っていた頭を動かさなければならないのだから。


 「そしたらさー、椎名さんがねー、もう俺可笑しくって!」


 適当に相槌を打ちながら歩いていたつもりだったが、

 その会話だけ鮮明に聞こえてきてしまった。

 上手くやっているつもりだったのに。

 上手くかわしていたつもりだったのに。

 なんだか自分が情けなくなってきた。 


 別に、関君から椎名萌の話が出たっていいじゃないか。

 同じクラスで仲良いのは前から。

 帰り道、椎名萌の話題が出る事だって前からあった。

 ただ、それだけのこと。




 翌朝、下駄箱で会ってしまった。

 

 「おはよう。」


 まっすぐに見つめてくる。

 思わず目を逸らすを忘れてしまった。


 先に視線を外したのは椎名萌だった。

 先に歩き出したのは椎名萌だった。


 俺は外しそびれた視線のやり場に困った。

 仕方ないから、先を歩く後姿を見ていた。

 髪、伸びたか。

 肩まで伸びた後ろ髪を見て思った。


 この間見た時は泣きそうな表情だったっけ。

 今日は普通だったな。

 いつもの顔。

 そして、いつものテンション。

 いつものうるさい三人組。


 教室に入るところまで見てしまった。

 目で追いかけてしまった。

 目が逸らせなかった。

 目が離せなかった。

 あいつから。


 もうかかわらないと決めたのに。

 あいつとかかわるのは辞めようと。


 俺は忘れかけていた大事な事を思い出した。

 俺は俺の道を進まなければいけない。


 絵から離れて

 M校に受かって兄達を・・・

 亘兄の叶わなかったM校合格を・・・

 俺が・・・

 亘兄を越える為にはM校に合格しなければ。

 

 なのに・・・

 何故こんなにも簡単に揺れてしまう。

 あいつを見なければいいのに。

 あいつを気にしなければいいのに。


 今までだってそうしてきた。

 人とのかかわりを避けてきた。

 気にしないこと、見ないフリをすること、

 今までそうしてきたじゃないか。

 

 あいつにもそうすればいい。

 見なければいい。

 気にしなければいい。

 かかわらなければいい。

 ただ、それだけのこと。


 なのに・・・

 何故出来ない。

 気がつくと目で追っている。

 気がつくと視線を探している。

 気がつくとあいつを気にかけている自分がいる。


 苛々する。

 こんな自分に。

 苛々する。

 あいつの泣きそうな顔を見ると。

 苛々する。


 俺の前に現れないでくれ。

 俺の視界に入ってこないでくれ。

 いっそのこと・・・

 俺の前から消えてくれ。




 翌朝の朝食は箸が進まなかった。


 「ご馳走様。」

 「晃、もう食べんのかい。」

 「うん。」

 「ちゃんと食べんと体壊すよ。」

 「平気。」

 「昨夜も遅くまで電気ついとったし。無理せんでな。」


 ばあちゃんはそれ以上何も言わなかったし、

 俺も何も言うことは無かった。


 部活辞めて体動かさなくなった分、食べる量も減った。

 それだけのことだろう。

 いつも通り学校へ行った。


 いつも通りじゃないことが待っていた。

 

 「晃くん、ちょっといいかな。」


 下駄箱で男に待たれる趣味無いんですけど。

 しかも何故、笠原祐也。

 おまけに何故、空き教室へ移動する。


 「オレ、栗原と別れた。」


 は?

 全くもって訳がわからない。

 全くもって興味がない。

 大体、何で普段しゃべったこともない俺に、そんな事を言う必要がある?

 しかもこんな所で。


 「だから、萌ちゃんのこと、オレ諦めてないから。」


 は?

 だから訳がわからないって。

 だから興味ないって。

 大体、何で椎名萌の話しになるんだよ。

 こんな所で。


 「オレ、萌ちゃんのことが好きだから。」 


 は?

 俺に言われても・・・

 ってか、何で俺?

 大体、そんな大事な事は本人に言えば・・・


 結局、俺は何もせず。

 俺は何も話さず。

 祐也は去って行きました。

 何だったんだ。いったい。


 栗原と別れた?

 椎名萌が好きだ?

 だから何?


 ん?

 待てよ。

 椎名萌が好きだって言ってたな。

 まじかよ。

 なんだ、祐也も椎名萌の事好きだったのか。

 なんだ、あいつも祐也が好きだったじゃねーか。


 なんだ、あいつ等両想いだったんじゃねーか。

 ばかみてー。

 やっぱばかだな。

 ばか女。



 朝から無駄な時間を使ったな。

 なんか体だるいし。

 授業出んの面倒くさい。

 朝から無駄なことに頭を使ったせいで。

 まったくだ。


 「おーっす、あっきらくんおっはー。」


 また騒がしいのが来た。

 早く教室に入ってしまえば良かった。

 一歩手前の廊下でつかまった。


 健太もいるし、仕方ない付き合うか。

 亮と北山もいる。

 タケの姿は無かったが。

 相変わらず朝からよく喋る二宮。

 その後ろに・・・

 あいつはいないか。


 って俺、何探してんだよ。

 自分が自分で情けなくなる。 

 もうあいつとはかかわらないと決めた。

 かかわるのを辞めた俺。


 祐也の事だって知るか。

 今更あいつのことが好きだとか、俺には関係が無い。


 「そうだ、あきちゃんてさー、ドラクエどこまで進んでる?宝島もうクリアしちゃった?」

 

 あきちゃんと、未だに男から呼ばれるのは慣れない。

 あいつが勝手につけたあだ名。

 面白がって、周りにいた男子が呼び続けていた。

 

 北山、そういえば。

 ふと思い出した。

 北山と上手くゲームの会話を、表面上はしながら思いついたこと。

 こいつも確か椎名萌の事好きだったよな。

 あからさまな態度、見てればわかる。


 それから・・・

 教室の中を見渡すと、見つけた。

 河野ヒロアキ。

 椎名萌と一年二年同じクラス、同じ部活。

 そんでもって、こいつも椎名萌のことが好きなはず。

 うるさい三人組やってるけど、実は好きな奴がずっと側にいるのに気がつかないばか女。


 そのばか女とはもうかかわらないと決めた。

 なのに、簡単に揺らいでしまう俺の弱さ。


 そんな自分に苛々する。

 椎名萌を好きだという奴を見ていると苛々する。


 だから・・・

 いっそのこと、あいつか誰かと付き合えば、

 そうだ、

 そうか、

 そうだよ、ちょうどいいじゃないか。

 

 あいつが誰かと付き合えば、俺はかかわらなくて済む。

 あいつが誰かと付き合えば、俺は気にしなくて済む。

 あいつが誰かと付き合えば、俺は苛々しなくて済む。

 ただ、それだけのこと。




     4.



 九月最後の週。

 受験生だが、そんな事関係なく行事はやってくる。

 二学期はやたらと行事が多く、面倒くさい。


 体育祭。

 体育祭委員会の奴らがはりきるだけ。

 生徒会の奴らが最後の行事としてはりきるだけ。

 運動部の奴らが一年に一度の見せ場としてはりきるだけ。


 三回目となるが、毎年無難にこなして来た。

 今年も同じ。

 朝は直接、市の陸上競技場に集合して。

 クラス毎の応援席に座って。

 一般公開となるから見に来たい保護者は来ていて。

 熱心なご両親はビデオカメラを回して。

 思い出作り。

 修学旅行の写真も面倒くさかったが、

 体育祭の写真も面倒くさい。

 

 スタンド席から見える景色は悪くはなかった。

 秋晴れ。

 秋の澄み切った空。

 白い雲。

 周りに高い建物が無いので、スタンド席からはきれいな空が見渡せた。


 ふと、下を見る。

 オレンジ色の競技トラック。

 四百メートルトラックの白いラインが眩しい。

 そして、運ばれてくる旗。

 競技用具。

 

 その中に、見つけてしまった。

 見てしまった。

 目で追ってしまった。

 あいつの姿を。


 旗を運んでいる。

 隣には・・・

 ああ。

 なんだ。

 祐也。

 

 何を話しているのかは聞こえないし、

 ここからは表情もわからない。

 祐也、言ったのか?

 好きだって、言ったのか?


 って、何言ってんだ俺。

 俺には関係無いだろう。

 そう、もうかかわらないと決めたんだから。


 そうだよ。

 俺にとってはあいつ等がうまくいってくれた方が・・・

 あいつらが付き合えば、もうかかわらなくて済む。

 あいつらが付き合えば、気にしなくて済む。

 あいつらが付き合えば、苛々しなくて済む。


 

 そう思って見ていると、目が合ってしまった。

 慌てて逸らしたが。

 勘違いかもしれないが。

 だいたい、ここ、スタンド席だしな。

 隣の席はあいつのクラス席だし。

 そっちを見ていたのだろう。

 そう。

 目で追っているから、目が合う。

 目で追ってしまうから、目が合う。

 逸らせばいいだけ。

 ただ、それだけのこと。



 午前の競技の最後はクラス対抗女子リレーだった。

 リレーの選手に選ばれるのは四名。

 元陸上部やら、運動系部活動の奴らが選ばれる。


 「おっ、しーなトップランナーじゃん。」


 いつの間にか隣にヒロアキがいた。

 まぁ、同じクラスなのだから当然だが。


 競技トラック、第一走者の所へ視線を移す。

 五レーンのところに椎名萌がいた。

 スターターで足合わせをしているようだった。 

 またあいつを見てしまった。


 「晃くん知ってた?しーな、三年連続リレーの選手。」

 「へえ。」


 あいつ、足速かったんだ。

 テニス部なのに。

 いつもうるさくて、無駄に元気で、明るくて。

 二宮の周りをちょろちょろしてるだけのばか女だと思っていたが。

 そういえば、テニス部の練習、見たこと無かったな。

 朝練しているのは見たことあったけど、ランニングだったし。

 そん時も走りながら無駄に喋ってたっけ。

 テニスしてるあいつを見たことはなかった。

 そんなこと、考えたこともなかった。


 あいつは・・・

 見に来たんだっけ。

 俺の試合。

 最後のバレー。

 負けたけど。

 何で見に来たのかなんて聞くことも無かった。

 別にどうでもよかった。

 椎名萌が来ようが、きまいが。

 俺にとっては関係が無かった。

 あの時は。

 いや、今も。

 そう、関係ない。

 もう、かかわらないと決めたのだから。

 あいつのことは見ないと決めたのだから。


 「位置について。用意―」

〝パーンッ!〟

 放たれるスタートの合図。

 湧き上がる歓声。


 「しーなー!行けー!!」


 おいおい。

 応援する相手間違えてんぞ。

 ヒロアキは自分のクラスではなく椎名萌を応援していた。

 ばかな奴。

 やっぱり、ばかな女の友達はばな奴か。


 オレンジ色の競技トラック。

 白いラインを走るあいつ。

 椎名萌。

 まるで別人のように見えた。

 俺が見ていたあいつとは違って見えた。

 だから、今だけはあいつを見ていようと思った。

 百メートルの間だけ。

 


 昼休みに入った。


 「めぐちゃんお疲れー!」

 「おめでとうー!!」

 「乾杯ー!!」


 隣のクラス席から否応無しに聞こえてくる。

 あいつらの声。


 「しーな、女子リレー、ぶっちぎりだったな。」

 「ふふふ。一位取っちゃった。」

 「午後はしーなのクラスには負けねーからな。」


 おいおい。

 だからクラス違うって。

 ばかな奴らはクラス域を超えて、盛り上がっていた。



 昼休みが終わろうとしていた。

 関君があいつを連れてやって来た。

 今度は大丈夫だ。

 見ない。

 気にしない。

 もうかかわらない。


 関君と、健太と、いつもと変わりの無い

 他愛も無い話をするだけ。

 そう、いつもと同じ。

 それでいい。

 これでいい。

 俺があいつを見なければ。

 俺があいつを気にしなければ。

 ただ、それだけのこと。



 スタンド席から見上げた秋の空には、もう夏の常に照りつけるような太陽はいなかった。

 どこか控えめに照らす太陽。

 秋晴れの空とは裏腹に、どこかすっきりしない心模様で体育祭が終わった。




     5.



 放課後、珍しく居残りなんぞしてしまった。

 選択授業の課題が終わらなかった。

 

 適当に描いて適当に終わらせて

 それでいいやと思っていたのに。


 選択授業なんて、成績評価の対象になんねーし。

 好きに自由に使う時間のはずだし。

 課題の一つや二つ、別に・・・


 面倒くさい。

 なんか体だるいし。

 やる気でねーし。

 

 こんな時、選択授業に美術を選んでしまったことを後悔する。

 普段の選択授業中は自由に好きに過ごしていたけど、

 課題の提出となると面倒くさい。

 しかも絵だし。

 適当に描いて適当に終わらせてが出来ない俺も美術バカだよな。


 タケみたく家で出来ればいいのだが。

 今の俺に家で絵を描く余裕なんぞ一ミリも無い。

 課題といえど、家で絵を描く勇気なんて無い。


 「よっしゃー完成!」


 隣の作業台からは陽気な声。


 「ヒロアキー、終わった?鞄持ってきたよー。」

 「おー、サンキューしーな。今完成した!」


 そしてタイムリーに入ってきたのはばか女。

 ばかなお友達を迎えに来たらしい。


 思わず見ちゃったし、俺。

 早めに視線逸らさないとな。


 「げ、元気?」


 話しかけられたが、下を向いたまま筆を止めなかった。

 元気って・・・

 そんな会ってなかったか?

 体育祭以来か。

 一週間は経ってないぞ。


 「しーな、片付けてくるから待ってて。」

 「うん。」


 ヒロアキがパタパタと足音を立てて水道へ向かったのがわかった。

 帰るのか。

 ちょうど良い。

 これ以上ここに居ても何も無いぞ。

 俺はもう、おまえにはかかわらないと決めたのだから。


 「誕生日、近いね。」


 いきなり、何を言い出すかと思えば。

 いつの間にか、すぐ隣まで近づいていた椎名萌に気付かなかった俺も悪いのだが。


 こいつが見ている視線の先に。

 一枚のプリントがあった。

 自己紹介カード。

 名前、誕生日、部活動、趣味等々・・・

 クラスの暇な奴らの提案で書かされることになった用紙だった。

 これを見て言ったのか。


 「あ、ご、ごめん。邪魔だよね。」

 

 さすがに課題の邪魔になると思ったのだろう。

 ばかな女でもそれくらいは考えるのだろう。


 慌てた様子でこの場から立ち去ろうとした時、

 ふと、見て気付いた。


 「髪、切ったのか。」

 「あ、うん。揃える程度にだけど。」


 「しーな。お待たせ!帰ろうぜー。」

 「うん。」


 そう言って、うるさい二人が美術室からいなくなった。

 俺の前から消えてくれれば、それでよかった。


 あいつが髪を切ろうが、切りまいが、

 俺には関係が無いこと。


 なのに、どうして。

 気付いてしまった。

 この間まで所々肩にかかっていた髪が、

 肩上できれいに揃えられていたことに。

 ただ、それだけのこと。




 十月七日。

 忘れられない日。

 一年で最も忘れたいと思う日。

 俺にとっては憎い日でもある。


 それでも、ばあちゃんは毎年決まって言う。


 「晃も十五歳か。大きくなったのーおめでとう。」


 朝食を食べていると一枚の封筒が差し出された。

 裏の差出欄には父親の名前が。

 毎年出張先から送ってくるらしい。

 父親にとっても忘れられない日だろうから。


 中身は図書カードだった。

 父親らしい。

 さて、何を買おうか。


 それだけのこと。

 あとはいつもと変わらない朝。



 いつもと変わらない学校生活。


 変えられるのは、決まってあいつの言動。


 「お誕生日、おめでとう。」


 選択授業で美術室に入った途端、言われた。

 全くもって理解できない奴だ。

 

 「え?晃くん今日誕生日なの?」

 「マジで?」

 近くにいた北山、亮一が後に続く。


 「なんだよー、言ってくれれば良かったのにー。」

 「おめでとー。」


 拍手なんかしなくていいから。

 いくら少人数の授業といえど、周りの奴等全員に聞こえてんじゃねーかよ。

 面倒くさい。

 ただ、ただ、面倒くさい。

 誕生日なんて。


 授業が始まった。

 ふと、横の列に座るあいつが視界に入った。

 

 すっきりしました。って顔しやがって。


 誕生日を知られるなんて面倒なこと、今まで避けてきたのに。

 あいつのせいで。

 また、あいつのせいで俺は。

 かかわらないと決めたのに。

 あいつの方からかかわってくる。

 どうしたものか。


 だいたい、残念ながら、俺の誕生日は御めでたくも何でもないんだよ。

 俺の誕生日イコール母親の命日だからな。


 そう言ったら、あいつはどうするだろうか。

 泣くか?

 謝ってくるか?


