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雪山の怪

作者: 北野とほ

 数年前の十二月下旬、冬至が近づいた日のことだった。暖冬で雪が少ないと言われた年だったけれど、それを取り戻すかのように大雪が降った。このところ、ずっと仕事が忙しくて休みがなかったから、久しぶりの週末は山にでも登ろうと、啓太は前日から車にスノーシューを積みこんで山に行く準備をしたのだった。

 とは言っても、急きょ思いついた計画だったから、友人に連絡をしてみたものの予定の合う者がおらず、仕方なく一人で登ることにしたのだった。遠出することも難しいと思い、結局、小樽のそばにある低い山を選んだ。低い山とは言っても標高七〇〇メートルほどはあるから、軽くみてはいけない。しかしそのときの啓太は、以前にも登ったことのある山だから危険はないだろうと、たかをくくっていたのかも知れなかった。

 翌朝、札幌から車を運転して小樽の郊外に到着したけれど、登山口に至る狭い道は除雪されていなかった。近くのあいているスペースに車を停めたものの、トレースもなかったので最初からラッセルを強いられることとなった。ラッセルとは、深い雪のなかをかき分けて進むことを言う。雪山では先行者がいればトレースをたどれるのでずいぶん楽になるのだけれど、この日は大雪が降ったあとの単独登山であったから、予想以上に時間がかかってしまった。

 しばらく登っていくと見晴らしのよい場所に出た。いつの間にか青空が広がっていて、銀色に煌めく木々の向こうに石狩湾のプルシアンブルーの海が見えた。そのとき啓太はこれまでの疲れが吹き飛ぶ心地がした。雪山の醍醐味とはまさに、この青と白が織りなす静寂の美しさを全身で感じ取れることだ。朝日に輝くダイヤモンドダストや、霧氷がついた木々の枝は春の桜と同じくらい、いやそれ以上に感動的なものだ、と啓太は思う。

 啓太はそこで少し休憩をとることにした。ザックを下ろして、コンビニで買ってきたおにぎりを取り出した。新しく買ったばかりの魔法瓶に入れたお茶はまだ熱いままで、冷えた体を温めるのに最適だった。ずっとその場で休んでいたかったけれど、山頂まではまだ距離がある。すでに時刻は正午に近くなってきている。急がなければ…。

 啓太は計画を変更して距離の短い沢筋を登ろうと決めた。地形図をみてもそれほど急なルートではないから問題はないだろう。以前、ネットでみた誰かの登山記録でも沢筋のコースをショートカットして登った記録があったのを覚えている。通常、雪山などでは計画したルートをむやみに変更することはないのだけれど、このときの啓太は少し焦っていたのかもしれない。

 啓太はいつも山に登るとき、スマホの地図アプリと、ガーミン製のハンディGPS端末を持ち歩いていた。最近のスマホアプリは、あらかじめ地図をダウンロードしておけるので、山の中などで電波が通じない場所でも現在地を知ることができて便利だけれど、冬山では手袋を外さないと操作できなかったり、寒さで電池が切れてしまいがちなのが難点だ。その点、GPS端末は手袋をはめたままでも操作が可能で防水構造もあり、まさに冬山ではとても便利なアイテムと言える。あらかじめパソコンから複数のいろいろな計画ルートをインポートしておけば、今回のようなことは起きなかったかもしれないのだが…。


 啓太はルートを変更して、尾根を外れて沢の方へと移動した。思ったよりも雪が多く足を取られてしまう。しかも沢筋は尾根と違って見晴らしが悪くなってしまうから地形の判断も難しくなる。今回のように急なルート変更をしてしまうとGPS端末での現在地のチェックも難しくなる。

 「紙の地図とコンパスを持ってくればよかったな」

 啓太は少し後悔した。やはり登った経験のある山でも準備は怠るべきではなかったのだ。それでも、あと少しで、予定していたルートに合流できるはずだった。啓太はそのまま進むことにしたのだった。

 それからしばらく、黙々と登り続けたけれど、一向に尾根筋が見えてこなかった。高度を上げるにしたがって傾斜が急になり、深い雪が行く手を阻んでなかなか前に進めない。携帯の電波はすでに圏外になっていた。しかも予想以上に電池の減りが早く、まもなくスマホの電源は切れてしまうだろう。

 空はどんよりとした雲で覆われて雪が降り始めていた。山の天気は変わりやすいものだ。時折強い風も吹いて、視界も悪くなって方角がわからなくなってしまった。啓太はこの時はじめて、自分が道に迷ってしまったことに気づいたのだった。焦りと恐怖を感じ始めていた。

