第三話 どうして今になって?
「ジェフリー……」
この名前をつぶやくのは何年ぶりだろう。懐かしさと切なさで胸が締め付けられる。十年前、自分を裏切った相手なのに、触れられたところが熱く感じるのはなぜなのか。
ジェフリーも何か言いたそうにこちらを見ていた。何度か口を開きかけるが言葉にはならない。まるで、一瞬で十年前に戻ったような心地がした。
しかし、二人だけの世界に没入している暇はなかった。襲われる心配はなくなったが、火の魔法によって燃やされた植え込みが、まだパチパチと爆ぜている。ジェフリーはそれに気づくと、手をさっと一振りしただけで完全に消火させた。
その拍子にアガサも我に返り、彼を振り切ってタマラに駆け寄った。すると、タマラを覆っていた光の保護膜がすっと消え、アガサは力の限りに娘を抱きしめた。
「タマラ! 無事なの、タマラ!」
「いたっ! 強すぎるよ! ママこそ大丈夫なの?」
「タマラ! タマラ! よかった……よかった……」
やっと状況が飲み込めるようになり、恐怖と安心の落差に全身が震え出した。まだ悪夢の中にいるような心地の中で必死に娘の名前を呼ぶことで現実に戻ろうとあがく。
「あなた無事なのね、どこも怪我したりしてないのね……」
「だから大丈夫だってば。それより、何があったの? あのおじさんは誰?」
タマラの冷静な質問に、アガサははっと息を飲み、娘から体を離してから再びジェフリーに顔を向けた。彼は、同じ場所に立っており、自分がおじさんと言われたことに対して苦笑いを浮かべていた。
おじさん……アガサは、改めてまじまじとジェフリーを見つめた。彼はアガサよりも二歳年下のはずだが、娘からはそう見えるのだろうか。確かに、あんなに若々しかった、どちらかと言うと年齢より幼げな印象すらあった容貌に、凛々しさと思慮深さが加わっている。
アガサの目には、むしろ中身と外見のギャップが埋まったように見えるのだが、言われてみれば、この十年間の苦労が顔に刻まれたとも言えるかもしれない。何があったかまでは知らないが、重役にいるならば重圧と責任に晒される毎日だったに違いない。
ジェフリーは、服の埃を払いながら、ゆっくりとこちらに近づいてきた。
「この者たちはこちらで身柄を預かろう。近くで待機させた部下がすぐにやって来る。僕はそれを片付けてから合流するから、君たちは先に家に戻ってほしい。今ラドクリフ博士がここに来るから」
何事もなかったかのようにきびきび指示を出すジェフリーを見て、アガサはようやく頭が回るようになった。
「ラドクリフ先生? 彼を知ってるの?」
「元はと言えば、彼が連絡してくれたからね。それに、昔からの知り合いでもある。あれだけの人がこんな小さな町に隠居して、子供相手に教師をしているなんて驚いた」
アガサこそ驚くことばかりだ。ラドクリフ先生は、何度か会っただけのような口ぶりだったが、お互いよく知る仲らしい。高名な魔法使いという噂も本当らしかった。
「ママったらどうしたの? さっきから変だよ?」
不満げなタマラに袖を引っ張られ、アガサは、先ほどの質問にまだ答えてないことを思い出した。
「ああ、えっと、ごめんね……この人は……」
「お母さんやラドクリフ先生の古い知り合いだよ、マリゼにいた頃の。ジェフリー・ダウリングっていうんだ。よろしくね」
アガサが口ごもる間に、ジェフリーが先に挨拶をした。タマラの目線に合わせて膝を折り微笑んで見せる。タマラも、母の袖をつかむ手を緩めジェフリーを見つめた。
「あの……先ほどはありがとうございます。私たちを助けてくれて」
「いや、この辺を歩いていたら偶然出くわしたものだから。運が良かった。ええと、君は……」
「タマラと言います。タマラ・フォースター」
「そうか、タマラと言うのか。いい名前だね」
ジェフリーは、悲しそうに微笑みながらそう言った。その反応にタマラは不思議そうな顔をする。
間もなく、学校の方角からラドクリフ先生が息せき切って走って来た。そして、立ち止まるや否や、膝に手をついて呼吸を整えてから話しだした。
「よかった、危ないところだった。ジェフリーはさっきまで私のところにいたんだが、タマラの危機を察知して慌てて飛んで行ったんだ。いやはや、彼にしかできない芸当だよ……」
ラドクリフ先生の言うとおり、第六感としか言いようのないことでも、ジェフリーにとっては魔力の裏付けがあるのだろう。四大魔法の使い手は、どれだけ底知れない力を持っているのか、アガサには想像も付かなかった。
この後、アガサとタマラは、ラドクリフ先生に護衛される形で自宅へと戻った。その途中、薬局に立ち寄り鍵を閉めて閉店の看板を立てた。どうしても真っ二つに割れた楡の木が目に入る。だが、外の惨状は今はどうすることもできなかった。
薬局のすぐ近くにアガサの家がある。キッチンと居間の他には部屋が一つしかないこじんまりした家だが、母娘だけで暮らすには十分な広さだ。