 どうでもいい。

 別にどうでもいい。

 誕生日なんて。

 家族の誰もが忘れたくても忘れられない日。

 それが事実なのだから。

 ただ、それだけのこと。



 決して特別な日ではないのに。

 特別な日にしたいだなんてこれっぽっちも思っていないのに。

 どうして悉く崩れていくんだ。


 俺は静かに過ごしたいだけなのに。


 

 放課後。

 また訳のわからないことに巻き込まれた。


 関君に呼び出された。

 五組の廊下前。

 俺、帰りたいんだけど。


 関君が連れてきたのは椎名萌だった。

 おいおい。

 またこいつかよ。

 もういいだろう。

 今日はもう勘弁してくれよ。


 「はい、手出して。」

 「は?」

 「いいから、いいから。出す出す。」


 「え、手?」

 「はい。」

 

 半ば諦めかけて関君の言う通りにしてやった。

 椎名萌も関君の指示を受けていた。

 

 「はい握手。」


 おい。

 おいおいおい。


 「おいっ、関君。」


 一目散に逃げる関。

 訳もわからず追いかけた。

 

 夢中で走っていて気付かなかった。

 体育館まで来ていた。


 「はぁはぁ・・・やっぱキツイね。全力疾走は。」


 おいおい。

 こんなとこまで走らせといて・・・

 

 確かに俺の呼吸も相当乱れていた。

 久しぶりに全速力で走った。

 部活以来。

 いや、部活でも手を抜いていた。

 真剣に、取り組んだことなんてなかった。


 誰もいない体育館の床に、寝転んだ。

 乱れた呼吸を整える。


 天井が高い。

 体育館特有の臭い。

 なんだか懐かしさを覚える。


 たった三ヶ月。

 三ヶ月前まで、確かにここにいた。

 暑い中、この体育館で汗を流し、ボールを追っていた。

 ひたすら。

 暑いのに。

 ばかみたいに。

 そんなこと、思い出すこともなかった。


 「椎名さんがさ、俺らの最後の試合、見に来たじゃん。」


 まだ少し苦しそうに息を吐きながら、関君が言った。

 誰もいない体育館に響く声。


 「おれ、あん時ほんとは嬉しかったんだよね。」


 「まぁ、誰を見に来ていたのかは置いといて。」


 ふーっと、一つ大きく息を吐く。


 「三年になってさ、椎名さんと同じクラスになって。修学旅行も一緒でさ。」


 「すげーいい子だなって思った。」


 仰向けに寝転んだまま。

 見えるのは高い天井。


 「あきちゃんもさー、好きになっちゃえばいいのにー。」 


 「って、思ったから、誕生日プレゼント。受け取ってもらっちゃった。」


 おいおい。

 ちゃったーじゃねーよ。


 つーか、なんだよそれ。

 

 隣に寝そべる関君を見た。

 いい顔してた。

 部活の時に良く見た顔。

 ポイント獲った時、サーブが決まった時、ブロックポイント獲った時。

 あの顔と同じ。

 コートの中で、チームメイトだった関君。


 なんか、拍子抜けした。

 別に怒るようなことをされたわけでもないのだけど。

 

 俺にとってタケが友達であるように、

 関君にとってはただの部活のチームメイトとしてではなく、

 俺のことを想ってくれているんだろう、ということだけは伝わってきたから。



 なんか、とんでもない一日だった。

 それだけははっきり言える。


 今まで過ごしてきた誕生日の中で、

 もっとも騒がしい一日で。

 もっとも迷惑な一日で。

 忘れたくても忘れられない憎い日であることを

 少しだけ忘れることができた日でもあった。

 

 特別でない。

 いつもの学校生活の中の、一日。

 ただ、それだけのこと。

 



 時計を見ると一時を過ぎていた。

 気がつけば、長い一日も終わっていた。

 もう明日だった。

 寝る前に、ふと思い出した。


 確かに手と手が触れ合っていた。

 握手。

 そう言われればそうだけれど。


 手の感触。

 覚えているはずがないのに。

 

 あの夏の日、つないだ手。

 小さくて、

 細くて。

 

 女の手。

 母親の手。

 あんな手で絵を描いたらどんな絵になるのだろうか。

 母親の描いた絵はもう、覚えていない。




     6.

 


 朝目が覚めて。

 それが平日ならば

 学校へ行くのは当たり前の事で。

 

 中学生なのだから。

 受験生なのだから。

 時間割という名の表の上で

 駒を一つずつこなしていく。

 一コマ一コマ。

 

 そしてコマの間にある休憩時間。

 

 ただただ、繰り返される。

 ただ、それだけのこと。


 そして、繰り返される朝。

 下駄箱で。

 あいつと会う朝。

 これもいつものことである。


 「あ、あきちゃん。おはよう。」


 そう言って、いつものように勝手に喋り始めた。

 俺は何も言わないのに。


 ただ、違っていた。

 うるさく騒ぐ椎名萌の表情が。

 うるさいように見えるだけ。

 うるさく見えるように見せているだけ。


 俺が見たあいつの顔。

 泣いたのか?



 一時間目は教室で授業だった。

 さすがに三年のこの時期。

 さすがに受験生。

 皆静かに授業を受けている。


 静か過ぎて怖いくらいだ。

 静けさが、俺を惑わす。

  

 泣きそうな顔。

 作っている笑顔。

 

 椎名萌が泣こうが、泣きまいが、

 俺には関係が無いこと。


 椎名萌が笑おうが、笑うまいが、

 俺には関係が無いこと。


 そう。

 俺はもうかかわらないと決めたのに。

 かわらるのを辞めたはずなのに。


 なのに。

 どうして。


 どうして気になる。

 どうして気にさせる。


 この問題を頭から消し去るには・・・

 この問題はどうやったら解けるのか。


 この問題、試験とどっちが難しいのか。




 翌朝。

 いつもより早く目が覚めたので学校へ行った。

 最近、勉強時間と睡眠時間のバランスが崩れてきているのは自分でもわかっている。

 その上、余計な事を考えてしまう無駄な時間が多過ぎることも。

 そう、余計な事を考えさせられる原因。

 その、原因。

 祐也が尋ねて来た。


 朝から・・・

 早く着てみればろくな事が無い。

 

 「最近、萌ちゃん元気無いんだよね。」


 そんなこと知るか。

 だいたい、何で俺にそんなこと聞くんだよ。


 「廊下ですれ違う時とかさ、全然笑ってないし。」


 そんなこと知らねーよ。

 だいたい、俺あいつのこと見てねーし。


 「晃君なら何か知ってるかと思ってさ。」


 おいおい。

 何故に俺?


 「知らないけど。」

 「そうかな?」


 即答で返され、

 表情を変えられた。

 

 何?

 なんで睨む?

 俺か?

 

 「晃君が萌ちゃんに冷たい態度取ってるからじゃないか?」 


 顔も口調も充分怖いんですけど。

 つーか、何?

 何が言いたいんだ?

 そんな怒りをむき出しにされても俺は何の反応もしないんで、

 困るんですけど。


 「オレの見る限り、晃君も萌ちゃんの事好きだと思うから言ってんだけど。」

 

 は?

 もう少しで思わず口に出してしまうところだった。

 飲み込んだが。


 怒ってらっしゃるようなので。

 でも俺にはさっぱりわからないので。

 俺には関係の無いことなので。

 べつに何か言う必要はないと思った。


 そもそも、何で怒りの矛先を俺に向ける?

 俺、祐也の怒りを買うような事したのか?


 全然わからん。

 考えたって、思い出そうとしたって、無駄無駄。

 

 前回、祐也に栗原と別れたとかなんちゃら言われてから数週間。

 べつに何もしてないぞ。

 べつに何もなかったぞ。

 そもそも。

 俺と祐也は何の関係も無いじゃないか。

 ばからしい。


 「オッス。」

 「はよ。」

 

 そう言って教室に入って来たのはヒロアキ。

 祐也はヒロアキと挨拶を交わすと、そのまま教室を出て行った。


 「あきちゃん、おはよう。」

 

 後ろにいたのは椎名萌。

 なんだいたのかよ。

 しかも、また作り笑顔かよ。


 おいおい。祐也、

 本人いるんだし、当事者同士で話せよ。

 俺には関係が無いのだから。


 まただ。

 苛々する。

 椎名萌を見ている俺に。

 苛々する。

 椎名萌が好きだという奴らに。

 ただ、それだけのこと。




     7.



 行事続きの二学期。

 体育祭に続いて写生大会。

 題材に選んだ場所は、三年連続。

 人気の無い、静かなあの場所を選んだ。

 

 が、三年目の今年は生憎の雨。

 雨天決行。

 教室で色付けとなった。

 

 事前の授業で下絵は完成している。

 だから雨でも問題は無いのだが。


 問題は・・・

 無いはずだったのだが。


 雨のせいとか、教室だからとか、

 一人で描けない環境だからとか、

 そんな言い訳は通用しないだろう。


 問題大有り。

 全然筆が進まない。

 

 なんだ。

 なんなんだ。俺。

 どうした?


 たかが、写生大会。

 たかが、学校行事。


 何も難しく考えることはない。

 賞を獲る為の絵ではないのだから。

 賞を獲る為に描くはずがないのだから。


 なのに・・・

 なんで・・・


 筆が止まる。

 手が止まる。

 頭が止まる。


 描けない。

 

 

“キーンコーンカーンコーン” 


 無常にも教室内に鳴り響く終了の鐘。


「おっしゃー終わったー。」

「無理無理。終わんねー。」

「疲れたー。」

「帰ろうぜー。」


 教室に缶詰状態で行われた本日の写生大会。

 午前中だけと言えど、皆の表情にも疲労が見える。


「今日終わらなかった者は、家に持ち帰るも良し、各自で提出期限までに終わらせるように。」


 担任の話が終わると、教室内には一層のざわめきが広がった。

 バケツの水を捨てに行く者、片付け始める者。


 冗談じゃない。

 家になんて持ち帰れるか。

 写生大会の絵といえど、

 家でなんて描けるか。

 描ける訳が無い。

 描ける勇気が無い。



「あきちゃん、この後ヒマ?」


 いつの間にか教室に関くんが入ってきていて、隣から話しかけられていた。


「どうせ雨だしさ、ボーリングでも行かないかってにのが。」


 俺は何と答えたのか。

 曖昧に頷いたのか。

 適当に頷いたのか。

 まぁ、そんなとこだろう。


 絵が描けなかった。

 家になど持ち帰れる訳がない。

 気分的にモヤモヤと苛々がある。


「あ、椎名さんも誘ってみるね~。じゃあ、時間決めたらまた知らせに来るから。」


 気付いたら、関くんは居なくなっていた。


 気付いたら、あいつの事を考えていた。

 今日はまだあいつの顔を見ていなかった。

 別に毎日見ている訳ではないし、

 っていうか、

 あいつのことはもうどうでもよくて。

 あいつのこと考えたりするから・・・集中できなかったのでは。

 あいつのこと気にしたりするから・・・絵が描けなかったのでは。


 あいつのこと・・・

 苛々する。

 あいつの事を考えている自分に。

 苛々する。

 あいつの事を気にしている自分に。

 苛々する。

 あいつの事が・・・

 好きだという奴を見ると。


 そう、笠原祐也。

 

 バケツの水を捨てに行った水道で。

 明らかに違った向きで立っている。

 明らかに違った視線の奴がいる。


 そいつは俺の足が自分の方へと向かってくるのを確認すると

 距離を縮めて言った。


「晃君、嘘ついてたな。」


 は?

 何が?


「そうやって・・・人を騙して楽しかったか?」


 は?

 何が?


「オレの事、心ん中では笑ってたんだろ?」


 は?

 だから何が?


「何とか言えよ。」


「何の話だ?」


 いい加減、黙っているのに疲れた。

 訳のわからない奴から、訳のわからない話をされて。

 もう充分怒ってらっしゃる表情がヒシヒシと伝わってきて。

 いったい、何の話だ。


「惚けんの?まだ嘘つく気?」

「だから何の事か・・・」

「いい加減にしろよ!」


 おいおい。

 だから何でおまえがキレる?

 おまえの怒りを買うようなこと、俺したのか?

 だいたい、元々俺とおまえは関係が無い・・・


「萌ちゃんと付き合ってるんだろ。」


 は?

 何が?


「オレが萌ちゃんのこと好きだって言った時、本当は心ん中で笑ってたんだろ?」


 は?

 何が?


「オレが一人で馬鹿な事言ってるって思ってたんだろ。」


 は?

 だから何が?


「そりゃー余裕な訳だよな。いつもいつも黙ってて。自分は関係無いような顔してさ。」

「ヒロアキもかわいそーな奴。あれだけ近くに居んのにさ。晃君少しは悪いとは思わないの?」


 おいおい。

 何故そこでヒロアキの話が出てくる。


「そーやってオレらのこと見下して楽しいか?」  

「晃君にはがっかりだよ。話せば解る奴だと思ってたのに。」

「付き合ってんのに、自分には関係無いって顔して、平気で萌ちゃんも泣かせて。」

「もう一度言うけど、オレ諦めるつもりないから。つーか、負けねーから。」


 立ち去る祐也。


 おいおい。

 ちょっと待てよ。

 俺はまだ何も言ってねーし。

 俺はまだ何もしてねーし。

 つーか、なんだよ。

 何なんだよ、これ。

 何なんだよ、一体。


 怒りと皮肉たっぷりぶつけてきた祐也。

 俺が卑怯者だって言いたかったらしい。

 

 黙って聞いていたが。

 苛々する。

 好き放題言いやがって。

 苛々する。

 言うだけ言って消えやがって。

 苛々する。

 

 最初は意味わかんなかったけど。

 俺には関係が無いと思っていたけど。

 この苛々と

 このムカムカと

 この怒り・・・


 俺に関係大有りじゃねーかよ!!



「あ、あきちゃん、ボーリングの時間だけど・・・」


 関くんの声は耳に入っていなかった。

 あいつの顔も目に入っていなかった。


 見えていたのは・・・ヒロアキの顔。

 抱えていたのは・・・怒りという感情。

 抑えていたのは・・・力の込めた拳。

 抑えきれなかったのは・・・俺の右手。


「す、ストップ!ストップ!」


 関くんの声は耳に入っていなかった。

 あいつの顔も目に入っていなかった。


 気がついたら、ヒロアキの胸倉を掴んでいた。

 俺の左手。


 見えていたのは・・・ヒロアキの顔。

 抱えていたのは・・・怒りという感情。

 抑えていた気持ちはどっかに吹っ飛んだ。

 抑えられていたのは俺の両手。


 そう、関くんが止めに入っていなければ

 俺はヒロアキを殴っていただろう。


 何故ヒロアキだったのか。

 何故ヒロアキに向けたのか。


 最初は自分に苛々していた。

 そう、最初は。

 写生大会なのに、絵が描けなくて。

 思うように筆が動かなくて。

 家に持ち帰る訳にはいかなくて。

 次に、あいつを思い出して苛々した。

 あいつのことを考える自分に苛々した。

 あいつのことを気にする自分に苛々した。


 そして・・・

 あいつのことが好きだという奴に苛々した。

 

 祐也の話は全部は覚えていなかった。

 ただ、いつものようにはいかなかった。

 いつものように出来なかった。

 いつものようには済まなかった。

 そう、いつものように・・・

 

 何を言われても

 何を言われようが

 何を言われたとしても

 俺は関係の無い事。

 俺には関係の無い事。

 そう、処理できなかったんだ。 


 教室へは戻れず、

 廊下をただただ、歩いていた。

 歩きながら、必死に頭を回転させて考えていた。

 

 少し冷静になってきた自分に気付く。

 いや、まだだ。


 まだ自分じゃない。

 まだ俺じゃない。

 どこかで抑えが利かなくなっている。

 どこかでまだ消化しきれていない。


 まだだ。まだ。

 そう・・・

 まだ・・・

 会ってはいけなかった。

 見てはいけなかった。


 会いたくはなかった。

 見たくはなかった。


 笠原祐也なんて。

 椎名萌なんて。

 あいつらがどうなろうと、俺には・・・


 祐也はあいつを抱きしめていた。

 祐也と椎名萌が抱き合っていた。


 人目に止まらない場所。

 階段の下。

 俺がなぜそこに向かっていたのか。

 俺がなぜそこに居合わせてしまったのか。


 それは数秒の事だったのだろう。

 だが、俺には

 まるでそれが永遠に続くかのように残った。

 たった数秒が、

 ものすごく長く感じた。


 そして振り返ったあいつの顔は・・・

 ああ、ほら。

 また、泣いている。


 会いたくなかった奴に会ってしまった。

 見たくなかったことを見てしまった。

 ただ、それだけのこと。



 その後の事。

 どうやって家に帰ったのか。

 ばあちゃんと何を話したのか。

 夕飯、何を食べたのか。

 自室で何を考え、どう過ごしたのか。

 考えられなかった。

 覚えていなかった。

 記憶に無かった。




 何処だろう。

 何処か知らないが、広い草原。

 心地良い風が吹いていて。

 上を見上げれば俺の好きな空。

 青空。

 ああ。

 夢だ。

 夢の中だ。


 そして・・・

 見えてくるのは女性。

 立っているのは髪の長い女性。

 その後ろ姿。

 もう何度も見た。

 近づいて来る。

 腕を掴んで

 振り向かせる


 ほら。

 あいつは・・・

 泣いていた。


 白い。

 白いのは天井。

 俺の部屋。

 目が覚めた。


 布団から手を出す。

 夢の中で

 あいつの腕を掴んだ手。

 現実で

 ヒロアキに向けられた拳。


 今は開かれた指の間から白い天井が見える。


 夢も現実も・・・

 この手で・・・


 そして思い出す。

 あの感情。


 怒り。

 抱えきれなかったもの。

 抑えきれなかったもの。


 あの感情。

 あの感触。


 この頭の中で

 抱えきれなくなった

 この手の中で

 抑えきれなかった


 俺にもまだあったんだな。

 怒りという感情。

 誰かに向ける感情。

 誰かにぶつける拳。



 物心ついた頃には兄達から嫌われていた。

 一緒に遊んだ記憶は無い。

 

 幼稚園に入ると気付いた。

 普通の兄弟関係というやつに。

 なんでうちは違うのか。

 どうしてうちだけ違うのか。


 答えはすぐにわかった。

 母親がいないから。


 だからうちは他とは違う。

 だからうちは皆とは違う。

 違う。

 違うってなんだ?

