3.君の空
三.君の空
1.
「ねー、あきらくんのママどこにいるの?」
「こらっ、しーちゃん、それは聞いちゃダメでしょ。」
「えー、なんでぇ?」
「す、すみません。」
そう言うと母親は子供の手を引き、足早に去って行く。
「ねー、なんでぇ?」
「ママーなんでぇ?」
子供の質問は続く。
「晃、お団子買って帰ろうか。」
ばあちゃんが言う。
僕はばあちゃんと手をつないで、夕日が照らす、オレンジ色の道を帰った。
幼稚園の記憶。
「やーい、おまえの母さんいーないっ。」
「はははー。おっかしーの。母さんいないなんてー。」
「きゃははー。」
「こらっ。意地悪なこと言っているのは誰?」
「やべーせんせーだ。」
「言って良い事と悪い事があるって、この間の国語の時間で習ったでしょ。穂高くんに謝りなさい。」
謝られても、何にも感じなかった小学校の記憶。
俺には母親がいない。
ただ、それだけのこと。
兄ちゃん達から嫌われている。
ただ、それだけのこと。
親も、家族も、兄弟も、友達も・・・・
別に困らなかった。
別に要らなかった。
ただ、それだけのこと。
人とかかわるのが面倒くさくなった。
いちいち説明しなければいけないのが面倒くさくなった。
初めましての挨拶が一番嫌い。
自己紹介なんてもっと最悪。
だから、俺は最低限のことしか言わなかった。
ただ、それだけのこと。
中学三年になった。
何も変わらないと思っていた。
でも、またクラス替え。
三年四組。
健太と同じクラスになった。
タケとは別のクラスだった。
「穂高です。」
ただ、それだけの自己紹介。
十分だろう。
一分以上、だらだらと自分の好きな物の話や、部活動のこと、好きな芸能人のこと、バカみたいに一発芸なんかを取り入れる奴もいる。
出席番号順に座った席で、順番にはじまる自己紹介。
面倒くさい。
今更知らない奴もいないだろう。
面倒くさい。
この無駄な時間が面倒くさい。
三年は一階の教室になった。
やっと下がった一階。
ここは中庭が見渡せる。
静かに、過ごしたい一年。
今年こそは。
ホームルームが終わり、タケに貸しものの約束をしていたので、隣の五組へ行った。
教室を覗く。
タケは奥の窓際にいた。
ここから呼んでも気づかない位置だ。
すると、聞き覚えのある賑やかな声。
二宮だ。
女子を集めてのトークを展開中らしい。
相変わらず。
どこのグループにも属さず、皆と仲良くなるタイプの二宮。
一学期初日にして、このクラスのムードメーカー的存在になっている。
タケと二宮は一緒のクラスか。
タケはまだ気づかない様子。
どうしようかと思っていると、すぐ手前に見覚えのある顔がいた。
「タケ呼んで」
初めて、目が合った。
椎名萌が俺を見たのが初めてだったから。
ただ、それだけのこと。
翌日は、良く晴れて四月にしては暖かい日だった。
面倒くさいことに、三年になると、最高学年だけあって、部活に、委員会にと任されることが多くなる。
中でも面倒くさい、部活の新入生歓迎。
二週間の勧誘期間と、一ヶ月の仮入部期間がある。
今日はその活動について、ミーティングが行われる。
別に本気で部活をやろうなんて思ってないので、俺は適当にサボっていたし、適当に活動していた。
「晃君。四組になったんだねー。」
「ああ。」
「今日のミーティング四時に変更になったから。」
「わかった。」
「あ、関君に伝えといてくれる?隣の五組だから。」
「わかった。」
バレー部部長の奥居に言われ、五組へ行くことになった。
タケにもちょうど用事があったし。
教室を出て、隣の五組へ向かった。
相変わらず賑やかな二宮の声が聞こえてくる。
すっかり、このクラスの雰囲気を自分のものにしている。
クラスの雰囲気は、教室へ入る前と、入った瞬間に感じることができる。
クラス絵図。
クラスを仕切りたがる、目立ちたがりタイプ。
真面目、優等生、学級委員タイプ。
静かに一人でいるタイプ。
裏番長的存在なタイプ。
これらのどこにも属さず、属せず、属す機会を失った、おどおどした奴がいじめにあうタイプ。
そして、お調子者で、笑いを取るのが上手いタイプ。
まさに、二宮。
そしてこいつは、色々な意味で、世話を焼くのが好きというか、周りをよく見ている裏番長的な存在でもある奴。
そんな二宮がいるクラスには、不思議といじめは起こらない。
でも、このクラスにはどこか今までとは違った雰囲気を感じた。
蓮田小出身の奴らはもちろん知っている。
蓮田第二小出身が数名。
目立ちたい、クラスを仕切りたいタイプがいないな。
そんな印象を受けた。
二宮、タケ、そして、同じ部活動の関君がいる五組。
「関君―。」
「四時からミーティングになったから。」
「おお、わかったー。」
「おっす、晃。」
「タケ。今週の日曜は塾か?」
「いーや。ないよ。」
「じゃあ、日曜遊びに行っていいか?」
「オッケー。」
「じゃあな。」
「おうっ。」
ふと、帰り際、二宮の横にいる椎名萌が視界に入った。
そうか。こいつも五組なのか。
二宮、タケ、関君、そして、椎名萌のいるクラスか。
ただ、それだけのこと。
新学期が始まり、三週間が経った。
恒例の委員会決めも終わり、授業にも慣れた頃、選択授業が始まった。
二年の終わりに、タケと決めた選択授業は美術。
一選択が二十名前後の定員での活動となり、成績評価に反映されないこの時間は、割と自由に過ごすことができる。
美術に集まったのは十六人。そのうちの半数が顔見知りだった。
「では、このプリントをまわしてください。」
担当の先生からプリントが渡される。
適当に座っている生徒達がプリントを受け取ると、他の人へと順次渡していく。
手に渡ったプリントを見ると、授業の進め方のようなものが記されている。
①興味のあること
②その中からやってみたいことを課題に設定
③必要な道具
④一年の目標
目標・・・ねぇー。
今更・・・
別に絵が描きたくて美術を選んだわけではないし。
タケと、好きな時間に使おうと思っただけだし。
予想通り、人気のない選択だったから静かに過ごせそうだし。
「あっ!」
上がった声と共に俺の足元に、プリントが散らばってきた。
「ご、ごめんなさい。」
「なにやってんだよー。」
「めぐちゃん大丈夫?」
面倒くさいことをしてくれたものだ。
まったく。
「ごめんね、拾う。」
聞き覚えのある声。
足元のプリントを拾って渡してやった。
「あ、ありがとう。」
顔を見ると、椎名萌だった。
なんだ。
こいつも選択授業美術なのか。
騒がしい女。
「しーな、プリント。」
「あ、ごめん、今配る。」
「しーなはおっちょこちょいだな。」
笑っているのは、河野ヒロアキ。
隣に居るのは、北川千夏。
なんだ、こいつらも同じ選択にしたのか。
二年の時に同じクラスだった三人。
ヒロアキは三年の今、俺と同じ四組。
改めて美術室を見回すと、意外と知っている顔が並んでいた。
それもそれで面倒くさい。
静かに過ごせる時間にしたいものだ。
プリントの記入をし、担当の先生に提出をした者からそれぞれの課題に取り組み始めた。
外へスケッチに出掛ける者、粘土を捏ね始める者、絵の具を出す者、バケツに水を用意する者等。
あの騒がしい三人組は教室から出て行った。
これで少しは静かになるだろう。
「晃も早く出してこいよ。」
「ああ。」
先に提出してきたタケが戻ってきた。
俺もプリントを提出に行くことにした。
「お願いします。」
「あ、穂高君。」
前の奴と同様、提出するだけだと思っていたのだが、先生に呼び止められた。
プリントに目を落としている先生。
なぜ、俺のだけ。
なんか変なこと書いたか?
適当に・・・でも、不真面目な要素を含むことは書いていないはず。
「穂高君絵は描かないの?」
なんだ、この先生。
何が言いたい?
「まぁ、いいわ。これ、返すわね。」
俺は何も言わなかった。
返されたのは、二年の写生大会で描いた絵だった。
この間まで、美術室の前に貼られていた絵。
今更・・・・
「晃、資料室、行こうぜ。」
タケと美術室の隣の資料室へ向かった。
「なんだ?それ。」
「去年の絵。」
「ああ、返却か。」
「そう。」
俺は、資料室の隅にそいつを放り投げた。
傷んだ画板や、書き損じの油絵、スケッチブック等が乱雑に積まれている廃棄の山へ。
タケは何も言わなかった。
「やっぱ面白そうな本はねーか。」
資料室といっても、図書館に置かれているのとジャンルも冊数もそう変わりはない。
「おっ、パソコンあんじゃーん。」
そう言うと、タケは一台だけ置かれたパソコンの前に座り、手を動かし始めた。
俺は、資料棚の中から、古い画集を取り出し眺めることにした。
しばらくの間、お互い何も喋らなかった。
何も言わなくても、わかっているから。
何も言わなくても、わかってくれるから。
そんなタケとの関係が楽だから。
そんなタケとの時間が心地良いから。
穏やかに流れる。
マウスをクリックする音だけが室内に響く。
「そういやさ、」
タケが口を開いた。
「雅画伯が講師やる話って知ってる?」
思いがけない言葉に、一瞬言葉に詰まった。
「え?」
「あ、やっぱ知らんかった?」
「ああ。」
器用にマウスを動かすタケの手。
それは止まることなく、話は続く。
「この間ネットで見たのだけど、代々木の美大の付属の高校で講師するんだって。」
「まじで?」
「マジ。この四月からだってさ。」
思考が停止するような話。
慎重にタケの話に耳を傾ける。
「雅画伯に会えるとかの話じゃなく、雅画伯に教えてもらえんだぜ。すごくね?」
「す、すげー。」
「しかも美大でならわかるけど、高校でだぜ?確かに代々木の美大は有名だし、数ある美大の中でも難関だよな。付属の高校に入ればそのままエスカレーター式で上がれんじゃん。でも、まずはそ の付属校に入るってのが更に難関な話だ。」
タケの手は止まらなかった。
それはまるでマジックのように・・・
一枚のデザイン画を仕上げる。
マウスは筆。
色彩は鮮やかに塗られていく。
「おれはさ、大学はもう選べねーじゃん。でも、ま。もしな、もし・・・・」
そう言ったタケは、マウスから手を離した。
「もし・・・なーんて考えねーけどなっ。」
少しの間が空いて、タケは人差し指で強くENTERキーを押した。
決定キー。
まるで、タケの意思も決定されたかのように。
決定キーは、画面上に、素晴らしいデザインを完成させていた。
その日の夜は眠れなかった。
自分でもわかっている。
今日の選択美術でのこと。
タケとの会話を思い出していた。
タケがあの時言いかけた言葉。
言いたかった言葉。
その言葉の続き。
俺にはわかる。
俺ならわかる。
美大・・・・・か。
叶わぬ夢。
叶えぬ夢。
どっちも同じじゃないか。
ただ、それだけのこと。
2.
