第二十一話 過去編⑦世界一幸せな私
薔薇色の朝焼けが、レースのカーテン越しに寝室に差し込む。目が覚めたアガサは、辺りを見回し、昨夜初めて自分の家に帰らなかったことを思い出した。少し首を伸ばして時計を探すと、時刻は六時半。わずかに身じろぎしたことで、彼女を抱える腕がぴくりと反応し、力を込めて引き戻される。まるで大事な宝物を抱え込むかのように、ジェフリーの胸の中にすっぽり収まる。この一連の行動が、無意識のまま行われているのだから面白い。
アガサは、上目遣いに、ジェフリーの寝顔を垣間見た。自分しか見ることのできない無防備な寝顔と色素の薄い長いまつ毛の美しさに見とれてしまう。直に彼の体温を感じながら、今この瞬間で自分ほど幸せな人間はいないと確信できた。
そっと腕を伸ばし、彼のプラチナブロンドの髪の毛を指にくるくると巻いたり、頭を撫でたりするうちに、再びうとうとする。次に目を覚ましたのは、九時近くになってからだった。
「おはよう、お寝坊さん。よく眠れた?」
ジェフリーは、下履きの状態でベッドから上がっており、上からアガサを見下ろした。本当はあなたより先に起きていたのよと心の中で反論したが、代わりに冗談ぽく睨んでやる。すると、彼は黙って、今朝の新聞を渡してきた。一面には、昨夜の豊穣祭の記事が載っていた。
「どうしよう、僕たち、新聞に載ってしまったね。女神と牧神の正体は未だ持って不明、だってさ」
ジェフリーが笑いを噛み殺しながら言うと、アガサも吊られて笑った。記事には、豊穣祭の女神と牧神に扮したアガサとジェフリーの写真が大きく載っている。顔がよく判別できないのは幸いだった。二人の正体が割れたら、周りは大騒ぎになるに違いない。
「正体が知れたら大変ね。まさか、牧神が天才魔法使いなんてね」
「しかも、女神と牧神が同じベッドにいるなんて大スキャンダルだよ」
そう言うと、ジェフリーはベッドサイドに腰を下ろして身を屈め、まだ横になっているアガサにキスをした。至近距離で顔を見合わせてふふっと笑ってからもう一度キス。そうやってもだもだしているうちに、あっという間に昼になった。
「どうしよう、午後から仕事だったんだ」
「早く用意しなきゃダメじゃない。ここは片付けておくから」
「でも大丈夫? 大学やバイトは?」
「バイトは入れてない。大学も少し顔を出せば平気よ」
「そう、それなら――今夜も泊まれる?」
おでこをコツンと合わせてジェフリーが尋ねる。その意味を察し顔が熱くなったが、アガサは小さな声で答えた。
「ええ、一緒にいよう」
それを聞いたジェフリーは、満足したような笑みを浮かべ、急いで支度をして家を出て行ったのだった。
*
それから数ヶ月間――振り返れば半年足らずだったが、その期間は人生で最も幸せな日々だった。この頃になると、冬の寒気で底冷えする自分の家にはほとんど帰らなくなっていた。衣類を持ち込み、大学やバイトもジェフリーの部屋から通う。彼の他には友人もいなかったので、交際関係を詮索される心配もなかった。
大学の単位は低学年のうちに粗方取ったので、学業は忙しくなく、バイトを減らしても生活の心配をする必要が無くなった。一見、いいことずくめに思えたが、仲が深まるにつれ、ある問題が浮上した。
「ねえ! 魔法薬師の試験合格したよ! 土属性以外の人が通るの珍しいんだって。これで一安心よ!」
アガサは、合格通知を見せびらかしながら、帰宅したばかりのジェフリーに報告した。大きな目標が達成できて喜ぶ彼女だったが、ジェフリーはどこか曖昧な笑みを浮かべただけだった。
「どうしたの? 職場で嫌なことでもあった?」
「そうじゃないよ……ごめん、おめでとう」
「なんか変だよ。隠さずに言って?」
てっきり一緒に喜んでもらえると思っていたアガサは小首を傾げた。ジェフリーが、奥歯に物が詰まったような反応をするのは珍しいことだ。理由を聞かずにはいられない。
「いやその……アガサはどう考えてるのかなって……これからのこと?」
「これからのこと?」
「大学を卒業したら、予定通り故郷に帰るの? そしたら、僕たち別れるってことだよね?」
言われてハッと気づく。愚かにも、それはずっと先の話だと考えていた。いや、無意識に現実から目を逸らしていただけなのかもしれない。二人の将来を真剣に考えるほど、アガサは大人になりきれてなかった。
「別れるわけないじゃない! 遠距離ってことになるけど、簡単に往復できる場所では……」
「僕がこんな立場でなければ、一緒に付いていきたいけど、さすがにそれは許されない。光と闇の魔法使いが魔法省を離れるのはありえない。悪いけど、アガサに譲歩してもらわないと……」
「でも、私は、村唯一の魔法薬師になるって約束したの。それと引き換えに大学に行かせてもらったんだから。おばあちゃんや村の人たちを裏切るわけには……」
アガサは、どうしたら良いか分からなくなりうつむいた。自分もジェフリーとずっと一緒にいたい。彼も同じ気持ちだと知れたのは喜ばしいはずなのに、とても素直に喜べない。
それに、一つ気にかかることがあった。ジェフリーは、前にもアガサの進路について疑問を呈したが、こちらの止むに止まれぬ事情に少し歩み寄ってくれてもいいのではないか。そう思い、疑問をぶつけた。
「ジェフリーは、私のこと、村のために未来を閉ざされた犠牲者だと思ってない?」
「だって、結果的にそうなってるじゃないか……こんなこと言いたくないけど……」
「それは違う。確かに制約はあるけど、故郷の後押しがなければ、大学に行けなかった。魔力があっても田舎には学ぶ場所がないの。宝の持ち腐れのまま終わってた可能性もあるんだよ。どうして私の立場を分かってくれないの?」
アガサは、ジェフリーの緑の目を見て真剣に主張したが、彼はまだ、迷いを捨てきれていないようだった。
「じゃあ、アガサは僕を捨てて実家に帰るの?」
「あなたを捨ててって……そんなこと言ってないじゃない!」
口にしたところで、それは詭弁だということに気づいた。故郷に帰るということは、ジェフリーと別れるのとほぼ同じ意味になる。本当にそんな事態になったら――少し想像しただけで、身の毛がよだつほど恐ろしくなった。
「ジェフリーと一緒にいたい……でもマリゼにはずっといられない……どうしたらいいの……」
一気に現実感が増して、取り乱すしかないアガサを、ジェフリーは優しくなだめてくれた。
「今結論を出す話じゃないから。ゆっくり考えよう。まだ時間はある」
アガサは黙って頷いたが、他にいい案があるとは思えなかった。その日も二人一緒のベッドに寝たが、いつもはぴったり寄り添うのに、お互い背を向けて横になって寝た。




