第二十三話 過去編⑨私の宝物
久しぶりに自分の家に帰ってきたアガサは、部屋に入るなり灯りも付けず、着替えの入ったカバンをドサっと床に落とすと、そのままベッドに直行して頭から布団をすっぽり被った。
季節は冬の初め、古い監視塔を改築した部屋はとても寒々しい。食べられるものもほとんど残っておらず、このままではどうにかなってしまいそうだったが、自暴自棄になっていたアガサは一切頓着しなかった。
あれから学校もバイトも行かなくなった。食事もろくに取らず、昼も夜もずっと横になったまま。考えるのは、いつもジェフリーのことだった。
(婚約者がいるって本当……? そんなこと一言も言ってなかった。考えてみれば、職場の件も、大惨事ならばニュースになってもおかしくないのに。本当にそんな事件があったの? まさか、自然消滅を狙ったとか……私が故郷に帰ると言ったのがいけなかったの?)
ジェフリーに会えないのと、エルザに責められたことが重なって、アガサの精神と肉体はだいぶ参っていた。ずっと横になっているのに眠りが浅く、何を食べても吐くようになった。
(私このまま死ぬのかな……それならそれでいいや。痛いのは嫌だから眠るように逝きたい)
漠然とそんなことを考えるようになった頃、一人の訪問者がアガサの部屋を訪れた。彼女を訪ねる者なんてほとんどいない。ジェフリーだってこの場所を知らないはずだ。それでも、一縷の望みを持って、ヨロヨロ歩いて玄関に向かった。
「どなた…………あなた、アンディ? どうしてここが分かったの?」
そこに立っていたのは、ジェフリーの従兄弟のアンディだった。アンディは、すっかり衰えたアガサを見て、驚いた声を上げた。
「ジェフリーの家に行っても誰もいないから心配になって来てみたんだ。住所はバイト先の派遣会社から聞いた。伝票がジェフリーの家にあったのをみつけたから。それより――」
その時、アガサは急に立ちくらみを覚えた。アンディに支えられなければ倒れていただろう。
「どうしたの? すっかり痩せちゃって……病院に行った方がいいよ!」
「病気じゃないから大丈夫よ。ちょっと食欲がないだけ。何食べても吐いちゃうのよ」
「大丈夫なもんか! 悪いけど家に入らせてもらうよ!」
アンディは、アガサを支えながら、ベッドまで誘導してくれた。部屋が散らかり放題なのが恥ずかしい。しかし、彼は、そんなのは目もくれず寄り添ってくれた。
「ごめんね、何もお構いできなくて。部屋も汚いし」
「何言ってんだよ! 今それどころじゃないだろ! 本当に何もないの? ちょっと行って来る!」
アンディは、一旦部屋を出たあと、食料を買ってきてくれた。アガサを気遣ってか、消化のいいものを選んでくれたらしい。
「はいこれ……何でもいいから口に入れなよ。本当に参っちゃうよ」
彼から飲み物を受け取ると、目からポロポロと涙があふれ出す。もう涙なんて枯れ尽くしたと思っていたのに。
「もうダメ……このまま消えてしまいたい……」
「何があったの? ジェフリーはどこにいるの?」
「ジェフリーとはずっと会ってない。彼のお姉さんが来て……」
気づくと、アガサは、洗いざらいアンディに打ち明けていた。ジェフリーがいなくなった経緯。ずっと連絡がないこと。エルザが家に押しかけてきたこと。
「ジェフリーは別の人と結婚すると言ってた。本当なの? 彼、何も教えてくれなかった……アンディは何か聞いてる?」
「そういう話があるとは聞いてるけど、まだ決定したわけじゃないと思うよ」
「家柄のいいお嬢さんとただの田舎者の私では、初めから勝負はついてるわ。とても勝ち目なんてない――」
そこまで言うと、またざめざめと泣き出した。エルザから聞いた時は、そんなバカな話があるはずないと思ったのに、体調が最悪なせいか、時間が経つにつれどんどん悪い方向に考えてしまう。今となっては、すでに彼に裏切られた気分になっていた。
一方、アンディはアガサの話を聞いて、何とも言えない表情を浮かべた。
「まだ早まらないでよ。僕が直接会って――」
「ジェフリーは職場にこもってるの。いくらアンディでも会えない」
「それなら、彼の両親――叔父さんと叔母さんに僕から話をするよ。アガサは会ったことないでしょう?」
「ええ、ご両親とは……」
「叔父さんたちは、デイジーとエルザよりも話が分かるよ。僕がどこまで力になれるか分からないけど……」
「いいの、こうして話を聞いてくれるだけでも嬉しい。ありがとね」
涙ながらにアンディに礼を言うと、彼ははにかんだような笑顔を見せた。十四歳にしては大人ぽいが、やはり彼も年相応の子供なのだ。彼が来てくれてよかった。少しではあるが気が楽になった。
アンディは数日分の食料を置いて去って行った。その日の夜は久しぶりに眠れた。そのお陰で少し盛り返したのだろう。どん底から少し浮上して、ジェフリーが帰ってくるまで待っていようと思えた。
それを機に、体調は戻らないが、少しずつ動こうと頑張った。バイトは無理だが、学校に顔を出したり、ジェフリーの家の前まで行ったり。だが、やはり彼の姿は見えず、肩を落として帰る日が続いた。
決定的な事件が起きたのは、それから間もなくのこと。とあるニュースが世間を騒がせた。新聞の一面に「ダウリング家の嫡男、結婚秒読みか」という見出しが踊ったのだ。それを目にしたアガサは、持っていた荷物を落とし、その場に立ち尽くした。
(どういうこと? やっぱりあの話は本当だったの?)