 違うって思うのは、違わなかったと感じたことがあるから。

 違いに気付かなければいい。

 違いを知らなければいい。

 

 そうやって俺は周りと距離をおくようになった。

 幼くても悟ることはできた。

 歳を重ねる毎に、上手くなった。

 物分りの良い子供になっていった。


 期待は持つから裏切られる。

 希望は持つから失望がある。


 だったらはじめから期待なんてしなければ良い。

 望なんて持たなければ良い。


 俺は利口な生き方をしてきた。

 俺は利口な生き方をしてきたつもりだった。


 でも・・・

 それって本当に利口なのか?

 そうやってうまくやっているつもりなのか?

 そう思う自分がいなかった訳でもない。


 感情を押さえ込んで

 何も感じなくなった訳ではない。


 感情を表に出さなくなって

 出ていなかった訳ではない。


 一年の時、いじめに合うタケを見ていて苛々しなかった訳ではない。

 二年の時、特別扱いされている由利を見ていて感情が表に出なかった訳ではない。

 

 誰かがいるからとか、

 誰かが止めてくれたからとか

 誰かに救われてきた訳でもない。


 泉くんが居ない時だって・・・

 にのが居ない時だって・・・

 俺は・・・


 もう自分で何とかしないといけないのに、

 自分でどうにかしないといけなかったのに。


 苛々するのは原因があるから。

 苛々するのは解決していない事があるから。

 怒りの感情は苛々の積み重なり。

 怒りの感情は・・・


 もう発散してしまったではないか。

 ぶつけて。

 ぶちまけて。

 原因を解決しようともしないで。

 

 その怒りをぶつけたのはヒロアキ。

 怒りを向ける先を間違えて。

 

 ヒロアキに謝ろう。




 朝の教室。

 いつのもおしゃべり。 

 いつものうるさい三人組・・・

 ではなく、四組にいたのはヒロアキと北川千夏だった。


「ヒロアキ、昨日は悪かった。」


 ふと、頭を下げた時思い出した。

 こんな風に人に謝るのも数える程しかない。

 去年、由利に謝る時は二宮の合否が必要だった事。


「ああ、いいよ。」


 いつものヒロアキ。

 ばかな女の友達。


「あのさ、晃君、祐也となんかあった?」


 ばかな女の友達も馬鹿ではない様だった。

 北川千夏が席を外すのが見えた。

 気を利かせたつもりなのだろう。


「そんな有名な話?」

「いや、晃君と祐也が話してるの見て。」

「ああ。」

「二人の接点って言ったら・・・椎名かなって。」


 どこまで話したらいいのか。

 どこまで話していいのか。

 そんな躊躇が伝わってくる。


「おれは祐也には協力できないって言った。」

「そう。」

「すんげー機嫌損ねたみたいだったけど。」

「ああ。」


 想像はできる。

 予想もつく。

 多分、ヒロアキは間違っていないだろう。


 勘違い。

 伝え違い。

 そんなところだろう。


 でも、俺は間違えた。

 怒りを向ける先を。

 怒りを向ける相手を。


 怒りの先にあるもの・・・

 それは祐也の言葉。

 怒りを向けるところ・・・

 それは自分自身にだ。


 祐也は俺と椎名萌が付き合ってると言った。

 そう言ったのはヒロアキだと思った。

 ばか女の友達で勘違いしているヒロアキだと思った。

 俺の勘違い。


 祐也は俺と椎名萌が付き合ってると言った。

 黙っていた。

 嘘をついていた。

 騙していた。

 卑怯者。

 偽善者。

 そんなところだろう。


 怒りに怒りをぶつけても意味は無いのに。

 人の感情を力でどうにかしようと考えるのは無意味なのに。

 

 ちょっと考えればわかること。

 少し考えれば気づけること。


 出来なかったのは自分のせい。

 感情をコントロールできなかった自分のせい。

 

 積み重なる苛々感と

 込み上げてきていた感情を

 処理できなかった


 処理できない状態だったってことか。

 俺が。

 いつからだったか。

 どこからだったのか。

 どこからはじまっていたのか。 

 

 浮かんだのはあいつの顔。

 あいつと出会った時からなのか。

 あいつが俺を知った時からなのか。

 あいつが俺を見た時からなのか。

 俺があいつを見た時からなのか。

 俺があいつを気になった時からなのか。



 今日は来ないのか。

 朝の教室。

 いつものおしゃべり。

 うるさい三人組。


 中三なのに。

 部活も引退して朝練もないのに。

 わざわざ朝の教室に集まる三人組。


 いつもばかな話をしていて

 いつも無駄に笑っていて

 自分の教室じゃないのに、そんな違和感を感じさせない奴ら。

 いつの間にか、目で追っていた俺。

 朝の教室で。



 一時間目の授業が終わった。

 次の授業は教室で英語。

 訳を確認しようとノートを取り出した。


 ふと、渡り廊下を歩く奴らを見た。

 移動教室だったのだろう。

 その中に、祐也の姿を見つけた。


 いつもなら、祐也が居ようが居まいが

 気にかけることなんてなかったのに。

 ただの、人の群れ。

 その中の一人。

 今は、それがはっきり祐也だと認めてしまう。


 昨日、俺に向けられていた祐也の感情。

 怒り。

 俺はそれを真に受けてしまった。

 いつものように受け流す事が出来なかった。


 誰かから聞いたのか。

 俺と椎名萌が付き合っていると。

 「付き合っていない」そう答えれば良かった。

 そう答えれば済んだ話。

 簡単な話だったはずだ。

 そう、簡単な話だった。


 面倒くさいことが嫌いな俺がどうして。

 人とのかかわりなんてもっと面倒くさい。

 なのに・・・

 冷静になれなかった。

 上手く処理できなかった。


 祐也は椎名萌が好き。

 それでいいじゃないか。

 俺には関係が無い。

 もうかかわらないと決めたのだし。

 俺はいいんだ。

 かかわらなくて済むならそれで。


 あいつ等が付き合おうが、付き合わなかろうが。

 どうでもいい。

 いや、むしろ、付き合ってくれた方が

 俺はかかわらなくて済むのだから。

 そして、祐也の怒りも納まるだろう。 


 そうすればあいつの事を気にしなくて済む。

 あいつの顔を気にしなくて済む。

 あいつの泣き顔・・・

 祐也の背後に。

 振り返ったあいつの泣き顔を思い出す。


 なんで泣いたんだ?


 祐也に抱きしめられて・・・

 なんで泣くんだ?


 祐也に好きだって言われて・・・

 なんで泣くんだ?


 って、結局またそこに戻る訳で。

 どうかしてるよ、俺。

 頭ん中、ぐちゃぐちゃ。

 授業も全然頭に入ってこない。

 英語だったはずなのに、数学で難解な問題にずっと取り組んでいた気分だ。



 休み時間。

 次の授業も教室。

 移動は無し。

 結局、何にも頭に入らなかった英語の教科書を引き出しにしまい、代りに次の社会の教科書を取り出した。


 長い二時間目だった。

 まだ、二時間目なのに。

 どっと疲れが出た。


 すっきりしたかった。

 顔を見てすっきりしたかった。

 いつもの、うるさくて無駄に明るいばか女の顔を。


 そう思ってわざわざ五組へ行った。

 わざわざ行ったのに。

 

 いなかった。

 

 後はいつもの五組だった。

 クラスのムードメーカー的存在の二宮を中心に人が集まっていて。

 男子も女子も、二宮を見ていた。

 二宮の話に笑っていた。


 そしてその後ろに・・・

 金魚のフン的存在でいる椎名萌がいなかった。

 珍しい事もあるもんだ。


 10分間という短い時間。

 このクラスは、笑い声の絶えない休み時間だった。



 三時間目。

 教室で社会の授業だった。

 グループワークだった。

 机を合わせて四人の班を作らされた。 

 面倒くさい授業だった。

 が、誰かが常に話しかけてくるので

 課題を進める為にも無駄な事を考える暇は無かった。


 割と早く45分間の授業が終わった。

 休み時間になる。

 足が廊下へと向かっていた。

 行き先は・・・五組だろう。


「あ、穂高君、ちょっと持ってくれる?」


 廊下に出たところでクラスの女子に声をかけられた。

 さっきまで使っていたグループワークの資料。

 資料と言っても紙だけでなく模型もあった。

 かなりの重さだろう。

 仕方なく、手を貸した。


「今、台車持って来るところだからもうちょっと付き合ってね。」


 だったら台車が来るまで大人しく待っていれば良かったものの。

 一人で持てると思ったのか。

 面倒くさい。

 人とかかわるだなんて。

 女子だなんてもっと面倒くさい。


「良かったー。穂高君に声かけて。無視されたらどうしようかと思ってたけど。」


 おいおい。

 半ば強制的に持たされたようなもんなんですけど。

 どう見ても、廊下に俺しかいなかったし。

 無視したくてもできない状況な時もある訳で。


「穂高君最近雰囲気変わったよね。前はちょっと話しかけづらかったよ。」


 おいおい。

 ずいぶんなこと言ってくれるじゃねーか。

 まぁ、当たってるけどな。

 人とのかかわりを避けてきたし。

 面倒くさいことは避けてきたし。


「お待たせー。台車到着。」

「穂高君ありがとね。助かったわ。」


 そう言うと、女子二人、台車を押して歩いて行った。

 途中、台車を取りに行っていた方の女子がこう言った。


「穂高に頼んだの?よく声かけれたね。」


 おいおい。

 聞こえてるんですけど。


 確かに。

 こんな風に女子から何か頼まれることなんて無かったな。

 人とのかかわりが面倒くさかったし。

 特に女子なんて。

 そういう雰囲気って時間と共に伝わっていく訳で。

 新学期の自己紹介から始まって、修学旅行、体育祭、合唱コンクールとクラス行事をこなす毎に全体周知事項になっていって。

 クラスの中での俺の位置。

 適材適所。

 クラスを仕切りたい奴、目立ちたい奴、リーダーシップを発揮する奴。

 一人でいたい奴、目立ちたくない奴、平凡でいたい奴。


 女子から雰囲気が変わったなんて言われたこと無かった。

 女子の方から俺に話しかけてくることが無かった。

 委員会の仕事や日直、学校生活の中で最低限のかかわりしかしてこなかった。


 だけど・・・

 あいつはそんな俺に話しかけてきた。

 変なあだ名まで付けやがって。

 

 俺が無視しても

 平気な顔して話しかけてきた。

 俺が相手にしなくても

 懲りずに話しかけてきた。


 いつもうるさくて。

 いつも騒がしくて。

 無駄に元気で。

 無駄に笑っていて。


 気がつくと・・・

 人とのかかわりが面倒だった俺の

 女子とのかかわりなんてもっと面倒だった俺の

 俺の中にあいつはずかずかと入ってきていた。

 そしていつの間にか俺を変えていた。

 クラスの女子から声をかけられるようになるとは。



 これだけのことで休み時間が終わってしまった。

 四時間目が始まる。

 あいつの顔を見に行く時間が無かった。



 四時間目は数学。

 数学は得意科目だ。

 塾へ通っていない俺にとって

 家での勉強は予習が中心だった。


 だから出来て当り前で。

 教科書通りの問題なら問題無かった。

 定期試験も教科書の問題から出されることが多かった。

 しかし、受験となるとそうはいかない。

 教科書から問題が出ることなどまず無い。

 教科書通りにはいかない。

 応用問題に慣れておく必要がある。

 週末、本屋へ問題集の買い足しに行こうか。

 そんなことを思った。


 授業ではヒロアキが指名されて黒板の前に出ていた。

 チョークを持つ手が進まない。

 解答が出ないらしい。

 ばか女の友達はやはりばかだったか。


 川野ヒロアキ。

 同じ小学校の出身だがこれまでに接点は無い。

 同じクラスになったのは今年が初めて。

 おそらく、あまり勉強は得意な方ではない様子。

 朝のうるさいおしゃべりを聞いていれば分かること。


 椎名萌とは一年二年と同じクラス。

 同じテニス部で意気投合した同士というところか。

 男女の友情なんて在るわけが無いのに。


 そう。

 あるわけが無い。

 実際。

 ヒロアキは椎名萌の事が好きだろう。

 本人が気付いていなくても、

 椎名萌が気付いていなくても、

 見ていればわかる。


 いつも一緒にいて。

 いつも騒いでいて。

 いつものおしゃべり。

 これが当り前で

 これを壊したくなくて

 これを壊してまで手に入れようとは思わない

 恋より友情を選びましたってところだろう。


 そこまでヒロアキが考えているかは知らないが。

 そこまで相手に配慮する奴なのかも知らないが。


 そして配慮が足りないのがもう一人。

 ずっと一緒にいて

 ずっと一緒にいるのに

 相手の気持ちに気付かない奴。

 相手の気持ちを考えたことのない奴。

 今の関係がこの先もずっと続くと信じているばかな女。

 

 昔から借り物が多くて

 人の教室に来ては騒いで帰って行く

 無駄に明るくて

 無駄に元気で

 無駄に笑顔

 

 でも最近・・・

 いや、もっと前から

 あいつは無駄に笑わなくなった

 

 最初に泣き顔を見たのはいつだったか。

 夕日が差し込む教室で

 オレンジ色の光の中にあいつはいた。

 すげー綺麗な夕日色の教室で

 あいつは泣いていた


 女子からいじめのターゲットにされた時は

 朝から泣きましたって顔してた

 それでも笑ってた

 ばかみたいに笑ってたな


 泣きそうな顔はしてたけど

 泣き顔を人前で見せない奴だった。 

 

 泣きそうな顔

 泣いた後の顔

 そんなんばっかじゃないか、ここんとこは。


 今日は・・・

 泣いたのか?

 今日も・・・

 泣いたのか?

 今日はどんな顔をしているのか

 何を考えているのか

 何を想っているのか

 

 祐也のこと考えてるか?

 当り前だろうな。

 祐也に抱きしめられて・・・

 祐也に好きだと言われて・・・

 どう思った?


 って、またあいつのこと考えてるし。

 今は数学。

 数学の授業。

 問題問題。

 どんどん解かなきゃ。 

 そう、どんどん。

 

 数学に解けない問題なんて無い。

 数式に当てはめさえすれば答えは導き出せる

 でも・・・

 あいつの事となると解けない問題が多過ぎる。

 数式は勿論通用しない

 あいつが祐也の事をどう思っているかなんて

 あいつにしか解けない問題。


 あれ?

 まてよ?

 解けない問題?

 数式が使えない?

 解けないのは原因があるからで・・・

 解けないのは数式が通用しないからで・・・

 その原因を考えないから俺はまた同じところを廻ってしまうわけで・・・


 あいつがどう思っているのか

 解けない問題

 数式は使えない

 あいつがどう思っているのか


 あれ?あれ?

 なんだ?

 何か一個足りない

 頭の中で一箇所繋がっていない

 なんだこれ?

 なんの数式?

 どの数式?


 あいつがどう思っているのかを知りたくて・・・

 そう・・・

 あいつが・・・


 おい?おい?

 おいおい。

 あいつがどう思っているかなんてとっくに解けてた問題だろうが。


 はぁ。

 俺は何でこんなに時間をかけてしまったのか。

 何故これ程時間をかけなければならなかったのか。

 頭悪りー奴みたいじゃん。

 

 あいつがどう思っているか

 そんなの答えは出ていたじゃないか。

 数式なんて使わなくても

 

 あいつがどう思っているのか

 数式なんて必要ない


 あいつが好きなのは俺だった。


“キーンコーンカーンコーン”


 タイミング良く授業終了を知らせるチャイムが鳴り響いた。

 俺の頭の中にも、鳴り響いた。

 ゴーンと。

 ガツーンと。

 痛いくらい重い音が。

 

 おかげで頭がすっきりした。

 もうどんな難問でも解けるくらい。

 


 すっきりした頭で食べる昼食はなかなか美味かった。

 今日の献立はカレーにサラダ。

 サラダの中にミニトマト。

 トマト嫌いなあいつを思い出させた。

 今頃、二宮に食べてもらってるだろうか。


 椎名萌に甘い二宮。

 なんだかんだでタケも甘い。

 友達にも厳しいのは斉藤恵子。

 四人の関係を見て笑っているのは関くんだろう。

 そんなあいつ等の賑やかな食事風景が目に浮かぶようだ。

 見なくてもわかる。


 一つだけ、すっきりした頭の状態で確かめたいことがあった。


 昼休み中の五組。

 相変わらず中心にいるのは二宮。

 いつものことだ。


 そしてその後ろに・・・

 あれ?

