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ジジイウイルス

 便器を抱え、絞り出すだけ絞り出し、見えない敵と格闘すること十五分。目、鼻、口から出た液体で、顔中がグジョグジョになってしまった。それでも、目玉が飛び出てオヤジにならなかったので、これはこれで良しとしなければならない。そう言い聞かせ立てあがろうとしたが、足腰に上手く力が入らない。尻もちをついて狭い便所の天井を見ると、高速回転のプラネタリュームのようにグワングワン回っている。体の中はもうひとつ大変な事になっていた。腹の中では、こっそり忍び込んだ身長八センチほどの幼稚園児三名が、胃を掴んで駆けずり回っているような感じだし、頭の中では、素人ばかり集めた大オーケストラが第九交響曲を奏でている。それも、よせばいいのになぜか打楽器が多い感じだ。

「真治、大丈夫?」

 様子を見に来たのか、由美子の心配そうでもない声が後ろから聞こえる。

「ダメだ……体の内側と外側をひっくり返して洗浄しない限り、この場から動きたくない……うぷっ……」

「情けない。じゃあ、あたしは仕事があるから先にパトカーで行くわね。真治はあとからタクシーで来なさい。じゃあね」

 薄情な屁っこき姫はそれだけ言うと、旅行カバンを引きずりながら足早に行ってしまった。


 どれくらいの時間が経ったのか。気がつくと、便器に顔を突っ込んで寝ていたようだ。

 ふらつく足取りでリビングに戻れば、ジジイとピッチョンはまだ同じ格好で寝ている。壁掛け時計に目を移すと、すでに十二時を回っていた。便器に顔を突っ込んで、四時間以上も寝ていたとは……。

 しかしその睡眠のお陰で、幼稚園児も素人オーケストラもどこかに行ってくれたようだ。先ほどよりだいぶ気分が良い。シャワーでも浴びようと風呂場に向かった時、けたたましくではなく情けない音で家の電話が鳴った。

 ピョニュニュニュニュ~ ピョニュニュニュニュ~

 インターホンといい、電話といい、人を小馬鹿にしたような音を出す。いつからこんなまぬけな音になったのか? と、考えるまでもなかった。なにもかもジジイが来てからおかしくなったのだ。ジジイウイルスに空気感染したものは、すべからく調子が悪くなるようだ。ドライヤーがいい例だろう。噴き出す風が熱くもなく強くもなく、真夏のアスファルトの立ち込めるモワ~ッとした、なんとも心地の悪い風が出るだけになってしまった。その内に冷蔵庫も、ただの蔵庫になってしまう。早く追い出さなければいかん。

 ピョニュニュニュニュ~ ピョニュニュニュニュ~

 ジジイウイルスに感染した受話器を耳にあて、「はい」と気だるく返事をすると、相手は早口にまくしたてた。

『もしもしジャックさん横島署の飛田です。カチカチ。携帯がつながらないので心配しました。カチカチ』

 飛田はかなり慌てているようだ。カチカチ聞こえるのは、受話器に出っ歯があたる音だろう。

「携帯は壊れてしまったんです。それで、どうしました? そんなに慌てて」

『大変な事になりました! 横島署が占拠され、鳥井くんが人質に取られてしまった! カチカチカチ!』

「由美子が人質? 横島署が占拠? えっ、まさか、警察なのに乗っ取られたということですか?」

 質問しながら咄嗟に考えたのは、「テロ」の二文字だった。だいちゃんとプーやんにとり憑いたナマナマララゲは、あの銀行で自爆テロを臭わす会話をしていた。

 野放しになった二十一匹が複数の人間にとり憑き、武装集団になって横島署を占拠したのではないか。そんな考えを巡らせていると、飛田が更に早口になってまくしたてる。

『乗っ取られたというより、横島署内部のクーデターです! 首謀者は大鉢副署長のようで、複数の警察官と共に横島署を占拠しています。こっこれは、警察組織が始まって以来の大不祥事です! なんでこなことに、キィーッ!』

 ヒステリックな雄叫びを上げるほど、飛田はかなり動揺しているようだ。などと冷静に出っ歯のおっさんの分析をしている場合ではない。由美子が人質に取られているのだ。

「それで由美子は無事ですか?」

『鳥井くんは署長室に監禁されていますが、今のところ無事のようです。実際に様子は見てはいませんが、電話で元気な声を確認しています』

「ほっ、とりあえず良かった。いったい大鉢はなんでこんな事をしたんですか? 物騒な事しやがって。あいつのことだから、総理大臣にしろっなんて要求してるんですか?」

『いや、それが……』

 いきなり飛田の歯切れが悪くなった。見えてはいないが、あの磨き抜かれた出っ歯の輝きも、くすんでしまったようだと受話器ごしからでも感じ取れる。

「飛田さん、どうしました? ご自慢の歯に茶渋でもこびりついてしまったのですか?」

『いいえ、そうではないです。ちゃんと月に一度は歯医者に行ってホワイトニングしてますので、それはまったく問題ありません。問題なのは大鉢副署長の要求でして……』

「やっぱりあのでか頭野郎、とんでもない要求をしてきたんですね」

『ええ、確かにとんでもない要求です。実は、ジャックさん……副署長の要求はあなたです』

 飛田の言葉に、俺の背筋はゾゾゾゾッと寒くなった。まさか大鉢があちら側の人だとは知らなんだ。いかんあまりに驚いたので、東京生まれなのに但馬訛りになってしまった。

 それにしても、大鉢が俺を好いているとは思わなんだ。恋敵の由美子を人質に取り、こんな凄まじい要求を罪を犯してまで突きつけるとは、大鉢という人間はなんて情熱的な男なのか。だが、その情熱に応えることはできない。俺はあちら側の人間ではなく、いたってシンプルなこちら側の人間なのだ。

「飛田さん、それは無理だ。俺には大鉢の愛を受け入れることは出来ない。こればっかりは好きだ嫌いだではすまされない哀しい現実なんですよ。しかし、性別を超えてまで惚れられるとは、もてるのも考えもんですね、フッ」

 色男には良く似合うニヒルな微笑を、ついつい浮かべてしまった。

『愛? なにを言ってるんです。副署長はジャックさんを署長室に来いと要求しているのですよ。あなたの命があぶな、あっ……』

 夢中でトウモロコシを食べていたら、思わず飛び出た歯で芯までかじってしまった時の「あっ」より、思わず口を滑らしてしまった時の「あっ」だと、鋭い俺にはわかってしまった。

「俺の命がどうかしましたか? 最後まで言ってください」

 受話器の向こうで、飛田の「うむ~っ」と小さな唸り声が聞こえる。しばらく沈黙が続いたが、飛田は深く長いため息を吐き出した。

『はぁ~っ……。驚かないで聞いてください。副署長……大鉢は鳥井くんの命と引き換えに、ジャックさん、あなたの命を要求しています……。電話口では上手く説明できないので、こちらに来てもらえないでしょうか。先ほどパトカーを向かわせましたので、もう着くと思います』

 飛田が言い終わると同時に、パトカーのサイレンの音が遠くから聞こえてきた。

 近付くにつれてウーウーと音は大きくなり、喧しさは増してくる。だが、このマンションに着いた頃には、ウニョ~ウニョ~と情けない音になるのだろうか。

 そんなどうでもいいことを考える余裕しか、今の俺にはなかった。

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