一粒の涙
ウゴ~ッ、ウゴ~ッ いびき……。
ギリッ、ギリッ、ギギギギッ 歯ぎしり……。
「真治! あなたは無敵よ!」 寝言……。
うるささに耐え切れず、布団をかぶれば、
ぶっ!
臭い屁……。
聞きたくなくても聞こえてしまう、嗅ぎたくなくても嗅いでしまう。
布団をかぶったり、顔を出したり、そんな切ない攻撃に悪戦苦闘していると、
プゥィ~ン ポォゥォ~ン
なんとも間の抜けたチャイムの音。
眠くても眠れない、そんなかわいそうな現実に直面したしょぼくれた目を擦り、枕元に置いてある目覚まし時計に手を伸ばす。
「四時かよ……。誰だこんな時間に……」
プゥィ~ン ポォゥォ~ン
「うっせ~な、まったく。いつからチャイムは壊れてんだ……?」
ぼーとした頭をよっこいしょと持ち上げて、ふらつきながらベッドから下りた。
プゥィ~ン ポォゥォ~ン
「あぁ~うるせえ、ちょっと待てろよ。しかし、なんとかならねえのか、あのまぬけな音……」
ぶっ!
「あぁ…………」
左手で頭を抱え、右手の二本指を鼻の穴に突っ込む。重い足取りでリビングに向かった。
プゥィ~ン ポォゥォ~ン
「うぐへ~っ、じょっどまっでど」
リビングにあるインターホンの受話器を上げ、
「はい……」
思いっきり不機嫌になおかつ重低音をきかせて言ったが、向こうからはうんともすんとも返事がない。まさかこんな時間に、それも八階のマンションの一室なのにピンポンダッシュなのか?
「ぐっぞぉ~っ」
受話器を握り締め、怒りのせいでワナワナ震えていたが、
プゥィ~ン ポォゥォ~ン
やっぱりまぬけな音がする。
「はい、はい、はい、はい、はい! はい! はい!」
今度はアップテンポにぶちかます。が、返事がない。耳を澄ましてよく聞けば、受話器からはまったく音が聞こえない。インターホンの受話器を上げると、ボ~だかブ~だか、なんかしらの音が聞こえるはずだ。これはインターホンが壊れているのではないであろうか。
プゥィ~ン ポォゥォ~ン
しつこいこのまぬけ音も、きっとそのせいだろう。それにしても、しつこくチャイムを鳴らす野郎もいたもんだ。明け方の四時に、こんなに何度も何度も鳴らすどアホの顔が見たくなった。よし、見てやろうじゃねか、そのまぬけ面を見てやろうじゃねえか、こんちきしょう。
肩を怒らせ、勢いよくドアを開いた。
「へっ?」
サルだか人間だか見分けのつかないジジイが一匹、暗い廊下に突っ立てる。
「よっ!」
不機嫌な俺とは対照的に、陽気に片手を上げて挨拶した。
見たことのない面なので、俺の眉間にたて皺がピピピッと刻まれる。
「どちらさんですか?」
かろうじて人間だと思われるジジイは、ニッタ~と卑しく笑うと、人差し指と親指二本を右鼻の穴に突っ込んだ。
「どひらさんとはごあいさちだな、にひちゃん」
突っ込んだ二本の鼻毛をつまんで引き抜き、四本抜き取ったことをまじまじ確認すると、ぶっと玄関前に吹き飛ばす。
ななっなんとゆうジジイだ。初対面の相手に、それも他人の家の玄関先で鼻毛ぶっ放すとは、なんてふてえジジイなんだ。
「だっ誰だあんた。鼻毛ぶっ放すなんて、時間と場所をわきまえろ。ってそんな問題じゃない。時間も場所も関係ない。初対面の人に対してその態度はおかしいだろうが」
時間も時間なので、怒鳴り散らすことが出来ない。声のトーンは控えめだが、チビのジジイなのでおもいっきり見下ろしながらぶちかました。それでもジジイは動じない。今度は耳の穴に小指を突っ込むと、気持ちよさそうにかっぽじりやがった。
「あっ、このやろ~」
「まあ落ち着けにいちゃん。おいらは呼ばれたからここに来たんだぜ。ふっ」
小指の耳くそも吹き飛ばしやがった。
「なな、なろ~っ」
怒りで顔が真っ赤になるのがわかるほど、もうぶち切れ寸前だ。いくら温厚の俺でも、いびき、歯ぎしり、寝言に屁の次は、鼻毛耳くそじゃたまらない。ついでに、明け方のジジイときたもんだ。寝不足の怒りを叩きつけようとしたが、
「ほい、ごめんなさいよ」
ジジイは俺の脇をすり抜けて玄関に入り込みやがった。
「まてジジイ!」
哀しき青年の怒りを無視して、ホイホイと靴を脱ぎひょこひょこと上がりこんだ。
「まてって言ってんだ、くそジジイ!」
ホイホイひょこひょこジジイの後を追いかけリビングまで行ったとき、寝室からは例の騒ぎが聞こえた。
ウゴ~ッ、ウゴ~ッ、ギリッ、ギリッ、ギギギギッ、ギギギギッ
「真治!」
ぶっ!