 二宮の後ろ

 金魚のフンが

 またいない。 


 午前の休み時間もいなかったよな。

 珍しいというか・・・

 なんというか・・・

 なんだ?これ。


「めぐなら今日は休みだけど。」


 廊下側の窓から斉藤恵子が言った。

 「タケに・・・」と俺も繕えば良かったものの。

 機転が利かなかった。


「はぁ。」


 溜め息。

 その一言で充分だった。

 斉藤恵子の溜息一つで。

 怒ってらっしゃるのが。

 その怒りは俺に対して向けられていることが。

 はいはい。

 大人しく退散しますよ。


 人とのかかわりが面倒くさかった

 女子とだなんてもっと面倒くさい

 斉藤恵子だなんて特に面倒くさい

 友達想いで勝気な奴。


 斉藤恵子とは二年で同じクラスだった。

 タケと同じ小学校出身。

 そのタケも斉藤には一目置いているのがわかった。

 

 三年になって、椎名萌といつも一緒にいる。

 その椎名萌に怒鳴りつけていることも何度か有。

 男女問わず誰に対しても間違っていることは違うと言う奴。

 クラスを仕切るわけではないが、その一言でクラスの雰囲気を変えるだけの力は持っている。


 そして俺のことを良くは思っていないだろう。

 いや、相当嫌われているだろう。

 俺も苦手なタイプなので、かかわりたくない。


「晃君ー、次実験室移動ー。」

「ああ。」


 健太に声をかけられ、時計を見ると昼休みが終わりかけていた。

 今日初めての移動教室。

 実験室へは五組の前を通って行く。

 いつもの事。

 毎週同じ授業のコマを繰り返しているのだから。

 移動教室への経路も同じ。

 当たり前の事。

 ただそれだけのこと。

 なのに。

 なのに・・・


 違うのは・・・

 五組はいつもと変わらない。

 違うのは・・・

 二宮のいる五組はいつもと変わらない。

 違うのは・・・

 あいつがいないこと。


 あいつの姿が無いこと。

 椎名萌が居ないこと。


 

「火の取り扱いには十分気をつけて実験を始めて。」

 

「穂高君、私が温度測って記録するから温度計よろしくね。」

「ああ。」

「じゃあ、オレ火ーつける。いくぞー」


 アルコール、温度計、マッチ、ビーカー、フラスコ、試験管と教科書通りの実験道具が準備され

 教科書通りに実験が進められていく。


 そう。

 あいつが居なくても

 あいつが休みだろうと

 学校は時間通りに始まるし

 授業は時間表通りに進むし

 教科書通りの解答が待っている


 うるさい女がいなくても

 朝のおしゃべりがなくても

 何も変わらないじゃないか


 ただ、あいつが居ないだけ

 ただ、あいつが休んでいるだけ


 朝から顔を合わせないことだってあったじゃないか。

 昼休みまで顔を合わせないことだってあったじゃないか。

 一日顔を見ないことだってあったじゃないか。

 一言も会話をしない日だってあったじゃないか。


 特にここんとこ、あいつとはかかわらないようにしていたのだから。

 あいつを見ない日だって・・・

 あいつを気にしない日だって・・・


 ほんとにそうか?

 本当に?


 それでも俺はどこかで感じていた。

 朝の教室

 いつものおしゃべり三人組

 移動教室

 渡り廊下

 五組から聞こえてくる声


 「あきちゃんおはよう」

 そう言って始まる学校。

 あいつの声で始まる。

 俺は返事をしないけど

 俺が返事をしなくても

 あいつはいつも笑って・・・

 懲りずに俺に話しかけてきた


 二宮達と大人数でしゃべっていても

 一人で五人分は喋る二宮がいても

 その後ろに金魚のフンのようにくっついているあいつの声を聞いている


 あいつの声に耳を傾けている

 あいつの声を聞いている

 そこにいるのが当り前で・・・

 俺の近くにいるのが当り前で・・・


 考えたこともなかった


 俺が見ればいつもそこにいて

 俺が目で追えるところにいて


 だから考えたこともなかった


 俺があいつを見ていたのは

 あいつも俺を見ていたから


 あいつが俺を見ていたのは

 俺があいつを見ていたから


 だから目が合う

 だから目が離せなくなる

 だから・・・


「アチッ。」


 小さい声だったつもりだが。

 周りのせいで大事に変わってしまった。


「キャー!穂高君ー!!」

「水!水で冷やして!!」

「先生ー、穂高君が火傷しましたー。」


「落ち着いてー。皆はそのまま続けて。火から目を離さないで。」

「その班は一度火を消して。実験を中断。穂高君は十分冷やしてから保健室へ行きなさい。」


「いえ、平気です。」

「駄目よ。今は平気でも後から痛みが出てくるかもしれないから。」


「保健委員誰だっけ?」

「香月君と涼子ちゃん。」

「あ、じゃあ一緒に行こうか?」

「いい。冷やせば治る。」


「はいはいー、皆は火から目を離さないでって言ったでしょ。実験続けて。」

「穂高君は一人で保健室行けるわね?」

「はい。」


 面倒くさかった。

 理科の先生も。

 クラスの奴らも。

 保健室も。


 面倒くさいからその場は返事をしただけ。

 わかったフリをしただけ。

 そうすることが模範解答だと知っているから。


 ちょっとビーカーに触れただけ。

 ちょっと熱かっただけ。

 ちょっと考え事をしていただけ。

 ちょっと上の空だっただけ。


 いや、十分上の空だった。

 十分、考え事をしていた。


 何やってんだ、俺。



 いちおう・・・

 面倒くさいが

 後々面倒くさいことになるのはもっと面倒なので

 保健室へ寄った。

 これで模範解答は完璧だろう。


「どこか具合悪いの?」

「指を少し火傷しました。」

「あらあら。見せて。」


 保健室。

 中学三年の間で最も足を踏み入れなかった場所だろう。

 保健委員なんてやるはずもなく。

 

 消毒液の匂いと白衣。

 保健校医。

 教師になるという勝兄と

 医者になるという亘兄を

 続けて連想してしまった。 


「十分冷やしたみたいだけど、腫れてきてるから薬塗って処置するわね。」


 それから保健医は、いつ、どこで、どんな風にと尋ねてきた。

 答えるのが面倒くさかったが、

 保健日誌とやらに書かなければならない項目なのだろう。

 仕方ない。

 余計なことは言わず、聞かれたことだけを答えた。


「実験中に火傷だなんて。何か別のことでも考えていたの?」


 おいおい。

 そんな余計なこと俺が喋る訳がないだろう。

 そんな面倒くさいこと俺がする訳がないだろう。


「それとも・・・好きな子の方でも見て見惚れちゃってたとか?!」


 おいおい。

 俺はそういうキャラじゃないってば。

 残念だけどそういう話にのる男子ではないってば。


「まぁ・・・中三の秋だしね。好きな子と高校別々になるかもって思う不安定な時期でもあるわよね。」


 おいおい。

 だからなんでそんな話に・・・

 しかもあんたずいぶんと楽しそうに話すな。


「私が中学の時はねー・・・」


 おいおい。

 だから聞いてないんだけど。

 あんたの恋愛話なんて。


 保険医ってこんな感じなのか?

 こんな感じでいいのか?

 中学の教師っていえば生徒になめられないように厳しいオーラが出てんのに。

 この保険医はまるで無し。

 だいたい、生徒に自分の恋愛話をするか?

 しかも楽しそーに。

 いつになったら終わる話しなんだ?

 そもそも、俺、相槌も打ってなければ聞く気も全く無いんですけど。

 こっちの気も知らないで勝手に話を・・・

 一人で勝手に喋って・・・


 ああ。

 あいつもそうだったな。

 

 俺が何も言わなくても

 俺が聞いていなくても

 あいつは話しかけてきた


 こっちの気も知らないで勝手に・・・

 一人で喋って

 一人で騒いで

 一人で笑って

 一人で泣いて・・・

 

 あいつが一日学校を休んだ。


 それだけのことなのに。

 ただそれだけのことなのに・・・


 どうしてこんなドジを踏んだのか

 ちょっとの火傷くらいどうってことない


「はい、処置終わりー。これからは気をつけるのよ。」

「受験生って言ったって、部活は辞めても恋は辞める必要ないのよ。後で気付いたって遅いことだってあるんだからね。今は、今日は一度しかないんだから。」

「失礼しました。」


 まだ続きそうな話に別れを告げて。

 保健室を出た。

 どっと疲れた。

 もう来たくはない。

 もう来ないだろう。


 もうこんなドジは踏まない。


 あいつが一日学校を休んだ。

 それだけのことで火傷なんて・・・

 あいつがいたら何て言うか。

 あいつがいたらどんな顔をするか。

 あいつが居たら・・・


 「今日は一度しかないんだから」

 さっき保険医が言っていた言葉が頭に聞こえた。

 

 今日あいつが学校を休んだ。

 今日あいつは居なかった。

 今日・・・


 あいつが居ないことに何故こんなにも引っかかる?

 うるさい女がいなくてせーせーするだろう。

 あいつがいなければ、気になることもないし。

 あいつがいなれば、目で追うこともないし。

 あいつが居なければ・・・


 椎名萌を気にすることも

 椎名萌を目で追うことも

 椎名萌の顔を見ることも出来ないってことか。


 「後で気付いたって遅いことだってあるんだからね」

 保険医の言葉 聞いてないフリしてたのに

 聞く気なんて全くなかったのに

 十分影響受けてんじゃん、俺。

 

 そう、今気付いた。

 今更気付いた。


 そこにあるべきことがあたりまえで

 そこにあるべきかたちあるものが


 失くなったことに気づくだなんて

 失くなって初めて気づくだなんて


 居ない日を知ったから

 居る日との違いを知る

 違うと感じるのは・・・

 違わなかったことがあるから。


 そう。知っているから。

 この気持ちを。

 この感情を。


 思い出したから。

 この気持ちを

 この感情を。


 あいつから教わった気になるという気持ち。

 そしてそれは・・・


 俺もあいつのことが好きだったということ。




 今日は長い一日だった。

 一時間目から五時間目までのいつもの時間表。

 単なる一コマ授業のはずだったのに。


「おかえりー、晃。」


 玄関先を掃いていたばあちゃんに会った。

 この時間にしては珍しい。


「どうしたん?その指。」


 面倒くさいことは避けたかった。

 家に入る前に、取ろうと思っていた人差し指の包帯。

 家に入る前でばあちゃんに気づかれてしまった。


「ちょっと擦り剥いた。でももう平気。」

「びっくりしたでぇ。」

「保健医が大袈裟に巻いたんだよ。」

「晃が指に怪我するなんて何年振りじゃろなー。」


 そう言うと箒と塵取を片付けながら家の中へ入るばあちゃん。

 静かに後に続いた。


「小さい頃はよくクレヨンやら絵の具やら指に塗ってなー。」

「お風呂入っても落ちんて、爪との間に色んな色付けてなー。」


 独り言と受け流すこともできただろう。

 小さい頃の話だ。

 別に変に気にする話でもない。

 ただ・・・


「晃は絵の勉強をしたいと思わんのかい?」


 ばあゃんの口から・・・

 ばあちゃんの言葉から・・・


「したいならしたいでいいんよ。晃は晃のしたいことをすればいいんじゃ。」

「大丈夫だよ。俺はM校を受けるから。」


 なるべく間を空けないで言った。

 悩んでいると、迷っていると、

 思われたくなかったから。


 夕食の席で、ばあちゃんの顔は見れなかった。


 あいつのことが好きだと気付いた。

 だからといって、俺がM校を受験することには変わらない。

 変わらないよ、ばあちゃん。

 俺はM校に・・・

 亘兄が受からなかったM校に受かってみせる。

 俺がM校に・・・

 ばあちゃんも喜んでくれるだろう

 俺がM校に受かったら

 

 俺が絵を描くと家族を悲しませる

 俺が絵を描くとばあちゃんが悲しむ


 悲しませてばかりだったばあちゃん。

 大丈夫だよ。


 俺がM校を受ければ家族は喜ぶ

 俺がM校を受ければばあちゃんが喜ぶ


 大丈夫だよ。

 俺はM校を受験するから。




 その夜、見た夢はいつもと違っていた。

 知らない風景、

 俺の好きな空。

 でも今回は白黒。


 そして見えてくる女性の姿

 が・・・

 後姿でなかった


 最初からこっちを向いていた


 いつもは俺が振り向かせたところで目が覚めていた


 だが正面を向いている

 こっちを見ている

 白黒の夢だから

 表情まではわからない

 だが、あいつだということはわかる


 泣いてるのか?

 泣いたのか?


 どうした?


 俺は近づこうとするのだけれど

 距離は縮まらない


 あいつはこっちを向いているのに

 距離が縮まらない


 どうしたら・・・

 どうしたらいいのだろうか


 そんなことを考えていたら、朝になっていた。




 朝の教室。

 椎名萌の姿は無かったが。

 代わりにヒロアキが来た。


「ずる休み女、来たよ。」

「そうか。」

「おれもさ、しばらく祐也とは口聞いてねーんだけど。」


 四組の教室で。

 俺とヒロアキが喋っているというのも

 クラスの奴らからしたら珍しい光景なのだろう

 そんな客観的なことを考えながら会話していた。


「今は祐也よりもしーなの気持ちの方を大事にしてやりたいって思う。」

「祐也はさ、ド真面目な奴だし、生徒会とか部長とかさ、そういう完璧主義なところあるからさ、」

「おれみたいな奴から反する意見言われんのムカつくんだろうよ。」

「でもさ、おれもばかじゃないからしーなの気持ちくらいわかってるしさ。」


 なんだ、こいつちゃんと喋れるんじゃねーか。

 そんな風に思ってしまった。

 こんな風にヒロアキと喋れるとは思っていなかった。

 ヒロアキとこんな話をするとも思っていなかったが。


「おれ今日放課後しーなと話つけるから。もんじゃ食べに。」


「あ、河野君と穂高君、これ貼るの手伝ってー。」

「おっけー。」


 おいおい。

 なんで俺まで・・・


 クラスの女子が掲示板の張替えをしているところだった。

 椅子の上に乗っているが、どうやら届かないらしく。

 たまたま近くにいた俺とヒロアキに声をかけたようだ。

 偶々。


 ヒロアキはお安い御用と言わんばかりにさっと椅子に立った。

 そして俺は画鋲を渡された。

 椅子に立つヒロアキに、一つずつ手渡していく。


「助かったー。河野君も穂高君も背高いから便利よね。」


 おいおい。

 便利って・・・

 そういう言葉の使い方するか?


「おれより晃君の方が背高いよね。」

「そうか?」

「おれ百七十二。晃君は?」

「さぁ・・・最近測ってねーからな。」


 そんな他愛もない会話をしながら画鋲を渡していった。

 貼っているのはこの間書かされた自己紹介カードだった。

 二学期も半ばだというのに。

 何故今更・・・

 こんな面倒くさいことを。

 考えた奴がいるのかが不思議だ。


「河野君、穂高君ありがとー。」


 嬉しそうにお礼を言う女子。

 満足そうなヒロアキの表情。

 迷惑そうな表情の俺。

 気付かれてはいないのだろうけど。


 人とかかわるだなんて。

 何かを手伝うだなんて。

 面倒くさい。

 特に女子とかかわるだなんて。

 女子から頼まれごとをするだなんて。

 面倒くさい。 


 その面倒くさいことをやり始めたのが・・・

 あいつとかかわってからだったな。


 今日は学校に来たのか。

 今日は学校に居るのか。


 居ると聞いただけで

 居るという言葉だけで


 ホッとしている俺がいる。


 好きな奴が学校に居る。

 それだけのことなのに。

 


 あいつのことを好きだと自覚した。

 認めてしまえば後は楽だった。


 あれだけ苛々していたのも

 怒りという感情を表に出してしまったのも

 今となっては良かったのかもしれない。


 人間、落ちるところまで落ちたら

 後は上るだけ。

 

 全部のもやもやと

 小さな苛立ちの積み重なりが

 全て消え去った後には

 冷静さだけが残った。


 すっきり片付いた頭の中には

 どんどん新しい事を詰めることができる

 

 もうすぐ中間試験が始まる。

 昨日の事が嘘のように、

 今日は授業に身が入っている。

 いつも通りの時間割を

 いつも通りの教科書で

 いつも通りにこなしていく。



 移動教室があった。

 五組の前を通る。

 いつも通りだ。


 そう。

 いつも通り。

 ほら。

 いつも通り。


 二宮の後ろ。

 金魚のフン。

 椎名萌の声。

 見なくても。

 聞こえてくる。

 あいつの声。

 あいつが居る。


 

 帰りのHRが始まる前だった。

 廊下から視線を感じた。

 ヒロアキか、とも思ったが。

 一日振りに見る椎名萌は何か違って見えた。


「体調悪かったのか?」

「え、あ、うん。」


 はっきりしないのは言葉だけでなく

 表情もはっきりしていなかった。

 ヒロアキが言っていたずる休みというのも満更嘘ではないのか。


「私がいないのわかったの?」

「ああ。」

「そっかぁ。」


 目を合わせようとはしないのか。

 俺は見ていた。

 そして気付いた。

 最初に感じた違うは、雰囲気だった。

 髪を縛っていた。


「変だった。」

「え?」

「おまえがいないとなんか変だった。」


 二つに束ねられたその髪に・・・

 いつもうるさいばか女の

 無駄に元気で走り回っている

 その捕まえようのない髪に・・

 この手で触れてみたかった


「ちっちゃいな。」

「そ、そうかな。」

「身長いくつ?」

「ひゃ、百五十五。」

「ちっせー。」

「ふ、普通だよぉ。」


 百五十五。

 そんなちっさかったのか。

 こいつの頭に手を乗せたまま、

 改めて比べてみたが、

 目線が合うことは無かった。


「あきちゃんは?」

「百七十・・・五とか?たぶん。最近測ってねーな。」

「まだ伸びてるの?」

「ああ、成長期だな。節々が痛む。」

「じゃあもっと大きくなるんだね。高校生になったら・・・」


 とそこまで言って話を止める。

 急に俯いた。


「なんだよ?」

「ううん、なんでもない。」

「途中で止めるなよ。なんだ?」


 こいつに目線を合わせるには

 こいつの顔を見るのには

 俺が屈まないといけないことに今気付いた


「ほんとに何でもないの。」


 屈んで覗き込んだ顔。

 何でもないっていう顔じゃねーじゃねーかよ。

 嘘つくの下手だな。

 顔に髪がかかっていない分、表情がはっきりとわかる。


 昨日何故休んだ?

 どうしてそんな顔をしている?

 泣いたのか?

 何かあったのか?


