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短編集(令嬢とかざまぁとか…)

王太子妃の座は妹に譲ります。私は辺境でスローライフを送りたいので

作者: 雪月火

朝の光が差し込む公爵家の広大な一室で、マネエールは既に一日の準備を終えていた。

背筋を伸ばし一分の隙もない姿勢で鏡の前に座る彼女の姿は、まるで精巧な磁器人形のようだった。

侍女のニナが、静かな手つきで最後の仕上げとして髪に小さな真珠の飾りを挿す。


「マネエール様、本日も息をのむほどお美しいです」


ニナが心からの賞賛を口にするが、マネエールの表情は変わらない。

彼女は鏡の中の自分を、まるで他人であるかのように冷静に見つめている。


「ありがとう、ニナ。時間通りね。すぐに王宮へ向かいます」


「はい。馬車の準備は整っております」


マネエールは静かに立ち上がると、書斎机へ向かう。

そこには、山と積まれた書類が整然と並べられていた。

隣国との貿易に関する協定案、王宮の予算編成に関する資料、慈善事業の計画書。

これらはすべて、本来王太子であるローレンツが目を通すべきものだが、彼はそのほとんどをマネエールに丸投げしていた。

彼女は数枚の書類に目を通し、淀みない筆致でいくつかの修正点と意見を書き加えていく。

その処理能力は、並の文官を遥かに凌駕していた。

彼女が公務をこなしている間、ニナはそっとテーブルの上に一杯のハーブティーを置いた。

カモミールとミントの優しい香りが、緊張感の漂う空気を和らげる。


「…ありがとう」


マネエールは初めて、ほんの少しだけ口元を緩め、カップを手に取った。

彼女にとって、この時間は唯一の安らぎだった。

王宮の広大な庭園の、誰も訪れない片隅に、彼女は小さな薬草畑を秘密裏に作っていた。

土に触れ、薬草を育て、その効能を調べ、ブレンドを考える時間だけが、彼女を「完璧な公爵令嬢マネエール」という役割から解放してくれるのだった。

ニナや他の侍女たちが体調を崩した際には、彼女はこの薬草畑で摘んだハーブでお茶を淹れてやった。

侍女たちはそれを「マネエール様の魔法のお茶」と呼び、心身ともに癒されると密かに感謝していたが、マネエール自身はその評判を知る由もなかった。

彼女にとって、それは誰かのためであると同時に、自分自身の心を守るためのささやかな儀式に過ぎなかったのだ。


王宮の廊下を歩くマネエールの耳に楽しげな笑い声が届いた。

声のする方へ目を向けると、中庭のテラスで、婚約者であるローレンツが妹のシマナと親密に語らっている姿があった。

シマナはローレンツの腕に甘えるように寄りかかり、その表情は幸福に輝いている。


「まあ、ローレンツ様ったら、お上手ですこと!」


「君の笑顔を見ていると、政務の疲れなど吹き飛んでしまうよ。…それに比べて、私の婚約者はいつも氷の人形のようだ。公務は完璧にこなすが、あそこには心がない」


ローレンツの声は、マネエールに聞こえることを全く意に介していない。

それは意図的な侮辱だった。

周囲の貴族たちも、その様子を遠巻きに見ながら、同情的な視線をシマナに、そして嘲笑をマネエールに向けている。

マネエールは何も言わず、ただ軽く会釈をしてその場を通り過ぎようとした。

その時、シマナがわざとらしく声を上げた。


「あっ、お姉様…!ごきげんよう」


彼女はローレンツの腕の中から離れると、マネエールのもとへ駆け寄った。

その瞳には、うっすらと涙が浮かんでいる。


「お姉様、先日の夜会でわたくしが着ていたドレスのこと、まだお怒りですの?わたくし、お姉様のように完璧ではないから、ついマナーを間違えてしまって…。でも、あんなに皆の前で厳しく叱らなくても…」