五月に入った。
連休といえど、部活はあるが、塾に行っていない俺にとっては自由な時間は多かった。
もちろん、家族で出掛けるなんてことは嘘をつくまでもなく、無かった。
一日だけ、タケと遊ぶことができた。
「晃―、待たせたな。」
タケが大きく手を振っている。
「悪かったな。塾まで来てもらっちゃって。」
「いや。」
「ふー、肩こったー。」
そう言うと、タケは眼鏡を外し、そのまま伸びをした。
「塾って大変?」
「まーな。それぞれにもよるけど、おれんとこのは金持ちぼっちゃんばっかで退屈。」
タケは、二年の秋から塾に通い始めた。
元々、頭の良い奴だったが、親が選んだ塾へ通うことになったのだと言っていた。
「ここは高くて有名だもんな。」
「そう。冷暖房完備、自習室、休憩室が使い放題っていう施設設備と、有名な大学出身の講師ばっかり集めましたってだけで高い授業料。」
「へー。授業料ねー。」
「この授業料あったら、毎月ゲーム買い放題だぜっ。」
「そうだな。」
「まっ、その塾に親の金で入れてもらってるおれもおれだけどな。」
タケが笑う。
笑顔ではなく、失笑。
そんな塾でも、行かなければならないのが現実。
受け入れなければならないのがタケ。
「晃は行かないの?塾。」
「んー、今のところは。」
「行かなくても十分圏内か。」
「そんなことはねーけど。あんま家の金使いたくねーし、そもそも面倒くさい。」
「出た!晃の面倒くさい。」
タケが笑う。
今度は笑顔で。
「晃ってさ、塾に行くっつーより、塾で過ごす時間が面倒くさいんだろ?講師とか、生徒とか、また何で学校みたいなところにまたもう一つ行かなきゃならねーんだって。しかも金を払って面倒くささを買うなんて馬鹿らしいと。」
ああ。
何も言わなくても、わかっているから。
何も言わなくても、わかってくれるから。
そんなタケとの関係が楽だから。
そんなタケとの時間が心地良いから。
だから俺はここに居る。
「あれ?」
タケの足が止まりそうになった。
タケの視線の先を見る。
「智美ちゃんと・・・・」
「ああ。」
「生徒会の笠原か?」
笠原祐也に彼女がいるという話を思い出した。
その彼女とは、今すれ違った智美ちゃんとやらのこと。
タケが知っているということは、蓮田第二小出身の女か。
「へー、あいつら付き合ってたんだー。」
タケは知らなかったようだ。
「テニス部男女部長同士かぁー。」
「へぇー。」
それで話題は変わった。
そういえば、タケは知らないのだろうか。
椎名萌の好きな奴が笠原祐也ということ。
そしてその笠原祐也には彼女がいたわけで。
まぁ・・・
どうでもいい。
面倒くさいのにはかかわりたくない。
ただ、それだけのこと。
連休が明けると、中間試験があった。
試験が終わると部活再開。
五月から新入部員を迎えた。
日直の当番が回ってきた。
面倒くさいが、クラスの奴らが帰った後、戸締りやごみ捨て、日誌の記入をしていた。
すると、他のクラスの女子がやって来た。
「ねー、みっこ、聞いた?」
「五組の椎名萌って、松岡君のこと好きなんだって。」
おいおい。
聞こえてるんだけど。
「えーっ!なにそれーっ。」
「あ、やっぱ知らなかった?」
「聞いてないよー。」
おいおい。
だから聞こえてるって。
「私もさっき、アヤちゃんから聞いたんだけど。なんか、手紙とか渡してるって。」
「マジでー、むかつくー。」
「でしょー。一緒に帰るのを見たって子もいるんだってー。」
「そんなの許さないー。」
おいおい。
どうでもいい話は、日直の仕事、終わらせてからにしろよな。
「だからね、この話、皆にも伝えて!」
「了解!」
「じゃあ、私、会長のとこに行ってくるから。」
「うん。また何かあったら教えてねー。」
全部聞こえてるんだけど。
聞こえてもいい話し・・・ってとこか。
鞄を持って帰ろうとした。
「あ、穂高君。」
今度はなんだよ。
顔だけ振り返ってみた。
「ああ、日誌全部書いてくれたのね。」
あんたが書くのを待ってたら、いつになるかわからんし。
「じゃあ、ごみ捨て・・・は終わってるか。」
あんたは何もしなくてももう終わっているし。
「あ、じゃあお疲れさま。ばいばい。」
日直を組んだ、隣の席の女子が手を振っている。
俺は何も言わずに教室を出た。
「なによ、挨拶くらい・・・・」
悪いけど俺は人とのかかわりが面倒くさいから、挨拶もしない奴だし。
おいおい。
だから聞こえてるってば。
聞こえてもいい話し・・・・か。
翌朝だった。
「おはよう。」
下駄箱で、声をかけられた。
どう見ても、俺しかいない。
面倒くさい。
挨拶も人とのかかわりも、面倒くさい。
特に、女子なんて。
特に、椎名萌なんて。
ただ、それだけのこと。
だが。
あの挨拶以来、面倒くさいかかわりが始まった。
タケに用事があって、五組へ行くと、視線を感じるようになった。
廊下で、教室の前で、タケの席で。
タケと話していると、椎名萌の視線を感じる。
なんなんだ。
おいおい。
面倒くさい。
挨拶無視したことまだ根に持ってるのか。
面倒くさい。
たかが挨拶くらいで。
面倒くさい。
放課後、先日の中間試験の結果を見に行った。
成績上位三十名が掲示板に貼り出されている。
「晃君、五位かぁ~すげーなっ。」
いつの間にか、同じバレー部の関くんが隣に来ていた。
「オレ一度も入ったことねーし。おっ、タケやん発見。」
そういえば、関くんは五組だった。
タケとも仲良くなったようだ。
「タケやんも六位じゃん、頭いんだー。あとは・・・」
一年からずっと超えられなかったタケを、今回初めて一つ上回れた。
まぁ・・・
連休暇だったしな。
勉強する時間なんて腐る程。
「おっと!五組、椎名さん入ってるじゃーん。」
椎名萌。
かかわりたくないが、掲示板に目を戻すと、十一位にその名があった。
「ほぇー、あの子頭良いんだー。けっこうおっちょこちょいなのになー。」
人は見かけによらず。
確かに・・・・
うるさいし、騒がしいし、借り物多いし。
頭良さそうには見えなかったよな。
十一位とは。
「晃君も知ってるよね?椎名さん。」
「ああ。」
「おもしろい子だよねー。」
「ああ。」
「にのがすんげー、可愛がってんだけど、それもまた面白いんだ。二人を見ててさ。つーか、にのみたいな奴に会ったのも初めてだな。にのも面白い奴だよなー。」
関くんは笑いながら話している。
俺達は掲示板を後にして、部活に行く為体育館に足を向けた。
「来月の修学旅行、オレ、にのと椎名さんと同じ班なんだー。晃君は?」
「健太と一緒。」
「そっか~、楽しみだよなー。京都。八ツ橋買わなきゃー。」
五組の関君。
タケ、二宮、そして・・・
椎名萌のいる五組か。
ただ、それだけのこと。
その日は部活をさぼって図書室で過ごした。
放課後、時々部活には出ず、こうやって図書室で過ごす時間をとる。
それほど広いわけでもなく、綺麗なわけでもないが、図書室は落ち着いた。
最も、利用する生徒が少ないから、静かに一人の時間を過ごすことが出来る。
テスト期間中も図書室で過ごすことが多かった。
勉強もしたけれど、ここで過ごす大半は本を読んだり画集を開いて眺めたりしていた。
絵や写真を眺めている時間は好きだ。
何も考えなくてすむ。
だが・・・
目に入る。
美術関係の雑誌に、雅画伯の記事。
雅画伯がこの春からS美大の付属高校で特別講師をしていると。
以前、タケから聞いたこと。
現実に・・・記事になっている。
雅画伯の描く空の絵。
小さい頃から好きだった。
家に一冊だけあった、雅画伯の画集。
その中の空を、いつも描いていた。
今は眺めるだけのこの空を・・・・
今更・・・・
頭の中を過ぎる文字。
今更。
もう決めたこと。
もう決まったこと。
もう戻らない。
もう戻れない。
ただ、それだけのこと。
下校のチャイムが鳴ったので、図書室を後にした。
そのまま帰るつもりだったが、教室に寄ろうと足を向けた。
誰もいない廊下。
戸締りの終わった教室。
校舎に響いている声は、外のもの。
校庭で、部活終了の挨拶の声が響いてくる。
元気な声は一年生。
三年になって、一階になった教室。
中庭に差し込む光は夕日に変わっている。
五組の前を通ると、数センチ程扉が開いているのに気がついた。
数センチの隙間から零れるのは溢れんばかりの夕日の色。
オレンジに輝く・・・・
隙間を覗いた先にあったもの。
まるで放課後を切り取った一枚の絵が描けそうだった。
「おい。」
夕陽の中に一人。
「おいっ。」
机に顔を伏せている。
「おい。」
話しかけるが返事がない。
「椎名。」
“ガタンッ”
返事の変わりに、椅子が倒れた。
「な、なに?」
なんだ。
立てるのか。
「いや。」
「何か用?」
何か用って・・・・
椅子、起こせよ。
「べつに。」
「べつにって・・・」
べつに用はないけど。
どうでもいいけど、なんかいつもと違わねーか?
