第二十二話 過去編⑧住む世界が違う
結局、二人の将来についてじっくり話し合う機会は訪れなかった。なぜなら、この後、ジェフリーの身辺が急に慌ただしくなったからだ。
ジェフリーと言い合いをした後も、アガサのもやもやした気持ちは晴れなかった。それでも、お互い腹を割って話せば解決するだろうという考えはあった。しかし、ある日突然、そんな余裕を言ってられなくなったのだ。
この日も、アガサは、ジェフリーの帰りを待っていた。彼のために料理を勉強し始めて、普通程度には作れるようになった。鶏肉のトマトクリーム煮と温野菜のサラダはすでに完成していたが、いつもの時間になっても彼は帰ってこなかった。
仕事だから遅い日もあるだろうと思ったが、連絡がないとだんだん不安になってくる。二時間ほど遅れて帰宅した時はホッとしたが、それも束の間、彼の青ざめた顔を見て、ただ事ではないと察した。
「お帰り……遅かったね……」
「ごめん、帰ってきたわけじゃないんだ。着替えを取りに来ただけで、すぐに職場に戻らなきゃならない。しばらく家には帰れない。職場で寝泊まりすることになる」
「どうしたの? 何があったの?」
アガサは驚いて尋ねたが、ジェフリーは、硬い表情のまま唇を引き結んだままだった。
「ここでは何も言えない。ただ、のっぴきならない事態になったというだけで。僕は責任者だから現場を離れられない。ここにいつ戻れるかも分からない。悪いけど、アガサは好きにしてほしい」
「好きにして、って……主人のいない家に勝手に居座るわけにいかないよ!」
「アガサなら信用できるから大丈夫。僕がいなくても自由にしていいから」
何を無茶なことを言っているのだ。そこまで恥知らずなことはできない。ジェフリーがいなくなった家に居座るなんて……でも、今さら、あの住み心地の悪い自分の家に戻るのも……正直言って迷ってしまう。
アガサの戸惑いが伝わったのだろう、ジェフリーは早口で付け加えた。
「それならこう考えて。僕がいない間ここで留守を守ってくれ。その方が泥棒に入られる心配もないし安心できる。いいね?」
それだけ言い残し、彼は自分の部屋に行って、荷物をまとめ出した。セキュリティ万全の高級アパートに泥棒なんか入る隙はないのに、遠慮するアガサを安心させるために言ってくれたのだろう。今はそれどころではないのに、気を使わせてしまったことに気づき、アガサは申し訳なく思った。
その後、ジェフリーの衣類や洗面用具をまとめるのを手伝い、彼がいなくなった後は一人残された。まるで、つむじ風が部屋を通過していったような後味だ。
アガサはしばらく茫然としていたが、食卓に置かれた手付かずの料理にやっと気がついた。
「…………誰も食べないから捨てなきゃ」
一人呟くと、キッチンのゴミ入れに冷め切った料理を無造作に捨てた。
*
二週間ほど経過したが、ジェフリーは一度も家に帰ってくることはなかった。それどころか、連絡すらよこさなかった。アガサは職場にいる彼への通信手段を知らない。だから、向こうから何もなければ、連絡がつかないのと同じなのだ。
アガサがジェフリーの部屋に住み続けたのは、彼が最後に言ってくれたことが大きいが、ここにいれば、彼が帰ってきた時に真っ先に出迎えることができるからだった。
とは言え、ジェフリーのいない生活は、味気なく、色が消え失せ、心にぽっかり穴が空いたような心地がする。いつ帰ってきてもいいように部屋を整え、掃除も完璧にやったが、主人のいない部屋は、窓を閉めても隙間風が絶えないように思われた。
そんなある日、転機が訪れた。いつものように、魂が抜けたようにぼんやりとしていると、玄関の方から物音が聞こえてきた。
「ジェフリー? ジェフリーなの?」
アガサは取り憑かれたように立ち上がり、フラフラと玄関に走っていった。他に訪問者はいないから彼に違いない。そう信じ込んでしまった。前に一度痛い目を見ているのに。恋しさのあまり、脇が甘くなっていたのだ。
「お帰りなさい……あっ」
アガサは、目の前の人物を見て固まる。そこに立っていたのは二番目の姉エルザだった。
驚いたのはアガサだけではない。エルザも同じくらい、目を丸々と見開いて、アガサを穴の開くほど見つめた。一瞬、どういうことか意味が飲み込めなかったようだが、だんだん理解してきたらしく、嫌悪感をありありと顔に出した。
「あなた、確かこないだのパーティーで会った……アリスだっけ?」
「アガサです。ご無沙汰しています」