事実無根の話だった。

シマナが夜会で犯した作法違反は王家の名誉に関わる重大なものだったため、マネエールは後で二人きりの時に静かに丁寧に注意しただけだ。

しかし、シマナはそれを「皆の前で受けた屈辱」にすり替えていた。

ローレンツが、シマナを庇うようにしてマネエールの前に立ちはだかる。


「マネエール!まだ妹をいじめるのか!そなたの完璧さは、人を傷つけるための武器でしかない。シマナの優しさ、慈愛の心こそ、未来の国母にふさわしい。そなたにはその欠片もない!」


ローレンツの言葉は刃のように鋭く、マネエールの心を抉るはずだった。

しかし、彼女の表情は凪いだ湖面のようだった。

彼女はただ、目の前で繰り広げられる稚拙な茶番を観察していた。

傷つくことも怒ることもない。

なぜなら、彼女の心はもはやここにはなかったからだ。

彼女の心は遠い北東の辺境の地に飛んでいた。

書物でしか見たことのない、広大な大地。

そこで土を耕し、薬草を育て、誰の目も気にすることなく静かに暮らす。

その夢だけが、彼女を支える唯一の希望だった。

この息苦しい鳥かごから解放される日を、彼女はただひたすらに待ち望んでいた。


公爵家に戻ったマネエールを、心配そうな顔でニナが出迎えた。


「マネエール様、お帰りなさいませ。…王宮でのこと、耳にいたしました。お気を落とされませんように」


「大丈夫よ、ニナ。いつものことですから」


マネエールは淡々と答え、自室へと向かった。

部屋に入ると、ニナは周囲に人がいないことを確認してから、声を潜めて告げた。


「マネエール様、恐れながら申し上げます。侍女たちの間で噂が…。次の、国王陛下が主催される建国記念の夜会にて、ローレンツ殿下が、シマナ様を伴って…その…マネエール様との婚約破棄を宣言なさる、と」


