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第一話 ささやかな幸福が贅沢になる日

「ママ、さっきからいい匂いがしてるんだけどまだぁ?」

「待ってて、今ちょうどできたとこだから――お皿に移したらできあがりよ」

「早くしてよー! もう待ちきれないよ!」


 アガサは、フォークを持ちながら地団駄を踏む娘のタマラをなだめつつ、両手にミトンをはめてオーブンを開けた。狭いキッチンの中に甘い香りがふわっと広がる。湯気と共に出てきたのは三つの焼きリンゴだ。天板の上でジュクジュクと音を立てる様は、見ているだけで涎が出そうだ。


 果物の甘酸っぱさの中に、砂糖が焦げたキャラメルとバターの香りが混じって、否応にもテンションが上がる。焼き加減もちょうどいい。料理が苦手なアガサでも、これは何度も作ったから、目をつぶって作っても失敗しない自信がある。


「いっただきまーす! うーん、おいしい!」

 

 娘のタマラが満面の笑みを浮かべながら食べる姿を見ると自然に笑みがこぼれる。普段は仕事が忙しくて寂しい思いをさせているから、たまの休みにはめいいっぱい甘やかしてやりたいと思う。


「タマラ、学校は楽しい?」

「うん! 魔法を覚えるのすっごく楽しい! こないだ水の魔法が使えるようになったよ! これで全種類制覇! 火、土、水、風、全部できる人って珍しいんでしょ? 大人でも無理ってラドクリフ先生が言ってた!」

「う、うん……そうね……普通は一つの属性しか持たないからね。ママも風以外はできないわ」


 キラキラと目を輝かせながらこちらを見るタマラに、アガサは苦笑いするのが精一杯だった。てっきり手放しで褒めてもらえると思っていたであろうタマラの表情がにわかに曇る。アガサは慌てて話題を切り替えた。


「そ、そうだ。もう一個お代わりする?」

「本当にいいの? ママも食べたくないの?」

「あなたのために三個焼いたのよ。ママは一個で十分よ」


 それを聞いたタマラは、再び顔を輝かせた。

 

「じゃあちょうだい! ママが作る料理の中で一番好き!」


 興味が焼きリンゴに戻って、密かにほっとする。優秀な娘を褒めたい気持ちは山々だが、アガサにはそうできない事情があった。


 通常、魔法の才能は親から遺伝することが多い。タマラの能力は、母から受け継いだものではなかった。アガサだって魔法薬師として十分優秀な技能を持っているのだが――。


(抜きん出た才能なんて要らなかったのに。どうして私に似てくれなかったのかしら)


 幸せなひと時のはずなのに、心の中に暗雲が立ち込める。アガサはふるふると頭を横に振って嫌な考えを追い出そうと努めた。


(大丈夫。私は一人でもうまくやれている。誰の手も借りずにタマラを育ててみせるわ)


 そんな母の気持ちなど露知らず、タマラは二個目の焼きリンゴを頬張っていた。



 アガサが営む薬局はソルベリージュという小さな町の外れにある。大きな楡の木が目印で、その横にある掘立て小屋のような建物がそれだ。吹けば飛ぶような小さな店だが、自分の力で一から作り上げた城という自負が彼女にはあった。


 町に一軒しかない薬局はいつも忙しい。朝からひっきりなしに来る客をさばくうち、いつの間にか太陽が地平線の下に隠れていることに気づいた。そろそろ店じまいをして家に帰らないとと思いかけた時、カランコロンという音と共に入り口のドアが開いた。


「すいません、まだ大丈夫かな?」

「これはこれは、ラドクリフ先生、タマラがいつもお世話になっております」


 中に入ってきたのは、タマラの学校の担任のラドクリフ先生だった。元々王都で魔法の研究をしていたが、高齢で引退してからは、故郷のソルベリージュに戻り、小さな子供相手に教鞭を取っている。噂によると、王都にいた頃はかなり名の通った魔法使いだったらしい。アガサは丁寧に頭を下げて日頃の感謝を伝えた。