アガサは、平静を装って丁重な態度で答えた。相手にみくびられないようにするためだか、この程度の小細工では何の意味もない。
「どうしてあなたがジェフリーの部屋にいるの?」
「あの……留守番を頼まれまして。しばらく帰ってこれないからと」
苦し紛れだがまったくの嘘ではない。しかし、エルザは信じた様子はなかった。
「なるほど……そういう……いつからなの? 家に勝手に住めるなんて、ずいぶん信用されているのね?」
意地悪そうに口の端を上げて尋ねる様は、アガサを完全に下に見ているのだろう。何と思われても仕方ないという気持ちと、悪いことをしているわけではないのにという気持ちがないまぜになった。
「エルザさんこそ、どういったご用事で……」
「こっちが質問してるのよ、答えなさいよ!」
ぴしゃりと言われて体がすくむ。若くて人生経験も少ないアガサは、相手に強く出られたら、萎縮してなにもできなくなった。
「数ヶ月……くらい……」
「ハッ! よくそこまで隠しおおせたわね? ジェフリーはいつ帰ってくるの? 用があるんだけど?」
「知りません……仕事が忙しくてしばらく家に帰ってこないんです。いつ帰ってくるかも分かりません」
「はあ!? 新しい本の原稿を見てもらいたいのに、いつまでも返ってこないから、直接来たのよ! もういい! こっちでやるから!」
エルザはそう言うと、無断で部屋に上がり込み、ジェフリーの机を漁り出した。アガサが止めようものなら猛反発されただろう。アガサは黙って見守るしかなかった。
「こんなところにあった! 何これ、全く手を付けてないじゃない! あいつ何してたのよ!」
そもそも、弟をタダ働きさせる方がおかしいと思うのだが、もちろんそんなこと言えない。アガサは、部屋の隅で小さくなってガタガタ震えるだけだった。
「まったく……あんたみたいのと遊んでるから、すっかり堕落したのね。どうしようもないわ!」
「堕落だなんてそんな……! 毎日仕事で忙しかったんだと思います!」
アガサはここで初めて反論した。すぐさまギロリと睨まれ、しまったと悟る。すると、エルザは、せせら笑いながら、驚くべきことを言った。
「すっかり女房気取りのところ恐縮だけど、ジェフリーは近々、公爵家の令嬢と結婚する予定なのよ? あなたはそれまでの繋ぎに過ぎないの」
「嘘! そんなはずはありません!」
アガサは思わず声を上げた。将来について彼と口論したことを思い出す。別の女性がいたら、あんな話をするわけがない。
「どうして自信満々なの? あなたみたいのに本気になるわけないじゃない! まさか、自分が公爵令嬢と吊り合うとでも?」
エルザに笑われ思わず黙り込んでしまう。確かに正論だ。側から見れば、誰もがそう思うだろう。唇を噛むアガサを見て、エルザはさらに笑った。
「ちょうど両親が見合いの日取りを決めているところなの。でも見合いは形ばかりでほぼ決定でしょうね。本当に何も聞いてないの?」
「…………聞いてません。今はそれどころじゃないって――」
「仕事が忙しいなんてただの口実よ。あなたが煙たくなったけど、正直に言う勇気がないから遠回しに言っただけ。弱い子だからね」
「弱いだなんてそんな――」
アガサはジェフリーを弱いと思ったことはない。優しくて甘え上手ではあるが、嘘はつかない人だ。
「あなたも可哀想に。素直に信じてしまったのね。本命と結婚するからあなたが邪魔になっただけなの。大丈夫よ、まだ若いから、他に合う人がきっと見つかるわ」
「ふざけないでちょうだい!」
耐えきれず、アガサは顔を真っ赤にして叫んだ。
「ジェフリーはそんな人じゃない、私は彼を待ちます!」
「じゃあ、人んちに居座ってんじゃないわよ! 出て行かないなら通報するからね!」
泥棒呼ばわりされたアガサは、怒りと恥辱でガタガタと震え出した。泣くのを懸命に堪えるのが精一杯で何も言い返せない。
「相手のお嬢さんに知れたら大変だから、早く出て行ってね。あいつの私物を持ち去ったりしないこと。盗難予防魔法をかけとくから」
そう言い残してエルザは去った。一人になったアガサは、その場にぐずぐずと崩れ落ちしばらく嗚咽していた。悔しい、悲しい。家柄が違うからって、なぜここまで言われなければならないのか。
エルザに言われたからではないが、この一件ですっかり心が折れてしまった。ジェフリーから全く連絡がないのと、結婚話があると聞いて、疑心暗鬼になったのだ。アガサは、その日のうちに、荷物をまとめてジェフリーの家を出て行った。




