孝子二十六歳
俺はソファーから立ち上がると、ピッチョンに吊るされジタバタしているジジイの両足をガッチリ掴んだ。ジジイの姿は、溺死体を無理やり海から引き揚げてきたような、夏の海岸でたまに見かける物悲しい感じになっている。
だが、ジジイは物悲しい宙ぶらりんなだけで、完全な溺死体にはなっていない。その証拠に体をジタバタさせて抵抗した。
「ジャック、なにしやがる」
「ギャーギャーうるせえから帰るんだよ。ピッチョンさん、このまま持っていきましょう」
ジジイの両足を引っ張ると、ピッチョンも両脇を掴んでついて来る。
「離せ! ここで引いては男がすたるのだ。武士の情けじゃ、離してくれ~!」
時代劇調で虚しく抵抗するジジイ。腰の自由が利くので、ピチピチと海老のように反ったり丸まったり忙しないし情けない。ジタバタしているのが鬱陶しいので、パッと両足を離した。
「あたっ」とジジイが尻もちをついたところで、瞬時にジジイのウエットの襟を掴むと、そのまま無敵のバカ力でヒョイっと持ち上げた。
それの姿はまるで、東京都在中の孝子二十六歳が部屋を片付けている時に見つけた、クマのぬいぐるみのようだった。孝子は三年間付き合った康夫とあす結婚式を上げる。そのために部屋の押入れを整理していると、段ボールの中から孝子が三歳のクリスマスに父親が買ってくれたぬいぐるみが出てきた。そのクマのぬいぐるみと小学六年まで肌身離さず添い寝をしていた。汚れては洗濯を繰り返し大事にしていたのだ。だが、中一の時に初恋をしてからは、添い寝もしなくなってしまった。もう「子供じゃないもん」と呟き、他の宝物と一緒に段ボールに押し込み、暗い押入れに仕舞ったクマちゃんだった。孝子は懐かしさのあまり微笑むと、段ボールからクマちゃんのぬいぐるみを取り出した。しかし、歳月は恐ろしいもので、昔は可愛く見えたのに様変わりしていた。片目は取れ、毛はところどころハゲ落ち、詰めてある綿はデロデロになっている。思わず孝子が、「やだ~汚い」と口走ってしまうほどだった。孝子は片手でぬいぐるみの襟首を掴み、目の前に掲げた。
「小汚いからポイしちゃお」
そんな小汚いぬいぐるみの姿が、正しく今のジジイの姿なのだ。
俺はジジイを片手で摘み上げたままドアを開けると、大鉢に振り返った。
「明日の朝は、よろしくお願いします」
「ええ、八時に迎えに行かせます。余計な人は連れて来ないで、二人で来てください」
大鉢はそう言うとニヤリと笑った。
俺は大鉢の笑い方を見て首を捻った。嫌味な奴だが、こんな陰険な笑い方をしていただろうか? 一瞬そんなことを考えていると、お絹がジジイの頭の上で、バンバンと後足を踏み鳴らした。例の威嚇行動をとっているのだ。
「イテテ、お絹も怒ってやがる。けっ、当たり前だ。あんな薄ら気持ち悪いツラ見せられちゃな。イテテ、おいジャック、早いとこ行こうぜ。奴のツラ見てると気分が悪いや。イテテ……いてえよお絹……」
ジジイが話している最中でも、お絹は容赦なく足を踏み鳴らす。ジジイが捕まえようと頭の上に両手を持っていくが、お絹はひらりとジャンプしてかわした。何度ジジイが手を伸ばしても、お絹はひらりとかわす。相当お怒りのようだ。
俺はそんな激しい攻防を横目で見ながら、「じゃあ明日」と言ってドアを閉めた。
署長室を出て一階に下りても、まだお絹の怒りは収まらない。ジジイの頭の上で、しつこいくらいにバンバンと足を踏み鳴らしている。警察職員も訪れた一般人も、何事かとこちらを注目している。
それはそうだろう。マントをつけた若い男に摘み上げられ、宙ぶらりんになっているジジイもマントをつけている。その姿だけでも珍しいのに、尚且つ、そのジジイの頭の上で真っ白なウサギが地団駄踏んでいる姿など、一生のうちにお目にかかることなど滅多にない。おまけに、うしろから恥ずかしそうについて来る、マントをつけたセールスマンもいるのだ。
「ジャック、歩かねえで楽なんだけどよ、下ろしてくれねえか……イテテ」
羞恥心のかけらもないジジイが顔を赤くして呟いた。
リクエストに応えてジジイを床に下ろした。ジジイはすぐさま頭の上に手を伸ばすが、またもやひらりとお絹にかわされた。しつこく何度も捕まえようと試みるが、ついにジジイは諦めてしまった。というか、力尽きてしまったのだろう。
ジジイは肩でゼェーゼェーと息を吐きながら、弱々しい目を俺に向けた。
「けえろう……」
ジジイが肩を落としてトボトボ歩き出すと、お絹は頭の上で元気よく足を踏み鳴らした。
バンバン!