ニナの声は震えていた。

公衆の面前での婚約破棄。

それは、貴族令嬢にとって死刑宣告にも等しい最大級の侮辱だ。

彼女は、主人がどれほどの屈辱を受け心を痛めるだろうかと、自分のことのように胸を痛めていた。

しかし、マネエールの反応は予想外のものだった。

彼女は驚きも悲しみも見せず、ただ静かに窓の外を見つめた。

そして、ゆっくりと振り返ると、その顔には、ニナが今まで一度も見たことのない、晴れやかな、歓喜に満ちた微笑みが浮かんでいた。


「…そう。ついに、その時が来るのね」


その声は、安堵のため息のように聞こえた。

ニナが呆然とする前で、マネエールは鍵のかかった机の引き出しに手を伸ばした。

中から取り出したのは、一冊の分厚い革張りのファイル。

表紙には、彼女の美しい文字でこう記されていた。


『北東辺境地域における生活基盤確立及び薬草栽培事業計画書』


「え…?マネエール様、それは…?」


「私の、本当の夢よ」


マネエールはファイルを愛おしそうに撫でた。

中には辺境の地の気候、土壌の分析、栽培可能な薬草のリスト、生活拠点の設計図、必要な資金計画、法的手続きに至るまで、ありとあらゆる情報が詳細に書き込まれていた。

何年もかけて、公務の合間に独学で調べ上げ、練り上げてきた彼女の人生そのものだった。


「ニナ、心配してくれてありがとう。でも、私は絶望なんてしていないわ。むしろ、この日をずっと待っていたの」


マネエールは、計画書の最後のページを開いた。


「第一章:王太子妃の座の円満な譲渡と辺境地所有権の獲得について」。


そこには、婚約破棄の際に、いかにしてローレンツに慰謝料としてあの「不毛の地」を要求させるか、そのための交渉術まで記されていた。

彼女はペンを手に取ると、夜会のシナリオの最終チェックを始めた。

絶望のヒロインを演じる必要はない。

ただ事実を述べ、彼らの愚かさを際立たせ、そして自分の望みを確実に手に入れる。

そのための最後の仕上げだった。


「ようやく、この鳥かごから出られる。王太子妃でも、公爵令嬢でもない、ただの私として生きられる」


彼女の瞳は、未来への希望にきらきらと輝いていた。




* * *




建国記念の夜会は王国の権勢を象徴するように絢爛豪華を極めていた。

シャンデリアの光が磨き上げられた大理石の床に反射し、着飾った貴族たちの宝石が眩いばかりにきらめいた。

マネエールは純白のドレスに身を包み、壁際に静かに佇んでいた。

その姿は周囲の華やかな喧騒とは一線を画し、まるで氷の彫像のように凛としていた。

やがて楽団の演奏がクライマックスに達すると、ぴたりと止んだ。

会場のすべての視線がホールの中央へと注がれる。

そこには王太子ローレンツが、涙を浮かべたシマナの手を固く握って立っていた。


「皆、静粛に!今宵、我が王国の未来に関わる重大な発表がある!」


ローレンツの声が静まり返ったホールに響き渡る。

彼はシマナを優しく抱き寄せると、憎しみに満ちた視線をまっすぐにマネエールへと向けた。

貴族たちは息をのみ、これから始まるであろう破滅の劇を期待と不安の入り混じった目で見つめた。

マネエールはその視線のすべてを一身に受けながらも、表情一つ変えなかった。

彼女はただ主役の登場を待つ観客のように、静かに舞台を見上げていた。


ローレンツは壇上からマネエールを指さし、糾弾の言葉を吐き出した。


「マネエール・フォン・アルティエール公爵令嬢!そなたに告ぐ!」


彼の声は怒りと自己陶酔に震えていた。


「そなたは己の完璧さばかりを追い求め、未来の国母たる者に最も必要な慈愛の心を欠いていた!あろうことか、心優しく天真爛漫な妹シマナの純真さを妬み、陰湿に虐げ続けてきた!その証拠にシマナは毎夜、そなたの冷たい仕打ちに涙しておる!」


シマナはその言葉に合わせてか弱くしゃくりあげ、ローレンツの胸に顔をうずめた。

会場からは彼女への同情のため息が漏れた。


「さらに!」


ローレンツは続けた。


「そなたはこの私を、一人の人間としてではなく、ただ王太子という地位でしか見ていなかった!そなたの助言は常に正論だが、そこには私を案じる心など微塵もなく、ただ己の知識を誇示するだけだった!もはやそなたのような感情のない人形に、私の隣に立つ資格はない!」


ローレンツは高らかに宣言した。


「よって私はそなたとの婚約をここに破棄する!そして真に民を愛し、私を支えることのできる女性、シマナ・フォン・アルティエールを私の新たな婚約者として迎えることをここに誓う!」


万雷の拍手が二人を祝福するかのように巻き起こった。

すべての目が罪人として断罪されたマネエールに突き刺さる。

誰もが彼女が泣き崩れるか、あるいはヒステリックに叫ぶ姿を想像していた。

しかし彼女はただ静かにその場に立っていた。


拍手が鳴りやむのを待って、マネエールはゆっくりと一歩前へ出た。

彼女の動きには一切の淀みがなく、その背筋はどこまでもまっすぐに伸びていた。


「ローレンツ殿下。お言葉、確かに拝聴いたしました」


その声は驚くほど冷静で、ホール全体に明瞭に響き渡った。


「まず、私がシマナを虐げたという件についてですが」


彼女はまるで講義でもするかのような落ち着いた口調で続けた。


「私がシマナに指導いたしましたのは、未来の王太子妃の義姉として王家の作法についてのみでございます。その日時、内容、シマナの習熟度に関する記録はすべて教育係の元に保管されております。後ほどご確認いただければ、そこに私の私情が挟まる余地などなかったことをご理解いただけるでしょう」


会場がざわめき始める。

次にマネエールはローレンツに視線を向けた。


「次に、私が殿下を地位としてしか見ていないとのご指摘。それは先月、殿下が隣国との新たな貿易協定に署名されようとした際、私が反対したことを指しておいででしょうか?」


ローレンツの顔がさっと赤く染まった。


「あの協定には、我が国の主要輸出品である毛織物に対し、相手国にのみ有利な関税率が設定されておりました。短期的な利益と引き換えに長期的には国内の織物産業に壊滅的な打撃を与える、著しく不平等な条項です。私がその危険性を指摘した報告書は今も殿下の執務室の机の上にございますが、お読みいただけましたでしょうか?」


