第十話 昔とは違う
一度思いをぶつければ気持ちの整理がつくと思っていたアガサだったが、事態はもっと複雑化した。何せ、ジェフリーが事実関係を認めようとしないのだ。何を聞いても知らないと言い張り、終いには取り乱してしまう。これでは収拾がつかない。
アガサの部屋は、彼女が好きなペールバイオレットを基調とした内装になっていた。まさか自分の好きな色を彼が覚えてくれたのだろうか? そんな思い上がったことを考えてはいけないと一人被りを振る。
ホテルのような上等な部屋で休むなんてと緊張したのは最初だけ、いろんなことがあり過ぎてすぐに寝入ってしまった。カーテンから漏れる朝の光で目が覚める。布団から出たくないと、もぞもぞ体を動かしながら、ゆっくり目が覚めるのを待つ。すると、昨夜のやり取りをおもむろに思い出した。
(やっぱり情けなんかかけるべきじゃなかった。十年分の恨みがこんな簡単に消えてたまるもんですか!)
改めて考え直したら、怒りがふつふつとよみがえる。一言言ってやらなきゃ気が済まないと肩を怒らせながら一階に降りたが、ジェフリーを見た途端、彼の憔悴しきった顔を見たら再び怒りがしぼんでしまった。
あれから自分はぐっすり眠ってしまったというのに、彼は一睡もできなかったのだろうか。びっくりして言葉を失っていると、彼がおずおずと切り出した。
「お、おはよう……初めての場所だけどちゃんと眠れた?」
「人の心配をしてる場合じゃないわ、目にクマができてるじゃない! 全然眠れなかったんじゃないの?」
「大丈夫だよ、これは毎日忙しくしてるせいだから、いつものことだ」
ジェフリーは、取り繕うような笑みを浮かべながら、一杯のココアを飲んだきりで仕事に出てしまった。結局、アガサはオロオロして彼を見送るしかできなかった。一人になってから、こんなはずじゃなかったのにと反省するがもう遅い。
ジェフリーは嘘がつける人間ではない。付き合った期間は長くないが、それだけは言える。アガサよりも彼のショックの方が大きいのは明らかで、怒りを露わにしたくても、あんな状態の彼を見たら振り上げた拳を下ろさざるを得ないではないか。一体どうすればいいのか、アガサの心は千々に乱れた。
とは言え、なす術もなく毎日が過ぎていく。数日経ったある日、早速親戚一同にタマラを紹介する席が設けられることになった。
ジェフリーの姉、デイジーとエルザには一度会っている。例えるなら、シンデレラの意地悪な姉のような人たちだ。パーティーで陰口を叩かれたことをアガサは覚えていた。
そんな人たちにタマラを会わせないといけないのか。自分はともかく、タマラには惨めな思いをさせたくない。アガサは、ダウリング家の実家に行く日程を告げられると、浮かぬ顔で窓のところに移動して、景色を眺めるふりをした。
「タマラを見せるのがそんなに心配? うちの両親は悪い人じゃないよ。アガサのことも歓迎してくれると思う」
「子供は確かに大事よね? でも私は? あなたの才能を引き継いだ優秀な子を出産した論功行賞くらいはもらえるのかしら?」
「そんな曲解しなくても……」
「だって、私は十年前に火遊びした相手だと思われてるんでしょ?」
「火遊びだなんてそんな! 僕は本気だった!」
「本気ならなぜ――」
アガサは、ついかっとなってジェフリーに向き直り声を上げたが、我に返り深呼吸して気を鎮めた。アガサの前ではいい家族でいようと言ったのは自分なのに、これでは先が思いやられる。
「とにかく、ご家族の皆さんは私をそう思ってるだろうってことよ。特にお姉さんたちは……」
「あのパーティーのことかい? もう姉たちには好き勝手なことは言わせないよ」
「違う、私だけなら別に平気。でもタマラに同じことがあったら……あの子はまだ子供だし、それが心配なの」
アガサの心配事を聞いて、ジェフリーも形のいい眉をしかめる。そして、静かだが確信を込めた声で言った。
「アガサもタマラも僕が守る。僕も十年前とは違うってところを見てほしい」
今度はアガサが目を丸くする番だった。本当に信じていいのだろうか? ふっとなびきそうになり、慌てて被りを振る。
(こんな簡単に解消されるなら、この十年間は一体何だったの? お人よしにも程があるわよ! 信じられれば楽になれるのは分かってる。でも、でも……)
悶々と迷う間に、ダウリング家の実家に行く日がやってきた。タマラにもよそ行きの服を着せて三人で車に乗り込む。
アガサは十年前にここに来ているが、もちろんタマラは初訪問である。アガサ以上に世界を知らないタマラは、まるで十年前のアガサのように目を白黒させて辺りを見回した。きっとここが王様の住む宮殿だと言ったら信じてしまいそうだ。
「パ……パパの実家ってこんなにすごいお家なの? ソルベリージュの家なんて、ここの玄関ホールより狭かったよ?」
「こらっ、タマラ! 何言ってるの!」
慌ててアガサがたしなめる。ジェフリーもタマラの言うことを聞いて苦笑いしたが、おそらく「パパ」の発音が言いにくそうだったからではないかとアガサは推測した。
ここに来る時の車内でも、タマラはアガサにぴったりくっ付き、ジェフリーとは間隔が空いていた。父親と言っても、つい最近まで赤の他人だったのだから当然だが。こういった細かいところで、彼はいちいち傷ついているのだろうか。
とにかく、これから足を踏み入れる場所は、タマラにとっても未知の世界である。ダウリング家だけではない。学校も付き合う人々も、属する社会階層ごとがらりと変化するのだ。娘にとってそれがいいことなのか、アガサにはいまいち自信が持てなかった。