「いやね、たまたまこの近くを通ったものだから……ずいぶん繁盛しているようだね。もう九年かい?」

「ええ、タマラが生まれて間もない頃ですから、そのくらいになりますね」

「赤ん坊を抱えながら店を開くなんて大変だっただろう?」

「いいえ、皆さん助けてくれたので。店の準備からタマラの面倒までお世話になって……私はただ魔法薬を調合していただけです」

「それでも大変なことには変わらんよ……若いのに大したもんだ……」

「ありがとうございます。私こそ、乳飲み子を抱えたよそ者に優しくしていただいて、感謝しかありません」


 アガサが赤ん坊のタマラと共に見ず知らずの町に来たのは、確か小雪が舞っていた寒い日だった。当時の寄る辺なき気持ちは二度と味わいたくない。あれから九年、みんなに助けてもらいながらここまで来ることができた。


「タマラもあっという間に大きくなったね。学校でも良くやってるよ」

「ラドクリフ先生のお陰です。娘も魔法の勉強が楽しいようです。毎日元気に学校に通ってくれて嬉しい限りです」

「うん、そのことなんだがね……」


 ラドクリフ先生が床に目を落とし、鼻の頭を掻きながら切り出したのを見て、アガサは小首を傾げて問い返した。


「何か気になることでも?」

「タマラは実に優秀な生徒だ。私がこれまで見た中でも有数の――いや、誰よりも抜きん出ている。全ての四大元素魔法を操れる人物なんて、私が知る限り、他に一人しかいない……」


 ラドクリフ先生がここまで言ったところで、アガサはその続きを察してしまった。思わず身をこわばらせる彼女をよそに、先生が続ける。


「ジェフリー・ダウリングという魔法使いを知ってるかい? 四大魔法を使えるのは現代では彼を置いて他にいない。私も会ったことがあるが、まだ若いのにすでに歴史に名を残すほどの実力の持ち主だった。もしかして、君はダウリング家の人間では――」

「いいえ、違います。全く関係ありません」


 アガサは食い気味に早口で答えた。言ったでしまったと気付く。血縁を否定したら、他に考えられることは一つしかないではないか。


 ラドクリフ先生も、もう一つの可能性に気付いたようだ。見る見るうちに硬い表情になりじっと黙り込む。これは何かを悟った顔だ。


 どうしよう、何か言わなければとアガサが頭を巡らせているうちに、彼が口を開いた。


「アガサ、よく聞いて。こういうのはいつまでも隠し通せるものではない。タマラの才能は国の宝だ。四大魔法を習得した者は、光と闇の魔法も使えるようになる。そうなれば、禁忌の術とされている死者の蘇生術すら可能だ。ジェフリー・ダウリング一人だけでもすごいのに、その上、タマラまでとなると……後は分かるね?」

「ええ、ええ……よく分かります……でも、あの人には会いたくないんです。どうかお許しください」


 アガサは両手で顔を覆いながら、全身が震えるのを抑えられなかった。動揺するあまり、自分の過去をほのめかしたことすら気づかない。ラドクリフ先生はそれには触れず、淡々とした口調のまま続けた。


「国を揺るがすほどの能力だ。邪な野心を持つ者にとっては、喉から手が出るほど欲しがるだろう。その上タマラはまだ幼くて操りやすいと来ている。よからぬ者に狙われたら……そうなったら、こんな小さな町では守りきれない。なるべく早く国に保護を求めて……」

「保護を求める代わりに国から監視されるってことですよね? それじゃ『よからぬ者』たちと何が違うんですか?」


 顔をがばっと上げたアガサは、気づくと自分でもびっくりするほどの声を上げていた。発してからしまったと思ったが時すでに遅し。


「ごめんなさい、その……そんなつもりじゃないんです。ただ、どうしたらいいか分からなくて……タマラと二人で静かに暮らしたいだけなのに……」

「分かるよ。私も脅かすようなことを言って悪かった。だが、タマラが心配なんだ。このまままっすぐ育ってほしいが、この土地では難しいかもしれん。最悪のことが起きる前に手を打っておかないとと思って、相談しにきた」


 おろおろと取り乱すアガサに、ラドクリフ先生は優しく語りかけた。確かに彼の言う通りだ。タマラは只者ではない。こうなりそうな予感は前からあった。ただ、現実から目を逸らしたくて、何も気付いていない振りをしていただけだ。そんなおためごかしもいよいよ通用しなくなったと、アガサは認めるしかなかった。

 

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