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4.夏の空

1.


 「これ、誰が描いたの。」

 「ぼくだよ。」

 「そう。上手ね。」

 夢を見た。

 まだ小さい頃の俺。

 何処か知らないが、でっかい草原が広がってて。

 小高い丘の上に座り、一人で絵を描いていた。

 空の絵。

 すると知らない人がやって来て、誰が描いた絵かと聞かれた。

 知らない人は女性だった。

 白い帽子を深く被って、白い洋服を着た、女性。

 それが誰かなんてわからないけれど。

 それが誰であっても関係がないのだけれど。

 なんだか遠く、惹きつけられる夢だった。

 上手ね。

 その言葉が耳に残った。

 誰の声かなんてわからないけれど。

 それが誰の声であっても・・・



 「晃。」

 

 カーテンが開けられる音がした。

 体が重かった。

 まだ瞼も重い。


 「朝じゃよ、晃。」

 

 差し込む光で目を開けた。

 眩しい。


 「珍しく起きてこんから。」

 

 体を起こした。

 眩しい。

 明るい。

 というより、暑い。


 「あれ。」

 

 時計を見ると昼を過ぎていた。

 太陽はまさにてんぺんに上り詰め、誇らしそうに照り付けている。

 

 「部活はもうないんじゃろ。」

 「たまには遅起きでも良かろう。」

 

 何年振りだろう。

 ばあちゃんに起こされるだなんて。

 何年振りだろう。

 朝方、一度も目が覚めず眠り続けただなんて。

 何年振りだろう。

 夢を見て目が覚めただなんて。


「着替えて昼飯にしよーや。」

「うん。」


 着替えを済ませて居間に下りた。

 扇風機に扇子。

 ばあちゃんは新聞を読んでいた。


「そうめんにしたよ。」

「うん。」

「今日も暑いのー。」

「クーラーつけないの?」

「扇風機で十分だがな。」


 毎年。

 何も変わらない。

 今年もばあちゃんの煎れた麦茶を飲む。

 また、夏が来た。

 ただ、それだけのこと。


「ご馳走様。」


 そうめんを食べ終えて、思い出した。

 今日は午前中学校に行く予定だった事を。

 今日から始まった夏期講習。

 塾に通っていない俺でも、学校で開かれる夏期講習くらいは参加しようと思っていた。

 が、終わってしまったのだから仕方ない。

 明日から行けばいいだろう。

 長い夏休みのはじまり。

 まだまだ時間はあるのだから。


「出掛けてくる。」

「帽子被ってくんよ。」


 次に思い出したのは、午後遊ぶ予定だった事。

 確かタケんちに行く約束。

 の前に、二宮達と遊ぶんだったか。

 面倒くさい。

 大人数で遊ぶのは久しぶりだ。

 一年の時、泉くんに誘われて、時々顔を出していたこともあったが。

 タケと仲良くなってからは、二人で遊ぶことが殆どになった。

 今更・・・

 面相くさい。

 ただ、それだけのこと。



「おっ、講習サボったな。」


 タケが笑って言った。


「おっす、晃君。」

「あきちゃん、昨日はお疲れー。」


 関君も来ていた。

 なんだ、この大人数は。

 聞いていたよりも増えている。

 面倒くさい。

 更に面倒くさい。

 カラオケなんて、もっと面倒くさい。

 この後タケとの約束が無ければ、帰っていたな。

 確実に。

 騒ぎたい奴らで勝手に騒げばいいだろう。


 それほど広くも無い一部屋に、十数人が一緒にいるだけで気分が悪い。

 外へ出ることにした。

 カラオケの室内もそれほど涼しくはなかったが、外の暑さは比べものにならない。

 三時を過ぎたというのに、七月の太陽は容赦なく照らし続けている。

 少し離れた階段の所に、暇つぶしを見つけた。


「ひゃあああー@※@※@」


 声を上げ、首をすくめる。


「あきちゃん?」


 振り返り驚いた表情を見せる。


「びっくりしたぁー。」


 後ろを向けているから、やりたくなる。


「戻らないのか?」

「あ、うん。ちょっと暑くなって・・・外で涼もうかと。」


 暑い?

 外で涼む?

 やっぱりばかな女だ。

 そのばか女の隣に腰を下ろした。


「あきちゃんは何か歌わないの?」

「聴きたいな、あきちゃんの歌。どんな曲歌うの?」

「別に。カラオケ好きじゃないし。」


 しばらく、下を向いて黙っているばか女。

 うるさくて、騒がしいのはどこへ行った?

 そういえば。

 今日はうるさくないな。

 今日は騒がないのか?

 こんな所に一人でいることも珍しいよな。

 おバカ騒ぎ、好きそうなのに。

 隣に座る横顔に視線を向けた。

 あれ。

 こいつ、こんなんだっけ?

 こんな顔してたっけ?

 こんな顔?

 どんな顔?

 いつも笑っていて、うるさくて、騒がしくて。

 何の悩みもなさそうに見えた、変な女。

 だよな?

