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夜叉の由美子

 左頬に熱い痛みを感じ、咄嗟に両手で顔を押さえながら後ろにひっくり返る。ジジイも両手で口元を押さえ、もんどりうってひっくり返った。見ザル、言わザル、聞かザルで言えば、ちょうど言わザルの格好をして、おまけに白目を剥いてひっくり返っている。

 などと冷静にジジイの哀れな姿を観察している暇ではない。ぶっ倒れたまま素早く手のひらを見ると、血が薄っすらとついている。

「なんじゃこりゃーっ!」

 太陽にほえる勢いで叫ぶと、由美子が仰向けに倒れる俺を庇うように覆いかぶさった。そして迅速かつ冷静に顔を覗き込んだ。

「左の頬が切れているけど、大丈夫心配ないわ。弾がかすっただけだから、傷口も深くない」

 淡々と話す由美子の眼は、先ほどの涙目ポロポロとは別人のようだ。熟睡しているのを無理矢理起された時のように目は血走り、鋭い眼光は怒りに満ちている。さらに凄まじいのは、寝ていないのにギリギリと歯ぎしりをしている。怒りに任せて奥歯を噛みしめているのだ。まるで夜叉が歯ぎしりしているようで、非常に恐ろしい。頬の痛みも恐怖心もどこかにぶっ飛んでしまった。

 そんな、歯ぎしり夜叉の由美子は、クルリと俺に背を向けると膝をついたまま仁王立ちになる。そして大きく両手を広げた。

「真治はあたしが守る」

 地の底から響くようなドスの利いた声で、キッパリ言い放った。

 ここにいる全員の動きがピタリと止まった。俺は由美子の後ろに隠れ、怒れる歯ぎしり夜叉の後ろ姿を惚れ惚れと見とれている。

 シーンと静まる署長室に、「ビャーッ!」と素っ頓狂な叫び声が上がった。白目を剥いて気絶していたジジイが、自分の手を見て目ん玉を丸くしている。

「ちっ血だ。うっうっ撃たりゃたーっ! すっすぬ~……」

 血を見たジジイは、再び白目を剥いてぶっ倒れた。口では偉そうなことばかり言っているが、事あるごとにこのジジイは白目を剥いている。便りがないのは元気な証拠、と言う格言もあるが、ジジイの場合は、白目を剥くのは元気な証拠、であるから心配ないだろう。よく見れば、ジジイの鼻の下に薄っすらと血がついている。俺と同じように弾がかすったようだ。人のことは言えないが、俺以上に大袈裟なジジイである。

 そんな哀れなジジイの姿を見て、白目格言を知らない署長がズラをすっ飛ばして駈け出した。が、慌てて引き返すと、すっ飛んで床に転がるズラを拾い上げる。ズラをキッチリ被り直すと右手で押さえ、再び血相変えて駈け出した。

 署長は大の字にぶっ倒れるジジイの胸倉を左手で掴むと、これでもかと言わんばかりに力を込めて揺さぶった。

「大神様! 死んではいけませぬぞ。傷はあそうござります。どうかお気を確かに、お気を確かに~っ!」

 署長は髪を振り乱し――元い、署長はズラを頭の上で滑らせながら、なぜか時代劇の口調で喚いた。ズラの機敏な動きのお陰か、はたまたインスタント侍の熱い叫びが功を奏したのか、どちらなのか見当もつかないしどうでもいいことなのだが、ジジイの白目はなんとか濁り目まで回復した。

「おう……ツルリンか……。撃たれちまったよ。もうダメだ……目が霞んできやがった。見えなくなる前に……」

 ジジイは右手をプルプル震わせながら、ゆっくりと持ち上げた。シェーカーを持たせてウオッカマティーニを作らせたいほど震えているが、慣れた手つきで署長のずれまくったズラをチョイと直す。

「地毛がずれちまったら、いい男が台無しだぜ……」

 署長はズラの気づかいに感激しているのか、目を真っ赤にさせてズラを直したジジイの手を両手で包んだ。

「しっかりしてください」

「ツルリン、おいらはもういけえねえやな……」

 ジジイは静かに瞳を閉じると、芝居のように頭をガクッと落とした。

「大神様ーっ!」

 署長が絶叫する中、お絹がピョンピョン跳ねてジジイに近づくと、まん丸目玉でじっくりと顔を覗き込む。お絹の丸い目がスゥーと細くなった途端、ジジイの鼻をガブリと噛みついた。

「イデェーッ!」

 鼻を押さえて絶叫するジジイは、ギャーギャー騒ぎながら床をゴロゴロと転げ回る。これだけ元気に悶絶できればなんの心配もない。

「相変わらず喧しいじい様だ。先にあんたを始末してやる」

 便所タワシの声が、絶叫しながら悶絶しているジジイでも聞こえたようだ。一瞬ピタッと動きを止めたかと思うと、先ほどよりも素早い動きでクルンクルンと床を転がり、俺に身体をくっ付けると微動だにしなくなった。ジジイは直立不動の姿勢でうつ伏せになり、息を殺して死んだふりをしているようである。気絶していたので知らないはずなのに、本能的に由美子の後ろが安全だと気づいたのだろう。わかりやすいジジイの行動に、署長は口を開けて唖然としている。唖然としたのはズラも同じらしく、音もなく頭から滑り落ちてしまった。

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