目の前が真っ暗になり、その場に倒れそうになる。屋外で人の目もあるのでなんとか持ちこたえたものの、動悸がしてうまく呼吸ができない。その時、偶然、道行く人の会話が耳に入った。
「ダウリング家の御曹子カッコいいじゃない! 婚約者のお嬢様も美人でお似合いのカップルね!」
(信じられない。ジェフリーと付き合ってるのは私なのに。どういうこと? 本人から直接話を聞かなきゃ納得できないよ!)
それからどうやってジェフリーの家に行ったかは覚えていない。気づいた時にはドアの前に立っていた。
ドアノックにも反応なし。アガサは、持っていた合鍵で家の中に入った。エルザから「二度と出入りするな」と言われていたことは全く覚えていなかった。
ふらふらした足取りで入っていく。一見、前に出て行った時と変化ない。彼の名を呼びながら部屋と部屋を行ったり来たりとさまよい歩く。しかし、何の気配も感じられなかった。
「ジェフリー? いないの? まだ帰ってないの? 隠れてないで出てきて!」
頭の片隅では彼がいないのを認めつつも、どうしても納得できない自分がいる。彼から直接「大丈夫だよ」とたった一言言われれば安心できるのに。頼むから出てきてほしい。今すぐ会いたい。
その時、背後から一陣の風が通り過ぎた。髪の毛が焦げるような不快な臭い
が鼻をつく。これは何だと思う間もなく
、ぐわんぐわんとする耳鳴りで体がよろめいた。
「何なの、これ?」
ひどいめまいと耳鳴りでその場にしゃがみ込む。部屋がぐにゃりと歪み、ひどい臭気に吐きそうになるのを必死で抑える。そして、目に飛び込んできたのは――。
六歳。両親が馬車の事故で亡くなった。亡骸に縋りついて泣くアガサを祖母が引き剥がしていた。
十歳。友達に「この親なし」とからかわれ、誰とも遊んでもらえなかった。祖母も仕事で忙しく相談に乗ってくれない。寂しさを紛らわすかのように一人魔術書を読みふけった。
十五歳。魔法の成績がよく、教師に大学進学を勧められたが、「女は大学なんて行かなくていい」と祖母に咎められ、部屋で一人泣いた。後に奨学金の存在を知るまで失望の毎日を送る。
十八歳。閉塞感あふれる田舎を出て都会に来れば、バラ色の生活が待っていると思ったのに、現実は残酷だった。周りは、田舎者丸出しのアガサを見下すばかり。頼みの綱の魔法の才能も、ここでは自分より優れた人が少なくない。田舎では、わずかばかりの祝儀で、「魔法薬師になってご恩を返せ」と恩着せがましく送り出された。結局、どこにも自分の居場所なんてない。学業と生活のためバイトに追われる生活。
二十歳。初めて好きな人ができた。この人ならと全力で愛した。でも、彼には本命の婚約者がいた。所詮自分は遊びの相手。こんな後ろ盾のない自分が本当に選ばれるはずがない。今、彼は婚約者と会っている。婚約者の顔はよく見えないが、彼の方は、かつてアガサに向けていた優しい微笑みを、今は別の女性に投げかけている。愛おしそうに髪をなで、ゆっくりと顔を近づけ唇を重ね、さらに――
「やめて! やめて! やめて!」
かつて味わった苦い体験が、走馬灯のように眼前に広がる。全身から冷や汗が吹き出し、床に這いつくばってもめまいが治まらず、気が狂いそうになる。そして、最終的に未来の景色――ぞわっとするほどに現実味のある感触を覚えた。
(こんな魔法知らない……あるとすれば、まさか闇魔法!?)