 なんだ、この顔。

 そういえば・・・

 昨日こいつに会ってるんだっけ。

 わざわざ試合見になんて来てたんだっけ。

 「晃君を見に来たんじゃない?」

 奥居に言われたことを思い出した。

 まさか。

 有り得ないだろう。

 だって。

 だって、こいつの好きな奴は・・・

 あれ。

 誰だ?

 誰だっけ。

 笠原祐也。

 松岡聡一。

 どれも解決したんだっけ。

 じゃあ・・・


「好きな奴いんの?」

 

 聞いてみた。

 

「えっ?」

「今いるのか?」

「い、いる。」

 

 予想外に小さい声。

 あれ。

 なんだ。

 こいつ、こんな顔もするのか。

 こんな顔。

 どんな顔?


「ふーん。」


 再び、椎名萌は下を向いた。

 やっぱり変な女だ。


「歌、楽しいか?」

「え?あ、カラオケ?」

「楽しいよ。テストとか終わるとストレス解消によく来るよ。部活では大会とか終わると皆で来て、勝ったら歌う歌、負けたら歌う歌があって――」


 一気に喋るその姿は、いつものうるさく騒がしいばか女に見えた。

 変な女。

 変と言えば。

 さっきもにのが言ってたっけ。

 二宮父。


「名前、なんでもえなの?」

「めぐみだよ。」

「知ってる。」

「あ、そっか。」


 思わずつっ込みたくなる程、ばかな答えが返ってきた。


「ずっとか?」

「ううん。小学校の時にね、私転入生だったのだけど、先生が黒板に名前を書いたのをね、当時にのが、“しーなもえ”って読んだの。ほら、萌って、もえとも読むでしょ。それからだよ。」

「ふーん。」

「今でもそう呼ぶ人は少ないけどね。にのと亮ちゃんくらい?」


 なんだ。

 こいつ、ちゃんと喋れるんじゃないか。

 転入生というワードも引っかかったが。

 そういえば。

 二宮が昔こいつをいじめてたとかいう話、聞いたことがあったな。

 だから余計に今大事にしているとか。

 なるほどな。


「あ、あきちゃんは?何て呼ばれていたの?」

「とくになし。」

「え?そうなの?」

「おまえに付けられたのが初めて。」

「あら。じゃあおうちでは?」

「あだ名なんてねーよ。男三人兄弟だし。」

「あ、そうなんだ。三人兄弟なんだ。真ん中?」

「一番下。」

「兄弟多いといいね。私お兄ちゃんが欲しかったんだ。」

「別に。仲良くねーし。」


 沈没。

 撃沈。

 そんな台詞が似合うだろうか。

 ばか女のわかり易い表情。

 読むのは簡単だ。

 あだ名なんていうのがつくのは、周りからかわいがられている証。

 周りから注目を浴びている証。

 二宮がなにより証明しているじゃないか。

 適材適所の人間。

 さすがのばか女も、兄弟の話はまずかったと思ったのだろう。

 口を噤めているのがわかる。


「じゃあ、あきちゃんのお兄さんだったのだね。」


 おいおい。

 まだ続けるのか?


「校長室の前の、名誉賞。陸上部にお兄さんの名前が。」


 おいおい。

 懲りなていのか?


「穂高って、同じ名字だとは思っていたけれど。」


 おいおい。

 空気読めねー奴だな。


「やっぱりあきちゃんのお兄さんだったのだね。」


 やっぱりばか女決定だな。

 うんざりだよ。

 その話はうんざり。

 もう慣れたけど。

 勝兄の活躍は、今後記録が塗り替えられることがない限り、ずっと光を浴び続ける。

 そして、俺はずっとその光の下にいなければならない。

 光の下。

 それは当然明るいところではなく、光の下は暗闇だ。

 ばか女も、光がすごいというのだろう。

 そのすごい勝兄の弟だと。


「私はあきちゃんの描く絵がすごいと思うけど。」

「は?」

「去年の写生大会の絵、飾られていたでしょ?美術室の前に。」

「ああ。」

「穂高晃って名前の人が描いた事知った時、どんな人かな~って思っていたら、タケやんの友達だった。あはは。」


 そう言うと、ばか女は笑った。

 いつもの。

 そう、いつも笑っているばか女の顔とは違った。

 そして。

 違うのはそれだけじゃなかった。

 兄貴のことを。

 あの兄貴のことを、聞いたのに。

 何も言わないのか?

 何も聞かないのか?

 比べないのか?

