バイバイ……
大口を開けて笑っていた便所タワシが、ニヤニヤしながらイスから立ち上がった。ゆっくりと歩き出し、デスクを回り込んで俺たちに近づいて来る。二メートル手前で立ち止り、ふんと鼻で笑った。
「大神、いつまでも頭を下げてないで、顔を上げて高上神様の俺に顔を見せろ」
ジジイはしばらく黙って下を向いていたが、いきなりガバッと顔を上げた。ジジイは眉毛を八の字にして、今でも泣きそうな顔をしていた。
「頼む……ジャックを解放してくれ。このとおりだ。頼む」
ジジイは再び額を床に何度も擦りつけた。灰色のカーペットの上に、ポタポタといくつもの涙が落ちている。灰色のカーペットは、ジジイの涙で黒く変色してしまった。
便所ブラシは土下座するジジイの姿を、冷やかな目で見降ろしている。
「ふん、大神といっても、なにも力がないのは哀れなもんだな。土下座しようが喚こうが、ジャックには死んでもらう。やりたければ気のすむまで一生やってろ」
そこまで貶されても、ジジイは頑なに土下座をしている。ジジイとは対照的に、お絹は後ろ足をバンバン床に叩きつけて怒りをあらわにしている。
便所タワシは怒れるお絹に顔を背けると、俺に向かって起爆装置を突き出した。
「さあ、早く飛べ。お前の脳ミソが飛び散るところを、早く見せてくれよ」
ニヤリと便所タワシが冷酷な笑みを浮かべたその時、白い物体が便所タワシの顔めがけて飛びかかった。便所タワシは「あっ」と驚いたが、すぐに嫌な顔をして顔を背ける。電光石火の早業で飛びかかったのはお絹だ。便所タワシの顔にしがみつくと、小気味のいい後ろ足キックを数発連打する。
素早い行動に出たのはお絹だけではなかった。由美子も便所タワシに飛びかかる。お絹の攻撃で怯んでいる隙に、便所タワシが持っている起爆装置を奪い取った。
一瞬の出来事にナマナマララゲたちは反応できず、俺と署長も口を開けて固まっているだけだ。ジジイに至っては土下座の姿勢のままなので、情報が脳に伝達されるまでにあと二、三秒かかるかもしれない。
由美子は起爆装置を奪い、軽快な身のこなしで窓に向かって駈け出すと、開けてある窓のさんに外を背にして腰かけた。
「てめぇーっ!」
ホウキが由美子に拳銃を向けたが、便所ブラシが片手で制した。
「撃つな。この女を殺すとジャックが無敵になる。起爆装置が無くても、一階に行って爆弾のスイッチを押せばいいだけだ。ねえちゃん、好きなだけそこに座ってな」
便所ブラシに嫌味を言われても、由美子は余裕の笑みを浮かべている。
「あたしも好きなだけ座っていたいけど、そうもいかないのよね」
「お前、なにを考えてる」
便所ブラシは眉間に皺を寄せて聞いたが、由美子は無視して俺に微笑んだ。
「あたしはあなたを守る。無敵になれば、一カ月後に死ぬこともないよね。真治……あとは任せたよ。バイバイ……」
由美子は片手を上げて小さく振ると、ニコッと笑いながら後ろに倒れていく。
嘘だろ?
「やめろ!」
笑顔で手を振る由美子が、窓の向こうに消えた。
「由美子!」
俺は夢中で窓に向かって駈け出した。
「ジャックを撃て!」
便所ブラシがそう叫んだと同時に、バン! と銃声が轟いた。
俺は弾き飛ばされたように床に転がった。
撃たれた衝撃だと思ったが、そうではない。ジジイが俺に体当たりをしたのだ。ジジイは俺の腰を抱えたまま、覆い被さるように倒れて動かない。
起きようと頭を上げた時、バン! 続いて二発目の銃弾が発射された。
眉間のど真ん中に、一瞬だけ熱い痛みを感じた。指先で眉間を触ると何かがポロリと取れて、床の上にコロコロと潰れた弾が転がった。痛くもない眉間から出た血が、頬を流れて唇を濡らす。
無敵になるのがほんの一瞬でも遅かったら、眉間を傷つけただけでは止まらずに、頭を撃ち抜かれていたはずだ。由美子は自分の命と引き換えにして、俺を守ってくれた。
「由美子が死……」
思わず呟いてしまったが、そんなことは絶対にない。六階から落ちたからといって、死んでしまったとは限らない。ケガをして気絶しているだけだ。あんなに強い由美子に限って、死んだなんて考えられない。




