第十六話 過去編⑥一つになる
しかし、数日も過ぎると、再びジェフリーに会いたくなってしまった。夜寝るためだけに使っていた自分の部屋にずっといると心が寒々しくなる。一緒に話したりご飯を食べたりする相手がいないとこんなに違うものなのか。一人でも平気だった頃にはもう戻れないことを、アガサは悟ってしまった。
だから、ジェフリーから連絡があった時は、一目散に飛んで行った。我ながら、あまりにも変わり身が早いと思うが、ジェフリーを恋しく思う気持ちには勝てなかった。
「久しぶり。と言ってもまだ数日だけど……」
ジェフリーは、恥ずかしそうに頬を赤らめ挨拶した。周りを見ると、アガサがいなかった数日間だけで部屋が散らかっている。どうしてこいつは、片付けの類が全くできないのだろうか?
「今日は、マリゼのお祭りなの知ってる? できれば一緒にどうかなあと思ってさ」
「お祭りって、豊穣祭だよね? 市場の近くに屋台が出るんでしょ?」
「アガサは行ったことある?」
「ううん……そんな暇なかったから」
去年も、その前の年も、学校かバイトで埋まっていた。今年は、これでもジェフリーとの時間を作るために、バイトを減らしたのだ。だから、今もこうやって彼の家に来ることができている。
「そう! それなら今から一緒に行かない? 実は僕も初めてなんだ」
「ええ? ずっとマリゼに住んでいるのに?」
「小さい頃は、人混みを歩くのは禁止されていたし、今は仕事で忙しくて。でも、今年はアガサがいるから」
「奇遇ね。私もあなたと会うためにバイト減らしたの」
いつかジェフリーに言われたセリフをアレンジして返すと、意図が伝わったのか、彼もニヤリと笑みを浮かべた。そうなれば行動あるのみ。ジェフリーはいそいそと身を乗り出して、とんでもない提案をした。
「そうなんだ! 早速行こうよ! せっかくだから、女神の格好をしていかない?」
「私が? 豊穣祭の女神に?」
豊穣祭の女神は、建国神話まで起源を遡ることができる、国民なら誰でも知っている存在だ。四大魔法に因んだ装いに身を包み、民衆を導く姿は、さまざまな絵画や彫刻で表されている。何でまたそんな突拍子もないことを思いつくのか?
「せっかくの豊穣祭だし、アガサに似合うと思ってさ、女神と同じ赤毛でしょ?」
「でも、女神様の足元にも及ばないわよ、冗談言わないで!」
「冗談じゃないってば、僕は女神に傅く牧神になるよ」
国立博物館のロビーに飾ってある、「豊穣の女神と牧神」という有名な絵画がある。ジェフリーはそれをモデルにしているのだとアガサにも分かった。
ジェフリーは、及び腰のアガサにさっさと術をかけ、水の羽衣、風のマント、炎のティアラ、大地の靴を着けた豊穣の女神の装いに変えてしまった。どこかの童話に出てくる魔法使いのような鮮やかな手さばきである。そして、自分も牧神の格好になった。渦巻き形の角を生やし、上半身を露わにし、下半身は毛に覆われている。絵画では、女神の前に牧神が跪くポーズを取っているのだ。アガサは、彼の半裸の姿が直視できずたまらず顔を背けた。
(研究ばかりしてるくせに無駄にいい体してない? ダウリングの遺伝子はどこまで優秀なのよ!)