 すごいと言ったのは兄貴ではなく、俺の絵。

 俺の描いた絵。

 俺の・・・

 去年描いた絵。

 誰にも気付かれなかった絵。

 誰にも誉められなかった絵。

 誰にもわかってもらえなかった絵。

 まさか。

 まさか・・・


「あ、晃君こんなところにいたー。」


 やって来たのは市井だった。


「めぐちゃんの曲、もうすぐまわってくるよ。」

「あ、うん。じゃあ、戻るね。」


 そう言うとばか女は立ち上がった。


 転入生だと言った椎名萌。

 俺の絵をすごいと言った椎名萌。

 いつもと違う顔をしている椎名萌。

 なんだ。

 よくわかんねー。

 わかんねー、女。

 とりあえず。

 今日も変な女だということだ。

 ただ、それだけのこと。



 その後、カラオケが終わり、タケんちに行った。


「お邪魔します。」

「あら、晃君いらっしゃーい。」


 相変わらず健康そうで元気そうなお手伝いのおばさんに挨拶をする。

 タケと仲良くなってから、俺達は遊ぶ時間の大半をタケの家で過ごしてきた。

 この家の使い勝手も覚える位に。


「何か飲む物貰って来るから、好きにしてて。」

「おう。」


 タケが部屋を出て行った。

 俺はテーブルの上に置かれた雑誌を開いた。

 ふと。

 テーブルの隅に置かれたアルバムが目に入った。

 見慣れない物。

 美術やゲーム関連雑誌以外の物が置かれているのは珍しかった。

 手に取り、開いてみる。

 一面四枚が収納された、フォトブック。

 修学旅行の写真だった。

 奈良公園、鹿、五重塔、清水寺、金閣寺、銀閣寺、太秦、嵐山、二条城。

 風景写真の中に、人物写真。

 同じ班だった、二宮、関、斉藤恵子、椎名萌。

 相変わらず二宮はふざけて写っているが、彼本来の活発さがよく映し出されている。

 そして隣で笑っているのが椎名萌。

 こいつもいつも笑っているな。

 うるさくて騒がしくてばか女。

 あれ。

 一枚の写真に目が留まった。

 なんだ。

 こいつの顔。

 こんな顔もするのか。

 こんな風に写真に写るのか。

 こいつはこれが一番自然に見えるな。

 うるさくて騒がしくてばか女に見えるけれど。

 この写真はあいつらしい。


「気に入った?」


 飲み物を持ってタケが戻ってきた。


「この写真はな。」

「ふーん。」


 このに、アクセントを置いて言ったつもりだったが、タケの表情は緩んでいた。


「二百円。」

「バーカ。」


 その後、雑誌を読んで、ゲームをして。

 いつも通りタケと過ごしていたのに。

 そう。

 いつも通り。

 なのに。

 頭から離れなかった。

 一枚の写真が。

 帰り際。


「気になった。」


 その一言と、百円玉を二枚置いて帰って来た。

 タケは笑顔だった。

 ただ、それだけのこと。




2.


 翌朝は登校日だった。

 いつも通り。

 そう、何も変わらない。

 ただ、夏は暑いだけ。

 そして、部活がないだけ。


 教室に入ると、にぎやかな声が聞こえた。

 いつも通り。

 そう、何も変わらない。

 ただ、うるさいだけの、三人組。


「あきちゃん、おはよう。」


 そのうちの一人、ばか女が声をかけてきた。


「はよ。」


 そして、返事をしただけ。

 ただ、それだけのこと。

 ばか女は再びにぎやか三人組へと戻っていった。

 こいつら毎朝毎朝、よく話に尽きないな。

 

 鞄から小説を取り出し、ページをめくった。

 いつも通り。

 話している内容もまる聞こえだ。

 ばかな奴ら。

 そして、ばか女が自分の教室へと戻った。

 一人抜けても尚、話し続けているのは北川千夏と河野ヒロアキ。


「めぐちゃんに新しい好きな人ができたらどうするの?」


 おいおい。

 聞こえてるって。


「だからオレは別にそんな気はないって言ってんだろ。」


 おいおい。

 だから、聞こえてるって。


「晃君はどう思う?」

「おいっ、なんで晃君に話を振るんだよ。」


 慌てて千夏を止めたのはヒロアキ。

 おいおい・・・って。

 おいおい、マジですか。


「おいっ、オレは別にって言ってんだからな。」

「面白くなりそうね~。」

「面白くねーよ、北川あんま暴走するな。頼むから。」

「晃君悪かったな、北川が変な事言って。」

「いや。」


 おいおい。

 聞こえてもいい話しだったのか?

 ばか女も変な女なら、その友達も変ってことか?

 ばか三人組。

 そして、ばか女の新しい好きな奴か。

 別に。

 どうでもいいけど。



 放課後になり、タケを迎えに五組へ行った。

 蒸し暑い教室も、放課後となると少しは風が通る。

 扉と窓が開いている教室からは、にぎやかな声が聞こえてくる。

 二宮の声。

 いつも通り。

 そう、二宮の明るい声が響く五組。

 そして重なる複数の声は、まるで合唱のよう。

 教室の中に目を向ける。

廊下側に椎名萌とタケが座っているのが見えた。

 聞こえてくる二人の会話。


「あと、カラオケは好きじゃないって言っていたから、ボーリングは来てくれるかなって思って。」

「彼はボーリング得意だよ。」

「ほんと?良かった―。」


 おいおい。

 今日は周りの会話がよく聞こえてくる日だな。

 世の中、人に聞かれてもいい話ばかりなのか?

 タケもタケだ。

 俺に聞こえてるってわかってて、話してやがる。


「晃がお前のこと気にしてる。」


 おいおい。

 だから、聞こえてるって。


「えっ?」


 驚いた声を出したのは椎名萌。

 次に、俺に気づいた二人。


「八月三日、夏祭りだって。」


 タケは俺に向かってそう言うと、鞄を持って教室を出た。

 俺も後に続いた。

 ただ、それだけのこと。



 気にしてる・・・か。

 俺が?

