貧乏ビール
ちっくしょう! あのジジイふざけやがって。
俺は三段飛ばしで一気に階段を駆け上がる。エレベーターなどと、悠長な乗り物なんぞに乗ってなどいられない。怒りに任せ、跳ねるように駆け上がった。
玄関のドアを勢いよく開け、ジジイのもとまでドカドカと突き進んだ。
「やいジジイ! 俺を殺すきか!」
こんなに俺が怒りまくっているのに、ジジイはソファーでくつろぎ、グラスで何かを飲んでいる。横目でチロリと俺を見ると、喉をグビグビ鳴らして飲み干した。
「ブッハァ~ッ。おう、戻ったか。ご苦労さん」
「ご苦労さんじゃねえ! どういうつもりだ、この人殺しが!」
「まぁいいじゃねえか、おっちんでねえんだからよ。ほら、にいちゃんも飲めよ」
ジジイは缶を持ち、飲み干したグラスに注ぎだした。黄色い液体をドボドボ注ぐと、白い泡がじゅわじゅわグラスから溢れる。
「あっ、それ俺のビールじゃねえか。なに勝手に飲んでやがんだ! このエテ公ジジイ」
ジジイはビール缶を眺めると、渋い顔を俺に向ける。
「まぁ、ビールには変わりはねえけどよ。こりゃおめえ、ビールはビールでも貧乏ビールじゃねえか」
「貧乏ビール? なんだそりゃ?」
「こりゃ発泡酒だろ。発泡酒は、ビールとはちっと違うんだよな。コクとキレが弱くていけねえや。おめえだって本物のビールが飲みたいけど、金がもったいないから発泡酒を買うんだろ?」
「まあな」
「ほらみろ。貧乏人が買うビールだから、貧乏ビールって言うんだよ。にいちゃんも覚えておけよ」
ジジイは満足そうに頷くと、缶から直接ビールを飲み干した。
「ブッハ~、まぁ味は悪くはねえやな」
ジジイの満面の笑みを見て、俺の頬の筋肉がピクピクと痙攣しだした。
人を八階から突き落とし、勝手に冷蔵庫からビールを出して飲んでいる。挙句の果てに、貧乏ビールなどと難癖をつけやがった。発泡酒愛好家の皆さんが許しても、俺はもう許しちゃおかねえぞ。握り締めているコブシも、ワナワナと震えている。怒りで一気に爆発しそうだ。
血管がぶち切れ二秒前になったとき、ジジイがニヤニヤしながら言った。
「落ちてもケガしてねえだろ。冷静になって良く考えてみな。なんで八階から落ちても無傷なのかな。それはな、にいちゃんが無敵になったからなんだぜ。おっ、もうビールがねえや。どっこりゃしょっと」
ジジイはひょこひょこと立ち上がり、キッチンに向かって歩いて行く。
確かに不思議だ。八階から落ちて無傷のはずがない。だが、骨も折れていなけりゃ、血も出ていない。
俺が無敵?
試しに、おもいっきり頬をつねった。
「いたたたっ。痛いじゃねえかよ」
「そいつは無理だ。これでもう一度試してみっか?」
ジジイは片手にビール、もう片手にフライパンを握り締めて戻ってきた。
「何すんだよ」
「こいつでぶっ叩くのよ」
ジジイはフライパンを差し出した。
「いくら無敵でも軽い痛みの感覚がなきゃ、日常生活に不自由するだろ。無敵なのは強い痛みだけよ。ほら、頭出してみな」
俺が怪訝な顔をすると、
「心配すんな。無敵なのは八階から落ちて立証済みだろ。ほりゃ、いいから頭出せ」
などと無責任に言い放つ。
いくら立証されたと言っても、こんなインチキジジイのことなど信用できない。
ますます怪訝な顔をして一歩下がった瞬間、
バコン!
いきなりフライパンで頭を殴られた。
「あ痛……? うん? 痛くない……? 痛くないぞ」
「だろ。いてえはずがねえよ、無敵なんだからな。おいらが神様だからなれたんだぜ。それと、そっちで寝てる屁っこきねえちゃんのおかげでもあるんだな」
「由美子のおかげ? どういうことだ?」
「まあ、話すとなげえからよ。ビールでも飲んでゆっくり話そうや」
ジジイは嬉しそうな顔で、貧乏ビールをかかげる。
今夜は長い夜になりそうだ。