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1話 鎧を纏った女

赤子が訳もわからず泣くように。

 犬が何かを感じて吠えるように。

 大雨がコンクリートの地面を打つように。


 荒波カエデは泣き喚き、自身を写す鏡にヘアアイロンを投げた。


 「あああああああああああっ!なんでっ!なんで!!!」

 「カエちゃん、落ち着いて。止めようやこんなこと。落ち着いて、落ち着いて......」


 彼氏の佐々木コウキはカエデを後ろから強く抱きしめる。しかし、カエデは腕の中で暴れることを止めなかった。力強く、太い腕に巻き付かれた体をこれでもかという程捻る。それは、「折れてもいい」という自暴自棄の意思を感じる行動だった。


 「一生懸命、身体売って……その結果がこれって、なんなん……?なあ、なんなんこれ……!」


 カエデの拳に握られているのは、指先ほどの大きさしかない、血塗れの小さなプラスチック片だった。どこかのクリニックで「自然に高く見えるしダウンタイムも無い」と謳われた、安っぽい隆鼻用のインプラント。鼻先からは赤黒く染まった糸のようなものが垂れ、皮膚は不自然に腫れ、まるで別人の顔だった。

 

 彼女が大粒の涙を流し、声を枯らしながら叫ぶのは痛みを訴えているのでは無い。もっと深く、カエデにしか分からない痛みだ。


 「こんな顔じゃ出勤もできひん....。再建手術するのにもまた借金。合わせたら一千万超えてまうよ」

 

 コウキは何も言えず、ただカエデが腕の中で静まるのを待つことしか出来ない。それは優しさでもあり、"逃げ"の選択肢でもあった。


 所謂整形失敗。勿論、返金はされない。リスクを説明された上で同意書を記入しているからだ。異様に見た目にこだわり、毎日開店から閉店まで風俗で働き続ける生活を三年。最小返済金額で元金の減らない借金を返済しながら、また整形をしようと働いて貯めていた金。買い物依存症の所為で、それ程出勤していても貯まっている金は十万円。

 

 「カエちゃん。止めよう、もう。こんなの、カエちゃんがしんどいだけだよ......」

 「じゃあどうやって借金返済すんの?あんたが働いてくれんの?あんたが働いてよ......」


 喚き疲れたカエデは静かに訴えた。

 鼻声で、震え、掠れた声を聞くと彼女の辛さが棘のように刺さる。自分の愛する彼女が壊れてしまった過程を全て見てきたコウキからすると、同情しか無い。意を決して、答える。


 「......分かった。働くよ、俺。今の仕事が夕方に終わるから、夜から別のバイトでも......」

 「ふざけんなっ!!」


 カエデは少し緩まったコウキの腕を力尽くで解き、振り返ると力一杯頬を叩いた。小さな七畳のリビングに、痛々しい破裂音が響き渡る。コウキと暮らして四年。いつからだろうか。そこは談笑が似合う静かな部屋だったのが、気付けば怒鳴り声、泣き声、乾いた打撲音が似合う部屋に変わっていた。


 コウキは言葉に表せない、締め付けられるような思いを胸に閉じ込める。


 「お前が風俗やれよ。今あるやん?女性用風俗って。お前もやってみろよ!分かったふりばっかしやがって!私のこと好きっていうならやれよ!ただのバイトでなんの助けになんねん!」


 ああ、始まってしまった。

 

 身体醜形障害、摂食障害、躁うつ病、境界線パーソナリティ障害、愛着障害、反社会性パーソナリティ障害、アルコール依存症。

 

 連れて行った幾つもの精神科で診断されたカエデの病気。治してやろうとしても、カウンセリングは彼女のプライドが邪魔をして通わず、結局薬に頼るしかできなかった。しかし、薬も意味を為さず、処方されればされる程「病気だって馬鹿にしてるんやろ」と怒鳴られる始末だった。


 彼はただ、時間が過ぎるのを待つことしかできない。嵐に包まれる中、心は静かだった。


 その沈黙が、すべてを語っていた。

 壊れていたのは、カエデだけではなかった。


---3ヶ月後---


「辞めんの?」


 女性風俗店員の通称・リサ先生は目を丸くして驚いた。決して派手な化粧ではないし、特別美人でも無いが、どこかエロスを感じるのは長年の風俗プレイヤー経験者の賜物なのだろうか。

 

 「......辞めます。もう限界なんです」


 数百万掛けて変えたカエデの鼻は更に数百万を掛けて整形前の鼻に戻っていた。

 

 店内を包む流行りのJ-popが彼女の苛立ちと不安を募らせる。嫌というほどこの店で聞いた曲ばかりで嫌気がさす。リサの奥の壁に見えるのはランキング表。三位にカエデの源氏名である「マキ」の名は載っているが、一位は親友のルナだ。ランキング表を見ると胸が騒つく。


 薄汚れた事務所の備品や、染みついた匂いが、カエデの心をじわじわと侵していく。


 「おいおい......。どうしたん?久々に出勤したと思ったら。むっちゃ泣いてるやん。外でよ、煙草吸おう」


 そこに居るだけで涙が流れてしまうのは、彼女の心が限界だという表しだった。

 リサは、カエデが潰れてしまう一歩手前まで来ていることに気づいていた。


 リサに言われるがままに鼻を啜らせながら事務所外にある螺旋階段に二人で座り込む。


 風俗をして三年目。三年間、カエデが毎日心を折りながら働き続けられたのはこうしてリサが煙草を吸いながら気の済むまで愚痴を聞いてくれていたからだった。


 「ほんで、何があったんよ」

 「......もう、色々限界なんです。ほんまに辞めたい。ほんまは飛ぼうと思ってました。けど、リサ先生には挨拶しときたくて来ました」

 「ほーん。言いたくないことなら言わんでええ。気にはなるけどな。でも、あんたお金大丈夫なん?」

 「無理ですよ。お金なんて全くないです。借金も全然減ってない......。やけどもうこの仕事はしたくないんです」

 