 俺は何も言わないし

 俺は何も聞かない


 廊下に教師が見えた。

 HRが始まるだろう。


「じゃあね、あきちゃん。」


 そう言うと、小走りに自分の教室へと戻っていった。

 その後姿を見ていたら・・・

 一つの視線と交わった。

 たまたまだろう。

 偶々。 

 五組の学級委員をしている奴と。




 中間試験が始まった。

 前回の定期試験の結果は散々だった。

 今回で挽回しなければ。

 この試験の結果で来月三者面談を行うという。

 この試験の結果さえ良ければ・・・

 M校受験を担任に言うことができる。


 試験は五科目二日間で行われる。

 調子は良かった。

 

 気持ちの整理

 頭の整理

 そんなの今までの俺には必要の無いことだと思っていた。

 でも・・・


 あいつと出会ってから

 あいつのペースに乱されて

 あいつのことを考える自分を認めたくなかった


 あいつのことを見ている俺

 あいつのことを気にしている俺

 あいつのことが好きな俺

 全部認めてしまえば次に進める。


 次・・・

 そう。

 俺は次に進まなければならない。

 M校に合格して。

 亘兄が受からなかったM校に合格して

 亘兄を越えて・・・

 ばあちゃんの喜ぶ顔が見たい。

 ただ、それだけのこと。




     8.



 あいつのことを好きだと認めた途端

 見えてくるものがある


「おはよう、あきちゃん。」


 いつもの朝。

 下駄箱での挨拶。

 いつものうるさい女・・・の、後ろに。

 芳沢?だっけか?


 体育祭の後、

 後期の委員会を決めた。

 面倒くさいが毎年、前期と後期の二回委員会決めが行われる。


 それで椎名萌は後期の学級委員になったんだっけか。

 確か、芳沢というやつと一緒に。


 椎名萌は学級委員タイプには見えなかったが。

 お祭り好きな委員会ばかりをやっている二宮の金魚のフン。

 二宮の後ろにいるイメージだったが。

 そういえば、生活委員はやっていたか。

 一年の時も、二年の時も。

 こんなうるさい女が生活委員?と思っていたが。

 副学級委員的な存在である生活委員をやっていたら、そのまま学級委員を押し付けられるケースもあるか。

 押し付けられたら断れないタイプだろうしな。


 「昨日にのがねー」


 またいつものように。

 そう、いつものように椎名萌は一人で喋り始めた。

 俺が何も言わなくても

 一人で勝手に話しかけてくる。

 それで良かった。

 声が聞けるなら。

 俺の隣に居るなら。


「じゃあね、あきちゃん。」


 今朝は四組には寄らずに自分の教室へと入っていった。

 芳沢と一緒に。

 

 芳沢とは話したことはなかった。

 椎名萌やタケと同じ小学校の出身。

 芳沢は見るからに学級委員タイプだな。

 


  

 中間試験が終わって。

 関くんに誘われて、部活に顔を出した。


 面倒くさかったが。

 久しぶりに体を動かした。


 十月の体育館に

 湧き上がる汗。


「やべー明日絶対筋肉痛ー!」


 倒れこむように床に寝転んだ。


「先輩お先でーす。」

「おおー、気をつけて帰れなー」



 関くんは今でもしっかり先輩だった。

 俺は・・・

 

 元々部活動に興味がなかった。

 勝兄の活躍のせいで、陸上部から、運動系部活動からの勧誘を受けた。

 どれもこれも面倒くさいだけだった。

 陸上なんて。スポーツなんて。


 県大会の記録を持つ勝兄。

 未だ誰にも破られていない記録。

 誰かに破られない限り、続く記録。

 輝き続ける栄光・・・


 そんな優秀な兄を持った弟の苦労が

 誰にわかるもんか。

 誰がわかるもんか。


 たまたま・・・

 そう、偶々。

 バレー部には勝兄のことを知る先輩がいなかった。

 それだけのこと。

 それだけのことで入部した。

 だから部活には真剣に取り組んだ記憶はない。

 適当に。


 「まだ絵を描いてたのか」

 勝兄のことを考えていたからか。

 急に頭の中で再生を始めた台詞。

 もう何度リピート再生したことか。

 いい加減・・・


「最近どうよ?あきちゃん。」


 横で寝そべっていた関くんの声が誰もいない体育館に響く。


「べつに。」

「でた!あきちゃんのべつに。」


「試験は上手くいったのー?ってオレに言われなくても完璧か。」

「そうでもないよ。」

「またまたぁー。」


 体を休めていたら

 だんだんと汗が引いてきた。

 そろそろ着替えないと体冷えるな。


「あきちゃん、高校はどこ受けんの?」

「考え中・・・」


 関くんには悪いが、まだ人に話せる段階ではない。

 M校なんて、言えるわけがない。

 起き上がって、更衣室へと向かった。


「俺さー、高校行ってもバレー続けようかと思って。」

「いいんじゃん。」

「だからあきちゃんと同じ高校行けないかなーって。」


 おいおい。

 俺はバレーはやらんぞ。


「スポーツ推薦狙うのか?」

「まぁ、そんなとこ。」


 関くんらしい・・・と思った。

 進路・・・か。

 そういうの考える時期だもんな。

 誰だって。


「皆高校バラバラになっちゃうねー。」


 ふと、思い出してしまった。

 何で思い出したのかは考えたくはないが。

 先日、保健室で。

 保健医も同じような事言ってたな。


「椎名さんとも高校離れちゃうねー。」


 おいおい。関くん。

 明らかにワザと言ってるだろう。それ。


「あ、先のことよりも今。まず今だねー。早くしないと誰かさんに取られちゃうよー。」


 なるべく無表情で着替えた。

 やはり動きを止めた体は冷え始めていた。


「ここ、べつに。って言うとこじゃないの??ん?ん?」


 やっぱり。

 何か企んでいるな。関くん。

 そういえば、誕生日の日、関くんの策略にハマって

 体育館まで全力疾走したよな。


「ふーん。いいけどねー、別に。」


 俺が話に乗ってこないとわかってか

 関君も自分の着替えを始めた

 

「でも知らないよ~、椎名さんてああ見えてけっこうモテるんだから。少なくとも、オレの知る限りでは3人!」


 おいおい。

 着替え始めたんじゃなかったのかよ。

 おいおい。

 三人って・・・

 その話・・・

 北山、ヒロアキ、芳沢・・・もか?

 祐也もか。

 あ、俺もか。


 関君が何を企んでいるのかはわからないが。

 関君はいったいどこまで知っているのか・・・

 あいつを好きだという奴がいるのは知っている。 


 前回体育館で、関くんに「好きになっちゃえばいいのに」とか言われたな。

 あの時は・・・

 あいつとはかかわらないと決めていた。

 あいつといると、大事な事を忘れてしまうから。

 絵を描くこと。

 ばあちゃんを悲しませること。

 家族で俺の立場が悪くなること。

 

 でも・・・

 あいつのことが好きだと気付いてしまった。

 認めてしまえば次に進めた。

 それでいいじゃないか。

 関君が思う通りになったじゃないか。


 でも・・・

 俺があいつのことを好きだとしても

 俺がM校を受けることには変わらないんだ

 M校に受かって

 亘兄の受からなかったM校に受かって

 「まだ絵を描いてたのか」そう言った勝兄のことも

 教師になってばあちゃん孝行をする勝兄のことも

 越えたい

 そう思っている

 

 だから・・・

 そのためには・・・

 俺がM校に受かるためには・・・


 やっぱりあいつとはかかわらない方がいいのかもしれない

 そう思った。

 俺があいつのことを好きでも

 あいつが俺のことを好きだとしても

 両方は無理なんだ。

 わかっている。


 M校に受かること

 あいつを好きでいること

 ただ、それだけのこと。




     9.



 中間試験の結果が出た。 

 相変わらず一位を独占し続けているのは松岡聡一。

 タケは三位に入った。

 俺は四位。


 なんとか元に戻せたってところか。

 これでM校受験を担任に切り出せるか。

 来週、いよいよ三者面談。

 あの父親と。


 掲示板に群がる人ごみの中に

 あいつの後姿を見つけた

 今日は一つに縛っているのか。


 最近あいつの雰囲気が変わった

 肩に付いた髪を結ぶようになって

 二つに結ぶ日もあれば

 一つの日もある

 かと思えば、結んでいない日もある


 べつに椎名萌が髪を縛ろうが縛らなくても

 俺には関係がないのだけれど

 そう・・・

 関係はないが

 気にはなる


 あいつのことは気になるんだ。


 でも・・・

 両方は無理なんだ

 俺にはやらなければいけないことがある

 忘れていた大事な事

 だからおまえのことは・・・

 そう、頭ではわかっているのに

 理屈は理解しているのに

 体が・・・

 手が・・・

 あいつに向かっている

 あいつに触れたくなる

 あいつに・・・

 手を伸ばしてしまうんだ


 首に手をかけようとしたが、

 一つに結んだ髪が首筋をきれいに見せていた


 だからその髪をひっぱってみた


「わっ!・・・誰?」


 振り向いた。

 髪を縛っていると顔が良く見える。


「あきちゃん・・・やめてよー、ほどけちゃうでしょ。」


 緩んだ結び目を直そうと両手を後ろに回すその仕草を見るのも初めてだった。

 そしてその顔。

 顎のラインがくっきり見えて。

 すっきりした様に見えたのは気のせいだろうか。

 少し痩せたのか?


「あ!あきちゃん見たよー。すごいね。」


 急に顔中に笑みが広がった。

 最近見ていた表情の中で一番良い表情をしていると思った。


「やっぱあきちゃんが描くのは違うね。」


 え?

 描く?何を言ってるんだ?

 成績のことじゃないのか?


「次元が違うっていうのかな、空間が深いっていうか・・・」

「何のことだ?」

「あれ?もしかして見てないの?」

「何を?」

「あきちゃんの絵。」

「は?」


 思わず口に出してしまった。

 いつもなら呑み込む台詞を。


「美術室の前だよ。見てないの?」

「見てない。」


 美術室?

 俺の絵?

 何のことだ?


「私ね、あきちゃんの空の絵、感動した。」


 おいおい。

 その顔で言うなよ

 おいおい。

 その台詞で言うなよ


 思い出してしまうだろ

 忘れていたこと

 忘れなきゃいけないこと

 忘れなきゃならなかったこと


 あのコンクールのことを

 あの転入生のことを


 空の絵。

 小四の時描いた絵で賞をとった

 中二の写生大会で描いた絵が入選した

 中三の選択授業で描いた絵が選ばれた

 それだけのことなのに・・・



「あれ?晃君次教室だよ?」


 健太に呼び止められたが

 そのまま進んだ。

 今は進まなければならない気がした。

 

 この目で・・・

 確かめたかった

 あいつの笑顔。

 あいつの言葉。

 その答えを・・・



 適当に描くつもりだったのに

 適当にかけなかった絵


 居残りまでして仕上げたのは

 選択授業の単なる絵

 選択授業は成績評価に関係無し

 関係ないのに・・・

 適当が出来なかった俺。


 夏休みに描いていた絵

 夏が終わって・・・

 勝兄に絵を描いていたことが知られて

 夏は終わった。


 秋になって

 忘れていた大事なことに気づいて

 あいつから離れて・・・

 そんな時期に仕上げた絵

 少し歪んだ空の絵。



 美術室の前で足を止めた。

 時間割の中に一コマだけ。

 週に一度だけある美術の授業。

 それはあいつも同じなのに。


 わざわざこんな校舎の一番隅にある美術室まで

 来たのか

 偶々。

 偶然だろう。

 見に来るわけがない。

 こんなところに。

 誰も気づかない場所。

 誰にも気づかれない掲示板。

 

 誰も頼んでいないのに。

 勝手に先生が貼ったのだろう。

 誰も気づいていないのに

 誰にも気づかれていなかっただろうに


 あいつは・・・

 あいつだけは・・・

 俺の絵を見ている

 

 


 昼休みだった。

 職員室の前を通り過ぎたところで視線を感じた。


「そこの男子ー。」


 俺か?

 周りを見渡したが他に誰もいない。

 

「君だよ、キミ。」


 俺か?

 やっぱり俺なのか?


「カムカムー。」


 手招きをされた。

 招かれた先は・・・

 職員室の隣の・・・

 保健室。

 まさにあの保健医。


「穂高って、あの穂高の弟君だったのね。」


 “あの”というのはどっちのことだか。

 県大会記録保持者の勝兄のことか

 成績優秀者の亘兄のことか

 どっちでもいいけど。

 どっちでも同じだけど。

 どうせ、兄達が凄いと言うのだろう。


 保健室に呼び止めて。

 昼休みに・・・

 貴重な休み時間に・・・

 こんな保健医から・・・


 その優秀な兄達の弟なのだからと

 その優秀な兄達の弟なのにと

 言うのだろう。

 もう聞き飽きたよ。その話は。


「お兄さんここの常連客だったのよ。」

「よく体育の授業で怪我してねー。」


 は?

 何の話を始めたんだ?

 この保健医は。


「スポーツに対して変なプライドかけてた子でね、頑張り過ぎて力が入りすぎちゃうから怪我するのよね。」

「その上にお堅い頭でさ、勉強でも一位とらなきゃって根詰めてたタイプ。」


 思い出し笑いをしながら話す保健医。

 一位・・・

 亘兄のことを言ってるのか?


「なんでそんなに一位に拘るのか聞いたの。そしたらさー。」

「なんでも優秀なお兄さんがいるとかで。その人を越えるんだって。」


 亘兄のことだ。

 保健室に通っていたことも

 勝兄を越えたいと思っていたことも

 知らなかった。


「この間あんたが来た時に、どっかで見たことある顔だとは思ったのだけど。」

「その顔、同じね。人に知られないように、悟られないように、自分の感情を抑えて。あんたのお兄さんとそっくり。」


 似ていると言われるのは心外だった。

 だから顔に出てしまったのだろう。

 思わず。


「その顔。あんたもお兄さんを越えたいって思ってるの?」


 ひどく気分が悪くなった。

 体調ではなく、気持ちが。

 この場から去りたかった。


「そうやってすぐに逃げ出すところもお兄さんとそっくり。」


 床を蹴り上げた足を踏みとどめた。

 似ていると言われるのが心外だった。

 だから似せないことが必要だった。


 保健室から出ることは簡単だった

 だが・・・


「で?あんたは何と戦うの?」


 心理戦に負けたのは俺。

 勝ったのは保健医。

 始めから勝負は決まっていたのかもしれない。

 先日、この保健医に会って。

 もうここへは来たくないと思っていたのに。


 足を踏み入れてしまった俺の負け。


「上のお兄さんにはスポーツで敵わないから、真ん中のお兄さんには勉強で敵わないから、そうやって理由を付けるのは簡単だけど。」

「いつまでも甘ったれてないで、あんたはあんたの生き方を見つけなさいよ。自分にしか出来ないこと。」


 そう言うと保健医は俺から視線を外した。

 そして何事も無かったかのように、保健日誌を書き始めた。

 もう帰っていいわよ。

 そんな合図だった。


 変な保健医。

 この間も変わっていると思った。

 教師とは思えない言動。

 一人で勝手に喋り続けて

 一人で勝手に終わる。

 かかわりたくないと思った。

 なのに・・・


 あいつも同じ。

 変な女で

 一人で勝手に喋って。

 うるさい女。

 かかわりたくないと思った。

 なのに・・・


 保健医も椎名萌も・・・

 兄達の事を・・・

 知っていて

 知っているのに・・・

 誉め讃えることはしなかった。



 スポーツ万能の勝兄

 成績優秀者の亘兄

 俺は・・・

 

 教師になるという勝兄

 医者になるという亘兄

 俺は・・・


 M校を受ける

 それだけか?

 M校に受かる

 それだけか?


 俺は・・・

 俺は・・・

 M校を受けて

 M校に受かって

 どうするつもりだったのだろう


 M校を受けて

 M校に受かって

 亘兄の受からなかったM校に受かって

 どうするつもりだったのだろう


 亘兄の受からなかったM校で高校生活を送って・・・

 その後は・・・

 どうするつもりだったのだろう


 亘兄の受からなかったM校で高校生活を送って

 次は亘兄より上の大学を目指すのか?

 次は・・・


 亘兄より上の大学に合格して

 次は・・・

 亘兄より優秀な医者になるのか?


 亘兄より優秀な医者になって・・・

 次は・・・

 その次は・・・?


 そうやって俺はどこまで兄を追い続ければいい

 そうやって俺はいつまで兄を追い続けなければならない

 

 いったいどこまで・・・

 いったいいつまで・・・


 わかっていたことではないか。

 勝兄は教師になる。

 亘兄は医者になる。

 社会に出れば一人の大人として、社会人として、

 一人。

 そう、一人だ。


 一人の教師として

 一人の医師として

 別々の道を歩む

 別々の道を進む

 

 どっちが走るのが速いか

 どっちが上の大学だとか

 そんなの無くなる


 兄弟でどっちが上とか下とか

 兄弟で越えるとか見返すとか

 そんなの無くなる


 そんなの無くなる

 そんなの無くなるんだよ


 それなのに・・・

 俺は・・・

 俺が進もうとしている道は・・・



「あきちゃん?」


 目の前にあいつの顔があった。


「帰らないの?」


 辺りを見回すと教室に残っているのは数人だった。


「体調悪いの?」


 前の席の椅子に座って俺の顔を覗き込んでいた。

 椎名萌に表情を読まれるだなんて。

 ありえない。

 在り得ない。


「いや、帰る。」


 昼休み、保健室から教室に戻って・・・

 一時間授業を受けて。

 掃除にHR。

 いったいどうやって過ごしていたのか覚えていない。

 長い間一人でいた気分だった。


「おまえは?帰らないのか?」

「委員会の仕事が残ってるの。四組覗いたらあきちゃん居たから、寄り道しちゃった。」


 そういうと笑顔を見せた。

 椎名萌とは同じクラスになったことは無いから

 当然、教室でこんな風に前後の席で座ることも無かった


 席替えで、クラスの女子が隣になることも、前後になることも

 当たり前のことだったが。

 椎名萌が目の前に座っているというのは

 なんだか不思議な感じがした。 


「じゃあ行くね。」


 そう言って席を立ち

 俺の横を通るあいつが

 俺の横を通り過ぎるのが

 まるでスロー再生をしているかのように

 ゆっくり流れる絵に見えた


 だから思わず手を出してしまったんだ。


「なぁに?」


 掴んだのは左腕だった

 振り返ったのはあいつの顔


 なんだ。

 何なんだ。

 この感情。

 どうしたんだ、俺。


「あきちゃん?」


 気になるという感情も

 好きという感情も

 こいつが教えてくれた


 じゃあこの感情は何だ?