 俺が?

 まさか。

 まさか?

 タケのあの意味深な笑み。

 前にもあったな。

 ああ。

 由利の時か。

 気になるのが恋とかなんとか。

 ありえねー。

 ありえねー。

 気になるなんてどうってことない。

 恋だなんて。

 恋なわけがねえ。

 ない。

 無い。

 引き出しから一枚の写真を出す。

 気になる。

 気になったのは写真。

 そう、写真。

 この写真が。


 俺の生まれた日。

 母親は亡くなった。

 だから、俺と母親が一緒に写っている写真はない。

 写真でしか見たことのない母親。

 これが母親。

 それが母親。

 どれが母親?

 そこから出てくることはない。

 そんなところに閉じ込めておくなんて、写真ってなんだ?

 生きる人を写したもの。

 亡き人が写されたもの。

 何を写す為のもの。

 何が写る為のもの。

 だから俺は写真が嫌いになった。


 風景写真を見るのは好きだった。

 風景画を書くのに、写真を模写したこともある。

 そこに写る風景に。

 行ったこともない風景に。

 見たこともない風景に。

 見ているだけで時間は流れた。

 ただ、ただ、見ているだけで。

 知らない場所の、知らない写真。

 だから人物写真に興味を持つことなんてなかったのに。

 タケの撮ったあいつ。

 背景さえはっきりしない。

 でも。

 こんな風に写るのは悪くない。

 ただ、それだけのこと。




 翌日、学校へ行くと同じ講習に椎名萌がいた。

 自由参加の講習だが、自分の塾の夏期講習に出ている者が多く、一クラス分になる程度の生徒数しか集まっていない。

 文系、理系の二つのコースに分かれ行われている。

 いつものうるさい三人組は揃っていなかったが、それでも十分椎名萌は元気だった。


 こいつがあの時何を考えていたかは知らない。

 タケがどんな風にこいつを撮ったのかも知らない。

 偶然かもしれない。

 ただ、気になる一枚ではあった。

 あの表情。

 あの顔。

 あんな表情、するのか?

 あんな顔、するのか?

 そう思ったから、見てみただけ。

 ただ、それだけのこと。


 改めて椎名萌を見てみると。

 やっぱり変な奴だった。

 朝からよく喋り、よく笑う。

 よく動き、よく笑う。

 疲れないのか?

 午前の講習が始まった。

 同じ列に座った椎名萌の横顔が見える。

 勉強中は真剣な顔・・・

 でもないか。

 真剣な表情でもなく、黒板を見つめる表情でもなく。

 なんだろう。

 あの顔。

 どの顔。

 その顔。

 こいつの表情はくるくる変わるな。

 常に一定ではない。

 やっぱり賑やかな奴だ。

 そして、変な女だ。


 休憩時間になった。

 トイレに行く者、席を立つ者、教室内が騒がしくなる。

 休憩中も、あいつの表情は忙しいくらい変わっていた。

 外を見たり、人を追いかけたりと視線がぶつかる。

 特に二宮の姿を目で追っているのは・・・

 金魚のフンだな。

 二宮父がいないと不安そうな表情をするのか?

 隣の奴が席を立つと、椎名萌の目線がこっちに向けられた。


「あ、あのね、あきちゃん。」


 少し表情が変わる。

 写真の顔・・・とは違う、


「き、昨日のことなのだけど――」


 そう言うと、うつむいたまま、顔を上げようとしない。

 なんだ?

 その顔。

 なんだ。


「な、なんでもない。」


 おいおい。

 なんでもないって・・・

 おいおい。

 なんだ、その顔。

 俺は何も言っていないし、何もしていないぞ。

 それなのに、くるくる変わる表情。

 変な奴。

 変な女。

 やっぱり変な女。


 午前の講習が終わった。

 片付けをしていると。

 あの奇怪な声が聞こえてきた。


「ひゃあああー@※@※@」


 声をあげ、首をすくめている。


「あきちゃんやめ―――」


 おいおい。

 やったのは俺じゃないぞ。


「椎名ちゃん首弱いって本当だったんだ。」


 笑顔で立っていたのは北山。


「あ、うん。」

「この間あきちゃんがやっているの見てさ、おれもやってみようかなーなんて。」


 おいおい。

 どうでもいいけど、落とした物くらい拾えよ。


「これ。」


 二人の間にプリントを差し出す。

 わざわざ拾ってやった。


「ありがとう。」


 この時の顔も、写真と違った。

 そう、写真と。

 今日も変な女だった。

 ただ、それだけのこと。




3.