違う?
違うっつーか・・・
なんだ?
椎名萌がこっちを見た。
目が合う。
すぐに逸らされた。
ああ。
なんだ。
泣いてたのか。
どうでもいいけど。
つーか、かかわりたくない。
面倒くさい。
教室から出ようとした時、
「ちょっと、あきらくん。」
おいおい。
思わず振り返ってしまった。
「あきらくん、だよね?」
おいおい。
「そうだけど、晃くんって・・・」
いきなり名前で呼ぶかよ。
この間から、挨拶されたり、視線を感じたり、変だとは思っていたけど。
そもそも、騒がしいし、うるさいし、借り物多いし、変な女だとは思っていたけど。
だからかかわりたくないんだけど。
面倒くさい。
「だって私あなたの苗字知らないもの。皆があきらくんて呼んでいるから・・・」
「穂高。」
「えっ?」
「穂高晃。」
自己紹介をするなんで御免だ。
なんでこいつの為にわざわざ。
誰か教えてなかったのかよ、俺の名前。
おいおい。
ああ、そうか。
なんだ。
簡単なことじゃないか。
椎名萌が俺の名前を知らなくて当然。
だって椎名萌は俺を知らないのだから。
だって椎名萌は俺に気づいていないのだから。
だから椎名萌が俺を知ったのは今。
だから椎名萌が俺に気づいたのは、初めて目が合った日。
椎名萌が、うるさくて、騒がしくて、よく笑って、よく喋って、借り物が多いのは、俺が見ていたから。
ただ、それだけのこと。
3.
学校行事なんてどうでもいいけど、修学旅行。
二泊三日で京都・奈良へ旅行。
出発の朝。
「お土産はいーかんね。」
定番のばあちゃんの見送り。
三日間、この家に帰って来ないと思うと嬉しさもあり、複雑な気持ちになる。
父親も、兄弟も、別に何も変わらない。
一日居ようが、居まいが、何も変わらない。
ただ、学校行事も面倒くさい。
三日間、四六時中誰かと一緒に過ごすだなんて。
一人の時間を長く過ごしてきた俺にとっては、それなりの苦痛かもしれない。
ただ、それだけのこと。
朝七時集合。
最寄り駅から新幹線が走る駅まで出て、さらに新幹線で東京駅へ向かう。
それだけ奥まった田舎。
東京なんてそう簡単に行ける距離ではない。
昼前、東京駅に到着。
新幹線を乗り換え、京都行きの車内で昼食。
弁当だった。
「あ、めぐっ、トマト食べなさいよ。」
「やーだぁ~。」
聞き覚えのある賑やかな声。
後ろを向くと、二列後ろの座席に椎名萌が座っているのが見える。
「トマト嫌い、まだ直ってないの?」
「トマトはずーっと食べません。」
「あんたねー、」
旅行中は、クラス行動と班行動がある。
一班男女五人の編成。
班毎に座っている新幹線の中で、どうやら俺の四組六班は、五組一班と続きの座席に座っていた。
「ほら、もえっ、俺の卵焼きと交換してやるから。」
「わーい。」
「にのっ、甘やかさないで。」
同じく五組一班であろう、椎名萌に続き、二宮、斉藤恵子もいる。
「にの、だーいすきっ。卵大好き。」
「オレは卵と同位かぁ?」
「あはははー。おもしれー。」
笑い声は関君。
「馬鹿なだけだ。」
ため息混じりなのはタケ。
そういえば、関君が言ってたな。修学旅行の班が一緒だと。
「めぐはね、小学校の時から給食でトマト出ると食べなかったのよ。そんで、にのが代わりに食べてた。」
「けいちゃーん。」
「はははー。そんなに嫌い?トマト。」
「嫌い。」
「ほら、そんなに嫌いなトマトだ。食え。」
「あああああー、タケやん、ひどーいっ。せっかく居なくなったのにぃーー。」
「あははっー、おもしれー、タケやん。」
大きくなる関の笑い声。
見なくても、聞こえてくる声だけでわかる。
そもそも、二宮がいる班ってだけでだいたい想像はできる。
そしてさわがしい女、椎名萌のいる班なんて。
昼食が終わった。
初日の観光地、奈良に着くのはまだ一時間先。
暇すぎるので寝ようと思った時。
背後から足跡が聞こえてきた。
「おう、晃。健太。」
「タケ。」
「席、近かったんだな。」
「タケどこにいた?」
隣に座る健太が聞いている。
「三列後ろ。」
「おっ、近いじゃん。」
「だろ。」
あれだけ騒いでいればわかるだろう。
健太は気づいていなかったのか。
「夜さ、おれらの部屋来いよ。」
「おう、行くいく。」
「にのもいるし。」
「タケー、いい誘い?」
「いい誘い。」
「ラジャッー。楽しみにしてるわ。竹田君。」
ご機嫌な健太。
おそらく、男子の喜びそうな話題があるのだろう。
修学旅行の夜なんて、そんなもんだろう。
男子の好きな話なんて、そんなもんだろう。
観光地、奈良。
五重塔、興福寺、東大寺、奈良公園。
クラス写真の撮影が終わると班毎の自由行動になった。
鹿と写真を撮る者、お土産を買う者、ソフトクリームを食べている者、皆それぞれ過ごしていた。
健太と公園のベンチに座っていると、同じ班の女子三人が買い物から戻ってきた。
「健太君、穂高君、写真撮ろー。」
「おおー。」
健太がベンチを立った。
「晃君、写真だぜー。」
健太に急かされる。
「俺押すよ。」
「え?穂高君入らないの?」
「ああ。」
「えー、班の皆でって思ったのだけどな。」
「いいじゃん、とりあえず。まだ明日も明後日もあるんだから。」
「そうだね。」
「撮ろう、撮ろう。」
「じゃあ、穂高君よろしくー。」
旅行の中で、面倒くさいのは写真。
いちいち場所が変わる毎に撮りたがる。
特に女子は、誰ちゃんと、とか、皆で。と、特定の奴等と撮りたがるから面倒くさい。
写真なんて・・・・
その時、本当に撮りたいもの撮るべきだろう。
だから写真は嫌いだ。
ただ、それだけのこと。
旅館へ戻ると、部屋割りはクラス毎、六人部屋だった。
健太とは部屋が別れた。
「晃君、ジュース買ってくるけどいる?」
「いいや。」
三年になって三ヶ月。
このクラスにも慣れた。
別に俺は健太がいれば問題はなかった。
でも、このクラスも悪くはなかった。
一年、二年と、何かとかかわりの面倒くさかった時期もあったが、この一年はこのクラスで静かに過ごせそうだ。
クラス絵図。
色々なクラスを見てきたけれど。
このクラスにはしっかりとしたグループが無かった。
割と誰とでも話すタイプが多く、グループへの所属意識が低い。
クラスを仕切りたい奴や、目立ちたい奴もいない。
学級委員になった奴も、優等生でもなく、真面目でもなく、学級委員タイプではなかった。
一人で過ごす奴はいないが、皆周りの誰とでも話し、その日、その日が過ぎて行く。
逆を反せば、誰ともそこまで仲も良くないということか。
三年にもなると皆落ち着くってことなのか。
有難いことに俺には楽なクラスだった。
風呂に入り終わると、健太からタケの部屋に行こうと誘われた。
風呂上りにジュースが飲みたかったので、健太には先に行ってもらうことにした。
館内の見取り図を思い出す。
この旅館は本館と別館がある。
別館を後から付け足したということが、見ればすぐにわかるような作りになっている。
本館に客室、別館に大浴場。
別館から本館へは面倒くさいが専用の階段を使わないと移動できないようだ。
大浴場の近くの自販機で買っておけばよかったと後悔したが、遅かった。
人が多いのも面倒くさかったし。
本館の自販機に行くことにした。
ところが。
お茶やスポーツ系ドリンクは全て売り切れ。
残っているのは炭酸飲料かコーヒー飲料。
風呂上りに飲みたい種類は皆同じか。
仕方なく、コーラを買ってその場で飲み干した。
缶を捨て、階段を下りはじめた時、下から上がってくる人と目が合った。
「あ。」
そう言ったのは椎名萌。
「なに?」
珍しい、一人か。
「い、いえ。別に。」
珍しく、控えめに返してきた。
いつもはうるさい位喋る奴なのに。
一人だと静かなのか?
いや、違うか。
どうせ、二宮のところへでも行くのだろう。
「どこ行くんだ?」
「に、にののところ。」
はい、当たり。
そして、はい、外れ。
「そっちじゃないぞ。」
「えっ?」
珍しく、慌てている顔。
本気で間違えていたらしい。
「上は自販機しかないぜ。にのの部屋ならこっち。」
椎名萌が通り過ぎてきた方向を指で指してやった。
「じ、ジュース買ってから行こうと思ったの。」
そういうと、椎名萌は階段を上がっていった。
おもしれー。
こいつ、慌てて訂正したって感じで。
ほんとにばかだな。
なぜだろう・・・
興味が勝った。
かかわりよりも、興味が勝った。
ただ、それだけのこと。
俺は、椎名萌の後に付いて行った。
自動販売機の前に立っている。
金を投入する様子はない。
やはり。
ジュースを買いに来たというのは後から付けた理由。
俺に部屋の間違いを指摘され、とっさの行動に出たのだろう。
おもしれー。
旅館で迷うのか、こいつ。
「買わないのか?」
「・・・・・コーヒーと炭酸飲めないの。」
笑いそうになるのを抑えた。
おもしれー。
とんだ災難というのはこのことか。
旅館で迷ったことを隠すために繕った嘘が、自分の好き嫌いによって自滅するとは。
こういう場合、嘘でも買えばいいのに。
おもしれー奴。
そしてばかな女。
笑いそうな顔を隠すため、俺は先に階段を下りた。
椎名萌が付いてくるかどうかを試す為でもあった。
本当に付いて来ている。
本気で二宮の部屋がわからなかったのか。
ばかだな。
「にーのっ。」
「おっ、もえ。どうした?あれ、晃君も一緒?」
「た、たまたま会ったのよ。そこで。」
そこで。
どこで?
