ヒップホールマン
「しっかし、でっけいタンコブだな。すげえなこれは。ねえ、由美ちゃん」
ジジイが元気を取り戻し、ハツラツと俺のタンコブに驚いてみせる。そして、由美ちゃんなどと気安く呼んだりもしている。
由美子はコーヒーを飲んで、寝起きの機嫌も良くなった。ついでに化粧もばっちり施したので、ゴージャスな美人に変身した。ジジイはそれが嬉しくてたまらないらしい。
ことあるごとに「由美ちゃん、由美ちゃん」とうるさくてしょうがない。
「しかし由美ちゃんは、なんでこんな男と付き合ってるんだ? こんなマヌケ男とよ。騙されてるんじゃねえのか、由美ちゃんは。おいらは滅多に人になんか同情しねえけど、由美ちゃんにはほんと同情するぜ」
「ジジイ、さっきとだいぶ言ってることが違うんじゃねえのか。俺に同情するとか言ってなかったか?」
「知るか」
そっぽを向きやがった。
「けっ、まあいい。それよりジジイ、なんで無敵じゃなくなったんだよ。八階から落ちてもなんともなかったのに、フライパンだとなんで、でっかいコブができんだよ」
「そいつぁ、由美ちゃんが起きたからよ。おめえの体は最初の呪文で、無敵にインプットされた。由美ちゃんが寝るだけで無敵になる。だが、寝てる間しか無敵の効力はねえ。だからおいらは止めようとしたんだ」
「便所から出てきたときか?」
「そうだ。バカだよまったく」
「先に言えよ、そうゆうことはよ。大体な、ジジイはいい加減過ぎんだよ。なんでもかんでも行き当たりばったりで、ひとつも計画性がありゃしねえ。それでよく神様だなんて威張ってられるな…………って、おい」
ジジイは嬉しそうに由美子の手を取り、俺の話を聞いちゃいない。
「由美ちゃんは長生きするよ。こんなに生命線がしっかりしてる。げへへへ、どれどれ、この線はなにかな――」
今にもよだれが垂れそうな顔で、由美子の手を両手で包み、いやらしいほどまさぐっている。
俺が気絶している間に、ジジイがことの経緯を由美子に説明したようだ。しかし、いい加減なジジイが、どのように説明したのだろう? 由美子もこんなポンコツジジイの言うことを、まともに信じたのだろうか?
だが由美子は、ジジイが神様だと知って、機嫌よく手相を見てもらっている。
「由美子、俺が無敵になったのは事実だけどよ。でもさ、お前はこのジジイが神様だって信じたのか? こんなサルと人間のハーフが神様で、本当にいいのか?」
「あら、だって真治が無敵なれたのは、神様があたしを指定したからなれたのよ。世界一の美女のあたしを。神様も見る目あるわ~。あたしを世界一の美女に選んだんだから。ねえ、神様」
「ね~っ由美ちゃん」
ジジイが顔を傾けてかわいこぶってる。気持ち悪い。
「世界一の美女? 違うよ、じいさんがお前を選んだのは、屁が――」
「へ? へがどうしたのよ」
いかん。由美子は自分が壮絶な寝方をしているのを知らないのだ。ここでいびきのことや寝屁の真実を教えたら、ウソ言うな、と逆に俺がぶっ飛ばされてしまう。
「いや、その……へ、へっぽこジジイが……そうだ、そうだったそうだった、このへっぽこジジイが世界一の美女だって言ってたよ。へへへっ……屁……」
「どうしたの? 目が泳いじゃって、へんなの。――さて、そろそろ支度しなくちゃ」
由美子が立ち上がると、ジジイはすねたように顔を上げる。
「由美ちゃん、もう仕事に行っちゃうのかい……」
「うん、その前にトイレ」
由美子が背を向けて便所に向かうと、ジジイは鼻の下を伸ばし、四つんばいでついて行く。俺はジジイの両足をおもいっきり引っ張った。だが、俺の力にも負けずに、ジジイは両手だけで前に進む。なんとゆうエロパワー。
火事場のバカ力にも勝るとも劣らない、便所のエロ力、ああ偉大なり。
などと感心している場合ではない。ジタバタしても強引に引き寄せる。
日干しカエルがバンザイしたような格好のジジイを、もといた場所まで引きずり戻す。
「なにがか弱いおじいさんだよ。へっぽこエロジジイが」
「へん、なにを言ってやがる。でっけいタンコブこさえて、鏡餅みてえなふざけた頭しやがって。季節外れなんだよ。おっ、そうだ。ヒヒヒッ、今おめえにピッタリのヒーロー名を思いついたぜ」
「ヒーロー名?」
「おう、そうよ。いいか、おめえは今日から、お正月仮面だ。てっぺんにみかんでも乗せやがれってんだ」
「んなろ~っ、いうに事欠いてくだらねえ名前つけやがたな。誰のせいでこんな悲しい頭になったと思ってんだ。ジジイだってな、そのツラにピッタリの名前があんだよ。ヒップホールマンだ。どうだジジイ、あんたにぴったりだろ。ハハハッ、だ」
「ヒップホールマン? 横文字だな。いいじゃねえか。ハイカラでかっちょいいじゃねえか。ほほほっ、おいら気に入ったぜ。へ~っ、ヒップホールマンか、クックックッ」
ヒップホールマンは、小刻みに肩を揺らしている。顔をお尻の穴のようにすぼめて、嬉しそうに笑っている。意味を説明するのも、バカらしくなってしまう。
ジジイはどこで見つけたのか、新聞広告の裏にボールペンで何かを書き始めた。なにを書くかと見つめていれば、ヒップホールマンと小汚い字で書いている。その紙を目の前にかかげ、ニマニマと満足そうに眺めている。ささやかな幸せを噛み締めているようだ。
たとえるならそれは、夏場の縁側で夕涼みしている、ステテコは三枚持っているが、今日のは比較的新しいステテコをはいている喜一郎(七十八歳)が、二年前に他界した鼻の右横に小豆ほどのホクロがあった、二歳年上で五十二年連れ添った豊子(享年七十八歳)のアルバムを、押入れの奥の方から引っ張り出し、
「ばあさん、とうとうわしゃおめえと同じ歳になったぞ。なあにしんぺえすっこたぁねえよ。わし一人でも元気にやっとるぞ。ほほほっ」
と垂れた鼻水ズルズルすすり、ほんのちょっと塩をふったスイカをしゃりしゃり食べながら、しみじみ語っているような、そんな穏やかな顔で笑っている。
ああ、このジジイは幸せなんだな~、せいぜい長生きしてくれ、としみじみ思った。
そんな温かいしみじみ目でジジイを見ていると、もう一枚になにかを書き始めた。書き終わると、ジジイは薄ら笑いを浮かべ、俺の前にかかげた。
お正月仮面参上
「プップップッ、かっちょいいな、にいちゃん」
即、死ね。