 七月末。

 今日は校外模試。

県内から受験生が集まるという、面倒くさいが受験生には付き物だ。

前回の定期試験は順調だったが、所詮校内試験。

これで県内の自分の位置がわかる。

面倒くさいが会場までは電車移動。

 当然、見慣れない制服を着た他校の生徒も乗っている。

受験生・・・か。

 午前三教科、昼休みを挟んで午後二教科。

 昼休み、別の教室で受験していたタケがやって来た。


「楽勝~?」


 タケは笑っていた。


「まぁ、あれだね。終わりがないね~。受験も。俺等も。」


 俺等も。

 そう言った、タケの気持ちはよくわかる。

 高校受験。

 たかが受験。

 でも、タケにとっては、俺にとっても、十分意味深い。

 だから、わかる。

 だから、わかるお互いが。

 だから、一緒に居る。

 その時が来るまで。


 試験を全て終え、最寄り駅に着く頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。

 同時にお腹が空いてきたと男子達で駅の立ち食いそば屋に駆け込んだ。

 ふと、顔を上げると。

 視界に入る。

 ばか女が一人でふらふらしている。

 今日はばか女を観察しなかったな。

 それだけ俺に余裕がなかったってことか。

 なんだか笑えてしまう。

 たかが校外試験に。

 自分が囚われていただなんて。

 認めたくないけれど。

 事実。

 今日は余裕がなかった。

 どんな結果が出るのか。


 一人でふらふらしているばか女。

 二宮父はそばに夢中らしかった。

 変な女。

 どんな顔をしているのか。

 暗くてここからはよく見えない。

 だが、


「ねぇー見てー」


 そう言って振り返った顔。

 笑顔が見えた。

 いつもの、笑顔。

 そして、目が合う。

 距離はあるけれど、確かにあいつも俺を見ていた。

 俺はあいつを見ていた。

 二宮父が見てくれないことに気づいたのか。

 ばか女はそのまま固まっていた。

 とぼとぼと、ゆっくり歩いてきたばか女。

 顔は下に向けているのでわからなかった。

 どんな表情をしているのか。

 どんな顔をしているのか。

 暗くてよく見えない。

 あの写真の顔とは違う。

 そして、二宮の後ろに隠れるようにして帰って行く。


「あきちゃん、俺らも帰ろうよ。」

「ああ。」


 同じ方向に帰る関君に声をかけられた。

 最後。

 方向が分かれる曲がり角のところで、一度だけ。

 一度だけ振り返った。

 そして、目が合った。

 そして、外された。

 視線を逸らした。

 あいつも俺を見ていた。

 俺はあいつを見ていた。

 どんな表情をしているのか。

 どんな顔をしているのか。

 ここからではよく見えなかった。

 騒いだり、笑ったり、静かだったり、ふらふらしていたり。

 下を向いたり、目を逸らしたり。

 やっぱり最後も変な女だった。

 ただ、それだけのこと。




 それから五日が過ぎた。

 八月に入ると相も変わらず、夏はただただ、暑かった。

 部活のない長い夏休み。

特別、何をするわけでもなく。

 俺はゆっくりとたくさんの時間を過ごしていた。


「おはよう。」


 居間に下りると、ばあちゃんがスイカを食べていた。


「晃、おはよう。今日も学校かい?」

「うん。」

「暑いのに大変じゃのう。」


 一応俺も受験生なんだけど。

 ばあちゃんに塾へ通うことを勧められたことはあったけれど。

 それ以外、ばあちゃんから勉強の事をとやかく言われることはなかった。

 いや。

 言わせないように、聞かれないようにしていたのかもしれない。


「今日は夏祭りじゃて。」

「うん。」

「晃は行くん?」

「うん。」

「ほお。珍しい。」


 そうか?

 去年もタケ達と行った覚えがあるぞ。

 ボケたか?ばあちゃん。


「じゃ夕食はいらんね。」

「うん。」


 別に。

 祭りが好きなわけでも、嫌いなわけでもないけど。

 祭りとか、クリスマスとか、行事が好きな奴らが一般的なようで。

 別にそれに合わせる位はするわけで。

 特別、何かあるわけでもないけれど。

 なんとなく、誰かに誘われるので、毎年行っていた。

 今年は二宮達と行くんだった。

 また大人数。

 でもタケもいるから仕方ない。

 ただ、それだけのこと。


 午前は学校へ行った。

 講習を受ける教室で、あいつと顔を会わせた。


「お、おはよう。」


 いつもの挨拶。

 にしては、何かおかしい。

 おかしいのはいつもか。

 変な女、椎名萌。


「ひゃあ@@@@」

「椎名ちゃん、おっはよー。」


 挨拶に加え、首をくすぐったのは北山。


「北山くん、やめてって言っているでしょ。」

「今日楽しみだねー。祭り。椎名ちゃんの私服姿も楽しみだ。」

「椎名さんの私服ってどんな感じなの?」


 北山の声に前回参加していなかった男子が会話に加わる。


「今日もスカート?」

「えっ、ミニスカ?」

「ミニなの?」

「お前ら変なこと考えてんじゃねーの。」

「それは北山だろー。」

「はははー。」


 おいおい。

 どうでもいいが、騒ぐならあっちでやってくれ。

 朝からうるさいのは勘弁。

 次々会話が飛んでくる。

 と。

 周りの奴等から、あいつはどう思われているのか。

 少なくとも北山は椎名萌に興味有りだな。

 ちょっかい出すのも、わざとらしい行動も。

 見ていてわかる。

 見てればわかる。

 まるで以前に見た光景。

 あの時と同じ。


 こんな時、あいつはどんな表情なのか。

 男子達にからかわれ。

 北山にちょっかいを出され。

 黙るか?