おもしれー。
やっぱりばかな女。
「そうか。まぁ、入って、入って。」
部屋の奥にタケ達がいた。
タケと話していると、聞こえてくる会話。
「もえ、よく一人で来れたな。迷わなかったか?」
「こ、来れるわよ。」
「え?旅館で迷うの?」
不思議そうに聞いたのは関。
笑いそうになってしまった。
なんだ。
やっぱり迷うのか。
「もえは昔からよく迷う奴でな。」
「にーのっ。」
「そうそう、小学校の時の修学旅行でも迷っていたよな。」
「亮ちゃん!」
「ほんとのことだろー。」
「へー、椎名さんてしっかりしていると思ったのに。」
「関くん、もえは意外とおっちょこちょいだぞ。」
「もー、二人とも変なこと言うのやめてー。」
ばか女決定だな。
こいつらの会話に、周りにいた男子達も笑っていた。
俺は笑うのを抑えていたが。
再び、タケと話していると、視線を感じた。
そして、そいつはぶつぶつと一人言を言っているように聞こえた。
――が。
いきなり指を向けられた。
「あ!あきちゃん。」
「あきちゃんにしよう。」
「なんだよ、あきちゃんって。」
ばか女に突っ込んでやった。
「私がつけたの。今からあきちゃんて呼ぶことにしたの。」
さっきまでの強がりはもう無く。
いつも通りのうるさい、お喋り女になっていた。
「ははは。あきちゃんか。いいね、それ。椎名さん良いよ!」
おいおい。
良いわけねーだろ。
「あきちゃんね。うん、いいんじゃない。」
おいおい。
だから、いいわけねーだろ。
周りの男子が笑っている。
男にちゃん付けして何が楽しんだ。
おいおい。
「あ、もえ髪濡れたまま。ちゃんと乾かしたのか?」
そう言うと、持っていたタオルを椎名萌の頭にのせ、拭きはじめる二宮。
その様子を見ていた、同室の男子達が声をかけた。
「おまえらって仲良いな、付き合ってんの?」
どのクラスでも、こういう話、あるんだな。
男子達の、恋愛の話。
好きだよなー。
面倒くさいだけ。
「まさか。」
「それはない。」
慌てる様子も無く、きっぱりと答えた二人に男子達は期待はずれといった感じであった。
「こいつらは小学校の時からこんな感じ。」
そう言ったのはタケ。
「へー、そうなんだ。」
「確かに、にのお父さんみたいだものな。」
「おいっ、父はないだろ。せめて兄にして。」
二宮の答えに笑いが起こる。
相変わらず雰囲気を掴むのが上手い二宮。
こいつがそばにいたら、どんな奴でも楽しめるのだろう。
「じゃあ椎名さんの好きな人って誰?」
「誰―?」
「俺も聞きたいー。」
「えっ、何でそんな話に・・・」
次に、男子達の話は、椎名萌の好きな奴の話で盛り上がっていた。
笠原祐也だろう。
答えを知っている問題なんて全くつまらない。
俺は黙って聞いていた。
椎名萌は困っていた。
こんなところで自分の好きな奴の名前を正直に答えたりしたら、またそれはそれで面白いというか、頭の悪い奴というか、ばかだな。
そう思って聞いていた。
が。
意外にも、男子達からは松岡が好きな奴だと言われはじめていた。
「えー、まじで?!松岡聡一?」
「っていう噂聞いたよ。」
「なにそれ?ほんとか?」
「ち、違うよ。」
本人は否定したが、どうやら男子達は全く聞いていないようである。
その後も松岡の話題を押し付け、椎名萌をからかい、困らせ、それを見て喜んでいる・・・
「その噂なら俺も聞いたことあるー。」
「マジ?」
「じゃあ、ほんとなのか?」
「そっか、椎名さんは聡君が好きなのかー。」
「女って結局顔のいい奴が好きなのかよ。」
「おまけにやつは頭もいい!」
「生徒会長だしなっ。」
「椎名も面食いなんだな~」
「ちょ、ちょっと待ってよ。みんな勝手にそんなこと・・・」
もはや椎名萌の話など聞かずにその場は絶好調に盛り上がっていった。
「で、告ったのか?」
「告ったのか?」
「まだならオレ言ってやろうか?」
「松岡君、あなたのことが・・・ずっと・・・」
「ヒューッー」
幼稚な男の考え。
意地悪ないじめ。
どこかで。
そう、どこかで俺も経験のあること。
目の前で繰り広げられているのは、男子が女子をいじめている図。
本人達にその自覚はないのだろうが。
こうやって、端から見ているとよくわかる。
観客側に立っている俺。
でも、前は俺も当事者だった。
今思えば簡単なこと。
今思えばくだらないこと。
ただ、それだけのこと。
困らせて泣かせて、楽しむのはまるでゲーム感覚。
そんな男子達から椎名萌を救ったのは、間違いなくあの男。
「おいっ、いい加減にしろ!」
一瞬で静かになった。
一言で十分だった。
「そんなん噂だろ、もえが違うって言ってんだからやめろよ。」
二宮の低い声が静かな部屋に重く響いた。
皆の表情が変わった。
「に、にの。わかったよ。」
「わ、悪かったよ。」
「ごめんな、椎名さん。」
「違うんだよな。」
「にのも、そんな怒んなくてもな。」
「だって俺は“お父さん”だからなっ。」
相変わらず、雰囲気を変えるのが上手いな。
二宮の笑顔に、男子達に安堵の表情が浮かんでいた。
「もー、にの驚かせんなよ。」
「あせったー、まじキレさせたかと思ったー。」
「ははは、俺はいつでもマジだぜ。よろしく。」
いつの間にか、またいつもの空気が流れていた。
そう、いつもの。
まるで何事もなかったかのような。
ただ、それだけのこと。
修学旅行二日目の朝。
今日は一日班別行動になっている。
京都市内をバスや地下鉄を使って観光。
班毎に先生から注意事項を聞いてからの出発となる。
「おはよう。」
隣の列から声をかけられた。
椎名萌と目が合う。
俺は何も言わなかった。
「おはよう、あきちゃん。最初どこ行くの?」
次に、ふざけた声で話しかけてきたのは関君だった。
「金閣寺。・・・・・あのな~、関君。」
「やめて、あきちゃん。」
続けてからかおうとする関君に、返す言葉が見つからなかった。
「おーい、うちの班出発するぞー。」
「はーい。」
二宮が呼んでいる。
これでやっと二人から解放される。
「じゃあね、あきちゃん。」
最後も関君。
「あきちゃんて何?」
聞いていたのは健太。
「つけられた。」
「え?あだ名?あきちゃんって?」
驚くのもわかる。
ふざけたあだ名だろう。
そんなの付けられたのは俺だって初めてだ。
驚いた後の健太は笑っていた。
おいおい。
笑えねーよ。
京都、一日観光。
京都駅はにぎやかだった。
複雑に走るバス。
マス目上を几帳面に走るのは地下鉄。
路線図は面白いように入り組んでいた。
金閣寺、銀閣寺。
祇園や南禅寺。
嵐山、嵯峨野。
清水寺、二年坂、三年坂、清水の舞台。
今日最後の観光地、清水寺のバス停を降りて気づいた。
「何?」
「落し物?」
健太も気づいた。
「いや。」
足元に落ちていたテレホンカードを拾い、自分のポケットへと閉まった。
「ねえねえ、抹茶ソフト買ってくるー。」
「おお。」
女子三人が売店へと向かった。
「晃君も食う?」
「いい。」
「オレも食べよ。あちー。」
健太も抹茶ソフトを買いに行った。
確かに暑い。
京都は盆地というだけあって、六月だというのに真夏のように照り付ける太陽が熱い。
そして、夕方になっても蒸し暑い。
日陰のベンチを探して腰掛けた。
ポケットから、さっき拾ったテレカを出す。
今朝、ばか女椎名萌が関君に貸していたテレカ。
たぶん、そう。
見間違えるはずがない。
だって。
カードの右下にはKEIGOのサイン。
青い空。
カードいっぱいに広がる青い空。
なぜあのばか女椎名萌がこれを持っている?
「穂高君、抹茶ソフトと撮ってー。」
「あ、あたしのカメラもお願い!」
嬉しそうに笑っている女子三人。
なにが楽しくてそんなに笑えるんだ?
なにが楽しくて抹茶ソフトとなんか撮りたいんだ?
女はわからん。
昨日から今日一日で、すっかりカメラ係りになった。
最も、一緒に撮ろうと言われるよりはましだが。
空気を読んだか、女子達は班全員での写真を諦めたようだ。
それでいい。
それがいい。
ただ、それだけのこと。
旅館へ戻ると、同室の男子が皆寝そべっていた。
「あ、晃君、おかえりー。」
暑い中、一日中歩き回っていたのだから、疲れも出るだろう。
荷物を置いて、タケのところへ行くことにした。
階段を下がっていると、下から上がってくる椎名萌が見えた。
おいおい。
また迷っているのか?
