1.目覚め
目が覚めたとき、俺はすでに“動けなかった”。
いや、もっと正確に言うなら、目もなければ、手も足もなかった。そして、心臓も、血も、鼓動もなかった。……けれど俺は確かに「生きている」と感じていた。
それは、奇妙な感覚だった。
冷たい土の湿り気が皮膚を這い、ミミズの柔らかな体が俺の内部を通りすぎ、遠くから聞こえてくる獣の鳴き声が、空気の震えとなって枝に伝わる。頭上に広がる陽光のまばゆさ、風のざわめきと、それに揺れる葉の触れあう音。全てが、俺の皮膚のようだった。体があるようで、ない。感じているのに、動けない。
だが、なぜか恐怖はなかった。──むしろ、「心地よい」とさえ思っていた。
俺は一本の樹になっていた。それも、森の奥にぽつんと立つ、妙に立派な一本の巨木に。
どれくらい太いのかはわからない。自分を見下ろす目はないし、鏡もない。でも、風が枝を揺らすたび、そのしなり具合がやけに重くて、「ああ、俺はでかい木なんだな」と思った。
周囲には木々が点在している。が、俺の周りはやけに広く開けていて、鳥たちは俺を中心に巣をつくり、森の獣たちは俺の根元に集まり、昼寝をする。たぶん、この森の中心にいるのは、俺だ。
最初は、混乱した。
いや、厳密には、混乱するだけの言語も、内的対話もなかった。
「俺って誰だっけ?」という問いすら浮かばなかった。
……だから、ただ時間が流れた。
風が吹き、雨が降り、空が赤く染まり、雪が積もり、また溶けて、芽が生えた。枝が重くなり、葉が落ち、鳥がやってきて、去っていった。
そうして三年が経った。
季節の繰り返しは、終わりがないのに、ひとつも同じではなかった。最初はそれに驚き、次に安心し、やがて俺は、ゆっくりと意識を取り戻していった。言葉はなかった。
でも、記憶のような、気配のようなものが、少しずつ戻ってきた。
「俺」はかつて、肉体を持っていた。
都市のどこか、息を切らせて歩き、夜中にはコンビニで選んだカップラーメンを嗜み、週末はスマホで小説を読んでいた。なぜここにいるのかは、本当に思い出せない。
けれどそれで困ることも、誰かを恋しく思うこともなかった。
なぜなら、今のこの静けさが、あまりにも満ち足りていたからだ。
……でも。
俺は、ただ黙っていたわけじゃない。根を伸ばし、葉を広げ、空を仰ぎ、虫や風を受け入れながら、俺はずっと、「耳を澄ませて」いたのだ。地面の下。そこには、無限のさざなみがある。水脈の流れ、微細な震動、誰かが地面を踏みしめる音。森の奥で交わされる、知らない言語の会話。それらはまるで、地中を通して俺に語りかけてくる“ささやき”のようだった。
……そしてある日、俺の根が、“なにか、異質なもの”に触れた。だがそれは、また別の話だ。
今はまだ、ただ思い出す。風の音、土のにおい、葉のさざめき。
俺は木だ。
世界の片隅に、ぽつんと立つ木だ。
けれど、たしかに生きている。
そしてこの“生”が、思った以上に、世界と繋がっているのだということに、
俺はまだ気づいていなかった。