 途方にくれていたその時だった。前方に人影が見えた気がした。ちょうど木の陰になっていたから、はっきりはわからなかったけれど、濃いブルーのジャケットを着ているようにも見えた。

 「よかった…。あの人と一緒に行動させてもらおう」

 啓太はやっと人に会えたと安堵のため息をついた。しかし、いくつかおかしな点があった。このようなバリエーションルートを好んで登る人はあまりいないだろうし、登山口にも自分以外の車は止まっていなかった。ここに来る途中も、誰ともすれ違ったり追い越されたりしたことはなかったのだ。あれは本当に人間なんだろうか。

 ヒグマかもしれない、と啓太は警戒した。今年は暖冬だといわれているし、夏の暑さも影響してエサとなる木の実を得られずに、冬眠できないヒグマが多いと聞いていた。確かに今年はヒグマが食べ物を求めて、市街地に降りてきたところを目撃されたり、人を襲ったりしたというニュースをよく耳にした。

 啓太はザックについているホイッスルを思い切り大きく鳴らした。すると、その人影らしきものはこちらに背を向けたかと思うと山頂の方へと向かっていった。啓太はあわてて追いかけたのだけれど、先ほど人影があった場所には足跡すら残っておらず、深い雪が広がっているだけであった。

 雪が降って風も吹いていると、歩いたばかりのトレースがすぐに消えてしまうことはよくある。それにしてもこんなに短時間に消えてしまうとは思えない。あの人影はまぼろしだったのだろうか。

 ふと、気がつくと啓太は当初予定していた尾根のルート上に立っていた。ここから山頂まではすぐそこだ。

「助かった…」

 啓太は乱れた息を整えながら、そうつぶやいたのだった。

 そのまま山頂に到着するまで誰にも出会わなかった。時刻はすでに午後二時を回っており、休憩もほどほどに急いで下山することにしたのだった。

 帰りは尾根をつたって下山したが、海から吹きつける風がとても強く、想像以上に体力を消耗した。大きな木の陰で啓太は風がおさまるのを待った。登りの時に見えた石狩湾方面は灰色のガスがかかっていて、もう見えなくなっていた。冬至の時期の北海道は特に日没が早く、十六時には太陽が沈んでしまう。辺りはすでに暗くなり始めていたのだった。気温も下がってきて、深い雪のラッセルで体力を消耗した啓太はその場に座り込んで、一歩も歩けなくなってしまった。そして啓太は想像したのだった。

 せっかくの休日なのだから家でゆっくりしていれば今ごろ酒でも飲みながら、録画していたドラマでも見ていたかもしれない。無理をして山になんて来なければこんな思いをすることもなかったのだ。薄暗くなった空の下で啓太は目を閉じた。

 どのくらいの時間が経っただろうか。啓太がなにかの物音に気づいて薄目をあけると、下から濃いブルーのジャケットを着た一人の中年男性が登ってくるのが見えた。


 男性はずいぶんと軽装で、とても雪山を登るような恰好には見えなかった。不審に思いながらも、啓太はいつもの癖で軽く挨拶をしたのだけれど、男性はその挨拶には応えず、無言のまま上の方に向かって進んでいった。そのとき、啓太は男性の足元がスノーシューやスキーなどではなく、ゴム長靴であることに気づいた。この深い雪のなかツボ足で歩いたら、すぐに足を取られてしまうだろうに、どうやってここまで登ってきたものだろうと不思議に思った。しかも、もう日没時間も過ぎている。今から登っていったらすっかり夜になってしまうだろう。

 「今から山に向かったら、帰って来られなくなりますよ!」

 啓太は、男性が向かった先に目をやり、もう一度声をかけようとしたのだけれど、そこにはもう、人の姿はなかった。

 我に返った啓太は、急いで立ち上がるとザックからヘッドライトを取り出して頭に装着した。そしてライトの明かりを頼りに、闇に包まれた雪の山道をなんとか登山口まで戻ることができたのだった。


 あの男性は一体何者だったのだろう。もしかすると、登りの時に見た人影と同一人物だったのかもしれない。そしてあのとき雪山で遭難しかけた啓太の命を、救ってくれたのではないだろうか。

 しばらく経ってから、十年以上前の同じ日に、あの山の沢で一人の中年男性が遭難して亡くなっていたことを知った。

 啓太は今でもあの日のことを思い出す。それから毎年その山に登っているけれど、同じようなことは一度も起きていない。

 山頂からは石狩湾の青い海が、きらめく樹氷の奥に広がっていた。


(了)

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