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悪魔の目

 鼻毛をむしるヒーローもどうかと思うぞ、と言おうとした時、いきなり消えたピッチョンが目の前に現れた。なぜか、左手で右の肩口を押さえてうずくまっている。

「痛……」

「ピッチョンさん、どうしました?」

 俺はピッチョンの背中に手を置き、顔を覗き込んだ。ピッチョンは血の気の引いた青白い顔色をしている。次に肩を見て思わず「あっ」と声を上げてしまった。肩を押さえている手の隙間から血が滴り落ちている。

「ケガしてるじゃないですか! 向こうでなにがあったんですか?」

「心配しないでください。大した傷ではないです……」

 ピッチョンは苦痛で歪んだ顔を上げると、俺に向かって微笑んだ。

「由美子さんは無事ですよ。ケガもしてないようでした。安心してください」

「それは良かった。それより、そのケガはどうしたんですか?」

 ピッチョンは手で押さえる肩に視線を落とした。

「僕が署長室に行くと、由美子さんと大鉢さんは向かい合ってソファーに座っていました。決して和やかな雰囲気ではありません。大鉢さんは由美子さんに拳銃を突きつけて、威嚇しているようでした。いち早く僕の存在に気づいた大鉢さんは一瞬驚いていましたが、躊躇うことなく僕に向かって発砲したんです。あっと言う間だったなので、逃げるのが遅れてしまい……」

 そう言いながら、押さえていた左手を離した。手のひらにベットリと血がつき、ウエットスーツの肩口はざっくり五センチほど切れている。

「でも大丈夫です。かすり傷ですから」

 拳銃の弾はかすっただけだろうが、それでも肉はえぐられ血が噴き出していた。

「なっなんて酷いことしやがる。あの野郎、とち狂いやがったか」

 目を丸くしたジジイは慌ててティッシュの箱を掴み、中から景気よくティッシュをごっそり摘まみ出す。

「ほりゃ、とりあえずこいつで押さえろ」

「ありがとうございます」

 ピッチョンは血のついた手でティッシュの束を受け取り、そっと傷口に押し当てた。痛みで少し顔を歪めている。つられて俺とジジイも渋い顔になってしまう。ジジイの頭に乗るお絹も、ウサギのくせに渋い顔になっている。ウサギといえば、鼻がピクピクと蠢くだけが取り柄だと思っていたが、これほど表情があるとは知らなかった。

 などと感心している場合ではない。

「ちょっと待って下さい」

 俺は不死身薬品の常備薬を急いで探した。

 不死身薬品の営業マンが初めて来たときには、「俺は健康だけが取り柄だから、薬箱なんてなくても不自由はしない。そんな常備薬なんてあっても使わないからいらんのだよ、フン」と偉そうに突っぱねたが、営業マンのおっさんに「備えあれば憂いなしですから、置くだけ置いてくださいよ」と押し切られて置く羽目になってしまった。だが、今はおっさんの助言を聞いて良かったとしみじみ思う。おっさん、押し切ってくれてありがとう。と感謝の言葉をぶつくさ唱えながら、玄関の隅にほこりをかぶった、うちに来てから無視され続ける哀れな不死身薬品の常備薬を探し当てた。

 傷口に消毒をしてから特大の絆創膏を貼り、念のためにその上からグルグルと包帯を巻いた。それでも包帯に薄っすらと血が滲んでいる。だが、それほど深い傷ではないので、時機に血は止まるだろう。

「天上界の人でも、ケガをすると血が出るんですね。神様ってそんなことは超越した存在だと思っていたから、なんか不思議だな」

 俺が血の滲む絆創膏を見つめながら言うと、ピッチョンは困ったような顔をして笑った。

「僕は天上界で産まれましたが、地球の人と変わりはありませんよ。悩みはあるし、些細なことで悔んだりします。それにケガをすれば、このようにちゃんと血も出ます。僕たち天上界の人間と地球の人間との違いは、与えられた役目が違うだけです」