にのの客室は一個下だって。
ばかな女だな。
「いたっ!」
階段の踊り場ですれ違い際、髪をひっぱってやった。
「な、なに?いきなり。」
「にのの部屋なら下だぞ。」
「し、知ってるわよ。ジュース買いに行くの。」
「ふーん。」
昨日とは違い、慌てる素振りはなかった。
どうやら本当にジュースを買いに行くらしい。
つまらん。
別にこいつとかかわりたいわけではないので、先に進むことにした。
「あ!それ。」
突然指を指されて、行く手を阻まれた。
指の先にあるのはシャツのポケット。
ああ、なるほど。
「これ?拾った。」
「私のだ。今日の朝使った後、無くしたと思って・・・・」
「拾ってくれてありがとう。」
ポケットから出したテレカを受け取ろうとした。
だからそれを上へと上げてやった。
「え?!」
不思議そうな顔。
「返してくれないの?」
再び受け取ろうとしていたので、更にその手を上へと上げてやった。
「?!」
変な顔をしている。
おもしれー、こいつ。
「返して・・・」
「返してよー。」
ジャンプをしている。
「ちょっと、返してよ。届かないよ。」
ジャンプをしても届かない。
それでも跳ねているのが可笑しい。
「ずるいよ、身長差があるのだから、届かないよ。」
そりゃ、当たり前だ。
チビのお前がいくらジャンプしても届くわけはないだろう。
届かないようにしているのだから。
ばかな女。
「もー、返してよ。」
「返してよー。」
表情が変わる。
怒ってきたようだ。
「ねぇってば。」
真剣に飛び跳ねているのに届かないのが面白い。
ばかだ。
「ねえ、返してー。」
「返して、あきちゃん。」
「あきちゃん。」
「あきちゃん。」
何度も呼びながら、何度も飛び跳ねながら、諦めようとしないのを見ていると、届かなければいいのに、届くわけがないのに、と思う。
こんな簡単なこと如きに、真剣になるなんてばかだ。
真剣になるなんて、夢中になるなんて。
真剣になっても、夢中になっても、手に入らないものだってある。
ばか女にはわからないだろうな。
いつだって、笑っていて、
いつだって、楽しそうで、
いつだって、真剣に、
いつだって・・・・
何かに真剣になるなんて。
何かに夢中になるなんて。
俺にはできないこと。
こいつは・・・・
ほら、笑っている。
「あっ、タケやん。」
指差された方を見る。
誰も居ない。
その隙にテレホンカードを取られた。
騙されたか。
「嘘つき。」
そう言ってやった。
「いじわる。」
即答で返されたのも、なんだか面白くなかった。
こんなばか女を相手にしていたことさえ、どうかしていた。
当然、KEIGOのテレカを何故持っていたのかを聞くこともなかった。
「じゃあな。」
先に目を反らしてその場を後にした。
「あ、待って。」
おいおい。
まだ何かあるのかよ。
「あの・・・・」
今度は顔を上げず、言い難そうに話し始めた。
「この間のこと、誰かに話した?」
おいおい。
この間って・・・
思い当たるわけがない。
「いつのこと?」
「前に、放課後教室にいた時の事。」
さらに声が小さくなって。
言い難い上に気まずさそうである。
気まずいことなのか?
あれは。
「覚えてない。」
単に、面倒くさいだけだった。
かかわりたくなかったこと。
ただ、それだけのこと。
「そ、そっか。」
届くことなんてわかっていたこと。
はじめから。
最後は届くとわかっていた。
届かないものなんてないのかもしれないな。
こいつには。
その夜は静かだった。
二日目の夜、男子の部屋なんて、またくだらない話で盛り上がるのかと思っていた。
面倒くさいが付き合わないわけにはいかないだろうと、思っていた。
でも、この部屋は静がだった。
楽な奴ら。
楽な付き合いは大歓迎。
まだ早い就寝時間に、俺は目だけ閉じて起きていた。
隣の部屋から聞こえてくるのは陽気な声。
昂揚が空気の中に漂う。
この部屋のまだ起きている奴の気配も感じる。
その中で、俺は最後に眠りに付く。
三日目の朝。
最終日の今日は、京都半日クラス観光。
バスでの移動。
二条城に到着した。
高さを誇る石垣と、雄大な緑の敷地が続いている。
クラス毎にガイドの説明を受けながら観光していると、
「みっこー、松岡君と写真撮りたいから会長に頼んでもらえない?」
「えー、無理だよそれは。」
「お願い。そこを何とか。」
他のクラスの女子がやって来て、頼みごとをしているようだ。
「無理だって。」
「だってー、撮りたいもん。記念に。」
「今日はうちらの番じゃないから無理。諦めて。」
「えー、いいじゃんちょっと位―。」
「そうだよ、こんなに頼んでるのにねー。」
おいおい。
会話、まる聞こえなんだけど。
「うるさいなー。あんた達のこと会長に言うよ!」
「わ、わかったわよ。」
「ご、ごめん。またにするよ。」
「そうして。」
おいおい。
そんなキレるようなことなのか?
「こえーな。」
そう言ったのは健太。
「健太君、聞こえちゃうって。」
止めたのは同じ班の女子。
「なんだ?」
「晃君知らねーの?」
「ああ。」
「松岡ファンクラブ。」
「なんだそれ?」
健太に続き、同じ班の女子が説明に入った。
「松岡君と写真撮りたい女子はいっぱいいるからねー。ファンクラブの役員達が、クラス毎に撮影日を決めたらしいよ。」
「さ、撮影日。すげーなー。」
健太が驚いている。
俺だってびっくりだ。
おいおい。
聞こえてくる話。
聞こえてもいい話。
聞こえた方が都合が良いってことか・・・・
面倒くさい話だ。
庭園にかかる石橋を渡っていると、下の池を覗き込んでいる奴等を見つけた。
背中を軽く叩いてやった。
「うわぁっ!」
奇怪な声を出して振り返った。
「あきちゃん。」
椎名萌と、同じクラスの河野ヒロアキ。
「落ちるぞ。」
二人して焦った顔をしている。
おもしれー。
「押したのはあきちゃんでしょ。」
「あっ!」
続けて大きな声をあげた。
表情はもう変わっていた。
「写真、写真撮ってない。あきちゃんと。撮ろっ。」
なにかと思えば。
そんなこと。
「やだよ。」
勿論、即答で答える。
「えー、撮ろうよ。」
「やだ。」
当然却下。
「撮ろうよ、ねっ、いいでしょ。」
「いやだ。」
面倒くさい。
ただ、ただ、面倒くさい。
「写真の一枚くらいいいじゃない。あきちゃんのけちーっ。」
「あのなー。」
けちという言葉に反応してしまった。
「わかった。じゃあヒロアキも入れて三人で撮ろうよ。それならいいでしょ。」
わずかに反応してしまったことを後悔したが、遅かった。
三人とか人数の問題ではないと言いたいところだが、それも遅かった。
「二条城バックに撮ってもらおう。はい、入って入って。」
既にクラスの奴にカメラは渡っていて。
「はい、あきちゃん撮るよ。」
「チーズ。」
不覚にも、写ってしまった。
「ありがと。あきちゃん。」
そう言うと、満足そうな笑みを浮かべて五組の列に戻って行った。
おいおい。
おまえは満足かもしれないが。
俺は不満足だぞ。
笑えねー。
「写真、二日間あれほど嫌がっていたのに今日は撮るんだな。」
健太がやって来て言った。
「椎名萌か。そういえばあいつ、松岡聡一のこと好きらしいぜ。晃君知ってた?」
「へー。」
それ以上何も言わなかった。
健太も何も言わないし、何も聞かなかったから。
あいつが誰を好きであろうと、
俺には関係の無いこと。
俺には関係が無いこと。
ただ、それだけのこと。
帰りの新幹線も静かだった。
旅の疲れからか、満足感からか、車内のほとんどで寝息を立てていた。
喋るつもりで座席をボックス席に変えた奴らも、爆睡している。
進行方向を向いて座っている俺の席からは、駆け抜ける新幹線のスピードを感じることができる。
後ろの席には五組が座っていた。
その、ボックス席に変えた奴ら、二宮の班と背中合わせに座っていた。
ふと、通路側から後ろを覗くと、真後ろに座っているのが椎名萌だった。
だから額を叩いてやった。
“バシッ ”
そんな鈍い音がした。
「あきちゃん。」
なんだ。
起きていたのか。
「前の席だったのだね。タケやんなら寝ちゃったよ。」
寝てたら面白かったのに。
普通の反応でつまらん。
「お前は寝ないのか?」
「うん。昨日そんなに遅くなかったしね。」
「寝たの何時?」
「一時くらいかな。」
「勝った、二時。」
「あきちゃんは眠くないの?」
「全然。いつもそんくらい。」
「えっ、二時?!あ、もしかして勉強?」
「は?」
「だって、あきちゃん頭良いでしょ、見たよ中間テストの順位。」
なにを言うかと思えば。
勉強って。
そんなやらねーだろ。
「起きてるのはゲーム。」
「えっ?ゲーム?勉強じゃなくて?それで五位?」
おいおい。
五位は関係ないだろ。
「おまえもいつも入ってるじゃん。」
「えっ?」
表情が変わる。
おもしれー。
勉強じゃなく、ゲームってだけでこの反応は面白い。
「ねぇ?あきちゃんて私のこといつから知っていた?」
「は?」
「ねえ、いつから?」
「いつからって、おまえずっとタケんとこ来てたじゃん。」
「ずっとって?」
「一年の時から。」
「い、一年?!」
声が裏返った。
なんだ?
その反応は。
「ちょ、ちょっと待って。一年の時って・・・もしかしてあきちゃん、一年生もタケやんと同じクラス?」
「ああ。」
「一年も、二年も、タケやんと同じクラス・・・」
それきり、黙ってしまった椎名萌。
なんなんだ?
「何で?」
「い、いえ、べつに。」
また声が裏返っている。
なんだ、その反応。
当たり前のことを、当たり前に答えただけ。
そんなこと知って何か得なのか?