ジジイは寝室の方を見てから、俺に振り向いた。ニヤリと卑しく笑いながら寝室を指差す。
「あそこにいるね。おいらを呼んだやつは」
「はっ?」
このばっちいジジイは、由美子のじい様なのか? 由美子にはいないはずだが。
「じいさん、あんた由美子のおじいちゃんか?」
俺の問いかけに振り向いたジジイは、「ふん」と鼻で憎たらしく笑うと、いきなり寝室のドアを開けた。
「お~っ!」
ジジイは歓喜の雄叫び上げ、
「ゲヘヘヘッ」
下品な笑いをかますと、スケベそうな笑い顔を俺に向けた。
「わけえねえちゃんが股おっぴろげて寝てやがる。いい眺めだね~。なぁにいちゃん」
なぁにいちゃんって……。なんて野放図なじい様なんだ……。
「…………」
いかん、ジジイの突拍子もない行動で、一瞬時の経つのを忘れてしまった。いつまでもバカみたく、口をおっぴろげている場合ではない。おっぴろげるのは由美子の股で十分だ。
「いい眺めじゃねえよ! 俺の質問に答えろ。あんたは由美子のじいちゃんなのか?」
ぶっぶぶっ!
うっ……由美子の屁だ……
「お~っ、こりゃいいぜ、ねえちゃんが屁で返事ひやがった。てへした屁じゃねへか。にゃぁ、にひひゃん。ムヒャヒャ」
ジジイが鼻を摘まんで笑ってる。俺も鼻を摘まんで言い返した。
「ゆみきょの屁はかんへいない。ジヒヒ、あんひゃがこひゃえろ。そのまへに、そのドアをひめろ」
「おおっ、わかっひゃ、わかっひゃ」
ジジイは名残惜しそうにドアを閉めると、鼻を摘まんでいた指を離した。
「ブッハ~ッ、しかし、音も凄いが臭いも強烈だなこりゃ。おいらは滅多に人になんか同情しねえけど、今回だけはにいちゃんに同情するぜ。眠れない日もあるだろうに、辛いな~にいちゃんも」
ジジイにしみじみ言われ、俺はなんだか目頭が熱くなった。
由美子の豪快な寝言、いびき、歯ぎしり、このことは誰にも相談など出来なかった。ましてや、高らかに鳴り響く屁、いやいやそれだけではすまされない。爆音プラス強烈な悪臭をかもし出す屁のことなどは、誰にも相談どころか話すことすら出来なかった。それが、どこの馬の骨とも分からぬ見ず知らずのジジイが屁を体験し、尚且つ俺に優しい言葉をかけてくれる。これで泣かなければ、いつ泣けというんだ。
俺のマナコから一粒の涙がポロリとこぼれた。
「にいちゃん、泣いているのかい。いいんだぜ、おもいっきり泣いてもよ。男だって泣きたいときはあらぁな。さぁ、遠慮するこたぁねえよ」
「はい……」
じい様、ありがとう……。今日はおもいっきり泣かせてもらうぜ。
じい様がティッシュを二、三枚差し出した。俺は素直に頭を下げて受け取ると、ズバズバッと鼻水を放った。じい様ももらい泣きしているのか、ティッシュを丸めて鼻の穴に押し込んでいる。
じい様すまなかった。俺は勘違いしていたようだ。
心の優しいじい様は、今度は耳の穴にティッシュを押し込んだ。俺が赤く染まる涙目を向けると、じい様はニタ~ッと嬉しそうに笑う。そして、一度大きく頷くと、またしても寝室のドアを全開にした。
「お~っ、やっぱりいい眺めだな。見ろよ、寝巻きがはだけてパンチィーが見えそうだぜ。グフフフッ」
俺は容赦なく、ジジイの頭にティッシュの箱を振り落とした。
パコン!