結びつけたくないが、それしか考えられない。聞いたことのある闇魔法の特徴を、脂汗をかきながら必死で思い出した。
(教科書で見たことがある。五感に訴える苦しみという授業の説明とも合致する。闇魔法を使えるのはたった一人だけ)
自分で出した恐ろしい結論に愕然とする。まさか、ジェフリーが。
死の恐怖に匹敵する幻覚を見せる「錯乱」の術。ジェフリーがそれをアガサに使ったのだ。そうと悟ると、アガサの意識は却って明瞭になった。このままでは本当に死ぬかもしれないという本能が働いたのだろうか。
這った姿勢のまま、無我夢中で玄関へと逃げ出す。外へ出ると何とか立ち上がれるようになり、半狂乱になりながら、涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔を晒して走った。
(私そこまで恨まれるようなことした? 何がいけなかったの? 実家に帰ると言ったから? それとも最初から遊びだったの?)
その後のことは、来た時と同様よく覚えていない。とにかく、ありったけの荷物をまとめ、逃げるように故郷へと戻った。もう、ジェフリーのことなんて考えられない。大好きだった人から闇魔法をかけられ、裏切られたショックと怒りと悲しみで、これ以上マリゼにいると気が狂いそうになった。
故郷に戻ったのは、他に行くところがなかったからだ。大学もバイトも放り出して姿を現したアガサに、祖母は猜疑心を露わにした。そして、間もなく妊娠が発覚し、大騒動になった。
「勉強もしないで男にうつつを抜かして仕舞いに妊娠かい! これだから都会にやりたくなかったんだ、すっかり堕落して! しかも、父親のいない子なんて!」
祖母は、容赦なくアガサを折檻して責め立てた。一言一句、祖母の言う通りなので反論できない。おまけに、つわりがひどく体調も最悪、言われるままに自分は最低だと思い込んだ。
期待の星だったアガサが、父親を明かせない子供を妊娠したと村人に知られたら最悪だ。彼女は、家の外に出るのを禁じられた。その間、親戚の女性が世話しにきたが、どうしても完全に秘密にするのは難しかったようだ。
その間、アガサは針のむしろにいる心境だった。ジェフリーに裏切られ、故郷に戻っても祖母に罵られ、お腹が大きくなった自分の姿は恥だから人前に現れるなと言われる。
妊娠してから十ヶ月後、無事にタマラを出産する。もちろん、この時も秘密裏に行われた。出産自体は無事に終わったが、この後自分と娘はどうなるのか、皆目見当もつかなかった。
(ジェフリーが私に残してくれたのはタマラだけ……不思議ね、あんなひどい人の子供でも愛おしく感じる。この子を守れるのは私しかいない)
すやすやと眠るタマラの小さな手に自分の小指を握らせ、今後のことを考える。自分たちはどうなるのだろう。アガサはここで働かされるとして、タマラも一緒に暮らせるのか? ふと、そんな疑問が浮かんだ。
(まさか、よそに里子に出されるとか? でもあり得る、あのおばあちゃんなら)
アガサは怖くなって、親戚の女性に尋ねると、相手はしどろもどろになりながら明言を避けた。これで全てを確信した。
アガサは、産後のダメージから回復しきってない体を押して、タマラを抱え故郷を出た。まだ首の座ってないタマラと旅をするのは、想像以上に過酷だった。娘を守るつもりの行動が自殺行為に等しいと悟るまで時間はかからなかった。このままでは母娘共倒れ必至だ。
とにかく遠くへ行こうと何日か旅をして、偶然立ち寄った知らない町、ソルベリージュ。この街に着いた途端、アガサの体力が限界を迎えた。タマラを抱えたまま、ぷつりと意識が途絶え、雪の降る地面に倒れ込んだ。
「あれ……気がついたよ! 大丈夫かい! 赤ちゃんも無事だよ!」
次に気づいたのは、温かい部屋、ふかふかのベッドの上。いくつもの心配そうな顔がアガサを覗きこんだ。
「かわいそうに……何があったか知らないが、生まれて間もない赤ん坊を抱えて旅するなんてよほどのことに違いない。ここでゆっくりしていきなさい」
ソルベリージュの町の人たちは、故郷の人たちよりも優しく温かかった。心身共に回復したアガサは、恩返しをする意味も込めて、ソルベリージュに定住して薬局を開くことにした。奇しくも、この町も、医院や薬局がなく、魔法薬師の存在は大変重宝された。アガサは身を粉にして働いて、助けてもらった恩を返そうとした。そうやって忙しくすることで、ジェフリーにされた仕打ちを忘れようととしたのだった。
過去編はここまでです。ストックが尽きたのでお休みします。次は完結まで書けたら投稿再開します。