 何なんだ、これ。

 どうしたんだ、俺。


「何でもない。」


 そう言って手を離した。


「変なあきちゃん。じゃあ、また明日。」


 変といわれたことよりも、

 また明日という言葉が耳に残った。


 いつものこと。

 そう、いつものことじゃないか。

 朝はあいつのおはようから始まって

 帰りはあいつのばいばいで終わる


 いつの間にか、学校生活の始まりと終わりにあいつがいて。

 それが当たり前で

 それが当たり前になっていて

 気がづけば・・・

 あいつの存在がどんどん大きくなっていた。




 今日も一日が長く感じた。

 そんな日は、決まって何か起こる日。

 もう最近はそんなこと尽くしで慣れてきたが。

 

 ニアミス。

 珍しく帰宅時間が一緒になってしまった。

 亘兄と。

 ふと、今日保健医から聞いた亘兄の事を思い出してしまった。


「おまえ、本気でM校受ける気あんのか?」


 もちろん目線は合わせない。

 相手がどう出てくるか次第で返事も決まる。


「俺は先に行くぜ。おまえになんか構ってる暇ねーからな。」


 俺の返事がイエスかノーか

 それを聞きたかった訳では

 それが聞きたい訳ではないらしい。


 高校三年の秋。

 大学受験に向けて勉強の真っ只中だろう。

 中学三年の秋。

 高校受験・・・はまだ志望校を決める段階。



「おかえりー。」


 居間からばあちゃんの声が聞こえた。

 亘兄は先に階段へと向かっていた。

 俺は居間に顔を出した。


「あ、晃。焼きまんじゅうあるんよ。おいしーで。」


 ばあちゃんはお茶を煎れているところだった。

 穂のかな香りのする緑茶。

 つい先月までは秋といえど、夏のように暑かったので

 麦茶を飲んでいたのに。

 十月も終わりとなると、熱い緑茶が美味しく感じる。


「食べながら聞きんしゃいね。」


 そういうと、ばあちゃんが話し始めた。

 まるでこの為にお茶菓子が用意されていたかのように。


「亘が志望大学を決めたそうでな、なんでも千葉の方にある大学へ行きたいそうな。」


 ふーん。千葉か。

 通えない範囲じゃないか。


「それでな、東京の郊外におまえの母さんの実家があるんよ。」


 へー。そんなの初耳だな。

 でもなるべく表情を変えないで聞いていた。


「亘に向こうのばあちゃんちに下宿させてもらう話をしたんだがね、」

「何でも自分一人で生活したいとな。断ったんよ。」


 亘兄らしいな。

 正直、そう思った。


「疎遠になっとるが、あちらさんもずいぶん心配して下さってのー、」

「晃の絵の話したらぜひ一度遊びに来ないかって仰っての。」


 ぶほっ。

 おいおい。

 お茶で咽たぞ。


「母さんと同じ、晃が絵を描くことそれは喜んでくれてのー、」

「なんでも近くに美大の付属高校があるらしくてな、」


 おいおい。

 ばあちゃん。

 いったいどうしたんだ?


「晃にまだ絵を描く気持ちが残っているなら、ばあちゃんはな・・・」


 おいおい、

 ばあちゃん、

 どうした、どうした。


「晃は昔から何も言わないが、そんな風に育ててしまって・・・」

「ばあちゃんな、申し訳ないと思っとんよ。」


「そんなことないよ。」


 そう言うのが精一杯だった。

 どうしようかと思った。

 この場を、どうしようかと思った。

 止めることもできただろう。

 交わすこともできただろう。

 適当に。

 受け流すこともできただろう。

 

 でも・・・

 ばあちゃんの目に涙が浮かんでいたから

 ばあちゃんが悲しむ姿を見てしまったから

 また、ばあちゃんが絵のことで

 俺が絵を描くことでばあちゃんを悲しませてしまったから・・・


「勝が帰ってくるのはな、自分と戦った結果なんよ。」

「教師になると決めたのも、よー自分と戦って決めた結果なんよ。」


 急に勝兄の話しが始まった。

 あれ。


「亘が一人で生活すると決めたのも、自分と向き合った結果なんよ。」

「もし大学受験に失敗しても、千葉で一人暮らししながら頑張りたいんて。」


 おいおい。

 今度は亘兄の話・・・

 ばあちゃん?どうした?


「勝は自分の体力の限界と戦って、亘は自分のプライドと戦ってるんよ。」

「晃は何と戦ってるんじゃい?」


 ばあちゃんを悲しませたのは俺。

 俺が絵を描くことでばあちゃんが・・・

 あれ、

 あれ?

 なんだ?

 何なんだ?


 ばあちゃんが言っているのはそういうことではない。

 ばあちゃんが悲しい顔をしているのはそういうことではない。


 そう。

 そうだろう。

 目の前で話すばあちゃんが・・・

 俺を見ている。

 俺は・・・


 どうしようかと思った。

 この場を、どうしようかと思った。

 止めることもできただろう。

 交わすこともできただろう。

 適当に。

 受け流すこともできただろう。


 でも・・・

 俺は・・・

 逃げる訳にはいかない。

 もう・・・

 こんなところまで来ていたのか。

 もう・・・

 いつの間にか来ていたのか。



 夏が終わって

 秋の始めに勝兄が帰ってきて

 そこから既に始まっていたのかもしれない


 教師になると言った勝兄。

 中学生で県大会記録保持者。

 高校ではタイムが伸び悩んだそう。

 自分の輝かしい記録と戦う気持ちって一体どんな苦労があっただろうか

 東北の有名な大学へスポーツ推薦で特待生入学。

 さらに圧し掛かる周囲からの期待とプレッシャー。

 輝かしい記録と、有名な大学のネームバリュー。

 そんな中で過ごしている勝兄の苦悩。

 考えたこともなかった。


 医師になると言った亘兄。

 中学に入り、すぐに勝兄の弟と注目を浴びせられたことだろう。

 あの勝兄の弟なのだから

 あの勝兄の弟なのにと。

 勝兄というスポーツ万能な兄をもった苦労。

 スポーツがあまり得意ではない亘兄。

 だから勉強を頑張るしかなかったのだろう。

 一位でなければならなかったのだろう。

 兄にスポーツで敵わないのなら、勉強で兄を越えようとしたのだろう。

 一位を取る苦労、一位を取ってからの苦労、一位で在り続けることの苦労。

 そして、M校合格への期待とプレッシャー。

 考えたこともなかった。

 

 二人とも常に自分と戦ってたんだ。

 いつまで?

 どこまで?

 見えないゴール。


 見えたのは、目標が出来た時だろう。

 教師という職業。

 医者という職業。

 社会人という具体的な自分を目標に掲げた時、解放されたのかもしれない。

 自分との戦いから。


 いつまで追い続ければ

 どこまで追いかけ続ければ・・・

 いつまで追い続けても

 どこまで追いかけ続けても・・・


 やがて別々の岐を進むのだ。

 

 社会に出れば

 兄弟で上も下もない。

 社会に出てしまえば

 兄弟を越えるとか見返すとかそんなのは必要ない。


 亘兄がさっき言っていた。

 「俺は先に行く。」と。

 兄の栄光の下、やっと自分の進むべき道を見つけたのだろう。

 自分との戦いが終わり、次の戦いへと進むのだろう。

 それに気づいたから。

 そのことに気づいた者にしか分からない。

 勝兄と亘兄が、

 俺にも早く気付けよと知らせてくれたのかもしれない。


 そうか。

 そうなのか。

 そうなのかもしれないな。


 ふーっと

 大きく一つ息を吐いた。


「ばあちゃん、俺絵を描きたい。絵を描くのが好きだよ。」

「そうかい、そうかい。」


 ばあちゃんは涙を流した。

 ばあちゃんは笑っていた。


 ばあちゃんを悲しませたのは俺。

 ばあちゃんを喜ばせたのは俺。


 ばあちゃんを悲しませたのは俺だった。

 絵を描くことがばあちゃんを悲しませていたのではなかった。

 ばあちゃんを悲しませていたのは俺自身だった。


 小四の時に賞をとった絵。

 その絵がばあちゃんを悲しませた。

 絵を描くことはばあちゃんを悲しませる。

 そう思い込んでしまうのも仕方がない。

 まだ小学生の俺。


 絵を描く描かないではない。

 ばあちゃんに対して俺の態度が変わってしまったのだろう。

 いつからか・・・

 いつの間にか・・・


 物心ついたときから母親がいなくて

 物心ついたときから兄達から嫌われていて

 

 子供心に他の家と自分の家は違うことに気がついて

 自分の立場を悟った

 何かを期待するから裏切られる

 何かを望むから失望がある


 だったら最初から期待しなければいい

 だったら最初から望まなければいい


 小五で転入生が来ると言った。

 コンクールの時絵を誉めてくれた女の子。

 でも転入生は男だった。

 翌年も転入生は来なかった。

 

 期待するから裏切られる

 望を持つから失望する


 そうやって俺は・・・

 周りに対する程良い距離感を掴んでいった。

 うまくやっているつもりだった。

 うまく立ち回ってきたつもりだった。

 

 でも・・・

 ばあちゃんに対してもいつの間にか安全な距離を保っていた。

 うまく付き合っているつもりだった。

 うまく立ち回ってきたつもりだった。

 それが・・・

 ばあちゃんにとって一番悲しい事だとも気づかずに。


 絵を描くことがばあちゃんを悲しませていたのではなかった。

 ばあちゃんを悲しませていたのは俺が変わってしまったから。

 そんな大事なことに今更気づくだなんて。


 絵と向き合えなかった自分。

 絵と向き合ってこなかった自分。

 ばあちゃんと向き合ってこなかった自分に。


 もう十分だろう。

 母親のことも

 兄達のことも

 変えられない事実。


 事実ならそこから逃げずに

 変えられないなら変わればいいじゃないか

 自分で。

 自分が。


 そうだろう。

 ただ、それだけのこと。




     10.



「晃、待たせたな。」


 十一月に入って最初の日曜日。

 塾帰りのタケに時間をもらった。


「悪いな、疲れてるとこ。」

「何言ってんだよー。晃ここんとこ俺んち控えてただろー。気ー使い過ぎだっつーの。」


 午前から塾に缶詰状態だっただろう。

 やっと開放されて疲れが溜まっているであろうに、タケは笑顔でやって来た。


「ここじゃ何だからどっか入ろうぜ。あー、腹減ったー。」

「ああ。」


 俺達はタケの塾から近いファーストフード店に入った。

 塾と勉強のストレスからか、タケの注文商品は多かった。

 そういえば、秋になってタケがふっくらしてきた。

 元々ぽっちゃり系だったが。


「オレに話しあんだろ?」


 Lサイズのポテトを口へ運びながらタケが言った。

 さすが。

 俺が何も言わなくてもわかってくれている。


 タケは俺の変化に気付いていたけれど

 何も聞こうとはしなかった

 俺の口から話されることを、ただ待っていてくれた。


 だから今日は話す。

 一番に、タケに伝える。


 二学期が始まって

 勝兄が一時帰省をし

 絵を描いていたことが家族にバレた。

 おまけに成績を落として、自分も見失いかけた。

 椎名萌とかかわってからだと、あいつのせいにした。

 だから椎名萌とかかわることを辞めた。

 目標が持てない俺の存在は、二番目の兄に不快感を与えていた。

 俺はこれまで築いてきた自分の感情が歪み始めていたことに気づくのが遅かった。

 父さんと亘兄の前でM校受験を宣言した。

 

 全てをM校受験の為に捧げるつもりだった。

 でも、受験勉強どころか授業にも集中できず

 小さな苛々が積み重なってもう自分では抑えきれない程にまで膨らんでいたことに気づかなかった。

 爆発させて気づいた。

 椎名萌のことが好きだったこと。

 兄貴達が戦っていたもの

 ばあちゃんが抱えていた想い

 そして・・・

 ようやく自分自身と向き合えたこと


「そっか、良かったじゃん。」


 俺が話している間にタケは注文した商品全てを食べ終え、

 最後に一気にジュースを飲み干した。


「晃ともうずいぶん長い間話してなかった気がする。」

「なんだよそれ。」


 俺は注文したコーラを一口飲んだ。

 タケは紙ナプキンで食事を終えた口元を拭いていた。


「一年の時さ、初めて晃が話しかけてきた時、あれ以来かな・・・」

「おいおい。」

「まっ、それは冗談として。いや、あながち冗談でもないんだけど。」

「タケ・・・」

「だって晃全然家のこととか話してくれなかったじゃん。出身校違うからさ、オレ健太とかに聞いたりしてたんよ。」

「それでなんとなく、訳アリなんだろうなーとは思っていたけど。まぁ、いつか話してくれるだろうと思ってたら、三年の秋かよ。みたいな。」


 食事を摂って満足したからか

 さっきまでの塾の疲れが吹き飛んだ表情をしているタケ


「でも良かったな。うん、うん。俺も良かった。晃の絵、俺好きだからさ。また見れると思うと。」


 おいおい。

 どっかで聞いた台詞だな。

 ああ。

 あいつが・・・


「あいつさ、最近髪型違うじゃん。」

「ん?椎名か?」

「髪縛ってたり縛ってなかったり。」

「・・・そうか?気づかなかった。あいつ元々縛ってなかったか?」

「夏ん時は縛ってなかった。」

「そうだっけか。覚えてねーな。」


 タケは椎名萌を見ていなかったってことか。

 タケは椎名萌を気にはならなかったってことか。

 そんなことを思った。


「俺、元々あいつとはかかわりたくねーと思ってたのに。うるさいし、にののフンだし。」

「あははー、にののフンだな、確かに。」

「なのに、髪縛ったり縛ってなかったり。うるさかったのに、うるさくなくなったり。無駄に元気で馬鹿みたいに笑っていたのに、泣きましたって顔しやがってさ。」

「へー。」

「いったいなんなんだあいつは。」

「ブハッ!」


 タケが噴き出して笑っていた。

 俺の方を見て、悪い悪いと合図をしてきたが、笑いは止まらないようだった。


「晃からそんな風に思われてる椎名って・・・やばい、笑いのツボにハマッたー。」


 一年の頃からタケに辞書だの教科書だのを借りに来ていた女。

 そいつの後姿をタケがいつも見ていたから・・・

 俺はてっきりタケは椎名萌が好きなのだと思っていた。

 でも、タケと過ごす時間が増す毎に違うのだと気づいた。

 気になるとか、好きという感情をあいつから教わって。

 俺も気付いた。

 タケはそうゆうのではなく、異性とかではなく、人として椎名萌のことが好きなのだろうと。


「俺、椎名のこと好きだって認めた。」


 さっきまで遠慮なく笑っていたタケの表情から

 一瞬笑みが消え・・・


「知ってたよ。」


 タケの、歳に合わない表情を見た。

 大人びたというか、少しハニカム感じの笑顔。

 初めて見る表情が印象に残った。


 それから俺達はいつものように他愛もない話をして別れた。


 帰り道。

 見上げた空は夕日色。

 オレンジが茶色がかっていて。

 秋の終わりを告げるかのように。

 冬の始まりが近づいていること知らせていた。


 中学に入ってから三度目の秋。

 タケと初めて話したのも秋だった。

 今日タケが言っていたっけ。

 もうずいぶん長い間話してなかった気がすると。


 一年の秋、初めて本音で話せる友達に会った。

 共通の趣味、共感できる芸術感覚。

 家庭環境から、自分のやりたい道をあきらめなければならない境遇。


 でも、本音で話せたのも絵のことまでだったのかもしれない。

 家庭環境や境遇は似ていただけで、本来全く別物だった。

 そのことに気づいてしまったから。

 絵の事は話せても、母親の事、兄貴達の事は話せなかった。


 だから、タケが言ったこともあながち冗談ではないだろう。

 全てを話せるまでに丸二年もかかったのだから。

 

 タケにしか・・・話せない。

 タケにしか、話せなかったよ。

 タケに、話せて良かった。

 ただ、それだけのこと。

  



 翌朝は月曜日。

 また一週間が始まる。


「あきちゃん、おはよう。」


 いつも通りの朝。

 そう、いつも通り。

 あいつの挨拶で始まる学校。


 そしてその横には・・・

 芳沢。


 椎名萌のことを好きだと認めたから

 見えてくるものがある


 相変わらず無駄に笑顔で元気なうるさい女。

 それに応える芳沢。

 その対応から、丁寧さと親切さと・・・

 ああ、ほら。

 見えてくる。

 芳沢が椎名萌を想う気持ちが。


 べつに。

 特に俺には関係のないことなのだけど。

 そう、関係が無いと思っていたのだけど。

 気になるし、好きなのだから仕方のないことなのだけど。

 なんか変につっかかるんだよな。

 曖昧というか、あやふやというか、苛々とは違うなんだか違和感を感じるこの気持ち。

 これ、なんだっけか?



 一時間目が終わり、二時間目は移動教室。

 月曜日の時間表をいつも通りにこなすだけ。

 移動教室への経路も同じ。

 いつもの廊下。

 すれ違う生徒達。

 その中に・・・

 ほら、いつも通り。

 あいつもいる。


 そして、いつも通り。

 一人で喋っている二宮。

 距離が離れていても聞こえてくる二宮の声。

 その後ろ。

 二宮の金魚のフン。

 ほら、いる。

 

 徐々に距離が詰まってきた。

 あいつの顔が・・・

 見える。

 だが下を向いていた。

 二宮の話に賛同することもなく。

 ただ、一人、俯いていた。


 また泣いたのか?