わかんねー女。
変な女。
ただ、それだけのこと。
「おかえりー。」
「八ツ橋買ってきた。」
「何もいらんてゆーたじゃろ。」
と、言いつつ、さっそく土産の八ツ橋に手を伸ばしているのはばあちゃん。
旅行鞄から洗濯物を出していると、玄関の扉が閉まる音がした。
「おかえりー、亘。八ツ橋食べるかい?晃が買ってきたんよ。」
「いらねーよ。」
そのまま二階へ上がっていった。
「美味しいのに。」
ばあちゃんはお茶を煎れて一人で八ツ橋を食べていた。
数日、居ても居なくても変わらない、この家。
俺が旅行へ行こうが、行きまいが、変わらない。
何も変わらない。
何も変わっていない。
ただ、それだけのこと。
4.
修学旅行から帰ると梅雨入りをした。
毎日シトシトと降り続ける雨。
外の部活は雨が降ると中止になるが、残念ながら体育館競技の俺らの活動が中止になることはない。
晴れでも雨でもやる気の無さは変わらないが。
基礎トレのメニューをこなす為、トレーニング室へ入った。
ちょうど前に使っていた奴等と交代の時間だった。
「椎名さんだ。」
関君が声をかけた。
椎名萌がこっちを見る。
「椎名さん、今終わり?」
「うん。今日も雨だからね。」
「いーなー、オレらこれからだもん。」
「頑張ってね。」
「うん、また明日。」
一度だけ目が合った。
俺は何も言わなかった。
いつもの光景。
そう。
いつもの。
一年の時も、二年の時も、こうして椎名萌はいつも笑って挨拶をしていた。
誰にでも愛想良く笑って、よく喋って、うるさいくらい、騒がしい女。
違うのは、視線を感じるようになったこと。
違うのは、今日はうるさくなかったな。
珍しく静かだった。
ただ、それだけのこと。
翌日。
休み時間、タケに用事があって五組へ行った。
「あ、あっきらくんだー。」
相変わらず元気に声をかけてくる二宮。
タケも、関君もいる。
「ねーねー、」
いつも笑顔の二宮の隣に、あいつがいない。
珍しいな。
あのうるさい女がいないなんて。
そう思って教室を見渡すと、ちょこんと自分の席に座っているではないか。
珍しいこともあるもんだ。
「次の理科、実験室に移動だってー。」
係りの生徒が大きな声で伝えている。
「実験室かー。遠くてめんどいなー、移動。」
「校舎の一番奥だもんなーっ。」
「よーし、じゃあ一着の者には、特別奉仕!給食の牛乳をあげちゃうよ!」
「ぜってーいらねーよ。」
「つーか走らないって。」
「走ってにのに勝てる奴いねーって。」
そんな事を言って盛り上がる二宮の周り。
それでも会話に入ってこない椎名萌。
珍しい。
そう思って見ていると、椎名萌は教科書で顔を隠すように教室を出て行った。
なんだ?
明らかに不自然な行動。
ぎこちない仕草。
変な女。
やっぱり変な女だ。
次の週の朝だった。
「おはよう。」
下駄箱で、椎名萌と会った。
一瞬、目が合ったが、先に逸らしたのは椎名萌の方だった。
なんだ。
なんか違う・・・
また違う・・・
ああ。
顔。
泣いた跡って感じか。
また泣いたのか。
変な奴。
変な女はそのまま俺のクラスに入ってきた。
「おはよん、めぐちゃん。」
「オーッス。」
四組には河野ヒロアキと北川千夏がいた。
「おはよう。」
クラスが離れても仲の良い三人ってとこか。
よく続くよな。
俺は自分の席に座ると小説を開いた。
「おおー!すっげーな。強烈な文字。」
「これね。」
「やっぱり?ちなっちゃんもそう思う?」
おいおい。
聞こえてくる三人の会話。
「めぐちゃんに嫌がらせをしているのは、聡一君と話すのがダメとかじゃなく、本当の目的は塾を辞めさせること。」
「塾?しーな、聡一君と塾一緒だったのか?」
「うん。」
おいおい。
だから聞こえてるって。
「そんなあまり知られていないところまで調べるとは熱狂的なファンね。」
「ってことはいじめは続くのか?」
おいおい。
そういう話は聞こえないように話せよな。
ばか女。
どうやらばかでも気づいたようで、それからは聞こえて来なくなった。
小説を読む手が止まった。
そういえば、椎名萌の好きな男は松岡聡一だという噂があったな。
噂か。
そういうの、楽しい年頃なんだろう。
人の恋愛で盛り上がって何が楽しいのだろう。
まったくわからん。
小説のページを一枚めくった。
ん?
まてよ。
熱狂的なファンとかいじめとか言ってたな。
松岡ファンクラブとかあるんだっけ。
ああ。
あいつ目を付けられたってことか。
ばかだな。
ばかな女。
それで・・・・
泣いたのか?
いじめられて?
俺には関係の無いこと。
俺には関係が無いこと。
かかわりたくない。
面倒くさい。
ただ、それだけのこと。
「めぐーっ、めぐ、来てる?」
「けいちゃん。」
廊下から椎名萌を呼んだのは斉藤恵子だった。
登校時間が近づき、教室も廊下も賑やかになってきた。
小説を閉じる。
顔を上げると何故か北川千夏と目が合った。
そのまま教室を出て行く北川。
なんだ?今の。
「おはよ、晃君。」
健太が登校してきた。
廊下がいつもより騒がしい気がした。
気のせいか。
「おいっ、なんかすげーぞ。」
廊下から声がした。
「なになに?」
「どうした?」
「ケンカ?」
おいおい。
喧嘩って・・・・
すっかり野次馬の一人になっているのは健太。
興味は無い。
登校して来た生徒であっという間に廊下には黒い影ができていた。
「めぐちゃんいじめにあっているらしいよ。」
興味は無い。
「おい、五組の斉藤と椎名がもめてんぞー。」
興味は無い。
河野ヒロアキが慌てて廊下に駆けつけていくのを見た。
「椎名さんってほら、松岡君の事。」
「ああ、なるほど。会長に目付けられたのね。」
「松岡君を好きになるなんて度胸あるよねー。」
おいおい。
今朝の話かよ。
興味は無い。
が、聞こえてくるのだから。
聞こえてもいい話しってことか。
「めぐ、黙っていてもわからないでしょ。」
斉藤恵子の厳しい声が聞こえてきた。
「わかるから・・・・どんなにつらいか、わかるから。」
椎名萌の声ははっきりとは聞き取れない。
それくらい、立場が悪いってことか。
見なくても、なんとなく状況はわかる。
興味は無い。
「だからってこんな事して言い訳ないでしょ。」
斉藤の声は更に大きくなっている。
変わらないな。
あいつはいつだって正しいことを声を大にして言う。
由利の時もそうだった。
斉藤は、自分の立場を悪くしてでも、椎名萌をフォローしているのがわかる。
あいつはそういう奴だ。
そしてもう一人・・・・・
「松岡のこと好きだって、言っちゃえよー。」
「そうだそうだー。」
面白可笑しく盛り上げようとする、周りの野次。
人事のようにただ、見ているだけの野次馬。
「そんな訳ないだろ、デタラメだよ、デタラメ。」
「おっ、椎名の父、登場か。」
「その噂ならもう古いぜ。もえの好きな人は聡一君じゃないよ。それに聡一君がもえを相手にするわけないだろ。相手にされないって。無理、無理。」
笑いながら話す二宮に、周囲の雰囲気が変わっていく。
徐々に。
そう、徐々に。
でも、確実に。
周りの雰囲気を変えていく二宮の存在。
相変わらず。
見事。
「相手にされないのは言えてるな。」
「だな。」
「確かに椎名さんって松岡って感じじゃないよな。」
「言われてみれば。にのとの方がお似合いじゃん。」
「にのは父だけどな。」
「あはははー。」
簡単なことだ。
人が人をいじめるなんて。
今日は当事者かもしれない。
明日は傍観者かもしれない。
紙一重。
そんなまるでゲーム感覚のような幼稚な事。
それを上手く操れるのが二宮。
「じゃああの噂は嘘か?」
「そうそう。信じた奴残念だったなー。」
「ダッセー。」
「誰だよこんな噂流したのー。」
「ガセネタじゃん。」
「あははー。」
周囲は笑いに包まれていた。
いつものように。
「チャイム鳴ってるぞー、教室へ入れー。」
HR開始のチャイムが鳴り、廊下に先生達の姿が見えた。
さっきまでの人山があっという間に無くなった。
そしてはじまる。
いつものHRが。
ただ、それだけのこと。
その翌週からは一学期最後の期末試験がはじまった。
あれだけ騒いだあの朝の事も。
試験が終わった頃には、誰も噂のことを言う者はいなかった。
またいつもの朝に戻った。
「おっす、晃。」
「ああ。」
「KEIGOの八月号、いつ見に来る?」
「日曜は?」
「オッケーじゃあ昼頃。」
「わかった。」
毎月タケの家に届く雑誌を見せてもらいに行っている。
変わらない事。
次の休み時間だった。
「見たか?」
「見た見たー。」
クラスの男子の話し声が聞こえてきた。
特に興味は無い。
「椎名だろっ。」
「すっげー、バッサリいってたよな。」
バッサリ?
特に興味は無い。
「晃君、行こーぜっ。」
健太に呼ばれた。
次の授業は技術室へ移動だった。
五組の前を通った。
ふと、教室の中を覗く。
相変わらず元気に騒いでいるのは二宮。
そしてその横に――
変わっていた事。
椎名萌が髪を切っていた。
ただ、それだけのこと。
技術室に入ると、前の授業だった三組がまだ数人残っていた。
「見た?椎名の髪。」
「見た見たー。かなり短かったよなー。」
聞こえてきた会話はテニス部の男子達。
髪を切っただけでそんな盛り上がる話なのか?