マネエールの完璧すぎる反論は、ローレンツの告発がいかに感情的で私怨に満ちた根拠のないものであるかを満天下に示していた。

ローレンツは言葉に詰まり、


「貴様、私に恥をかかせる気か!」


と声を荒らげるのが精一杯だった。

シマナは予想外の展開に顔を青くしていた。

貴族たちの視線はもはや同情ではなく、ローレンツとシマナへの困惑とマネエールへの畏敬へと変わっていた。


場が騒然とする中、マネエールは自らこの茶番に幕を引いた。


「ですが殿下のお心が既に私にない以上、この婚約に意味はございません。謹んで婚約破棄を受け入れさせていただきます。シマナ、あなたと殿下の未来に神のご加護があらんことを」


彼女は深々と頭を下げた。

そして顔を上げると、予想外の要求を口にした。


「慰謝料としましては金品や宝飾品の類は一切いただきません。ただ一つお願いがございます。王家が所有されております、北東辺境の『穢れた土地』。あの一帯を私に下賜いただきたく存じます」


その言葉に会場は再びどよめいた。

あの土地は作物が全く育たず、魔獣が出ると噂される不毛の地。

誰もが見向きもしない、何の価値もない場所だった。

ローレンツはマネエールが屈辱のあまり正気を失ったのだと確信し、侮蔑の笑みを浮かべた。


「よかろう!そんなゴミのような土地でよければくれてやる!二度と我々の前に顔を見せるな!」


「ありがたき幸せに存じます」


マネエールはその場で身につけていた王家から贈られた豪奢なネックレスとイヤリングを静かに外した。

それを近くの侍従の盆の上に置くと、凛とした声で言った。


「これらの豪奢な品々は新たな王太子妃殿下にこそふさわしいでしょう。私にはこれから手にする土と種があれば、それで十分ですので」


虚飾と欺瞞に満ちた王宮で、物質的な豊かさに何の未練も見せない彼女の姿はそこにいた誰よりも気高く自由に見えた。

その夜、屋敷に戻ったマネエールを待っていたのは父であるアルティエール公爵の怒声だった。


「家の名誉に泥を塗りおって!もはやお前は私の娘ではない!今すぐこの家から出ていけ!」


勘当を言い渡され屋敷を追い出された彼女を、門の外で待っていた人物がいた。

大きな荷物をまとめた侍女のニナだった。


「マネエール様。わたくしどこへ行かれようとも生涯お仕えいたします」


涙を浮かべながらも決意に満ちたニナの言葉に、マネエールの心は温かくなった。

たった一人、しかし何よりも心強い味方。

王都での全てを清算し、マネエールは希望に満ちた辺境への旅の準備を始めたのだった。




* * *




王都の喧騒を背に、一台の簡素な馬車が北東へと向かっていた。

乗っているのは、マネエール、ニナ、そして護衛として王家からあてがわれた騎士ラルフ・ヴァレンシュタインの三人だけだった。

ラルフは、近衛騎士団の中でも将来を嘱望された若手だった。

しかし、今回の任務は、彼にとって紛れもない左遷だった。

「婚約破棄され、勘当された落ちぶれ令嬢の厄介払い」。

上官からそう告げられた時の屈辱を、彼は忘れていなかった。

御者台に座る彼の背中は、不満と絶望を雄弁に物語っていた。


「ヴァレンシュタイン騎士。少し休憩にしませんか。馬も疲れているでしょう」


馬車の中から、マネエールの静かな声がかけられる。


「…御意」


ラルフは短く答え、手綱を引いた。

彼はマネエールに対して、意図的に距離を置いていた。

無礼にならないぎりぎりの線で、必要最低限の言葉しか交わさない。

彼女の存在そのものが、自分の失墜の象徴であるかのように感じられたからだ。

マネエールはそんなラルフの態度に気づいていたが、何も言わなかった。

彼女はニナと共に馬車を降り、近くの小川で水筒に水を満たす。

その所作は、公爵令嬢であった頃と何ら変わらず、優雅で落ち着いていた。

ラルフは、そんな彼女の姿を横目で見ながら、この退屈で無意味な旅が早く終わることだけを願っていた。


旅が始まって数日後、一行は山間にある小さな村に立ち寄った。

しかし、村の様子は明らかにおかしかった。

家々は静まり返り、道行く人々の顔には疲労と不安の色が濃い。

村長に話を聞くと、村ではひと月ほど前から原因不明の熱病が流行しており、多くの村人が高熱と咳に苦しんでいるという。

村に一人いる薬師も既にお手上げの状態で、麓の町から医者を呼ぶ金もない。

村は絶望的な空気に包まれていた。

ラルフは「我々には関係のないことだ。長居は無用」と判断し、早々に出発しようと促した。

しかし、マネエールは彼の言葉を制した。


「ラルフ、少しだけ時間をください。私に、何かできることがあるかもしれません」


「あなたに?元公爵令嬢に医者の真似事ができるとでも?」


ラルフは思わず、皮肉めいた言葉を口にしてしまった。

マネエールは彼の無礼を咎めることなく、静かに村の周辺の森へと入っていった。

ニナが心配そうに後を追う。

ラルフは舌打ちしながらも、護衛の役目を果たすために仕方なくそれに続いた。

森に入ったマネエールは、まるで庭を散策するかのように、次々と足元の草を摘み始めた。


「これはウィローバーク。解熱作用があります。こちらはエルダーフラワー。発汗を促し、熱を下げる助けになる。そして、このマーシュマロウの根は、咳を鎮めるのに有効です」