 困るか?

 泣くか?

 いや。

 泣かない・・・か。

 こいつは由利ほど弱くはないか。

 こんな時、いつもだったら助け舟を出す二宮が今はいない。


「北山。」

「なにー?」

「前にお前が欲しいっていっていたやつ、タケが持ってるって。」

「まじで?」

「今日持ってきてるってよ。」

「見る見るー!」


 そう言うと嬉しそうにタケの方に駆け寄る北山。

 俺も後に続くことにした。

 視界の隅に入ってきたのは、教室から小走りで出て行く姿。

 泣いてない・・か。

 あいつは強いのか?


 教室では北山が抜けた後も男子達の会話が続いていた。


「椎名さんて下ネタ系苦手?」

「あ、おれもそう思ったー。」


 おいおい。

 聞こえてるってば。


「可哀想なことしたか?」

「純情ぶっているだけだろ。」

「案外やり手だとおもうぜ。」


 おいおい。

 だから、聞こえてるってば。

 いくら本人がいないからって・・・


「だってあいつ松岡のこと好きだったろ?」

「あー、そーいやそんな噂あったな。」

「でもあれはデマだったんだろ?」

「でもキタは椎名狙いかな。」

「おもしれーじゃん。」

「下向いて顔真っ赤だったじゃん。」

「まんざらでもないってことか?」

「誰が顔真っ赤だったってぇ?」


盛り上がっている男子達の輪に、教室に入ってきた千夏が駆け寄った。


「めぐちゃんがなんだって?」

「椎名が顔真っ赤だったって話?」


 笑いながら尚も会話が盛り上がっている男子達。


「へぇ~。それはどんな楽しい話をしていたのかしらぁ?」

「違うだろ。やり手だって話?」

「おいおい、直接だなー。」


 さらに笑いが起こる。


「ふーん、それでぇ?」


 千夏の表情に怒りが込められていくのに気づいた男子が慌ててフォローにまわる。


「いや、別に俺達は下ネタ系の話が椎名さんは苦手なのかと・・・」

「な、なぁ。」

「そ、そうそう。」


 全員頷き、苦笑いをしている。

 どうやら北川を怒らせてしまったことに気が付いた男子達。


「あのねー、めぐちゃんにそんな話持ち掛けないでよね。するなら私が相手するから。」

「そ、そうだよな。」

「ははは、北川さんには勝てないなー。」


 自分達が言い過ぎたことに非を認め始めた男子達。


「こ、講習そろそろ始まるかなー。」

「そうだなー。」


 苦し紛れな言い訳をして散っていった。


「まったく。」


 バカな男子にうんざりといった表情の北川。

 ここにもいたか。

 ばか女の親友①が。


 そして、もう一人。


「ちーなつっ。」


 後ろから二宮がニコニコしてやってくる。


「あんたどこフラフラしてたのよバカっ。」

「わぉ。いきなり怒んなくてもいいじゃん。」


 二宮父、登場。

 今回はだいぶ出遅れたな、二宮。

 おまえの出る、お得意場面だったのにな。

 北川に怒鳴られている二宮。

 俺は二宮のようにはなれないけれど。

 一言言っただけ。

 ただ、一言。

 ただ、それだけのこと。



 そして夜から、夏祭りへ行った。


「おーい!」

「あ、関君だー。」


 夏祭り会場へ向かう途中で、健太と市井、関君と合流した。


「いやー、まいった。探すの苦労したよ。」


 そして二宮達とも合流。

 相変わらず背の高い二宮はよく目立つ。

 待ち合わせの目印には最適だ。


「じゃあ、とりあえず中心の神輿会場まで行くか。」

「そうだな。」

「そこで飯くおーぜ。」

「しーなちゃんはぐれないようにねー。」

「う、うん。」


 北山は椎名萌の隣を歩いている。

 それにしても人だらけ。

 それだけ祭りが好きな奴が多いということか。


 夜になり、少しは涼しくなるはずが、人混みにいると蒸し暑ささえ感じる。

 すれ違う人。

 交差する人。

 同じ方向を向いている人。

 立ち止まっている人。

 走っている人。

 皆、どこへ向かうのか。

 これらの人、どこから来て、どこへ行くのか・・・

 そんなことを考えてしまう。


 人の多さに、隣の奴との会話も聞き取りにくく。

 スピーカー放送からは祭りの音楽が流れ続ける。

 的屋の呼び込み。

 飛び交う人々の会話。

 泣き叫ぶ赤ん坊。

 歩行者天国の道は、まるで果てしなく続く異空間のようだ。

 そんな通りをしばらく歩いて行く。

 冷め止まぬざわめきの中――

 ばか女の姿が消えた。


 おいおい。

 こんな人混みの中、迷子になる気かよ。

 前に修学旅行で迷子になったレベルじゃねーぞ。

 ったく、ばかだなー。

 ばかな女。

 こんな所で。

 こんな時に。

 ばかだなー。

 やっぱりばかな女だ。

 それ以上でも、それ以下でもない。

 ただの、ばかな女。

 変な女。


 振り返った視界の中に、見つける。

 その姿。

 その顔。

 おいおい。

 仲良く喋ってる場合じゃねーぞ。

 自分の置かれている状況にさえ、気づいていないばか女だな。

 ばーか。

 おっ、気づいたか。

 慌てた表情。

 慌てた動き。

 ばーか。

 無闇に動くんじゃねーよ。

 余計に迷うだけだぜ。

 ばーか。

 おもしれー。

 やっぱおもしれー奴。

 変な奴。

 そしてばかな奴。

 どんな顔?