牧神のジェフリーは、アガサの手を取り、バルコニーへと誘った。ちょうど太陽が沈む頃合いで、西の空が朱に染まっている。どうやらここから出発するらしいが。
「まさか、バルコニーから飛び降りようって言うの?」
「アガサは風の使い手だから、空中散歩の術は知っているだろう?」
「え? ええ。でもまさか、ここから出発するの?」
「だって神様なんだよ? おとなしく玄関から出入りするわけないじゃない?」
そうは言っても、上下移動と違い、平行移動は、飛行船と衝突する恐れがあるので厳しく制限されている。ジェフリーのような特権階級でなければ、平行移動の許可はなかなか降りないのが現状だ。それを「僕と一緒だから大丈夫」と彼は一笑に付して、アガサの手を取り空中に飛び出した。
「わっ、うわわわっ! ひゃあ、飛んでる!」
「もしかして、実際に歩くのは初めて?」
「もちろんよ、だから、絶対に手を離さないでね!」
二人は、マリゼの町並みを眼下に見下ろし、空中を歩いていた。牧神のジェフリーが女神のアガサをリードしている。最初は緊張で全身がこわばっていたが、コツを掴めてくると、何もない地面を蹴る不思議な感覚や、頬をかすめる夜風の涼しさを味わえるようになった。
屋台が並ぶ通りが見えてきた。高度を下げると、地面にいる人も次第に気付き、二人に向かって指を差して何やら騒いでいる。皆の注目を一身に浴びるのは、思ったより嫌な感覚ではなかった。次々に上がる歓声が心地よくないと言ったら嘘になる。
二人がふわりと地面に舞い降りると、辺りから歓声と拍手が沸き起こった。歩くだけで、屋台から食べ物を振る舞われたり、知らない人から花束を渡されたりする。まるで、女神の加護にあやかろうとする民衆の姿だ。まさか、本物と思われてないよね? とアガサは内心冷や冷やしたが、ジェフリーは満面の笑みで愛想を振り撒き、気安く贈り物を受け取っている。こういうところ、肝が据わっているとしか思えない。
「ねえ、これ以上いると騒ぎが大きくなりそうだから、そろそろ離れよう?」
「ん? 僕はもう少しいてもいいけどアガサがそう言うなら。じゃあ、僕の手に捕まって」
ジェフリーは何の足がかりもないところから、ふわりと宙に浮かんで空に上がっていった。アガサは引っ張られる形になり、慌てて付いていく。周りの人たちが突然彼らが去るのを見て驚いたが、周囲の反応はお構いなしに、姿が小さくなる高度までどんどん上がっていった。
「はあーびっくりした。まさか、本物の女神様と勘違いされてないわよね?」
「分かんないよ? みんなすごく喜んでいたもんね?」
「もう! 冗談じゃないわよ!」
そんなやり取りをするうちに、ジェフリーの部屋のバルコニーに戻ってきた。空はすっかり夜の色に染まっている。祭りの喧騒から離れた場所まで来たが、先ほどの喧騒がまだ心の中に渦巻いている。普段は、人前で目立ちたがらない性格なのに、とんでもないことをしてしまった。終わった後で実感が湧いてきて、足元がガクガク震える。そんな彼女に、ジェフリーは朗らかに笑いかけた。
「すごくきれいだ。本物の女神様みたい。魔法が解けるなんてもったいない――」
「私も――おばあさんになっても今日のことは覚えてる。ありがとう、すごく楽しかった……」
魔法はだいぶ解けかかっていたが、気持ちが醒める兆しはなかった。アガサは万感の思いでジェフリーを見つめる。
元々整った顔立ちをしているが、今日はより引き締まって見える。いや、もしかして緊張しているのか? 彼の目を覗き込むと、瞳孔が開いているような気がした。
「あの……ジェフリー?」
「アガサ、どこにも行かないで。ずっとそばにいて」
そう言うと、ジェフリーは、熱に浮かされたようにアガサの体を抱きしめた。彼の熱が伝わってきて心臓の鼓動まで聞こえてくるようだ。それに呼応するかのように、アガサの心臓も早鐘を打つ。
しばらく二人の影は一つになっていたが、やおらジェフリーが頭を離し、アガサの唇に自分のを合わせた。感触を確かめるように何度も角度を変えて。彼女を包む腕の力は強くなるばかりだ。やがて、ジェフリーが苦しそうな声でアガサの耳に囁いた。
「その……いい? 寝室に行っても?」
アガサは黙って頷く。それが何を意味するか、経験のないアガサでも知っている。でも、彼の懇願を拒むなんてとてもできない、なぜなら自分も同じことを望んでいたから。そして、二つの影はバルコニーから部屋に吸い込まれ、窓が閉まった。
豊穣の女神の装飾のうち、水の羽衣と風のマントはドラクエ由来です!がっつりドラクエ世代です!