仕事が忙しいので家の中はどうしても乱雑になりがちだ。予定外の客のために散らかった部屋を慌てて片付け、ラドクリフ先生にお茶を入れる。タマラには自分の部屋で休んでいなさいと伝えた。娘に聞かれてはまずい話をこれからしなくてはならないからだ。
ラドクリフ先生は、紅茶をひとすすりしてから、ゆっくりした口調で、しかし、最初から本題に入った。
「ジェフリーから聞いたよ。君たちは学生時代、恋人同士だったらしいね」
もうこの話題から逃れられない。アガサは胸に抱えた盆をぎゅっと握りしめ、震える声で答えた。
「ええ……一時期ではありましたが、周囲には内緒で付き合ってました」
「なぜ内緒に?」
「彼は当時から、大魔法使いになると期待されていたんです。私のような平民上がりの、何の特技もない娘と吊り合う相手ではありませんでした」
「君だって名門大学を出たじゃないか。吊り合わないなんてそんな――」
「マリゼには、私ぐらいの女の子は珍しくありませんよ。もっと美人で家柄のいい子がたくさん。それに、彼の家族や国が許すはずありませんでした。それくらい当時から、彼は特別な存在だったんです」
アガサは、つい苦笑いを漏らした。まだうら若い少女だった頃のコンプレックスがよみがえる。
ラドクリフ先生は、おそらく言いにくいことを言う時の癖なのだろう、鼻の頭を掻きながら口を開いた。
「その……タマラは君とジェフリーの……」
「そうです。彼との子です。もっとも、マリゼを去った時は、まだ妊娠には気づいてませんでした」
「なぜ去ったんだい? ジェフリーは君と結婚するつもりだったと言っていたが?」
「ハッ、本当にそんなこと言ったんですか?」
アガサは、相手がラドクリフ先生ということも忘れて冷たく鼻で笑った。ラドクリフ先生が目を見張ったのを見て、慌てて取り繕う。
「……すいません。でも信じられない。だって、彼に手酷い仕打ちをされたのに」
「仕打ち? 何のことだい?」
どうしようか、あれを言おうか。アガサは一瞬ためらったのち、意を決したように口を開いた。
「闇魔法で脅されたんです。当時、家からまともな相手との結婚を打診されていたから、私と別れたかったんでしょう。命に関わるほどではありませんでしたが、裏切られたと思わせるには十分でした」
当時の衝撃と悲しみを思い出して声が震えてしまう。闇魔法という言葉を聞いたラドクリフ先生も、顔色を変えた。
「待ってくれ。彼はそんなこと一言も――」
「自分が不利になることを言うわけがありません。でも、闇魔法を使えるのは彼だけでしょう? 光と闇は、四大魔法を極めた者だけが使えるんですから。疑いようがありません」
ラドクリフ先生は、言葉を失い固まった。彼の知るジェフリーは誠実で正直な人物なのだろう。アガサもそう信じていた。十年前、彼に裏切られるまでは。
「その……今の話は後で確認することにして……マリゼを去った後はどうした?」
「もう少しで大学を卒業できたんですが、辛すぎて田舎に帰りました。そこで妊娠を知ったんです」
そう、振り返るとあの頃が一番の地獄だった。父の名も明かせず、都会で堕落したふしだらな女というレッテルを貼られたアガサは、保守的な故郷にいられなくなり、極秘で出産した直後家を出た。
「まだ首も座らないタマラを抱えて、二人で死ぬしかないと思ってました。そんなとき、たまたまソルベリージュに立ち寄って、町の皆さんに親切にしていただいたんです」
ここまで話して、とうとうアガサは両手で顔を覆って泣き出した。もう克服できたと思っていたのに、思い出すとどうしても涙が出てくる。あの時の寂しさ、孤独、絶望がまざまざとよみがえり、今になっても彼女を苛む。そんな彼女を、ラドクリフ先生は痛ましそうに見つめた。
「そうか……それは大変だったね。私がここに戻ってきたのはそれから一年ほど経った後だ。その頃にはすでに薬局を開店させて、皆から信頼されていたね」
「大学は卒業できなかったけど、魔法薬師の資格は持ってました。それに、この町には他に薬局がなかったので……」
「そうそう、君の店は、住民にとっても大いに救いになった。ソルベリージュになくてはならない存在になった」
ラドクリフ先生なりに精一杯アガサを励ましてくれたのだろう。そんな心遣いを察して少し頬を染める。その時、玄関の戸を叩く音が聞こえた。
「ジェフリーが来たのかしら?」
「多分そうだろうが、まだ安心はできない。一緒に玄関まで行こう。それと――」
ラドクリフ先生は、いったん言葉を切って咳払いをしてから、再び話した。
「ジェフリーに対して遺恨はあるようだが、とりあえず今は脇に置いてほしい。タマラのことを第一に考えよう。君とタマラの処遇について」
「ええ、そうですね……分かりました」
ジェフリーの方も、アガサに対して質問攻めにしたい気持ちだろう。タマラの存在を知った時は度肝を抜かれたに違いない。今度は直接ジェフリーと対峙しなければならないのだと、アガサは改めて大きいため息をついた。