 どんな表情をしているのか・・・

 振り向かせたくなる。

 気づかせたくなる。

 俺とすれ違うこと。

 俺が居ることを。


「あっきらくーん、チャーオー!」


 いつも通り、二宮のふざけた挨拶。

 すれ違うだけなのに、無駄に明るくて元気印な奴。

 この明るさに救われる奴もいるだろうが。


 二宮の声でようやく気がついたか、

 顔を上げた椎名萌と目が合った。


 今日は髪を縛っていなかった。 

 肩まで付いたミディアムヘア・・・とすれ違う。

 

 縛っていなかったので髪を引っ張ることが出来ず、

 軽く額を叩いてやった。

 叩く・・・といよりは

 俺が触れたかったのだろう。

 あいつに。

 俺が触りたかったのだろう。

 あいつの髪に。



 昼休み。

 タケを訪ねて五組で過ごしていた。


 椎名萌のいる五組。

 毎日が祭りモードの二宮のいる五組。

 相変わらずの昼休みだった。


 そこへ響く奇妙な声・・・

「ひゃあああー@※@※@」


 聞き覚えのある声と現象。

 タケと話しながら横目で見ると

 北山が椎名萌の首をくすぐっていた。

 以前やっていた俺が言うのもなんだが。

 椎名萌の弱点でもある首。


 懲りない奴。

 両者共にな。

 

 こうして客観的に見てみると

 より分かり易い。

 

「クククッ・・・。」


 横のタケが小声で笑ったので俺は視線を戻した。


「キタも懲りないねー。マジですかねー。」


 タケの言いたいことはわかった。

 北山が椎名萌を好きだと知ったのは夏前から。

 だから今更・・・

 べつに・・・

 どうだっていいのだけれど。


 それにほら。

 いつも通りの光景。

 

 好きな女を困らせて楽しむ幼稚な男子。

 そうすることでしか好意を伝える手段がわからない幼稚な男子。


 そしてそれを庇うのが二宮。

 困った時に二宮に助けを求める椎名萌。


 いつもの絵図。

 五組らしい昼休み。

 ただ、それだけのこと。




     11.



 十一月上旬。

 いよいよ、三者面談の日となった。


 約束の時間5分前に父親がやって来た。

 前の面談者が終わるまで、廊下の待機椅子に座った。


 学校で、こうして父親と会うのは初めてではないか。

 中学は授業参観が無かった。

 入学式はばあちゃんが来てたっけ。

 学校行事の体育祭も合唱コンクールも来たい保護者だけが来ていた。


 小学生のように、誰の父さんだとか、母さんだとか、そんなのに関心が無くなるのが中学生でもある。

 逆に、両親揃って行事を見に来ていたら、その生徒が恥ずかしい思いをする位。

 そういう年頃。

 だから母親がいなくても、父親がいなくても、

 中学では俺には関係がなかった。


「ご苦労様です。」

「晃がお世話になっております。」


 そんな会話から三者面談が始まった。


「晃君は成績も良く問題行動も無い真面目な生徒です。優秀なお兄さん達と同じ位。」


 でた。

 余計な一言。

 誉め言葉と勘違いして使っているのだろうかと突っ込みたくなる。


「そうですか。」


 父親がハンカチを取り出した。

 十一月なのに額に薄っすらと汗をかいていた。

 父親なりに緊張しているのか。

 

「ご家庭では何か学校のことについて晃君から相談はありますか?」


 おいおい。

 お世辞の後はお決まりの家庭での様子かよ。

 マニュアル通りな担任だな。


「お恥ずかしい話ですが、私は仕事でほとんど家におりませんので晃の祖母から学校のことは聞いております。」


 おいおい。

 そんな余計な話はいらねーよ。


「あ、お父さん確かご出張が多いと聞いておりました。失礼しました。」


 おいおい。

 だから言っただろ。

 余計な話の展開は気まずさ全開になるだけだって。

 家庭の事情は事前に把握しておけよ、担任。


「えー、では、進路希望調査では第一志望をK校とされていますが、その後お変わりはありませんか?」


 きたきた。

 やっと本題。


「その事ですが、晃と祖母と十分に話し合った結果・・・」


 先月までの俺は、この場でM校受験を切り出そうとしていた。

 県内有名の進学校、M校。

 亘兄が受験に失敗したM校。


「晃の意思を尊重して、東京の私立高校を受験します。」

「えっ?!」


 おいおい。

 そんなお決まりに驚かなくても。

 まぁ、三年になって二回提出した進路希望調査にはそんなこと書いてなかったからな。

 驚くのも無理ないか。


「S美大の付属高校を第一志望校に。第二志望校は県内のK校を考えています。」


 今度は俺の口から伝えた。

 M校の名前を伝えるのではなく。


「そうだったのか、穂高。先生は驚いたぞ。」

「ご迷惑をおかけするかもしれません、すみません。」


 なぜそこで父親が謝る?

 相変わらずハンカチで額を押さえている。


「県外の私立高校となると受験日程も異なりますし、美術という専門の学科は私詳しくないので、今度美術の先生にアドバイスをお願いしておきます。」

「お世話かけます。」

「いえいえ、晃君の力になれるよう、情報収集に努めさせて頂きます。」

「お願いします。」


 中学三年間、特に目立った行動も起こさなければ

 良い意味でも悪い意味でも地味な生徒で。

 印象に残らせないようにしてきたのは俺自身だけど。

 そんな無難でどちらかと言えば受け持っていて楽な生徒が

 急に進路を変更した。

 しかも、普通科の高校ではなく専門科の高校。

 おまけに県外。東京。

 田舎の中学からしたら驚きな話しだろうに。

 ひょっとすると、M校受験を宣言するよりも驚かせたかもしれないな。


「県内の高校、K校に関しては晃君の成績でしたら十分受験可能と思われます。」

「ありがとうございます。」


 そんな会話で三者面談は締められた。

 あっという間の二十分間が終わった。

 進路を決める二十分間。

 進路が決まる二十分間。


 それぞれの生徒の

 それぞれの家庭の

 成績と進路。



「父さん明日から大阪だから今晩発つ。」

「うん。」

「晃も高校生か・・・早いな。冬休みに入ったら、一度母さんの実家へ行っておいで。」

「うん。」


 来賓者玄関口で父親と別れた。


 同じ時間に面談だったのだろう、

 他のクラスの女子が母親と一緒に帰宅するところだった。

 腕を組んで仲の良い親子関係を象徴していた。


 それぞれの家庭の

 それぞれの生徒の

 進路相談。


 ふいに、タケの家は大丈夫だろうかと心配になった。

 父親が来るのか、あの母親が来るのか。

 タケは第一志望校をM校にしたのか・・・?


 タケのやりたい事と、親に決めたられた進路。

 両方は無理なのだと。

 自由に出来るのは高校までだと言っていた。

 両立・・・か。


 M校受験と絵の勉強。

 高校生活と趣味で続ける絵。

 俺にも両方は無理だった。

 そう、両方は・・・


 あいつのことも。

 M校受験を決めていた時期、あいつのことも気になっていて。

 かかわるのを辞めたけど

 離れようと決めたけど

 駄目だった。

 

 絵の事も兄貴達の事もあいつの事も

 かかわるのを辞めればそれで済むと思っていた。

 それで終われると思っていた。

 

 でも違った。

 そこに終わりは無く、

 離れようと避ければ避ける程

 どんどん悪い方向に進むだけだった。

 

 認めることで次に進むことが出来た。

 認めてしまえば次に進むことは出来た。

 でも・・・

 次に進む道にはあいつはいない。


 絵を描くことはあいつと離れることになる。

 俺がS美大付属校の受験に合格すれば・・・

 あいつとは離れることになる。


 あいつは泣くだろうか?

 あいつを泣かせてしまうだろうか?


 あいつを泣かせるとわかっていて、

 このまま卒業までの時間を過ごすのか?

 だったら今のうちに・・・

 あいつとは・・・

 あいつの為にも・・・

 やっぱりかかわらない方がいいのかもしれない。 



「三番目のほっだかくーん。」


 一番奥の美術室へ寄ろうと思って

 職員室の前を通ると

 その隣の保健室から奇妙な声が聞こえた。


「あれが穂高父か。渋いねー。」


 できれば聞き流したかった。

 できることなら無視したかった。


「穂高父、何やってる人?」


 職員室の前の廊下といえば当然ながら静かな場所。

 そこに響き渡る保健医の声。

 絶対に止めたかった。

 止めるためには仕方なく保健室に入るしかなかった。


「普通のサラリーマンですけど。」


 入ってきた俺に満足そうな保健医。

 更に質問に答えた俺に嬉しそうに笑顔を向ける保健医。

 うざい。帰りたい。


「普通のっていうのが引っかかるぅー。」

「出張の多い大きな企業のサラリーマンです。」


 半ばやけくそ状態で答えた。

 この保健医に適当な返事は通用しないと知っているから。


「わぉ!大企業!さっすが穂高父ね!」


 校庭に面した一階の保健室の窓からは

 オレンジ色の夕焼け空が見えた。

 サッカー部に陸上部、野球部とここからはグラウンドが見渡せる。

 運動部に怪我はつきもの。

 グラウンドからすぐに上がってこれるようにと、保健室には外階段もあった。

 体育館競技のバレー部。

 擦り傷切り傷程度なら、救急箱で対応していた。

 保健室とは無縁だった俺。

 いや、無縁で良かった。

 こんな保健医のいる保健室にお世話にならずに良かった・・・。


「父は大企業勤務、兄は体育教師と・・・医学部だっけか?」


 おいおい。

 なぜに保健医が知っている。

 いったいどっからの情報だよ。


「で?三番目君は決めたの?進路。」

「はい。」

「ふーん。」


 そこは聞いてこないのですか。

 興味なしですか?


「あんた好きな子いるでしょ?」

「は?」


 おいおい、思わず声に出たさ。

 なんでいきなりそんな話し・・・

 ってか、俺の進路は?

 進路の話はどうでもいいのか?


「はい、当たりー!」


 おいおい。

 だからなんだんだよ。

 この保健医は普通の会話できねーのか?


「認めちゃえば案外納得のいくことばかりで自分が好きになれるわよ。」


 おいおい、だから何で・・・

 って、終わりかよ。


 前回と同じ。

 この保健医は自分の言いたい事が終わると

 忙しそうに仕事をしてみせる。

 もう、帰っていいわよという合図。


 まったく調子の狂う。

 毎回毎回思うけど

 こんな教師、いいのか?

 こんな保健医でいいのか?


 勝手に一人で喋って。

 勝手に一人で盛り上がって。

 勝手に一人で終わる。


 やっぱりあいつと似ている。

 俺が無視できないのも

 俺の調子を狂すのも

 あいつの存在なんだ。




 美術室は鍵が掛けられていた。

 珍しいな。

 もうそんな時間なのかと時計を見ると5時を過ぎていた。

 図書室ならまだ開いているかとUターンすると


「あれ、あきちゃん。」


 会ってしまった。

 椎名萌と。


「帰らないのか?」


 三者面談の話を出されるのが面倒くさかったので

 先に質問を出した。


「あ、委員会の仕事が残ってて・・・」


 作戦勝ち。

 先に質問を出せば、ばか女も勝手に喋りかけてきたりはしない。


「寄り道しに来たの。あきちゃんの絵、見に。」


 絵?

 ああ、美術室の前に貼ってある絵のことか。

 校舎で一番奥にある美術室。

 わざわざ遠回りするだなんてやっぱり馬鹿な女。


「あ、じゃあ行くね。」


 掴んだのは右腕だった。

 左にノートとペンケースを抱えていたから。


 俺の横を通るあいつが

 俺の横を通り過ぎるのを

 止めたかったんだ。


「あきちゃん?」


 ああ。

 そうか。

 なんだ。

 認めてしまえば簡単じゃないか。 


 俺が行かせたくなかったんだ。

 俺が摑まえていたかったんだ。

 俺が・・・

 この手で・・・


 両方は無理だとわかっていても

 絵の方に進むことはこいつと離れるとわかっていても

 今、離したくないんだ。


 絵の方に進むことはこいつを泣かせてしまうとわかっていても

 今、泣かせたくない。

 俺が泣かせなたくない。


 ほら、その顔。

 おまえのその表情を見ているとたまらない。

 この気持ちは何だ?

 

 この間、こいつの腕を掴んだ時と同じ。

 同じ感情。

 同じ気持ち。

 この気持ちは何だ?



「椎名さん、居た居た。」


 廊下の向こうから聞こえてきた声。

 見えてきた二つの影。


「職員室行ったらいないから探したよ。」

「ごめんなさーい。」


 くるっと振り返って小走りに走り去る。

 椎名萌の後ろ姿。

 正面に見えたのは芳沢と元生徒会長の松岡聡一。

 迎えに来たのか。


 やがて三つの影が遠くに見えた。

 放課後の静まり返った廊下に響く三つの足音。

 それらの影と音とは別の方向に向かおうとした時だった。


 足元に。

 目に入った物。


 生徒手帳が落ちていた。

 

 あいつのか?

 片手にノートとペンケースを抱えていた。

 落としたことにも気づかないだなんて馬鹿な女。


 追いかけるだなんて面倒くさいことどうして俺がするか。

 拾ってやっただけでも有り難く思え。

 明日渡すか。

 あ、五組へ行けばまだ居るか?


 図書室へ行くのを止め、

 一応五組へ行くことにした。

 頭の中で経路を確認したが遠かった。

 このまま玄関へ向かって帰る方が余程楽だった。

 美術室経路で行くと大分遠回り。

 三年間通った校舎なら当たり前にわかっていること。

 なのに、あいつは寄り道をしたと言っていた。

 わざわざ美術室に。

 俺の絵を見る為に・・・か。


「認めちゃえば案外納得のいくことばかりで自分が好きになれるわよ。」

 保健医の言った事を思い出した。

 こんな時に。

 こんな時だからか。


 あいつは俺の絵を見ていた。

 俺の知らないところで。

 俺の知らない間に。

 いつの間にか・・・

 俺の中に入ってきて

 俺に絵を描くきっかけを与えてくれた

 認めるさ。

 あいつが俺に絵の大切さを気付かせてくれたんだ。


 なるほど。

 納得はいくな。

 俺があいつを行かせたくなかったんだ。

 そういう自分もいるんだと。

 認めるさ。



 そんなことを考えていたら

 五組の前に着いた。

 三者面談は三時から五時の一日八組。

 計四日間で行われる。

 五時を過ぎた教室にはもう誰も残っていなかった。

 

 あいつ等もいなかった。

 人の気配も足音も聞こえない廊下。


 帰ったのだろうか。

 同じ経路を通ってこなかったので

 すれ違うことも出来なかったか。

 まぁ、明日渡せばいいだろう。


 五時半か。

 時折聞こえてくるのは部活動に励む後輩達の声。

 グラウンドからか、体育館からか。

 誰もいない校舎に聞こえてくるのは外からの音だけ。

 四組に戻ってロッカーの荷物を持ち帰ろうと思った。


 ふと、あいつの生徒手帳を開いてみた。

 一年毎に更新される生徒手帳。

 毎年四月に撮影される顔写真。

 今よりもずっと髪の長い椎名萌の写真。

 中二の終わり、中三の始まり。

 そんな時の写真だからか。

 少しだけ幼く見えた。


 俺の知っている椎名萌。

 俺を知らない頃の椎名萌。

 あいつが俺を知ったのはいつだろうか。


 四月、タケのクラスを覗きに行くと椎名萌がいた。

 五月、挨拶をされるようになった。

 六月、修学旅行でも騒がしかった。

 七月、引退試合を見に来た。

 八月、夏祭りで迷子になった馬鹿女。

 九月、表情がくるくる変わった。

 十月・・・・


 生徒手帳のスケジュールページを捲っていくと

 十月から委員会の予定がびっしり書き込まれていた。


 後期から学級委員になったんだっけ。

 初めての委員長に選ばれて。

 あいつ元々学級委員タイプじゃないしな。

 馬鹿な女。

 副学級委員的な生活委員をやっていたからといって、次は学級委員を・・・

 てな感じで押し付けられたのだろう。

 馬鹿みたいに人がいいから、断れなかったのだろう。

 雰囲気に流されて・・・

 まぁ、頭の悪い奴ではないから、引き受けたからには場の雰囲気を読み取って責任を持ってやってきたのだろう。

 あいつなりに。

 ばか女なりに努力もしてたのだろう。


 元々学級委員タイプの芳沢と組むプレッシャーとか。

 学級委員なのだからとかいう訳のわからん責任感を勝手に感じて。

 成績落とさないようにとか。

 規則を守ろうとか。

 頑張ってたのか。

 あいつなりに。

 落ち込んだり、泣きそうな顔したり、俯きがちだったり、暗い表情していたのも

 あいつも自分と戦っていたんだよな。


 十月の沢山の書き込みの中に・・・

 二重丸印を見つけた。

 BDという文字と共に。

 その印が付けられていたのは六日だった。


 ふと、ロッカーの上の掲示板を見上げる。

 自己紹介カード。

 二学期の中途半端な時期に物好きなクラスの奴らによって書かされた物。

 先月、偶々居合わせた時に女子に頼まれて後ろの掲示板に貼った物。


 あいつ、これを見て俺の誕生日知ったんだっけか。

 確か下書きの時点で持っていた時。

 誕生日を知られるだなんて面倒くさいこと。

 俺の誕生日はめでたくも無く母親の命日なのに。

 あいつはわざわざ皆の前で言いやがった。

 おめでとうと暢気に。


 いつも無駄に元気で無駄に笑顔で。

 何の悩みも無さそうなばか女だと。

 一人で勝手に喋ってうるさい女だと。

 かかわりたくないと。

 思っていたのに・・・

 

 いつの間にか、かかわりを求めているのは俺の方になっていた。

 いつの間にか、居なくてはならない存在になっていた。

 大事だと思う。

 あいつのこと、大事なんだと思う。

 



 次の朝だった。


 久しぶりに・・・

 あの夢を見た。


 色は黄色。

 黄色いじゅうたんのような丘の上に

 立っていた。

 

 あいつが立っていた。


 もう見ないと思っていたのに。

 今更・・・この夢?


