野次馬
俺がアワワワと立ち上がり一目散に駆けだすと、ピッチョンも負けじとアワアワ駆けだした。ジジイはカサカサからガサガサになって、ゴキブリ走法で地べたを這いずっている。当然のことだが、進化してないゴキブリ走法より、進化した二足走法の方が遥かに早い。これはホモサピエンスの勝利と言えよう。
俺とピッチョンは、当たり前のように地べたに蠢くジジイを飛び越えた。が、しかし、魔の手は包丁男だけではなかった。
「おめえら待て」
蠢くジジイは両手を伸ばし、ピッチョンが持つアタッシュケースをガッチリ掴んだ。だが、小柄で痩せたジジイは軽量だ。それに追ってから逃れることが必死で、ピッチョンは無我夢中で走っている。勢いのついたピッチョンの走りは速度こそ落ちているが、そうやすやすと止まらない。ジジイはジャリジャリと、粗大ゴミのように引きずられる。
「イテテ、イテテ、イテテテテ~」とジジイは悲痛な叫び声を上げた。
その声を聞いたピッチョンは、我を忘れて引きずり回しているのが大神様だと気づいたのか、あっと驚くと真っ蒼な顔で急停車する。
「だっ、大丈夫ですか、大神様」
「びゃっかやろ~……大神様を引きずる、どアホウがどこにいんだぁ……」
ジジイはヘロヘロになりながら、ピッチョンのアタッシュケースを両手で抱えて立ち上がった。さすがのお絹も頭からずり落ち、なんとかジジイの首根っこにしがみつき前にぶら下がっている。
「すみません、すみません」
平謝りのピッチョンは頭を下げているし、ジジイもヘロヘロで気づいていないが、本当の魔の手はそこまで近づいているのだ。
先に進んでいた俺は少し離れた場所から、
「ジジイ! ピッチョン! 後ろ後ろ!」
八時だョ! 全員集合的なコント風で叫んだ。
すぐ後ろから包丁男が迫っているのに、ジジイはお笑いのボケをかますというより、本当にボケているので気づいていない。ピッチョンはすぐに気づいて、「大神様! 後ろ後ろ!」とやはりコント風に叫ぶと、二、三歩後退して逃げる態勢になる。
ジジイが異変に気づきヘロヘロしながら後ろを向いたその時、背後にいた男は包丁をガバッと振り上げた。
「ずびゃー!」
ジジイは素っ頓狂な叫び声と共に、持っていたアタッシュケースを放り投げた。さすがはすばしっこさには定評があるジジイであった。男が振り下ろした包丁に、アタッシュケースが見事に直撃した。ズバッと斜めに切り裂かれたアタッシュケースは、地面に叩きつけられるとパッカリ開いた。
男は横目でチラリとアタッシュケースを見たが、すぐさま包丁を振り上げジジイに襲いかかる。
キャーッ!
遠巻きに見ている野次馬が悲鳴を上げた。
さらばジジイよ安らかに眠れ、と追悼の意を唱えようとしたその時、
「んがぁー!」
間の抜けた叫び声を上げたジジイは、素早い動作で首にぶら下がるお絹を両手で掴むと、腕を伸ばして男の前に突き出した。あんなに懐いているお絹を盾にするとは、なんという浅ましい根性。なんという嘆かわしい根性。
いきなり突き出されたお絹は、目ん玉が飛び出るほどびっくらこいている。
哀れなお絹よ安らかに眠れ、と哀悼の意を唱えたが、男は包丁を振り下ろさない。この男はジジイよりも人間らしい心を持っているのか、と思いきやそうではなかった。
男は包丁を振り上げたまま、なんとも言えない嫌な顔をしてそっぽを向いている。この男もしや……。
咄嗟にピッチョンが、「逃げましょう!」とジジイの腕を掴み強引に走り出した。
ジジイとピッチョンが、必死の形相で俺の所まで走って来る。ジジイは今にも泣きそうな面構えだ。それにもうヨレヨレのヘロヘロだ。
俺はジジイの右腕を掴んで持ち上げると、風船のように頭上まで浮かんでしまった。なんて軽いジジイなんだ。
あまりの軽さにびっくらこいていると、ピッチョンが浮かんでいるジジイの左腕を掴んだ。
「早く逃げましょう」
二人で両脇からジジイを持ち上げ、後ろも見ずに全速力で走った。敵前逃亡、それも一人は半泣き、なんとも実に情けないヒーローたちだ……。