「俺まだ見てない。」
「あれ?祐也見てないの?」
聞こえてきた声は笠原祐也。
「見てない。」
「朝練は?」
「来てなかった。」
「へー、珍しい。」
「なんで俺だけ見てないんだ?」
「五組行けばいるだろ。」
「あれは失恋とみたな。」
「まじでぇ?」
「あんなバッサリ切ったらそうっしょ。」
おいおい。
だいたい、なんで女はわかりやすく髪を切るかね。
なんかありましたって言ってるようなもんだろ。
ばかだな。
ばかな女。
失恋で髪切る女なんてもっとばかだな。
あれ。
あいつの好きな奴って・・・
松岡のことは片付いたし。
そういえば、あいつが好きなのは祐也で・・・・
祐也に彼女がいるのは前から。
今更なぜ髪を切る?
ってか、失恋で切るのか?
わかんねーな、女って。
わかりたくもないけど。
関係ないけど。
放課後、うちのクラスに椎名萌が来た。
「あきちゃん。」
目が合う。
少しの間が空く。
俺から逸らした。
「しーな、お待たせ。部活行こうぜ。」
「あ、うん。行こう。」
ヒロアキと教室を出て行く。
その後姿を見送った。
肩よりも上で揺れる髪。
おそらく、三十センチは切ったのだろう。
別にお前が髪を切ろうと、切らなくても。
俺には関係ない。
俺には関係が無い。
ただ、それだけのこと。
5.
七月も中旬を迎えた。
中学生最後の夏。
部活動の集大成、引退試合の中体連。
そして受験生となる。
俺は相変わらず適当に部活に参加。
六時間の授業をこなし、適当に委員会に出席して、適当に学校生活を送っていた。
今年の夏も暑いけれど、一階の教室はそれでも風が通る。
「それでは今日はここまで。夏休みは七月いっぱい美術室を開けておくので各自課題を終わらせるように。」
「礼。」
「ありがとうございました。」
選択授業が終わり、皆次の授業に向けてそれぞれ移動し始める。
資料を片付けていると、奇怪な声が聞こえてきた。
なんだ?
声の主はお騒がせ女、椎名萌だった。
またかよ。
うるさい女。
「ははは。もえ、昔の癖直ってなかったんだ。」
「え?癖?」
「もえはね、こうすると――」
再び言葉にならない声を出して首をすくめていた。
「首が人一倍くすぐったいらしいよ。小学生の時、よくこうやってからかわれてたよね。」
「もえー、行くぞー。」
「はーい。」
「ひゃあああー@※@※@」
ほんとだ。
やってみたら、本当だった。
「あきちゃん。やめてよ@※@」
変な弱点。
変な女。
「もー、ほんとにやめて首弱いの。」
変な弱点。
おもしろい女。
だから。
次の日も、やってみた。
昼休み、タケと関君と話していたら、椎名萌が来たから。
後ろを向いていたから。
やってみた。
「ひゃあああー@※@※@」
声を上げ、首をすくめる。
おもしろい。
「あきちゃん、もーやめてよ。」
「はは。椎名さん、すっかりあきちゃんにやられているね。」
「もー。」
予鈴が鳴る。
「じゃな、あきちゃん。」
関君が教室へ戻る。
タケも後に続く。
教室へ戻る者、移動教室へ向かう者、廊下がざわつく。
しばらくすると静けさを取り戻した廊下に、残っているのは二人。
「入らないの?」
「入れば。」
沈黙が流れる。
「じゃあね。」
そう言うと椎名萌が教室へ戻った。
本鈴が鳴り、授業が始まった。
ただ、それだけのこと。
期末試験の結果が貼り出されていた。
成績上位三十名。
相変わらず一位を独占し続けているのは松岡聡一。
タケは六位。
調子は良かった。
順調に。
俺は四位に座った。
そして視界に入ってくる。
椎名萌が後ろを向くから、やりたくなる。
「ひゃあああー@※@※@」
奇声と共に首をすくめる。
「もー、あきちゃん。やめてってばー・・・あ!あきちゃんすごいね!4位だなん・・・・」
「ひゃあああー@※@※@」
再び奇声と共に首をすくめる。
椎名萌の順位は俺にとってはどうでもよかった。
反応がおもしろい。
ただそれだけのことだが、しばらく飽きなかった。
「晃君―。」
帰宅途中で声をかけられた。
「今帰り?途中まで一緒帰ろー。」
「ああ。」
後ろから走ってきたのは市井里美だった。
市井は近所に住んでいる。
短髪にハスキーな声の持ち主は、昔から男友達のような感覚でいた。
「晃君試合、どこでやんの?」
「第四中。」
「そっかー、また遠征かー。」
市井とは、別に特別親しいわけでもなく、家が近いからといって交流も無い。
健太と遠い親戚にあたる関係らしく、たまに一緒に遊んだりもしている。
「あ、そうだ、晃君も行くよな、にのに誘われた日。」
「ああ。」
「と、まずは中体連か。終わったら思いっきり遊ぼーっと。」
家の前まで歩いた。
「じゃあね。晃君。」
「ああ。」
そう言って別れた。
家に帰るとばあちゃんが蚊取り線香に火をつけていた。
「おかえりー。」
「ただいま。」
縁側に置かれた蚊取り線香の匂いが漂っている。
「昨日トイレに起きたら、晃の部屋まだ明かり点いとってなー。」
「そう。」
「勉強かい?」
「まぁ。」
俺は無難な返事をしておいた。
ばあちゃんが何を言いたいのか、なんとなく感じ取れるから。
「無理せんと。」
「わかってるよ。」
すかさず次の言葉を投げた。
これ以上聞かれないように。
これ以上話し込まれないように。
わかっている。
わかっているから。
大丈夫。
大丈夫だよ。
調子は良いから。
勉強は、好きではないけれど嫌いでもなかった。
時間はたくさんあった。
だから困ったことは無かった。
塾へは行かなかった。
困ったことは無かった。
俺には二人の兄貴がいる。
一番上の勝兄は東北の大学へ行っている。
二番目の亘兄は私立の高校の三年。
亘兄は勉強のできる奴だった。
高校受験の時、俺は小学六年生だった。
今でも覚えている。
悔し涙を流していた亘兄の背中を。
なんでそんなことで泣けるのだろうか。
そう思っていた。
亘兄は第一志望の高校に不合格。
滑り止めで合格していた私立の学校に通うことになった。
「おまえのせいだ。」
春休み、亘兄にそう言われた。
俺が居なければ、俺なんかが居なければ。
合格したのか?
ただの八つ当たり。
そんなのわかっていた。
ただ、それだけのこと。
中学に入学すると、担任の先生から、穂高兄弟の三番目か。と言われた。
兄貴達がそれだけ優秀だったということだろう。
別に俺には関係ない。
俺には関係がない。
そう思っていた。
だが。
こうも考えるようになった。
亘兄が出来なかったこと。
亘兄の第一志望の高校に、俺が合格したら・・・
そんなことを考えなくも無かった。
ただ、それだけのこと。
今日は一学期の終業式。
校長先生の長い話に続き、夏休みの諸注意等が話される。
前に並んだ健太に話しかけられた。
「晃君、あれほんとに行くの?」
「ああ。」
「カラオケ好きじゃないのに?」
「べつに。」
「椎名萌がいるから?」
「は?」
健太から出た言葉の意外さに驚いた。
「だって、晃君最近椎名とよくいるし。」
「にのの金魚のフンだろ。」
「ぶっ、そ、それは確かに。」
噴出しそうになるのを抑えた健太。
終業式中なのでふざけていてはまずいだろう。
前を向いたが、肩が小刻みに震えているのがわかる。
笑いをこらえているのだろう。
先日、二宮から皆でカラオケに行かないかと誘われた。
タケが居るなら別にいいし。
塾があるわけでもない俺は暇だし。
確かにカラオケは面倒くさいが、べつに断る理由も無かったから。
ただ、それだけのこと。
終業式が終わると、壮行会が始まった。
壮行会は、中体連に出場する選手を応援する会のようなもの。
三年にとっては引退試合ともなる、記念式典のようなもの。
面倒くさい。
そんなのに俺が出るわけがない。
だから、バレー部は部長の奥居と副部長の梶原に任せた。
俺は一般生徒席からそれを見ていただけ。
「晃君―。」
教室を覗く奥居と梶原。
「いないのかー。あ、椎名ちゃん。」
「あきちゃ・・・じゃない、穂高くんいないけど鞄あるから戻ってくるのじゃないかな?」
「おっけー、椎名ちゃん、元気してた?」
「はははー。元気だよー。」
教室へ戻るところで、廊下からの賑やかな声に気づいた。
奥居と梶原・・・・と椎名萌。
知り合いだったのか?あいつら。
しかし椎名萌は相変わらずうるさい。
「晃君、今日は一時半になったから。」
「わかった。」
「そういや椎名ちゃん髪ばっさり切ったね。」
「おっくん、その話古くない?」
「あはは。確かに。」
いつもの笑顔。
いつもの喋り。
いつものばか女。
「じゃあ、椎名ちゃんまたね。」
「うん、ばいばいー。」
ああ。
奥居と梶原と椎名萌は同じ第二小の出身か。
「ひゃあああー@※@※@」
奇怪な声を上げ、首をすくめる。
「あきちゃん。もー、やめてよー。」
おまえが後ろを向くからだろ。
「おっくんと仲いんだ。」
「あ、うん。おっくんとかじくんね、小学校の時にけっこう話していたよ。中学に入ってからは今久しぶりにあんなに話したかな。」
「ふーん。」
教室に入り、席へ戻った。
椎名萌も付いてくる。
「めぐちゃん、トマト食べてあげるから、卵焼きちょうだい?」
「椎名、通知表見せるから春巻きくれ。」
「あのねー。通知表はいいよ別に。」
ヒロアキと北川。
三人で弁当を食べていたのか。
相変わらず仲の良い、騒がしい三人組。
「あきちゃんは通知表どうだった?良かった?」
「見るか?」
「え?いいの?」
「おまえのも見せろよ。」
「え?だってあきちゃんの方が頭いいし――」
互いの通知表を交換した。
「あれ?・・・・あれ?」
椎名萌の表情が固まった。
そして、手に持った通知表と、俺の顔を交互に見て、驚きを隠せない様子。
椎名萌の通知表は思った通りだった。
ほとんどオール五に近い。
通知表は絶対評価じゃないからな。
定期試験の結果が全てではない。
授業態度、積極的に取り組む姿勢、周りとの協調性。
そんな要素が含まれての評価が通知表。
だから、こいつみたいに愛想良くいつも笑っている奴の方が通知表の評価は高いさ。
だから、そう言ってやった。
「絶対評価じゃないからな。おまえみたいに愛想のいい奴の方が得をするってこと。」
ありのままを伝えただけ。
ありのままに伝えただけ。
ただ、それだけのこと。
そして翌日から中体連がはじまった。
大抵の運動部は、市営競技場の中で試合を行う。
陸上部、野球部、サッカー部、テニス部、卓球部、バスケットボール部、剣道部、柔道部。
各校の応援も盛り上がってまるで祭りのような大歓声の中、試合が行われる。
バレー部は決勝戦を除く試合を、会場となるそれぞれの中学で行っていた。
だから、そんな祭りのようなめでたい感覚ではなかった。
もちろん、決勝戦にまで残ったことなど一度も無い。
そう。
これが引退試合となる。
会場となった第四中学校の体育館は蒸し暑さと人の熱気で汗が止まらない程。
当然アウェーなのだけれど、こんなに観客がいなければもっと気温が下がるのではないかと思う程。
「あれ?椎名ちゃんじゃない?」
暑くて集中力が鈍る上に、奥居の話もまた暑苦しく感じた。
「見間違いじゃない?こんな所まで来ないでしょ。」
「かじくん、よく見てよ。あそこ、ほら。」
奥居が指をさす方を見る。
「あ!ほんとだ~、椎名さんだー。」
関が先に気づいたようで、駆け寄って行った。
「珍しい組み合わせだ。」
そう言って奥居も向かった。
ここからは、そうも見えるが、そうも見えない。
どっちでもいい。
別に椎名萌が来ようが、来まいが。
別に椎名萌が居ようが、居まいが。
俺には関係ない。
俺には関係がない。
ただ、それだけのこと。
暑い。
体育館の気温はどんどん上昇している。
こんな中で試合をやるのか?