 そんな顔。

 困って。

 焦って。

 戸惑って。

 慌てて。

 ばーか。

 そっちじゃねーよ。


「やっ・・」


 掴まえようとした腕は、勢いよく振り払われた。

 こんな力、どっから出してんだ?


「あきちゃん・・・」


 顔を上げた。

 おい。

 おいおい。

 おいおいおい・・・

 なんだ。

 なんだ、その顔。


「ごめん、はぐれちゃった。」


 震えているのは声。

 震えているのは体。

 震えているのは表情・・・

 なんだその顔。

 泣きそうな・・・


「私・・皆と・・・どうしよう、皆に迷惑かけちゃ――」


 今度は力を入れて腕を掴み、道の端へと連れて行った。

 人混みはさらに像を増していた。


「友達?」


 露店から離れた所まで来ると掴んでいた腕を離した。


「え?」

「さっきの。」

「あ、うん。前の小学校の友達なの。私転校生だって話したかな?」

「ああ、聞いた。」

「懐かしくてつい…ごめんね。みんなに迷惑かけているよね、私。」


 まだ震えている声。

 まだ震えている体。

 いつもよりも早口に喋っている。

 そして・・・

 その顔。

 その表情。


「前の小学校ってどこ中になんの?」

「え?」

「もし転校してなかったらどこの中学だった?」

「第二中。」

「ふーん。」


 少し、会話が戻っている。

 声も出てきた。

 少しは落ち着いたか。

 表情は・・・

 さっきとは違う。

 なんだ。

 なんだ、その顔。

 今度はなんだ。

 なんだ、この感情・・・


「あきちゃん、知っている人いる?」

「部活で顔見知りは何人か。」

「そっかぁ。」


 転入生というワード。

 何回か、聞いたことがある。

 こいつの口からも。

 転入生。

 こいつは転入生。

 小五の時の転入生。

 俺が探してた・・・


「一本道だから、にの達はこの先で待っているだろ。」

「あ、そっか。そうだよね、御神輿見るって。それまで一本道だね。」


 転入生。

 お前は、転入生なのか?

 あの時の・・・

 コンクールの会場にいたのか?

 聞きたい。

 聞いてしまいたい。

 いや。

 関係ない。

 関係が無い。

 こいつか転入生であろうと、無かろうと。

 俺にはもう。

 今更・・・


「ごめんね、あきちゃん、迷惑かけて。」

「私バカだねー、真っ直ぐ歩いていけば着いたのにね。」


 そう言うと、笑ってみせた。

 ばか女が笑う。

 いつもの顔。

 いつものうるさくて、騒がしくて、ばかな顔。

 それだけなのに。

 それだけのことなのに。

 ただ・・・


「でも・・あきちゃん私がいなくなったのに気づいてくれたのだね。」


 おまえがその顔をするから。

 おまえがそんな顔をするから。

 俺は・・・

 なんだ、この気分。


「見てたから。」


 目が合う。

 こいつが俺を見ている。

 俺がこいつを見ている。

 それだけのこと。

 それだけのことなのに。

 おまえがその顔をするから。

 おまえがそんな顔をするから。

 俺は・・・

 なんだ、この気持ち。


「あきちゃん、」

「この間ね、タケやんが…あきちゃんが私のこと気にしているって言っていたの。」


 なんで。

 なんで、その顔。

 なんで、そんな顔。

 なんで・・・

 俺は・・・


「その話、ほんと?」

「さあ?」

「ほんと?」


 なんで。

 なんでおまえはそんな顔をしている?

 何を考えている?

 何を思っている?

 何を・・・

 俺は・・・


「おまえは、俺のことどう思ってんの?」


 俺は・・・

 何を・・・

 何を考えている?

 何を思っている?

 何を・・・

 これは何だ?

 この感情は何だ?


「き、気になるよ。」

「ふーん。」


 気になる?

 気になるっていうのか?