彼女は、ラルフやニナにはただの雑草にしか見えない植物の名前と効能を淀みなく説明していく。

その知識の深さは、専門の薬師でも及ばないほどだった。

村に戻ったマネエールは、村長に許可を得て、摘んできた薬草を正確な分量で大鍋で煎じさせた。

村人たちは半信半疑だったが、藁にもすがる思いでその苦い液体を飲んだ。

翌朝、ラルフが目を覚ますと、村が昨日とは打って変わって活気に満ちていることに気づいた。

病人たちの熱は引き、咳も治まっていたのだ。

村人たちはマネエールの前に集まり、涙ながらに感謝の言葉を述べていた。


「女神様だ…!」


その光景を目の当たりにしたラルフは、愕然としていた。

自分が「落ちぶれた令嬢」と侮っていた女性は、卓越した知識と深い慈愛の心を持った、尊敬すべき人物だった。

彼は、自分の浅はかさを深く恥じた。

さらに、その後の旅でも、ラルフの驚きは続いた。

悪天候で道が土砂崩れで寸断された際には、マネエールが古い地図にも載っていない獣道を、地形と星の位置から正確に割り出して一行を安全に導いた。

彼女の行動は常に冷静で、知識に裏打ちされ、人々への深い優しさに満ちていた。


その頃、マネエールが去った王都では、少しずつ、しかし確実に綻びが生じ始めていた。

ローレンツの執務室は、マネエールが毎日片付けていたはずの書類で溢れかえっていた。

彼はどこから手をつけていいのかもわからず、ただ頭を抱えていた。


「シマナ、この外交文書の意味がわかるか?砂漠の国、アルザハラ王国からだ」


ローレンツが泣きつくと、シマナは美しい文字で綴られた異国の言語を見て、首を横に振るだけだった。


「まあ、ローレンツ様。こんな難しいこと、わたくしには…。それより、次の夜会で着るドレスを選びに行きませんこと?」


シマナは王太子妃の華やかな部分にしか興味がなく、地味で骨の折れる公務からは逃げようとした。

ローレンツも彼女を甘やかし、問題は先送りされていく。

マネエールは、アルザハラ王国の若き王女と個人的に親交が深く、頻繁に手紙をやり取りしていた。

その繊細な関係性によって、王国は希少な香辛料や薬品を安定して輸入できていたのだ。

しかし、マネエールからの返信が途絶え、代わりに王太子府から送られてきた儀礼的な、そして内容の薄い書簡に王女は気分を害した。

結果、両国の関係は急速に冷え込み、重要な交易品の輸入が滞り始めた。

市場では物価が高騰し、民衆の間に不満の声が上がり始める。

さらに、王宮の庭園では、誰もが自慢にしていた色とりどりの薔薇が、次々と輝きを失い、枯れ始めていた。

マネエールが公務の合間に趣味で行っていた、季節ごとの繊細な剪定や、土壌に合わせた肥料の配合といった手入れが途絶えたことが原因だった。

美しかった庭園の荒廃は、王宮全体の活力の喪失を象徴しているようだった。


旅の途中、野営の準備をしていると、ラルフは意を決してマネエールの前に進み出た。

彼はまっすぐに彼女を見つめ、騎士の礼を取って深く頭を下げた。


