血と涙と鼻水
「由美ちゃん……」
ジジイは呆然としている。怒りに任せたお絹が力いっぱい頭をバンバン踏み鳴らし、血がタラリと流れてもジジイは呆然としている。
ピッチョンがハンカチを取り出し、ジジイのデコに垂れた血を拭き拭きしている。そのハンカチで今度はジジイの両目を拭いたあと、目を潤ませて全員を見渡した。
「どうしたらいいのでしょう……」
亀吉が腕組みをして唸り声を上げた。
「うむむっ……ジャックさんは到着していないと、少しの時間稼ぎはしたものの、今は全く打つ手がない。この数分でなんとか打開策を見つけなくては……こうしちゃおれん」
亀吉はスクッと立ち上がるとズンズン歩き出し、両手で勢いよくバーンと襖を開いた。
「諸君、大至急作戦会議だ!」
浪花節の声を合図に、オヤジ警官たちは威勢よく立ち上がった。
亀吉警視総監を筆頭に、上層部の警官たちはかんかんがくがくと議論をしている。俺とジジイとピッチョンは、座敷から熱い議論を眺めていた。
「どうしたジャック? さっきから何も言わねえな。こええのか?」
ジジイが俺の顔を覗き込んだ。ピッチョンが厳しい顔で、「そんなこと言ってはいけません」と叱りジジイを睨みつける。
「どうしたもこうしたもないですよ、大神様。僕がジャックさんと同じ立場なら、一刻も早く逃げ出したいです。でもジャックさんは逃げないでここにいる。とても偉い方だと尊敬します。無責任なことを言ってはダメです」
更に厳しくキッと睨みつけると、ジジイは伏し目になり申し訳なさそうにデコを掻いた。
「すまねえ……」
ジジイは叱られた子供のような上目づかいで俺を見る。お絹は丸い目を潤ませて見ている。ピッチョンは悲しそうに微笑んで見ている。
俺は一人一人見つめ返すと、ニヤリと笑って見せた。
「まっ、しょうがねえな。俺一人の命より、九十人以上いる人質の命の方が遥かに重いからな。それによ。あんな気の強い由美子に、ごめん、て言われてやらなかったら、ヒーローとして面目が立たねえからな」
ジジイとピッチョンは、「えっ」と目を丸くし、お絹は目ん玉がこぼれるほど目を丸くしている。ジジイは俺の目をジッと見つめて呟いた。
「おめえ、行く覚悟ができたのか」
「ああ、グチグチ考えてたってしょうがない。ヒーローは人助けしなきゃな。俺、ミラクルジャックは、ヒーローだぜ」
俺は親指をグッと立て、ヒーローポーズを小粋に決めた。
そんな精一杯の強がりを見せてはいるが、立てた親指は震えている。親指の震えどころではなく、胃が痙攣して今にも食べたそばを吐き出しそうだ。今までに味わったことのない恐怖心で、心も体も押しつぶされそうだ。だが、気の強い由美子が「ごめん」と俺に謝っている。人質を助けてくれと言っている。
ここで逃げてしまったら、ヒーロー云々なんてことよりも、この先男として恥ずかしくて生きていけない。
ピッチョンはポロポロと涙をこぼし、親指を立てた俺の手を両手で包みこんだ。
「ジャックさん、あなたは本当にカッコいいです……ビエ~ン」
ピッチョンはビエンビエンと声を上げて泣き出し、ジュルジュルと音をたてて鼻水を垂らした。お絹は興奮していつも以上に激しく、そして豪快に、ジジイの頭をバッコンバッコン踏み鳴らす。皺くちゃにしたジジイの顔は血と涙と鼻水で、この世のものとは思えないほど汚らしい感じになっている。
ビエンビエンの泣き声と、バッコンバッコンの打撃音を聞いて、作戦会議中の警官が一斉に振り向いた。
「どっどうしたのですか?」
亀吉がギョッとした顔で座敷に来た。
「うううっ、きゃめこ~っ……」
ウサギが頭の上で豪快に飛び跳ね、血と涙と鼻水をダラダラ垂らすジジイがそばに近づくと、亀吉は顔を引きつらせて後ずさりする。それでもジジイはお構いなしに近づく。
「きいきぇくれ、きゃめこう。ビヤックのやりょうが、ヒクッ……ビャックのやりょうが、ヒクッ……いぎゅって、いぎゅっていいやぎゃるんじゃよ、ヒクッ、ヒクッ」
グチャグチャになったジジイでは、何を言ってるのかわからない。ピッチョンはビエンビエンと大泣きしているのでお話にならない。お絹では論外。しょうがないのでヒーロー自らが言う。
「人質を助けに、ナマナマララゲの所に行きます」
「ええっ、ちょっと待ってく――」
『ギョエーッ、ギョエーッ』
バッコン! バッコン!
ピッチョンとジジイの泣き声と、お絹が頭を踏み鳴らす音で、亀吉のあとの言葉が聞こえなくなってしまった。