「役目が違う? 地球に住む俺たち人間の役目ってなんだ……?」

 俺は首を傾げてピッチョンの返事を待った。だがピッチョンは曖昧なほほ笑みを浮かべるだけで、なにも言わない。

「おい、いつまでもぐずぐずしちゃいられねえぞ」

 ジジイは俺を睨みつけてそう言うと、勢いよく立ち上がった。

「ピッチョン、おめえはここで少し休憩してろ。おいらたちが横島署に着くまで二、三十分はかかる。頃合いを見計らってあとから来い。ジャック、行くぞ!」

 ジジイはお絹を頭に乗せ、玄関に向かってすっ飛んで行く。俺も立ち上がり行こうとしたが、ピッチョンが気になり振り返った。

「大丈夫ですか?」

「はい、だいぶ痛みも和らぎました。ジャックさん、気をつけてください。大鉢さんはたぶん、ナマナマララゲにとり憑かれています。ジャックさんの命を狙っていることや僕に発砲したのもそうですが、あの人の目は常軌を逸してました。あれは大鉢さんの目じゃない。あれは悪魔の目です」

 いつも優しい目をしたピッチョンからは想像もできないほど、俺に向けた目は厳しく怒りに満ちあふれている。

 悪魔の目と聞いて、ナマナマララゲに支配された時のプーやんとだいちゃんの目を思い出してしまった。あの殺意を帯びた目が脳裏に浮かび、血の滲んだピッチョンの包帯を目の当たりにして、不安と恐怖がズッシリと肩にのしかかる。

「悪魔の目か……なんだか行くのが恐ろしいな……。なんで俺と由美子は、こんなことに巻き込まれなければいけないのかな……。無責任なジジイのお陰で、とんだとばっちりを受けてしまった」

 自分の置かれた立場の重圧と恐怖に負けて、ついポロリと弱音を吐いてしまった。厳しかったピッチョンの目は一転して、気の毒そうな目で俺を見ている。

「ジャックさんもいろいろと大変だと思いますが……」とピッチョンが言いかけた時、後ろからジジイの不服そうな声が聞こえた。

「ついて来ねえと思ったら、今さらそんなことをグダグダ考えていやがったのか」

 振り向くと、玄関から戻って来たジジイが腕組みして立っている。ジジイは眉間に皺を寄せてさらに続けた。

「おめえは由美ちゃんを助けたくねえのか?」

「そんなことは言ってない。でも、恐ろしい……。由美子が人質に取られているんだ、俺は無敵にはなれないだろ。そんな普通の体でナマナマララゲの所に行ったら、殺されるだけじゃないか……。由美子は助けたい。だけど、みすみす殺されるのをわかっている所に、はいそうですかなんて簡単に行けない……」

 俺がうな垂れてしまうと、ジジイは「うむむむっ」と低く唸った。

「まあそうだわな。おめえの気持ちはよくわかるぜ。でもよ、いつまでもここにいたって埒が明かねえ。横島署に行って、飛田たちと対策を練ろうや。それにな、おめえのことは、おいらの命に代えても守ってみせる。ジャックと由美ちゃんは、絶対に死なせねえ」

 ジジイはいつになく優しい声で言うと、俺の背中をそっと撫でた。

「ジャックさん、僕だってお二人を守りますよ。頼りないかも知れませんが、必ずお守りします」

 ピッチョンは撃たれた右手を差し出すと、力強く俺の左手を握り締める。お絹はジジイの頭から、俺の頭に飛び乗った。

「ジジイ、ピッチョンさん、お絹……」

 俺が顔を上げると二人と一匹は大きく頷いた。

 満面の笑みを浮かべたジジイは、俺の背中をドンと音が出るほど叩く。

「さあ、行こうぜジャック。由美ちゃんを安心させてやろうじゃねえか」

「わかった。行こう」

 俺が笑顔で応えると、お絹が頭の上で大きく跳ねる。

 バン! 後ろ足の鋭い爪が頭皮をえぐった。

「ぎゃっ!」

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