集中どころではないだろう。
暑い。
「いやー、びっくりだね。」
「こんな所までわざわざ見に来るなんて。」
「物好きもいるもんだー。」
「しかも変な組み合わせ。」
「椎名さんと市井だろ?」
「完全アウェーからは抜けたな。」
「同じようなものだろ。」
「ははは。そうだな。」
「おっしゃー、俺らはいつも通り。最後の試合、やんぞー。」
「おおーっ。」
第四中選手と挨拶を交わし、コートへ入る。
いよいよはじまる。
隣に奥居がやって来て言った。
「晃君を見に来たんじゃない?」
それだけ言うと、笑みを浮かべて自分のポジションに就く奥居。
おいおい。
偉い余裕―だな。おっくん。
緊張感もありゃしねー。
おいおい。
関係ないね。
椎名萌が俺を見に来ようが、来まいが。
椎名萌が居ようが、居まいが。
俺は自分のことをやるだけ。
そう。
自分のことを。
追い続けるボールの先に、眩しいライトの火が射していた。
ただ、それだけのこと。
暑い。
どれくらい経ったのだろうか。
暑い。
どれくらい動いたのだろうか。
暑い。
どれくらい・・・・
試合は負けた。
負けたら終わり。
今日は終わり。
明日も終わり。
もう、終わり。
ただ、それだけのこと。
試合は負けた。
別に部活なんて本気じゃなかった。
本気になれなかった。
夢中になることなんてなかった。
夢中になれなかった。
結果なんてどうでも良かった。
どうせ運動で叶わないことぐらい知っているから。
あいつに叶わないことはわかっているから。
そう、あいつ。
俺には二人の兄貴がいる。
一番上の勝兄は、昔からスポーツが得意で、中学では陸上部に入っていた。
百メートルハードルで、県の大会記録を持っている。
東北の大学へはスポーツ特待生として入学。
だから、俺は陸上部へは入らなかった。
中学に入学すると、部活動の勧誘期間が二週間あった。
あの兄貴の弟なのだから、ぜひ陸上部にと。
先輩だけでなく、顧問の先生からも勧誘を受けた。
あの兄貴の弟なのだから。
皆、そうやって決め付けた。
俺は別に走るのが嫌いなわけでも、苦手なわけでもなかった。
遅いわけでもなく、タイムは速い方だっただろう。
でも・・・
必要なのは俺じゃない。
俺じゃなくて、勝兄。
俺じゃなくて、勝兄を見ている。
勝兄を通して、俺を見ている。
例え、勝兄を超えても超えなくても。
勝兄を超えられても、超えられなくても。
答えは同じ。
皆、勝兄を見ているのだから。
当然。
超えても、勝兄の弟なのだから。
超えなければ、勝兄の弟なのに。
そう言われるだけ。
答えは同じ。
勝兄いての俺。
ただ、それだけのこと。
そんなこと、わかっていて、居られるわけがない。
その後、陸上部が駄目ならサッカー部、テニス部と、走りを見込まれ勧誘を受けたが、どれも断った。
どれも同じことだから。
もう運動部に入るのはやめようと思った。
美術部に入ろうかとも考えたが、絵を描き続けることは、家族の中で、俺の立場を悪くするだけ。
わかっていたこと。
絵だって、好きな時に好きな場所で好きな絵を描くのが好きなだけで。
決められた課題を描くのが好きなわけではなかった。
部活を決める、仮入部期間の一ヶ月は俺を悩ませた。
そもそも。
なんで部活に入らなきゃいけないんだ。
面倒くさい。
ただ、ただ、面倒くさい。
ただ、それだけのこと。
仮入部期間が終わろうとしていた時、二人の生徒に声をかけられた。
「バレー部、入らない?」
最初は先輩の勧誘だと思った。
それ位、二人とも身長が高かったから。
当時、俺はまだクラスの女子より背が低かった。
「今年人気無くてさ、部員集まんないと試合できないんだよ。って訳で見学レッツゴー。」
「オーッ。」
俺の返事も待たず、両脇を奥居、梶原という二人に挟まれ、体育館へ連れて行かれた。
なんなんだこいつらは。
体育着のカラーで、先輩ではなく、同じ一年だということを知った。
面識が無いということは、第二小出身の奴ら。
抵抗する力も虚しく、長身の二人に両脇を抱えられて足を踏み入れたのがバレー部だった。
「先輩―っ、仮入部希望者一名でーす。」
「おい、俺はちがっ・・・」
「いいから、いいから。」
「おー、ありがとなー。」
「おまえら一年に勧誘やらせて悪いなー。」
「いえいえ。暇があったら練習しましょうよ。」
「それに、おっくんかじくんコンビなら先輩より新入生に人気ありますから。」
「なにぃー?!」
「あははー、確かに。」
「おいっ、笑い事じゃなぞ。」
「あははー。」
なにやら和やかな雰囲気。
見たところ、先輩は六人。一年が四人。
確かに少ない部員数。
バレーが何人でやるものなのか、知らない俺でさえ、この部員数では存続の難しさを感じた。
「で、何君?」
笑いが収まった時、先輩の一人が口にした。
連れて来られたままだった俺。
「知らないっす。」
「ええっ?!」
「そういえば、何君?」
「おいおい、マジかよ。」
「おっくん、名前も知らない子、勧誘してきちゃったの?」
「あはははー。」
「おもしれー。」
再び笑いの渦が起こった。
「で、何君?」
改めて、聞く奥居に、先輩達は肩を震わせ、笑いをこらえていた。
「穂高です。」
「穂高君です。」
「ぶはははー。」
「あはは、皆聞いてたし。」
名乗った俺のすぐ後に、梶原が先輩達に紹介したのがウケたらしい。
再び笑い声に包まれた。
「やっぱおもしれーわ。おっくんかじくん。」
「一緒にしないで下さい。」
「いいセットプレーを期待しているよ。」
「よっ、相棒!」
「で、何君だっけ?」
その後、笑いが収まるのに時間がかかったのは言うまでもない。
五月に入り、仮入部期間が終了した。
俺はバレー部に入部した。
理由は一つ。
誰も兄貴を知らなかったから。
ただ、それだけのこと。
だから、俺が本気で何かに夢中になるなんてことない。
だから、俺が本気で部活をするなんてことない。
本気で・・・
試合に負けた。
ただ、それだけのこと。
なのに。
なのに・・・・
なのに・・・・
なんで、泣いてるんだ?
負けたから?
終わったから?
部活から解放されたから?
あれ?
あれ・・・・
なんで。
なんだこれ。
穂高と名乗っても、兄貴の事を聞かれなかった。
出身小学校が違う奴等は知らなかった。
決して活躍している部活ではなかったから適度な活動だった。
少人数だけど、属すには適切だった。
部活なんて、たかが所属。
試合なんて、たかがゲーム。
ルールやプレーは身に付けていったけど。
試合をこなす毎に動けるようになったけれど。
身長も伸びていったけれど。
ただ、それだけのこと。
ただ、それだけのこと。
なのに。
なのに。
だから。
いつの間にか。
知らない間に。
好きになっていたのか。
バレー。
いつの間にか。
知らない間に。
好きに・・・・
顔を上げた。
泣き崩れる仲間達を見る。
体育館の蒸し暑い熱気。
外を見る。
照りつける太陽の光が、眩しかった。
ただ、ただ、眩しかった。
目が合った。
日差しが照り返すアスファルトからは熱気が溢れていて。
歪む視界の中に。
椎名萌が立っていた。
ただ、それだけのこと。