ウサギの顔
しばらく走ってから恐る恐る後ろを振り返ると、包丁男は追い掛けて来ない。ジジイを襲撃した場所に留まり、しゃがんでゴソゴソとなにかをしているようだ。俺たちは立ち止り、遠くから男の様子をうかがう。
「あっ、僕のカバン」
確かに男は、ジジイが放り投げたピッチョンのアタッシュケースを開けて中を覗いている。そして、アタッシュケースに手を突っ込むと、中からビニール袋を取り出した。
「あれ、ナマナマララゲの入ったビニール袋ですよ。どうするつもりでしょうね? ジャックさん」
ピッチョンが不安そうに聞いた。
「あの男、ナマナマララゲにとり憑かれてるな」
「やっぱりそうですよね」
ピッチョンも気づいていたようだ。ジジイがお絹を突き出した時に、男が嫌な顔をしたのを見たのだ。
「そうだろ。おいらもそうだと思ったんだ。だからお絹を野郎に見せたのよ。どうでえ、おいらは機転がきくだろ」
ジジイはしたり顔で言うが、俺もピッチョンもそんな戯言など信じていない。己の体かわいさに、お絹を人身御供にしただけだと知っているのだ。俺とピッチョンは、ただ蔑んだ目でジジイを見つめるだけだ。
「なっなんだその目は、信じてねえのかよ。ちぇっ、嫌だねどうも、おめえらは心が薄汚れちまってるんだよ。目が濁っちまてるんだよ。なあ~お絹、おいらがお絹を危険な目にあわすわけねえよな。おめえならわかるよな」
ジジイはお絹を抱き上げ、ご機嫌をとるように「へへへっ」と薄ら笑いを浮かべた。だが、お絹は眉をひそめてジジイを見つめる。俺は二十七年間生きてきたが、眉をひそめるウサギの顔を始めて見せてもらった。
ジジイがしゅんとしてうな垂れた時、遠くからウゥ~ウゥ~とパトカーのサイレンが聞こえた。誰かが一一〇番通報をしたのだ。
男は弾かれたようにガバッと立ち上がり、キョロキョロと辺りを見回すと、サイレンが聞こえる逆の方に走って逃げて行く。その手には、ナマナマララゲの入ったビニール袋を持っている。
「やばい、ナマナマララゲが盗まれた!」
俺が男を指差すと、すぐさまピッチョンが反応した。
「あの男、仲間を取り返しに来たんですよ。捕まえたナマナマララゲがテレパシーみたいなものを使って、男に憑いているナマナマララゲを呼んだのかもしれません。取り返さないと大変な事になります。急いで追いかけましょう」
ピッチョンは慌てて言うと、返事も聞かずに血相変えて駈け出した。
俺もあとに続こうとしたが、ジジイがぼ~っと突っ立っているので立ち止る。
「なにやってんだよ。行くぞ」
「やだよ。あいつは刃物持ってるし、ジャックは無敵じゃねえだろ。そんなんで行ったら、ケガだけじゃすまねえぞ。プチュと刺されて、コロッておちんじまうよ」
不服、不満、不機嫌、不のつく言葉なら全く関係ない不況まで当てはまるほど、ジジイの態度は不平タラタラだ。そんな不平タラタラ、不況どん底ニッポン、のようなジジイの手を引っ張った。
「ウダウダ言うな。ピッチョンさんは大変な事になるって、泡食って追いかけに行ったんだぞ。つべこべ言わねえで来い!」
強引に引っ張ると、ジジイは人形のように前にすっ飛んだ。コロコロ転がるジジイを見て、なんて軽いジジイなんだと改めて感心してしまった。
ジジイはヘロヘロになりながら立ち上がると、恨めしそうな顔で文句をたれた。
「なんてことしやがる。もっと老人をいたわれ……」
ジジイはそれだけ言うのが精一杯のようで、酔っ払いのようにふらふらと足がもつれて、立っているのやっとの状態だ。
いざという時に、本当に役に立たない神様だ。これが神様なのかと思うとムカつくが、確かにすっ飛ばしたのは俺だし、紛れもなく人間の老人なので致し方がない。だが、こんなことでは埒が明かないのだ。
ちょうどその時、いい物が目に入った。食料品スーパーの店の前に、店内で買い物するときに使うショッピングカートが並んでいる。これは好都合。
急いで一台拝借すると、ジジイを有無も言わせずに軽々と担ぎ上げ、カートに尻がすっぽり収まるように座らせた。これがまた実によく似合う。頭にウサギを乗せたおサルが両手足を外に放り出して、小さな乳母車に乗っているようだ。
「ジジイ、行くぞ」
「なんか恥ずかしくねえか?」
「うるせえ、あんたに恥ずかしいことなんかなにもねえ。存在自体が恥ずかしいのに、今さらふざけたこと言うな。ピッチョンさんのとこまで突っ走っから、振り落とされんじゃねえぞ! とりゃ!」
ガラガラガラ~ッ! とけたたましい音だが軽快に走り出した。
スーパーの関係者の皆様、誠に申し訳ありません。カートを一時、拝借いたします。必ず責任もってじい様がお返し致しますのでご勘弁ください。その際、万引きもしくは窃盗で訴える場合には、ジジイをどうぞお好きなようにして下さい。