「マネエール様。私は、あなた様という方を全く理解しておりませんでした。私のこれまでの無礼な態度、心よりお詫び申し上げます。このラルフ・ヴァレンシュタイン、これよりは一人の騎士として、あなた様に心からの忠誠を誓います。この命に代えても、あなた様をお守りいたします」


その言葉に、嘘はなかった。

マネエールは静かに微笑んだ。


「顔を上げてください、ラルフ。あなたの忠誠、確かに受け取りました。これから、頼りにしています」


その微笑みは、ラルフが今まで見てきたどんなものよりも温かく、美しかった。

一方、王都では、ローレンツとシマナが、自分たちの足元で静かに、しかし確実に広がっていく亀裂に、まだ気づかずにいた。




* * *




王都に未曾有の危機が訪れていた。

隣国との交易港から持ち込まれたと思われる咳と高熱を伴う未知の流行り病が、瞬く間に市井に広がり、ついには王宮の城壁をも越えて侵入したのだ。


病は身分の上下を問わず人々を襲い、宮廷内でも侍女や兵士、果ては大臣までもが次々と病床に伏した。

王宮の侍医たちは総出で治療にあたったが、あらゆる薬が効果を示さず為す術がなかった。

死者も出始め、王都全体が恐怖と絶望に覆い尽くされていく。


「どうなっているんだ!まだ有効な治療法は見つからないのか!」


ローレンツは侍医たちを怒鳴りつけた。

しかし彼の怒声は自らの無力さと焦りの裏返しでしかなかった。

具体的な対策を打ち出す知恵も、パニックに陥る人々を鎮める指導力も、彼にはなかった。


隣に立つシマナは青ざめた顔でハンカチを目に当て、ただおろおろと泣くだけだった。

彼女が夢見た王太子妃の生活は、華やかな夜会と人々の賞賛に満ちたものだった。

国を揺るがす危機に立ち向かうなど想像したことすらなかった。


「ローレンツ様…どうしましょう。わたくし、怖くて…」

「泣いている場合か!少しは妃らしく、どっしりと構えられんのか!」


ローレンツは八つ当たりするようにシマナを怒鳴った。

二人の間にはかつてのような甘い空気はもはや存在しなかった。


王宮内が混乱を極める中、病に倒れた同僚を看病していた一人の年配の侍女がふと何かを思い出したように呟いた。


「そういえば…マネエール様は、わたくしたちが少しでも体調を崩すと、いつも庭の薬草でお茶を淹れてくださいました。喉が痛い時にはこの葉を、熱がある時にはこの花を、と…。あのお茶を飲むと、不思議とすぐに良くなったものです」


その言葉は暗闇に差し込んだ一筋の光だった。

藁にもすがる思いの侍女たちがその言葉を侍医長に伝えた。

侍医長は、王太子妃候補であった令嬢の「お茶」にどれほどの効果があるか半信半疑だったが、他に試すべき手立てもなくすぐに例の薬草畑を調べるよう命じた。


かつてマネエールが手入れをしていた王宮の庭園の片隅。

そこは彼女がいなくなってから誰にも顧みられず、雑草が生い茂っていた。

しかしその雑草の中に、まるでこの時のために残されたかのように、数種類のハーブが青々と力強く茂っていた。


侍女たちの記憶を頼りに、侍医たちはウィローバーク、エルダーフラワー、マーシュマロウ、そして免疫力を高めるエキナセアなどを特定し、指示された通りの配合で煎じ薬を作った。