 夢だとわかっていても

 覚めるまでは付き合わなければならない


 そこまで意識ができていても

 覚めないのだから仕方ない


 だんだんと近付いてくる

 俺が近づいているのか

 あいつの方が俺に近付いて来ているのか 

 いつもわからなかった


 二人の距離が縮まって

 手を伸ばせば届く距離


 さあ、どうする?

 振り向かせるか?


 振り向かせてどうする?

 その先は?


 次の瞬間だった

 あっという間に

 景色が変わった

 夢なのに

 夢なのだから


 教室で

 俺の席で

 あいつを振り向かせた


 その顔は・・・

 夢に出てきたあいつだった



“ピピピピピピピピー”


 夢の終わりを告げたのは意外にも目覚まし時計の音だった。

 いつもは目覚まし時計が鳴る前に目が覚めるのに。

 

 おいおい。

 学校が出てくるなんて初めてじゃねーか。


 しかも教室だし。

 リアルに俺の席だし。


 デジャブ?



“コンコン”


「晃起きとるかい?」

「うん。」

「ならいいんよ。朝ご飯おいで。」


 寝坊も遅刻も滅多にしたことがない。

 さすがにばあちゃんも心配して見に来たのだろう。


 変な夢を見たから・・・

 目覚ましを止めてからだいぶ時間が経っていたことに気づかなかった。


 一階に下りて顔を洗う。

 洗面所を使っている時、玄関で声がする。


「行ってきます。」


 亘兄だ。

 毎朝、いつも通りの事。

 生活時間帯をずらして。

 朝食も別々に摂る。

 ずっとそうしてきた。


「いただきます。」


 朝食を食べ始めるとばあちゃんが向かいに座った。

 この時間のばあちゃんはいつもなら洗濯機を回すのに。


「父さん今日から大阪じゃて。」

「うん、聞いた。」

「そうかい。」


 毎朝早起きなばあちゃんは先に食事を済ませている。

 それなのにわざわざ食卓に座ったということは何か話しがしたいのだろうと思った。


「父さんな、亘が一人暮らしを始めたら一緒に暮らす言うてたよ。」

「へー。」


 味噌汁を飲みながらそう答えた。


「出張多いさ、こげな田舎まで毎回帰って来んと亘と住んだら便利じゃて。」

「そうだね。」


 確かに。

 父親は全国の大都市に支店を構える企業で働いていて。

 こんな田舎から出張ばかり行っていて。

 単身赴任にすれば良かったのに。

 と思うことは何度かあった。


 べつに父親が家にいてもいなくても

 関係が無かったし、

 ばあちゃんがいたし。


 でも子供ながらに思っていたこと。

 父親の帰ってくる家はここなのだと。

 どんなに短い滞在時間でも

 荷物を詰め替えるだけでまた出かけてしまうことでも

 決まって父親はこの家に帰ってきた。

 

 特別何かを話すわけでもなく

 食事を一緒にするわけでも無いけれど

 父親にとってはこの家に帰ることが何か意味を持っていたのかもしれない。

 それが何かは俺にはわからないし、

 俺には関係がないのだけれど。

 ただ、そんな風な考えもあるのだと。

 今までは考えたこともなかった。

 ただ、それだけのこと。




 朝の支度から少しずつ時間がズレて。

 家を出る時間も遅かったらしい。

 八時に家を出れば十分間に合う距離なのだが。


 登校時間のちょうどピークにあたったらしく。

 いつもより下駄箱が込み合っていた。


 喋りながら靴を履き替える奴。

 履き替え終わったのに友達を待っている女子。

 

 人の多さと比例して

 聞こえてくるのは飛び交う複数の会話

 その中から・・・


「五組の椎名さんと芳沢君が付き合ってるらしいよ。」

「えー、ほんと?」

「あ、私もその噂聞いたことあるー。」


 おいおい。

 聞こえるって。

 いくらザワザワした中だからって・・・


「学級委員一緒にやってるもんねー。」

「一緒に帰ってるとこ見た子いるって!」

「えー、じゃあ噂は本当なんだー。」


 おいおい。

 聞こえているのは俺だけか?


 噂ね・・・。

 そういうの好きな年頃なのだろう。

 誰と誰が付き合っているとか、

 誰と誰が一緒に帰っていたとか。


 一年の頃からあったじゃないか。

 人の噂。

 良い噂も、悪い噂も。

 噂なんて誰が最初に立たせるのか。

 噂好きがあっという間に広げる。

 そして噂話に拍車がかかる。


 当事者の知らないところで。

 当事者の知らない間に・・・


 椎名萌と芳沢か。

 だいぶ前から朝一緒に学校来てんじゃん。

 それだけで噂が立つのか。

 それだけ・・・?


 生徒手帳に書いてあった委員会の予定。

 委員会の仕事量。

 それだけ一緒にいるってことか。


 まただ。

 また、変な気持ち。

 この前も感じた。

 曖昧というか、あやふやというか、苛々とは違うなんだか違和感を感じるこの気持ち。



 昼休み。

 生徒手帳を返そうと思って五組へ行った。


「おー、晃。」


 教室の入り口の所でタケに呼び止められた。

 関君と立ち話をしていたようだ。


「あ、あきちゃんだ。」


 後ろから椎名萌が出てきた。

 いや、元々関君の後ろにいたのだろう。

 小さくて見えなかった。

 そこに珍しく二宮がいない。


 教室の中を覗いてみると

 中央で二宮がちょこんと大人しく席に座っているのが見えた。

 そして横には斉藤恵子。

 なんとなく事態を理解できた。


「斉藤さんの怒りに触れて反省中。」

「あははー。」

「にのも気の毒にな。」


 二宮、今度は何を仕出かしたんだ。

 どうせまたばかな事をやって

 斉藤恵子の目に留まったのだろう。


 五組の奴には慣れた光景のようで

 皆、笑っていた。


 隣に来た椎名萌に生徒手帳を渡そうとした時だった。


「ひゃあああー@※@※@」


 おいおい。

 俺じゃないぞ。


「よーすっ!椎名ちゃん今日もかわいいね!」


 椎名萌の首をくすぐったのは北山。

 こいつも昼休みになると五組へ通ってくる。

 マメというか暇な奴。


「ねーねー、今度皆でボーリング行こうよー、ねー、椎名ちゃんもさー。」

「おっ、いいねー、ボーリング。」

「だろっ、はい、関君参加ね!」


 そう言って、関君の肩を組む北山。

 

「あれ?にのは?いつも一番参加のにのがいないじゃん。あ、じゃあ椎名ちゃんさー・・・」


 その流れにさすがにばか女も勘付いたのだろう。

 関君と肩を組んでいる左腕。

 その北山の右腕が伸びてきていることに。


 半歩。

 少しずつ・・・

 後ずさりをしているのが見えた。


 廊下から急に現れ

 首をくすぐった北山から

 少しずつ離れる・・・


 横に居たのは俺。

 あいつの隣にいたのは俺だった。


「椎名ちゃんは?いつなら空いてる?」

「ど、土日は塾があるから・・・。」

「えー、そうなのー?」

「タケは?タケも塾とか言わないよね?」

「キタ、この時期受験生なら塾は当たり前だぞ。おまえも行ってるだろ?」

「そりゃ行ってるけど、勉強に息抜きだって必要じゃーん。遊ぼーぜー。」


 二宮を見たが、まだ斉藤恵子に捕まっていた。

 こちらの様子には気づいていない・・・か。

 いつもなら、こんな時。

 椎名萌が困った時、庇う二宮。 

 困った時に二宮に助けを求める椎名萌。


「ねーね、いつにする?椎名ちゃんは?塾終わった後は?」


 二宮がいないから。

 止めに入る奴も、話題を変える奴もいない。

 キタの誘いをどう交わすのか・・・

 ああ、ほら。困った顔してる。


「あれ、椎名ちゃん今日髪二つに縛ってるんだー。今気づいたけどかわいいねー。」


 え?

 おいおい。

 なんだそれ。


「キタ、とりあえず集まれる奴で行こうぜ。俺声かけてくるよ。」

「おお、関君頼んだー。」


 北山に髪型を誉められ、触ろうと手が伸びていたのに気づいた。

 あいつも気付いたのだろう。

 とっさに?

 偶々?

 椎名萌が隠れたのは俺の後ろだった。


 掴んでいたのは制服の袖。

 意外と強く握られていた。

 べつにいいけど。

 生地が伸びる心配なんてしないけど。


 そして俯いていた表情。

 でも俺にはそれが見えたんだ。

 俺にはそれが・・・

 可愛く見えた。


 なんだ、この気持ち。

 最近わからない感情が多すぎて。

 あれとそれとこれと・・・

 どれが同じ感情だっけ?

 どこが同じ気持ちだっけ?


 考えるより先に

 頭よりも先に

 体が反応した

 体が答えた

 

 答えは・・・

 俺がこいつのことを好きだから

 俺がこいつのことが好きだから

 可愛いって思うんだ。

 可愛いと思ったんだ。



「いやー、参った参ったーのにの登場!さすがに昼休み中喋るなはきついわー。」

「あははー。にの、皆笑ってたぞー。」

「ひどいよー、皆、助けてくれないんだもん。にのショック。」

「あははー。斉藤さんを怒らせたにのが悪いんだぜ。」


 教室の中央から、聞こえてきた声は

 一気に教室中に広まり、笑いが起こった。


「おっ、もえ、どうした?下向いて。」


 その声に、皆の視線が椎名萌に注がれた。

 そして、慌てて顔を上げる。


「な、なんでもないよ。」


 作り笑い。

 俺にはそう見えた。

 かわいくねー。


「そっか、もえちゃんの大好きなにのがいなくて寂しかったのね。ヨシヨシ。」

「ち、違うよ。」

「だはははー。」

「にの、調子良すぎー。」


 沸き起こる笑い声。

 クラスの中心に再び戻った二宮。

 こうして五組はいつもの昼休みを取り戻した。


 一人を除いて・・・

 二宮が隣に戻ってきても

 椎名萌の表情は暗かった。


 さっきの作り笑い、二宮は気づいていないのだろうか。

 見ているようで・・・

 見ていないのか。


 二宮は上手く騙せたつもりでも

 俺は騙されないぜ。

 その表情。

 何かあったのか?

 そんなに北山の事、苦手なのか?

 それとも・・・

 芳沢との噂の事・・・か?


 そんなことを考えていたら

 昼休みが終わってしまった。

 生徒手帳を返しそびれた。 




 放課後、再び五組へ行った。


「あきちゃんだ。」


 気づいたのは椎名萌。

 昼休みとは違う表情で出てきた。


「タケやん待っているの?呼ぼうか?」

「いや、おまえ。」

「え?私?」


 驚いた表情。

 その顔の前に生徒手帳を差し出した。


「あっ。」


 更に表情が変わる。

 やっぱり見ていて面白い。


「あきちゃんが拾ってくれてたんだー。良かったー。ありが・・・」


 手渡す瞬間に腕を上にあげた。


「えっ?ちょっ・・・」


 素直に渡されると思ったら大間違い。

 あいつの届かないところへ・・・


「あきちゃん、返してよ!」

「もー、ずるいよ、届かないってば。」


 そう言いながら、ぴょんぴょん跳ね上がる。

 ジャンプをしても届かない。


「あきちゃん、あきちゃんってばー。」


 前にもあったな。

 同じこと。


 修学旅行で。

 こいつが落としたテレカ拾って。

 返す時にこんな風にして・・・

 ムキになって取り返そうとしてたっけか。

 届かないのに無駄な努力して。

 ばかな女。

 そう思ってた。

 でも・・・


 いつの間にかその馬鹿真っ直ぐなところに惹かれて。

 いつの間にかうるさいお喋りが聞きたくなって。

 いつの間にか・・・


「落書きしといたから。」

「えっ?」


 頭の上に乗せてやった。

 ついでに・・・

 というか、俺が触りたかったのだろう。

 頭に。

 触れたかったのだろう。

 髪に。


 二宮みたいに、頭を撫でてやることはできない。

 二宮みたいに、助けてやることもできない。

 それでも・・・

 俺はこいつの傍にいたい

 俺がこいつの傍にいたい


「あきちゃん、中見たの?」

「ねえ、ねえってばー、あきちゃん?」


 そう言いながら後をついてくる。

 振り返らない俺を振り返させようと必死に。


「もー、あきちゃんてばー、何か言ってよー。」


 掴んだのは制服の袖。

 触れているのはあいつの手。


「別に減るもんじゃねーだろ。」

「えーっ、そういう問題じゃないよー。」


 振り返ったのは俺。

 立ち止まったのは椎名萌。


「人に見られたら困るもんでも入ってたのか?」

「そぉじゃないけど・・・」

「ならいーだろ。だいたい落としたことに気づかない方が悪い。」

「えーっ、そんなぁー。」

「拾ってやっただけでも有り難く思え。」

「・・・・う。」


 不服そうな顔をしているのが面白い。

 こいつの素直な表情。

 椎名萌の今の表情。

 俺が見ている今。


「おまえ意外と字汚いな。」

「ええーっ!」

「あと平仮名多過ぎ。」

「ひっどーい!メモだもん!字なんて適当に書いてるよーだっ。」


 意表を突かれてか、

 恥ずかしさと怒りを込めてボコボコと叩いてくる。


「もーあきちゃん意地悪ー。」

「イテ・・・痛いって。」


 ちょっとからかってやるつもりが、

 大分怒りを買ってしまったようで。

 結構本気で叩かれた。


「おまえなー、グーで叩くなよ。」

「どうせ私は字も汚いし、グーで殴る乱暴者ですよーだっ。」


 力の強さとかではなく、ただ単純に

 椎名萌が俺の腕をたたいていることが変な感じだった。

 いつの間に・・・

 こんな風にかかわるようになったのか。


「だから痛いって。」

「あきちゃんみたいに絵も上手くないし、頭も良くないし、敵いませんよー。」


 おいおい。

 絵も頭も関係ないだろ。

 ってか、俺に敵うって何だよ。

 やっぱおもしれー奴。


「にのみたいに気が配れないし、けいちゃんみたいに物事ハッキリ言えないし・・・」


 なんだよ。

 何泣きそうな声になってんだよ。

 さっきまでの俺を殴る勢いはどうした・・・?


「おまえはおまえだろ。」

「え?」

「五組に、にのも斉藤も二人はいらねーだろ。」


 ばーか。

 らしくねーっつーの。

 こんなこと言う俺も。

 落ち込んでるおまえも。


「そのまんまのおまえでいいんじゃん。」


 椎名萌だから選ばれたんだろ。

 椎名萌が選ばれたんだろ。学級委員。

 押し付けられたら断れないタイプだろうけど、

 一度引き受けたら最後まで責任もってやる奴だから。


「いーじゃん字ー汚くても。黒板は書かないだろ。」

「もー、そういうことじゃないもんっ。あきちゃんの意地悪ー。」

「結局それかよ。」

「意地悪、意地悪、意地悪、意地悪―――」


「ひゃあああー@※@※@」

「もー、首くすぐるのはやめてよー。」


 こいつといると調子が狂う。

 ずっと前から思っていたこと。


 こいつといると自分じゃない俺がいる。

 それが向き合いたくなかった自分。


 認めてしまえば自分が好きになれる。

 保健医がそんな事言ってたっけか。


 こんな面倒くさい奴とかかわりたくなかった。

 しかも女子とだなんて。

 でも・・・

 認めるよ。

 こいつは特別なんだ。

 椎名萌は俺にとって特別なのだと。


「あ、いけない。芳沢くん待たせてるんだった。」


 ほんと、表情がくるくる変わって忙しい奴。


「行かなきゃ。あきちゃん、また明日ね。」


 慌てて走り出した後姿を・・・

 ずっと見ていた。


 さっきまでこの手で触れていたあいつの髪。

 あいつに叩かれていた俺の腕。


 ふと、今朝の夢を思い出した。


 夢なのに

 学校で

 教室で

 あいつを・・・


 掴んだのは俺

 振り返らせたのは俺


 夢の中で

 学校で

 現実で

 あいつを・・・


 掴んだのは俺

 振り返らせたのは俺


 あの夏、人ごみに紛れたあいつを見つけた俺。

 

 あいつの腕を掴んで

 あいつを振り向かせた


 夏が終わって秋になって・・・

 

 その手を振りほどいたのも俺。

 あいつを人ごみの中へ突き放したのも俺。


 あの時に、戻ろう

 もう一度、見つけに行こう

 人ごみの中へ

 迎えに行こう

 あの夏の夜に


 置いてきたあいつを

 置いてきた自分を


 もう一度・・・

 あいつを振り向かせたい

 もう一度・・・

 あいつを振り向かせることが出来たら

 今度はもう離さない



 今日もあいつの挨拶で学校が終わる。

 また明日。から、おはよう。までの時間が始まる。


 帰宅途中で見上げた空は

 もうすっかり冬の夕暮れ。


 いつの間にか秋空と変わっていた。

 夏の終わりと冬の始まり。

 その間でしかない秋という短いはずの時期が・・・


 俺にとっては長い長い秋だった。

 終わりの見えない秋だった。

 終わりが見えた秋だった。


 冬の始まり。

 それは自分の道を歩む始まり。

 それは自分の道と戦いの始まり。

 いざたて戦人よ。

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