 凍えるような冬の空気に、二人の吐き出した煙草の煙がゆっくりと滲んでいく。白く霞んだ息と煙が交わるたび、カエデの心は穏やかになる。常に"マキ"という源氏名で呼ばれる中、本名の"カエデ"と呼んで欲しいと頼んだのはリサだけだった。


 「普通の仕事にすんの?」


 リサから出たその言葉に、カエデは背筋が凍る。


 「......やらないです。というか、出来ないです。普通の仕事の給料なんかでお金返されへん。月に最低でも五万、元金減らそうと思ったら六万以上は返して行かなあかん......。うち中卒なんで、中卒給料じゃとても返されへん」


 情けない返答に穏やかな心は焦りに変わっていく。聞かれることは分かっていたけど、回答を用意できていないままだった。きっと、"何も決まってないなら頑張って働き続けるしかない"と思われているに決まってる、そう思った。


 なによりも、弱音を吐くこと自体が間違いなのは自身で感じていた。己の安易な選択、甘えた生活の上で今この人生を送っている、そう言い聞かせていたのだ。


 「ほんなら、あんたも店員やってみぃや」

 「え?」

 「私と同じ、風俗店員。プレイヤー程はそりゃ稼げないけど、普通の仕事よりも給料はええよ。その分、めっちゃブラックやけどな」

  

 ハハッとリサは悪戯に笑う。

 リサの言動と笑みにカエデは呆気に取られてしまった。


 「プレイヤー続けろって言わないんですか?」

 「なんで?カエデがもう限界なのは伝わってるもん。自分の人生を送りたいのも伝わってる。やったらこの選択が一番いいと思うけど?」


 女性風俗店員......。

 心の中で、繰り返し呟く。三年間、店員、特にリサと深く関わってきた。どんな仕事内容かもある程度想像は出来ていた。


 驚くほどすんなりと、カエデはその提案に頷いた。もう、他に選べる道が残っていないのだと、静かに悟っているかのように。


 「店員なって、あんたみたいに苦しんでる子、助けてあげぇや。それに風俗店員って一般企業と違って年功序列なんてない、学歴も関係ない。完全実力世界。頑張ればすぐに幹部にやって上がれるで」

 「幹部って......」

 「なれるよ、カエデなら。プレイヤーの苦しみも、店員の苦労もあんたはよく知ってるやん。まあ、いっぺんやってみ」


 木枯らしが吹いていたカエデの人生に、一縷の光が差し込んだ瞬間だった。


---5年後---


「あっ、あの......。面接を予約した"御堂"という者なのですが」


 目の下に黒い隈。肌は青白く、痩せこけた身体。スーツはだらしないことに少し大きく毛玉だらけ。

 まるで、“死に損なった誰か”みたいなその男は、今日から働くことになる御堂マモルだ。


 「あぁ。面接の人。どうぞ」


 案内をしてきたのは意外にも女だった。

 プレイヤーか?いや、スーツ着てるし...珍しい、と男は戸惑う。


 男の戸惑いは、それだけでは無い。


 柔らかい緑色の壁と茶色の床。所々に置いてある造花や観葉植物。"風俗の事務所"と呼ぶにはあまりにも似合わない、清潔感の溢れる空間に加えて柔らかさを感じる事務所。間違えてデザイナーの職場にでも来てしまったのか、と一瞬勘違いしてしまう程だった。


 面接室に案内する、と女に手引きされるがままに事務所の奥へと進むとなにやら騒がしい笑い声や話し声が聞こえてくる。鼻からは食欲をそそる何かが焼けている匂いがしてくる。男は二日間、食欲が無くて食事を摂っていなかったのに久しぶりに空腹を感じた。

 

 「あ、あの、これは一体......」


 視界に広がるその状況に、唖然とする。


 「ん?タコパ」

 「タコパ......」


 風俗という業界に初めて足を踏み入れた男は、陰湿な世界を想像していたのに、まるで高校生の休み時間のような光景に驚いた。恐らく"プレイヤー"の女性達が満面の笑みでたこ焼きを作っているのは男にとって"異様な光景"だった。


 「あの、店長さんは......」

 「私ですけど。店長の"カエデ"です」

 「店長さん、なんですね......」


 その女は風俗店長と呼ぶにはあまりにも若く、何よりも美しかった。現役プレイヤーと言われる方がしっくりくる、そう思った。 

 女性という事実に動揺を隠しきれず、始終オドオドとした頼りない態度をする男は更に戸惑ってしまう。


 「あの、すみません。なんでタコパなんですか?」

 「なんでって、楽しいやん」

 

 それはそうかもしれないけど、と疑問が脳内を巡る。


 「風俗嬢やって息抜きしたいし、楽しく仕事したいんよ。ただでさえ湿気の多い世界なんだから」


 満面の笑みでそう言う彼女は、女性風俗店長のカエデ。風俗業界の人間に、光を与える存在だ。


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