 気になるって・・・


「じゃあ、この前好きな奴いるって、誰?」


 答えを言ってくれ。

 この感情の。

 この気持ちの。

 この想いの。

 答えを・・・


「・・・あきちゃん。」

「ふーん。」

「俺もおまえのこと気になる。」

「ほ、ほんと?」


 驚いた表情で聞き返してくる。


「あきちゃん、ほんと?」

「ああ。」

「ほんと?」

「ああ。」

「ほんと?」

「本当。」

「ほんとねっ。」


 表情が明るくなり、笑顔がこぼれる。

 ああ。

 この表情。

 この顔。

 こいつは、この表情が良い。

 俺が見たかったのはこれ。

 俺が見たかったのはこいつ。


「しつこいぞ。」

「本当なんだね。」

「もう行くぞ。」

「うん!」


 先を歩いていると、小走りで隣に追いついてきた。


「あ、あきちゃん。」

「ん?」

「手…つないでもいい?」


 さっきとは違う表情。

 下を向いているけれど。

 薄暗いけれど。

 それはわかる。


「あ、ほら人多いし、またはぐれると・・・ご、ごめんね。嫌なら――」

「ほら。」


 手を差し出した。


「もう行くぞ。」


 そう言って歩き出した。

それから、手に触れるとついて来た。

さっき掴んだ腕とは違う感触。

 あの表情とあの顔と。

 あの感情と手の感触。

 なんだ。

 なんだ。

 答えは簡単じゃないか。

 答えは簡単だったんじゃないか。


 俺が見ていたのはこいつで。

 俺が見ているのはこいつで。

 表情が気になるのは。

 顔が見たいから。

 何でとわからなかったのは。

 顔が見たかったから。

 わからない感情は。

 こいつを見ていればわかる。


 手の感触は。

 こいつが教えてくれた。

 だから俺はここに来た。

 だから俺はここに居る。

 こいつを見ていたから。

 ずっと見ていたから。

 だから。

 だから俺はこいつが気になるんだ。

 だから俺はこいつを気にするんだ。

 ただ、それだけのこと。


「あ、来た来たー。」

「おーい、椎名さん、あきちゃんー。」


 神輿会場に着くと皆が待っていた。


「ごめんねー。」

「びっくりだよ、いつの間にかいなくなってんだもん。」

「しーなちゃんかき氷食べる?」

「わ、みんな買ってるんだ。私も何か買って来ようかな。」

「一人で行くなよー、迷子になるから。」

「あははー、言えてるー。」

「も、もう大丈夫だよぉ。」

「あははー。」


 屋台の方へ向かっていく表情は、さっきまでの顔とはもう違っていた。

 皆と会って安心したのか。

 またいつもの賑やかな椎名萌に戻っていた。


「あきちゃん、もえの事ありがとな。もえ、方向音痴だから毎年のようにはぐれてさ。」

「ああ。」


 毎年・・・か。

 不思議だな。

 毎年来ていたはずの夏祭り。

 この人混みのどこかに、二宮とあいつも来ていた夏祭り。

 これだけの人の中で、何も見ず、何も感じず、毎年過ぎていた夏祭り。

 見ようとしていなかったのは俺。

 感じようとしていなかったのは俺。

 何も見なくても良かった。

 何も感じなくても良かった。

 別に困ることなど無い。

 別に必要も無い。

 そう思っていた。

 でも・・・


「にのーっ、見てみてー、りんご飴―。」

「おー、もえ、買えたかー?」


 嬉しそうに。

 そう、嬉しそうにはしゃぐあいつを見ている。

 あいつを見ている俺。

 さっきまでの表情とは違う。

 泣いたり、笑ったり、困ったり、騒いだり。

 くるくる表情が変わる。

 そんな変な奴だけど・・・

 そんなあいつを見て何かを感じたのは俺。

 あいつが気になると感じたのは俺。


 気になるのは・・・

 白いワンピースから日焼けした腕が伸びている。

 その手が、あっちこっちに動き回る。

 忙しそうに。

 しっかり掴まないとどこかへ行ってしまう。

 そう。

 捕まえられないくらい、あいつはいつだって元気だ。


「あきちゃん、はい。」


 手渡されたのはチョコバナナ。

 おいおい。

 甘いだろ。

 それでも隣で美味しそうに食べているのを見ると。

 それも有りかと思ってしまう。

 暑くて、うるさくて。

 ただ、ただ、面倒くさいはずの夏祭りも。

 こいつが見せる表情には合っている。

 そう思った。


「じゃー、解散―。」

「気をつけてねー。」

「バイバイー。」

「またなー。」


 それぞれの岐路に着く分岐点。

 明かりの少ない道端で。

 あいつの顔がまた違って見えた。

 さっきまでの祭りの会場の明るさよりも。

 薄暗い今の方が落ち着いて見えた。

 涼しい風吹く帰り道。

 夏の夜空は星がぼやけて見える。

 霧がかかったような空。

 あの青い空のように、澄み切った空はまだ見えない。

 いつか・・・

 また見えるだろうか。

 また見ることができるだろうか。


 夜空に向かって手をかざしてみた。

 指の間をすり抜ける風。

 指の間から見える夜空。

 指の間から見えるのは・・・

 暗闇。


 手の感覚を思い出す。

 あいつの手・・・

小さくて。

 女の手。

 小さくて。

 温かい手。

 女の手。

 母親も、

 小さい手で絵を描いていたのだろうか。


 さっきまでの賑やかな祭りの音はもうとっくに消え。

 うるさいくらいに鳴いているのは虫の声。

 夜の空。

 それもいいかもしれない。

 暗闇に照らす光。

 それは月明り。

 それは街灯。

 それでもいい。

 夏の空、夏の風、夏の音。

 感じたくなった。

 手を・・・

 動かしてみたくなった。

 手で・・・

 描いてみたくなった。

 急に。

 絵を。

 見上げたのは夏の空。

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