「こんなありふれた薬草で、本当に効果があるのか…」


侍医の一人が疑念を口にしたが、他に選択肢はない。

完成した薬を重篤な症状の患者たちに飲ませた。

すると奇跡が起こった。

翌日にはあれほど苦しんでいた患者たちの熱が下がり始め、数日後にはほとんどの者が快方へと向かったのだ。


マネエールが何気なく残していった知識の欠片とささやかな善意が、国を滅ぼしかねない危機から救う特効薬となったのだった。


この一件は瞬く間に国中に知れ渡った。

「国を救ったのは、追放された元王太子妃の知恵だった」と。

人々は自分たちがどれほど愚かであったかを思い知った。

彼女の完璧さを「冷たい」と嘲笑し、その努力を正当に評価せず追い出したのは自分たち自身だ。

そして今、その彼女の知識によって命を救われた。


賞賛の声はそのままローレンツとシマナへの痛烈な非難へと変わった。


「国母たる器を見抜けなかった王太子に、この国を任せられるのか」

「新しい妃殿下は、ただ泣いているだけではないか」


公然と囁かれるようになった非難の声に、ローレンツとシマナの権威は完全に失墜した。


そんなある日、打ちひしがれるシマナの元に小さな小包が届けられた。

差出人は、旅立つ前のニナに託されていたマネエールからのものだった。


恐る恐る包みを開けると、中には分厚いノートと一枚の短い手紙が入っていた。

ノートには、王太子妃がこなすべき年間の公務、各国の要人たちの人となりや好み、外交儀礼における注意点、慈善事業の運営方法など、ありとあらゆる情報がマネエールの美しい文字で几帳面に記されていた。

それは誰が見ても完璧な引継ぎ書だった。


そして、手紙にはこう書かれていた。


『シマナへ。あなたの幸せを心から願っています。あなたらしいやり方で、その場所で輝いてください。 姉、マネエールより』


それは姉としての最後の情けであり、訣別の言葉だった。

自分を陥れた妹に対し恨み言一つ書かれていない。

ただそこには圧倒的な格の違いと、もはや自分たちは違う世界に生きる人間なのだという静かな宣告だけがあった。

シマナはノートを抱きしめてその場に崩れ落ち、声を上げて泣いた。




王都の騒動など露知らず、マネエール、ニナ、ラルフの三人は長い旅の末、ついに目的の北東辺境の地に到着していた。

馬車を降りた彼女たちの目の前に広がっていたのは、噂に聞いた「穢れた不毛の地」ではなかった。

人の手が全く入っていない広大な草原。

遠くには鬱蒼とした豊かな森が広がり、その間を縫うようにして太陽の光を浴びてきらきらと輝く小川が流れている。


「…なんて、美しい場所…」


マネエールは思わずため息を漏らした。

空気がおいしい。

王都の澱んだ空気とは比べ物にならないほど澄み切っている。

土からは力強い生命の匂いがした。

人々が噂した「穢れ」などどこにもなく、あるのはただ生命力に満ち溢れた手つかずの雄大な自然だけだった。


彼女はゆっくりと大地に膝をつき一握りの土を手に取った。

その黒々とした豊かな土の感触を確かめる。


(間違いないわ。この土地は強いマナを秘めている。だから普通の作物は根付かず、魔力を持つ薬草にとってはこれ以上ない楽園になる)


偽りのヒロインの座を降り追放され全てを失ったはずだった。

しかし彼女は今、世界の全てを手に入れたような晴れやかな気持ちでいた。


「ここから、私の本当の人生が始まるのね」


マネエールが立ち上がって呟くと、その隣でニナとラルフが穏やかな笑みを浮かべて頷いた。


「はい、マネエール様!」

「我々が、お供します」


信頼する侍女と忠誠を誓う騎士。

かけがえのない仲間と共に自分のための人生を歩み始める。

希望に満ちた彼女の顔を、辺境のどこまでも優しい太陽が照らしていた。

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